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野尻 英一 『有機体と「地」のエレメント

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ソシオサイエンス Vol.14 2008年3月       251

博士(学術)学位申請論文審査要旨

野尻 英一

『有機体と「地」のエレメント

ーヘーゲル『精神現象学』の有機体論を解読する−』

早稲田大学大学院社会科学研究科博士課程満期退学(2007年3月)の野尻英一氏は、2006年3月6日,その論文

『有機体と「地」のエレメントーヘーゲル『精神現象学』の有機体論を解読する−』を早稲田大学大学院社会科学 研究科へ提出して,博士(学術・早稲田大学)の学位を申請した。後記の審査員は,上記研究科の委嘱を受け,こ

の論文を審査してきたが、2007年10月6日審査を終了したので,ここにその結果を報告する。

1.本論文全体の目次

本論文全体の目次は,次のように構成されている。

目次 目次iii 凡例前 序章1

この論文のねらい 2 この論文の構成13

第1章「生命の樹」から近代の「有機体」まで 22

紀元前から近代までの「意識」と「生命」をめぐる考察 22 1.1 現代 23

1.1.1「生命」という理念 23

1.1.2 資本主義とスーパーコンセプトとしての「生命」23 1.2 古代から中世 26

1.2.1 1.2.2 1.2.3 1.2.4 1.2.5 1.2.6

L。_2_しヱ

1.2.8 1.2.9 1.2.10 1.2.11

キリスト教と生命 26 楽園追放 27 意識と生命 28

旧約聖書と生命の樹 30 生命と樹 33

新約聖書と生命 36

「見る」から「超越」へ 39

「超越」の起源 40

「自己」の発生と消失 43 忘却の泉とオルフェウス教 45 プラトンから中世の真理観へ 49 1.2.12 初期キリスト教とグノーシス主義 49 1.2.13 イエスと「生命」51

1.2.14 アウグステイヌスと三位一体 52 1.3 近代 57

1.3.1 ルネサンスと近代の実体論 57 1.3.2 スピノザとライプニッツ 57

(2)

1.3.3 西洋近代文明とキリスト教 59 1.3.4 プロテスタンティズムと媒体の消失 61 1.3.5 ドイツ観念論 一有機体概念の開放 64

1.3.6 現代の有機体的な思想は古代のものとはどう違うのか 66 1.3.7 ロマン主義の問題 72

第2章 カントと有機体論 79 明るい理性に照らされる有機体 79

iii

2.1『判断力批判』前史 80

2.1.1「有機体」organismの語源と概念史 80 2.1.2 啓蒙主義とカントと有機体 83 2.1.3 ニュートンによる世界の一元化 85 2.1.4 哲学の解放と課題 89

2.1.5 「力」とは何か 91 2.1.6 カントの批判哲学 97

2.2 カントの批判哲学体系と有機体論100

2.2.1 カントの二批判体系「演鐸」と「アンチノミー批判」を中心に100 2.2.2 二批判体系の問題と,『判断力批判』の誕生106

2.2.3 三批判体系の成立111

2.2.4 『判断力批判』のポジション117 2.2.5 メビウス的円環124

2.2.6 ヘーゲルのカント批判 131 2.2.7 カント有機体論の評価133 第3章 ヘーゲル『精神現象学』の有機体論138

暗い理性の見出す有機体138

3.1『精神現象学』のポジション139

3.1.1『精神現象学』とはどういう書物か139 3.1.2 否定的なもの142

3.1.3 完成されなかった体系145 3.1.4 『精神現象学』の成り立ち148 3.1.5 重層性と四次元152

3.1.6 循環か螺旋か158

3.1.7「ロマン主義」と「形而上学」161 3.1.8 「自然」の断念1根

3.1.9 「自然」と「精神」のちがいとは何か166

3.1.10 具体的な普遍が窺rsichになるのは何処においてか177 3.1.11『精神現象学』の有機体論へ182

3.2 『精神現象学』における「有機的なもの」184 3.2.1『精神現象学』有機体論の批判性184 3.2.2 転回点としての「有機的なものの観察」187 3.2.3 「有機的なものの観察」の論理192 3.2.4 日己を物とする理性,行為する理性 201 3.2.5 事そのもの 204

3.3 「地」のエレメントとヘーゲル哲学のベクトル 209

(3)

審査要旨       253

3.3.1 過程をもたらすものとしての否定性 209 3.3.2「普遍的な個体性」の導入 212

3.3.3 「有機的なもの」と丁普遍的な個体性」214 3.3.4 人倫的実体へ 215

iv

3.3.5 「地」の暴力 220 3.3.6 社会哲学と有機体 223

3.3.7 反自然的ロマン主義と社会哲学 228 3.3.8 日然の有機体,社会の有機体 237 第4章「地」のエレメントをめぐって 245

「意識ならざるもの」への接近 245 4.1『精神現象学』以後 246 4.1.1 有機体とプロセス 246

4.1.2 フェイズI:意識とシステム(社会科学における有機体モデル)253 4.1.3 フェイズⅡ:個体の重層性(自然科学における有機体モデル)255 4.1.4 7ェイズⅢ:日本における「生命」概念 263

4.1.5 フェイズ0:現象としての有機体(ヘーゲルの有機体論)267 4.2 仮説 273

4.2.1 4.2.2 4.2.3 4.2.4 4.2.5 4.2.6

「地」の暴力とは何か? 273

「同化」(assimilation)の次元 275 マルクス「パリ手稿」の思想 278

史的唯物論=「人間的自然」からの離反 282 空自としての中心 286

結論としての仮説 291 終章 295

かくも遠大なる迂回 MタイプとFタイプ 哲学の自閉を越えて 夜の言葉 318

6 0 8

9 0 0

2 3 3

2.本論文の章別概要と批評(批評には⇒が付されている)

「哲学とは何か」という問いに対しては,いろいろな答えがあるであろう。それは,哲学以外の諸学問を基礎づ ける学問論,人間的営為を吟味しながら人間であるとはどういうことかを明らかにする人間学,各人の生き方への 指針を与える人生論等,一一いろい−ろ一考えら−れる−であーろうー。−しかし「古住より哲学の唯一の本質とみなさ−れでき−たもーの は,形而上学以外には考えられない。もちろん形而上学にもいろいろなあり方があるが,やはり,端的に言えば,

人間の経験を超えしかも人間の経験を規定するものへの探求,これが形而上学であろう。したがって形而上学は,

経験の基盤から遊離した抽象的・観念的なものに見える。しかし経験から離れるという無謀な試みは,古代よりわ れわれ人間について離れない欲動である。この欲動は,われわれの日常を形成する自我,意識,世界,事物をもっ てしては,われわれ人間を納得させることも,不安を鎮めてくれるようなものでもない。

哲学は,それゆえ,日常の枠組みを離れて,[日常から見れば]抽象的・観念的な世界へと歩み入るのである。

アリストテレスは「哲学は驚きをもってはじまる」と語った。これは,日常的枠組みに乳み(この直接の原因が 私自身の有り方の場合もあれば,客観世界のあり方の場合もある)がやってきて,今ある自分ではない自分のあり 方を考えるように仕向けられた者の発言である。日常性が裂けるあるいは沈む,こういう経験を持った者だけが,

古代から綿々と続く哲学という迷宮へ入ることを許されるのである。

(4)

アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』によると,人間が理性に基軸を置くようになったのは,すでに紀 元前8世紀後半のホメーロスの時代であったという。人類が神話的世界を離れて啓蒙的世界に入っていく姿を,ア ドルノとホルクハイマーはオデュセウスの冒険諸の中に見出す。啓蒙的世界において人類は,全てのものを理性に よって合理的に解釈され得るものであるとして,世界解釈を遂行する。そのとき理性を疑いもなく信じて駆使する のは,人間のなかにある自我(自己意識)である。全てのもののなかから非合理なものを排除するのが啓蒙的あり 方であるが,この排除の仕方は,或るものに自我の臭いがしないものは神話的として排除するのである。ホメーロ スから3000年近く過ぎた現在,われわれは相変わらず,理性とそれを支える自我によって不安定なままに生きてい る。純粋に理性的たらんとすればするほど,非合理的なもの(これは端的に自然と言ってもよい)が,反旗を翻す。

20世紀の半ばに起こったヒトラーによるホロコーストは,啓蒙主義の徹底の決定的な結論であった。神話はすでに 啓蒙であり,啓蒙のうちに神話は息づいている。これが『啓蒙の弁証法』の言わんとしたことである。

われわれ人間のあり方は,或る一方の徹底が,同時に他方を覚醒させるということになっているらしい。この人 間的あり方の本質が,弁証法といわれるものである。ところが,近代は啓蒙的世界のうちでも,最も啓蒙的あり方 が徹底した時代であった。ヒトラーの登場もそのことを裏づけている。古代ギリシアはもちろんのこと,キリスト 教中世においても,啓蒙のカウンターパートとして宗教が厳然たる力を振るっていた。しかし神々あるいは神の退 場のあと,人間は自らの領土を無限に拡大すべく,非合理的なものを駆逐していった。否,非合理なものを駆逐し

たというより,むしろ非合理なものを見ないような構造を作り出していった。それが近代であった。

哲学史的に眺めるなら,カントは近代の枠組みのなかで,それに全幅の信頼を置きつつ哲学した(もともと或る 一つの枠組みに信頼を置いたらすでに哲学ではないのだが,カントは少なくとも哲学する発端としてそうした)。

一方ドイツ観念論者特にシェリングとヘーゲルは,近代の枠組みにまともに対立した。したがって,カントに対し ても,尊敬の念を払いつつもその「哲学」の不十分さを嘆いた。

野尻論文は,第一章で思想史的に上述のことの確認から入る。そして具体的に有機体論に重心を置いて,第二章 でカント哲学における有機体論を,第三章でヘーゲル『精神現象学』の有機体論を検討する。そして第四章で本論 文の主題である「地」のエレメントについて,近代の有機体論が「地」のエレメントを見えなくしてしまうあり方 が述べられる。

以下各章を具体的に見ていきつつ,問題点を指摘しよう。

第一章「生命の樹」から近代の「有機体」まで

18世紀に現われる有機体概念の解明に向けて,まず旧約聖書創世記第3章の「出来事」を人類が「陥穿」にはま り込んでいく寓話として読み込もうとする。つまり,あの「出来事」以後,いかに「知恵」と「生命」とが分離され,

したがって人間は「生命」に触れることができなくなり,仕方なく「知恵」でもって「生命」を形成[捏造]しな ければならなくなったか,ということである。

「知恵」と「生命」とが分離してしまって以来,人類は終りなく「生命」を求めざるを得なくなったしまったの である一訂−しか−しぅ−ドイツ朝念論者たち昧一分離きれた−「知恵」−と「生命」との融合に関して,有機体という一概念を

もってしようとした。それは18世紀中から始まる生物実験(トカゲの尾の再生実験等)によって,自然が自己修復 能力を,さらには自己設計能力を備えているように見えたからである。そして現代のわれわれの時代に至ってもま だ,この有機体思想は現代思想の核をなしているように見える。

⇒審査員の一人から,筆者は旧約聖書の解釈を行おうとしているが,キリスト教神学論を踏まえていなければ意 味がない,という意見が出された。つまり,誰か神学者を取り上げて議論を展開しなければならない。というのも,

「生命」の回復ということは,旧・新約聖書全体の主題であるからである。したがって,キリスト教の関連の話は,

あくまでも「寓話」として扱うように書き直すことが求められた。

また,創世記3章の「出来事」,つまり人類が「自己意識」を獲得してしまったことから,その浮遊する自己を 抑え込むために,創世記に続く「モーセ5書」では,「法」が語られ,人間に対する神からの徹底した「命令」が

(5)

審査要旨       255

発せられることになっている。本論文は,このことを無視している。

第二章 カントと有機体論

ここではカントの哲学体系全体から,カントの有機体論を検討する。カントは哲学者として早くに有機体思想に 着目した。カントは「沈黙の10年」(1760〜1770)の頃には着想しなかった第三批判としての『判断力批判』でこ

の有機体論を展開する。それは当時動物実験がいろいろ行われて,第一批判の頃の「自然」についての考えでは十 分ではなくなったからであろう。もちろんカントは,有機体思想をもって自らの「自然観」の変更を行うわけでは ない0つまり自らの自然観の中に有機体思想を取り込むという形で処理を行ったのである。カントにとって有機体 は目的論的判断力の所産であり,有機体は人間の能力としての理性のもたらす表象であると考えた。人間が有機体 という発想をとれるのも,人間が叡智界に触れており,そのことの副産物として有機体という「別の自然」が見え るのである,とカントは考える。つまり,見える自然のなかに「生命」があるのではなく,「生命」を可能にする われわれ人間の叡智的発想が,見える自然を「生命」と見ることを可能にしているのである。この可能性が,有機 体的発想なのである。

カントのこのような立場(すなわち有機体そのものの存立を認めず,それを人間の活動の副産物と考えたこと)

は,旧約聖書創世記で知恵(理性)から分離された生命は,自然のうちにそのまま息づいているわけではなく,む しろわれわれの理性によって獲得されなければならないということを言わんとしている。野尻論文はこのようなカ ントの立場は,第一章の立場(失われた「生命」は「知恵」によって回復されなければならない)の証左と考える のである。

⇒『純粋理性批判』と『実践理性批判』だけでは見えてこないカントの根源的発想は『判断力批判』によって始 めて明らかにされる。このことは,この野尻論文の発想である「生命の理性化」とそのことからの生命の解放が あってはじめて可能になるのであろう。

⇒カントの『判断力批判』の本質は,§77に表わされているが,この個所への言及がない。

第三章 ヘーゲル『精神現象学』の有機体論

カントの有機体論をめぐっての,「生命の理性化」の擁護は,啓蒙主義的発想の,否,旧約聖書の創世記的発想 の擁護であるが,それは新たな自然観つまり有機的自然観の出現の前での最後の抵抗であった。したがってカント 以後(いわゆるドイツ観念論において)は,啓蒙的あり方の死守という態度はなくなり,むしろ積極的に有機体的 あり方を認めつつその本質を究めようということになった。

ヘーゲルが「有機的なものの観察」を論じるのは,『精神現象学』の「理性」の章である。この箇所が,野尻論 文としては『精神現象学』のエッセンスであると考えている。そこで語られていることは,理性が自然を合理的に 分類整理することによって,自然を理解しようとする営みが失敗する過程が描かれている。そしてなぜ失敗するか といえば,理性にとって意識化されることのない「地」のエレメントが常に作用し,理性はそれを把振することが

でき_な史か_らヱある。_本論文はこの状況をト_生命を理性によ_つて把握しようと_する無謀な試みの失敗と解釈する_。

そしてこの失敗が『精神現象学』では,「観察する理性」から「行為する理性」への展開,あるいは理性から精神 への展開を可能にする,と考えるのである。

ヘーゲルは有機体を固定した完結したものとは考えず,動的で,開放されていて,また矛盾を含んでいるものと 考えた。そして,このように不安定な有機体の根底には,否定性や個体性があると考える。これら否定性や個体性 は,はっきりと現われているものではないが,有機体の不安定さつまり有機体が過程にあることが,したがって過 程を先へと進める何かがなくてはならないという形で,想定(要請)されるものである。本論文は,ヘーゲルがこ

の否定性や個体性を,次章で述べる「地」のエレメントの表出と考えている,と主張する。

ヘーゲルは「純粋な否定性」,「普遍的な個体性」という言葉を使う。つまり「純粋な否定性」とは,いかなる場 合においても肯定に転ずることなく否定のままであることであるし,また「普遍的な個体性」とは,どんな場合に おいても流動もせずまた変化もしないで一つの状態を保っていることである。「意識」の流動性が否定されて「自

(6)

己意識」として固定化される。自己意識は自らの成立ち(否定を通じて成立していること)を忘れて,世界を理性 的に捉えようとする「理性」へと展開される。この理性は,自らの対象として有機体を見出す。理性の世界を固定 的に捉えようとする態度は,有機体の流動性によって崩壊してしまうのである。

つまり「意識」から「自己意識」へと固定化を指示する「否定性」が,「理性」においては流動化を指示する「否 定性」として働くのである。つまりいつも(純粋な)否定性として働く何かがあるのである。理性の崩壊は,「純 粋な否定性」によってもたらされるのだが,この「純粋な否定性」は「地」のエレメントがもたらす暴力に由来す るのである。

⇒「地」のエレメントは,本論文の主題である。「地」に関して,『精神現象学』だけではなくて,イエーナ期の 自然哲学論文も参照すること。また「地の暴力」の議論は,『精神現象学』以後は消える。したがって,この「地」

を問題にするためにも,ヘーゲルの自然観を問題にすべきである。

=>「普遍的個体性」に関して,もっとしっかりと説明すること。つまりこのヘーゲルの用語を自分の言葉で語る こと。単にドイツ語の原文を挙げるだけではなく,自分で訳しコメンタールをつけること。

第四章「地」のエレメントをめぐって

ヘーゲルの「地」のエレメントの内実(ヘーゲルがどのようなことを言おうとしているのか)を明らかにするた めに,ヘーゲルの著作に内在(これは第三章で行った)することなく,外部から考える。

ヘーゲルにおいては,「意識ならざるもの」がそのまま「有機体」であるのではなく,「意識ならざるもの」と「意 識」との「融合」が「有機体」という現象を生み出す。したがってヘーゲルにおいては,「有機体」はそのまま「生 命」ではありえない。なぜなら「有機体」にはわれわれ人間の「意識」がたとえ部分的にせよ反映されてしまって いるからである。「有機体」を論じることが,そのまま「生命」つまりは「意識ならざるもの」を論じることにな るという錯覚を,有機体という考え方は導いてしまう。ヘーゲルは,このような有機体思想の危なさを十分理解し ていた。したがって,確かに意識の圏外へと至る契機として有機体はある種の役割を果たしているが,しかし有機 体は意識の外の事柄を十分語っていると思わせてしまい,「地」のエレメントへの想念を覆い隠してしまう可能性 がある。このことが,ヘーゲルをして有機体批判へと向かわせた事柄なのである。

最後に本論文は,「仮説」として,このヘーゲルの「地」のエレメントが,ヘーゲル以後現代までの思想にいか に関係・影響を持っているかに言及する。筆者は地のエレメントを,無批判に「無意識」として片付けてしまうこ とに反対する。そしてコジェーブに依拠して「欲望の共反射」の次元の事柄と考えようとする。さらには,ラカン の理論を援用して,地のエレメントの肉付けを行うことを宣言する。

=>ヘーゲルは有機体論を批判していないのではないのか。このことを論じるためには,『精神現象学』の人倫の 項で,地の暴力についてヘーゲルは再度言及している。そして人倫がいかに大地(自然)の法則を取り込むかが問 題となっている。地の暴力に関して人倫の項への言及が少ない。

⇒シュサングが有機体をそのまま丁生命」「としたような立場がヘーゲルにもあるのではな−いのか。

=>ヘーゲルの「地」のエレメントを語るためには,まずシェリング・バーダーの自然哲学,つぎにヘーゲルイエー ナ期の自然哲学,そしてヘーゲルベルリン期の自然哲学に言及する必要がある。

終章

「地」のエレメントの「肉付け」,これは容易なことではない。そもそも「意識ならざるもの」がどうして「肉付 け」可能となるのかといった疑問から,ヘーゲルは「地」のエレメントの領域を否定的なるものとしてしか語れな かったのではないのかといった疑問までもが生じてくる。筆者は最後に,今までの意見を踏まえつつ,今後展開さ れるべき哲学のヴィジョンを提示しようとする。

本論文は,「意識」と「意識ならざるもの」の関係を,つまり意識(知恵)と生命(「地」のエレメント」ある いは自然)との関係を,具体的なものにおいて見ようとする。それは男性と女性とのあり方である。筆者はMタイ

(7)

審査要旨       257 プとFタイプと名づけて,その特徴を述べる。男性(Mタイプ)は,合理的思考あるいは分析的思考に長け,女性

(Fタイプ)は直観的思考あるいは総体的思考に長けている。また自閉症の人々が,語られた言葉の表面的意味し か理解せず,言葉の背後に含み込まれている意味を理解しないのは,Mタイプの典型とも考えられるであろう。

文明化という現象が,人類の中のMタイプ的要素を助長しながら発展してきたのは明らかである。したがって文 明・文化が最終的段階に至ってしまえば,人間同士の交流は表層的な言語の意味でしか行われなくなるであろう。

しかし言語の表層的意味は,本来その背後にある見えざる基盤から語られているのである。その基盤を,「地」の エレメントと呼ぼうが,自然と呼ぼうが,あるいはさらに「存在」と呼ぼうが,いずれにせよ同じ一つの事態を言 い当てようとしている。文明化は,その事態を「忘れる」ことが文明化であると錯覚している。本論文は,「忘れ かけられている」この事態を,取り戻すことによって,MタイプとFタイプとの二つが作り出す調和としての「真」

を,人間が初めて獲得することができると主張する。

この終章は,大変面白い文明批評となっている。

3.評  価

本論文の表題は,〈有機体と「地」のエレメント ーヘーゲル『精神現象学』の有機体論を解釈する−〉 となっ ており,有機体の概念を使ってあたかもヘーゲル論を精敵に展開するかのごとくに思われる。しかし実際には,

ヘーゲルの有機体論(したがって同時に「地」のエレメント)を軸にしながら,人間・社会のあり方を考えていこ うとするものである。そうであるから,この論文は哲学プロパーの論文とは言いがたく,むしろ文明批評的論文で あると考えられる。哲学プロパーの論文とは,過去の哲学者のテクストを正確に読み,他のテクストとの比較さら には当テクストの先行研究を参考にしつつ,的確な解釈を行っていくというものであろう。本論文は,『精神現象 学』の「理性」の章の「観察する理性」の箇所においてすら,必ずしも厳密な読み方をしているわけではない。原 書ではなく翻訳書を頼りに考えているから,たとえば、IndividuumとIndividualititとの区別がなされていないといっ た指摘もされている。また傍証としてのシェリングへの言及に関しては,シェリングの自然哲学の面しか見てはお らず,超越論的哲学の観点が欠けているように思われる。また,「地」の暴力に関しても,ヘーゲルのイエーナ期 の自然哲学論文を参照する必要があるであろうし,また同じ『精神現象学』のなかでも,「人倫」のところで,ヘー ゲルは地の暴力に再度触れている。このことにも言及する必要がある。

社会科学研究科の生命倫理学という研究室で,哲学的な論文を書くということは,大変なことである。筆者は,

生命を単に「死んではおらず生きていること」といった表面的な意味では捉えず,また脳死判定は是か非かといっ た応用倫理学的な生命のとらえ方もをしない。むしろ生命を哲学的に根源的に考えようとしている。

A4版で300頁を超える膨大な量の論文であるにもかかわらず比較的読みやすかった,というのが審査員皆の意 見である。それは,筆者自らの観点から全てを見ていこうとする一貫性と,学際的視点から広範囲の問題意識を

もって著述していることからくることであろう。

ヘーゲル研究者からは,あまりにも独断的に過ぎ,また精敵にテクストを読むことを行ってはいないという批判 はある。しかし,西欧の思想の本質(急所)を的確に把握して,そこから自らの発想を展開している。否,この把

.埠と発想_はト__単に酋欧という地域の_問題ヱはな」_,_大間二股の在在にかかわる問題で_あ_左う。__人間_は_[自_然」_とい う地平を離れなければ,つまり文明化されなければ生き延びることができなかったのであろう。またさりとて,こ の自然からの離脱による文明の構築(知による)が,文明を不安定なものにしてもいるのである。

ヘーゲルの「地」のエレメント(地の暴力)は,文明化によって忘れ去られている「自然」を思い出すことを 我々に強いる。そしてこの論文は,文明においては,あるいは意識においては,否定的なものとしてしか存在しな

い「地」あるいは「自然」の再獲得の重要性を強烈に教えてくれる。

筆者は,哲学的な思考力を十分備え,さらにそれを表現する筆力をも持っている。これから,さらにこの間題を 展開できる能力を十分に持っていると考えられる。

(8)

4.結  論

以上の審査の結果,後記の委員は全員一致で,本論文の提出者が博士(学術)の学位を受けるに値するものと認 める。

2007年10月6日 審 査 員

主 査  早稲田大学教授

早稲田大学教授   経済学博士(早稲田大学)

早稲田大学教授   経済学博士(神戸大学)

早稲田大学教授   哲学博士(ドイツ・チュービンゲン大学)

法政大学教授

lr羽刀田東鹿山

玄 勝 進 徹 一 致   正   隆     誠 須 村 條 島   口

(9)

概 要 書      259

博士(学術)学位論文概要書

『『有機体と「地」のエレメント

ーヘーゲル『精神現象学』の有機体論を解読する−』

野 尻 英 一

この論文のねらい

本論考「有機体と『地』のエレメント」は,ヘーゲル『精神現象学』における有機体論を,生命論の文脈におい て考察しようとするものである。その意義は,次のようなところにある。

第一に,ヘーゲル哲学研究上の意義である。『精神現象学』における有機体論は,普遍性や理性,また個体性や 否定性といった重要な哲学的概念についてヘーゲル独自の思考が凝縮された箇所となっている。緻密な研究が為さ れて良い箇所であるが,先行研究は多くない。理由の一つは,この箇所の叙述が難解であることだろう。『精神現 象学』はヘーゲルの出世作であるが,諸事情により出版を急いだ経緯があり,その叙述は発想の展開にまかせて一 気に書き上げた感がある。その中で特に,有機体論の箇所は,ヘーゲルの豊かな発想力と深い洞察が固い結ばれを 作り,思想の「痛」のような様相を呈している。筆者はこの痛を切り開き,解釈することで,ヘーゲル哲学の根底

に至る通路が開かれると考えている。これが,『精神現象学』の有機体論を考察する第一の理由である。

第二に,現代の生命論の観点から,次のような意義がある。『精神現象学』の有機体論では,有機体という「現象」

が意識に対して生じるメカニズムが解説されているが,その際に,ヘーゲルは「地」(Erde)の暴力ということに ついて語る。「地」の暴力は唐突にヘーゲルの叙述に登場し,それが何であるのかは読者が一読して理解できるよ

うなものでは明する明るい理性によっては捉え切れないような「何か」を考えている。そして,そのようなものの 作用によって有機体は現象する,と考えている。ヘーゲルの「有機体」は,カント的な理性によっては捉え切れな

いもの,独自の過程として措かれる。だが,同時に,そのような「過程としての対象」である有機体を生み出して いるのは,それを見ている「われわれ自身」であるとヘーゲルは言うのである。つまり,われわれのうちには,わ れわれ自身の理性によっては明らかにし切れないようなものがあり,それが世界を見るわれわれの視角に影響を与 えている,あるいは,そのような深いエレメント(境位)からやってくるものに促されてわれわれは認識を行って いる,そうしたことをヘーゲルは考えている。ヘーゲルが言おうとしたそのエレメントとは,われわれ現代人がわ れわれ自身の「生」のあり方を根底から見つめるために,呼び起こすことが必要なエレメントであると筆者は考え ている。これが,『精神現象学』における有機体論を解明しようとするもう一つの理由である。

この論文の構成

この論文の全体の構成は,以下のようになっている。

序章

第1章「生命の樹」から近代の「有機体」まで

紀元前から近代までの「意識」と「生命」をめぐる考察 第2章 カントと有機体論

明るい理性に照らされる有機体 第3章 ヘーゲル『精神現象学』の有機体論

暗い理性の見出す有機体 第4章「地」のエレメントをめぐって

「意識ならざるもの」への接近 終章

(10)

各章の内容は,以下の通りである。

第1章「生命の樹」から近代の「有機体」まで

第1章では十八世紀に発生する有機体概念がどのような背景をもって成立したのか,その前史を素描する。その ために,われわれは,旧約聖書の古代にさかのぼり,西欧の思想史において「生命」がどのように考えられてきた のか,また,古代の「生命」についての考え方が,キリスト教の影響によってどのように変形され,西欧哲学の系 譜に取り込まれていったのかを考える。簡単に言えば,キリスト教は「生命」を「知性化」したのだと言えよう。

そうして,生命が知性化された結果,人間の精神を,理性を中心に考える近代哲学が生じた。

近代哲学は,脱宗教化を経て,「神」ではなく「実体」を理性によって捉えようとする態度となった。カント,フィ ヒテ,シェリング,ヘーゲルらのドイツ観念論は,実体を理性によって捉えようとするときに生じる「主観」の処 理の問題にそれぞれ取り組んだ。実体に至ることがはじめから可能であったならば,その到達は課題とはならない はずである。しかるに,われわれ人間はそのような状況に置かれていない。人間的主体は実体から分離してしまっ ている。この分離を解消し,人間的主体はいかにして実体に到達できるのかという問題を解くことが,ドイツ観念 論の課題であった。その過程で,有機体の概念が哲学的に考察されるようになっていくのである。このドイツ観念 論の試み以後,有機体のモデルは近代以降の社会に支配的な思想となっていく・。それは,旧約聖書において相いれ ない二つの原理とされていた「知恵」と「生命」とが,キリスト教から西欧近代哲学への継承において,融合され ていく過程でもあった。ほんらい別個であったはずの「知恵の樹」と「生命の樹」のキメラ(異種接合体)が現代 の有機体である。第1章は,このキメラが生まれるまでの西欧思想二千年の歴史を生命概念の変遷という切り口で 見た一つのスケッチである。

第2章 カントと有機体論

第1章で,現代の「有機体」的思想を,「知恵の樹」と「生命の樹」のキメラであるととらえた。その上で,そ の「キメラ」の構造を分析批判するために,第2章,第3章ではそれぞれカントの有機体論とヘーゲルの有機体論 を素描し,比較することを試みる。

第2章では,カントの有機体論を彼の哲学体系における位置づけから検討する。当時ヨーロッパ社会で流行した 有機体思想にいち早く着目し,みずからの哲学体系の重要なトピックとして取り入れたのがカントである。カント 以後,フィヒテ,シェリング,ヘーゲルらドイツ観念論と呼ばれる思想の系譜において,有機体論は不可欠の題材 となる。自然は有機体であると言われたり,精神は有機体であると言われたりした。彼らは,カント『判断力批判』

の実演を借りつつ,近代哲学の実体問題に取り組むために,有機体のモデルを使用したのである。

重要なことは,カントにおいては,有機体は自然的な現象ではないと考えられていたことであろう。『判断力批 判』においてカントは有機体を論じるのであるが,そこでの痕の理論はつづめて言えば,有機体という対象は目的 論的判断力の所産であり,理性のもたらす表象であるというものである。それは,認識ではない。有機体のごとき ものが見えるのは,人間が理性という超越的な道徳的能力をもっていることの副次的な効果であるというのがカン ートの主張であーる−。一眼前一に見える−[生−き一物」−のヰ一に−[生命」−が宿っているかのごと−く考えるのは,−われわれの錯誤で ある。道徳に用いられるべき理性能力を誤って認識に用いるために生じる幻影である。カントは「生命ある物質」

という考え方に生涯を通じて反対したと言われる。彼の体系構想にしたがえば,そもそも生物学や生命科学といっ た学問は不可能である。カントにとって,「生命」と言えば人間の「理性」のことである。それは,超越を可能に する力であり,人間の実践を道徳性へと導く力である。このような地上を適えて行く超越的な力が「生命」なので あり,それは神との接続をもつ人間だけが有する力である。動物だの植物だの微生物だのに「生命」などが宿って いるわけはない。せんじつめれば,これがカントの考えである。

第2章では,以上のようにカント哲学における有機体論のポジションを確定し,現代的観点からその評価を行う。

第3章 ヘーゲル『精神現象学』の有機体論

第3章でわれわれは,ヘーゲルが『精神現象学』においてどのように有機体論を扱ったのかを検討する。ヘーゲ

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概 要 書       261 ルは,カントの『判断力批判』に大いに感銘を受け,自然の中に現れている理性という考え方に影響を受けた。し かし,ヘーゲルは,自然に投射されている理性を「批判」(区別)し純粋化して道徳能力として確保しようとする カントの姿勢には反対した。『精神現象学』の「理性」の章,「観察する理性」と呼ばれる箇所で,ヘーゲルは「有 機的なものの観察」を論じる。そこでは,自然を理性的に分類し整理して理解しようとする理性の営みが失敗する 過程が描かれる。そこでヘーゲルは,理性の意図に反して「地」のエレメントが作用するのだと考えている。そう して,「地」のエレメントが作用しているために,有機体という無限の過程が現われるのだという。ここでは,い わば,生命を理性によって捉えようとする意識の営みが失敗する姿が示されている。この失敗によって,理性であ る意識は世界を理性的に捉えようとする「観察する理性」であることに留まりえず,「行為する理性」へと移行す るという展開に『精神現象学』はなっている。

この「地」のエレメントに注目する観点から『精神現象学』の展開を簡単にまとめなおすとこうなる。あらゆる ものを反照し,あらゆるものに浸透し,ほんらい流動である「意識」を固体化(個体化)させる契機がある。それ が何であるかは明確に名指しはできないが,とりあえずそれを,「普遍的な個体性」だとか「純粋な否定性」だと か「地」のエレメントだとか呼んでおこう。この契機によってほんらい反照であり浸透であり流動である意識は,

自分自身へと反照し,自己自身を意識する「自己意識」となるのである。こういうことが,『精神現象学』の「意識」

から「自己意識」への展開において語られている。この契機はいわば,もともと純粋な否定性である意識を折り曲 げ個体化させるもう一つの否定性であると言える。それが何であるかをヘーゲルは決して語らないのであるが,こ の契機は意識の強力な否定性と浸透性を否定し跳ね返す力を持っているのであるから,意識とは別の種類の否定性 であると推測することができる。そして重要なことは,このような契機の作用によって「自己意識」化した意識は その経緯を忘れ,忘れることによって世界を理性的に捉えようとする「理性」になるという展開になっていること である。そのような経緯をもって成立した理性が見出すのが,矛盾を含んだプロセスとしての有機体なのである。

そして上述したごとく,世界を理性的に捉えようとする理性の営みは,有機体を観察するうち,「地」のエレメン トのもたらす暴力によって破綻するのである。これはいわば,自己意識が自分自身の成立の経緯において働いてい た,別の種類の否定性を忘れていたのだが,その忘れていたことのツケがまわってきたという展開になっている。

この展開を第3章では確認する。

第4章「地」のエレメントをめぐって

第4章では,ヘーゲルが「地」のエレメントということでどのようなことを言おうとしているのか,それをとら えるための補助線をヘーゲルの外部から引いてみる。

ヘーゲルが『精神現象学』で考えていたプログラムは,意識が忘れていた契機を「精神」として取り戻すという ことであった。だが,意識とは異質のこの契機が,本当に,「実は『精神』であった」というかたちで取り戻せる ものであるのかどうか,そこは議論の余地があるだろう。ヘーゲルにおいては,自己意識成立において働いている にもかかわらず意識によって忘れられているこの契機は,いつのまにか,精神の現象の契機に,すなわち精神が世 界としてその姿を現わす過程に荷担するエレメントに変換されている。この変換が可能であるとされているからこ そ,_絶対知の境地は可能であ_る_と考え_られる。_絶対知とはいわば,__意識による意識化が貰徹された境地である。_意 識の否定性,浸透性にあらがうものがあるから現象の展開はあるわけだが,意識がすべてを意識化することができ たとき,あらゆるものを「精神」の現象した結果として理解する絶対知という純粋な学の見地が成立すると『精神 現象学』では言われている。しかし,意識による意識化の貫徹が果たして可能なのかどうか,これが『精神現象学』

の根本問題である。あるいは,こう言い直してもいい。意識による意識化の貫徹によって現れるものが本当に「精 神」であるといえるのかどうか。

第4章では,ヘーゲル以後に展開した現代の有機体思想の諸相を簡単にふまえ,それら諸相に対してヘーゲルの 有機体論がどのようなポジションをとりうるのかを論じる。現代を支配する有機体の思想,プロセスの思想の起源 を西洋哲学史の流れにおいて捉え,またその構成をヘーゲル『精神現象学』における有機体論で示される図式を通 して検討するというのが,本論考のねらいである。このことによって,ヘーゲル哲学の新解釈と,ポスト近代であ る現代という時代を捉える道具立てをそろえるための試みとしたい。本章の最後では,ヘーゲルの「地」のエレメ

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ントをとらえるた釧こ必要と考えられる補助線を現代の観点から呈示し,地」のエレメントはいかに見出されるべ きかについて,「仮説としての結論」を述べる。終章では,第4章における本論考の結論をふまえた上で,今後展 開されるべき哲学のヴィジョンを里示し,締めくくりとする。

以上が本論文の概要である。

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