<書評>山本英輔著『ハイデガー『哲学への寄与』研 究』を読む
著者 笠原 賢介
出版者 法政哲学会
雑誌名 法政哲学
巻 6
ページ 45‑49
発行年 2010‑06
URL http://doi.org/10.15002/00007952
本書は、ハイデガーの第二の主著とも言われる『哲学への寄与」に焦点を当てた研究書である。『哲学への寄与』は、一九一一一六年から三八年の問にハイデガーによって書かれた覚書であり、その全体は、ハイデガー生誕百年の年である一九八九年になってはじめて公刊された。原書で約五○○頁となる『哲学への寄与」は、公刊後二十年を経てなお本格的な研究は乏しい。山本氏の著書は、ハイデガー特有の難解なドイツ語で書かれたこの作品に分け入り、丹念に対話を行ない、ハイデガーの思考世界を取り出した労作である。山本氏は、研究史を踏まえた上で、『哲学への寄与」を「存在と時間」とならぶハイデガーの最も重要な作品であるとし、後期ハイデガーを理解するための鍵となるテクストと 山本英輔『ハイデガー『哲学への寄与』研究』法政大学出版局二○○九年
山本英輔著『ハノイデガー『哲学への寄与』研究』を読む
【書評】位置づける。そのような評価に立って、山本氏は、八つの部分からなる『哲学への寄与』について、配列の順に沿って内在的な考察を進めてゆく。内在的とはいっても、ハイデガーに魅入られたような秘教的な叙述が繰り広げられるのではない。本書は終始、濃密でありながらも、ハイデガーを専門としない読者にも届く明澄な文章で綴られている。ただし、安易な図式化による分かりやすさとは別のものである。文章が明澄であることによって、「存在」という思考し難いものを思考するというハイデガーの哲学のあり方が、その困難さとともに浮き彫りにされるのである。考察を行なうに際しては、『存在と時間」との比較という方法が採用されている。『存在と時間」を『哲学への寄与』がどのように乗り越え、引き継いだかが問われるのである。
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また、『哲学への寄与』の内容を、ハイデガーの外部の様々な哲学的問いと突き合わせながら考察してゆくのも本書の特色である。ハイデガーに対する批判もタブー視せず、そのような問いに織り合わされる。著者自身も、ハイデガーに拝脆せずに問いを投げかけながら考察を進めてゆく。叙述の明澄さは、これらの問いが形作る立体的な場のなかにハイデガーのテクストが置かれたことによるものであろう。山本氏は、『哲学への寄与』における哲学の根本気分として「控え目」や「冷静な気分」を挙げるが(本書第2章)、氏の叙述にもそのような基調が、独自の仕方で貫かれているように思われる。『哲学への寄与」においては、対象を意のままにしようとする「近代主観主義」や「現代の技術文明」が指弾されるのであるが、それを扱うに際しても、哲学とは無縁な煽りは、氏の叙述には見られない。『哲学への寄与」は、ニアアイグニスについて」という副題を持つ。そのことが示すように、「存在それ自身をエア
アイグニスとして思索すること」(本書川頁)が、この作
品の主題である。「エアアイグニス(団己頤昌、)」は通常、〈出来事〉を意味するが、『哲学への寄与」においてこの語は、「人間と存在との呼応関係」を基本的な意味内容としながらも、多義的であるとされる(仙頁以下)。本書が、両国、鳥
を三アアイグニス」と一貫してカタカナ表記しているの はそのためである。なお、両『の祠旨の他動詞形としてのの円の洞局目は、「人間と存在との呼応関係」という点を考慮し
て、「呼び求める」と訳されている。「存在」の「呼び求め」に人間が「呼応」するのである。そのような「呼応」としての思考は、「対象的なものを記述したり分析する」通常の思考(胆頁)とは別種のものたらざるを得ない。対象を認識する思考においては主題化されることがないもの、思考しようとすればするほど逃れ去ってゆく基盤のようなものが「存在」なのだ、と言えよう。また、「呼応」としての思考は、「存在者の側から存在を存在者性として捉える思考」たる西欧の「形而上学」(加頁)とは別種の思考ともなる。「形而上学の思考から存在の真理への思索へと哲学自体がおのれを克服すること」、そのような「来るべき哲学を準備すること」(川頁)、このことが
〈哲学への寄与〉という表題の示すものとされるのである。この別種の思考とは何か。安易な要約は不可能であり、氏の著書の全体を追跡しながら各自が思考を巡らす外ない性格のものである。ここでは、次の点を指摘するにとどめたい。第7章「跳躍の思想」において山本氏は、「存在は人間を呼び求め、人間は存在に帰属する。……この連関は対等な関係というものではなく、むしろ存在に優位がある。存在46
は人間を凌駕し圧倒するものと考えられる」と述べる(側
頁)。このような構図において、人間は「存在」のなかに没エクスターゼし去るかに見える。だが、クラーゲスのような〈忘我〉が主張されているのではなく、むしろ、それを回避しようとするのが本書を貫くハイデガー解釈の方向性である。例えば、「跳躍の思想」の章においては、ハイデガーの思索は、「非合理的な「死への跳躍」では断じてなく、あくまで知(三脇目)の営み」であり、「……反省を遂行する者がその者の拠って立つ歴史的現存在に直に曲げ返される仕方での自己省察である」とされている(佃頁)。また、『哲学への
寄与』のⅢ「投げ渡し」を論じた第4章スイデガーの歴史論」においては、ハイデガーの思索は。形而上学」に反動的に敵対し、それを否定して捨て去ることではない。…・・」(Ⅲ頁)、「:::存在の歴史の探究は…・・・形而上学の偉大
な哲学のテクストと対決し、それを積極的に読み換え、別、、、、、、、、、の思索に転じる……この思索に筆者はハイデガーの用語法
、、、、
に反して、あえて〈ヒストーリエ〉を読み込みたい」(Ⅲ頁)
と述べられている。〈ヒストーリニは人間による探究を意味する。思考の否定ではなく、対象を認識する種類の思考からの思考の解放、既存の枠組みからの哲学的テクストの解放が目指されていると見ることができるのである。最も重要な論点は、「人間は存在に呼び求められる。それは人間 が存在に帰属しているという、おのれの在りかe巳を自覚することである……それは、呼び求められる人間が存在しているということが確かなものになることでもある。……存在者とは全く異なる存在の真理によってはじめて、存在者そのものが肯定されるのである」(川頁)というもの
である。「存在」への埋没とは逆の事態である。シンプルとも言える。それが「存在」をめぐる思考の困難さと対照をなしている。この落差をどう考えるのか。この点が、読者にさらなる問いとして提起されるのかもしれない。以下、本書に触発されて生じた疑問を示すことで、評者の任を果たすこととしたい。『哲学への寄与」においては、三アアイグニス」に連動して「歴史」が登場する。「存在の真理は歴史的・生起的性格を持つ」とされ(皿頁)、現代が「存在忘却」の極みの
時代として批判される。現代は「主観」が対象を意のままに支配する技術万能の時代であり、また、「計算」・「性急さ」・「大衆的なものの突発」の時代とされるのである(而頁)。「主観」の自己中心主義は批判されねばならないとしても、このような時代診断は、現代に起きているすべてを言い当てているのか、むしろ現代を、当事者としてではなく、外側から一望のもとに「表象」化することにならないか、これが評者の疑問の第一である。この点は『哲学への47
寄与』において、ニーチェの言う「神の死」(〈神の殺害〉)が「神の不在」と言い換えられて「神の立ち寄り」の可能性が言われている(第皿章「人間と神」)こととも関係するであろう。第二は、「存在」についてである。安易に整理するつもりはないが、「存在」は、「通常のリアリティーとは別の、逼
迫する〈リアリティー〉」(Ⅲ頁)を持った「異他的な (す島目】二s)」な何か(州頁)、「生き生きと」活動しな がらも「《生命Pn房目)》概念」に解消できない何か(川頁)、
「死という人間の比類のない異様な在り方の中で・・…・おのれが帰属しているものとして開示される」何か(同)とされる。そして、そのような「存在の真理へ目を向けるように指示する」者が詩人へルダーリンとされるのである(〃
頁)。なぜヨブの最初の独白」や「永訣の朝」ではないのか。ハイデガーにおける「存在」経験を文字通り「異他的な」何かとして再考する必要はないのであろうか。G・スタイナーは、ハイデガー『形而上学入門』における『アンティゴネー」論をヘルダーリンによる翻訳と結びつけて論じているが(『アンティゴネーの変貌」)、この点に関係するように思われる。第三は、「超越論的」についてである。山本氏は、『存在と時間」との比較において、「寄与」には、明確に超越論 的思考から脱却しようとする意図が窺える」とし、「カント以降の超越論的思考は、人間(主観)の思考の働きによる認識の基礎づけであり、人間の思考に優位を置いた主観主義であった」(刈頁以下)とする。細かい議論は別として、「超越論的」をこう言い切れるかに疑問が残る。カッシーラーは、カントと関連させて「科学や哲学において現れて、、、、くるような理論的意味付与作用を遂行するだけでなく、ま
、、さしくそれがなんであるかを理解」する一)とを〈超越論的〉と呼んでいる(『シンボル形式の哲学』第3巻「序論」)。これを「認識の基礎づけ」にすぎないと言えるかどうか。「主観」が我有化し得ない何ものかを主題化する道がここから開けてこないか否か、が問題である。第四は、「来るべき哲学」に連動するものとして構想される「将来的な者たち」の「共同体」たる「民族」についてである(第皿章)。「将来的な者たち」は「心を同じくする」
者たちであり(〃頁)、その「共同体の求心力は……「神」 にある」(川頁)とされる。これらは、終始三アアイグ
ーース」の「思索」をめぐって述べられるのだが、社会哲学的な含意は否めない。別の箇所では「エアアイグ一三」は人間が「おのれを譲渡する働き(諄己碧目、)」を引き起こし、それによって人間は「固有な」ものとなるのだ、とも言われている(第1章)。〈全面譲渡〉による政治的共同体48
在」をめぐる問詮を選ぶのである。 の創出lただし民主制ではないであろうlが含意されていると読めないこともない。そこにおける「神」は、諸民族が交錯・交通する場における「神」ではなく、「民族」の「神」である。このような構想の持つ問題性は、山本氏
自身が明記する通りである(川頁)。ハイデガーによる「存
在」をめぐる問題提起を受け止めながらも、評者は別の道山本氏の指摘するように、『哲学への寄与』は『存在と時間』とならぶハイデガーの最も重要な作品であろう。氏の著書から読み取れるのは、『哲学への寄与」においては、カントとは別の意味で、哲学の「転回」がなされているということである。この「転回」をどう見定めるのか、氏の著書はそれを読者に呼びかけているように思われる。『哲学への寄与」の内容を究めつつ、それを開かれた形で提示した山本氏の研究は、画期的な意義を持つものと言わなければならない。
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