Ⅰ 2016年 チューリッヒ・ダダ百周年とツァラ再発見の試み
2016年はチューリッヒ・ダダ百周年にあたり、ダダ運動の創始者トリスタ ン・ツァラ(Tristan Tzara, 1896 1963)が各国で久しぶりに注目された年 になった。少しだけ記憶を呼び出しておけば、最初の世界戦争のさなかに、
ヨーロッパ東端のルーマニアからスイスの中立都市に到着したばかりの若 者(当時19歳)が DADA という新造語をでっちあげ、1916年 2 月にドイツ の反戦詩人フーゴ・バルがシュピーゲル・ガッセ 1 番地にオープンしたばか りのキャバレー・ヴォルテール(Cabaret Voltaire)で、アルプ、リヒター、
ヒュルゼンベックらと「何も意味しない」「破壊と否定の大仕事」(ツァラ
「ダダ宣言1918(1)」)としての反芸術運動を開始したのだった。当時チュー リッヒが戦火を逃れた政治家や知識人たちの溜まり場だったために(レーニ ンとジェームズ・ジョイスの亡命先でもあった)、また戦争という明日をも 知れぬ時空への嫌悪感も手伝って、ダダは戦中戦後にかけてパリ、ベルリン、
バルセロナ、ニューヨークから日本まで地球規模で拡散し、史上初ともいえ る芸術のグローバル化の企てとなった(本稿ではダダの歴史に立ち入るわけ ではないので、プレイバック・ダダはここまでにしておく)。
ダダ百周年の年に高まったツァラへの関心のせいで、また筆者自身が1973 年に京都大学に提出した修士論文 La Solitude et la solidarité chez Tristan Tzara(仏文)に遡れば43年前、その後のパリ第 3 大学博士課程時代からだ
ツァラと ART NÈGRE ダダ百年の深層
塚 原 史
と、フランス政府給費留学生としてソルボンヌ・ヌーヴェルの門をくぐった ちょうど40年前から、ツァラを持続的な研究の対象としてきたためだろうか、
2016年前半には、すでに世界中で語りつくされた感があるこのダダイストを 再発見するために、いくつかの文章を発表する機会が重なることになった。
日本のダダ百周年に関心を抱くかもしれない後年の読者のために以下に 題目と発表場面だけ列挙すれば、 3 月の Magical Dada Tour in 20 minutes
(在日本スイス大使館講演、日本語)、 6 月の「中原中也とツァラの「サーカ ス」試論 ダダ百年をめぐって」(「中原中也の会」研究集会講演、東京学芸 大学)、 7 月の「ダダ百年と詩人ツァラの迷宮」(『三田文学』126号)と「ダ ダ百周年とツァラの知られざる深層―ジェネシスからブロマイドへ」(『ユ リイカ』臨時増刊684号)が主要なものだが、他にスイス大使館発行のタブ ロイド判新聞“dada100”に「今なぜダダなのか チューリヒ・ダダ百周 年に寄せて」を執筆、図書新聞 6 月 4 日号に巌谷國士氏との対談「ダダ百 年、アンドレ・ブルトン没後五十年に」、上記『ユリイカ』にやはり巌谷國 士氏との対談「ツァラ vs. ブルトン 危機の時代の生き方」を掲載すること ができた。筆者が館長を務める早稲田大学會津八一記念博物館でも、特集展 示「チューリッヒ・ダダ百周年 トリスタン・ツァラの軌跡と荒川修作」
( 6 月29日~ 8 月 7 日)を開催し、早稲田大学が所蔵するチューリッヒ・ダ ダの機関誌 DADA 全巻とツァラとピカソの詩画集『人間の記憶の限り』(De mémoire d’homme, 初版限定版、ピカソのオリジナルリトグラフ付)、ツァ ラの生地モイネシュティの資料、さらに荒川修作の IS AS IT(1982 83)な どを公開したこともつけ加えておこう。
Ⅱ ツァラと ART NÈGRE(黒人芸術)
というわけで、2016年にはダダイスト・ツァラの生涯を通じた多様な創造 的活動のうちで、これまであまり知られていなかったトピックを取り上げる 機会があった。たとえば、ツァラがチューリッヒ時代に書いてダダの詩の代
表作となった「サーカス」詩篇が当時の実体験にもとづいていたことを裏づ ける事実(「中原中也の会」講演)、最晩年のツァラが没頭したフランス中世 の詩人フランソワ・ヴィヨンの詩句中にアナグラムを探し出すという無謀な 研究の実態(『三田文学』)、さらにはスイスで頭痛薬を常用し「ムッシュー・
アンチピリン」と名乗ったツァラがチューリッヒ到着以前から抗てんかん薬
「ブロマイド」(フランス語でブロミュール)を服用し、一時的「痴呆状態」
を楽しんでいた可能性などである。
本稿では、こうしたややマニアックな探索に加えて、ダダの起源とその本 質に深く関わる「ツァラと ART NÈGRE(黒人芸術)」というオーソドッ クスなテーマについて、今では忘れられている感もあるいくつかの事実に接 近してみたい。
1 トリスタン・ツァラの軌跡と日本人作家との出会い
ダダの歴史には立ち入らないと書いたが、今回の主人公であるツァラの軌 跡を確認しておく必要があるので、ごく手みじかに紹介しておこう(2)。 ツァラは1896年閏年の 4 月16日木曜日にルーマニア北部の小都市モイネ シュティでローゼンストック家の長男として生まれ、ユダヤ系の家系だっ たのでサミュエルと名づけられたから、本名は Samuel Rosenstock である。
文学への関心は首都ブカレストの高校時代に芽生え、1912年には友人のマル セル・ヤンコ、イオン・ヴィネアらと同人誌を出して「サミロ」の筆名で詩 を発表している。サミュエルは第一次大戦が勃発した1914年にブカレスト大 学に入学するが、生涯祖国にとどまってルーマニアを代表する詩人となる ヴィネアとは異なり、1915年秋ヤンコとともに、徴兵を逃れてチューリッヒ に移住する。トリスタン・ツァラと名乗るのは母国を離れる直前のことだっ た。その数か月後、キャバレー・ヴォルテール開店直後の1916年 2 月 8 日に DADA を提案し、ダダ運動の創始者となったことはすでに触れたとおりだ。
一次大戦後はピカビアやブルトンの熱心な誘いを受けて1920年 1 月パリに
到着、ブルトン、アラゴンらとパリ・ダダを始動するが、無意味の祝祭を持 続させようとするツァラと無意識の探求に惹かれるブルトンの対立が激化し、
1923年 3 月にはパリ・ダダが解体してダダの季節は終わりを告げる。その後 のシュルレアリスムの英雄的時代にはブルトンたちの運動から孤立したツァ ラだったが、1930年代はシュルレアリスムと一線を画して「革命的作家芸術 家協会(AEAR)」に参加してフランス共産党に接近、人民戦線とスペイン 内戦から対独レジスタンスへの激動の時代を通過することになる。30年代の 詩論「詩の状況についての詩論」で、あえて「詩を一行も書かなくても詩人 になれる」と書いたのは政治活動への傾斜を正当化するためだったとも言え るだろう。
途中経過は省略するが、二次大戦中は南フランスでレジスタンスの作家組 織「作家全国委員会(CNE)」で活動し、戦後の1947年 4 月ソルボンヌ大学 の講堂で「シュルレアリスムと戦後」(LE SURRÉALISME ET L’APRÈS- GUERRE)と題して講演、アメリカに亡命したブルトンらの二次大戦中の不 在を批判した。晩年は前述のとおりヴィヨンの詩のアナグラム研究に没頭
(専門家は根拠を疑問視(3))、また長年に渡る黒人芸術への貢献が評価されて 死の前年にローデシア(当時)の国際アフリカ文化会議に招待されている。
ツァラがパリで没したのは1963年の12月24日土曜日で、遺体はモンパルナス 墓地に埋葬された。
こうして、67年に渡るこのダダイストの生涯は極東の島国から遠く離れた 場所で展開されたわけだが、ツァラはおそらく一度だけ日本人の文学者と出 会っている。横光利一(1898 1947)である。早大出身の新感覚派の作家が 1936年 2 月から 8 月まで半年ほどヨーロッパ各国を旅したことは周知のとお りで、この時の体験は『旅愁』(「社会学の勉強という名目」でパリに来た
「久慈」を主人公とする創作)、『欧州紀行』などに反映されているが、その 横光がモンマルトルのアヴニュー・ジュノー 15番地(15 Avenue Junot)
に建つアドルフ・ロース設計のツァラ邸を岡本太郎の案内で訪問したのは、
彼自身の記憶によれば1936年 6 月12日夜のことだった。この訪問について、
横光は創作「厨房日記」(1937年『改造』 1 月号掲載(4))で主人公の「梶」
が「妻の芳江」に海外旅行の話をするというかたちで詳細に記述している。
それだけなら比較文学の研究対象にでもなりそうだが、この作品が私たちの テーマと関係があるのは、そこに「黒人芸術」が登場するからである。主要 な箇所を引用しておこう(現代語表記)。
夜の九時過ぎに梶は友人と一緒に門扉のボタンを押して女中に中へ案内さ れた。正面の壁には線描の裸像の額がかかっているきりであるが、アフリ カ土人の埋木の黒い彫刻が実質の素剛さで室内に知的な光りを満たしてい た。〔…〕ツアラア〔ママ〕は少し猫背に見える。背は低いがしっかりし た身体である。声も低く目立たない。しかし、こういう表面絶えず受身形 に見える人物は流れの底を知っている。猫を冠っているという云い方があ るが、この猫は静な礼儀の下で対象の計算を行いつづけている地下の活動 なのであろう。まことに受身こそ積極性を持つ平和な戦闘にちがいない。
〔…〕
〔客人たちは〕それぞれ帰って行くのである。梶も友人と一緒に帰ろうと して握手をしようとすると、「もうしばらくいませんか」とツアラアは二 人に云った。一同の姿が見えなくなるとツアラアは二人をつれて三階の自 分の書斎に導いていった。そこにはテーブルの上と云わず壁と云わず無数 のアフリカ土人の黒黒とした彫刻の面が置いてあった。梶は奇怪な覆面に 取り巻かれた感じで部屋の中を見廻していると、ツアラアは梶と向き合っ て立った。〔…〕(横光利一「厨房日記」)
フィクションの形式を取っているとはいえ、「厨房日記」の主要な部分は ツァラとの会見に関する描写によって占められており、当時四十歳前の日本 作家の貴重なツァラ論となっているのだが、そこにはいくつかの重大な誤解
が見つかる。まず「梶」はチューリッヒ・ダダにふれて「ヨーロッパ大戦」
(第一次大戦)中に「スイスのその街〔チューリッヒの記述はない〕では シュールリアリズムという心理形式の発会式が行われた」と妻に語っていて、
ダダとシュルレアリスムを明らかに混同している。また、ツァラの最初の妻
(グレタ)は「スエーデンのマッチ王クロイゲル」の娘だとも述べて、「巴里 のモンマルトルにあるクロイゲルの娘の家を訪問したことがあった」と書い ているが、グレタはスエーデン人ではあったが、実業家「クロイゲル」(Ivar Kreuger 1880 1932:パリで自殺)とは無関係である(他にも誤解が多い)。
「厨房日記」中のツァラ邸訪問については、そこで「梶」がツァラに「日 本はどういう国ですか」と聞かれて「日本という国について外国の人人に 知っていただきたい第一のことは、日本には地震が何より国家の外敵だとい うことです」と答え、かなり唐突な感じで「日本の左翼は日本独特であると ころの秩序という自然に対する闘争の形となって現れてしまったのです。こ れはどうしたって絶対に負けるのは左翼です。つまり、それは自然に反する からなんです」と続ける場面があることもあり、今でもさまざまな機会に言 及されるが、こうした誤記に無知な場合が多いからあえて訂正しておく。と はいえ、フランス語を解さなかった横光がツァラとツァラ夫人(グレタの名 前は出てこない)の経歴について相当詳細に記述しているのは「梶」の友人、
つまり当時パリ在住の岡本太郎(1911 1996 1929~40パリ滞在)から得た情 報によるものとしか思われないので、太郎自身も誤解していたのかもしれな い。岡本太郎はバタイユやエルンストやブルトンとの交流については何度も 語っているのに、ツァラに関してはほとんど発言していないが、そこには何 らかの事情があったのかもしれない。「太郎とツァラ」は今後の意味深い研 究課題である。
それはさておき、1936年 6 月だから、まさにレオン・ブルムを首班とする 人民戦線内閣成立と重なる時期にパリのツァラ邸を訪れた日本の作家を驚嘆 させたのが「アフリカ土人の埋木の黒い彫刻」や「無数のアフリカ土人の黒
黒とした彫刻の面」(「土人」は明白な差別語だが原文のまま引用)だったこ とは、本稿のテーマとの関連で注目に値する証言である。というのも、後に ふれるようにツァラはアフリカ、オセアニアなどの先住民の彫像や仮面の世 界的なコレクターだったのだが、彼のコレクションが30年代半ばにすでに相 当なものであり、それらの多くが自邸に置かれていたことが読み取れるから である。
2 チューリッヒ・ダダと「黒人芸術」
ここで再び百年前のチューリッヒに戻るが、開店当初からキャバレー・
ヴォルテールを牛耳ったツァラは、ブカレスト大学時代から文化人類学の研 究誌(ドイツの宗教家で文化人類学者のウィルヘルム・シュミットが1906 年に創刊した『アントロポス(Anthropos)』など)を読んでいて、研究者 や宣教師が収集した先住民の詩や歌謡(Poèmes nègres)を知っていたので、
友人ヤンコが制作した粗末な仮面にヒントを得て、太鼓や熱狂的なリズムを 伴う「黒人歌謡」を導入していた。ダダのメンバーで当時アフリカの彫刻の 実物を持っていたのはツァラだけだったという。今のところ唯一の『トリス タン・ツァラ伝』で、著者のビュオはこう記している(5)。
既成の秩序と美学に対するダダの拒否は、若いアーティストたちを、プリ ミティヴ・アート〔アフリカ、オセアニア、南米など近代化されていない 地域の先住民の芸術〕の領域や、彼らが関心を抱いた民衆芸術や素朴な芸 術のほうに導くことになった。キャバレー・ヴォルテールで、ツァラの仲 間のマルセル・ヤンコは、アフリカ文化から着想を得た仮面を制作してい た。〔厚紙など〕粗雑な素材で作られたヤンコの作品は、すでに知られて いたアフリカやオセアニアの仮面をそのままコピーしたものではなかった が〔日本の能面を思わせるものもあった〕、ダダたちは、彼の作品をプリ ミティヴ・アートに内在する霊的パワーを秘めたものとみなした。〔…〕
プリミティヴ・アートは、ヤンコにとって、世界を表象する形態や方法に 関して、因習的ではない、自由で直接的なインスピレーションの源泉のひ とつとなった。ツァラは親友のこの熱中にすっかり共鳴し、〔キャバレー・
ヴォルテールでは〕毎晩、太鼓の響きやジャズの演奏や叫び声やパントマ イムとともに、饗宴が繰り広げられ、アフリカ的なトランス状態が降臨す ることもしばしばだった。
キャバレー・ヴォルテールは1916年 6 月頃には幕を閉じて、その直後の 7 月14日にツァラは第一回「ダダの夕べ」で最初のダダ宣言「ムッシュー・
アンチピリンの宣言」(Manifeste de Monsieur Antipyrine)を朗読するが、
この「宣言」には同時期の演劇作品「アンチピリン氏の第一回天上冒険」
(La première aventure céleste de M. Antipyrine: 7 月28日にヤンコの版 画付きで出版)中の登場人物「トリスタン・ツァラ」(ツァラ本人)の台詞 に別のヴァージョンがあり、「宣言」で「芸術は真面目じゃない。おれたち が、もったいぶって換気扇などという代わりに、犯罪をお見せするとすれば、
それはあんたたち、善良なお客さんを楽しませるためなのだよ」となってい る箇所が「天上冒険」では「人間性を伴わない黒人芸術(l’art nègre sans humanité)という代わりに南を指し示すとすれば…〔以下同文〕」となって いたのである。「南」といえば、ブルトンが1942年の「第三宣言か否かに関 する序論」冒頭で「私の内面にはあまりにも多くの北(trop du nord)が あって、私は何ごとにも完全に同意することのできる人間には決してなれな いのだ」と書いていることが思い出される(6)。(ツァラの「南」とブルトン の「北」〔この場合は空間的方位ではないが〕は、ダダとシュルレアリスム を隔てる本質的な差異を暗示していたのかもしれない。)
つまり、ツァラはダダ演劇の台詞で「宣言」の「換気扇」を「黒人芸術」
に、「犯罪」を「南」に書き換え、さらに「人間性を伴わない」と書き添え ているのだが、「天上冒険」には「ムッシュー・アンチピリン:ソコ ブ
ガイ アフラフ/ズーンバイ スズーンバイ ズーンバイ ズーム、ムッ シュー・クリクリ:人間性は存在しない(il n’y a pas d’humanité)…」と いう箇所もあり、そこでは明らかに「黒人詩」の音訳を思わせる台詞に「ア ンチピリン氏」(ツァラの第二人格)が「人間性は存在しない」と応じてい るので、ツァラは劇の展開から、あるいは「宣言」朗読への聴衆の反応を見 て、上記の書き換えを行ったと考えられる(「宣言」朗読以前に劇の台本が 確定していた場合にはその逆(7))。
いずれにしても、最初のダダ宣言の第 2 ヴァージョンはルーマニアから来 たダダイストの「黒人芸術」への関心を裏づけているが、ツァラと文化人類 学の出会いは、前述のとおりブカレストの大学生時代にさかのぼる。彼は チューリッヒ到着以前から『アントロポス』(ANTHROPOS)などの研究 誌からの引用を集めた POÈMES NÈGRES(「黒人詩集」)を出版する計画 さえ立てていた(原資料が残っていたため、そこに掲載されるはずだった作 品は1970年代にアンリ・ベアール編『トリスタン・ツァラ全集』第 1 巻に収 録されている(8))。
この幻の詩集から、その実例(オセアニアに残る歌謡)を紹介しておこう。
ツァラが「フィジー Fiji」と名づけた詩篇には二つのヴァージョンがあっ た。『アントロポス』第 3 巻 4 号(1908)に掲載されたマルザン神父「フィ ジー諸島の秘密結社について」中の歌謡のフランス語訳①と、やはりマルザ ン神父によるその現地語アルファベット表記②である。
①這う蛇よ はやく降りて来ておくれ/女たちの歌はおまえを招くため にある/南風の大波を送っておくれ/ルクバツセニレバ(精霊)が空をさ まよえるように
②ドロ・ニ・シロ・ヴァレヴァ/テ・ヴァヴィディナ・セレ・ヤレワ/
カイ・タライ・ビアウ・ニ・セヴァ/ヴォド・カケ・コ・ルクバツセレニ バ
未刊に終わった POÈMES NÈGRES で、ツァラは出典を明かさずに①を 引用しているが、その際に現地語を解さない人びとには「無意味な音声」と しか思えない②の存在を知っていたわけで、これらのローカルな言語が「ダ ダは何も意味しない」(「ダダ宣言1918」)とチューリッヒで叫ぶことになる ツァラの秘かな武器庫の一つとなったことは、ほぼ間違いないだろう。した がって、ダダ詩集の代表作である『詩篇25』(1918)冒頭の Le Géant blanc lépreux du paysage に表われる「ンバーゼ バーゼ バーゼ/ンフンダ ンババーバ タタ」という謎めいた音の表記もアフリカ、オセアニア先住民 の現地語またはその模倣と考えられ、「フィジー」の場合のような明確な出 典は見つかっていないとはいえ、詩集中に多出するこの種の表現が「黒人 詩」を重要な参照項としていたことは明らかである。
3 ツァラによる「黒人芸術」の言説化(チューリッヒ時代)
1916年には Art nègre への直接の言及は「天上冒険」以外には見られな いが、1917年と18年、ツァラは「黒人芸術」と「黒人詩」について重要な評 論を書き、ピエール=アルベール・ビロがパリで出していたアヴァンギャル ドの文芸誌『SIC』(Son「音」Idée「思想」Couleur「色」の略)に発表し ている。以下にその一部を引用しておこう。
「黒人芸術(L’ART NÈGRE)に関するノート」(SIC/1917年 7 月):
ぼくの兄弟は、秋になると黒ずむ尖った木の枝に魂をひっかけてしまっ た。もう一人の兄弟は、素朴で、善良で、よく笑う。彼はアフリカで、あ るいはオセアニアの島沿いで、食べている。彼は頭や体についての彼の視 界を、鉄のように固い樹木にがまん強く集中させ、頭と体のその他の部分 との習慣的な関係を気づかおうとはしない。彼の考えでは、人間は垂直に 歩行し、自然界のあらゆる事物は左右対称(シメトリック)なのだ。彼が
仕事をするにつれて、さまざまな新しい関係が必要の程度に応じて整えら れる。こうして、純粋性の表現が生まれた。
黒から、光を汲み出そう。純粋で、輝く、豊かな素朴さ。多様な素材、
形態(フォルム)の釣り合い。均衡の取れた階層秩序(ヒエラルキー)の 中で構成すること。
眼はボタンだ。眼よ、大きく、まん丸く、鋭く開け。ぼくの骨とぼくの 信頼に浸透するように。ぼくの国を、歓喜と苦悩の祈りに変えておくれ。
真綿の眼よ、ぼくの血の中に流れこめ。
芸術は、時代の幼年期には、祈りだった。木と石が真実だった。人間の 中に、ぼくは見る、月、植物、黒い闇、金属、星、魚を。宇宙の諸要素が 左右対称にしのびこむのを。変形して、形態を沸騰させよう。手は強くて、
大きい。口は暗闇の力を、不可視の物質、善意、恐怖、叡智、創造、火を 含んでいる。
ここで「ぼくの兄弟」が二人登場することに注目すれば、最初の「木の枝 に魂をひっかけてしまった」ほうが1916年の「天上冒険」に挿画を寄せた ルーマニア以来の旧友ヤンコであり、「もう一人の」アフリカやオセアニア で「食べている」ほうは「黒人芸術」のアノニマスな作者だという推測も成 り立ちそうだが、それはさておき、「黒から、光を汲み出そう。純粋で、輝 く、豊かな素朴さ。多様な素材、形態(フォルム)の釣り合い」という提案、
あるいは「芸術は、時代の幼年期には、祈りだった。木と石が真実だった」
という発見(再発見)は、当時21歳の若者の直観によるものだったとしても、
芸術の起源と方法についての奥深い知識と洞察に裏づけられている。一年前 の最初のダダ宣言で「DADA は弱々しさというヨーロッパ的な額縁の内側 にとどまっている。そいつは、なんといってもクソッタレなことだ…」と悪 態をつき、「芸術ってやつは真面目なものじゃない…」とうそぶいたツァラ の、一見意外とも思えるもう一つの声が聞こえてくる文章だが、それはダダ
宣言の西欧文明への徹底した批判と諧謔の当然の帰結だったのである。こう した方向性は次の詩論にも引き継がれ、ツァラは詩と詩的表現の起源と本質 をさらに抽象化された言語でこう語っていた。
「黒人詩(LA POÉSIE NÈGRE)に関するノート」(SIC/1918年11月): もろもろの形態や構成の中で、さまざまなイメージを、それらの重さ、
色、素材に従って拡大して、調整すること。あるいは、もろものの価値や 物質的で持続的な密度を、個人的な決定と感受性のゆるぎない確信によっ て、複数の平面ごとに分類すること。静脈のすぐそばに現存する、決定的 な歓喜を求めて、苦痛にそっと触れながら、変形された物質をじゅうぶん に理解すること。四大(エレメント)〔土、水、火、風〕が、生を受け入 れる準備ができた時、そこには有機体が創造される。詩は、まずはじめに、
ダンスと宗教と音楽と労働の務めを果たすために、存在する。
Ⅲ パリのツァラと1930年の「黒人芸術」展
このノートが発表された1918年11月といえば、ドイツの無条件降伏によっ て第一次世界大戦が終結した月であり(11月11日終戦)、その直後の12月に ツァラがチューリッヒから発信したダダ運動の機関誌『ダダ 3 』に彼の「ダ ダ宣言1918」が掲載されると、ダダ運動はチューリッヒからベルリン、パリ、
ニューヨーク、東京へ拡がってグローバル化の時期を迎える。翌1919年 1 月、
「ダダは何も意味しない」と叫び「破壊と否定の大仕事」を提案するこの過 激な宣言を読んだパリのアンドレ・ブルトン(1896 1966)は早速ツァラに 手紙を書いてパリに来るよう熱心に勧めたが、ツァラがチューリッヒを引き 払うにはその一年後を待たなくてはならず、結局このダダイストがパリに到 着して、ブルトン、アラゴン、エリュアール、ピカビアらとパリ・ダダを始 めるのは、上述のとおり1920年 1 月のことだった。
1920年 5 月のフェスティヴァル・ダダから21年 5 月のモーリス・バレス裁
判をへて、22年初めのブルトンによる(西欧アヴァンギャルドの「方針決 定」のための)パリ会議の提案とその挫折へといたるパリ・ダダの展開につ いては、別の場所ですでに述べてあるので(『ダダ・シュルレアリスムの時 代』筑摩書房、『アヴァンギャルドの時代』未來社、『切断する美学』論創 社など)、ここで時代をワープすることになるが、1923年 3 月テアトル・ミ シェルでツァラの戯曲『ガス心臓』上演をブルトンのグループが妨害した事 件によってパリのダダ運動が壊滅し(ツァラが劇場に警察を呼んだことが その後の両者の関係を悪化させた)、翌24年10月ブルトンが『シュルレアリ スム宣言・溶ける魚』(LE MANIFESTE DU SURRÉALISME,POISSON SOLUBLE) を発表してシュルレアリスムが華々しく船出すると、旧パリ・
ダダメンバーの多くは新しい運動に参加することになり、ツァラは数年の間 孤立を余儀なくされてしまう。
そんな失意のツァラがアヴァンギャルド芸術運動の枠を超えて社会的に注 目される事件が起こるのは、1930年初頭のことだ。事件と書いたが、当時 も今もパリ屈指の歓楽街ピガールのどまんなかのピガール劇場(Théâtre de la Pigalle)で、「黒人芸術」の大展覧会(「アフリカ・オセアニア芸術」展 とも表記される)をぶち抜いたのだから「事件」にはちがいなかった。
きっかけは 1 年ほど前にさかのぼる(以下の記述は主として前出の『ト リスタン・ツァラ伝』にもとづく)。1928年12月、プラハ生まれのオースト リアのアーティストで、パリ在住のヴァルター・ボンディ(1880 1940)の
「黒人芸術」のコレクションの競売がありツァラも参加したが、その報道は
『フィガロ』紙の一面を飾ってパリ中の話題となった 「超モダンな芸術 の愛好者がやってきた。ドゥーセ、フェリックス・フェネオン(1861 1944 点描派のスーラらを「ネオ印象派」と呼んだフランスの美術批評家)、アン ドレ・ブルトン、トリスタン・ツァラたちだ」。
この出来事を通じて、ツァラは黒人芸術の蒐集で知られる画商シャルル・
ラトン(1895 1985)と知り合い、友人としての交流が始まってラフィット
通りのラトンのギャラリーの常連となり、ラトンもアヴニュー・ジュノーの ツァラ邸を何度も訪れた。二人はアフリカやオセアニアの先住民の美術品を 何百点も一堂に集めて、大美術展を開催する計画を練った。といっても、人 類学博物館やルーヴルではなくて、もっと大衆受けする前例のない企画を構 想したのだった。
ツァラはブルトンたちのグループから離脱した後も彼を支持してくれたメ セナの貴族、エチエンヌ・ド・ボーモン伯爵の支援をあてにしていた。伯爵 は1924年 5 月にツァラの演劇『雲のハンカチ』がピガールのシガル劇場で 上演された際に援助を惜しまなかったからである(10)。伯爵の後ろ盾もあり、
ツァラはピガール劇場のオーナー、アンリ・ド・ロチルド男爵(ロスチャイ ルド一族)の説得に成功したので、ラトンは、さっそく大コレクターたちと 連絡を取り、ツァラ自身のものも含めて三百点の作品を集める約束を取り付 けた。一九三〇年一月末に準備は完了し、ベニン、カメルーン、アンゴラ、
タンガニーカなどの彫像や仮面がミュージアムではなくて大衆演劇の劇場の ロビーに展示されることになった。展示品提供者は四五人以上で、オープニ ング・パーティにはドラン、ブラック、マルクーシ、マティスらの著名画 家・彫刻家、モラン、フェネオンらの批評家、そしてかつてチューリッヒか らのツァラの手紙に冷淡な返事を書いた画商のポール・ギヨームさえやって 来たという。
映画監督で『ミステリアス・ピカソ 天才の秘密』(1956)の制作者アン リ・ジョルジュ・クルーゾー(1907 1977)は、美術雑誌『世界の鏡(Le Miroir du monde)』に寄せた写真入りの長文の記事でこう書いていた。
昔は民族学者だけが、その美的価値には気づかずに、当時は近づき難 かった国々の様子を想起させる旅の戦利品を調査していた。その後、今度 は、ドラン、マティス、ピカソ、ヴラマンクらの画家たちが、われわれと は異なる人種による、異なる傾向の造形的表現に関心を抱いた。彼らはそ
こに単純化と決断力を秘めた置き換えの教えを求めた。われわれはいまや、
〔「黒人芸術」の〕理解の第三の時代に入ろうとしている。神秘のヴェール から解放されると、これらの美しいオブジェはじゅうぶんにわれわれの賞 賛に値するものと思える。いや、それ以上だ。
こうして、劇場を会場にするという奇抜なアイディアのアフリカ・オセア ニア先住民の作品の美術展はパリ中の話題となったが、開幕後間もなく、裸 体を形象した彫像が「猥褻」だとして一部の来場者から抗議を受けたため、
騒ぎが大きくなることを恐れたロチルド男爵はいくつかの彫像を撤去せざる を得なくなった。しかし、この種の騒ぎに慣れていたツァラは中傷に屈する ことなく、マスコミにコミュニケを配布してこう反論した。
ロチルド氏が魅力的な彫像に対して強硬措置を取ったことに、私は驚い ています。芸術に淫らさはありえませんが、もし仮にそんなものが存在す るとしても、黒人芸術の彫像は、非常に様式化されており、ギリシア彫刻 よりはるかに純潔だとみなされるでしょう。これまで、美術館や公園から 彫刻を追放することなど、誰も思いつきさえしなかったのです。
同時に、彼は裁判所に暫定審理(レフェレ)を求め、結局再展示が認めら れて事態は沈静化した。「このスキャンダルのせいで、会場にはますます多 くの観客が集まった。ピガール劇場には人の波が押し寄せ、ツァラはパリの 表舞台に復帰することができて気を良くしていた」とビュオは『ツァラ伝』
で書いている。まさにダダイスト、ツァラの面目躍如ではあった。
もっとも、「黒人芸術」への関心の高まりはツァラたちが独占していた わけではなく、すでに1926年 3 月にはパリのジャック・カロ通りのギャラ リー・シュルレアリストで「マン・レイの絵画と島のオブジェ」(Tableaux de Man Ray et objets des îles)が開催され、そのカタログの表紙には白人
モデルのキキとアフリカの漆黒の仮面が並んだマン・レイの写真「黒と白」
(Noire et Blanche)が掲載されたことは、よく知られているとおりだ。
また、ピガール劇場展の翌年の1931年にはヴァンセンヌの森で「国際植民 地博覧会」(Exposition coloniale internationale)が 5 月から11月まで半年 にわたって開催されている。広大な会場にはブラック・アフリカからインド シナ(東南アジア)やアメリカ大陸まで、フランスはじめ各国の植民地の巨 大なパヴィリオンが立ち並び、動物園(現在のヴァンセンヌ動物園の前身)
や熱帯植物園まで設置されて、800万人を超える入場者があったという。植 民地博オープン前夜、パリ警視庁が妨害の危険を口実にインドシナ出身の学 生を不当逮捕するという事件が起こり、ブルトン、エリュアールらシュルレ アリストが連名で警視総監シアップに抗議し「植民地博をボイコットしよ う」(Ne visitez pas l’exposition coloniale)と題する声明を発表したのは周 知のとおりだ。そこには二人の他、アラゴン、ペレ、クルヴェル、シャール、
タンギー、サドゥール、ティリオンらが署名したが、ツァラの名はなかっ た(11)。
Ⅳ 『エジプトと向いあって』から晩年のアフリカ訪問、
没後のオークションへ
ここでまたしても時間を飛び越えるが、1930年代後半のスペイン市民戦 争から第二次大戦開戦そして戦中、戦後の時代には、ツァラは反ファシズ ム、反ナチズムの闘争にフランス共産党の側から参加することになる(入 党は1947年)。この間に書かれたテクストには「黒人芸術」への言及はほと んど見当たらず、彼が再びアフリカについて詳しく語るのは、1954年の写 真家エチエンヌ・スヴェドとの共著(スヴェドの100枚を超える写真のすべ てにツァラが長文のエッセーを付した書物)『エジプトと向い合って』(L’
ÉGYPTE FACE À FACE)のあたりからである(12)。このダダイストは冒頭 で「太陽よ、人間の最初のたとたどしい語りがおまえを名づけるために言葉
の束となって編まれた。…すべての道はおまえ、太陽につうじている」と書 き、古代エジプトの壁画と現代の遊牧民の写真を並べたページでは、現地の 民謡「サキエ(水車)の歌」(CHANSON DE LA SAKIEH)を紹介してい る「おお、サキエ! 右に回れ 左に回れ 葡萄畑に桃や柘榴の木々に水を 注げ ヤ ルーエイ! ヤ ルーア! ヤ ルーア!」 ここで採録さ れている現地語の響きは「黒人詩」とは異質ではあるが、人類の起源の言語 へのチューリッヒ・ダダの共感につながっていると言えるだろう。
1930年代に横光利一を感嘆させた黒人芸術のコレクションで飾られたツァ ラ邸はツァラ夫妻の離婚(1942年)後別人の手に渡り、その後ツァラはリー ル通りのアパートに転居する。戦時中は南フランスで対独レジスタンスの活 動に参加したので、戦時中から戦後にかけての彼のコレクションの所在の詳 細は明らかではないが、ツァラが最晩年までこの分野の世界的なコレクター として著名だったことは確実であり、1962年にはローデシア(現在ジンバブ エとザンビア)のソールズベリー(現在ハラレ)で開催されたアフリカ文化 国際会議にフランス代表として招待されている(ビュオ『ツァラ伝』によれ ば、ツァラの他ミシェル・レリスとジョルジュ・サルが参加)。
文化会議はフェスティヴァルの賑わいを伴い、講演会や展覧会や音楽祭が 開催されて、コンサートのプログラムには、アフリカの伝統音楽やブラジル のサンバのグループだけでなく、フランスの有名なジャズバンド、ホット・
クラブ(Quintette du Hot Club de France)の名があったとビュオは記し ている。ツァラはほとんどすべての討論に参加し、現地の美術館や美術学 校を見てまわった。帰国後フランス共産党系の文化紙『レットル・フラン セーズ』にシャルル・ドブザンスキーを聞き手とするインタビューを寄稿 し、(現地の人びとの部族的生活の強靭な持続力が)「西欧の影響を押し流す 排水口のような働きをしていて、部族的生活が当地の国々の現実政治と独立 への意志を、想像力豊かなやり方で表現している」、「黒人たちの文化の豊か さ、彼らの音楽や活気ある生活が、アパルトヘイトの支持者たち、あの南ア
フリカ〔共和国〕のナチ〔人種差別主義者〕の寡黙さと極端な対照をなして いる」と強調したのだった(13)。
アフリカ文化会議の翌年1963年12月24日ツァラはパリ 7 区リール通りの自 宅で死去するが、すでに繰り返し述べたように、ツァラはプリミティヴ・
アートの大コレクターだったので後には彫像や仮面だけでなく装身具や刀剣 類を含む膨大なコレクションが残された。その一部は、すでに1930年の「黒 人芸術(アフリカ、オセアニア芸術)展」(前述)に33点が展示されていた が、没後25年目の1988年11月にパリで開催されたツァラ・コレクションの オークションには、それらを含めて多数の遺品が出された。33点のうちの グーロー(Guro)族(コートジボワール)とクベレ(Kwélé)族(コンゴ)
の仮面は、グーローが190万フラン(当時のレートで約4200万円)、クベレが 200万フラン(約4400万円)で先買いされたという。もっと最近では、2015 年にサザビー・パリのオークションで、ブルトンが長年所有していたグー ロー族の彫像(仮面の上に男女のカップルが立つ縦長の彫刻)が137万 5 千 ユーロ(約 1 億 7 千万円)で売買され、このジャンルの記録値となった(14)。
Ⅴ 「黒人芸術」と現代アート ダダ百周年年とブルトン 没後五十年に寄せて
1 モダン・アートから現代アートへ 2016年ボストン美術館の特集展示 チューリッヒ・ダダ以前から没後のオークションまで、トリスタン・ツァ ラと l’Art nègre の結びつきの全容を概観してきたが、ダダ以前にも、ピカ ソの『アヴィニョンの娘たち』(Les demoiselles d’Avignon, 1907)に代表 されるようなキュビスムとプリミティヴ・アートの出会いがあり、その影 響がマティス、ドラン、ブラックら多くのモダン・アートの画家たちに及 んでいることは言うまでもない。けれども彼らの場合、「黒人芸術」は芸術 創造上の新たなインスピレーションの源泉にはなり得ても、1917年にツァ ラが直観的に把握したような宇宙的芸術論へと拡張するものではなかった
「芸術は、時代の幼年期には、祈りだった。木と石が真実だった。人 間の中に、ぼくは見る、月、植物、黒い闇、金属、星、魚を。宇宙の諸要 素が左右対称にしのびこむのを」(「黒人芸術に関するノート」、前出)。あ るいは、ブルトンが1928年の『シュルレアリスムと絵画』(Le Surréalisme et la Peinture 初版)の冒頭に「眼は野生の状態で存在する」(L’œil existe à l’état sauvage.)と書いたような世界観を背景にしたものではなく、また 1957年の『魔術的芸術』(L’Art magique)中で「魔術師(Magicien)とは 潜在的な芸術家としての全てのプリミティヴな人間のことだ」と述べたよう な、近代社会の合理主義的価値観と分業体制を超える思想につながるもので もなかったといえるだろう。
このことをまず確認したうえで、「黒人芸術」と現代アートとの結びつき について意味深い企画が2016年にボストン美術館(MFA)で開催されたこ とを報告しておきたい(15)。
「身体とは何か?五つの発想」(“WHAT’S A BODY? FIVE IDEAS”)
と題されたこの特集展示は、ギリシアのアーティスト、ヤニス・クーネリ ス(Jannis Kounellis, 1936 )の提案で実現したもので、会場のパネルに 記された「人間の身体とは何か?それは柱だ…柱とはリニアで神秘的な何 かであり、それが人類 humanity の完璧なシンボルなのだ」(What is a body, a human body? It’s a column!...It’s something linear and mystical, a perfect symbol of humanity.)というクーリネスの言葉が示唆するとお り、そこにはアルベルト・ジャコメッティ、ルイーズ・ブルジョワ(作品タ イトル「柱」Pillar)、それにクーネリス自身の彫刻とともに、20世紀コー トジボワールの木の彫像(全身像)と古代ギリシアの石の彫像(ヘレニズム 時代の女神像で頭部欠損、どちらも作者不詳)が立ち並んでいたが、みな文 字どおり柱状の縦長のフォルムを特徴としており、クラシカルな作品の多い ミュージアムの中で異彩を放つ展示となっていた。
3 点を選んでごく手みじかに概観すれば、ジャコメッティの「歩く女
Femme qui marche」(図 1 )はブロンズ製のヌードだが、頭部と両腕が欠 けているために人体としての全体性がなく、わずかに開いた両脚だけが「歩 く」行為を予感させる。クーネリスの「無題 Untitled」(図 3 )は実物を見 ないとまったく想像できない作品だが、一本のスチールパイプの両端に、お そらく作者自身が履きつぶした革靴が挿入されているので、あり得ない歩行 の寓意とも見える。いちばん彫刻らしいのは明らかにコートジボワールの作 品(図 2 )で、両腕を垂れて正面を向いた女性像だが、太い両腕の付け根か ら垂れた大きな乳房は豊饒のシンボルにも見える。貝殻の耳飾りをつけ、頭 頂部にも烏帽子のような飾りがあるから儀式用の彫像なのかもしれない。
クーネリスがこれらを選んだ理由は、彼自身が「黒人芸術」に特に関心を 寄せていたというより、柱状(コラム)の形態を持つ身体(といっても彼の 作品は鉄の管だが、入り口と出口のあるチューブは人体の基本構造ではあ る)を表象した彫刻をボストン美術館のコレクションから見つけたためだと 思われるが、これら三つの「身体」像はギリシアのアーティストの意図を越 えて、いわゆる現代アートの作品と同時代の l’art nègre の作品が、制作の 目的は異なるがどちらも同じ資格で私たちの時代の芸術の構成部分となっ ている、あるいはそうなるべきだというメッセージとも読み取れるのであ る。違うのはコートジボワールの彫像の作者がジャコメッティやクーネリス といった固有名を持たず、「作者不詳」(unidentified artist)とされている 点であり、この種の架空のアノニマス性(現実の作者は名前を持つはずであ る)が「現代黒人アート」を「現代アート」から区別するほとんど最後のバ リアーになっているのかもしれない。
2 ダダ百周年・ブルトン没後五十年に寄せて アポリネールと アニー・ル・ブラン
ここから先は番外編になりそうだが、2016年はダダ百周年に加えてブルト ン没後五十年(命日は1966年 9 月28日)でもあるので、ダダとシュルレアリ
スムの展開のいわば最初と最後(まったく閉じられたわけではないが)に関 わる二人の詩人に一瞬光を当ててみよう。ギヨーム・アポリネール(1880 1918)とアニー・ル・ブラン(1942 )である。
まずアポリネールについては、彼の代表作である詩集『アルコール』
(1913)冒頭の「ゾーン」(ZÔNE)に注目すると、雑誌初出①と単行本初 版②のテクストには Art nègre の「芸術」からの切り離しとも読み取れる 重大な変更が見つかる。つまり、詩人は「ゾーン」末尾の数行を以下のと おり書き換えているのである(引用は Michel Décaudin, LE DOSSIER D’
«ALCOOLS», DROZ, MINARD, 1965による)。
①1912年12月『ソワレ・ド・パリ』(Les Soirées de Paris) 11号初出:
お前は歩いてオートゥイユに向かう
オセアニアやギニアの物神たちの間で眠るために
(Dormir parmi tes fétiches d’Océanie et de Guinée)
労働者たちは地下鉄の駅の方に急ぐ 星が一つずつ消えていき
太陽が現れる それは一つの切断された首だ
(Le soleil est là c’est un cou tranché)
私が出会った貧者たちの何人かがおそらくいつかそうなるように
太陽は私を恐れさせ、パリ中に血をふりまく 私は愛のせいで昼も夜もいつも不幸な男だ 昼も夜も不幸な男たちの間で
②1913年 4 月『アルコール』単行本初版(Mercure de France 版:現行テ クストと同一)
お前は歩いてオートゥイユに向かう
オセアニアやギニアの物神たちの間で眠るために
それらは別の形態の別の信仰の蒙昧な願いを叶える劣ったキリストたちだ
(Ce sont les Christ inférieurs des obscures espérances)
さようなら さようなら
太陽 切られた首(Soliel cou coupé)
現在の読者というより詩集『アルコール』またはその翻訳で「ゾーン」② を読んだ人は、プリミティヴ・アートの彫像が「別の信仰の劣ったキリスト たち」だという、アポリネールのヨーロッパ中心主義的な発想をそこに読み 取っても、それほど驚きはしないだろう。この詩篇の冒頭部分で、詩人は
「ここ〔パリ〕では自動車さえ古臭く見える」と書いたすぐ後で「ヨーロッ パではおまえだけが古風(antique)ではない おおキリスト教よ」と書い ていたのだから。だが、②より数カ月前の雑誌初出版①にはこの一行がな かったことは、アポリネールが単行本出版間際に「劣ったキリストたち」を 挿入した事実を明示している。そればかりか、彼は初出雑誌中の「地下鉄の 駅の方に急ぐ労働者たち」さえも消去しているのだから、この種の書き換え は決してイノセントなものではなくて、詩人の変節とは言わないまでも思想 の変化を示唆しているのだろうか。あるいは後世に残るという書物の性格か ら、自己検閲の働きが機能した結果なのだろうか。すぐに結論を出せる問題 ではないが、あえて注意を促しておきたい。
次に取り上げたいのは、生前のブルトンを知る最後のシュルレアリストの 一人、アニー・ル・ブラン(Annie Le Brun)である。というのも、彼女は 2016年秋ブルトン没後五十年の機会に来日し、東京恵比寿のギャラリー、シ ス書店(代表佐々木聖氏)で講演を行い、その司会兼通訳を筆者が務めた か ら だ(16)。IL ÉTAIT UNE FOIS, IL Y AURA UNE FOIS. Surréalisme et insurrection lyrique(「かつてあったこと、それはこれからも起こるだ ろう シュルレアリスムと抒情による蜂起」)と題されたこの講演で、二十
代で出会ったブルトンの知性と感性を受け継ぐル・ブランは「取戻し」(la reprise)の権利を強調して、「誰もが、社会の断片的なスペクタクル化を通 じて自分の感性をバラバラに分断されることで世界によって奪われた感性を、
この世界から取り戻すべきだと私は考えています。個人によるこの取り戻し は、個人主義とその限定された解決を越えて、すべての人を巻き込み、私た ちを世界と再び結びつける情熱的な一貫性を見出すでしょうが、その時、私 たちは決定的に、世界とは異質な存在になっているのです」と語ったのだっ た(2016年 9 月18日シス書店)。
話は飛躍するようだが、「黒人アート」を現代消費社会の「断片的なスペ クタクル化」の一場面から取り戻し、私たちの芸術と文化に全体性を取り戻 すことが、ダダ百年・ブルトン没後五十年という機会を周年ごとの儀礼で終 わらせないために、いまこそ求められている。この新たな取戻しによって
「黒から、光を汲み出そう」というツァラの一世紀前の言葉が、再び生きて くるのではないだろうか。(2016年11月23日)
図版① 図版② 図版③
①ジャコメッティ「歩く女」(ブロンズ)1933/1955
②作者不詳「女性像」コートジボワール(木と貝殻)20世紀
③ヤニス・クーネリス「無題」(スチールパイプ、両端に革靴)1997
(撮影:塚原 史 Photos by Fumi Tsukahara 2016)
注記
本稿は2016年10月 1 日東京恵比寿シス書店で開催された塚原史講演「ツァラと ART NÈGRE ダダ百年の深層」の内容をヴァージョンアップしたものである。
文中〔 〕内は筆者による補足・注釈。訳文はすべて筆者による。引用文献、著作原 題、注解などは本文中に記したので、以下の後注は筆者自身の著作も含めた主要参照
(引用)文献に限る。
( 1 ) トリスタン・ツァラ著『ムッシュー・アンチピリンの冒険 ダダ宣言集』(塚 原史訳、光文社古典新訳文庫)。
( 2 ) 同上書および塚原史著『切断する美学』(論創社)参照。
( 3 ) Tristan Tzara, ŒUVRES COMPLÈTES, TOME 6 (Flammarion).
( 4 ) 「厨房日記」は『機械・春は馬車に乗って』(新潮文庫)などに収録。ウェブサ イト「青空文庫」でも検索可。
( 5 ) フランソワ・ビュオ著『トリスタン・ツァラ伝』(塚原史、後藤美和子訳、思 潮社)。
( 6 ) André Breton, ŒUVRES COMPLÈTES TOME 3 (Gallimard).
( 7 ) Tristan Tzara, ŒUVRES COMPLÈTES, TOME 1 (Flammarion).
( 8 ) 同上書
( 9 ) ツァラ著『ムッシュー・アンチピリンの宣言 ダダ宣言集』(前出書)。
(10) TRISTAN TZARA, ŒUVRES COMPLÈTES, TOME 1 (Flammarion).
(11) Maurice Nadeau, HISTOIRE DU SURRÉALISME suivie de DOCUMENTS SURRÉALISTES (Seuil).
(12) Tristan Tzara et Étienne Sved, L’ÉGYPTE FACE À FACE, La Guilde du Livre, Lausanne.
(13) ビュオ著『トリスタン・ツァラ伝』(同上書)。
(14) ARTS PRIMITIFS. COLLECTION TRISTAN TZARA, Guy Loudmer, 1988, ARTS D’AFRIQUE ET D’OCÉANIE, Sotheby’s Paris, 2015(オークショ ンカタログ)及び関連ウェブサイト他。
(15) 筆者は2016年 9 月ボストン美術館訪問(図版の写真もその時に撮影)。
(16) 以下の邦訳はアニー・ル・ブラン氏から筆者に送られた講演原稿による。