おける博物学の受容と伝播
著者 石井 寿美子
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 63
ページ 20‑44
発行年 2005‑03‑24
URL http://doi.org/10.15002/00011508
武蔵石壽が最もよく知られているのは、江戸時代を代表(もくはちふ)する彩色貝類図譜「目八譜」I(ふりがな)は筆者が付(1)した⑬以下同様lの著者としてである菫た、それに続(かいかくきひんせん)(2)いて著した『介殻稀品撰』は、石壽の貝殻学総論として位置付けられると見られている。これらの著書に対しては、(3)日本博物学史上、一定の評価が与曇えられてきた。まず「目八譜』については、一○六四品というかつてない多数の介T貝)l江戸時代においては、貝の多くは「介」と表記され、「貝」は宝貝や子安貝を指していた。しかし、本稿では今日一般に使用されている「貝」を用い(4)るlを取り上げたことはもちろんであるが、記載内容の 法政史学第六十三号
武蔵石壽の貝類図譜と分類への志向
l近世後期における博物学の受容と伝播Iはじめに 面で、①実物による観察と真写を重視したこと、②色彩や二枚貝の部位を定義し、その用語を用いて個々の貝を識別し、解説したこと、③執筆の理由を、「造化の妙」への興味から集めた貝を、同好の者と見せ合い、識別するためと明言したこと、④本草書とは異なり、食用や薬用の記述は切り捨てる姿勢を見せていること、これらがそれまでの貝(5)類書と異なる特徴であると理解されている。また「介殻稀品撰」は、「目八譜」について指摘した①から④に加えて、①二枚貝を一二の「綱」とその下の「目」の二階層に分類したこと、②巻貝を一六の綱に分類したこと、③巻貝の部位を定義したこと(色彩の定義は「目八譜」の繰り返しである)、④貝自体ではなく「造化不可思議の無尽蔵」を愛するゆえだと強調したことが、石
石井寿美子
二
○
1「目八譜」における用語の定義天保一○年(一八三九)、武蔵石壽は大著『目八譜」の執筆を開始した。凡例の奥の年月日付は天保一五年晩春、前田利保により序が書かれたのは弘化二年二八四五)である。一般に博物図譜は冒頭に凡例を掲げ、記載内容を読む際の注意事項などを書くのが普通であった。『目八譜」は、その凡例がそれまでの貝類書に比べて非常に長いことが特徴である。石壽による説明は、まず、自分が所蔵する数百種類の貝は、名前の付いていないものが多く、貝を集める同好の者に見せて識別するのに不便である。また、書物を見ると、 (6)壽の見解の独自性であるとして評価ぺごれてきた。これらの特徴は、『目八譜」や「介殻稀品撰』を実際に読めば、まさに一目瞭然で看取できることである。しかし、石壽がどのようにして、このような観点を獲得したかについては、これまで議論されてこなかった。本稿は、この点を明らかにするため、石壽が参加してい(しやくんかい)た博物研究会「潴鞭へ君」などにおける知識の交流が、その源泉であったことを具体的に検証する試みである。
武蔵石壽の貝類図譜と分類への志向(石井) 石寡による部位の定義と分類 和名や漢名、古名、方言が不規則に使われており、書物によって同じものを指すのに異なる名が使われていたりする。そこで、自分が仮に名を付け、後世の人の判断に委ねると述べている。(こう)(ら)(はい)(かい)(か)次に、貝を定義して、「介トー室ハ蛤・螺・貝・蟹・鰕・(き)(くつ)亀・鼈、此七種也、肉ヲ内ニシープ骨ヲ外ニスル者ハ皆介ト云、又宝貝・子安カヒノ属種ヲ貝ト云、蛤・畔卜云ハ総テつり)両片相ヘロタル者ヲ云、巻ダル者螺・巖ト云」とする。この定義は従来と同じであるが、貝は種類が非常に多く、無名のものが多い一方で、同じ種類でも寸法の違いや模様の違いで別の種に扱ってしまうことがあると指摘し、このような変化については「挙テ記スベカラズ、人面ノ不同ガ如シ」とする。つまり、個体差を取り上げて記す必要はないとして、貝の種類の同定について厳密な態度をとっているのである。続いて、「妥二箸ス所ノ者敢テ薬用食料ノ為ニセズ、故一一主治・気味略ノ不記」と述べている。主治とは薬の主な効用、気味とは香りと味の意味である。石壽は、主治や気味を記載しないことで、本草書とは一線を画した。そして、石壽の目的は、「唯天地ノ大ナル造化ノ妙ヲ知ラシメンガ為也」と宣言するのである。この目的を達するために
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は、対象を正確に描写しなければならない。それゆえ、くむつい)くぼれい)(えん)「蛤・螺・貝・無対・牡蛎・異形数種、或犀類二至迄、(7)真形ヲ模写ノ差二出ス」ことが必要になる。これは、貝の記述に際しては、書物に書かれた知識を集めることが重視されてきたのに対し、「品ヲ得テ而后二書(ふたつなが)(なず)ヲ考へ両ラ相得ルヲョシトス、書ノミニ泥ムハ初学ノ所為也」として実物の観察と書物の知識をともに得ることの重要性を主張するものである。そして、「介ノ説諸書一一出ト錐モ其真物ヲ不知ノ無用ノ論多シ、故証トスルニ足ラス」として、従来の貝類書には、実物によらないために、無駄な議論が多かったことを戒めている。このような目的のためには、「本草綱目」のような本草書の記述は適合せず、「石壽按二本草一一所載ノモノハ皆世一一所知ノモノニノ、主治・気味ノミヲ専トノ形象文理斑文ノ1甚粗漏ニシテ委シカラス」と切り捨てている。(ほう)また、「本草綱目」の記述について「畔ノ条二時珍云、長者通畔ト云、円者通テ蛤ト云、石壽按、畔・蛤ノ別何長短ヲ以テイハンヤ」「文蛤ノ如ク片袖円ク、片袖長キヲ短キ者トノ蛤ト云タルカ、短円ト云時ハ月日介・海鏡ノ類ヲ短任円任云ナルヘシ、可考」として、貝の縦横の長さに対する「本草綱目」の定義のあいまいさを指摘している。 法政史学第六十三号
個々の貝の特徴や他の貝との違いを解説するには、正確な用語の定義が必要である。石壽は、貝の色について、「諸介殻二紅色・朱色・丹色・紫色・青色・緑色・黒色ヲ佳好トス、黒色・緑色・青色ハ海底砂中、又ハ泥中二入テ年月ヲ経テ、其錆ノ染込タルモノ也、黄色・褐色・白色ハ常色也、然し任其種二因テ此色ノ者ヲ珍トス」と詳細にその善し悪しを論じ、続けて「目八譜」の本文で用いる二○種類の色を指す用語を定義した。また、石壽は二枚貝の部位の名称を定義した。二枚貝の形はさまざまであるため、形が異なる二枚貝の間でも、共通の名称で部位を表せるようにしなければならない。すなわち、部位の名称を定義するには、さまざまな形の二枚貝を何種類かに類型化し、各種類の間でどこが同じ部位であるかを判定する必要がある。このように、部位に名称を付けることは、それ自体がある種の分類作業11ただし、この時点では、石壽は分類を前面に押し出してはいない。これについては後述するlを伴うのである.具体的に見ると、石壽は二枚貝を、殻の外形と、両片を開閉させる、いわば蝶番に相当する部分の形状との組み合わせにより一○種類に類型化し、それぞれについて図を示して部位の名称を定義している。最初の図には「文蛤属牙
二 二
図1二枚貝の部位の定義 武蔵石壽の貝類図譜と分類への志向(石井) 熟
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蕊 巻(国立国会図書館所蔵)
i出典]旧八譜』第
歯合ノ者也、余皆是二同シ」と記し、次の図には「月日介
即黒星合也牙歯ナク黒星斗リニテ合者ヲ云」と説明する
(図1参照)。これは、二枚の殻が「牙歯」で合う場合と、「黒星」で合う場合について、区別しているのである。そ
して鼻、耳、袖、唇など、共通の形状を抽出して部位の名(8)称を記述している。個別の解説では、最初に出てくる「濱栗」を例にとる と、石壽の見解として「石壽云、和名濱栗・漢名文蛤、江
戸二多皆世人所知一一ノ専食料トス、前二所出ノ諸説皆的当セリ、諸国風土一一因テ形状厚簿・大小アリ、紋彩・斑文変 化無極、大サ七八分ヨリニ寸余ニノ殻不厚者ヲ云」と述べ
(ひろ)る。さらに「凡キ袖ノ方左ニノ、長ク少角立ダル方右ニ ノ、上ノ殻雁ナリ、左右長短アル者皆是二順ス」と、凡例
で定義した部位の名称を使って「濱栗」を説明している。2「介殻稀品撰」における二階層分類(9)石壽はその後、七巻から成る「介殻稀品撰」を著した。「介殻稀品撰」では凡例という一一一一口葉を使っていないが、巻
一の本文は「例言」で始まっており、その内容から、凡例 に相当することが分かる。前項で述べたように、すでに 「且人譜』でも執筆の目的を「唯天地ノ大ナル造化ノ妙ヲ
知ラシメンガ為也」としていたが、「介殻稀品撰」ではさらに踏み込んで、他人からはまるで子供のすることのように見えるかもしれないがと弁明しながらも「貝鼠ヲ愛スルニ非ズ、介殻ヲ玩スルニ非ズ、造化不可思儀ノ無尽蔵ナルヲ愛玩スルナリ」と自然の無尽蔵を愛することを強調している。『介殻稀品撰』における用語の定義を見ると、色彩については『目八譜」の定義を繰り返しただけであるが、注目すべきは例言の後半部分で分類を行っていることである。(えんへん)(しせん)まず、「凡介類二其形状、長短・円一局・刺尖アリト雛モ、巻ダル者ハ皆コレヲ扇ト云、又螺二作ル義同シ、今其形状(この)ヲ、十一ハ体、十六綱二分チ、蝶形ノ者ハ皆這綱二比較シテ其類属ヲ別ツベシ」として、巻貝を一六の綱に分類している。すなわち、本形、丹螺形、拳蝶形、鳫空、馬蹄螺様、円螺様、刺螺様、螺螂様、長蜷形、寄居虫形、長古宇奈形、鳥頭形、片巻介、歯貝、半片様、兜介類である。目安は、本形は頭が大きく、口が広く、鼻が尖り、尾が細長で、背が凹凸で、肌は滑らかなものや、ざらつくものなど、さまざまである。「防州法螺」や「琉球法螺」「鳴戸法螺」の類をいう。丹蝶形は、「琉球法螺」「防州法螺」に似て、やや短く、首尾が細く、形状は麦粒と比べるべきであ 法政史学第六十三号
る。螺に比べるとやや短く、拳螺に較べると長いというように記述が続く。さらに石壽は、二枚貝について「綱」と「目」の二段階(そうめい)の分類を試みた。まず「蛤類ト云ハ凡相ヒヘロフ介ノ都名ナ(くつきよく)リ、歯ヲ以テムロフ者アリ是ヲ屈膝ト云、外ニアリテ粘着ス
ル者ヲ黒星ト云、背堺略云ノ方一一凸四ツァリ身ノ方二凹四ツ
アリ、柱ノ縮紳一一依テ開合ス、是ヲ蛤類ト云テ十綱アリ」(、)とする。つまり、蛤を一○綱に分類すると述べている。石壽はさらに一つの綱に複数の「目」を設けた。例えば、一綱は「文蛤形状ハマクリニ些少ノ差別アリ、或形式ハ色ヲ以テ別シ」として一目しかないが、二綱は(ろうこう)「墾蛤金魚介、コノ介ハ墾々縦ト横トー一様二分ルモノ(すべ)右ノ袖ハ縦紋ニテ中ヨリ左ノ方ノ紋都テ横ナリ、コノ類四目一一分シ」として、一目から四目までに分類する。同様に、一一一綱は「瓦襲竪理太細其性ヨッテ異ナリ、歯ヲ以テ合上、左リ短ク右ノ袖長キヲ正品トス、全体皆ヨコウネ也、此類五目一一分シ」となる。四綱は「縦一一大ウネ有殻厚キモノ」で三目に、五綱は「横尾墾有者七月二分シ」、六綱は「文蛤一一比スレハ形ヤ、長ク、文彩極ナク人ノ面ノ替ルカ如シ、一一一日二分シ」、七綱は「大サ寸前後ヲ過サルモノ也、則四目一一分シ」、八綱は「円蛤形円ク唇一一鋸歯ア一
一
四
類霧王讓讓 分四目一一分シ
貝一一一綱瓦聾
呼霧上蕊蕊 蝋まし蕊懲
五綱横尾聾二有者七目一一分ッ 一綱文蛤
蕊岬襲一紗Ⅲ催馴アリ上
武蔵石壽の貝類図譜と分類への志向(石井) |目簾介、簾ハマクリ、薩摩簾、頂利加浜二目千代ノ花介、衣通、花介、玉介三目伊予スタレ、姫スタレ、毛干介四目美留久井大、大村介、皿介、大烏介、佐々波五目大野介、白介、白烏介、介、蕪介六目捻浅理、介七目縮介、八重桜、桜ノ花介、身無介、只形円ク横一一スシアルモノヲ云身無介文彩極リナシ人ノ面ノ替力如シ |目胡麻浜栗、小人蛤、碁石蛤、油介、白介、黄蛤、岱浜栗此類ハ文蛤同種ニシテ形状大小成ハ殻厚薄文彩色ヲ以ソノ類夙ヲ分ッ
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九綱抗体異三…,-|・襄臺蔦鏥
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一
一
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ルモノ、大小ヲ以テ名ヲ異ニス、四目二分シ」、九綱は「形状長短円扁二依名ヲ異ス、文彩黒色白色有り、四目二分シ」、’○綱は「形体異ニシテ畔蛤ノ如クニアラサル也」で一日となっている。これに二綱として「竪長ク屈膝横一一付、形状異ナルヲ以テ類ヲ分シ、又文彩ヲ以テ名分シ」もので三目から成り、一二綱は「形状異ナリ、依テ名ヲ異ニス、皆蛎ノ種属也、四目一一分シ」で牡蛎類が四目に分けられている。それぞれの「Ⅱ」には具体的な二枚貝の名前が割り当てられている。例えば、四綱の一目には車渠、姫車渠(小形ノ者)、白波(ヤ、大イナル者)、銀香箸が分類されている。このような「綱」と「目」の二階層の分類は「介殻稀品撰』以外には見られない独特の分類である。石壽が行った二枚貝の分類を図2にまとめて示す。また巻二では、巻貝を類型に分け、部位の名称を定義している(図3参照)。巻一で石壽は巻貝を一六綱に分け形態的特徴を述べたが、巻二では、巻一と同様に一六綱分類に触れ、それぞれの綱について、部位の名称を記した図を記載し、その綱に属する巻貝の名称を列記している。ただし、巻二では結果的に、二○種類の巻貝の図が描かれており、また、この二○種類のうち巻一の一六綱と共通する分 法政史学第六十三号
図3巻貝の部位の定義
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U出典]「介殻稀品撰j第二巻(同市国会図書館所蔵)
1西洋博物学受容の背景近世後期の本草学・博物学に画期を刻んだのは、シーポ(胆)ルト(一七九六~一八六六)の来日であった。文政六年(一八二一一一)七月に長崎に着いたシーポルトに対して、その年の一二月、宇田川椿篭は早速、分類に関するリンネの(皿)学説について質問する書状を送っている。それに対する返書は、文政七年五月、そして分類に関する書物が八月に、(u)、ン-ボルトから椿蓄に送られた。椿蓄は、すでにシーポルト来日前に「菩多尼訶経」を著し、リンネの名とその二四綱分類に言及していた。椿篭はこうした知識を、ショメールの「日用百科事典」(仏語原本は一七○九年刊)の蘭語版出日呂・己①一言ヨ・・aのgo①【の和訳「厚生新編」の翻訳事業の中で学んでいたが、シーポルトの来日によって、疑問点を直接ただす機会を得たのである。シーポルトの江戸参府が実現した文政九年、その機会をとらえて、宇田川椿篭などの蘭学者、島津重豪・斉彬らのいわゆる蘭癖大名などがシーポルトを訪問した。また、江 類は一○種類のみである。分類として完成した状態にはま(u)だ距離があることは確かである。
武蔵石壽の貝類図譜と分類への志向(石井) 二博物研究会「潴鞭会」の活動 戸への道中では、名古屋の本草学研究会(後述する嘗百社)の主要メンバーである水谷豊文、大河内存真、伊藤圭介と面会している。伊藤圭介は、この後、江戸の宇田川椿蓄のもとに寄宿し、さらに長崎のシーポルトのもとで学ぶことになった。椿巷と圭介は、その後も文通で情報交換や書物の貸借を行い、ともに江戸末期を代表する本草家・蘭学者として名を残すことになる⑩このような西洋博物学の知識は、彼らのような最先端の学者だけのものではなかった。一九世紀前半、文化文政期から天保期にかけて、伝統的な本草学とは異なり、有用であるかどうかにこだわることなく動植物の収集や図譜の作成に取り組む人々が増えてきたが、そのような人々の間にも、西洋博物学の知識は広まっていったのである。彼らには、同好の士が集まって研究会を結成し、情報交換や議論をすることによって互いに切嵯琢磨し、さらに知識を深めようという傾向があった。そのような研究会の代表例では、江戸の緒鞭会と尾張の嘗百社が知られている。この二つの研究会を簡単に比較すると、まず潴鞭会は、大名や旗本の集まりで、職業的な本草家の集団ではなかったが、物産全般の検討から、細分化されたテーマを深く掘り下げるようになり、各メンバーはそれぞれの分野で大著
一
一
七
を著していった。これに対し嘗百社は、職業的な医学や本草学系統の人々が多く、物産会を開催したり、一般の人々への普及を重視したりするなど、実用的な側面を強く維持していた、表1に、文政から天保にかけての西洋博物学知識の伝播の年表(咀)を示す。この年表は、次のような意図でまとめたものである。まず、シーポルト来日以後、天保六年(一八三五)頃までは、日本の蘭学者・本草学者の間で西洋知識に関する情報交換が活発に行われた時期である。もちろん、それ以前から専門家の間では西洋知識の摂取が進んでいたが、シーポルトの来日によって拍車がかかったのである。次に、それ以後を、潴鞭会をはじめ、江戸における研究会にも知識が広がっていった時期としてとらえる。そして、この二つの時期を結んだのが、潴鞭会の場合は、富山藩主前田利保(萬香亭)であったと考える。この年表の意図は、利保が、知識の伝播にあたって中心的な役割を果たしたことを示そうとするところにある。
2博物学をめぐる人的ネットワークの形成江戸における博物グループの活動は、潴鞭会だけではなかった。また、西洋の博物書についても広く知られてい 法政史学第六十三号
た。そのことは、江馬元益が著した「藤渠漫筆』からも知(咽)ることができる。著者の江馬一兀益は大垣藩医の家に生まれ、蘭学を学んで文政一三年(一八一一一○)に父の跡を継いで藩医となった。天保三年以降、元益は五回にわたって江戸に滞在し、医師としての勤務の傍ら、多くの人々と親交を結んだが、天保一四年から弘化二年(一八四五)にかけて江戸に滞在した際のことが、『藤渠漫筆」中の「東海紀行」に書かれている。元益は、この江戸滞在中に、前田利保をはじめとする潴鞭会のメンバーと知り会い、また、緒鞭会以外の会合にも出席していた。図4は、「東海紀行」からわかる、江戸における博物学関連の人的ネットワークを示したものである。なお、ここでは緒鞭会関連に絞った。「東海紀行」の本文に従い、図4に説明を加えると、江馬元益は天保一四年のある日、宇田川熔蓄を訪問し、その際、椿蓄に「近来本草学ヲ廃ス」と聞かされた。また、椿篭から先代の福岡藩主黒田斉清(楽善)が主催する物産の会に出ることを勧められた。そこで、福岡藩の屋敷に出入りする薬舗に相談し、閏九月九日に斉清の屋敷(溜池の中屋敷か)へ招待されたのであるが、このとき斉清が「リンナウス」や「ウェインマン」といった洋書を所蔵している
一
一
八
表1リンネ体系の知識伝播年表一宇田川椿篭、シーポルト、伊藤圭介、緒鞭会 1822文政5年1月宇田川椿蓄「菩多尼訶経」刊(リンネの名、二十四綱に言及)
1823文政6年 シーポルト来日
宇田川椿蓄、シーポルトに手紙(リンネ分類に関する質問)
7月6日 12月21日
武蔵石壽の貝類図譜と分類への志向(石井)
シーポルト、宇田川椿番に手紙(上記の返書か)
シーポルトから書物が届く(分類に関する参考書)
1824文政7年 5月22日 8月25日
1825文政8年 2月~3月宇田川椿篭、
6月宇田川椿蓄、
同行
シーポルトに標本などを贈る
甲駿へ採集旅行。大坂屋清雅(後の緒鞭会同人)ら シーポルト江戸参府。名古屋で水谷豊文、大河内存真、伊藤圭介 と面会、江戸では宇田川椿蓄、島津重豪・斉彬などが訪問。シー ポルトは宇田川椿篭にシュプレンゲル箸「植物学入門」を贈る 帰路、大坂からシーポルトが字lfl川椿蓄に手紙を書く 1826文政9年3月
5月6日
1827文政10年 宇田川棺篭、「厚生新編」虫属を翻訳 伊藤圭介、江戸で宇田川椿蓄宅に寄宿
日光で採薬。伊藤圭介、大坂屋清雅ら同行 伊藤圭介、長崎へ出立、シーポルトのもとで学ぶ
このころ、宇田川椿篭の「植学独語」が書かれたか 4月24日
5月頃 6月25, 8月
「厚生新編第39巻」呈上で宇田川椿養の名が初出
シーポルト、帰郷する伊藤圭介にツュンベリー箸「日本植物誌」
を与える。
オランダ船座礁。シーポルト事件につながる 1828文政11年 13 月月
8月
伊藤圭介、宇田川椿蓄に植物分類を問う
伊藤圭介、「泰西本草名疏」刊(ツユンベリー「日本植物誌」の翻 訳に24綱の解説を付記)
1829文政12年 6月 10月
1830天保元年4月~5月これ以前に、伊藤圭介は宇田川椿篭から「林氏本」を借りた模様 宇田川椿巷、「植学啓原」を完成
「植学啓原」を印刷、社中に配布(刊行は翌年6月)
1833天保4年 1834天保5年
6月 3月
後の緒鞭会同人による集会記録「珍卉図説」
宇田川椿篭、「勤学啓原稿」を書く 1835天保6年 8月
11月
1836天保7年9月前田利保らにより「緒鞭会業軌則」成立
5月1日前田利保、宇田川椿蓄からハウトイン「自然誌」の講義を受ける 5月12日緒鞭会の最初の記録(馬場大助が会主)
5月14日前田利保、前年の凶作対策のため、富山へ出立 6月~12月緒鞭会の会合が会主回り持ちで開催。記録が多数残る 1837天保8年
前田利保が江戸に戻る。以後、多くは前田利保が会主をつとめる 緒鞭会「秦皮図説」(リンネ分類と日本産植物の同定)
宇田川椿巷、「百網全譜」訳す(シュプレンゲル「植物学入門」)
1838天保9年4月9日 6月26日 天保9年~10年
武蔵石壽、「目八譜」にとりかかる 1839天保10年
6月6日江馬活堂、大垣を出て江戸に向かう。名古屋で伊藤圭介と面会 ある日江馬活堂、宇田川椿蓄を訪問。椿篭は「近来本草学を廃す」と述
べた
閏9月9日江馬活堂、黒田斉清(楽善)を訪問。「リンナウス」などの洋書を 見る
ある日江馬活堂、花戸の長太郎を訪問。馬場大助を紹介され、物産会へ の参加をすすめられる。馬場はのちに江馬のことを前田利保に話 す
11月l3p江馬活堂、黒田斉清が屋敷で主催した会に参加。武蔵石壽、宇田 川椿蓄ら同席
1843天保14年
1844弘化元年 江馬活堂、金杉八百屋の持参した植物を武蔵石壽に尋ねる 武蔵石壽を介して、江馬活堂が前田利保(萬香亭)の屋敷で開か れた会に呼ばれる。馬場大助、田丸六蔵、武蔵石壽、関根雲亭が 参加
ある日 7月24日 九
1845弘化2年 武蔵石壽、「目八譜」を完成 本表作成にあたっては以下の文献、史料を参照した。
l)寺田正孝「宇田川椿蓄の年譜(上)」「津山高専紀要」第29号、1991年
2)宮坂正英「プランデンシュタイン家文書に見られるシーポルトと桂川甫賢、宇田川熔篭との交 流に関する記述史料について」「化学史研究」第21巻第1号、1994年
3)土井康弘「宇田川椿養の主著「植学啓原」と「舎密開宗」を巡る学術交流」「洋学3」、1995年 4)江馬活堂「藤渠漫筆」(蓬左文庫所蔵)国文学研究資料館マイクロフィルムを使用
図4 天保末期の江戸における博物学研究のネットワーク
法政史学第六十三号
畑中善良
植木屋・内山長太郎十一一江馬元益
訪問へ▲
Z屋Ⅲ1REE「東海紀行」(「藤渠漫筆」〈蓬左文庫所蔵、国文学研究資料館マイクロフィルム使用>)より作成。
★は緒鞭会メンバーである。 ○
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宇田)||椿蕃
方
益を紹介 師弟 大坂屋四郎兵衛★前田利保★ 一緒に洋書を読む
馬場大助★田丸六蔵★武蔵石壽 画工・関根雲停★曲直瀬養安院 小野意畝
★
馬場大助
元益を 紹介
★
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松平主水正士屋弥学長谷」||甚兵衛 佐橋兵三郎★飯室庄左衛門★
ザ
黒田斉清
岡部美濃守佐橋兵三郎★飯室庄左衛門★
坂立節大渕玄道藤本立運武蔵石壽★
鹿児島立意野勢甚七宇田)||椿巷牧穆中
〈Ⅳ)ことを知った。その後、同屋敷では、一一月一一二日に草木奇品の鑑定会があり、元益が参加すると、岡部美濃守、坂立節、大渕玄道、藤本立運、鹿児島立意、野勢甚七、牧穆中、宇田川椿蓄、佐橋兵三郎、飯室庄左衛門、武蔵石壽が(旧)いた。またある日、巣鴨の花戸(植木屋)長太郎を訪れ、旗本馬場大助の名を聞く。馬場大助もまた物産会を主催しており、そこに参加するようになった。このグループには、馬場大助のほか、松平主水正、士屋弥学、長谷川甚兵衛、佐(⑲)橋兵一二郎、飯室庄左衛門が参加していた。この二つの会の参加者のうち、馬場大助、武蔵石壽、佐橋丘〈三郎、飯室庄左衛門は潴鞭会のメンバーである。元益は馬場大助を通じて、潴鞭会の中心メンバーである前田利保にも呼ばれることになる。ただし利保は、天保一四年(一八四三)六月から富山に帰国しており、元益が馬場大(帥)肋と知り〈ロった頃には江一川にはいなかったと思われる。利保が再び江戸に戻るのは天保一五年一一一月である。その年の七月二四日に前田利保の屋敷(下谷池之端の上屋敷)で開かれた会合に、元益は武蔵石壽を介して呼ばれたのである。その後、元益は毎回出席するようになった。これを通じて元益は、利保が洋書を数十部所蔵してお
武蔵石壽の貝類図譜と分類への志向(石井) (、)hソ、畑中善良(官医)と洋書を読んでいることも知る。元益はシーポルトの「和産本草名目」を所蔵していたが、それを利保に話すと写本を求められ、書写して贈ったとい■つ/o
その他の潴鞭会メンバーと元益との関係では、大坂屋清雅の「手板発蒙」や蔵品を見たことが挙げられる。「手板発蒙」とは、薬屋に代々伝わる薬の出所や判別、良否などを記した覚え書き(手板)を「増補」して、五六○余の薬品について記した書のことである。文政六年(一八二三)、文政七年、文政一二年版がある。また、武蔵石壽に対しては、ある植物について形状を説明して質問した際、それに答えるとすぐに実物を見せられ感服したということも記されている。これらのことから、武蔵石壽を含む緒鞭会のメンバーは、宇田川椿番のような当時最先端の学者や、幕府医官などと同席する機会があったことがわかる。また、ハウトイン「自然誌」をはじめ、西洋の書物に接する機会もあったことは確かであろう。実際、「目八譜」と「介殻稀品撰」には、石壽と交流のあった人々の名前が記述されている。その多くは、介の入手経路に関係している。入手方法については、大名や大名(、)の家臣といった人々から贈られたものが多いが、自らj、房
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3潴鞭会におけるリンネ分類の理解武蔵石壽が『群分品彙」・「目八譜」を著した天保七年(一八三六)から弘化二年(一八四五)にかけて、江戸では、前項で述べた大名や旗本を中心とする「潴鞭会」が活(別)動を行っていた。潴鞭へ戸のメンバーたちは、さまざまな物品を会合に持ち寄り、それらについて本草学的な議論を行っていた。その中心にいたのは前田利保である緒鞭会の成立と活動については、すでにいくつかの指摘が行われている。それによると、いくつかの研究グループを前史としながら、天保七年九月に「潴鞭会業軌則」が作られて、緒鞭会が発足した。また、残っている緒鞭会の活動記録から、緒鞭会の会合は当初、「生草木類」や「鳥獣虫魚甲介」のように広いテーマで物品を持ち寄っていたが、天保九年五月頃を境に、「升麻」や「甲虫」のように特定の対象分野をテーマとするようになったことが指摘さ 州や江ノ島などへ出かけている。また、洋書からの引用もこの両著にはいくつか見られる。「リンナウス」のほかに、(羽)「ヨンストンス」・「ホイス」も参照しており、緒鞭〈五メンバーにとって洋書は比較的身近なものだったことが裏付けられる。 法政史学第六十三号
れている。すなわち、潴鞭会の性格が、天保九年半ばに、「薬品会」的なものから「研究会」的なものに変化したと(顕)いうのである。また、これらの潴鞭会の記録には、その会主も記録されている。それによると、会主は、天保八年はメンバーの持ち回りであったが、天保九年四月以降は、ほとんどが前田利保の屋敷で開かれている。このため、緒鞭会は主催者持ち回りで開かれたというある種の「対等性」が強調されてきた。しかし、この理由は実は単純である。前田利保が天保八年五月一四日に富山へ出立したことによるのである。表1にも示したが、富山へ帰国したのは、前年の凶作で対策が必要だったからであり、江戸に戻るのは天保九年四月九日である。つまり、天保八年の記録では会主がメンバーの持ち回り、天保九年の記録では前田利保、となっているのはこのためなのである。前田利保は、富山へ出立する直前の天保八年五月一日に、宇田川椿篭から「リンナウスの書」について、講義を(天保)受けていた。宇田川椿蓄の「自救年譜」に「八年丁酉、年四十」「五月朔日、為富山侯召講林梛斯書」とあるのがそ(加)(リンナウス)れである。この「林梛斯の書」とは、リン、不の分類法に基
一 一 一
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づいた博物書であり、近世後期の日本で最もよく利用されたハウトインの『自然誌」を指す。前田利保は同書を所蔵していた。また前田利保は、その一部を翻訳させていたこ(幻)とも知られているのである。前田利保が天保八年(一八三七)から天保九年にかけて、富山で西洋博物学に対して何らかの学習なり活動を行ったかどうかは不明である。しかし利保は、宇田川椿番から「リンナウスの書」について講義を受けた直後に富山へ旅立った。利保が江戸にいない天保八年五月一二Ⅱから天保八年一二月九日までの潴鞭会会合については、潴鞭会とするには疑問があるとされる三回の会を除き、会主は、五月一二日が資生圃(参加者七名)、六月一○日が研芳園(同七名)、八月二○日が四季園(同七名)、九月八日は不明(同四名)、九月一七日が資生圃(同七名)、一○月一五日が研芳園(同六名)、二月七日は不明(同五名)、一二(卵)月九日も不明(同八名)となっている。また、〈声の内容も、天保八年九月八日を例にとると、鳥や化石、魚などの図と名称、それを持参したメンバーの名前が記録されているだけである。石壽は同じ会の記録を持っていたが、これには図だけが描かれており、出品者や品名の記載などは(”)ない。一つ一つのロ叩について、議論を深めたという記録に
武蔵石壽の貝類図譜と分類への志向(石井) はなっていないのである。一方、前田利保が江戸に戻ってからの緒鞭会の記録には、「リンナウス」に触れたものが目につくようになる。天保九年に開かれた二回の研究会の記録で、「天保戊戌(六月)季夏」の序文がある「升麻図説」と、ほぼ同時期に開かれた緒鞭会の記録「秦皮図説」である。「升麻図説」は潴鞭会メンバーの一人である浅香青洲が編集したもので、会の(釦)参加者名は書かれていない。しかし、浅香青洲による序文には、利保が「花戸長太一一命セラレ愛玩ノ盆穂数品ヲ載来ラシメ西洋林氏ノ網目属種ヲ指示シ玉フ」とあり、また本文中でも、『本草綱目」などの引用と並んで、リンネの分類および利保の考えを記載している。ここでは、例えば六丁裏に「鶏骨升麻」と記載されているが、「万香按西洋林氏本草十三綱一目一一一丙七属ノ者ニノ六百品一一一十一一一図二出ツル形状当しり」と説明が付いている。これは、ハウトインの書で「十一一一綱一目一一一丙七属」に分類されるものであり、また、オスカンプの「六百薬品」の中で一一一三番Ⅱに図が描かれたものであるということを意味している(「六百薬品」については後述)。利保は、このときの会には参加しなかったが、内容面では大きな位置を占めていることがうかがえる。「秦皮図説」については次
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=一 一
1「秦皮図説」の検討以上見てきたように、武蔵石壽が「目八譜」と『介殻稀品撰」において行った貝の部位の名称定義と形状による二段階の分類は、それまでの貝類書には見られない独自のものであった。また、その背景として検討した西洋の知識の広がりは、前田利保をリーダー的存在とする潴鞭会における議論にも現れていたことも見てきた。それでは、石壽の考え方に具体的に影響を与えたものは何であったのだろうか。それは、前節で触れた「秦皮図説』に最もよく現れて
いる。 節で詳しく述べる。また、天保九年(一八一一一八)一○月一○日の会合の記録さずいししょうしょうずせつ「砂接子/蟻蛸図説」は、アリジゴク・クモ・サソリに(弧)ついて研究した記録である。前田利保が主催しており、利保がリンネの分類を取り上げて説明しているほか、「林梛斯図」・「林梛斯本草図」として、ハウトイン「自然誌」第一一一一巻から三点の図を転写している。以上の例から分かるように、前田利保の力によって、緒鞭会は西洋の知識を学ぶ場となったのである。 法政史学第六十三号
三西洋博物学の石壽への影響 『秦皮図説」は、天保九年六月二六日に開催された潴鞭(犯)〈芦の記録である。その内容を見ると、冒頭に前田利保による小引がある。小引の中に会を開いた日を「戊戌晩夏念六日」と記しており、またその識語に「天保九年戊戌之初秋萬香亭主人伯衡氏題」とあることから、天保九年六月二六日に開いた潴鞭会の会の内容を、七月にまとめたものであることが分かる。また小引では、それ以前に何度も会を開いて個別の品について研究したこと、そしてその際には一品ずつ徹底的に調べて明らかにしたことを記している。また、この時の参加者が、寒泉・四季・資生・東漠・石寿・清雅で、開催場所は利保の屋敷であることも記されてい
るo小引に続いて、まず「本草綱目」第三五巻の秦皮に関する記載事項を転記し、次に、ハウトイン『自然誌」から、ラテン語ではフラクシニュス(淳昌目の)、オランダ語ではエセボーム(①mの①弓8日)と呼ぶ植物、すなわちトネリ(調).に関する説明を、次のように翻訳している。西洋林梛斯本草第三十七巻附録綱目第廿三綱雌雄花ト雄花ト雌花トヲ開クモノ第二目一株ハ雄花ト雌雄花トヲ開キ一株ハ雌花ト雌雄花トヲ開ク
四
同書二十一巻喬木
弗辮蔚窓凡斯嚇欝函繍謝師
此属ハ雌雄花ト雌花トヲ開ク其雌雄花或ハ花ナク薯ナシ或ハ囚出ノ薯アリテ囚弁ノ花ヲ開キー雄蔬一雌藤其雌花ノ雌藤形チ鍍針状ナリ実モマタ形チ鍍針ノ如シここで「三十七巻」とあるのはハウトイン「自然誌」全三七巻のうち索引の巻にあたる。また「一一十一巻」は喬木に関する解説を収めており、その中に秦皮が含まれているのである。続いて秦皮の名称が列挙される。まず、「秦皮一名」として中国の本草書などに見える名称が「奨槻」など一七通トネリコノキリ、次に和名として「止称利古乃木」など一○通りが書かれている。続いてハウトインの書からは、第一種は「エキ武蔵石壽の貝類図譜と分類への志向(石井) 第十属 フラクシニュス弗辣窟悉肉斯羅甸越設暴謨和蘭雌雄花ハ薯ナク或ハ薯アッテ四出二花ナク或花アリテ囚弁ヲナスニ雄薦一雌蕊一子アwⅡノ雌花ハ前ノ如ニノ唯雄蕊ナキヲ異トスルノ「「「 セルショル羅」あるいは「ケメーネ和」という種の名称に続いて「アスカ」など七通り、第二種は「オルニュス羅」または「イタリヤーンセ和」という種の名称に続いて「マンナ」など二通り、第三種は「アメリカナ羅甸」または「ヒルキニセ和蘭」という種の名前だけが書かれている。羅はラテン語、和はオランダ語を指す。そして、「秦皮図説』の大きな特徴の一つである葉の付き方や形状の名称を定義している(図5参照)。これは他(ひしん)の潴鞭〈蚕記録には見られない。まず、葉の形を、鍍鍼、(せんだ)(とうたん)尖楕、倒蛋形、楕圓、蛋形、鍍鍼楕圓の六種類に分ける。その名称を用い、対象となる植物の特徴を記載するのである。また、葉の付いた枝を示し(図5)、枝の各部分の名称と、葉脈のパターンにも名称を付けて、葉の違いを区別できるようにしている。そして、葉の周囲が鋸歯状になっているかどうかで三種類に区分している。続いて、フラクシニュスの外見図が描かれている。ハウトインの書には、フラクシニュスの図は付いていない。そのためと思われるが、『秦皮図説」では、第一種の図とし〈ウェインマン)〈ドドネウス)て物印満、度突乃斯の図を写している。第二種では、オス(弘)カンプの『六百薬ロ叩』の図を使用している。これには花を分解した図も付いている。第三種の図は付けていないが、
五
葉の形状の定義
図5 法政史学第六十三号
葦歯 竿
脈$
-3-
璽豚 4s!
、
fIb門
鍼蝋涜一画
i羨蜜
[出典]「秦皮図説」(国立国会図書館所蔵
出典を見つけられなかったのであろう。その後に「鋸歯アル羊歯葉ニノ花弁アルモノ」とあるが、この説明は以上の三種のどの説明でもない。また、前頁の花を分解した図に対応したと思われる説明(a完花、b雌花、など)が記載きれている。aやbというアルファベットを使用しているが、h以下は記載できておらず、未完成である。その次に書かれているのが、「秦皮綱目図」である。前述のように、トネリコはハウトインの書では第一一一一一綱第二目第一○属に分類されている。「秦皮図説」では、第一種から第三種の下にさらに分類階層を設け、日本産トネリコ類の三○品について分類している。それを示したのが図6(お)の「秦皮綱目図」である。第一種に属する日本産トネリコはなく、第二種に二八品、第三種に二品を分類している。このうち第二種に分類された二八品については、その形状の特徴によって、八種類にグループ化されている。この分類の当否は別として、少なくとも、緒鞭会の面々は、リンネ体系を消化しながら、日本産トネリコ類の分類について独自の議論をしていたと考えられる。この後は三○品の日本産トネリコについて、それぞれ図と解説文が付いてい
る。 一一一一ハ
図6潴鞭会で議論された秦皮(トネリコ)の分類
図目綱廿皮秦第=
綱第
第目 十属
武蔵石壽の貝類図譜と分類への志向(石井) 三種アメリカナ羅ヒルギニセ蘭葉鋸歯ナクシテ葉柄円キモノ 二種オルニュス羅イタリアーンセ蘭鋸歯アル羊歯葉ニシテ雄弁ノ花ヲ開ク |種エキセルショル羅ゲメー子蘭鋸歯アル羊歯葉一一シテ無弁ノ花ヲ開ク
葉草羊歯尖堕円ニシテ小葉一…菱ili蕊塵葉柄腋トー小節アリテ枝條亘ヲナスモノ 葉草羊歯一一シテ円形ナル小葉一柄二対生シ葉柄腋ト小葉柄腋上一節アルモノー或区々ノ変葉ヲナスモアリ葉草羊歯一一シテ尖ダル倒蛋 柄腋上一節アルモノ葉草羊歯一一シテ尖堕円二雛
帷鈩馴訓撚耒輌礁糀生シーーー上什岐繊繊対審刻尹鉱嫌シラヂ
腋ト小葉柄腋トー節アルモノ葉草羊歯ニシテ皷鉱状ナ矧鯵鰹糊誌葎蝉ハーーー十九柤樹茅大シダ 騨蕊繊編一一璽鐸I上一一數鰯滑鰹汁童鐵州本拠
葉草羊歯ニシテ皷鉱二堕円.+一信州卜子リコ翻議川上腿織雰 拳…厩i……
甲ヲナシ葉柄腋ト小葉 葉草羊歯一一シテ鉄鉱二堕円ナル小葉一柄二対生シ葉柄腋ト小葉柄腋上一節アルモノ二十九南天葉秦皮三十堕円葉ト子リコ 一秦皮卜子リコ本所二同武州大宮三日光マルバト子リコ四一石山コシダト子リコ五一石山大葉ト子リコ六近郊七富山ウスバト子リコハ立葉ト子リコ九南天葉様立葉十犬鳴山立葉ト子リコ十一信州卜子リコ十二五葉ト子リコ十三日光秦皮十四小葉ト子リコ十五河中府秦皮ニガキ益十九柤樹茅大シダ二十漢種タゴノキニ十一東近江タゴノ木二十ニタコノ木富山一一十三一シ葉タゴニ十四円葉一シ葉タゴニ十五細葉一シ葉タゴ
一
二[出典]「秦皮綱目図」(「秦皮図説」〈国立国会図書館所蔵>)を翻刻。上2段はハウトイン「自然誌」か
七らの翻訳、下2段は緒鞭会による独自の小分類である。
2「目八譜」「介殻稀品撰』との比較前節で述べたように、武蔵石壽は、「目八譜」の凡例において二枚貝の各部の名称を定義し(図1)、「介穀稀品撰」の第二巻では、巻貝の部位の名称を定義している(図3)。さらに「介穀稀品撰』では、図2に整理したように、(鋼)一一枚貝を一一一綱四一二目に分類した。無論、この分類は現代の貝類学とは異なるものである。石壽は「目八譜』において、部位の名称を定義するに際して介殻の形態と、両片の合わさる部位の違いを組み合わせて二枚貝を一○種類に類型化していた。これは、明確な分類の試みとは言えないまでも、その前段階の状態であると言える。それが『介殻稀品撰」に至って、「綱」と「目」の二階層の分類に発展したのである。ただし『介殻稀品撰」における具体的な分類の内容は、「目八譜」における一○種類への類型化とは異なり、形態と殻の文様による分類に変わっている。また「介殻稀品撰」の巻一で行った巻貝を一六種類の綱に分ける方法も、巻二で綱ごとに図を描いて部位の名称を定義する際には、分類と配列が巻一のものとは必ずしも一致していない。例えば、巻二に記す蜆形は、巻一の一六種類の綱の中にはない。また巻この太鼓形とは、巻一では円 法政史学第六十三号
蝶形となっている。巻二には別に円螺様がある。図も巻二では二○例を挙げている。巻貝については、二枚貝ほどには整理されていないようである。しかし、石壽は『介殻稀品撰」に至り、独自の階層分類を試みた。「目八譜」における品数の多さや色彩の定義、部位の定義を行ったことは、造化の妙に対する興味を動機としつつ、貝を体系化するための議論の基礎とすることを目的としていた。「介殻稀品撰』では、それをさらに螺類へ広げたものになっている。石壽のこのような分類への努力は、結果を見る限りでは成功したとは言えない。しかし、「秦皮図説』で見たトネリコの分類と比較するとき、貝の部位を定義し、その用語を個々の貝の解説に使用したこと、また二枚貝を階層的に分類したことから、石壽の著作における分類の試みは、ほ(幻)ぽ「秦皮図説』の記述に対応していることが指摘できる。これは、今のところ状況証拠でしかないが、緒鞭会における議論と経験が、貝に対する石壽の独自の思考を生み出すもとになったことを強く示唆するものである。
おわりに
以上、武蔵石壽の著作「介殻稀品撰』に現れた分類の考
八
え方が、何に由来するものであるかを見てきた。従来より指摘のある「造化の妙」ヘの関心は、単に動機を示すだけのものであったが、石壽も加わっていた緒鞭会の記録「秦皮図説」に記される議論の内容と、石壽の著作の内容を詳しく検討することにより、状況証拠としてではあるが、西洋の博物学におけるリンネの階層分類と、花や葉の形状による分類の方法をある程度理解し、自らの著作で貝へ適用しようとしていたことが分かった。また、①「目八譜」における二枚貝の部位の定義や用語による貝の識別と解説、②「介殻稀品撰」における二枚貝の一二の「綱」とその下の「日」の二階層の分類、③「介殻稀品撰」での巻貝の一六の綱への分類と巻貝の部位の定義、といった石壽の貝類書における特徴は、西洋からの知識によるものだったのである。石壽や他の緒鞭会の人々は、当時の西洋の最前線を理解した上で、自然を体系的に整理・分類しようと議論を行っていた。石壽が貝の分類を試みたのは、その結果であった。また、武蔵石壽の活動について調べる過程では、宇田川椿蓄や西洋の書物から西洋博物学の知識を得た前田利保が、それらの知識を緒鞭会のメンバーに伝える役割を果たしていたことを、時間を追って事実を関連づけることで具
武蔵石壽の貝類図譜と分類への志向(石井) 体的に検証した。その流れの中で、石壽も分類への志向を持ったのである。ただし、緒鞭会のメンバーはおそらく個別にも活動していたであろう。今後は、それら個々のメンバーについても著作などの史料を検討し、緒鞭会の学問の水準を把握するとともに、それを通じて近世後期における博物学受容の実態を明らかにしていきたいと考えている。
註(1)武蔵石壽の著作や蔵書については、拙稿「武蔵石壽の著作活動l書誌情報をもとにl」S法政大学大学院紀要」第五三号、二○○四年)で論じた。合わせてご参照いただければ幸いである。ぐんぶんひんい(2)これらに先立ち、石壽は「群分口叩彙」を著した。これは、石壽以前の代表的な貝の解説書である「六百介図」のにしきのうらづと図と「丹敷能浦裏」の解説文を組み△口わせて再配列することで使いやすさを大きく改良したものである。ただし、内容面では従来の貝類書を踏襲するにとどまるもので、本稿では取り上げない。(3)当時は「博物」という語はなく、「本草」が使用されていた。しかし、潴鞭会業規則に薬効研究をうたってはいるものの、石壽と緒鞭会の活動内容は薬効よりも自然物の研究が主である。そこで本稿では、あえて「本草学」ではなく、「博物学」という語を用いる。
= 一
九
(4)貝の数については、金丸但馬「本邦貝類書解題」ミヴィナス」第一巻第二号、’九二九年)では九九七、佐々木利和「博物館書目誌稿l帝室本之部博物書篇l」S東京国立博物館紀要」第二一号、一九八五年)では九九一、磯野直秀「江戸時代介類書考」(『慶應義塾大学日吉紀要自然科学」第二○号、一九九六年)では一一六九としている。品数については、本稿では国会本を用いて計数した。(5)これらの特徴を指摘した研究には以下のものがある。日本の貝類学の通史として最も早く書かれたものに、金丸但馬「日本貝類学史」(「ヴィナス」第一巻第六号~第二○巻第一号、一九三○~一九五八年)がある。そのうち近世については第八回(第三巻第一号)から第二六回(第一一二巻第四号)にかけて掲載された。その後、上野益三は、「日本動物学史」(八坂書房、一九八七年)において石壽の著作を取り上げている。なお、「目八譜」の特徴のうち、「造化の妙」については、「介殻稀品撰」とあわせて前掲(1)の拙稿において、地方文書中に発見した、貝類書以外の石壽の著作を含めて論じている。(6)前掲(5)で触れた上野益三『日本動物学史」では、『介殻稀品撰」の例言を石壽の介殻学総論と位置付けている。なお、上野氏が「介殻学」という語を使用しているのは、石壽が貝殻をその形態・色彩により、分類しているためと思われる。最近では、磯野直秀「江戸時代介類書考」(「慶應義塾大学日吉紀要自然科学」第二○号、一九九六 法政史学第六十三号
年)が分類について同様の指摘を行っている。(7)「目八譜」の図の多くは、絵師・服部雪斎が描いた。『目八譜」の写本は、国立国会図書館と東京国立博物館に所蔵されているが、長岡由美子「目八譜」S江戸名作画帖全集Ⅷ」〈驍々堂出版、一九九五年〉)は、後者の図がすべて服部雪斎の手になるのに対して、前者ではそうではないことを指摘している。(8)貝の部位の定義については、石壽とほぼ同時期に生きて貝類書を著した紀州藩士(二○石)・畔田翠山の例がある。翠山は、藩の命によって採薬や薬園管理、物産志執筆などを手がけたが、貝類書でも、「目八譜」に匹敵する品数を集めた『介志」一○巻(東洋文庫蔵)を作成した。その成立は弘化三年(一八四六)であるが、凡例に、二枚貝と巻貝の部位を定義した図を載せているのである。ただし、部位の説明に使った貝の図は石壽よりも少ない。墨画の図譜であるが、模様の細部までていねいに描いてあり、品種の区別を容易にしている。凡例では石壽の著作にまったく言及しておらず、おそらく翠山は石壽については知らなかったと思われる。(9)『介殻稀品撰」は、国立国会図書館(別一一・三六)、杏雨書屋(杏六八○○)が所蔵。内容はいずれも同じである。ここでは前者を参照した。成立年の手がかりになる記載はないが、『目八譜」を多数引用していることや、「金魚」「銀魚」の項に「越中富山前太守」、「踊介」の項に 四○
「越中富山前ノ太守」という言及があることから、後述する緒鞭会のリーダーであった富山藩主・前田利保が隠居した弘化三年二八四六)以降の著作か、もしくは書き継いでいたと推定できる。(、)「目八譜」では部位の名称を定義する際に、二枚貝の類型を一○種類に分けて示していたが、その類型と「介殻稀品撰」の一○綱とは一致しない。(u)「介殻稀品撰」の巻三以降は具体的な貝の記述になる。ただし、巻「巻二で試みた分類を反映した構成にはなっておらず、記述の内容は「目八譜」とほぼ同じである。以上のことから、石壽は「造化の妙」を愛し、その全体像を分類・整理する方法を考察したが、完成には至らなかったと言える。(、)上野益三「H本博物学史補訂」(平凡社、一九八六年)および木村陽二郎「日本自然誌の成立」(中央公論社、一九七四年)。(田)宮坂正英「プランデンシュタイン家文書に見られるシーポルトと桂川甫賢、宇田川椿篭との交流に関する記述史料について」S化学史研究」第二一巻第一号、一九九四年)。(型土井康弘「宇田川椿蓄の主著「植学啓原」と「舎密開宗」を巡る学術交流」S洋学31洋学史学会研究年報」一九九五年)。(咀)幸田正孝「宇田川椿番の年譜(上と(「津山高専紀要」第二九号、一九九一年)、および前掲(型(u)、また江
武蔵石壽の貝類図譜と分類への志向(石井) 馬元益「東海紀行」(「藤渠漫筆」第九編巻三、蓬左文庫蔵)から作成した。「藤渠漫筆」は国文学研究資料館マイクロフィルム版(四八・四二二・一)を使用した。マイクロフィルム版の所在は大阪歴史博物館の岩佐伸一氏からご教示を受けた。(咄)江馬元益は文化三年(’八○六)生。通称は春齢、号は藤渠・万春、隠居後は活堂と号した。万廷二年(一八六二致仕。水谷豊文や山本亡羊らの教えも受けた。著作に「草木図彙」や「藤渠介品図譜」などがある。明治二四年二八九二没。(Ⅳ)「リンナウス」とは、ハゥトィン(国・皀白百)三四白‐三房①四一の[・口①。{畳・の岳のワ①の、耳冒目、□①Heの【のロ,ご一目〔のロのロ自已の『閏のロ,ぐ○一mのロ二の[の目]自吻〔の一弓目□のこのの『口目山の‐房」を指す。この書名は、平野満「近世Ⅱ本におけるハウトイン「自然誌」の利用」S明治大学図書館紀要」第六号、二○○二)において、「自然誌、またはリンネ氏の体系による動物・植物・鉱物の詳細な記述」と直訳された後、「本稿では」と断った上で単に「自然誌」と略記されているが、本稿でもこの表記を採用する。江戸時代には主として長崎・出島のオランダ商館を通じて西洋の知識や書籍がもたらされていたが、なかでもリンネの分類体系の知識は、主としてハウトインの著書から得られていた。当時、本草家や蘭学者たちは、これを「リンナウス(リンネ)の本草書」と呼んで活用した。また「ウェインマン」
四
一
は、もとは独語版『花譜」の図譜部(ニゴggg二89‐四g亘四)であるが、ここではその蘭語版を指していると考えられる(磯野直秀「日本博物誌年表」〈平凡社、二○○二年〉一一七五~二七六頁)。(皿)岡部美濃守は和泉国岸和田(五万三○○○石)の藩主、坂立節は表御番医師(二○人扶持)、大渕玄道は表御番医師(二○○俵五人扶持)、藤本立運は小普請医師(二○○俵)、鹿児島立意は(原文によれば)御坊主、野勢甚七は薩摩藩士、宇田川椿蓄と牧穆中は蘭学者である。(四)松平主水正は不明、士屋弥学は旗本(三○○○俵)、長谷川甚兵衛は旗本二五○俵)。(別)富山市郷士博物館編「特別展お殿さまの博物図鑑l富山藩主前田利保と本草学‐」(富山市教育委員会、一九九八年)四五頁の年表による。(皿)また、これより先に馬場大助の紹介により、元益は畑中善良と会っているが、善良は「レーデンコンスト」「スプラーカコンスト」を所蔵していたという。両書は、いずれもオランダ語の語学書を意味する。(皿)例えば、「目八譜」第一巻七番目の「朝鮮濱栗」では、「予今蔵スル者筑前ノ前ノ太守楽善老侯ヨリ恵マル、所ノ野北濱栗」、同じく一六番目の「磯濱栗」には「往年平戸ノ太守領地二所産ノ介殻二十二俵ヲ恵マル」とある。前者は黒田斉清、後者は松浦静山(安永四年二月一六日から文化三年二月一八日まで在位)もしくは松浦煕(文化三年 法政史学第六十三号
一一月一八日から天保一二年閏一月五日まで在位)と思われる。また同じく三八番目の「白鳥介」には、「雲州福岡ノ太守百耆老侯ヨリ恵ル、所也」とある。この「百耆」は、潴鞭会メンバーとして登場する「百嗜」と考えられる。介の入手経路に関わる人物については別稿で論じる。(翌例えば、「目八譜」第四巻の一○番目に取り上げた「淡菜」については「蘭書ヨンストンスニ云」として「ミュスキユリ」という名前を併記している。また第二巻の四番目にある「耳介」は「蘭書ホイス」では「ワールスキュルプ」と呼んでいることを記載している。「蘭書ヨンストンス」はヨンストン「動物図説」、「蘭書ホイス」はボイス『新修学芸百科事典」を指す。(型)前田利保は富山藩主(’○万石)、以下、佐橋兵三郎(八○○石余)、馬場大助(二○○○石)、飯室庄左衛門(’’二○俵)、田丸直暢(一○○俵)、浅香直光(三○○俵)、設楽市左衛門二四○○石)は旗本である。大坂屋四郎兵衛は江戸の薬種商。このほか絵師として関根雲停が参加していた。(妬)平野満「天保期の本草研究会「潴鞭会」l前史と成立事情および活動の実態l」S駿台史学」一九九六年)によれば、複数の研究グループを前史として、天保七年(’八三六)九月に「緒鞭会業軌則」が作られて潴鞭会が発足した。また同論文は、残っている潴鞭会の活動記録を前史も含めて整理し、天保二年(一八四○)一○月一六日まで
四 二
確認している。ただし「東海紀行」には、弘化元年二八四四)七月二四日に前田利保の屋敷で開かれた会合に元益が参加したことが記されており、この会も緒鞭会だったと考えられる。|方、磯野直秀「日本博物学史覚え書Ⅲ」S慶應義塾大学日吉紀要自然科学」第二○号、’九九六年)は、記録が残存する一五回の潴鞭会記録を検討した結果、緒鞭会の会合は当初、「生草木類」や「鳥獣虫魚甲介」のように広いテーマで物品を持ち寄っていたが、天保九年五月頃を境に、特定の対象分野をテーマとするようになったことを指摘し、これは緒鞭会が「薬品会」的な性格から「研究会」的な性格に変化したことを示すものとしている。その例の一つに、高知県立牧野植物園牧野文庫所蔵「ホトトギス図(きょうろうしゃこう)説/娩螂射工例説」(四七九・一二七・MAE)がある。これは、天保二年九月二六日に開かれた会の記録で、植物のホトトギスと甲虫を取り上げ、それぞれについて論じた内容を合冊したものである。(妬)「宇田川椿蓄自救年譜」(岡村干曳「紅毛文化史話」〈創元社、一九五三年〉附録)。(〃)平野満「近世日本におけるハウトイン「自然誌」の利用」(「明治大学図書館紀要」第六号、二○○二)は、近世の本草学者や蘭学者などによる利用を一五例、示している。その中には、前田利保が瘍科医の中得一に、動物の分類綱目を翻訳させ、さらに利保の考えを併記したものも含
武蔵石壽の貝類図譜と分類への志向(石井) まれている(杏雨書屋蔵「林梛氏訳付考」〈杏一二二四〉)。ただし、「升麻図説」と「秦皮図説」には触れていない。(躯)前掲(空で引用した平野満「天保期の本草研究会「緒鞭会」l前史と成立事情および活動の実態l」S駿台史学」一九九六年)による。(羽)「(博物図譜稿)」(「岩岡家文書」〈上〉Y・四二・一一一一九九)および三本草彩色写生帳」(「岩岡家文書」〈上〉Y・五二・二一一二)である。二点とも所沢巾文化財保護課に寄託されている。いずれも図のみで、文字は書かれていない。筆者はこの図譜が、緒鞭会の記録は会主が絵師に描かせ、各会員はそれを模写していたことを示すものであると考えている。(釦)杏雨書屋蔵「升麻図説」(杏一四一七)を参照した。(弧)東京大学総合図書館所蔵(A○○・五八四六)(躯)国立国会図書館蔵「秦皮図説」(特七・三○)を参照した。杏雨書屋蔵(杏五五八六)も内容は同じであるが、記載ページと位置に少し違いがある。なお国会本は、扉と小引に「寒泉園」の朱印がある。緒鞭会メンバーの田丸直暢が所蔵していたものである。(鍋)国立国会図書館所蔵(M七一・A一三)のものを参照した。(別)寛政八年(一七九六)から寛政一二年(一八○○)にかけて出版されたオスカンプSの盲已己)「薬用植物図譜」(シどのの三□ぬのロ』①円自[の⑦具‐ぬのョ餌印の①ご曰①〔□①日の。①門口&のap-
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