限界芸術論と現代文化研究 : 戦後日本の知識人と 大衆文化についての社会学的研究
著者 粟谷 佳司
学位名 博士(社会学)
学位授与機関 同志社大学
学位授与年月日 2016‑03‑03 学位授与番号 34310乙第314号
URL http://doi.org/10.14988/di.2017.0000016320
博 士 学 位 論 文 要 約
論 文 題 目: 限界芸術論と現代文化研究
―戦後日本の知識人と大衆文化についての社会学的研究―
氏 名: 粟谷 佳司
要 約:
本論文は、文化とコミュニケーションに関する社会学研究として、戦後日本の知識人が大衆文 化、表現文化と関わることで、その言説がどのように大衆文化を捉え、どのように展開されてい ったのかについての研究である。この課題について、本論文では戦後日本の思想家、鶴見俊輔に よって1960年代に唱えられた「限界芸術論」を中心に考察しながら、この理論の社会学研究 における大衆文化論や現代文化研究へのアクチュアリティ、また「限界芸術論」という言説に関 係する人々が社会的なネットワークにおけるコミュニケーションのなかで交差することで、この 言説がどのように変容し応用されていったのかということについて考察している。
そして、このことを検証するために、本論文では具体的な対象として、日本の1960年代半 ばから70年ごろの関西を拠点としたフォークソング運動を中心とする音楽の表現文化につい て取り上げている。これまで、フォークソングや音楽を中心とした表現文化と鶴見の議論との関 係は正面から分析されてきているとはいい難いが、本論文のように焦点を当てることで「限界芸 術論」を通して、この理論が関係者にどのように影響を与え応用されたのか、そのときに鶴見と 関係する人々がどのように関わったのかというネットワークとそのコミュニケーションが考察 される。そして本論文では、関西フォークソング運動と文化に関してキーパーソンとなる学者の 片桐ユズル、歌手の中川五郎の活動を分析した。片桐からは、鶴見の限界芸術論が関西フォーク ソング運動にどのように「使用」されたのかということについて、中川については、鶴見の「限 界芸術論」の応用とでもいえる、人は「素人(アマチュア)」からどのように表現者となってい くのかということについて、それを70年代以降の文化と思想状況と共に分析し、その展開につ いて考察した。
鶴見の大衆文化への関心は、大衆社会論的なものとは異なるものである。むしろ、彼が青年期 と大学においてアメリカで学んだプラグマティズム哲学の適用、すなわち(大衆の)行動からそ の思想を実証すること、さらに思想を「使用」する行動に視線が向けられている点に、他の知識 人にはない独自性がある。さらに言うならば、鶴見は、人間が記号をとおして世界にもつ関係=
意味に注目するゆえに、その対象はコミュニケーション的側面に集中する。結果的に、鶴見の研 究は社会学的であり、カルチュラル・スタディーズと大きく重なるものでもある。
そこで、第1章では、若き日の鶴見が「ルソーのコミュニケーション論」に始まり、「流行歌 の歴史」などを経て、「芸術の発展」において独自の限界芸術論を展開するにいたるところまで を検討する。そこでは、「替え歌」や「ふし言葉」などの独自の視点から分析が行われるが、そ の方法論はやがて鶴見個人の思想を超えて、フォークソング運動へ展開されることになる。
そしてこの章の後半では、アドルノと鶴見の大衆文化論を比較しながら、両者はメディアに対 する危機感という点では共通するということを確認しながら、鶴見の大衆の思想的な生産性、す なわちメディア上の文化を大衆が自ら解釈し変形させていくプロセスに注目している。これが、
鶴見が大衆をどのように捉えていたのかという視座にも関わるものである。
第2章からは、鶴見の思想が実践に移されたユニークな事例として、同時代の人々によって鶴 見の思想自体がどのように「使用」されたか、ということについて関西を中心としたフォークソ ング運動への展開を追っていく。その転換においてキーパーソンとなったのが、フォークソング
運動を理論的に実践した片桐ユズルである。鶴見と同世代の片桐は、やはりアメリカに留学して、
文化に対するプラグマティックな態度に影響を受けている。すなわち単なる文化の受け手として の大衆ではなく、大衆自らが生み出す文化、鶴見のいう限界芸術に関わっていくのである。その 実践の領域となったのが関西フォークソング運動である。
関西フォークソング運動は、のちに世界で1968年革命といわれた学生運動を始めとする、反戦 や性の解放といったメッセージと共振するものでもあったが、むしろここでは、その運動がかつ て鶴見が大衆文化の中に限界芸術を見出した「替え歌」や「ふし言葉」といった実践を軸とする ものであることに注目している。
フォークソング運動は、ベトナム反戦運動、鶴見たちが立ち上げた「ベ平連」とも一部連携し ているが、それを文化の実践として見るならば、アメリカの楽曲に自由に歌詞をつけて歌い継ぐ といった替え歌的行動がその中心にあり、本論文ではそれをグローバルな趨勢のローカル化とし てとらえ直している。
そして、フォークソング運動が大学の中の運動というよりも、むしろ表現の領域であったり、
あるいは新宿という都市空間や教会のような公共空間、またはレコードや雑誌、ミニコミという 媒体を主な領域としながら行われていたということから、本論文ではそれらの関わりの中で考察 している。
第3章では、フォークソングが70年代に入ってその状況が変容していく時期までを一つの区 切りとして、フォークソングとそれに関わる運動と密接に関わっていた『フォーク・リポート』
を中心にこの言説がどのように構築されていったのかということについて考察している。
60年代終わりに登場するポピュラー音楽雑誌『ニューミュージック・マガジン』の記事、あ るいはミニコミ誌である「かわら版」などを比較することで、その言説の位置について分析する。
『フォーク・リポート』は音楽雑誌に見られる写真や音楽を中心とした楽譜やレコード情報では なく、フォークソングが言説として表現の領域に転換・拡張したという独自の意味があったと考 えられる。それは、この運動の言説が持っていたもの、すなわち中川が関わった「フォーク・リ ポートわいせつ裁判」(と「性と文化の革命」)というもう一つの側面、真面目なものだけでは なく、人々のパブリックな言説のみでもないプライベートで私的なものにも踏み込む契機という ものも内包していたのである。
そして、ここには「フォーク」の意味づけに関わる問題もある。日本における「フォーク」は、
もともとアカデミズムによって定義づけられたものではなく、ポピュラーな雑誌媒体や、あるい は書籍によってその定義が与えられていったのであった。そこでは、鶴見俊輔、片桐ユズル、室 憲二、中村とうよう、三橋一夫といった知識人、批評家が関わって行くのである。
本論文の第4章では、ケースタディとしてこの運動と関わったフォーク歌手、音楽評論家、作 家、翻訳者である中川五郎に焦点を当てて考察している。中川は、ポピュラー音楽のオーディエ ンスとして中高校生を過ごし、そして高校生のときに高石友也が歌った曲(「受験生ブルース」) の作詞でデビュー、大学生を経て歌手活動を行い、その後、雑誌編集者、評論家、小説家という ライフコースをたどる。ここで、中川を語るときに鍵になるのが、「非専門家」あるいは「素人」
から始まる文化という理念とフォークソングをめぐる一連の動きである。
フォークソングは、1970年代に入るとポピュラー音楽言説のなかでその存在が変容してい くが、そこで転換点のひとつとなったのが、中川五郎が発表した小説がわいせつであるとして起 訴された、いわゆる「フォーク・リポートわいせつ事件」であると考えられる。本論文では、こ の時期までをフォーク運動の一つの区切りとして中川の活動を捉えながら、彼の表現と関わる行 動について考察し、そして「素人」からの表現活動とでもいえる中川の行動が、どのように実践 されて表現者としてあるのかということについて、その後の展開も含めて考察している。
最後の「終章」では、まとめを行い、そこで、以下のように結論づけた。
第一に、鶴見俊輔の『限界芸術論』の射程をプラグマティズムの流れから「芸術の展開」と「流 行歌の歴史」を中心に分析した。鶴見の「流行歌の歴史」は『限界芸術論』を考えるときに、そ の具体的な応用として、たとえば「限界芸術」を「純粋芸術」と「大衆芸術」に分けるもののみ ではない、「限界芸術」が「大衆芸術」をつなぐ事例が示されている。特に、それが「替え歌」
の「ふし言葉」から分析されていることについて考察した。これが、鶴見の「限界芸術論」の射 程において「大衆芸術」や「大衆文化」を考える契機ともなるということに言及した。
そして「限界芸術」は、1960年代半ばから関西を中心とした「フォークソング運動」に展 開されており、その理論的言説を著していた知識人の片桐ユズルについて、その思想と行動につ いて考察した。また、鶴見が大学や「思想の科学」といった媒体とも関係する人々のネットワー クから、片桐、中川五郎、室謙二らから「フォークソング運動」の実践とそこに鶴見の限界芸術 論がどのように影響を与えたのかについて、言説や歌詞などから分析した。ここから、西洋音楽 の非専門家であるフォークシンガーを中心としながら片桐のような知識人が関わり、限界芸術論 が応用されていったことの内容の一端を示すことが出来たと思われる。そして、音楽文化を中心 とした洋楽の日本におけるローカル化の問題についても言及した。
ここから、フォークソングに関わる人たちは必ずしも専門家ではない、あるいは音楽を社会運 動との関わりのなかで捉えるという動きとも連動していたということが確認された。それは、ア ドルノのような大衆文化の捉え方というよりも、鶴見の議論には大衆文化を積極的に捉えようと する姿勢に貫かれていると考えられる。
そして、ほぼ同時期の日本における音楽文化という新たな言説の構築の動きを、『フォーク・
リポート』を中心とした雑誌の言説と、そこに関わった人物の言説から考察した。『フォーク・
リポート』は日本におけるインディペンデントレーベルの草分けといわれる URC レコードの広報 誌として創刊された雑誌であり、いわゆる商業誌とは一線を画す活動であった。これまで、その 内容についてはほとんど研究されてこなかったが、人的なネットワークと関連しながらポピュラ ー音楽文化における批評言説が形成されていたのである。
鶴見が「限界芸術」の特徴として引き出した、「限界芸術は、非専門家によってつくられ、非 専門的享受者によって享受される」というところについて、それを「素人」の表現文化として読 み替えることによって積極的に実践していた関西のフォーク運動については、時代の流れの中で 変容し衰退して行くのだが、その流れの中で表現者として活動して行った、作家でありフォーク 歌手の中川五郎についてインタビューを中心に分析を行った。そして中川の行動から彼が「フォ ーク歌手」、「編集者」「作家」となった軌跡を辿ることで、「素人」が表現の世界においてどのよ うに活動をしていったのかについて考察を行い、そこで中川の表現者としての位相を確認した。
鶴見の大衆文化論は、限界芸術からそのロジックには一貫しているところがあるように考えら れる。それは、雑誌やレコード、テレビというように表現や文化を媒介するものが変化しても、
そこで行われる人々(つまり個人やその集まりである小集団)の表現に対する行動というものに、
変化や批判ではなく常に一貫するものを見ようとする鶴見の態度であろうと思われる。つまり、
「素人」から表現の世界に流入していったものを、どのようなメディアであろうとそれを限界芸 術が根底にあるものとして捉える視点である。これが、鶴見の文化論に通底する一つの思想であ る。その実践は、片桐ユズルと中川五郎にも変奏されながら続いていっているものであろう。
鶴見の限界芸術の議論は当時のフォークソング文化において使用された。また鶴見は、関西の フォーク運動に関わった片桐とも交流があった。このように関西のフォークソング文化は、当時 の状況のなかで片桐や中川らの活動によってその領域が構築されていたと考えられる。
鶴見の思想は、フォーク運動のなかでアクチュアルなものとして「使用」され、それは音楽文 化としての領域を形成していたのである。もちろん、学生文化であったキャンパス・フォークか ら、知識人たちによって構想されていたフォークが「民衆」のものであるという理念は、その後
の流れのなかで「歌謡曲」というジャンルに組み込まれて行くことになる。しかし、フォークは、
大衆芸術とのかかわりのなかで変化をしながら戦後日本の大衆文化の一部となり、現代において もそのメッセージは何度も歌われ反復されることによって受け継がれているということが出来 るだろう。
鶴見が、自身のプラグマティズムの研究から日本の芸術や大衆文化を記述するために考案した
「限界芸術論」は、「フォークソング運動」を中心とした音楽文化の中で行動する人々の運動へ の受容、読み替え、展開されてきたのである。本論文はこの流れのなかに、「限界芸術論」の文 化の社会学研究へのアクチュアリティを考察した。
そして本論文の分析によって、鶴見の文化論のなかでも1960年代の『限界芸術論』から、
鶴見の思想が大衆文化の中で実践されることで、それがどのように「使用」され、応用、変容し ていったのかということを明らかにした。これらの研究の視座から、本論文は鶴見の文化と社会 の理論に関する研究としての意義が見出されるのではないかと考える。