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菊地 恵太 Hawai iで出会った「日本人」:観光客が消えたホノルルで '

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△▼ 在外研究報告 ▼△

Hawai ' iで出会った「日本人」:観光客が消えたホノルルで

菊地 恵太

 2019年9月から約1年間、在外研究でハワイ大 学マノア校にお世話になった。最初の数カ月は大 学から徒歩 15 分ほどのマノアという街に住み、

その後はワイキキのコンドミニアムに移った。ワ イキキから大学までは市バスで30分ほどだ。3月 末まではほぼ毎日大学に行き、研究生活の合間に 院生向けの授業にも参加させてもらっていたが、

その後、大学が閉鎖され、すべての授業がオンラ イン化された。幸い、研究員はキャンパスに立ち 入ることができたが、大学から人がほぼ消えた。

4月からのほぼ半年、ワイキキと大学の行き来と 朝の日課であるランニング、食料品の買い出し以 外は外出ができない日々が続いた。

 当初の予定では、5 月から 8 月の間はアメリカ 本土で行われる学会や研究会に赴く予定であった が、それができなくなった。また日本との直行便 も全くなくなり、観光客のいなくなったホノルル で8月に臨時便が月に4便だけ出るまで研究生活 を続けることとなった。そんな最中、私が研究生 活の合間に何を感じ、何を学んだのかを本稿では 報告したい。

 私がハワイ大学に在籍するのは実は 2 度目で あった。写真 1 に写っているのは 1998 年から 2000 年まで修士課程に通った際にルームメート だった友人たちと撮った学位授与式の時の写真で ある。この友人のうちの二人は私とほぼ同年齢の

日系人でそれぞれIyamatsu, Hanaiという姓を持っ ている。ちなみに今回の滞在中オフィススペース を提供してくださり、とても親切にしてくださっ たハワイ大学の教員であるKent Sakoda氏の姓は Sakoda である。ハワイにはこうした日本国内で も存在する姓を持った人たちとよく遭遇する。彼 らは戸籍上はアメリカのパスポートを持つアメリ カ人で英語を母国語とし、日本語はほぼ話せない。

前回、ハワイに住んでいた時にはそれほど意識し なかったのだが、今回の滞在でハワイに住む「日 本人」のことを考え、また自分の日本人としての アイデンティティを考えるようになった。

 ロックダウン中、ワイキキの自宅にいるとある 土曜日にアラワイ運河の向こう岸にあるイオラニ 高校でグランドにたくさんの自家用車が並ぶ卒業 式をやっていたことがあった。卒業生の名前をマ

写真1 ハワイ大学大学院の学位授与式にて(2001年5月)

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イクで呼んでいる音声が家の中にいてもよく聞こ えてきたのだが、その時多くの日本名の姓を耳に した。その際はミドル・ネームも読んでいくので とても不思議な感覚を持った。例えば、Kent Keiji Sakoda のようにハワイの日系人はほぼ多く の音が日本語である名前を持っているのである。

 日本人現地スタッフが常駐するホテルや、HIS やJTBといった日本語が通じる旅行代理店、そう いった日本人向け観光産業に支えられ多くの日本 に住んでいる人はパラダイス的な感覚をハワイに 持っているだろう。写真2は朝のランニングの途 中、帰国前に 8 月にワイキキで撮った写真だが、

綺麗な白砂のビーチやヤシの木は観光のために造 成されたものだ。そういった「作られた」イメー ジを持ち、ハワイを訪れる観光客は少なくないで あろう。一方、そんなワイキキは地元の人たちに とっては、日常とは異なる別世界なのである。観 光客が多く、レストランもスーパーも地元の人た ち御用達のものと比べると高めで、地元の人たち と話してもみな口をそろえてワイキキには何の用 もないのでめったに足を運ぶことはないという。

 さて、ハワイでは3月後半から外出禁止令が出 て4月ごろからは日本からの観光客が消えた。観 光業に携わる多くの人々は失業状態である。そん な最中、予定を早めて日本に帰国しようかとも

思ったが、空路が寸断された状態で私はそれもあ きらめた。初めのうちは不安でいっぱいだったが、

しばらくして慣れてきてからは観光客がいなく なったハワイをどうやって楽しむかを考えるよう になった。

 ロックダウン前のある時、友人のHanai氏の自 宅に夕食に招かれた。彼の奥さんは沖縄からの移 民の3世である。その際、そろそろ子どもをお風 呂に入れなければというタイミングで奥さんが

“Time for bocha for kids?”と友人に聞いていた。

実はこの“Bocha”という単語を聞くのはその時 初めてではなかったのだが、この言葉はいわゆる ハワイピジン英語で Bath を表している。ハワイ ピジン英語に詳しい前述のKent Sakoda氏に聞く とハワイには広島や山口といった山陽地方からの 移民が元々多く、その人たちが使っていた言葉が 今も残っているという。また、地元の日系人のた めにハワイ大学近くで長年営業している Fukuya といういわゆる惣菜屋や Don Quixote(日本のド ン・キホーテ)でNishimeという料理を目にした。

なお、ハワイでは日本語の弁当から来た“Bento”

という語は定着しており、Nishimeは弁当のおか ずとなる鶏肉や野菜やしいたけ、こんにゃくの煮 物のことである。東京出身の私にとってNishime

(煮しめ)は正月に食べるお煮しめのことを示す のだが、いわゆる筑前煮のような煮物が煮しめと 呼 ば れ て い る こ と に 驚 い た。 同 世 代 の Aaron Hanai 氏に僕の好物は Nishime だと言ったら「老 人みたいだ」と笑われたが、比較的高齢の日系人 の人たちがこれを注文しているのを目にした。

 大学院生だったときは英語で論文を読み、論文 を書くといった活動ばかりしかしていなかったの で全く気にしていなかったのだが、今回の滞在で は日本からの移民の歴史に興味を持ち、少し調べ てみた。2020年3月まで毎日定期便が日本の東京、

名古屋、大阪とホノルルを結んでいた。そんなハ 写真2 Waikiki の Hilton Lagoon 付近で撮影した虹

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ワイと日本を結ぶ定期航空便が開始したのは戦後 すぐの 1954 年 2 月のことだった。それからさか のぼること 100 年ほど前の 1868 年(明治元年)

時代に砂糖農場で働くためにやって来た移民が日 本とハワイとの歴史の始まりだったという。その ころ日本から船で1カ月以上かけてやってきた移 民たちは「元年もの」と呼ばれている。東京を夜 10 時ごろに出ると翌朝にはホノルルに7時間ほ どかけてついてしまうこの時代からすると信じら れないほどの長い船旅である。そういった長時間 の船旅でやっとハワイにたどり着いたそのころの 日本からの移民は長時間の過酷なサトウキビ畑で の労働に耐え、少しづつ数を増やしていった。ハ ワ イ 政 府 観 光 局 の サ イ ト(https://www.aloha- program.com/curriculum/lecture/detail/189)に記 載されている統計によれば、1918 年(大正 7 年)

にはハワイにおける日系人口は 10 万人を超え、

1924 年(大正 13 年)のサトウキビ農園における 日系人口は全体の 70%に達するほどだったとい うことだ。新型コロナによる感染症予防のための 都市封鎖の中で気持ちが沈みそうな私にとってそ ういった過去の日本人の歴史を改めて知ることは とても励みになった。友人の Aaron Hanai 氏に彼 と奥様の Family Tree を書いてもらった。以下に 示したが、多くのハワイに移住した日系人は彼ら のように日本人同士で結婚をし、子孫を残してき

たようだ。

 昨今、現代の私たちは海外滞在先で普段と違う 日常を体験し、消費をするという今までの海外旅 行ができなくなった。現代の日本人は観光でホノ ルルに来るとガイドブックやテレビ、あるいは YouTubeなどの動画サイトで紹介された場所に訪 れ、飲食をし、お土産を買い、数日後に帰国する という「プログラム」を楽しんできた。観光客が 消えたホノルルで改めて思い出させられたのはサ トウキビ農園での重労働に耐え、いくらかの富を 蓄え、ハワイに子孫を残していった明治時代から 移民してきた日本人たちのことである。写真2で はワイキキの海に早朝の雨の後に出た虹と満月を 見ることができる。ホノルルではほぼ1カ月で満 ち欠けする月を毎朝のように海で見ることができ た。明治元年にやってきた「元年もの」の日本人 は100名ほどだったという。その人々もきっとこ ういった空を日々見上げていたことであろう。

 帰りの飛行機はほぼ満席であった。何カ月も待 ち、2週間の自主隔離をしても日本に戻りたいと いう多くの人であふれた便で羽田にやっと着いた ときは安堵の気持ちがこみあげてきた。また同時 に 6000km 以上離れたホノルルの街を思い出し、

今度行けるのはいつの日になるだろうかとさみし い気持ちにもなった。写真4では、左下にハワイ 大学マノア校、中央にダイヤモンド・ヘッド、右

写真3 Aaron Hanai 氏ご夫婦の家系図(Aaron Hanai 氏提供)

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上にワイキキの街を見ることができる。こんなに 高いビルが立ち並ぶホノルルになるとは明治時代 にやってきた日本人は想像できただろうか。今か ら振り返ると、多くの人々の存在が今の私たちを 支えていることに気が付き、自らが歴史の1ペー ジを刻んでいくことの意義を改めて考えさせられ たそんな1年だったと思う。改めて今回の在外研 究を可能にしてくれた様々な方々に感謝の意を表 し、筆をおくこととする。

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─ ◆ 2020年度共同研究グループ 経過報告  ◆ ─

音声研究と音声教育

小松 雅彦 / 相原 昌彦

 本研究グループでは、幅広く音声とその教育に ついての研究を行っている。本年度は、コロナ禍 のため研究を継続することが難しい状況にあった が、学生と共同で、3 つのトピックについて研究 を開始している。

 声の大小が聞き手に与える印象が言語によって 変わるのかどうか、商品名などに使われる言語音 の印象の性別・世代別の差、動物の鳴き声とそれ を表す擬声語との関係を調べている。

 これらは、いずれも、音の持つ印象についての 研究である。ソシュール以来の言語学では言語音 と意味との関係は恣意的であるとされるが、実際 には音象徴のようなものがある。音声学や言語学 で着目されることの少ない音象徴やその他の印象 についての研究を進めていきたい。

写真4 Tantarus Lookout から見下ろす     Diamond Head と Waikiki

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『良友』画報の研究とその周辺の話

―『近代電影史研究資料彙編』の解題を兼ねて(2)

孫 安石 / 鈴木 陽一 / 村井 寛志

 前回に続き、馬昕編『近代電影史研究資料彙編』

(40 冊、広稜書舎、神奈川大学人文学研究所蔵、

2018年)の各分冊の内容を紹介していく。

 第二分冊は、 徐公美 『電影芸術論』(商務印書 館、1938年)、徐公美『電影概論』(商務印書館、

1938 年)、『電影芸術』(鄭心南訳、商務印書館、

1930 年)、 芳心訳 『劇場芸術和電影芸術的界線』

(旅大中蘇友好協会、1949年)、中国教育電影協 会『電影事業之出路』(中国教育電影協会、1933 年)、鄭峻生編述『如何抓住電影這武器』(出版年 度不明)の合計6本の論稿を掲載しているが、前 の 4 本が映画芸術論について述べた作品といえ ば、後ろの2本は映画と政治の関係について紹介 している。

 ここでは後ろの論稿2本が紹介している映画と 政治、とくに、当時の中華民国の映画界と国民党

が直面していた時代認識がどのようなものであっ たのかについて注目しながら内容を簡単に紹介し て行く。

◎中国教育電影協会『電影事業之出路』(中国教 育電影協会、1933 年)は、まず、中国の映画 事業が目指すべき方向を「教育」と「営業」の 2つの部門に分け、とくに教育においては5つ の点が重要であると述べている。すなわち、

(1) 中国は既に貧しさの極点に達しているの で、映画は民衆を導き、貧しさを脱却し、致 富の道に導かなければならない。

(2) 中国は既に弱さの極点に達しているので、

映画は民衆を導き、弱さを脱却し、強くなる 道(集団と個人の強さ)を導かなければなら ない。

(3)中国の人々の知識水準はまだ低いので、映 画は彼らに必要な常識 を教え(本文では「灌漑」

とする)、提供する役割 を担わなければならな い。

(4)中国は道徳が堕落し極 点に達しているので、映 画は個人と集団の道徳 を提唱する役割を担わ なければならない。

(5)中国民族は組織力が欠 乏しているので、映画は これら組織の知識と能 力を高める役割を担わ   なければならない。

図1 『近代電影史研究資料彙編』

   の第二冊目次

図2 鄭峻生編述『如何抓住電影這武器』

   の表紙、第二冊、447 頁

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 もちろんここで指摘された中国映画界の「五大 問題」すべてが妥当な指摘であったのかどうかは 異論があろうが、少なくても当時の中国の映画教 育を統括する全国組織であった「中国教育電影協 会」がこれらの問題を指摘していることは極めて 重要であろう。

 次に中国映画界の「営業」拡大については

(1)有声映画の発展が必要であること、

(2)内地への映画館の拡大が必要であること、

(3)外国の映画会社との合作が必要であること、

(4)中国政府の映画界に対する支援が必要であ ること、

(5)中国の映画産業は中国民族の生存というも のが前提になるものであり、一部の階級闘 争、または投機と営利を目的にした低俗な映 画を普及してはならない、と指摘している。

◎鄭峻生編述『如何抓住電影這武器』(出版年度 不明)は、映画の芸術的価値や文化教育面にお ける役割について述べた後、映画の政治的利用 を重要な役割として紹介し、中国が今後、採用 すべき映画戦略として、合計十二項目の映画政 策を取り上げている。すなわち、

(1)映画の中心的な思想として「民族主義」を その中心に据えること、

(2)映画を国策事業として展開している日本に 学び、上海や南京などに映画制作を専担する 映画会社を作ること、

(3)商業映画の育成に力を入れること、

(4)映画制作を統括する「文化教育影片委員会」

を組織すること、

(5)既存の「電影検査委員会」を刷新し、帝国 主義的な要素を取り入れた映画や低俗な内 容の映画を徹底して取り締まること、

(6)映画が取り上げるジャンルを拡大し、児童 や農村などを取り上げること、

(7)映画の台本や脚本などの専門家が映画の制

作に加わること、

(8)映画経費の一部を国家予算で分担すること、

(9)アメリカ、ソ連などに見習い学校、工場、

農村、軍隊のなかで放映する教育映画の普及 に力をいれること、

(10)国立の映画専門学校を設立すること、

(11)漫画、科学、衛生、スポーツなどを取り 入れた短編映画の制作に力を入れること、

(12)映画関連の雑誌や映画関連の専門書籍の 出版に力を入れること、

 同書は以上、十二項目の映画政策を指摘したあ と、次のような結論を導き出している。映画は、

文化と教育の優れた「伝播者」であるだけではな く、政治を宣伝する良好な「武器」である。中国 も映画という「武器」を活用すべきことに早い段 階に気づいたが、それを徹底するには至っていな い。ここで取り上げた「映画戦略」(本文では「電 影策略」という)を徹底的に実践し、大規模な国 営の映画会社を作り、商業映画会社を合併し、最 終的には全国の映画産業を国営化し、現在のイタ リアのような体制を目指すべきである、と主張する。

 同書は、そもそも「軍事委員会委員長南昌行営 政治訓練処」の映画叢書の一冊として刊行された 書物であるから「国策」としての映画産業を立ち 上げ、「武器」として映画産業を利用することに いささかのためらいもない。ここで見える「南昌 行営」とは、1930 年、国民党主席の蒋介石が江 西省の南昌において共産党との戦いを直接指導す るために東湖に位置した江西省立図書館を軍事拠 点として接収し、約5年に渡り、国民党政府の中 心になったことを指し、この期間中に発動された 大衆運動が「新生活運動」であった。このような 背景を考えれば、南昌という軍事拠点で行われた 映画教育の教材が「武器」としての映画の活用を 全面的に主張したことも納得がいく。

(孫 安石 文責)

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言語景観に関する社会言語学的アプローチと今後の課題

尹 亭仁 / 彭 国躍

 本研究グループの今年度の韓国語関連の研究活 動は、数年間集めた調査資料に今年度の調査資料

(京都・福岡・熊本など)を加え、分類・分析を 行なった。1 千枚以上の資料から日本の言語景観 にみる表記上の不一致を含む様々な問題と韓国語 教育への示唆点が得られた。とりわけ、日本語と 韓国語の漢語との対応に注目し、「韓国語の言語 景観と活用の可能性(1)―韓国語の漢語語彙力 の向上の観点から―」というタイトルで論文を執 筆し、『神奈川大学言語研究』43 号に投稿した。

図 1 と図 2 のように、「正の転移」を生かす方法 での取組みである。文法理解の向上については稿

を改めて取り上げるつもりである。

 論文で取り上げた授業での取組みの1つである

「同じ漢字をグルーピングして提示する」を心が け、後期の韓国語の授業で実践を試みている。

 今年度の中国語関連の言語景観の研究は、主に 次の4つのテーマに関するデータの収集に努めて いる。

(1)「19 世紀以前の絵画に描かれた都市言語景 観」

(2)「百年前の中国各地の言語景観の共時的横 断研究」

(3)「20 世紀百年間の上海言語景観の通時的追 跡研究」

(4)「横浜中華街の形成 に関する文献調査、図 像収集」。

 以上の資料調査が一段落 すると、年月をかけて整理、

分析し、順次論文化する。

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日韓両言語の学習者の作文にみられる母語干渉の諸相

高木 南欧子 / 尹 亭仁

 日本語においては、「作文対訳 DB」(国立国語 研究所)から、韓国語母語話者の 「助詞」、 「アス ペクト」の使用について誤用の抽出を行い、整理 を行っている。2020 年度前期においては、相違 がみられる助詞について、韓国語母語話者である 上級日本語学習者に対し、誤用訂正のフィード バックに説明を添える試みを行った。現在、韓国

からは、工学や経済学のなどを専門とし、語学を 専門としない日本語学習者が増加している。学習 過程において、母語との比較を提示し、注意喚起 できるよう、アスペクトも含め、フィードバック 方法を検討していく。

 韓国語の場合は、昨年度に続き、今年度も初級・

中級・上級のクラスから集めた作文および夏休み 図 1 観光案内所(横浜駅) 図 2 無料と利用(羽田空港)

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の 1 か月間の日記(2 クラス)を対象に、母語干 渉が顕著にみられる「助詞」「アスペクト」「連結 語尾」を中心に誤用を集め、整理している。今年 度の前期に「地域言語特講韓国語Ⅰ」で誤用が頻

出する助詞ニ・カラ・デ・カラ・ノの誤用例を取 り上げ、注意を促した。今年度はアスペクトの誤 用例についても、助詞のように来年度の授業で提 示できるようにパターンの整理をしている。

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日本人学習者のためのロシア語学習語彙の研究

堤 正典 / 小林 潔

 ロシア語学習語彙について、学習者は日本語母 語話者を想定して研究を行っている。この研究で 課題としているのは、ふたつの事項である。

 ひとつは、ロシア語学習のための学習語彙とし て何が適切であるかであり、これは学習語彙のリ ストの検討ということになる。学習者のレベルに 応じて、表現能力や文法能力にふさわしい語彙を 教材に盛り込まなければならない。例えば、初修 者向けの学習教材に、中級・上級者向けの文法事 項が関わる語彙を導入することは避けなければな らない。ロシア語のように、文法事項に学習内容 が多い言語においては、このような点は特に留意 すべきである。表現についても同様である。初修 者はより一般的で有用な表現から身に付けるべき であるから、それに用いられる語彙が学習される ことになるように、それぞれの学習レベルにふさ わしい学習語彙が存在する。ロシア語学習語彙リ ストにはТРКИ(外国語としてのロシア語検定試 験)向けがあるが、ТРКИは留学生としてロシ アに暮らして学ぶ学習者を想定しているものであ るから、日本でロシア語を学ぶ日本人学習者に とって必ずしも最優先ではない語彙も含まれる。

日本人学習者がロシア語を使用する状況にも様々 あり、そのようなことも考慮する必要がある。ま た、そもそも基礎語彙の使用可能性の検証も必要 である。

 もうひとつの課題は多義語分析である。語の多 くは多義語であり、個々の語がどのような多義性 を有しているかは解明されているとは言い難い。

多義性は中心的な語義と派生的・展開的語義が ネットワークを形成していると考えられる。その 際に、メタファーやメトニミーによる展開がある ことが分かっている。中心義では日本語とロシア 語とで一致するとしても、展開義では一致すると は限らない。メタファーやメトニミーの展開は必 ずしも一様ではない。したがって、ロシア語の学 習語彙の個々がどのような多義ネットワークを形 成しているか提示できれば、学習者にとっても、

教師にとっても、その情報は有益である。

 今年度の状況において、研究者各自の分析は 徐々にではあるが進めている。ただし、問題も小 さくはない。この研究ではぜひともロシア語ネイ ティブの研究者の協力が必要である。語彙の意味 やその使用の詳細については、ネイティブ研究者 の意見が大いに参考になる。しかし、現在の情勢 はロシアにいるネイティブ研究者の協力を得るこ とを極めて難しくしている。それを克服する方策 を検討しながら研究を進めている。

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ESSAY

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歴史の証言としての言語景観

― 恐怖時代の残像 ―

彭 国躍

 六十三年前の上海の街角を映した一枚の古い写 真映像を入手した。その写真の画面右側には、醤 油、酒、塩、味噌などを販売する小売店が映って いる。その店頭の壁には「萬豊官醤」という縦書 きの広告文字が大きく書かれている。「萬豊」は 固有名で、「官醤」は政府公認の「醤油店」(酒屋)

という意味である。建築様式と店舗形態から、お そらく清末頃に創業した老舗ではないかと推測さ れる。

 この写真には一つの謎がある。風雨にさらされ た広告の文字はかなり風化しているが、よく見る と、四文字の中で上層の「官」だけが際立って色 あせていることが分かる。下段の「豊」と「醤」

の色が通行人などとの接触ですり減ったのは理解 できるが、目測三メートルぐらいの高さにあるこ の文字だけがひどく退色しているのは、一体なぜ なのだろう。

 写真が撮影されたのは 1957 年、つまり社会主 義革命後社会制度が変わって7年目の頃であっ た。1950 年に入ってから、たび重なる粛清運動 が繰り広げられていた。矛先は旧政権の協力者と 新政権の反対者であった。その中には、かつての 土地所有者、会社経営者、役人、知識人などが多

く含まれていた。一旦何らかの理由で「地主」「資 本家」「反革命」というレッテルを張られ巻き込 まれたら、処刑されたり、刑務所に入れられたり、

家や財産を没収されたりしていたことは多くの被 害者家族の記憶に刻まれ、歴史文献に記録されて いる。

 「官」は、もともと官僚、役所の意味で、「官~」

の組み合わせでは「政府公認の~」という意味で 造語を作ることができる。1949 年以前には、信 用が高いというプラスのニュアンスを持っていた ため、習慣上「官醤」は老舗の酒屋の名称として よく使われていた。しかし、時代が変わると、価 値観が逆転し、「官」は社会主義中国ではマイナ スの意味に変わり、罪深い旧政府を意味するよう になり、かつてのキャッチコピーも仇となり、旧 政権の協力者というニュアンスを帯びるように なってしまった。

 この写真に映った「官」という文字だけがひど く退色していた謎について、外に合理的な解釈が もしあれば、それをぜひ知りたいが、私は、この 写真を見るたびに、文化大革命(1966 ~ 76 年)

中の周りの大人たちの慄く姿を思い出す。「大革 命」以前の十五年間にはたくさんの「小革命」が 続いていた。1957年はちょうどその中の一つ「反 右派」運動が始まる年であった。その頃のある日、

酒屋の店主が人目につかない真夜中に、梯子に 登って必死に「官」をかき消そうとしていた姿が 脳裏に浮かぶ。写真の映像はその行為が残した痕 跡だと解釈すると、謎がすんなり解けてくる。

 このお店のその後の運命はいまの私には知るよ しもない。しかし、不安と恐怖に怯えながら必死 にこの一字を消そうとする店主の切羽詰まった思 いは、この写真の奥から半世紀後の今の私たちに 訴え続けているような気がしてならない。

名取洋之助撮影、『江南』岩波書店 1957 年 58 頁

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***** 2020年度 講演会報告 *****

1 冊の本ができるまで

講師 :

小沢 一郎 氏

(フリーランサー・武蔵野美術大学非常勤講師)

 昨年の 11 月 25 日(水)に、講談社元出版部長 の小沢一郎先生をお招きして「1 冊の本ができる まで」と題した Zoom 講演会を開催しました。小 沢先生は 40 年近く、日本で最も大きい出版社の 講談社で、数多くのベストセラーを担当した経験 の持ち主で、現在武蔵美術大学で編集関係を教え ており、本の編集に関してはその名が知られてい る方です。

 講演会では30枚以上のスライドを用いて、1冊 の本ができるまでの工程を丁寧にまた丹念に取り 上げてくださいました。流れに合わせて長年関 わったベストセラー作家の映像や秘蔵の手書きの 原稿まで紹介してくださり、2 時間にわたる講演 会でしたが、画面から目が離せないほど興味深い 内容でした。本好きの人にはたまらない、また今

まで本をあまり読んでいなかった人にはつい本屋 に行ってみたくなるような刺激を与えてくれたと 思います。

 講演会の冒頭に「本作りについてのお話をする 前提として」と題したスライドでは現在出版産業 が置かれている厳しい現状にも触れられ、50 年 以上にわたる出版市場の変遷と変化を知る貴重な 時間になりました。1997 年が売り上げのピーク の年で、1997 年に 2 万 2200 店もあった書店が 2019 年には約半減の 1 万 1400 店になった苦しい 状況にも触れておられました。「ひとり出版社と いう選択肢」というスライドでは新たな出版の可 能性と多様性について示唆を得ました。

 図で紹介する「本づくりにかかわる人たち」か らわかるように、1 冊の本ができ、私たちの手元

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に届くまで多くの人による協業が必要であること を思い知らされました。

 10 人近くの教員に加え、学生たちも参加した 中で、本という紙媒体が持つ良さと時代の変遷と 今後の課題についての質問がありました。活発な 意見交換がなされ、小沢先生は時間を延長してご 自分の経験を交えながら丁寧に応対してください ました。日本の国民的コミックである『ドラえも ん』を100年先の未来まで読み継がれる永久保存 版にするための様々な工夫の話のところでは感動

を覚えた人も少なくなかったでしょう。ベストセ ラー作家との関係や表紙の決め方、売れ筋の本に まつわるエピソードなど、普段聞くことのできな い話も聞けて、本に対する印象や選び方に新たな 視点を与えてくれた時間でした。夏目漱石の作品 を含め多くの本の表紙や装丁の話を聞いた参加学 生から「書物への関心を増してくれた機会でした」

とのコメントが寄せられたので、次の企画を考え たくなりました。

(文責:尹亭仁)

***** OPEN CAMPUS *****

音声学って何? —オープンキャンパスにおける音声学・英語学の紹介—

小松 雅彦

 「音声学をやっています」と言うと、世間一般 では「温泉学?全国温泉巡りですか、いいですね」

(「音声」→「温泉」)とか、せいぜい「歌がお上 手なんですね」(「音声学」→「声楽」)とかの反 応が返ってきます(これは実話です)。私自身、

大学に入学するまでこんな分野の存在は知りませ んでした。そこで、私のゼミでは2017年からオー プンキャンパスで音声学を紹介する出展をし、大 学での学びの一端を紹介しています。

 初年度の2017年は、過去の卒業論文のポスター 展示の他、実演・体験コーナー、名札コーナー、

解説コーナーを設け、音声学の紹介をしました。

2017年の企画に際して、荒井隆行氏(上智大学)、

田中ゆかり氏(日本大学)、ソヌミ氏(当時、日 本大学)、林直樹氏(日本大学)にご協力いただ いたことを感謝いたします。

 展示した卒論の内容は、デーブ・スペクターの 日本語の訛り、促音、日本人と中国人の英語の比 較、モノマネ中国語、日本語の滑舌、だみ声、日

本語の方言、日本語訛りの英語と多岐に渡ります。

その他にも、音に反応して模様が変わるクラドニ 図形、ポンプを押すと母音の音が出る模型(上智 大学から借用)、ペットボトルとアクリル管製の 簡易模型を展示・実演し、来場者にも体験しても らいました。また、希望者には、その場で自分の 名前を録音してもらって、声紋入りの名札やシー ルをプレゼントしました。パワーポイントを使って 音声の仕組みの

解説もしました。

 2018 年には、

実演・体験の内 容 が 増 え、 ボ コーダー (楽器 にしゃべらせる 装置)のシミュ レ ー タ ー の 実 演・体験、音響 分析をしての発

音に反応して模様が変わるクラ ドニ図形。調理用ボウルにポリ 袋を張り、塩を振っています。

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音チェック、アメリカ 英語・イギリス英語の クイズ、この年にネッ ト で 話 題 に な っ た Yanny or Laurel(同じ 音が聞く人によって Yanny と 聞 こ え た り Laurelと聞こえたりす る)の説明・体験のコー ナーが加わりました。

 年々、企画の数が増 え て き て、2019 年 に は盛りだくさんになっ てしまいました。卒論 展示に、動物の鳴き声 の擬声語についての研 究が加わった他、聴覚 系、 研 究 & ちょっと研究 系、 お 勉 強、

プレゼント、

そ れ ぞ れ の コーナーで展 示・実演・体 験が行われま した。

 3 年間を通して、多くの方に来場していただき ました。高校生は難しい年頃なのか、同伴のご父 母や小学生の方が本人よりも興味を示して下さっ た印象があります。また、受験予定者の中でも、外 国語学部志望でない方の中に強い興味を示して下 さった方がいらっしゃいました。オープンキャンパ スで多くのイベントがある中で、短時間で効率的 に音声学を紹介していくことが今後の課題です。

 2020年は、サイバーオープンキャンパスとなっ たため、英語学を紹介するパンフレットを pdf で 作成しました。音声学のゼミではなく、英語学分 野のプレゼミで学生の関心に任せて執筆しても らったため、内容は音声学 4 編、形態論 2 編とア ンバランスになってしまいましたが、それぞれ非 常に分かりやすい文章になっています。もともと オープンキャンパ スで持ち帰っても らう予定でしたの で、A5 判 見 開 き で 1 つの記事が読 めるようにレイア ウ ト さ れ て い ま す。今後、記事を 増やしていきたい と思います。

希望者には、その場で自分の名前を 録音してもらって、声紋入りの名札 やシールをプレゼントしました。

オープンキャンパスの様子(2018 年)

shoe/ʃuː/ の先頭を切ってピンクの部分だけ聞い たらどう聞こえる? 答えは、chew/t uː/ です。

ペットボトルとアクリル管 で作った「ア」「イ」「ウ」「エ」

「オ」に似た音が出せる声 道 模 型。2019 年、 小 林 龍 ノ介氏(当時本学学生)が 改良して 5 母音が出せるよ うにしました。5 母音が出 せるのは、たぶん日本初で す!(現在故障中)

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【 新人所員紹介 】 外国語学部英語英文学科 准教授

中村 ジェニス

 出身国はマレーシアです。多言語的・多文化的 な環境で育てられた私は、日本で子どもをバイリ ンガルに育てたい事がきっかけでバイリンガリズ ムの研究を始めました。最初は、心理言語学の視 点から子どもの早期二言語発達を研究したのです が、その後、社会言語学の視点から民族学的調査 も行いました。 研究対象者は日本における国際 結婚の家庭ですが、英語圏の親とフィリピンやタ イなどアジア圏の親を両方調査しました。14 年 間に亘った研究活動から分かったのは、日本では、

前者の子どものバイリンガリズムは比較的に育て やすく、一方で後者のバイリンガリズムは、マイ ノリティ言語のステータスの問題をはじめ、様々 な困難を乗り越えなければなりません。今後もま

すます多文化共生の社会になっていく日本で、国 際結婚間もしくは外国人の子どものマイノリティ 言語の保持は、私の関心のある課題です。

 現在進行中の研究プロジェクトもマイノリティ 言語の保持と関連します。日・英バイリンガルの 子どもが通うウィークエンド・スクールを調査し ています。ウィークエンド・スクールは、海外の 日本人の子どものための補習校に類似し、普段公 立の小学校に籍を置くバイリンガルの子どもたち が通う土曜日の英語学校です。ウィークエンド・

スクールで英語のライティング検査を定期的に行 い、子どもたちのバイリテラシー発達を測ってい ます。週1回 60 分のウィークエンド・スクール の授業は、子どもたちの英語の読み書き学習を高 いレベルに促進しているので、その授業方法と家 庭内の学習支援について研究を進めていきたいと 考えています。

2019 年のオープンキャンパス資料 英語学を紹介するパンフレット

(2020 年)

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外国語学部英語英文学科 助教

Esther Lovely ラブリー エスター

 専門は応用文化言語学です。コミュニケーショ ンとカルチュラル・アイデンティティーの順応性 に関心を持っています。

 大学院時代はオーストラリアで育った若い韓国 人が研究対象であり、彼らのコミュニケーション とアイデンティティーの変化について研究を行い ました。韓国では、1990年から、母親と子供をオー ストリアなどの英語圏の国に送ることが盛んに行 われていました。この親子での移住の主たる目的 は、英語習得ではありましたが、特に子供は、移っ た先で文化的な影響を多く受けました。

 研究のために参加者を集め、インタビュー通し てオーストラリアに来た時から現在までの経験 と、毎日の人との交流とマスメディアとの関わり について話を聞きました。参加者の心に潜む話を 引き出していくことができました。インタビュー の書き起こしを読みながら大きな変化やパターン を探し、パターンや変化の原因と結果を特定しま した。参加者のコミュニケーションとアイデンティ ティーの変化にフォーカスしながら、書き起こし をケースストーリーとして書き出しました。

 個人のアイデンティティーは周りの人やマスメ ディアから影響を受けます。その影響は様々なコ ミュニケーションの形や方法を通して感じ取るこ とができます。しかし具体的にコミュニケーショ ンの影響がどのようにして進んでいくのかには不 明点があります。留学生など、国を移動する人々 は、特にソーシャルメディアやスマホのアプリを 通していつでもどこでも誰かと連絡をとることが できます。さらに、マスメディアを通して様々な 情報を得ることができるので、これらの影響をよ り深く調査することが求められると思います。

 今までの研究は、韓国人の移民者だけをター ゲットにしたものと思われるかもしれませんが、

韓国人はケーススタディーであり、私はアイデン ティティーとコミュニケーション、特にインター ネットのコミュニケーションに興味を持っていま す。そのため、今の研究では日本以外の国で生活 したことがある日本人の経験とアイデンティ ティーについて調べたいと考えています。

外国語学部英語英文学科 助教

Sonya Chik チックソニア

 専門は選択体系機能言語学(SFL)です。 SFL で は、 言 語 は 意 味 を 構 築 す る た め の 資 源

(resource) として捉えています。言語がどのよ う に 多 様 な 状 況 の コ ン テ ク ス ト(context of situation)を具現するか 、そして、「資源として の言語」 (language as resource)がどのように社 会的意味を作り出すのかについて研究をしていま す。その中、異なる言語のテクストが特定の 状 況のコンテクストに応じて社会的意味を作り出す ために、言語体系を構成する 資源を選択する際 の文法構造の相違点に関心を持ってきました。

 大学院では、英語、日本語、中国語が法律文書 や新聞記事における文の構成と結束性について SFL のメタ機能で分析し、研究をし始めました。

その後、対人関係的メタ機能に基づいて、ムード やモダリティと発話機能との関係性を探っていま す。そこで、英語と日本語の対人関係的意味を具 現する語彙文法の違いが分かり、その相違点は英 語と日本語の言語特徴による基本的な違いである ものの、コンテクストによる言語使用域を規定す る変数(register variation)も重要な要因である ことを明らかにしました。

 近年、テクストの構成や修辞構造(rhetorical structure)に興味を持ち、英語、日本語、中国語 のオンラインレビューを対照的な観点から探求し 始めました。オンラインレビューは個人意見や評 価を示すジャンルなのですが、修辞構造や語彙文 法の選択により、各言語の独自の社会文化につな がることが分かりました。今後、多様な状況のコ ンテクストにおけるテクストを機能的に研究する ことにより、言語の特性や言語と文化の関係をよ り深く理解していきたいと思います。

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外国語学部スペイン語学科 特任准教授

落合 佐枝

 専門はスペイン語学、スペイン語教育で、近年 は文法教材の執筆が中心になっています。一旦は 専業主婦となってスペイン語と離れていた私がま た大学に戻ってこられたのは、語学と教育の毎月 の研究会に細々ながら参加し続けてきたことが大 きいように思います。特にスペイン語教育の研究 会は半数以上の会員がスペイン語を母国語とする 教員で、使用言語もスペイン語であったため、留 学をしそびれた私にとっては、研究される内容以 上に、ことばの使い方、行動パタンや人間関係の 作り方などが興味深く、地球人を観察する宇宙人 のようにアンテナを張っていました。

 会員有志で教材を作ることになって一緒に働い てみると、さらに観察すべきことは多くなり、教 科書を頼りに国内で覚えたスペイン語は隙間や勝 手な思い込みがあって誤解を産むこともしばしば でした。その後「スペイン語語用論」を紹介する というお仕事をいただいて勉強してみると、こと ばの「構造」ではなく「使用」を研究するという この分野から、当時の失敗のいくつかが分析でき るようになりました。

 初心者用の文法教材の多くは文法学習の効率性 から構造中心に作られています。日本語とスペイ ン語は構造的に全く違うので、これは正しい方針 ではあるのですが、構造中心ゆえに抜け落ちてし まう重要な点もあります。ことばはメッセージで あり、あるメッセージが適切であるためには状況 に適した形式が必要であるにもかかわらず、そこ が軽視されがちなのです。

 こうして教科書の例文に息を吹き込みながら文 法の授業を続けていますが、授業中の楽しみは疑 問を抱いた学生からの質問です。質問してくれる 学生が少ないのが悩みの種です。

外国語学部中国語学科 特任助教

樊 可人

 専門は明清時代の俗文学です。日本が中国の文 学を取り入れながら独自の文学や文化を築き上げ ていったことに対して強い関心があったため、大 学院で遠山荷塘という江戸時代後期の人物に焦点 を当て、日本人が中国文学をどのように受容した かという問題に取り組みました。その中でも中心 となるのは、中国古典劇を代表する名作『西廂記』

が、近世日本においてどのように受け入れられた のかという問題です。

 現在は明清時代の謎語における俗文学作品の受 容に関する研究を行っています。中国の明清時代 では、戯曲や小説の創作が盛んに行われるように なるとともに、灯謎や酒令のような遊びにも戯曲 や小説と関わりのある内容が大量に取り込まれま した。これまでに 『西廂記』 と志怪小説の名作 『聊 斎志異』を研究対象とし、民間で広く遊ばれた謎 語の中からこれらの二つの作品と関わりのある内 容を集めて分析することによって、同作品の受容 の一端を提示しました。

 今後の研究計画として、戯曲や小説の批評に関 する研究を展開したいと考えています。戯曲や小 説の批評に関する研究は未だ緖に就いたばかり で、研究の余地が大いに残されています。私はこ れまでに『西廂記』の受容問題について考察して きたため、新しい研究課題として、「李卓吾先生」

が批評を付けた『西廂記』をはじめとする一連の 戯曲作品に見られる批評について考察を加えたい と考えています。

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国際日本学部国際文化交流学科 助教

角山 朋子

 専門はオーストリア・中欧の近代デザイン史で す。 デザインされたモノやデザインという行為 が、時代の芸術、政治、経済、技術などの影響を 受けて変化していく様相を歴史的観点から研究し ています。大学院では、ウィーンの工芸品会社

「ウィーン工房」(1903-32)を研究対象としまし た。

 学部生の頃、産業革命後の社会の美的価値観の 混乱を批判し生活の質を根底から見直した英国 アーツ・アンド・クラフツ運動を知ったことが、

デザイン史に進んだきっかけです。2000 年代初 頭、世界が 9.11 同時多発テロ事件に衝撃を受け、

日本では『ソトコト』、『天然生活』といったライ フスタイル雑誌が発行され始めた時期でした。

大学院時代は、 二度目のウィーン留学、ポーラン ドでの在外研究を通じ、旧ハプスブルク君主国領 を中心とする中欧地域の近代芸術・デザイン運動 に関する研究を深めました。同じドイツ語圏のド イツと比較し、オーストリア・デザイン史研究の 蓄積は浅く、基礎的な史料や文献調査に多くの時 間を費やしました。博士課程在籍中、都内の現代 アートギャラリー、神奈川県立近代美術館、独立 行政法人国際交流基金でインターンや嘱託勤務を したことで、様々なアートの「現場」に身を置く こともできました。

 人々がどのように理想の生活世界を形成しよう としたのか、社会構造そのものに関わるデザイン 思想とその実践に最も関心があります。現在は、

ウィーン工房と、「ウィーン・キネティシズム」と いう 1920 年代ウィーンの前衛芸術グループの研 究をしています。転換期のアーティストたちを研 究するにあたり、私自身も多様な知見に触れてい けるよう、 今後どうぞよろしくお願いいたします。

国際日本学部日本文化学科 教授

山田 昌裕

 専門は日本語学(文法)です。特に格(Case)

に関して通時的に研究をしております。現代語で は「私が手紙を読むとき」のように、「ガ」や「ヲ」

を用いることが普通ですが、古代語では「我∅文

∅読むとき」のように、いわゆる格助詞が標示さ れない場合が一般的です。なぜ格助詞を標示しな いシステムから格助詞を標示するシステムに切り 替わったのか、その実態と経緯、またその理由・

社会背景などについては、いまだ解明されていま せん。博士論文のテーマは「格助詞「ガ」の通時 的研究」でしたが、それでも格助詞「ガ」の変遷 の一端を示したにすぎません。引き続き古代語か ら現代語にかけての格標示システムの変遷につい て研究をしていきたいと思っております。

 前任校は小規模な女子大であったため、ゼミ飲 みやゼミ合宿、サークルや部活などを通した学生 との交流は思うようにできませんでした。この度、

共学である神奈川大学でお世話になることになっ たので、学修の場以外でも学生との交流が図れる のではないかと楽しみにしております。

 私の研究対象言語は日本語ではありますが、格

(Case)の標示は言語類型的研究などとも深く 関わっており、他言語との対照研究や、文化と言 語のインターフェースなど、周辺的分野の研究も 視野に入れなくてはなりません。本センターでは、

多方面の研究がされておりますので、これからい ろいろと勉強させていただきたいと考えておりま す。よろしくお願い致します。

参照

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