ISSN 1342−5749
2016 4 APRIL
TPPと日本の食料・農業
●TPPと食品安全性
●米輸入の動向と展望
「農政新時代」における農業協同組合
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月1
日,日本の農業および農政において,二重の意味で大きな節目となる2016年度が 始まった。一つは,改正農協法の施行である。
14年 5
月に安倍首相の諮問機関である規制改革会議・農業ワーキンググループが「農業改革に関する意見」を公表して以来,
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年におよぶ議論・検討を経て,政府が志向する農協改革は法律として実施される新たなステージに入った。
今後農協は,改正法に基づき「事業を行うにあたっては農業所得の増大に最大限の配慮を しなければならない」こととなり,県連・全国連は農業所得増大に向けた農協の自由な経 済活動のサポートに努めていくこととなった。
もう一つは,TPP合意を受けた国内農業対策の発動である。15年10月のTPP大筋合意を 受けて,11月に政府が急遽とりまとめた「総合的なTPP関連政策大綱」に,「攻めの農林 水産業への転換」と「経営安定・安定供給への備え」を二本柱とする農林水産業の対策が 盛り込まれた。この対策には,「農政新時代〜努力が報われる農林水産業の実現に向けて〜」
とのネーミングが施されている。その意味について政府は,「農林漁業者の将来への不安 を払拭し,経営マインドを持った農林漁業者の経営発展に向けた投資意欲を後押しする対 策を集中的に実施する」と説明し,規模拡大や付加価値向上・ブランド化を進める経営体 や産地の育成支援に重点を置くことを明らかにしている。
以上を踏まえれば,農協法改正もTPP対策も根本にある思想は安倍内閣が進める「農林 水産業の成長産業化」であり,「農政新時代」が描く日本農業の未来図は「自由貿易の世 界を乗り切れる大規模経営体が生産の主体となり,ブランド産地が形成され,輸出の拡大 によりわが国の経済成長に貢献している姿」と推し量れよう。
JAグループは,このような大きな政策のうねりのなかで,昨年10月のJA全国大会にお いて「創造的自己改革」を決議し,今後
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年間,「農業者の所得増大」「農業生産の拡大」「地 域の活性化」の3
つの目標実現に全力で取り組むこととしている。この決議は,国策(成長戦略)とそれに向けた政府の要請を十分踏まえながらも単純に 迎合することなく,農協系統が自らの原点を見つめ直したうえで,気概をもって内外に決 意を示した意義深いものと考えられる。その理由の第一は,曖昧な「農業所得の増大」で はなく「農業者の所得増大」と言い切り,あくまでも現場の農業者のための改革に取り組 む姿勢を明確に示したことであり,第二は,職能組合純化に向けた准組合員の利用規制等 の議論がなお残っているなかで「地域の活性化」を目標に掲げ,総合事業を通じて農協が 豊かで暮らしやすい地域社会の実現に貢献していくことを宣言したことである。
政府の「農政新時代」の未来図に足りないところがあるとすれば,それは多様な生産者 と住民が地域の資源と価値を守りながら安心して暮らせる農業を核とした地域社会の姿で あろう。「成長」の思想だけでは決して実現できないそうしたコミュニティの再構築にお いて,「相互扶助」と「参加」を基本理念とする協同組合は大きな力を発揮できるはずだ。
日本の農業と地域社会が重大な環境変化を乗り越えて調和のとれた新しい時代を迎える ために,農業協同組合が使命感と自信をもって積極的に活動することを期待してやまない。
((株)農林中金総合研究所 代表取締役専務 柳田 茂・やなぎだ しげる)
窓 の 月 今
農 林 金 融 第 69 巻 第
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号〈通巻842号〉 目 次 今月のテーマTPPと日本の食料・農業
今月の窓
(株)農林中金総合研究所 代表取締役専務 柳田 茂
「農政新時代」における農業協同組合
制度化される規制改革と懸念される食品リスク増大
清水徹朗 ──
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TPPと食品安全性
情 勢
談 話 室
統計資料 ──
40
TPP最終合意の米への影響
藤野信之 ──
16
米輸入の動向と展望
髙島 浩 ──
32
フィンテックとは何か,なぜ注目されるのか
――欧米における動向と国内金融機関への示唆――
全国酪農業協同組合連合会 代表理事専務 清家英貴 ──
14
酪農経営のリスクヘッジ
――日本型酪農経営安定制度を考える――
〔要 旨〕
日本は食品衛生法,食品安全基本法等によって食品安全制度を構築してきたが,TPPは米 国主導の協定であり,米国がこれまで日本に対して食品安全基準の規制緩和を求めてきたた め,消費者等からTPPによって食品安全性が損なわれるとの懸念が示された。
政府は,合意されたTPP協定によって食品安全性が損なわれることはなく,遺伝子組み換 えの表示制度も変更されることはないと説明しているが,TPP協定のなかには各種委員会を 通じて米国企業が日本の制度改革に関与する仕組みが組み込まれており,TPPが発効すれば 日本の食品安全性に関する制度変更が求められる可能性がある。
TPPはグローバルに活動する企業の利益確保を目的にした協定であり,米国内でも批判を 受けており,日本でも十分な国民的理解と国会審議が必要である。日本農業は,成長ホルモ ンや遺伝子組み換えを多用した米国型農業を目指すべきではなく,環境保全や食品安全性を 重視し,多様な担い手が共存し地域社会が維持できるような家族農業を中心とした農業を目 指すべきである。
TPPと食品安全性
─制度化される規制改革と懸念される食品リスク増大─
目 次 1 はじめに
2 米国主導の制度形成を目指すTPP 3 日本の食品安全に関する制度
(1) 食生活の変化と食品安全問題の展開
(2) 食中毒の発生防止
(3) 食品添加物の規制
(4) 食品表示制度
(5) 農業生産過程のリスク対策
(6) 輸入食品の安全性監視
(7) 食品安全基本法とリスク評価
(8) 食品安全基準の国際整合化 4 TPPで懸念された食品安全性問題
(1) 米国産牛肉の輸入規制緩和
(2) 食品添加物の認可拡大
(3) ポストハーベスト農薬の規制緩和
(4) 遺伝子組み換え食品の表示制度変更
(5) ニュージーランドの研究者の懸念 5 TPP協定に組み込まれた米国企業関与の
仕掛け
(1) TPP協定に関する政府の説明
(2) 「予防原則」が明記されていないSPS章
(3) 懸念される遺伝子組み換え食品の拡大
(4) 制度化される規制改革
(5) 主権を損なうISD条項
6 食品安全性と日本農業の今後のあり方
取締役基礎研究部長 清水徹朗
を進めるものである。貿易・投資の国際化
(グローバリゼーション)が進展するにつれ て,グローバルにビジネス展開を行う企業 にとって各国の関税や規制は事業展開の障 害・コストとなっており,その撤廃・調整 の要求が強まった。
こうした関税や規制を撤廃し市場経済,
自由貿易を進めることが経済成長を促進し,
そのことが国民の経済厚生の水準を高める というのが新古典派経済学,自由貿易理論 の根本思想であり,戦後のGATTは,その思 想に基づいて関税削減を進めた。また,ウ ルグアイラウンドでは,SPS協定(衛生植物 検疫措置の適用に関する協定),TBT協定(貿 易の技術的障害に関する協定),TRIPS協定
(知的所有権の貿易関連の側面に関する協定)
など国際間の制度調整に関する協定が締結 された。
ウルグアイラウンドでの合意内容をさら に発展させることを目指して01年にドーハ ラウンドが開始されたが,先進国と途上国 の対立から交渉は暗礁に乗り上げ中断して いる。特に,先進国が知的財産権,投資,
政府調達,競争政策などを交渉議題に乗せ ようとしたのに対して,途上国やNGOが強 く反発したことが,交渉停滞の大きな要因 となっている(注2)。
こうした状況のなかで広がってきたのが,
二国間,複数国間で関税撤廃,ルール統合 を進めるFTAである。欧州では既に1950年 代から地域統合の動きが見られ,今日では EUとして域内の関税を撤廃し政治・司法・
制度の統合を実現している。また,米国は
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はじめに交渉参加を巡って国論を二分する大問題 となったTPPは,交渉開始から5年半,日 本の交渉参加表明から2年半を経た2015年 10月に大筋合意に至り,16年2月に参加12 か国による署名が行われた。TPPは署名を 受け今後各国で批准手続きが進められるこ とになっており,日本でも,政府はTPP関 連法案を今国会に提出し,できる限り早期 に批准する方針を示している。
しかし,TPPは日本の経済・社会に大き な影響を与える協定であるため,TPP協定 の内容について国民の理解と論議を深める 必要があり,そのうえで批准の是非を判断 すべきである。農業の現場では,重要品目 をはじめ多くの農産物関税が撤廃されるた めTPPに対する不安が広がっているが(注1),消 費者からTPPによって日本の食品の安全性 が損なわれるのではないかとの懸念が提起 されており,本稿ではTPPが食品安全性に どのような影響を与えるのかについて考察 する。
(注1) 日本農業への影響については,清水(2016) で概説した。
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米国主導の制度形成を 目指すTPPTPPはアジア太平洋地域の12か国による FTA(EPA)であり,参加国間の関税を原 則撤廃するとともに,ルールの統合・調整
国の貿易戦略と交渉上の要求が,交渉の形態と 最終的な合意の見通しを決定するということで ある」と指摘している。
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日本の食品安全に関する 制度TPPが食品安全性にどう影響するかを検 討する前に,現在の日本の食品安全に関す る制度を概観する。
(
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) 食生活の変化と食品安全問題の 展開食料は人間が生命を維持するために必要 不可欠のものであり,人間は他の動植物を 食べることによりエネルギー源や栄養分を 摂取している。このことは全ての動物で共 通であり,かつては人間も他の動物と同様 に自然界にある動植物を採取・捕獲して食 料としていたが,その動植物の中には有毒 なものもあり,有毒な動植物を食べて死亡 した人間が多くいたことが想像される。
その後,人間は食料に適する動植物を選 択して栽培・飼育すること(農業)を始め たが,それでも自然界から食料を採取・狩 猟することは続けていただろうし,食料が 貯蔵の過程で腐敗するなど食のリスクは常 に存在していた。
しかし,生産力が発展して分業化が進み 商品経済が広がると,食料を自ら生産・獲得 するのではなく,他の人が生産・加工・調理 した食料を購入して食べることが多く行わ れるようになり,食品の安全性は他の人へ の信頼・信用のうえに成り立つことになる。
94年にカナダ,メキシコとNAFTAを発足 させ北米地域の経済統合を進めた。さらに 米国はNAFTA成立以降,米国の利益の維 持・拡大を目的にFTAA(米州自由貿易地 域)やアジア諸国とのFTA,FTAAP(アジ ア太平洋自由貿易圏)などを画策したが,ほ とんど失敗しており(清水(2013)),こうし た失敗を受けて08年に提唱したのがTPPで あった。TPPは,米国の多国籍企業や投資 銀行等の利益を維持・増大させるため,成 長するアジア地域のルール形成を米国主導 で進めようとするものである。
米国は,これまで日米構造協議(1989‑90 年)に代表されるように,日本に対して執拗 に制度改革を迫っており,94年から15年間,
対日年次改革要望書を毎年送り付け,日本 がそれに対して翌年回答するということが 続けられてきたが,その中には日本の食品 安全に関する項目も含まれていた。TPPは,
この米国の日本に対する規制改革要求の延 長として理解することができる(萩原伸次郎
『TPP―第3の構造改革』)。しかし,TPPは,
それまでの米国の交渉失敗の経験から,政 治家,関係業界(米国を除く),研究者,マ スコミを排除した「秘密交渉」としたため,
「異常な契約」として批判を浴びた(注3)。
(注2) WTOシアトル閣僚会議,カンクン閣僚会 議,多国間投資協定(MAI)交渉とも,先進国 の多国籍企業のための枠組みであると途上国や NGOが反発・批判し,紛糾して合意に至らなか った。
(注3) こうしたTPPの性格について,ジェーン・
ケルシー氏は『異常な契約』で,「TPPは通常の 自由貿易交渉ではない。‥‥このような交渉は 歴史上のいかなるときにも行われたことはない。
‥‥TPPにはたった一つ確実なことがある。米
漂白などを目的に食品に添加される化学物 質であり,腐敗防止や風味向上などに役立 ち食品安全性に寄与している面もある。し かし,食品添加物には天然由来のものもあ るが合成した化学品もあり,一定限度以上 摂取すると健康を害することがあるため,
食品衛生法によって使用できる食品添加物 を認可し使用基準を定めている。現在,日 本で認可されている食品添加物は,指定添 加物(安全性を評価し指定)432,既存添加 物(長く使用されてきたもの)365,天然香料 約600,一般食品添加物約100である。
(
4
) 食品表示制度食品を摂取する際の安全性を確保し消費 者に対し選択の機会を提供するため,食品 表示の制度が設けられており,加工食品は 原材料,添加物,賞味期限,保存方法,製 造者,栄養成分などを表示することが義務 付けられている。また,2000年よりJAS法 に基づく認証制度のもとで有機農産物の表 示が行われており,遺伝子組み換え食品の 表示は01年から食品衛生法に基づいて義務 付けられている。
なお,食品表示制度は,かつては食品衛 生法,JAS法,健康増進法の3つの法律に 基づいていたが,15年に食品表示法に一元 化された。
(5) 農業生産過程のリスク対策
農業生産の過程で使用される農薬が食品 に残留し健康に悪影響を与えるリスクを回 避するため,農薬取締法によって農薬の販 特に,流通が広域化し加工工程が複雑に
なると,誰がいつどこで生産・製造したか がわからない食品を食べることになり,食 品安全性についても新たな制度的対応が必 要になった。また,農業技術,食品加工技 術が発達し農薬,食品添加物などが多く使 用されるようになると,その安全性が強く 問われ,他産業からの有害物質が農産物に 混入する事件なども起きた。
(
2
) 食中毒の発生防止食品は人間の体内に入り吸収されるため,
そこに有害物質が含まれていると様々な健 康障害を起こすことになる。健康を害する 物質として,自然界の毒物(毒草,毒キノ コ,フグ等),化学品(農薬,食品添加物等), 放射性物質などがあり,微生物,寄生虫な ども病気の原因となる。
このうち最も発生頻度が高く一般的なの は大腸菌,ノロウィルス等による食中毒で あり,日本では食品衛生法に基づいて,保 健所を通じた食品事業者の認可・監視等に よって食中毒を防止してきた。14年におけ る食中毒の発生件数は976件,患者数は19 千人で,件数,患者数とも近年ほぼ横ばい で推移しているが,食中毒による死亡者は 10人程度であり,かつてより大幅に減少し ている(注4)。
(注4) 米国では食中毒が年間4,778万件あり,入院 患者は13万人,死者は3,000人を超えるとの推計
(米国疾病管理予防センター)がある。
(
3
) 食品添加物の規制食品添加物とは,酸化防止,着色,香料,
牛肉,米に導入され,HACCPによる食品製 造過程の衛生管理強化を導入する動きが盛 んになった。
(
8
) 食品安全基準の国際整合化こうした日本国内における制度形成の一 方で,国際間でも食品安全基準の調整が進 められた。農産物,食品の貿易が盛んにな るにつれて食品安全基準を巡る紛争が多発 し た た め,62年 にFAOとWHOが 共 同 で Codex委員会(国際食品規格委員会)を設立 し(日本は66年に加盟),食品添加物,残留 農薬,食品表示,動物用医薬品等の基準を 定めた。
また,ウルグアイラウンドにおいてSPS 協定とTBT協定が合意され,食品安全に関 するルール,紛争処理の仕組みが形成され た。SPS協定は衛生植物検疫措置のルール を取り決めたものであり,食品規格委員会
(Codex),国際獣疫事務局(OIE),国際植物 防疫条約事務局(IPPC)の基準を協定とし て認めたものと位置づけることができる。
また,TBT協定は製品の国際規格(強制規 格,任意規格)や基準認証制度に関するルー ルを取り決めたものであり,環境保全,動 物福祉等のラベリングや,遺伝子組み換え 食品の表示もTBT協定が関係している。
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TPPで懸念された食品 安全性問題このように国内的にも国際的にも整備さ れてきた食品安全に関する制度であるが,
売,使用基準を定めている。また,畜産物 については,家畜伝染病予防法(人畜共通伝 染病予防),薬事法(動物医薬品の使用規制), 飼料安全法(飼料使用の規制),と畜場法(と 畜検査),食鳥処理法(食鳥検査)によって 生産・流通段階での安全性を確保する仕組 みを設けている。
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6
) 輸入食品の安全性監視日本は大量の食品を輸入しているため,
輸入食品の安全性に対する国民の関心は高 く,輸入食品の安全性確保は重要な課題で ある。現在,輸入食品は食品衛生法,植物 防疫法,家畜伝染病予防法に基づいて検 疫,検査を行っており,食品衛生法に基づ く検査では,微生物,残留農薬,食品添加 物,腐敗,カビ等の検査(輸入食品監視業務)
を行っている。検査員は約400名であり,14 年度において222万件の輸入食品に対して 20万件(8.8%)の検査を行い,877件の違反 案件について積み戻し,廃棄等の処分を行 った(注5)。
(注5) 違反件数が最も多いのは中国で202件,次い で米国74件,タイ74件であるが,違反割合は米 国が中国を上回っている。
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7
) 食品安全基本法とリスク評価 2000年代初頭にBSE発生,中国産食品の 安全性問題,偽装表示,大規模な食中毒事 件など,それまでの食品安全行政を揺るが す事件が多発した。こうした事態に対応し て03年に食品安全基本法が制定され,内閣 府にリスク評価を行う食品安全委員会が設 けられた。また,トレーサビリティ制度が(
2
) 食品添加物の認可拡大Codex委員会で認めている「国際汎用添 加物」は950あるが,その中には日本では認 可されていないものもある。また,日本で 認可されている食品添加物(一部の香料を除 く指定添加物と既存添加物)は667品目であ るが,米国で認可されている食品添加物は 2.5倍の1,612品目ある。
米国は対日改革要望書でこれまで食品添 加物の認可拡大を求めてきており,日本は 追加要求のあった46の添加物のうち既に42 の審査・認可を終え,残り4つも認可され る見込みである。
TPPによって米国からの追加認可の要求 がさらに高まり輸入食品の食品添加物が増 大すれば,食品の安全性が損なわれる懸念 がある。
(
3
) ポストハーベスト農薬の規制緩和 輸入農産物・食品は,外国から日本に長 距離を長時間かけて主に船舶で輸送される ため,腐敗やカビ発生など品質劣化のリス クがある。そのため,米国等では酸化防止 剤,防カビ剤などの農薬を収穫後に散布す ることが行われている。日本では食品の安全性を損なう可能性が あるとしてポストハーベスト農薬の使用は 禁止されているが,米国から輸入される穀 物,果実等で使用されるポストハーベスト 農薬は,一定基準以下であれば使用を認め ている。しかし,基準値を上回るものが検 査でみつかることがあり,米国は残留農薬 の基準緩和を求めている。また,柑橘類で 日本のTPP交渉参加を巡る論議のなかで,
TPPによって日本の食品安全性が損なわれ るとの批判がなされた(注6)。
米国は,これまで対日年次改革要望書等 で再三にわたって日本の食品安全規制の緩 和・変更を求めてきたため,米国主導の TPPに参加することは米国の対日要求を受 け入れることになるとの懸念が示された。
指摘された懸念を具体的にみると,以下の とおりである。
(注6) 例えば,安田節子「安全,安心な食とTPPは 真っ向から対立する」『TPPと日本の論点』(2011), 石堂徹生『TPPで激増する危ない食品!』(2013)。
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1
) 米国産牛肉の輸入規制緩和BSE(牛海綿状脳症)は1986年にイギリス で確認され,93年に人への感染の可能性が 指摘されて大問題になった。当初,日本は BSEと関係ないと考えられていたが,イギ リスから輸入された肉骨粉が原因で日本で も01年に初めて発生が確認され,消費者の 懸念に対応して全頭検査が開始され,04年 から牛肉のトレーサビリティ制度が導入さ れた。
03年には米国でBSEが発生し,日本は米 国産牛肉の輸入禁止措置をとった。その後,
05年には,①月齢20か月未満,②危険部位 除去,を条件として米国からの牛肉輸入を 再開し,13年には,米国からの要求を受け,
月齢を30か月未満まで緩和した。
しかし,米国は月齢規制の撤廃を求めて おり,TPPに参加するとBSEに関する規制 がさらに緩和されるのではないかとの懸念 が出された。
産物8品目,加工食品33品目の表示義務を設け ているが,飼料向けやDNAやたんぱく質が残存 しない加工品は表示義務がなく,故意でない5% 未満の混入は表示しなくてもよいことになって いる。一方,EUは飼料用も加工食品用も全て表 示義務があり,混入比率の上限も0・9%と厳しい。
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) ニュージーランドの研究者の懸念 TPPの原型となっているP4協定(ニュ ージーランド,チリ,シンガポール,ブルネイ が加盟)では,ニュージーランドが有する 高水準の食品安全,動植物検疫制度が盛り 込まれている。しかし,米国は,これまで 日本に要求してきたのと同じように,豪州 やニュージーランドに対して残留農薬基準,遺伝子組み換え表示制度などの規制緩和を 要求しており,米国主導のTPPでは米国の 要求が通ってしまうと懸念された。この点 に関して,ニュージーランドの研究者デイ ヴィッド・アダムソンは,『異常な契約』第 8章「TPPと動植物検疫・食品安全問題」 で以下のように指摘している。
「こうしたリスク(病虫害侵入や食品汚染)
は比較的小さいものの,いったん発生した 場合には国民の健康,農業生産システムや 環境に取り返しのつかない破滅的な影響を 与える」「米国の要求に屈することは自国の 選択の自由と民主主義の侵害となりかねな い」「他の国が米国のリスク水準を受け入れ る義務はない。‥‥受け入れてしまった代 償は破局的な取り返しのつかないものにな る。」
使われる防カビ剤は表示義務がある食品添 加物として認めているが,米国は表示義務 のない農薬としての使用認可を求めている。
TPPによって,こうしたポストハーベスト 農薬の規制緩和が行われるとの懸念が示さ れた。
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4
) 遺伝子組み換え食品の表示制度 変更50年代以降の分子生物学の発展を受け,
その成果を医薬,農業に応用しようとする バイオテクノロジーブームが80年代に起き,
特定の遺伝子を動植物に組み込み新たな形 質を持たせる技術が開発され,それを作物 の品種改良に適用する研究が始まった。
その結果,特定の農薬に耐性を持つ大豆 やトウモロコシが商品化され,遺伝子組み 換え作物が急速に広がった。日本や欧州で は遺伝子組み換えに対する消費者の懸念が あるため農業生産に使われていないが,米 国やブラジルでは一般的であり,日本が輸 入しているトウモロコシ,大豆やナタネは ほとんど遺伝子組み換え農産物になってい る。
一方,遺伝子組み換え農産物は安全性や 生態系への悪影響等の懸念が解消しておら ず,日本やEUでは表示義務を定めている(注7)。 しかし,米国では表示義務がなく,米国は これまで日本に表示義務の撤廃を求めてき たため,TPPに参加すると米国と同じ制度 が導入され遺伝子組み換えの表示義務が撤 廃されるとの懸念が示された。
(注7) 日本では遺伝子組み換え食品については農
(
2
) 「予防原則」が明記されていない SPS章TPP協定では,第7章が衛生植物検疫措 置(SPS)に関する章であり,その内容は一 見するとWTOのSPS協定と大きな違いが ないように見える。しかし,WTOのSPS協 定が「人・動物若しくは植物の生命若しく は健康を保護すること」が目的であり,「衛 生植物検疫措置の貿易に対する悪影響を最 小限にする」と書かれているのに対して,
TPPのSPS章は,「貿易を円滑にし,及び拡 大しつつ」,あるいは「貿易に対する不当な 障害をもたらすことがないよう」と書かれ ており,貿易促進に重点が置かれている。
また,「科学的な原則」「客観的な科学的 な証拠」が前面に出ており,WTOのSPS協 定第5条7にある「関連する科学的証拠が 不十分な場合には‥‥暫定的に衛生植物検 疫措置を採用することができる」という表 現が欠落している。この条項は,「将来的に リスクが不確実であるため予防的に規制を 導入する」という「予防原則」にあたり,
これまでEUが成長ホルモンや遺伝子組み 換え食品の規制の根拠としてきたものであ るが,米国主導のTPPでは予防原則が明記 されていない。
加えて,SPSに関する小委員会の設置が 盛り込まれており,危険性の分析にあたって 利害関係者の意見を述べる機会を与えると の規定もあり,TPPが発効すると日本の食 品安全基準の決定の際に米国企業等の利害 関係者の意見を聞かなければならなくなる。
さらに,地域的な状況に応じた調整,物品
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TPP協定に組み込まれた 米国企業関与の仕掛けそれでは,今回合意・署名されたTPP協 定では,食品安全性に関してどのような規 定が盛り込まれているのであろうか。
(
1
) TPP協定に関する政府の説明 TPP交渉参加にあたって,衆参両院の農 林水産委員会で,「残留農薬・食品添加物の 基準,遺伝子組換え食品の表示義務,遺伝 子組換え種子の規制,輸入原材料の原産地 表示,BSEに係る牛肉の輸入措置等におい て,食の安全・安心及び食料の安定生産を 損なわないこと」とする国会決議が行われ た。政府は,今回合意されたTPP協定につ いて「SPS(衛生植物検疫措置)章は,科学 的な原則に基づいて,加盟国に食品の安全(人の健康又は生命の保護)を確保するため に必要な措置をとる権利を認めるWTO・
SPS協定を踏まえた規定となっており,日 本の制度変更が必要となる規定は設けられ ておらず,日本の食の安全が脅かされるよ うなことはない」と説明している。また,「遺 伝子組換え表示を含め,食品の表示要件に 関する我が国の制度の変更が必要となる規 定は設けられていない」としている。
この政府の説明をそのまま鵜呑みにして もよいのであろうか。実際の協定文によっ て確認してみたい。
合性」という章が設けられているが,これ も米国の要求で入ったもので,これまでの FTAにはなかったものである。この章の目 的は「物品・サービスの貿易・投資拡大」
と明記しており,「規制措置を定め実施する 主権的権利」「公共政策目的を達成する上で 規制が果たす役割の重要性」が盛り込まれ ているものの,TPPが発効すればこの条項 に従って日本の制度改革が求められること になる。
特に,規制整合性小委員会を設置し規制 を定期的に見直すとしており,そのなかで も利害関係者の関与を認めている。これは,
現在の規制改革会議のTPP版であり,これ まで対日改革要望書に基づいて行われたこ とが条約に基づく強制力のある制度となる ことを意味する。
さらに,TPP協定とともに発表された「保 険等の非関税措置に関する日本国政府とア メリカ合衆国政府との間の書簡」には,保 険だけでなく,投資,知的財産権,規格・
基準など多くの分野にわたって米国企業が 関与できることが書かれている。
まず,「透明性」という項目では,政府の 審議会の事前通知と議事録の公開・保管,
利害関係者の傍聴・意見提出が書かれてい る。アメリカは既に透明性を確保している ので日本も同じようにすべきということで あるが,これが実施されると日本の政策検 討の過程に米国の企業関係者が関与するこ とになる。また,「投資」の「規制改革」で も,「外国投資家その他利害関係者から意見 及び提言を求める」と書かれ,「日本国政府 引取りの時間短縮(48時間以内)も,食品安
全性の軽視であると指摘されている(『TPP 協定の全体像と問題点』)。
(
3
) 懸念される遺伝子組み換え食品の 拡大T P P協 定 第 8 章 に 貿 易 の 技 術 的 障 害
(TBT)に関する条項があるが,政府の説明 のとおり,このなかに遺伝子組み換えの表 示変更を求める規定はない。しかし,第8 章7条「透明性の確保」のなかに,利害関 係者が規格の作成に参加できることが盛り 込まれており,TPPが発効すると日本の遺 伝子組み換え食品の表示制度の形成過程に 米国企業関係者が関与できることになる。
また,第2章「内国民待遇及び物品の市 場アクセス」の中で,「現代のバイオテクノ ロジーによる生産品の貿易」という条項(第 27条)が設けられており,農業貿易委員会 のなかにバイオテクノロジーによる生産品 に関する作業部会を設置するとしている。
この条項もこれまでのFTAにはなく米国の 要求で新たに入ったものであり,今後,こ の作業部会を通じて遺伝子組み換え食品の 導入促進,規制緩和が進められることが懸 念されている。
また,遺伝子組み換え農作物の混入に関 する規定において,輸出国の義務が緩めら れ輸入国の権利が弱められていることが指 摘されている(『TPP協定の全体像と問題点』)。
(
4
) 制度化される規制改革さらに,TPP協定の第25章に「規制の整
が明記されている」ため,この投資条項を 食品安全のルール変更に適用されることは ないと説明している。
しかし,TPPにおける投資,投資家,投 資財産の概念は,金融だけではなくかなり 幅広く解釈されており,また「動物又は植 物の生命又は健康の保護のために必要な措 置を採用・維持することを妨げるものでは ない」と書かれているものの,「本章の規定 に適合するものに限る」としており,投資 家保護が主目的であり,どこまで環境,健 康が配慮されるかは定かではない。TPPが 発効すると政府は外資企業の意向を伺いな がら制度形成を行わなければならなくなり,
たとえこの投資条項によって訴えられなく とも,日本の食品安全制度に対して改革圧 力が強まる可能性がある。
また,これまで日本とアジアの国々との FTAで設けられてきた投資条項で日本政 府が訴えられたことはないが,訴訟大国の 米国が相手であれば訴訟に発展するリスク は大きいし,濫訴防止の規定は不十分であ ると指摘されている(『TPP協定の全体像と 問題点』)。これまでNAFTAのもとで起き た訴訟は77件あるが,ワシントンにある世 銀傘下のICSID(紛争解決国際センター)で 仲裁判断が下されるため,米国の勝訴の割 合が高いことも問題である。
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食品安全性と日本農業の 今後のあり方以上指摘したように,TPPは日本の制度 は,規制改革会議の提言に従って必要な措
置をとる」と,議会制民主主義を無視・軽 視する内容が盛り込まれている。さらに,
食品安全性と関係する「規格・基準」では,
作業部会を設けて物品の貿易の円滑化を進 めるとしており,食品の規格・基準の制度 形成にも米国企業が関与してくる可能性が ある。
こうしてTPPで合意された協定文をよく 読むと,ジェーン・ケルシー氏が『異常な 契約』で,「TPPが様々な法的メカニズムを 通じて,それぞれの参加国の政策の規則に 関する決定を行ううえで,自国民よりも外 国企業の利害に機能を付与することになる やり方である」と指摘したとおりのことが 盛り込まれていることがよくわかる。
(
5
) 主権を損なうISD条項TPP協定の第9章「投資」は「投資家と 国との間の紛争解決」(ISD条項)を含んで おり,これは日本の主権を奪いかねずTPP で最も懸念されたものである。そのため国 会決議でも,「濫訴防止等を含まない,国の 主権を損なうようなISD条項には合意しな い」とされた。
政府は,「投資に関して内外無差別,正当 な補償なしに収容しない,投資に関するル ールや認可・合意に国が違反して投資家が 損害を受けた場合に,国際仲裁廷に損害賠 償を求める訴えを規定するものであり,制 度の変更を求めるものではない」とし,ま た「環境や健康などの正当な目的のために 各国が規制を行うことが妨げられないこと
広がりつつあり,米国議会で批准されない だろう」との見通しを示した。米国がこう した状況にあるなかで,日本が十分な国民 的理解と国会審議が行われないままにTPP を批准すべきではない。
日本農業の役割は1億2千万人の国民に 安全な食料を安定的に供給することであり,
ポストハーベスト農薬,食品添加物を多く 使った食品や遺伝子組み換え作物に依存し ない食料供給体制を維持・拡大する必要が ある。特に米国の畜産では肉牛,乳牛に成 長ホルモンを多く使用し(『ファーマゲド ン』,『動物工場』),EUは安全性が確保され ていないとして「予防原則」に基づいて米 国からの牛肉の輸入を規制している。日本 の畜産は,こうした「効率化」と「生産性」
のみを追求する米国流の畜産を目指すべき ではなく,自然循環,安全性を重視し動物 福祉にも配慮したEU型の畜産を目指すべ きである。その点で「グリーニング」でよ り環境を重視し地域振興への予算配分を多 くしているEUの農政には学ぶことが多い。
今後の日本農業は,現政権が進めている
「攻めの農業」「企業の農業参入」ではなく,
食品安全性,多面的機能,環境保全,地域 を重視し,家族経営を中心とする多様な担 い手が共存し地域社会を維持できるような 農業の方向を目指すべきであろう。
(注8) 本山美彦氏は,こうした米国の手法を「姿 なき占領」と表現した。
<参考文献>
・ 嘉田良平(1997)『世界の食品安全基準』農山漁村 文化協会
・ 嘉田良平(2008)「食品の安全性を考える」放送大
形 成 に 大 き な 影 響 を 与 え る 協 定 で あ り,
TPPが発効すると,これまで米国が日本に 対して行ってきた制度改革要求がTPP協定 に基づいたものとなり,日本政府の政策決 定過程に米国企業の意向が反映するように なってしまう(注8)。
食品安全性も同様であり,政府はTPP協 定によって食品安全性が損なわれることは ないとしているが,各種委員会が設けられ,
制度形成,制度変更において米国企業の意 向が働くような仕組みが組み込まれている。
TPPが発効すれば,日本農業の縮小が進行 して米国による食料支配がさらに強まり,
カーギル,モンサントなどの多国籍アグリ ビジネスによる日本の農業政策に対する影 響力が増すことになる。
苫米地英人氏は『TPPに隠された本当の 恐怖』(2016)で,TPPは日本の主権を奪う ものだと警告を発しているが,そのことは 本稿で示したように「隠された」わけでは なく,TPP協定の中に堂々と明記されてい る。米国の有力大統領候補であるトランプ 氏(共和党)は「TPPはひどい協定だ」と言 っており,サンダース氏(民主党)は「TPP は,製薬業界やウォール街のアメリカの大 企業連中によって書かれたものである」と 批判している。こうした状況のなかで,オ バマ政権の中にいたヒラリー・クリントン 氏もTPP反対を表明するに至っている。こ の3月に来日したスティグリッツ氏(コロ ンビア大学教授)は,「米国にとってTPPの 効果はほぼゼロと推計されている」とし,
「TPPは悪い協定だというコンセンサスが
学教材
・ 小城勝相・一色賢司編著(2014)「食品安全学」放 送大学教材
・ ジェーン・ケルシー編著(2011)『異常な契約― TPPの仮面を剥ぐ』(環太平洋経済問題研究会・農 林中金総合研究所訳)農山漁村文化協会
・ TPPテキスト分析チーム(2016)『TPP協定の全体 像と問題点―市民団体による分析報告― Ver.3』
・ T. ジョスリング, D. オーデン& D. ロバーツ(2004)
『食の安全を守る規制と貿易』(塩飽二郎訳)家の 光協会
・ 岩田伸人(2004)『WTOと予防原則』農林統計協 会
・ 藤岡典夫・立川雅司編著(2006)『GMO グローバ ル化する生産とその規制』農山漁村文化協会
・ 久野秀二(2016)「TPP協定とGMO規制」『農業と 経済』3月号
・ 林正徳・弦間正彦編著(2015)『「ポスト貿易自由化」
時代の貿易ルール』農林統計出版
・ 林正徳(2013)『多国間交渉における合意形成プロ セス』農林統計出版
・ マリー=モニク・ロパン(2015)『モンサント―世 界の農業を支配する遺伝子組み換え企業』(村澤真保
呂・上尾真道訳)作品社
・ P. リンベリー, I. オークショット(2015)『ファー マゲドン―安い肉の本当のコスト』(野中香方子訳)
日経BP社
・ ダニエル・インホフ編(2016)『動物工場―工場的 畜産CAFOの危険性』(井上太一訳)緑風出版
・ 小倉正行(2011)『食の安全はこう守る』新日本出 版社
・ 天笠啓祐(2014)『TPPの何が問題か』緑風出版
・ 中村幹雄「食の安全性侵食進む,貿易より消費者 保護を」日本農業新聞(2016年2月13日付)
・ 苫米地英人(2016)『TPPに隠された本当の恐怖』
サイゾー
・ 清水徹朗(2011)「国際経済体制の再構築と日本の 対応―TPPを超えて」『農林金融』9月号
・ 清水徹朗(2013)「中南米で広がった反新自由主義 政権―米国のTPP推進戦略の背後にあるもの」『農林 金融』7月号
・ 清水徹朗(2016)「TPPの日本農業への影響と今後 の見通し」『農林金融』1月号
(しみず てつろう)
談話室
農林水産省は,農業経営全体の収入に着目した収入保険の導入について調査・
検討を進めている。このような制度は,農業経営者にとっては収入ひいては所得 のリスクヘッジとして大いに歓迎されるものだ。
畜産分野においては,畜種ごとに経営方式,畜産物の販売流通・価格形成の態 様が異なることから,制度の基本的枠組みは一様でないが,国の財源も投入され て経営安定制度が措置されている。
酪農については,バター,脱脂粉乳等の乳製品に仕向けられる生乳に対して定 額の補給金が交付される加工原料乳補給金制度があり,その補完として,生産者 団体と乳業メーカーとの相対交渉によって決まる加工原料乳向け乳価が低落し た場合に,一定の補填を行う通称「ナラシ」と称される対策が組み込まれている。
そのほか,肉用子牛,肥育牛,養豚,鶏卵の経営安定制度があり,時々の時代背 景のもとに制度が創設され,その後も仕組みの見直しが行われながら今日に至っ ている。
ところで近年の酪農の動向はというと,
2007
年から配合飼料価格が上昇基調に 転じたことが契機となり,とりわけ都府県酪農の生産基盤の縮小が加速してい る。直近では配合飼料は当時の約4
割高となっており,輸入粗飼料や重油・ガソ リン等のエネルギーコストの上昇も経営圧迫の要因となった。ここ数年来マスメ ディアでしばしば取り上げられるバター不足は,実はその象徴となって現われて いるものだと言える。都府県酪農の縮小は,高齢化,後継者不足等が主要因であるとの意見がある が,
07
年以降の生産構造の変化を分析すると,それだけでは説明できない。端的 な事象の一つは,乳牛飼養頭数の大きい階層は06
年まで戸数,頭数とも増大して きたが,07
年以降は鈍化ないし減少基調に明らかに変わっている。要は,経営努 力を重ねて増頭し家族経営から一歩抜け出た経営が,比較的規模の小さい酪農家 の離農をカバーしてきた構図が崩れているということ。また,農林水産省の営農 類型別経営統計で都府県酪農の所得の推移を見ても,配合飼料等のコストが急上 昇している年は大幅に減少している実態となっている。こういった生産資材の高騰に対応するには,酪農家の努力だけでは解決でき ず,「所得=乳価−生産コスト」の算式からいって,乳価の値上げが伴わないと 経営が破たんする理屈となる。しかしながら,バター,チーズ等の乳製品向け乳
酪農経営のリスクヘッジ
―日本型酪農経営安定制度を考える―
価がそれ相応に変動してきたのに対し,飲用牛乳向け乳価は生産コストと連動し て上がる仕組みとなっていない。生産者団体,乳業,量販店等の価格交渉力は川 下側がより優位であり,加えて乳業と量販店との価格改定(頻度)は硬直的である。
いずれにしても,飲用牛乳向け生乳の乳価は,生産資材の高騰があっても常に 後追いの値上げであり,そのコスト上昇分を酪農家自らが負担せざるを得ない状 況がこの数年来継続してきた。これが,飲用牛乳向けの生乳割合が高い都府県酪 農が近年疲弊してきた最大の要因と考えられる。
この課題に対処するには,都府県酪農を念頭に置いた経営安定制度が不可欠 である。現行の加工原料乳補給金制度は,その名のとおり乳製品向け生乳のウェ イトが高い地域では一定の効果を果たしているものの,これからの日本の酪農を 守り支えるには,同制度だけでは限界に来ている。特に,都府県で今後とも酪農 を担う若い世代にとって,経営のリスクヘッジとなる新たな制度(セーフティネッ ト)が無いままでは,不安を抱えて経営を継続することとなってしまう。
米国の酪農では,乳価を基準とした補償制度を見直して,
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年から「マージ ン=乳価−飼料コスト」を指標として一定の所得を補償するMPP(Daily Margin Protection Program)が導入された。日本においても,酪農をはじめ畜産は物財 費が高く,かつ,変動が大きいため,収入(販売価格)ではなく所得を指標としな いと制度の効果が発現できない。この点は多くの識者が認めるところである。新たに日本型酪農経営安定制度を創設するにあたっては,酪農特有の「乳価形 成」をどう扱うかが重要な論点となる。制度があるが故に民・民の相対交渉によ る価格形成が歪むおそれがある。もう一つの論点は「現行制度(加工原料乳補給金 制度)」である。現行制度と新制度の整合性をどのようにして保つか。現行制度を 廃止してこれを飲み込んだ新たな制度の創設という意見もあるが,両制度を相並 び立てる仕組みとする方が現実的な選択である。更に,「地域」の問題。都府県 の中でも飼料自給の土地条件,集送乳の流通コスト等に地域格差があるため,均 てん性,公平性をどう確保するか。その他整理すべき事項は多々ある。
経営安定制度は,料理に例えると分かりやすい。どういう食材(諸データ)を使 い,焼いたり煮たり味付けなど,どのようなレシピ(算式)で作るのか。
新たな日本型酪農経営安定制度が出来上がるには,いろいろな課題・論点があ るとしても工夫は可能と信じている。もう待ったなしの局面にあるのだから,手 に入る食材を使い,多少不味くても豪華でなくても,栄養バランスが良くて健康 に繋がり,多くの人が程々に満足できる料理が提供されなければならない。
(全国酪農業協同組合連合会 代表理事専務 清家英貴・せいけ ひでき)
〔要 旨〕
TPPが2016年
2
月の参加12か国の署名で最終合意された。米の対米・豪SBS国別輸入枠等 に関する合意は,政府の生産額・量予想では影響なしとされているが,日本の米需給に何ら かの影響を与える可能性があると考えるべきであろう。現行のMA米は米国産が36万トンと半数を占め,MA一般輸入米では中粒種が34万トン程度 で,多くがカリフォルニア州産キャルローズである。主食用SBS米では,中国産短粒種が激 減し,米国産中短粒種の存在感が増している。
対米・豪SBS国別枠は,より落札されやすいように運用変更が約束させられている。SBS の運用変更は,既存MA米のSBSにも適用される予定である。
国内対策として,TPP合意により新たに輸入される米に見合う量の国内産米を政府が買上 げしたとしても,その数量分の輸入米が外食・中食業者の米需要を満たし,業務用需要米の 価格の低下圧力となろう。
さらに,日本は米国,豪州等の要請があれば,発効
7
年後に,市場アクセスを増やす観点 からの関税等の再協議を義務付けられている。米輸入の動向と展望
─TPP最終合意の米への影響─
目 次 はじめに
1 米の輸入概況
(1) 輸入米の位置づけ
(2) MA米の輸入先国・品目と価格
(3) MA米の販売状況 2 米の輸入制度
(1) 国境措置の状況
(2) 輸入の仕組み 3 国産米との競合状況
4 海外産地の中短粒種の輸出余力
(1) 米国の米生産・輸出動向
(2) 豪州の米生産・輸出動向
(3) ベトナムの米生産・輸出動向
(4) 中国の米生産・輸出動向 5 米輸入の財政負担
6 TPP合意内容とその影響
(1) 米に関する合意内容
(2) 対米・豪米輸入枠におけるSBSの運用変更
(3) 予想される影響 7 問題点と展望
専任研究員 藤野信之