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能 に お け る 伝 統 の 創 造 - 「 井 筒 」   の 場 合 -

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(1)

能における伝統の創造‑「井筒」 の場合‑

一㌧ はじめに

本論では'能における「伝統」と「創造」について考えたい。

能には伝釆される型があり'それは能の演技の伝統になっている。文化人類学にお

いて はエ リッ ク・ ホブ ズボ ウム  ( Er ic kH os ba wm )  の提 唱以 降'

「伝 統の 発明

」が 議論

され'あらゆる伝統が近・現在において象徴的に再構築され'同時代の関心事を反映

(‑)していることが論じられてきた。本論では'この観点から能役者の演技について考え

たい。すなわち'能「井筒」を例に'役者自身の演技に対する同時代的関心が受け継

がれた型にどのように変化をもたらすかを明らかにしたいと思うのである。

さらに'能には室町時代から伝わってきた作品があり'それらは能の伝統になって

いる。それに対して、近・現代に新たに作られた作品が「新作能」と呼ばれている。

能研究において作品の意味は普遍的なものとして論じられる傾向が著しい。しかし'

能の伝統をなす作品群の意味やレパートリーにおけるそれぞれの位置が近・現代の解

1

釈によって構築され、同時代の解釈ルールや価値観が反映されている。しかし、こう

した能の再構築は能研究における表象のレベルで行われているものだけではない。本

論で能「井筒」を例に'能研究による能の再構築と能役者による受け継がれた演技の

変化(=能役者によるパフォーマンスとしての能の再構築) とのかかわ‑について能

.gz役者に焦点を当てながら追求したい。

つまり'本論では'観世寿夫と梅若六郎の「井筒」を通して'受け継がれてきた演

技が役者自身の解釈によってどのように新たに創造されているかについて以下の二つ

の観点から検討していきたい。

① 能役者の舞台に影響を与えている役者自身の「演技観」'

② 能の研究における「井筒」 の「発見」およびその解釈の変化と能役者の演技の変化との関わ‑0

二㌧

謡曲

「井

筒」

 の

 「

発見

(4 )

まず'「井筒」の言語テキストの内容を簡単に紹介したい。

池畑ルクサンドラ・ヴアレンティナ

旅の

僧が

(脇

役‑

ワキ

)、

在原

寺を

訪れ

、そ

こが

業平

と紀

有常

の女

(む

すめ

) 

の夫

の旧蹟で'また「風吹けば沖つ白波龍田山夜半にや君がひとり越ゆらむ」という歌が

詠まれた場所だと昔を偲んでいると'里の女(主人公=シテ)が現れる。彼女が古壕

に回向をし.忘れられない思いがあると述べる。旅僧が里の女にその素姓を問う。盟

の女は、「風吹けば‑‑」 の歌を詠んで'有常の女(むすめ)が高安の女の所へ通って

いた夫の心を取‑戻したという'業平夫婦の結婚後のエピソードに加えて'「筒井筒井

筒にかけしまろがたけ生いにけらしないも見ざるまに」という歌に関連する'業平と

有常の女(むすめ)との結婚への過程について語る。そして彼女は'自分が「有常の

女(むすめ)」とも言われた「井筒の女(おんな)」であると名乗って'井筒の影に消

える

 (

ここ

まで

の物

語は

「井

筒」

 の

前半

であ

る)

0

業平の形見の衣を着た有常の女(むすめ) は旅僧の夢の中に現れ'「徒な‑と名にこ

そ立てれ桜花年に稀なる人も待ちけり」という歌を詠んだことで「人待つ女」と呼ば

れたことを語り'昔を懐かしむ。そして'舞を舞い (「序の舞」)'昔を偲ぶ。二条后と

の恋が破れた後、業平が詠んだ「月やあらぬ」 の歌'また'有常女への求婚として彼

が詠んだ「筒井筒井筒にかけしまろがたけ生いにけらしないも見ざるまに」 の歌が回

想される。夜明けと共に僧の夢が覚める (ここまでの部分は「井筒」 の後半である)。

ではへ この謡曲「井筒」はいつ頃から注目され始めたのだろうか。次に能研究の成

立過程をふりかえ、戦後の業績に焦点を当てながらそれを考えたい。

明治三五年(一九〇二年)'池内信嘉が能楽館を設立し、雑誌﹃能楽﹄ の刊行

が始まる (大正九年(1九二〇) 終刊)〇 二年後は池内信嘉が中心となって'高

田早苗・坪内遣遥・官居安吾・吉田東吾・五十嵐力・ノエル=ペリーなどとと

もに能楽文学研究会を開始する (さらにその二年後(1九〇六年)、この研究会

は文芸協会に合併される)。このようにして能楽研究は明治後期に出発する。し かし、明治から大正にかけて'さらに昭和前期の能に関する五十嵐力[五十嵐

1九二1、l九l四]'大和田建樹[大和1九八二at b'1九〇七]、野上豊一

郎[野上1九三〇t l九三四 1九三五二九四二‑1九四五]'能勢朝次[能勢

l九

三八

、1

九四

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四四

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九八

二]

、佐

成謙

太郎

[佐

成1

九三

1'

l九

三二

] 

など

(2)

の代表的な研究者の主な論考では'「井筒」は特に注目lされていなかった.世阿弥の著

書が発見され'出版されることになったのも'明治二四〜昭和三〇年代であり'それ

に伴い、世阿弥の芸術論の分析が行われた ([能勢一九三八二九四四㌧一九八二]'[小

西一九六二㌧ [西尾一九七四]) が'こうした分析も「井筒」に注目することがなかっ

た。しかし'世阿弥の伝書の刊行は'世阿弥作品の厳密な特定作業を促がした [cf小

西一九六三'二五〜三五].戦後の研究に焦点を当てて考えると、昭和三〇年代におい

て'「井筒」が世阿弥の作品として浮かび上がってきたと言えよう。横道寓里雄は「世

阿弥作と確実に言える能は約四〇ある (中略)。女体の複式夢幻能は少なく、若い女

で「井筒」、老女で「桧垣」 の二曲しかあげられない。平安貴族女性を範とする幽玄美

を唱えた世阿弥としては意外と言える(中略)型変わ‑なものには「松風」があるが、

これは改作だ」と指摘しており[横道一九五五㌧二一]'さらに、表章は「井筒」を「世

阿弥作と信じうる曲」として位置づけた [表一九七九へ四九二]。

この時期に'世阿弥の能とは何かという議論が活発になり'世阿弥の作風の特

徴が

取‑

上げ

られ

始め

た。

小西

甚一

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[P

ou

nd

19

16

] 

に影

響を

受け

'世

弥の能の主な特徴の1つは「統1イメージ」 にあると論じた [小西 l九六二へ二六‑

二八㌧1九六三'三七〇‑三八三].さらに'1九六三年'世阿弥誕生六〇〇年記念行事

の座談会で'表章・小西甚一・横道寓里雄・観世寿夫等は'世阿弥の能を構成・詞章

という観点から取‑上げた。ここで「井筒」は世阿弥の能の典型を表わす作品として

最終的に位置づけられ、「世阿弥の考えた幽玄」を探るための有力な手掛かりとして評

価された[香西一九七二㌧二九五㌧三一五'三一九]。本論では観世寿夫の「井筒」につい

て検討するが、彼がこの座談会に参加していたことを念頭に置きたい0

さて、こうした議論を受けて'八嶋正治は「井筒」 の構造を分析し'芸術論と関連

付けて世阿弥の作風の展開を論じた。彼は現代に演じられてきた能の型を念頭に置き、

「女能における様式性の進展が「井筒」 によって終止符が打たれた」とLt 「井筒」を

世阿弥の晩年の作品'世阿弥の作風の達成点として位置づけた [八嶋一九六五a、b、

一九六六a'b、C]。

「井筒」が「伊勢物語」 の中世の注釈と関係が深いことは一九六三年から指摘されて

いたが[香西一九七二'一六二‑1六六]'一九六五年に伊藤正義は「謡曲と伊勢物語

の秘

伝 

‑ 

「井

筒」

の場

合を

中心

とし

て 

‑ 

」を

発表

し'

その

なか

で「

井筒

」が

「伊

物語」 の古注(中世の注釈) に影響を受けていると指摘し'「井筒」 の主人公が自分を

「人待つ女」と呼んでいる背景には、古注の「智顕集」があることを浮き彫りにした[伊

藤一九六五㌧二‑九]oこの発見は後の「井筒」解釈に大きな影響を与えたO

このように'「井筒」を世阿弥の代表作として評価し始めた能研究は'一九六〇年代 において「井筒」「発見」の時期を迎えたと言えよう。そして'一九七〇年代において「井筒」の研究はさらなる展開を見せる。すなわち'八嶋正治が「「井筒」の構造」[八嶋

一九

七六

at

 b

]、

堀口

廉生

が「

待つ

女 

‑ 

「井

筒の

手法

」 

[堀

口一

九七

八]

'西

村聡

が「

「人

待つ

女」

の「

今」

と「

昔」

 ‑

 能

「井

筒」

論」

[西

村一

九八

〇]

を発

表し

たの

ある。これらの論考は'テキスト分析にもとづいて'「井筒」のテーマが「待つ女」の

夫への「不変の愛」であると強調したり[堀口1九八八㌧二二]'「業平を二心に恋い

慕う」主人公の「待つ」行為を評価した‑[西村一九八〇㌧九五、一〇六‑一〇八]、そ

の「

純真

さ」

を評

価し

た‑

した

 [

八嶋

1九

七六

bt

 1

六]

さらに、1九七〇年代には演出という角度から「井筒」を論じる論考も現れる。中

村格は一九七四年の「室町末期の女能 ‑ <井筒>の場合」および一九七六年の

「<井筒>の主題と<幽玄>」において'室町末期の演出では「井筒」が前半に登場す

る里の女という前ジテに「深井」 の面'後半に現れる紀有常の女(むすめ)という後

ジテ

に「

十寸

髪」

 (

「逆

髪」

) 

の面

を付

け'

「序

の舞

」 

の前

のセ

リフ

のと

ころ

に「

カケ

リ」

を入れ'場合によって「序の舞」も除き「カケリ」を演じることもあったと論じた[中

村一九七四'二二七、二二九1二三〇]。(「深井」は中年女性の役'「逆髪」は狂気の女

性の役に用いられる。「カケリ」は狂乱の表現である)。

一九八〇年代にはいると'「井筒」解釈は堀口・西村の論文の延長線上に「待つ」「井

筒」 の女性の愛の普遍性を絶賛する傾向にあり'そこに中村格の論考はほとんど影響

を及ぼさなかった。

三㌧

能役

者観

世寿

夫の

 「

井筒

まず'観世寿夫の役者としての略歴を紹介したい。彼の活躍は以下の三つの特徴が

上げられる。1点めとしては能研究界との繋が‑が強いこと'二点めとしては能以外

の演劇ジャンルのなかで活躍する役者との繋が‑が強いこと'三点めとしては日本だ

けで活動する役者ではな‑'海外公演・留学を経験し'外国の俳優などとの交流を頻繁にもったことである。観世寿夫の演技はこうした幅広い活躍の中から生れたもので

あり'「井筒」に対する解釈や演奏の仕方にもこの活動の特徴が溶け込んでいると思わ

:e a

れる。この三つの特徴に焦点を当てて彼の略歴を見ていきたい。

観世寿夫(一九二五年〜一九七八年) は七代観世鎮之丞の長男として生まれ (観世

栄夫'観世静夫(後の八代日銭之丞) が弟)、四歳の時に初舞台を踏む。二一歳の時(1九四六年) に能楽師に学問的な素養を与える目的で開かれた 「能楽塾」 に入塾Lt

土岐 善麿

・野 上豊 一郎 など の講 義を 受け るO  二 四歳 の時  ( 1九 四九 年)  に 東京 文理 科

大学で能勢朝次の「世阿弥の能楽論」を聴講する。二七歳から三二歳の間 (一九五二

〜一九五七年) に「阿弥伝書研究会」 に出席し、西尾実・小西甚一・横道嵩里雄・表

ー116‑

(3)

章の研究成果に触れる。一九五九年に開始された観世宗家所蔵文書の整理作業にも関

わり'さらに'1九六三二九六五年(観世は三〇代) に錬仙会で「能楽講座」を主

催し、横道寓里雄が講師として迎えられる。このように'観世寿夫は常に能研究の動

向を把握していたことが窺える。前述のように'観世寿夫は1九六三年の世阿弥誕生

六〇〇年記念座談会にも参加しており、能研究における一九六〇年代の「井筒」 の 「発

見」を認識していたことが明らかであろう。

能研究による「井筒」 への注目が観世寿夫に影響を与えたことは、彼のキャリアに

おける「井筒」 の演能の頻度をみると明確であると思われる。観世寿夫は一九四八

午(二三歳) の時の初めての「井筒」から一九六一年(三六歳) までの期間、初舞台

も含めて「井筒」は二回しか演じていない (二回目は一九五〇年)。それに対して'

1九六二〜1九七八年(三七〜五三歳) には、ほとんど毎年「井筒」を上演してい

る。「井筒」 の上演がない年(一九六四㌧一九六六㌧一九七〇年) も見られるが、二回

(1九七七年'五二歳) や三回(l九六九年、四四歳、一九七三年、四八歳) の年も

見られる。つまり'一九六二年以降死ぬまで、観世寿夫は一六年間に一八回も「井筒」

を演じている。一九七七年九月喜多能楽堂で録画され、十一月のNHK劇場で放送さ

れた彼の「井筒」は、現在NHKヴィデオとしてビクター音楽株式会社から市販され

てい

る。

観世寿夫の活動の特徴が能以外の演劇ジャンルの俳優との交流'また、海外公演や

外国の俳優との交流にあることは前述のとお‑で'年代順にみてみると'一九五四

年(二七歳) に海外公演に参加、一九五五二九五七二九五九年(三〇代前半) にお

いて(歌舞伎・能の演技術を生かした新しい演劇の演出に取り組んでいた)武智鉄二

演出の芝居に出演'一九六〇年に武満徹作曲の能舞「水の曲」 に出演する。さらにt

l九

六〇

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4)

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ヌ・イヨネスコとの交流が知られている)、1九六三年にウ‑ジューヌ・イヨネスコ (Eugen

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4)

は前

衛演

劇作

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演劇

の代

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され

る)

など

との

交流

を持

ち、

一九六二年(三七歳) にパリに渡り'ジャン=ルイ・バローのもとで学び、能研究会

も開く。前衛演劇とのこうした交流の中で、観世寿夫は世界の演劇(とりわけ前衛演

劇やリアリズムといった西洋演劇の演技術)という観点から能の演技術について考え

るようになり(次の頁で詳述する)、1九七〇年に新劇の演出家や俳優と一緒に「冥の

会」を結成し'一九七一〜七六年(四五〜五一歳) にギリシア悲劇や前衛演劇などを

上演する。また'能の海外公演にも積極的に関わる(一九七二・七六年'四七・五1歳)0

前述のように'観世寿夫の「井筒」上演の数は、一九六二年以降格段に増える。それ

は能研究における「井筒」の「発見」と関係があるのは疑う余地がない。しかし、観 世寿夫にとっては'一九六二年はパリ留学の年でもあり'以前から続いていた前衛演

Ill)劇界との関わ‑をさらに深めた時期でもあると思われる。前衛演劇やリアリズムとの

比較から能の演技術を見詰め直す役者としての観世寿夫の探求は、「井筒」を数多く上

演する要因ともなったと思われる (後述)。

このように観世寿夫の活動記録を踏まえて考えると、彼の「井筒」は研究成果の消

化と演技者の独自の探求との結晶であると窺える。しかし、観世寿夫はどのような演

技を目指していたか'また'そうした技術的な側面と彼が能研究から得た知識とをど

のように統合し'彼独自の「井筒」を生んだのか。

では'観世寿夫の論文に見られる彼の演技に対する問題意識および「井筒」 の解釈

をとはいかなるものだったのか。次にそれを紹介したい。

一九五〇年代の観世寿夫は、「いたずらに社会主義的なリアリズムの考えから'物

まねを必要以上に重要視したり、自然主義的な演技方法から感情的なものを表現する

ことになったり、現代劇の演技術をそのまま応用して'む‑や‑合理的に整理」す

ることは'能を「つまらない」ものにしてしまう方法であると訴えている [観世

一九八一、三〇]。彼はリアリズムの演技方法を否定Lt 能の非合理性を表現すべきだ

と主張する。彼がここで「非合理性」として取り上げているのは、三島由紀夫によっ

て指摘された能の特徴である。三島は'能が様々なイメージの飛躍やぶつか‑合いか

らなりたっている「観念連合の文体」 であると言い'「意味を追うかイメージを連続さ

せるかという二律背反にぶつかって'お能は極度に意味を排除して'言葉の音楽的機

能とか象徴的機能とか'そういうものばかりを極度に発展させていく」と述べている

[観

世二

〇〇

一、

二六

五‑

二六

六]

。 このように観世寿夫は能の非合理的なイメージをリアリズムという演技法ではな

‑、「個人を否定した」演技法で表現すべきであると考えていた。その演技方法は烈し

い稽古の結果として体得されるものであり'「無意識的」なレベルに達した時に能の

美を表わせるもの'そして抽象的に「個人」を表わせるものであるとしていた [観世

一九

八一

'三

〇]

一九五〇年代における彼の考え方は、その後も貫かれている。一九七〇年代に刊行

された彼の論考・対談においては'リアリズムの演技術の否定・能のイメージの重視・

能のイメージと身体表現の関係の重視が依然として現れている。そして「井筒」は具

体例として頻繁に取り上げられている。例えば'一九七六年の武満徹との対談「日本

の文化と今日の能」 では'彼は能の非合理性 (イメージ)・抽象性について次のように

語っている。

ヨーロッパの近代劇みたいな、相手役との葛藤というものの上に成り立った演劇'

いわば合理劇'条理劇とはまった‑ちがったものですね。(中略) 「井筒」なら「井

(4)

筒」 の女という中に持っているいろいろな要素はいろいろな形をとって出てきま

すね。それは合理的な時間観や空間観じゃなくて'ばらばらにでできます。しか

し'それはあるいみで抽象的な形で出ているから'演じる人によって大変ちがう

わけですよ。(中略) しかもそれは'「井筒」 の全体のイメージというのがなくなっ

ちゃったわけでもない [観世1九八二二三二]

また'1九七八年10月〜1九七九年1月に刊行された「心より心に伝ふる花 ‑能の現象学 ‑ 」では'「個々の役における「物まね」はまず切り落としてしまいたい

わけだ。その役がどんな階層の人間で'年はい‑つで'体格や顔つきはいかようで'

どんな心理状態にあるかという、さらに作品全体のなかでこの部分はどのように演じ

られるべきであるかという、つま‑リアリズムの演技計算(中略) で役作りをしよう

とすることは'夢幻能には不向きである」 (強調は筆者による)と'リアリズムとして

能を演じることを否定しながらへ能の演技においてイメージを重視する姿勢を見せて

いる

能の中でも特に夢幻能の場合'曲全体のイメージや'各役の存在意義'音楽舞踊 。

を含めた構成(台本) について丹念に読み取ることは、何よりも必要であると決

まっている (中略)。「井筒」 の女は'一名「人待つ女」と呼ばれ'永遠に変わら

ず相手を待っているのである。怨みにさえ通じるほどの執念である。これは暁ご

とに同じ場所で月の光を見る [観世二〇〇二一七七‑一七八]

月光のなか夫を待っている「井筒」 の主人公、そのイメージは「曲全体の内容をみ

ごとに表出している」と彼は考えている。そして、そのイメージは身体表現となるべ

きであると以下のように説いている。

「井筒」 の曲の生命をまず読み取って、しかも能の場合'それはそのまま謡いな‑

動作なりに表現するというより'息のつめ開き'細かいリズム'ひと足運ぶ空間

の処理といったようなひとつひとつの行為に託さなければならないのである。[観

世二〇〇二一七九]

彼はこうした演技法が「役に扮する」リアリズム演技法と異な‑'「「井筒」 の女と

いうものを使って、自分をいかに出すかということだと思うのです」と言う。彼の求

めている演技法は「絵を措‑のと同じかもしれませんね。素材そのものになっちゃう

のではなくて'いかにそれを使って自分を出すか」 [観世1九八l'二四八] にある。

彼は能における演技について語る時に'繰り返し演じる役者と演じられる役の関係に

ついて述べ'それは役者自身が自分の生き方を世に問う機会でなければならいと言う。

例えば'「井筒」 の後半における「序の舞」について次のように語っている。

「序の舞」が実際に十数分であったとしても'それは一瞬間とも、また一生とも言

える不思議な時を作り出すことができるのである。演技者とすれば'自己の生命 力がその一瞬一瞬に舞台の上で華をひら‑ということにならなければ創れないものといえる。(中略)表面的な劇性を越えた「井筒」全体の主題が'演技者の生き方と'「井筒」 のシテの性格を通じて、深くしっかりとうちだきなければならないの

であ

る 

[観

世二

〇〇

一、

七八

]。

観世寿夫は能の演技を西洋前衛演劇・芸術の「不条理」・「抽象性」に近いものとし

て捉えているOその背景には1九五〇年代における彼の日本前衛演劇との交流がある

[観

世1

九八

二二

1‑

二二

]。

また'一九六〇年代の留学および日本での海外の前衛演劇との交流もこの考え方に

繋がっている。彼にとっては'「能が五百年前にできたとしても'現在のアンチエアア

トルとどこかでつながるようなものをもっている」'つまり、漬技法という側面におい

て'

能は

前衛

演劇

に近

いも

ので

ある

 [

観世

l九

八1

'三

九、

1六

四‑

1六

七]

.観

世寿

夫 は明治以降の外国人研究者や芸術家による能に対する受け止め方に関する文献も多く

f9知り'彼の考え方は実体験のみにもとづいていることではない。

観世寿夫は生涯、西洋演劇においてリアリズムの演技法を説いたスタニスラフ

スキ

ー(

St

an

is

la

vs

ky

) 

や前

衛演

劇の

演技

法を

説い

たア

ルー

Iや

グロ

トヴ

スキ

(G

ro

to

ws

ky

) 

の論

考を

念頭

にお

き'

自ら

受け

継い

だ能

の演

技に

つい

て考

え続

けた

[観

世二〇〇二一〇二。この姿勢は彼が受け継いだ演技の「伝統」を変化させた。これ

は「井筒」に限らず、観世寿夫の活動を貫‑演技術における「伝統の創造」 であると

言えよう。伝承された型の反復だけが「伝統」 であるという見方に対して観世寿夫は

否定的であり、常に伝承された型の「創造」を試みていたことは彼の次の言葉からも

窺わ

れる

江戸時代の末期ころから、能の教えは(中略)師匠に教わった通‑にやっていれば'

いつか自分のものになる、それ以外のことを考えたりやった‑するのは邪道だと

さえいわれたのである。それは意味がないものではない。ク教わった通りにやるク

ということが'まず第一の基礎作りであろう。それが能の役者たり得る土台とも

いえるもので、それな‑しては何を読んでも根づ‑ものではない。さらに、謡曲

‑ 能の台本 ‑ を何度も‑り返して読むことも本質的に必要なことである。そ

のうえで'(中略)自分のものにしてしまわないと表面的な捉え方になってしまう

(中

略)

演出ノート'あるいは演技メモと言える型付などにしても (中略) それを単純に

上べだけで読んで、金科玉条のごと‑にしてしまってはならない。大袈裟な言い

方をすれば、前述した土台のうえにたって、能の役者の能への思いや‑や感性'

ひいては演劇観、人生観'世界観が'型付の一行の読みに投影されて、はじめて

能として舞台に生きるのだ。[観世二〇〇一'九九‑一〇二

‑118‑

(5)

以上'観世寿夫の活動をふりかえ‑ながら'能役者自身の演技に対する同時代的関

心(主に演劇観) はどのように受け継がれた型に変化をもたらすかについて考えてき

た。本論の冒頭に述べたように'本論の目的は、役者自身の「演技観」がどのように舞

育(演技法) に影響を与えているかtと'能の研究がどのように能役者の演技に関わっ

ているかという二つの観点から考えることである。以上、観世寿夫の「井筒」を通し

て'第一の視点からの能における伝統の創造を取り上げてきた。つづいて'第二の視

点から考えてみたい。すなわち、能研究はどのように役者の演技の新たな創造に関わっ

てくるかという側面についても考えたい。

観世寿夫の役者としての探求において'六〇年代に能研究に注目されはじめた「井

: ca :

筒」は一つの重要な題材とな‑'彼は好んで「井筒」 の舞台に挑戦していた。そのな

かで、彼が能研究における「井筒」 の解釈から、自分の考え方にあった部分を取り入

れて演じていることが窺える。例えば'伊藤正義が「井筒」 の主人公を「人待つ女」

として解釈して以降、七〇年代後半において研究者が「井筒」 の主人公の「待つ」行

為を評価し始める。同じ時期に観世寿夫も「井筒」について語るときに主人公を「人

待つ女」として捉えている。例えば一九七六年の武滴徹との対談「日本の文化と今日

の能

」 

[観

世1

九八

一㌧

二三

二]

 や

1九

七八

‑1

九七

九年

「心

よ‑

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「井筒」が ﹃伊勢物語﹄ 二三段を素材とすることは周知の通りである。(‑‑)級

半において'永遠の恋人、在原業平の形見の衣装をまとった紀有常の娘が現れ、

序の舞いというまことにゆった‑したテンポの舞を'一五分ほども静かに舞い続

ける。これは、私の経験では一名「人待つ女」とも呼ばれる紀有常の娘が'恋人

の着物を身に着けたことによって相手と1体化した官能の世界へと没入する'そ

れが舞いに流れ込んでいくことなのだと思う。しかも'男性である演者が美しい

女性を演じ'さらに男装するといった両性具有的官能美の世界である。十数分の

この時間は'演じる側もみる側もいかにも現実の時空を離れ、内的な時の流れへ

と飛躍できるはずのところと思う。 ‑ こうして'舞が終わったとき'「井筒」最

高の盛り上がりが来る。舞台にただ一つ置かれている井戸の中に'わが身を映し

て見るところである。恋人の形見の着物を着たわが姿'いや恋人の姿を水鏡に映

して見込む。一瞬'すべての音は停止し'息をのむ。性的エクスタシーである [観

世二

〇〇

二1

六二

].

一九七七年に録画されたヴィデオはこの時期の「井筒」を舞う観世寿夫の姿を残し

ている。その彼は、能研究の成果を自分の解釈に加え'「井筒」 の舞台を創っている。

役者の解釈に影響を与えることによって'能研究は演劇としての能における伝統の創 造に力を貸している。

観世寿夫は1九七八年に没するが、「井筒」に関する研究論文は一九八〇年代に入る

と「人待つ女」主人公に焦点をあてるものが主流になり'また演能の際に配られるパ

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能研

成果を自分の演技に取り入れた晩年の寿夫の「井筒」 の舞台および「井筒」 に関する

発言は、研究の言説を再生産することとなり、研究・能役者・・観客による「井筒」 へ

:ea乃の関心を促がしたと思われる。例えば'﹃国文学解釈と教材の研究﹄一九八〇年一月号

に世阿弥に関する特集があり'そのなかで武滴徹は観世寿夫の「井筒」観について触

れた後'次のように述べている

「能において演じられる「性格」'つまり能役者の肉体を通じて顕われるのは'限

定されたひとつの「性格」 であるよ‑は'或るものから他の別の性格へ移りゆく

超速度の変化、その一瞬の隙間にたちあらわれるもののようである。

「井筒」 の「人待つ女」は'無限の人称としての、「存在」そのものであるように

私に

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武満

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〇]

さらに'観世寿夫の発言の研究者への影響力は'羽田殖「世阿弥作品の鑑賞<井筒>」

に見られる [羽田一九七七、二二二。観世寿夫が研究の成果を再生産しているだけで

はな‑、研究もまた観世寿夫の解釈を再生産している現象が窺われる。このように「井

筒」は主人公の「待つ」行為を通して「愛の普遍性」を表わしているという解釈は支

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井筒

つづいて'梅若六郎の「井筒」を取り上げていきたい。

五十六世梅若六郎は (一九四八〜) は'五十五世梅若六郎の次男として生れ、三歳

の時初舞台を勤める。彼の活躍には次の二つの特徴が上げられる。ひとつには'上演

されなくなった能の復活(復曲活動⁚一九八三年〜)'現行曲の見直し(一九八五年〜)、

新作能(一九七五年・一九七八年'一九八四年〜) を数多‑手がけていること (こう

した活動を推進するために一九九〇年に「能劇の座」を設立させる)'二点めは'海外

公演を頻繁に行っていること (一九八九年〜) である。

梅若六郎は'演技という側面においては、祖父 (実) や父に教示を受けるが'観世

寿夫については「十代半ばに初めてお目にかかって以降'ずっと憧れの対象でした

(中略) 催しの際'時折ご1緒できるだけで嬉し‑'舞台でも'寿夫さんの謡や舞を

たびたび真似て'父の怒りを買った」 ことがあると言っており[梅若二〇〇三㌧二七、

一五五‑一五六㌧二五二‑二五三]'観世寿夫と一緒に「通小町」 (一九七七年'二九歳)

を上演する。

(6)

二〇代〜三〇代なかばごろまでは「自分の持ち味」を早‑だそうと思っており、

≡l歳の時に父を亡‑して以降'その態度が「クうわべ″にだけ目を奪われての見

方だった」と思うようにな‑、やがて'能の演技における個性は「型の反復練習を

主とした絶ゆまぬ毎日の稽古の繰り返しによって生れる」と考えるに至った[梅若

二〇〇三、二七、1五五‑1五六、二五二‑二五三、1七九Il八二]O梅岩は'観世寿夫

の芸にも、五十五世梅若六郎の芸にも、そして自らの芸にも「人生の生き方」・「価値観」

や「稽古と向き合う態度」が表れると考え'それゆえ、演技は単なる「型」の踏襲で

はないと言う[梅若二〇〇三㌧六四‑六六tl五六‑1五七'1六1‑一六二]。

梅若六郎の論考によ‑表れているのは、パフォーマンスとしての能の一回性(主役

を演じる役者の身体的特徴・癖、共演者との間'本番における演奏者それぞれの体調、(川⁝)予期せぬできごとの発生などによる能の一回性への認識である[梅若二〇〇三、一八三

‑一八九㌧l九二]が、自分の漬技法・役作りに対する理論的枠組みはあまり明かして

いない。例えば'彼はリアリズムのスタニスラフスキーについても'前衛演劇のグロ

トフスキーについても何も語っていない。しかし'「恋心'それも複雑で微妙な女性

の胸の内は、たとえ霊でな‑てもなかなか男にはわからないもので、ワザができたと

しても'なかなかこt創刊レベルまでいたしません」[梅若二〇〇三'五九‑六〇]と言

う彼の言葉から'彼が役作りにあたって役の「心理」を考えていることは窺える。演

技に対する梅若六郎の考え方については'以下で紹介する「井筒」の解釈の内容から

も究明していきたい。

「井筒」の公演は一九七四年(二六歳)、一九八六年(三八歳)'一九八九(四一歳)、

二〇〇一(五三歳)の数回である。著書﹃まことの花﹄の中では「井筒」への思いは

不明だが'二〇〇三年七月二九日'日航大阪ホテルで筆者のインタヴューに応じ、そ

のなかで次のように語っている。

いままで父親がやっていた「井筒」というものがありますよね。それは本当に優

雅な昔男を思い焦がれ、その思いを大切に大切に思っている女性という感じがし

たわけね。果たしてそうなのかと。ね。そういう気がしたわけですよ。人間はい

ろんな思いがあって、それを直接表現するときと、間接的にあるいはなかなか表

現しきれない。この女性は多分、表現できない女性だったんじゃないか'そのな

かじっと我慢するというのじゃないけどね、というか多分'この女性は日本の昔

の女性の典型かなと思っている。我慢でな‑て、そういうものかなと思って'ず‑

と耐えている女性、というのはこの「井筒」の女だという気がして'そういうふ

うにできたらいいなと思ってやったわけです(中略)。初演のときに。というかそ

れまでは'ちょっとあたためていた。(中略)父親ではない先輩方の舞台をみて思っ

ていたわけですよ‑‑そのとき「井筒」を一番得意としていたのは家の父親とあ の観世寿夫さん。(中略)。どういうわけか寿夫さんの「井筒」みてないんですよ。テレビで見てるのね。だから'テレビだったんで、あんまり納得していないんだ。他の方の先輩も見たけど'皆納得できない。演技とかそれはすぼらしいですよ、だけど 僕の思っている「井筒」とは違うんだなという感じがしたわけ。それは第1回の「井筒」ですOそれ以降は何回かO僕は本当に「井筒」は少ないんですよ。やっているのは'数えるぐらいしかやってない。

梅若六郎は二〇代の 「井筒」 の初演から、観世寿夫の「井筒」等先輩の演じていた「井

筒」と異なったものを探求していたと言う。前述のように'特に一九七〇年代後半以降'

能研究において「井筒」 の主人公は「人待つ女」として評価され'観世寿夫の解釈も

そうした研究成果を再生産していた。そうした主人公の1途な想いを表現する観世寿

夫等の「井筒」に対して'五十六世梅若六郎は疑問をもち'「いろんな思い」があ‑な

がら、それを「表現できない」「耐えている」女性を演じたいと思っていたと言う。主

人公の心理に対する興味はこのような言葉からも窺える。

梅若六郎は一九八〇年以降'能の復曲活動を始めており'父親の弟子でもあった劇

作家で評論家の堂本正樹がその作業を支えた [梅若二〇〇三㌧二〇二。さらに、雑誌

﹃梅若﹄からも窺えるように'一九八五年以降の現代曲の見直し作業において、梅若六

郎は能研究者横道寓里雄'小田幸子などと交流をもっている。この時期に二度目の「井

筒」 の上演が行われる (満願寺での演能)。梅若六郎は筆者とのインタヴューのなかで

次のように語っている (以下で梅若はU、筆者はRとして登場する)0

U 満願寺ですることになって'機会を得て'そこで本当にもう僕の思っている

ようにやってみたい気がして。僕と1緒にやって‑れていた堂本正樹さんと

相談したら'「井筒」というのは'世阿弥の書きおろしたときには'狂乱の能

だったんじゃないかと'ま'それは想像でしかない。ま、面は逆髪(さかがみ)

という狂気を含んだ面であると。そういうことから考えることが一つと。そ

れから'男の残した形見の装束'それを身につけると言うのは'能の中では、

狂乱の現れ。(略) 狂いと言うのは'僕の中で、ずっと感じてたんですね。後

半'登場してね'非常に高揚した謡を'たとえば'ああいう女物にない、非

常に高揚した'興奮した状態で「形見の直衣'身に触れて」というようなね'

それはだから、その節のわりには'今の謡い方は冷静なのね。でもね、ああ

いう節というのは高揚したときに、「形見の直衣、身に触れて」本当に好きな

人と一緒にいたい'本当に好きだったんだという思い、感情的な謡い方だっ

たんじゃないか。だとしたらね'そのあとに'ゆったりとした序の舞が‑る

わけない'絶対に (中略)。でも今は'節扱いとか'三百年間の間にできてし

まったんですよ。ま'そういうふうに持っていけば'不思議はないことはな

‑120‑

(7)

いんです確かにね。でも、僕としては'納得できていない。

R そこでカケリ‑

U カケリというのは、狂乱の表現なんだけど。

初演の時以降、彼が求めていた「井筒」 に必要な表現方法を考えるに際'堂本正

樹から室町末期に「井筒」 が「逆髪」・「カケリ」をもって演じられていたという'

一九七四・七六年の中村格の研究の成果を知っていたことが分かる。「遺髪」・「カケリ」

は主人公の高揚した気持ちを表わし'梅若六郎が感じていた「井筒」 の主人公の気持

ちに近かったため、二度目の「井筒」の演出にそれらを取り入れたことも明らかである。

このように'観世寿夫の場合と同様に'梅若六郎の「井筒」 の場合も能の研究が役者の演技に影響を与えていることが指摘できよう。つまり'能役者による創造プロセ

スが能研究に促がされている側面があることは明らかである。しかし'観世寿夫も'

梅若六郎も'まず'役者として演技法を探求している。以上、観世寿夫がリアリズム

の演技法を否定しようとしながら能を創っていた姿勢が見受けられたが、梅若六郎の

場合はどうだろうか。役作りに対する彼の考え方は、前述の彼のインターヴューにはっ

き‑と表れている。つまり'梅若六郎は、曲のある部分の節・謡い二吉葉の内容と主

人公の気持ちとの一致の有無や、作品のなかでその部分がどの位置を占めるかといっ

たリアリズムの役作りを行っているのではなかろうか。そうした作業の中から二度冨

以降の「井筒」 の公演が生れている (ここでリアリズムという言葉は'五頁の観世寿

夫の言葉に基づく。観世寿夫の言葉がスタニスラフスキーの役作りにおける基本を表

わしていると思われる)。そして、「満願寺の観月能で初演したものを'今回手直しし

て再度挑戦したもの」 [堂本1九九〇、二四] の≡度目の公演や'二〇〇一年の四度目

の公演が続いた。前述のインタヴューで、梅若六郎は次のように続けている。

カケリというのは'狂乱のあれなんだけど。これを言うと説教過ぎるんだけれど

も、それも今難しいですね。カケリ、カケリというか'いろんな形でやったんで すけど、カケリというものをつかった‑とか'イロ工というものをつかった‑と

か'それから'序の舞とミックスしてやってみたりとか'なかなかこれは正解だ

というのは出てこない。/R 満願寺のときは/ カケリだけだった、序の舞やっ

てなかった'確かに。/R 数年後、京都で/U 京都でやってます(中略)序

の舞を少しだけ入れて、カケリをその後半に、というかその後に/R 二年前の

国立能楽堂で、その逆ですね、カケリの後に序の舞/U そうです(中略) あれ

は一番最近です。あれは一番新しい、今、僕の中での思いというか'考えと言うか、

移‑舞ということでね'自分が恋人とともに舞っていると言うイメージを序の舞 で舞ってみよう.その前にカケリをつ‑つてしまった

観世寿夫は抽象的に人間らしさを演じょうとしたのに対して、梅若六郎の表現方法 は'役の心理を重視してお‑'それ故'リアリズムに似た要素をもっている。梅岩六郎の演技法は能の型を使用しながらも'役作りにおいては前述の意味でのリアリズムに似たプロセスを行っている。

役の心理の重視は受け継がれた演技の「型」の入れ替えや、「塑」の連鎖の組み替え

作業を促がしている。彼の「井筒」は、受け継がれた演技の一回性からくる流動性と

いうよりは、出演者の役作りに合わせた演出の流動性が特徴である。その狙いは、現

代観客に訴えかけることであるとインタヴューのなかで彼が言う。

やっぱり人間というのはいろんな面をもってるんじゃないですか。それは一人の

人格になるわけで、それはやっぱり舞台で表現できなくちゃいけないと思うわけ

ね。だから、そのいろんな (側) 面をだして'観客一人一人とつながりができる

ような能を舞うのは僕の理想なんですよね。(中略) 能舞台を演じて、(中略)た

とえば僕が「井筒」を演じますよね。(中略)一〇〇%僕がこう思っているんだと

いうことを出してしまうと'観客は受け取れない場合もあるんですよ (中略) 拒

否反応をおこしてしまう。だから、「僕はこう思うんだけども。貴方はどうでしょ

う」ということで観客と僕の世界をそこで作るんです。それはほんとうじゃない かなと

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六郎の理想とするものであることがこの言葉から窺われる)。

梅若六郎は1九八五年以降現行曲の伝えられてきた演じ方を再検討し'復曲を積極

的に行い'その活動のなかに「課題曲」として三度目の 「井筒」も取り上げられてい

る [堂本l九九〇㌧二四、梅若l九九1'二四‑二五]o リアリズムに似た過程で役作り

を行い、また、古い演出を参考にすることで'梅若六郎は受け継がれた演技の伝統に

おける創造を果たしている。その創造作業において彼の思っている解釈に近い研究の

成果も取り入れている。言い換えると、観世寿夫の場合と同様に'彼の場合もまた役

者の演技を通して能研究が演劇としての能の創造に力を貸していると言えよう。この

ように研究は伝統における創造を促していると言えよう。

五'

むす

びに

本論では'観世寿夫と梅若六郎の 「井筒」を通して'能における伝統の創造につい

て考えてみた。受け継がれた「演技」 ‑ 型の連鎖 ‑ がどのように役者自身の解釈に

よって新たに創造されているかを追究した。その際'以下の二つの側面に焦点を当て

た。

① 能役者の舞台に影響を与えている役者自身の「演技に対する意識」がどのよう

に演技の創造と関わっているかという側面である。

(8)

観世寿夫も梅岩六郎も演技者としての表現方法を探求し'受け継がれた「型」 の厳

しい稽古が芸の基本にあると感じている。自分の芸風はこうした訓練から生れる側面

があると信じていると同時に、演技法・役作‑を絶えず考えながら舞台を創ってい

る。その結果'受け継がれた演技に対するそれぞれの作意が加えられて‑る。観世寿

夫の場合は抽象性を目指すアンチ・テアトルに通ずる演技法であり、梅若六郎の場合

は役の心理を重んじるリアリズムに似た演出法である。受け継がれた壁(演技)をど

う考えるかという認識は能役者の実際の舞台における伝統の創造をもたらしている。

その創造作業から生れる舞台は1回ごと異なったものとなっており'それは例えば'

作品の解釈に「正解がない」からであ‑(前述の筆者とのインタヴューを参照)'ま

た'自らの体調や共演者・観客との間などといった場の変化があるためである [梅若

二〇〇三㌧1六三‑1六五㌧八三‑1八九]O文化人類学においてはパフォーマンスに対

するこうした理解は常識的なものとなっているが、能研究においては'特に中世の能

が論じられている際、パフォーマンスとしての能の意味=テキストの意味とされてい

る (ここで言うパフォーマンスは「西江一九八〇」による)。本論はパフォーマンスと

しての能の流動性を指摘することによって能研究における中世の能に対する把握の仕

方の再検討を促したいと願っている。

② 能研究における「井筒」 の「発見」及びその解釈の変化と能役者の演技の変化

との関わ‑という側面である。

(a)観世寿夫や梅若六郎のそれぞれの流動的な「井筒」は'同じ言語テキストのそ

れぞれ異なった解釈にもとづいて創造され続けた。その解釈には演技に対する認識が

含まれているだけではな‑'研究から得た情報も組み込まれている。本論では能の研

究(観世寿夫の場合は伊藤正義等の解釈'梅若六郎の場合は中村格の研究) が役者の

解釈の創造を促がしている過程を浮き彫りにした。

(b) しかし、研究は能役者の創造につながっている側面があると同時に'それを妨

げる側面もある。つづいてこれについて考えたい。

つまり'観世寿夫や梅若六郎はそれぞれの追究した「井筒」に合った情報だけを自

らの解釈に取‑入れている。その結果、一九六五年に発表されていた伊藤正義の「井筒」

に関する論考や'一九七〇年代後半に発表された中村格の「井筒」 に関する研究成果

から'観世寿夫は「人待つ女」のイメージを強調する前者の解釈を選んでいるのに対

して'梅若六郎は観世寿夫らへの疑問も出発点にあ‑'堂本正樹に紹介された中村格

の研究成果を選んでいる。観世寿夫の「井筒」自体は研究成果を再生産しながら'そ

れが支配的なものになる過程に重要な役割を果たしている。それに対して、梅若六郎

は中村格の論考から(堂本正樹を通して)得た情報を再生産している。中村の研究成

果は後の能研究に影響を及ぼさずに、研究における権威関係から考えると周辺的なも のとなっている。さらに'中村格が室町末期の演出で「井筒」が「逆髪」という面で演じられていたこと'「カケリ」という狂乱の身体表現があったことを指摘することにょって'「人待つ女」 のイメージを支える現代演出の「若女」「小面」「序の舞」に対して別な解釈を提供している。そうしたヒントを自らの「井筒」に取り入れたことによって'梅岩六郎は'支配的となっている解釈に対して「周辺的」「交渉的」な「井筒」解釈を舞台で表現することとなった。前述のように'梅若六郎は様々な観客との共同作業から生れる「開かれた作品」としての「井筒」を目指しているが'支配的な解釈に影響を受けた観客は彼の舞台に賛成しに‑い結果になる可能性が高い。逆に、支配的

3な解釈を知らない客層や支配的解釈に疑問をもつ観客に指示される可能性がある。

研究のもたらす解釈の「固定化」を見るために'ここで一つの例を取り上げたい。

堂本正樹は梅若六郎の「井筒」公演に先立って、観客に対して曲の説明を行ってい

る[

堂本

一九

九〇

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四]

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梅若

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解釈ではな‑、研究者のテキスト解釈である。これに関して'梅若六郎は筆者とのインターヴューのなかで次のように述べている。

R 京都の能の後に、堂本さんは「梅若」に批評を書いていますが、そのなかで、

先生の能の前に堂本さんは解説をしたと'その解説の中に'伊藤先生の解釈

を説明したんですよ。つま‑'「井筒」 の女性はまってまって'待ちきれず'

別の男性となろうとしたときに業平が戻ってきて、彼女が彼を追いかけて、

なく

なっ

てし

まっ

た 

(略

)0

U 確かにね、能と言うものは'それぐらいにシンプルにしちゃった方がいいい かもしれないんですよ。僕はね'そこまでいけないな。もうちょっとこうし

てればいいかもしれない

R いえいえ。先生ご自身はこういう話を'話の運びとしては'こういう話に賛

成‑

U 堂本さんはそういう話をしてるのは'僕は知らないんです(略)

R [先生の中ではこういう]解釈になってないんです‑

U なってないんです。

伊藤正義の解釈は「対抗的」なものである。堂本正樹はそれを梅若六郎の「井筒」と

して観客に紹介するが、実際は梅岩六郎の舞台は「交渉的」な「井筒」解釈になって

いる。このように、研究者の公演前の説明は梅若六郎の望んでいる役者と観客との共

同作業から生れるべき作品の多義的な意味再生を妨げている。

能研究において能の伝統=演技の型やテキストの意味が固定化されたものとして扱

われている現状に対して、筆者はパフォーマンスとしての能の流動性を浮き彫りにし

ー122‑

(9)

た。口承伝承における伝統の再構築は'作‑手と観客のやり取りという関係のなか

で成り立っているだけではないことが既に指摘されている[cf黒崎二〇〇〇'八一‑

八二]が、本論は能における「伝統の創造」のプロセスには'研究の果たしている役

割が大きいことを強調した。能研究は役者の解釈の創造を促がすと同時に'その固定

化をももたらしている現象を浮き彫りにした。

注(‑)「伝統の発明」に関する議論の展開に関しては'原知章「<伝統の発明>概念の再検

討」を参照[原一九九六、七一‑八六]。

(2

)拙

稿「

能の

解釈

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の方

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研究

」を

参照

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00

1]

(3)能研究においては「能の意味=テキスト(台本) の意味」とされている。しかし'

文化人類学において、「口承伝承の意味=テキストの意味」という見方が考え直されており'口承伝承をコミュニケーションの一形態として捉えるい‑つかの方法も確立

されてきた[cf黒崎二〇〇〇、七‑八六]。一人の演じ手による同じ言語テキストの複

数の演奏や、異なる演じ手による同じ言語テキストの演奏がぞれぞれ異なることは一つの共通認識となってきている。本論では'観世寿夫と梅若六郎という二人の代表的

な能役者の「井筒」を例に'能における同じ言語テキストの異なった演技について考えたい (それぞれの役者が自分の演奏の一回性に対する意識をもっていることに関し

ても

触れ

る)

(4)「井筒」の詞章は'中村格が指摘しているように「おそ‑とも天正末期までに現行の形に固定していた」と思われる[中村一九七四、二二八]。本論では横道菌里雄・表章

編集

の 

﹃謡

曲集

﹄ 

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(5)観世寿夫と能研究の関わり、「井筒」上演回数'他ジャンル演劇俳優との交流や留学

に関しては'荻原連子編﹃観世寿夫世阿弥を読む﹄「観世寿夫年譜」を参照した[観世二〇〇1'三二八⁝三四四]。

(6)リアリズムは「市民社会」を「批判的」に描写する'また「人間の内面」「深層心

理」を表現するものとして'文学・演劇に共通の概念である。演劇の場合'演技術

の特徴をも言う。リアリズム演技法の代表者がコンスタンティン・スタニスラフス

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内薫と二世市川左団次によって形成された日本の自由劇場にも影響を与える[毛利

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Jarry,1873‑1907)'ウ‑ジューヌ・イヨネスコへサミュエル・ベケット(1906‑1989)'

等や

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1989‑1956)等に代表される。台本・演技法という両側面においては反・リアリズム

的特徴を帯びているOつま‑'台本が主に人間社会や人間の不可解な部分を強調し'

演技法が日常生活の再現を否定し、俳優の肉体表現を強調する。さらに、イヨネス

コやベケットは「不条理演劇」とも言われている[奥室一九九九二三七‑一四五]。 演出家アルトー'グロトフスキ (1933‑)等を加えた彼等の活動を「反・演劇」(アン

チ・

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(7)明治以降の外国人による研究・外国人芸術家の意見に関する観世寿夫の知識は一九六六年の「現代演劇における能の役割」から窺われる [観世二〇〇一㌧二八二‑

二九

二。

(8)「井筒」は'生涯で「葵上」についで上演回数の多い曲だった。つねづね「何回舞っても面白い曲だ」と言い言いし、「井筒」を舞うたびにまるで初めて舞うときのよう

に立ち向かっていた。これでよい、と満足することはな‑、舞うたびに何かを'何か疑い'何かを問うていたようであった [荻原一九七七、二]。

(9)荻原連子が次のように述べている。観世寿夫の生涯を考えるとき'「井筒」をぬきにしてはあり得ないし、「井筒」という作品を考える時にも観世寿夫の思想や舞台を思いを至きずに語ることがで

きない。世阿弥の名作として'夢幻能の代表作として'「井筒」は能界のみならず'広‑知られるようになったのは'その方面の出版物が多‑なったためもある

けれど'演技者としての観世寿夫が能を論じ'世阿弥を語るとき、「井筒」に言及することが多‑、それがいっそうの説得力をもった結果なのだと思う[荻原

一九

七七

、二

]

(2) ここで言うパフォーマンスの一回性は'西江雅之「口承伝承の記述」にもとづ‑[西

江一

九八

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の観客に対してとったアンケートを分析し'「待つ女」という支配的解釈の成立過程

やこの解釈への「井筒」の観客の賛成率を明らかにした。さらに'この解釈に対する

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(「井筒」の主人公は夫を待つが'夫に反発する・愛情を感じない状況になっているなどといった心境は複雑である)読みの存在およびこれらへの「井筒」の観客の賛成率

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解釈

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解釈

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る。

なお'本論では現代における解釈を扱ってお‑、室町・江戸の古注に関する調査は

考察の範囲に入らない。

参照

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