2016年度 国際文化情報学会審査結果
著者 法政大学 国際文化学部
出版者 法政大学国際文化学部
雑誌名 異文化
巻 18
ページ 1‑166
発行年 2017‑04‑01
URL http://hdl.handle.net/10114/13160
1.…はじめに
本発表の狙いは、1970 年代に激化した北アイルランド紛争(Northern Ireland Troubles)
の際に導入された「裁判なき拘禁制度(internment without trial)」(以下、インターンメン トと略記)と、それに伴うイギリス政府などの公権力側2の対応を倫理的観点から考察する ことにある。そのさい本発表では、公権力が「安全保障」や「治安回復」を名目としながら も、その目的を達成させるために行使する過剰で不当な(unreasonable)力を〈暴力〉とし て捉える。それが〈暴力〉であるのは、その行為が人権を一切無視する非倫理的なものであり、
犯罪行為と極めて近しいからである。
そもそも「インターンメント」とは、北アイルランド政府が成立して間もない 1922 年に、
IRA(Irish Republican Army)の徹底的な弾圧を図るために導入した「北アイルランド特別権 限法(The Civil Authorities (Special Powers) Act (Northern Ireland))」に始まる3。特別権限 法の導入により、人身保護令は一切停止され、疑わしい者は証拠なしに拘束できるようになっ た。具体的にいえば、イギリス政府などの公権力側が、無実の一般市民(主にカトリック系住民)
に暴行を加えたり、特定の拘禁者に対して実験を含めた拷問などが行なわれた。
さらに紛争が激化した 1971 年、北アイルランド政府は、1922 年の特別権限法に基づき、
再びインターンメントを導入したのである。人身保護令は停止され、違法な準軍事組織メン バー(実際の標的は IRA)に属している疑いのある者や彼らの支持者を、証拠や請求なしに 逮捕し、無期限に監禁することが出来るようになった4。つまり、公権的な判断なしに、自由4 4 な個人4 4 4を無期限に拘禁可能にする仕組みを合法化4 4 4したのである。
2.…プロテスタント社会における〈暴力〉の連鎖
まず本節では、インターンメントが導入される以前の簡単な経緯と問題点を指摘しておき たい。北アイルランド紛争は、アイルランド島全 32 州のうち北 6 州をイギリスの連合国と して認めるか否かをめぐる論争に端を発する。特に北アイルランドにとって宗教が重要なの は、「信条の問題ではなく、社会的、政治的認知の問題5」を含んでいるからである。そこで 本節では、問題点を集約して北アイルランド紛争の背景を次のようにまとめておく。
第一に、北アイルランドは、伝統的にはカトリック社会であったが、イギリスの植民によっ
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公権力による〈暴力〉は正当性をもちうるか
─ 北アイルランドにおけるテロ・拷問・安全保障 1 ─
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森村ゼミ田 島 樹 里 奈
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最優秀賞
論文部門(院生)
てプロテスタント優勢の地域へと変えられた。さらに南北が分離し、北アイルランド自治政 府が成立して以降、その構造はより顕著になった。第二に、北アイルランドでは、宗派と政 治が密接な関係をもっており、武装組織も政治的党派と密接な関係があった。こうした相関 関係は、社会構造全体に様々な影響をもたらした。それゆえ重要なのは、第三に、北アイル ランドの社会基盤となるあらゆる組織が、プロテスタントのメンバーによって構成されてい たことである。イギリスとの合併を望むプロテスタントのユニオニスト・ロイヤリストたちは、
北アイルランド4 4 4 4 4 4という名よりも地域名である「アルスター」の名称を積極的に利用することで、
プロテスタント優勢社会を、北アイルランド内部と外部の両側面から構築しようとした。そ の最たる例が、「王立アルスター警察(The Royal Ulster Constabulary)」(以下、RUC と略記)
である。同組織はほぼプロテスタントによって構成され、イギリス王室に忠誠を誓っていた。
さらに、北アイルランド議会や政府、報道機関といったさまざまな公的機関がプロテスタン トによって組織されていた。第四に、北アイルランド紛争の歴史は、イギリス政府によって 大きく歪められてきた。たとえば、1845 年のジャガイモ大飢饉(Potato Famine)では、イ ギリス政府によってアイルランド島から食料が運び去られ、数百万人ものカトリック系住民 が餓死していたが、真実は長期にわたり隠されていた6。またイギリス軍によるカトリックの 殺傷事件である「血の日曜日事件」(1972)は、2010 年になるまでイギリス政府が真実を隠 蔽し、報道も歪曲されていた7。
つまり北アイルランド紛争とは、プロテスタントおよびイギリス政府による組織的なカト リック差別や弾圧に端を発し、それに対するカトリックの抵抗と報復攻撃が主要な要素であっ た。それゆえ長年にわたるカトリックへの公的な差別政策が、プロテスタントに対する根深 い恨みと憎悪となり、両者の亀裂を深淵化させてきたと解釈できるだろう。
以上のことから南北分離以降、一般市民の宗派間抗争や、両宗派の過激派による攻撃、イ ギリス軍や RUC に対する IRA の攻撃が相次いで生じた。またこれらの抗争を抑えるべく、北 アイルランド政府および RUC による組織的な暴力的弾圧政策が常態化するようになる。
こうした背景の下で、インターンメント以前にも公権力による〈暴力〉は、時には公然と そして時には密かに行われた。たとえば第一に、イギリス軍隊史上もっとも悪質な部隊と言 われた反革命テロリスト集団「Black and Tan」の存在がある。彼らは 1920 年に IRA の鎮圧 を図ることを目的に組織されたが、その攻撃は次第に無差別化し、一般のカトリック系住民 にまで及んだ8。
第二に、アイルランド島が南北に分離したさいに組織された RUC の存在である。北アイル ランド内の抗争が泥沼化した要因の一つには、公的組織としての RUC が武装警察だったこと が挙げられる。もともと同組織は、北アイルランドの建国時に、IRA の暴徒たちが国内外で 活動することを恐れた北アイルランド政府によって組織されていた。そのため、ほぼプロテ スタントによって構成されていた。RUC は警察でありながら、カトリック系住民に対する暴
行を繰り返していたため、カトリック側にとっては脅威の存在だった。ちなみに 1969 年夏 に発生した暴動と銃撃事件に関する調査報告書(「スカーマン報告書」)では、警察官が犯し た重大な過失が複数報告されている9。
また第三に、RUC が組織された直後に結成された特別警察(Ulster Special Constabulary)
の存在である。彼らはプロテスタントの民間人から組織されていた。とりわけ B スペシャル ズ(B Specials)と呼ばれるパート・タイムの警察は、完全武装しており、のちにプロテスタ ントの強硬派と呼ばれた10。なぜなら彼らは、カトリック地区の暴動鎮圧という大義を掲げて、
カトリック系住民らを組織的に虐殺したり家を焼いたりするなどしたからである。そこには カトリック教徒に対して、プロテスタントへの恐怖心を植え付け、IRA と手を結ばないよう にする狙いがあった。
第四に、1970 年代のイギリス軍による軍事活動である。実は、1969 年の内乱期、事態を 収拾しきれなくなった RUC は、イギリス政府に対して軍隊を要請していた。当初、イギリス 軍の任務は、反テロリズムに従事することであり、紛争の鎮圧と北アイルランド政府の正常 化にむけた復興を目的としていた。しかし結果的にイギリス軍の介入は、北アイルランド紛 争の混乱をさらに複雑化させた。とくにイギリス内閣がヒース保守党に替わると、イギリス 軍の対応が一変した。ベルファストのカトリック地区は、軍による強硬な強制捜査が繰り返 された。カトリックの家のドアは叩き割られ、床板は剥ぎ取られ、壁や天井は粉々に破壊さ れた。またイギリス政府は、密かにカトリック居住区に秘密特殊部隊(SAS)を送り込んでいた。
北アイルランドへのイギリス軍配備は、「オペレーション・バーナー(Operation Ban- ner11)」と呼ばれ、イギリスの軍事行動史上もっとも長い 38 年間にわたって続けられた。つ まり、和平合意として 1998 年に締結されたベルファスト合意後も、10 年近くイギリス軍が 北アイルランドに配備されていたことになる。そしてイギリス軍は、治安回復を目的に配備 されたのとは裏腹に〈暴力〉の行使者となり、実際には紛争そのものの当事者へと変貌していっ た12。
以上のような公的政策に基づく活動が〈暴力〉であるのは、無実の市民までもが無差別に 巻き込まれ、またそのことを承知の上でイギリス軍が攻撃をしているからである。ウォル ツァーが述べたように、政治的対応がテロリストと同じような闘い方をしてはならない。た とえ軍が出動しなければならない事態であったとしても、軍隊は無辜の人々を標的にしては ならない13。
3.…インターンメント導入と剥き出しの〈暴力〉
IRA とイギリス軍との争いは激化し、1971 年から 1973 年の間にかけてイギリス軍は、
MRF(Military Reaction Force)という秘密部隊を組織するまでになっていた。MRF のメンバー は、制服を着用していないため、外見だけでは判断できず、これまでほとんど実体が明らか
にされてこなかった。しかし 2013 年に行われた MRF メンバーへのインタビューから、少し ずつその正体が明らかになってきた。元メンバーによれば、当時、彼らは IRA を標的とした 軍事活動を行っており、IRA を殺すために活動していた。また彼らは「軍の部隊のようにで はなく、テロ集団のように行動するためにそこにいた14」とも語っている。
しかも同じ頃、当時のフォークナー北新首相は、警察に対して「疑わしい行動をする者は 射殺してよい」という指令(Shoot-to-kill Army policy)を出していた15。この政策は、たと え IRA と関わりがあるという証拠がなかったとしても、つまり一方的に疑惑をもった場合に、
事実が確認できなかったとしても、射殺行為が正当化されるというものであった。この政策 の導入後、一般のカトリック市民が射殺される事件が続発し、カトリック住民の警察に対す る憎悪が一気に高まった。IRA は報復活動を開始し、事態はさらに混迷へと向かうことになっ た。
北アイルランドの事例からも明らかなように、緊急時においては、暴力の予防や抑止、安 全保障という名目のもとで〈暴力〉が正当化される傾向がある。また実際には、その〈暴力〉
が引き金となって、〈暴力〉による悪循環を発生させることが少なくない。もちろん、北アイ ルランド政府およびイギリス政府の施策は、これ以上の被害を拡大させないための苦渋の策 であったかもしれない。しかし、結果的には事態がますます混迷化したと言わざるを得ない。
負の連鎖によって事態は泥沼化し、北アイルランド政府もイギリス政府ももはや打開策が 見出せなくなっていた。その結果に導入されたのが、「インターンメント」であった。1971 年 8 月 9 日、1922 年の特別権限法に基づき、インターンメントが施行された。北アイルラ ンド政府側から見たとき、増えつづける暴力事件の取り締まりを強化するため、さらに何と してでも IRA の活動を取り締まるため、過去にイギリス政府が行なったインターンメントが 最良の手段であった。インターンメントの導入によって人身保護令は停止され、違法な準軍 事組織メンバーに属している疑いのある者は、裁判なしで逮捕し拘禁することが出来るよう になった。北アイルランド政府は、如何なる手段を使ってでも、可能な限り早期秩序回復に 向けた策を講じなければならない必要があったのである。
インターンメントの主眼は、IRA の徹底的な撃破であった。しかし政府は、IRA を大破させ るとともに、将来同類の危険を犯す恐れがあると目された個人や組織に対しても、躊躇なく 同様の措置を実施してよいとしていた16。つまりインターンメントは、手当り次第にカトリッ ク系住民を逮捕し拘留することを可能にした。ここに、予防的な政策から先制的な攻撃への 危うい転換が見えてくる。
インターンメントが導入されたその日だけで 342 人が逮捕されたが、そのほとんどが無実 の市民だった。北アイルランドには IRA の他にもさまざまな過激派武装組織が存在し、プロ テスタント系の UVF などはカトリック系の店を狙う爆破事件を繰り返し行っていたが、拘束 の対象とはされなかった。結局、インターンメント導入から 3 ヶ月の間に 980 名が逮捕され、
299 人が拘禁された17。また新年を迎えるまでの 5 ヶ月の間に、47 人の防衛軍と 99 人の市 民が殺され、729 件の爆発事件と 1,437 件の射撃事件が付随して起こった18。
さらに注目すべきなのは、治安回復を目的としたインターンメントの導入によって、強硬 な逮捕・拘禁の後に、拷問という残虐行為が容認されたことである。拷問された者のうち 14 人は、感覚を剥奪する「5 つのテクニック(the five techniques)」の実験台に服された。当 時のフォークナー首相は、1971 年から 1972 年の北アイルランドにおける拷問の決定は、彼 自身の見解によるものであったことを明らかにしている19。
4.…「5 つのテクニック」という実験拷問
以下に引用するのは、2004 年にアブグレイブ刑務所での捕虜虐待事件が発覚した際、アイ ルランド最大の共和主義政党シン・フェイン党のアダムズ党首が発した言葉である20。彼は 過去に IRA 志願兵の一人だったこともあり、インターンメントの際に拘禁されていた。
イラクにおける捕虜虐待のニュースは、アイルランドのリパブリカンにとって大きな 驚きを生むものではなかった。私たちはそうした全てを既に見ていたし、聞いていた のだ。あのような扱いを受けて耐えた者さえいた。イラクでのあのような残虐行為は、
一部の悪者が行なったものだと言われているが、ここではそれをまじめに受け入れら れることさえない。私たちはすでに、同じようにその全てを見たり聞いたりしていた のだから21。
アブグレイブ刑務所内での拷問写真は、報道各社もすべては放映できないと伝えるほど卑 劣で屈辱的なものであり、イラク人たちを愚弄したものだった22。しかしアダムズが公言し たように、北アイルランドのリパブリカンたちは 30 年以上も前に、こうした不当な拘禁と 屈辱的な拷問を受けていた。
彼によれば、1971 年のインターンメントの後に使用された尋問のテクニックは、イギリス 軍将校から RUC に教えられたものだった。最初のインターンメント急襲では、何百人もの人々 が、警棒による殴打や蹴飛ばし、軍用犬に追い回されるということが整然と行なわれた(「デ メトリアス作戦」)。具体的には、服を脱がされ、光を完全に遮断する黒い袋を頭に被せられ た者もいた。壁に向かって手足を大の字に広げて立たせられると、彼らの脚は下から蹴られ る。警棒や拳で睾丸や腎臓を殴られ、股間を蹴られる。ベンチに寝かされ、身体の下に放熱 器や電気ヒーターが置かれる。さらに腕や指をねじ曲げられ、肋骨を叩き続けられ、肛門に 物を詰められ、マッチで火をつけられロシアン・ルーレットをやらされた。何人かは頭巾を 被せられた状態でヘリコプターに乗せられ、放り出されたという。高さは 2 メートルにも満 たない上空からだったが、頭巾を被せられた者たちは空高くから投げ出されたように感じた。
こうした拷問が何日も続き、この過程の中で何人かは裸の写真を撮られたという23。これら の拷問は、その内容から判断して、「5 つのテクニック」と呼ばれる実験拷問であったと考え られる。
「5 つのテクニック」とは、1971 年 4 月にイギリスの諜報機関幹部と RUC の特別部門の メンバーが議論し、IRA との闘いにおいて最も効果的に情報を手に入れる手段として考え出 された方法であった24。その内容は、以下の通りである。① 壁立ち(wall-standing):拘禁者 に対し、数時間にわたって「ストレスを付加する姿勢」のままでいるよう強いる。体験者に よれば、その姿勢とは、壁に向かって大の字になり、手の指は頭よりも高い位置で壁に置き、
足の指だけで全身の体重を支えるようつま先立ちをさせる。②頭巾による遮蔽(hooding):
拘禁者の頭には常に黒か紺色の頭巾が被せられる。それは尋問の間を除いて、常に被せられ た状態になる。③騒音に晒される(subjection to noise):尋問までの間、拘禁者は絶え間な く 85 デシベル近いホワイトノイズが放出する部屋に拘置される。④睡眠の剥奪(deprivation of sleep):尋問までの間、拘禁者の睡眠を奪う。睡眠は医学上必要と思われた場合か、被験 者が協力姿勢を示し相互の利害が一致したとき与えられる。⑤食料と飲み物の剥奪(depriva- tion of food and drink):施設に滞在している間と尋問の前までの間、拘禁者の飲食物を減ら す25。
シャリスによれば、これらのテクニックは、かつて冷戦期に K.G.B. が人々を洗脳すること を目的として、心理 - 生理学的に衰弱させるための方法として使用したものであった。RUC とイギリス軍らは、このテクニックを科学的知識に基づきながら、より一層精巧な(sophisti- cated)方法へと手を加えたという。それゆえ、これらの拷問を受けた者のなかには、PTSD や 回復困難な後遺症を負ったものも少なくなかった26。
「5 つのテクニック」は、開始して間もない 8 月半ばには、アーマー大司教コンウェイ枢 機卿とアイリッシュ・タイムズによって公にされた27。被験者が実験現場から留置所へ移動 したさいに、訪問者との面会が可能になり、情報が共有されたのである。拷問に対する市民 からの非難は高まり、人権および基本的自由に関するヨーロッパ人権条約の不履行であると 主張されたことから、イギリス政府も調査に乗り出さざるを得なくなった。言うまでもなく、
イギリス軍が人権をまったく無視した卑劣な行動を正当化するのは困難であった。
しかし提出された調査報告書では、拷問が行政上の慣行として存在していたことは認めら れたものの、調査対象は少数のケースに限られており、表現法にも複数の修正が加えられて いた。たとえば、アムネスティ・インターナショナルの報告書でも指摘された事例では、委 員会が受け取った訴えには「肉体上の残虐行為と拷問(physical brutality and torture)」と 書かれてあったにもかかわらず、委員会が提出した結論は「肉体上の冷遇(physical ill-treat- ment)」という言葉になっており、残虐行為に該当するような事実は見いだせなかったと報告 された28。こうした言葉のごまかしは、「政府機関に対する非難の重大性を軽減させる」ため
には非常に好都合だったとはいえ29、倫理学的に見て不正行為と言わざるを得ず、文書の信 頼性を著しく欠く行為にほかならない。実際には、北アイルランドにおける残虐行為を含め た尋問は、インターンメントが導入されて以降、1975 年に最後の拘禁者が解放されるまで広 く用いられた。
しかも、ニューベリーの指摘によれば、「5 つのテクニック」は 2008 年に再び注目される ことになった。なぜなら、イラク民間人が勾留されていたイラク南東部バスラにおいて、再 びこの方法がイギリス軍によって使用されたことが明らかになったからである30。事件が発 覚する以前の 2003 年には、死者も出ていた。「5 つのテクニック」を含めた虐待問題やイギ リス軍の暴挙については、次第に人権問題や倫理学などの学問領域でも注目されるようになっ た。たとえ後解釈という批判があるにせよ、筆者としては、2004 年のアダムズのインタビュー が公開された時点で、イギリス軍の実態は注目されるべきであったと考えている。
北アイルランド政府が導入したインターンメントと、それに基づく一連の〈暴力〉は、た とえ現実的な政治の立場から見て、治安回復や安全保障という「正義」を実現することが目 的であったとしても、倫理的な正当性を確保することは困難である。
…5.…おわりに
北アイルランド紛争を再考する倫理学的な意義は、第一に、インターンメントのように、
国民の安全保障を名目として合法的に導入された施策が政治的正当性(justification)を確保 したとしても、実際には、安全保障の域をはるかに越えた非倫理的な行為を引き起こす可能 性があること。つまり、政治的な正義を追求することが必ずしも、倫理学的な「善」に帰結 するとは限らないということである。たとえ極限的な緊急性の高い状況下においても、われ われが重視しなければならないのは、歴史的な現象の分析とは異なる、人間の価値や尊厳を 重視する倫理学的な視座である。
第二に、本来的には、治安回復や安全保障を目的とした予防的(preventive)な政策も、場 合によっては先制的(preemptive)な攻撃に陥りやすく、無実の市民のうちに多くの被害者 を生み出す可能性がある。それゆえ結果的には、国家の〈暴力〉は、倫理学的な考察抜きでは、
法的な正義からも逸脱していく危険性がある。
もちろんいずれの国家も、市民の安全、平和、自由、そして幸福を守る義務と責任がある。
これらを守るために、市民を脅かすものに対して、ある種の〈暴力〉は避けられない。しか しそれでも、国家が一方的に安全保障や暴力の予防・抑止を名目に、無実の市民が傷つき、
痛めつけられる事態は何とかして避けなければならない。本発表で明らかにしたように、公 正な制度や大義名分は、必ずしも政治的正義や倫理的善と直結しているわけではない。たと え時代や文化が異なっていようと、われわれの人間の尊厳を重視する倫理観・道徳観が共有 されていなければ、社会基盤の安定性は保てないのである。筆者としては、一定の価値観を
見いだすことが困難な今日だからこそ、あえてわれわれは倫理学的な視座を保つ必要がある と考える。
参 考 文 献
1 本発表は、『インターカルチュラル14』(2016 年・日本国際文化学会)に掲載された査読付き研究ノート
「北アイルランド『インターンメント』における制度化された〈暴力〉」を加筆修正したものである。
2 本発表では主に、イギリス政府、イギリス軍、北アイルランド政府、王立アルスター警察を指す。
3 Laura K. Donohue, Regulation Northern Ireland The Special Power Acts 1922-1972, The Historical Journal, Vol. 41, No. 4, Cambridge University Press, 1998, pp. 1089-1120.
4 John Conroy, Unspeakable Acts, Ordinary People: The dynamics of Torture, University of Califor- nia Press, 2001, p.4.
5 ポール・アーサー他『北アイルランド現代史』門倉俊雄訳、彩流社、2004 年、p.52。
6 もちろん高神のように、この大飢饉はイギリス政府に責任の所在があり「人災」だとするのは「民族 主義史観」だとする見方もある。(高神信一『大英帝国のなかの『反乱』』同文舘出版、2005 年、pp.3-4。)本 稿では、歴史的な立場性の問題には介入せず、具体的事例から倫理的な問題を考察するにとどめる。な お、大飢饉については、1997 年にブレア政権が責任を認め謝罪している。
7 Cf. Greg McLaughlin and Stephen Baker, The British Media and Bloody Sunday, Intellect, 2015.
8 Cf. Richard Bennett, The Black and Tans, Spellmount, 2007. 鈴木良平『IRA』彩流社、1985/2013 年、
p.81。
9 Cf. The Hon. Mr. Justice Scarman (Chairman), Violence and Civil Disturbances in Northern Ireland in 1969: Report of Tribunal of Inquiry, Her Majesty’s Stationary Office, 1972.
10 堀越智『北アイルランド紛争の歴史』論創社、1996 年、p.92。B スペシャルズは、1970 年にアルスター 防衛連帯(Ulster Defence Regiment)へと組織替えされ、RUC から分離してイギリス軍の管理下に置 かれた。
11 Cf. The Northern Ireland Troubles: Operation Banner 1969-2007, Osprey Publishing, 2011.
12 Cf. Jon Moran, From Northern Ireland to Afghanistan: British Military Intelligence Operations, Ethics and Human Rights, Ashgate, 2013.
13 マイケル・ウォルツァー著、デイヴィッド・ミラー編『政治的に考える』萩原能久、斎藤純一監訳、風 行社、2012 年、p.476。
14 Irish Post, British army’s secret unit had “shoot-to-kill” policy during Troubles, November 21, 2013.
15 Dr Luis de la Calle, Nationalist Violence in Postwar Europe, Cambridge University Press, 2015, p.173.
16 Sydney Elliott and W. D. Flackes, Conflict in Northern Ireland an Encyclopedia, ABC-CLIO, 1999, p.662.
17 Report of the enquiry into allegations against the Security Forces of physical brutality in North- ern Ireland arising out of events on the 9th August, 1971, Her Majesty’s Stationary Office, 1971.
18 Sydney Elliott and W. D. Flackes, op. cit., p.663. 拘束された者のうち、104 人は48 時間以内に解放さ れている。資料によっては、拘束者数を350 人としているものもある。Cf. Padraig O’Malley, The Uncivil Wars: Ireland Today, Houghton Mifflin Company, 1983, p.208.
19 The Irish Times, 5 June 2014.
20 ジェリー・アダムズは元IRA のメンバーであるが、筆者はあくまで体験者の一人として引用してい るに過ぎず、政治的な意図を有しているわけではない。
21 Adams, Gerry,“I Have Been in Torture Photos, Too”5 June, 2004. http://www.theguardian.com/
22 Hersh, Seymour, M., Chain of Command: The Road from 9/11 to Abu Ghraib, Harper Collins Pub- lishers, Inc, 2004.(『アメリカの秘密戦争:9.11 からアブグレイブへの道』伏見威蕃訳、日経新聞社、2004 年)。
23 Adams, Gerry, ibid. ま た、以 下 も 詳 し い。Father Denis, Faul, Dungannon and Father Raymond Murray, Armagh, WHITELAWS TRIBUNALS Long Kesh Internment Camp November 1972- Janu- ary 1973.
24 Ross W. Bellaby, The Ethics of Intelligence, Routledge, 2014, p.147.
25 Ross W. Bellaby, ibid.
26 T. Shallice, The Ulster depth interrogation techniques and their relation to sensory deprivation research, Cognition 1 (4),1974, p.387.
27 Samantha Newbery, “Interrogation during ‘the troubles’ in Northern Ireland, 1971-1975”, Interro- gation in War and Conflict: A Comparative and Interdisciplinary Analysis, Routledge, 2014, p.210.
28 Amnesty International, op. cit. Cf. Her majesty’s stationary office, Report of the enquiry into alle- gations against the Security Forces of physical brutality in Northern Ireland arising out of events on the 9th August, 1971.
29 Amnesty International, ibid.
30 Samantha Newbery, op. cit.
一……はじめに
1953 年以降、中国の非漢族はスターリンの四つの民族定義に基づく「民族識別工作」によっ て、現在の 55 の少数民族に分類された。中国西南にある貴州省は、多くの少数民族の居住 地であり、多様な少数民族文化を有する。近年、貴州省において、少数民族地域の文化や自 然資源に焦点を当てて行われる観光開発の動きが多く見られている。貴州省の西北部に位置 する石門坎もその中の一つである。
一方、他の少数民族地域に比べ、かつての石門坎は、キリスト教の伝来や文化大革命の影 響を受けた複雑な歴史背景を持ち、現在も政治的に微妙な問題と深刻な貧困問題を抱える地 域である。本稿の目的は、政府主導の観光開発の望ましくない現状を踏まえ、石門坎の観光 と地域再生を支えている現地住民と観光客の協働を明らかにすることである。
本稿ではまず、石門坎がどのような地理・民族・歴史の特性をもつ土地として観光開発の 対象とされたかその経緯を示す。また、石門坎に関する研究や文献の内容を整理した上、石 門坎の現状に焦点を当てた問題意識を提示する。次に、石門坎の観光開発、観光資源と観光 客の実態を明らかにする。以上から、石門坎の観光をめぐる現地住民と観光客の営みに関す る考察を示したい。
二……石門坎の概要
1 石門坎の地理・民族
石門坎は中国・貴州省の西北部にある威寧彝族回族苗族自治県の石門郷に位置する。旧街 道に通じる集落の出入り口に自然石の景観があるため、「石門坎」(ストーンゲート)と呼ば れ始めた。石門郷の 143.54km2の土地において、漢、ミャオ(苗)、イ(彝)、回、プイ(布 依)族等の民族が居住している。全郷の 2 万 613 人の内には、少数民族人口が 5,730 人であ り、総人口の 27.8%を占める。石門郷は、威寧県の北部に位置し、雲南省と隣接する。貴州 省の省都である貴陽市から 487km ほど離れている。
石門郷は 12 の村に分けられ、そのなかには、石門郷の郷政府の所在地の栄和村(ここが
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石門坎の観光化
― 現地住民と観光客の協働に関する考察
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汪オ ウ牧マ キ耘ウ ン
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奨励賞
論文部門(院生)
石門坎)では 674 世帯で 2272 人が住んでおり、面積 7.16km2である。また、他の村に比べ、
栄和村の人口密度は最も高く、少数民族の割合は 48%を超える。
石門郷の海抜は 1218m から 2762m で、村によって変わる。年平均気温は 11.4℃で、温 度差が激しく、霧が発生することが多い。郷内は鉱物が豊富であるが、土地の土質が悪い。
現在の主要な農産物は、煙草、トウモロコシ、ジャガイモなどである。2015 年の統計データ によると、石門郷における一人当たりの平均年収は 6734 元であり、貴州省の貧困削減の重 要対象となっている。
2 石門坎の歴史
貴州のミャオ族総人口はおよそ 900 万人である。一方、同じミャオ族のくくりに含まれて いても、生活情況、風習、言語の差が大きいため、多数の支系に分けられている。石門坎のミャ オ族は、「大花苗」と呼ばれる支系に属しており、歴史的には敗戦や災害が原因で移動しつづ け、主に中国の雲南省や貴州省の山岳地域に分布している。清朝末期において、石門坎のミャ オ族はイ族の支配の下生活しており、当時社会の最下層にあったと言える。
アヘン戦争の敗戦後には、多くの宣教師が中国大陸に殺到した。United Methodist Mission に属する英籍宣教師のサミュエル・ポラード(Samuel Pollard, 1864 ー 1915)も、その流れ に従ってきた一人である。元々雲南で活躍していたポラードは、石門坎から来たミャオ族と 出会い、彼らの要望に応えて、石門坎に宣教の中心を移した。石門坎教会が竣工した 1905 年には、すでに千人を越える信者がいた。布教とともに、キリスト教教会と宣教師たちが石 門坎で中国最初のハンセン病病院を建設し、当地で科学知識と西洋文化の普及に貢献し、ミャ オ族の風習も変容しつつあった。そして、「教会があれば学校がある」という方針で、多くのミャ オ族が教育を受けた。その時期において、石門坎の学校を卒業した学位取得者を輩出したこ とで、ミャオ族はようやく社会的最下層における状況を改善できるようになり、ポラードも
「ミャオ族の救世主」と呼ばれるようになっていた。その後、石門坎の教育体系がさらにその 周辺に広がり、20 年の間には千人以上の卒業生を輩出したことで、石門坎は中国西南におけ る教育水準の最も高い地域とも評されていた。そして、卒業生の中から、20 余人の共産党の 上級幹部、200 人以上の県級幹部が世に送り出された。
一方、1930 年代に入ると、教会が様々な原因で解体しつつあった。自然災害、同化政策、
また 1966 年からの文化大革命の時期には、石門坎は「反帝国主義」の攻撃の的になった。
教会や校舎が破壊され、キリスト教と関わりをもった人、また石門坎の学校の卒業生は、例 外なく大きな被害を被った。改革開放後、当時冤罪を着せられた人の「名誉回復」が行われ たが、一連の出来事による影響は残っている。元々山奥にある石門坎は、再び貧しい地域に陥っ た。
3……石門坎の観光開発の動き
1995 年、宣教師のポラードと高志華の墓が威寧県の文化財に指定され、1991 年から始まっ た宣教師の子孫の石門坎訪問の申請が受け入れられた。それは、新中国建国後の石門坎の最 初の外国人訪問になった。その後、2006 年には石門坎光華学校建築群は貴州省の文化財に指 定され、2009 年には石門坎は貴州省の「歴史文化名村」に認定された。
石門坎の貧困脱却が大きな課題となっているため、1990 年代から、石門坎を対象とする貧 困削減を目指す政策が次々と打ち出されたが、その本格化は、2015 年の貴州省省委書記の陳 敏爾の石門坎訪問がきっかけだったと言える。同年、貴州省人民政府は「威寧自治県石門坎 歴史文化名村保護規劃(2013 ー 2025 年)」(以下「規劃」と呼ぶ)を許可し、貴州省の観光 政策の一環としての石門坎の「文化と歴史」に着目する観光開発の機運が盛り上がっている。
「規劃」においては、石門坎の観光開発の目標は、石門坎を「西南ミャオ族の文化聖地・東西 文化の融合の奇跡(西南苗疆文化圣地,东西方文化汇聚传奇)」として対外的に打ち出すこと になった。
観光地としての開放とともに、1948 年の大地震や 1960 年代から十年にわたった文化大革 命等の大きな影響による遺跡の破壊があるため、遺跡の修復が進められている。また、道路 と住宅を中心とするインフラ整備も、石門郷の貧困削減を目的として推進されている。2008 年、威寧県全県交通工作会議によると、石門坎観光コースを対象として、中水鎮から雲南省 昭通市彝良県の熊家溝までの約 60km の 326 国道の整備に 5000 万元を投入した。そして、
2016 年の建築プランとして報道されたのは、石門坎の古い商店街の再建と新しい商店街の道 路整備と、ガソリンスタンドや観光センター、観光スポットである「九曲花街」の建設を完 成させることである。また、政府が石門坎に巨額の資金を注ぎ込むことにともない、石門坎 では民宿やレストランも急増している。
三 文献における石門坎像
1981 年から、石門坎の研究が始まり(韋啓光 ,1981)、その後は年々増える傾向が見ら れる。2004 年頃から、キリスト教の伝来による社会発展は「石門坎現象」と定義され(林 芊,2004)、頻繁に使われ始めた。それをめぐる歴史研究が山積しており、特に少数民族教育(苑 青松 ,2011、张霜 ,2008)、キリスト教の伝来そのものに対する評価(杨汉先 ,1982、曽士 才 ,1989)、民族リーダーのライフヒストリーから見るミャオ族のアイデンティティを論じた もの(张慧真 ,2004)がある。政治的・社会的抑圧や自然災害以外には、石門坎ミャオ族の 主体性が石門坎地域の隆盛と衰退の原因だとする分析(周志光等 ,2011、杨正伟,1989)やミャ オ族の主体性の育成と石門坎の貧困問題の解決とを繋げようとする論調(沈红,2007)もある。
石門坎の現状については、まず、先行研究の政治への提言の部分とインターネットで公開
されている随筆や紀行文によってうかがえる。先行研究では、貧困と教育問題のほかに、石 門坎の政治的な敏感性にも言及されている。そして、100 年前の教会や学校の遺跡のボロボ ロの現状(罗钢,2014、余波 ,2009)や、ミャオ族の民族衣装とポラードによって作られたミャ オ族文字の伝承問題が多く指摘されている(陶绍虎 ,2011)。
それに対して、新聞記事における石門坎像は異なる。特に、去年からの新聞記事によると、
石門坎の貧困問題が省政府に重視されており、また、一連の支援や開発政策によって、石門 坎の情況が大きく改善されたと書かれている。その例として挙げられたのは、観光客が三年 間で 4 万人に倍増したこと、現地住民の収入も増えたこと(贵阳网 ,2015)と、旅館やレス トランの景気が良くなったこと(史开云等 ,2016)である。
一方、すでに指摘した石門坎遺跡の破壊やミャオ族文化の伝承問題を考えると、新聞記事 における石門坎の観光開発の成果は疑わしい。
四 石門坎の観光の実態
本稿では、フィールドワークにおける参与観察とインタビューで得られたデータで、石門 坎の観光化について考察したい。フィールドワークは、2016 年 8 月 8 日から 24 日まで実施 した。場所は、石門坎の歴史文化遺跡がある現石門郷の郷政府の所在地の栄和村である。
石門坎の観光をめぐるフィールドワークの内容は、①観光開発の進捗、②観光資源の現状、
③観光客の実態という三つである。
1……観光開発の進捗
石門郷では、2015 年から、67km の道路がセメントかアスファルト道路に改造され、鎮(小 都市)から村落の交通網整備が推進されており、現時点まで合計 183km の道路がある。そ れを背景として、石門坎の観光開発は、栄和村における商店街の建設を中心に行われている。
工事が開始されると、それにともなう大勢の肉体労働者が殺到した。それに応じて、町での 出店も多く見られている。
商店街の建設の始まりは 2015 年からである。中国の他の省からの建設会社が石門坎の工 事の担い手となっている。フィールドワークの時点において、商店街に出店した多くは、飲 食(28 軒)、日用品(21 軒)と建築関係(18 軒)の店舗である。旅館が増えている一方で、
施工チームの関係者が押し寄せてきたため、栄和村における旅館はほぼ満員の状態になって おり、宿泊の予約が取りにくい。
現地住民の観光開発をめぐる意見は、主に以下のとおりである。まず、町でのインタビュー によって、道路の整備によって、生活が便利になったこと、また、外来の労働者が増えたこ とで、商売ができるようになったことがわかった。一方、労働者が集中しているため、治安
面の問題も生じている。また、商店街の建築プランは、壁の色や屋上の形の統一に限られて おり、電気と水道の問題は依然として残されている。
出店やローンなどの支援政策について、新聞記事に出てきたレストランの経営者 B 氏にイ ンタビューし、彼女が以下のように、政策の実施段階で不公平が生じていたことと、自らの 意見が視察に来た官員に届かないことを語った。
「実施の段階に入ると、全ては人脈と裏金で決められ、悪くなった。…省政府の幹部は本 当に我々のことを考えてくれ、よく視察に来た。しかし、私たちの意見は届かない。なぜなら、
彼らが来る前、県の幹部がやって来て私たちが言うべきことを指示したから。」
以上のように、観光開発によるインフラ整備や一時の人口の増加によって生活情況の改善 が見られると同時に、現地住民の不満が生じていることが考えられる。
2 観光資源の現状
ここでは、「規劃」における観光開発の目標から、石門坎の観光資源を①「歴史文化遺跡路 線」、②ミャオ族の伝統文化、③キリスト教文化に分類したうえで、それぞれの現状について 検討したい。最後は、現地住民における石門坎の歴史と文化の語り手の存在を描きたい。そ れは、彼らの営みが、石門坎に関する資料や歴史記憶を保存し続けられる重要な要因だと考 えているからである。
2.1 「歴史文化遺跡路線」
石門坎の「歴史文化遺跡路線」に指定された観光スポットは近い範囲に集中しているため、
見学の時間は 1 時間ほどである。
先行文献に指摘されたように、地震や文化大革命による遺跡の破壊が大きい。残された 22 箇所の遺跡を概観してみると、大きく分けて四つのタイプ、すなわち、①破壊されたままの もの、②修復されたもの、③実用性を考えて建て直されたもの、④植物、に分類できる。そ こで、筆者は、去年も今年も石門坎を訪れたポラードの子孫の C 氏にインタビューした。彼は、
遺跡の「修復」を残念に思う気持ちを以下のように表した。
「石門坎の開発が急劇に進んだのを見て、私はとても複雑な気持ちになった。たった 1 年で、
あまりにも変わってしまった。こんな急速な開発は、明らかに石門坎の歴史を尊敬していな いし、現地住民が本当に求めていることに対処できていない。」
以上のことで、現存の歴史遺跡の元々の姿が失われたことがわかった。
そのほかには、観光スポットとして認定される基準が不明確であることも指摘される。例 えば、石門坎文化と深く関わりを持つミャオ族知識人であり石門坎の教育改革者である朱焕 章の墓や、民族リーダーの楊雅各の墓、そして、国民党の貴州省主席の楊森によって拡張さ れたサッカー場などは、場所が遺跡群の中心から少しずれているからであろうか、石門坎歴 史文化遺跡路線の観光スポットに含まれていない。
さらに、現時点の石門坎においては、観光者に対して積極的に地域を紹介しようとする対 応が見られない。具体的には、石門坎文化に関する資料の整備や展示板の修復などが行われ ていないことである。観光施設として観光路線に「石門坎歴史陳列館」が設けられているが、
人員不足のため、常に閉鎖されている状態である。
2.2 ミャオ族の伝統文化
現地での考察に照らし合わせると、ミャオ族の文化の伝承に懸念を持たざるをえないとも 言える。その原因として、以下のことが考えられる。
まずは、伝統文化の担い手の不足である。現地で入手した文献によると、栄和村のミャオ 族の人口は実際のところ、村の総人口の 15%にすぎない。その上、若者の出稼ぎもその問題 を一層深刻化させたといえる。また、先行研究で指摘されたように、実用性がないため、ミャ オ族の言語や衣装の伝承問題が生じている。ミャオ族の民族衣装は、重要なイベントがある 時以外の日常生活において、着用されなくなったというのが現状である。一方、5 月にある 石門坎のミャオ族の最大の祝祭である「花山節」は、2015 年度から治安面の懸念によって政 府によって中止されたことが、栄和村でのインタビューでわかった。
ミャオ族の伝統手工芸である刺繍について、民族衣装の店長 R 氏にインタビューすると、
彼女は以下のように回答した。
「手づくりのミャオ族の衣装は大変時間がかかるし、年を取ると目が悪くなって、刺繍でき ないのよ。以前に、NGO の「藍草」プロジェクトで、みんな彼らのデザインに従っていっぱ い作ったけど、あまり売れなくて、今はもう諦めた。ほら、いっぱい溜って、カビもはえた。
気に入ったら、持って帰っていいよ。」
かけた時間と収益の不均衡は、伝統手工芸の伝承に影響を与えてしまうこととなる。
2.3 キリスト教文化
石門坎教会の責任者 E さんの話によると、元々の石門坎の教会は、すでに大地震が起きた 1948 年に倒壊した。現在の石門坎教会は、2004 年に建てられたものである。つまり、約 56 年間、石門坎教会による活動が空白であったことがわかった。2004 年から再び運営され
始めた石門坎教会の今の活動は、約 2、30 人の石門坎のミャオ族を中心に行われている。また、
現在の石門坎教会のもう一つの重要な役割は、他の教会から巡礼にきた教徒のグループを接 待することである。一方、教徒の間の動きは、政府に報告することが義務付けられている。
教会の活動に関する政府の介入と態度について、ポラードの子孫の C 氏は次のように答え た。
「政府は何より私がなぜ石門坎にやって来たかを知りたがる。政府はある職員を日曜日に 教会に派遣して、私が説教をさせないように牧師に要求した。一方、私が説教して、その後 はさらにその職員と会った。私は開発における教会の役割はなにかを聞いた時、その職員は 教会が協力すべきだと答えた。」
したがって、政府が教会の活動を警戒しつつ、政府の意向に従わせようとする意図がわかる。
また、貴州省人民出版社の関係者によって、石門坎をめぐる宣伝が進んでいるように見えるが、
石門坎に関する本、特に宗教関係のものの出版は厳しいという。
以上のことから、石門坎におけるキリスト教文化の影響力が抑圧されていることが考えら れる。
2.4 歴史の語り手
石門坎において、昔の歴史やミャオ族の文化に詳しい語り手は何人かいる。そのなかにも、
ポラードと関わりを持つ卒業生・宣教師の子孫が多い。
〔例一〕Z 氏(60 代、栄和村に在住。ミャオ族男性。政府職員を定年退職。)
Z 氏の父親は、石門坎の学校でポラードに教わっていた卒業生である。幼い頃の Z 氏が父 親に従っていたため、文化大革命の時期に批判闘争の対象となった父親の「自白」を何度も 聞き、宣教師や石門坎の学校の出来事も覚えられるようになったという。80 年代に入った後、
Z 氏は政府で働き始めた。その後、来訪者に応じて石門坎の歴史を語りつづけた。昔の事に 詳しいため、石門坎歴史の「生き字引」とも呼ばれている。Z 氏の話によると、約 30 年間に わたって、彼はおよそ1万人に石門坎を案内した。
〔例二〕Y 氏(70 代、栄和村に在住。ミャオ族男性。農夫。民間のミャオ族専門家。)
Y 氏の父親は、石門坎の学校を卒業した後も進学し続け、50 年代には、中国社会科学院で ミャオ族文字の研究を行った。文化大革命の被害を被り、父親が監獄で病死し、Y 氏は石門 坎から逃れた。1980 年代の「名誉回復」が行われたことで、Y 氏は石門坎に戻った。その後、
Y 氏は、個人の名義で「石門坎の百年歴史」の展示を設けた。16㎡ぐらいの「展示場」では、
約 70 年前の手作りの「大花苗」の民族衣装、新中国建国前の写真と父親によるミャオ族文 字に関する研究の手稿などが陳列されている。
そのほか、ポラードと直接の関わりを持たない現地住民のなかにも、石門坎の歴史と宣教 師に関心を持ち、それを語ってきた民間人がいる。
〔例三〕J 氏(40 代、栄和村に在住。イ族男性。石門坎中学校の元校長、現教育委員会の職員。)
地元の知識人である J 氏にインタビューした時、彼はポラードを「真面目」で、「貢献が大 きく、勇ましい」人だと評した。J 氏は、Z 氏と同じように、石門坎歴史文化遺跡の案内や解 説を担っている。また、彼は旅館を経営し、多くの来訪者を接待してきた。宿泊の場合は特に、
石門坎の研究者に対して料金の割引がある。J 氏によると、それは、何かを宣伝したいのでは なく、楽しんでやっているのである。すなわち、同じように石門坎の歴史に感銘を受ける人 や話し合える人を友として認め、付き合うことである。
このように、フィールド調査からは、石門坎の宗教・教育をめぐる地域の振興と衰退の歴 史が、石門坎における様々な人によって伝えられ、共有されていることが分かる。
3 観光客の実態
石門坎のレストランの経営者 B 氏に、「今までどのような観光客が来たのか」とインタビュー した時、彼女は、次のように答えた:
「…たとえこれから石門坎が開発できたとしてもね、石門坎の歴史にとても詳しい人しかこ こに来ないよね。どれほどよく開発したとしてもね。ポラードの影響でなければ、人がこな いよ。だから石門坎に来る人は素晴らしいツアーとかのためではない。みんな歴史のためだ よね。」
参与観察と聞き取りによっても、今まで石門坎にきた観光客の多くは、石門坎の歴史に関 心を持つキリスト教徒、知識人、研究者および NGO であり、その一部は、現地と深く関わり を持っていることが分かる。石門坎以外の地域からやってきた人びとのなかには、石門坎の 歴史に興味を持ち始めてから、長年にわたって、石門坎の文化をインターネットやイベント などの形で広めてきた人も多くいる。
〔例四〕K 氏(40 代、貴州省威寧県に在住。漢族女性。NGO の楽施会の職員。)
1999 年、初めて栄和村に来た K 氏は、村人の貧しさに驚き、ちょうど当時人員を募集し
ていた楽施会に参加し、NGO がプロジェクトを政府に引き渡して石門郷から撤退した 2006 年まで、楽施会の仕事で石門郷に深く馴染んできた。K 氏は、ポラードを百年前の NGO のよ うに捉えており、彼による地域振興の理念や方策に感銘を受けた。2006 年以降、彼女は個 人として農業支援や児童福祉のプロジェクトを立ち上げ、石門郷で活躍し続けた。さらに、K 氏はそれぞれのプロジェクトの詳細をすべてインターネットで公開し、社会からより多くの 関心を石門郷にもたらしている。
〔例五〕L 氏(50 代、浙江省に在住。漢族女性。キリスト教徒。大学教員かつ NGO の OCEF の職員。)
L 氏は 2007 年、石門坎のことを知ってから、その宗教や文化に関わる活動に飛び込み、「走 進石門坎」(「石門坎に入る」という意味)というウェブサイトを設けた。また、L 氏は 2007 年から、ポラードの子孫との連絡を試みつづけ、ようやく 2015 年にポラードの子孫の C さ んからの返信が届き、ポラードの家族 4 人の石門坎訪問を促した。L 氏は、石門坎の文化が「外 来者から与えられた文化」だと考えている。また、彼女は、「今は土の栄養が足りず、小麦は 結実していない」が、「キリストの精神は永遠に石門坎に存在している」と語っており、石門 坎のミャオ族や教徒の自立を求めている。
〔例六〕M 氏(40 代、貴州省貴陽市に在住。漢族男性。ウェブサイト「走進石門坎」の管理者。)
コンピューター関係の技術会社の社員であった M 氏は、L 氏の頼みを引き受け、2007 頃 からウェブサイトの技術面の管理の仕事を担い始めた。M 氏は、「走進石門坎」にアップした 写真や文章によって、大花苗の貧困状態をより多くの人びとに理解されることを望んでいる。
M 氏は自分がサイト「走進石門坎」の管理を続けていることについて、「雲貴高原において最 も貧しい大花苗についてプラットフォームを立ち上げ、文化的偏見を解決したい」と述べた。
その数年間において、本来は撮影愛好者である M 氏は、貴州省に限らずに雲南省にも飛び込み、
いわゆる「石門坎文化圏」に含まれている地域において、大花苗の教会の活動や伝統行事な どを映像で記録し続けた。今は、ウェブサイトの管理と発信以外、石門郷の児童福祉のプロジェ クトにも参加している。
以上から、石門坎にやって来た観光客は、通常の「娯楽、ストレス解消、リフレッシュ」
などを目的とする観光客とは異なることが明らかである。
一方、筆者が石門坎に滞在していた間に観察したところ、石門坎に来た観光客は、最も多 い日でも 30 人程度であった。冬季は石門坎の観光のオフシーズンであることを考えると、年 間の観光客の数が 4 万人を越えたと報道した新聞記事の信憑性を疑わなければならない。
五 結論
石門坎の観光の現状についてフィールドワークを行ったところ、以下のことが明らかになっ た。
まずは、観光開発が進むとともに交通の整備による生活の変化などが見られる。一方、治 安問題による現地住民の不満なども生じている。
また、観光開発の目標は、石門坎を「ミャオ族の文化聖地・東西文化の融合の奇跡」とし て打ち出すことであるが、観光資源とされているミャオ族の伝統文化や、キリスト教文化と 関連する遺跡には、伝承の困難・抑圧・破壊などの問題が存在する。したがって、それらが 魅力的な観光資源になることに懸念を持たざるをえない。
最後に、現在の観光者の数は宣伝されるほど多くないが、観光客の多くは、石門坎の歴史 に感銘を受けるキリスト教徒、知識人、研究者であり、その一部は石門坎の文化と歴史の伝 播や地域発展に深く関わっている。
おわりに
進行中の石門坎の観光化を悲観的に否定することはないが、政府主導の観光開発では、石 門坎の情況にふさわしくないやり方で進められている面は確かにある。特に、開発による資 金やプロジェクトの流入によって、現地住民の問題が必ずしも解決していない面もある。そ れは、従来の政府主導の観光開発が現地住民のニーズに応えるという意識を欠いているから である。
一方、今の石門坎の観光客を見ていくと、石門坎の現地住民が自分の歴史を観光客に伝え ていくとともに、観光客による一連の活動によって、石門坎の文化や歴史が共有されている。
また、彼らの石門坎の過去に対する関心は、石門坎の今に対する関心にもなり、地域の情況 を改善するための支援と連携していく。そして、長年にわたり、そのような繋がりによる積 み重ねがいくつもある。
まず、ボランティアにより9年間運営されてきた、石門坎に関する文章・写真・情報が満 載のサイト「走進石門坎」である。次に、「石門坎後援団」という 243 人の SNS グループで ある。そのような様々なプラットフォームにおいて、石門坎に関する様々な情報の交換が行 われている。
石門坎に関心を持つ人で構成されている「ネットワーク」は、石門坎の地域の再生に繋がっ ている。2004 年にマカオの教徒の寄付によって建て直された石門坎教会、2015 年に雲南の 漢族籍宣教師の子孫の寄付によって開店できたレストランなどは、その例である。
それに、L 氏に促されたポラードの子孫の石門坎の初訪問後、2016 年、C 氏は再び貴州省 に行き、ボランティアの案内で石門坎と周りの教会を中心に一ヶ月間の訪問を行った。その
ように、活躍している観光客らの協力によって、宣教師の子孫とミャオ族や教徒との新しい 繋がりが生み出されることとなったとも言える。
現在、観光を消費行為と見て、文化を商品と捉えている中国の主な観光開発に対して、こ こまでの石門坎をめぐる観光の特徴は、旅行業界ではなく、観光客が地域における歴史や文 化の価値に感銘を受け、それを自ら発信していくことだと言える。さらに、一部の観光客は、
実際にその地域へ足を運び、地域再生に参画している。
そのような自発的な観光客の行動が地域再生に繋がるという石門坎の状況は、観光という 行為の定義を再考する上で大きな示唆をもたらすものではないかと考えられる。
参 考 文 献
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