はじめに ﹁ヨシヤの改革﹂と呼ばれる出来事は旧約聖書研究の要を成すものと考えられてきた︒この出来事の解釈を大き
く左右する可能性を持つ新知見︵二〇〇九年におけるテル・タイナトでの﹁エサルハドン王位継承誓約文書︵Esar-haddon’s Succession Oath Documents︶﹂発見および二〇一二年の当該文書の出版︶がもたらされた現在︑まだ評価は 論文要旨 ﹁ヨシヤ改革﹂は︑元来旧約聖書学の唯一の定点を成す重要な出来事である︒とくに他の理論的支柱をほとんど失ってしまった現在の旧約学にとっては︑最後の砦と言っても過言ではない︒しかしこの出来事についても解釈は一致していない︒ところが近年のタイナト版﹁エサルハドン王位継承誓約文書﹂の発見・出版によって︑ヨシヤ改革の理解も大きな修正を受ける可能性が出てきた︒もちろんタイナト版の示唆をどう捉えるかにより︑大きな差が出てくるであろうが︑いずれにせよ︑タイナト版の存在を無視した議論はもはや成立しない状況である︒本稿ではヨシヤ改革研究史に限って︑現在喫緊の要請であると思われる研究史の新たな整理を試みた︒おそらくマナセ王がエルサレムに持ち帰ったESODが宮廷役人やエルサレム神殿祭司に知られており︑後のヨシヤ改革に独特の方法でその知識を利用したとすれば︑ヨシヤ改革の姿がより明確に浮かびあがってくることになる︒キーワード ヨシヤの改革︑申命記︑申命記史書︑エサルハドン王位継承誓約文書︵ESOD︶︑タイナト版ESOD
﹁ ヨ シ ヤ 改 革 ﹂ 研 究 史
││
タイナト版﹁エサルハドン王位継承誓約文書﹂発見を受けて
││
髙 橋 優 子
固まっていないにしても︑新たな研究史が要請されているといえる︒本稿では新知見を考慮に入れた研究史の描出
を試みる︒
一 旧約聖書研究における
﹁
ヨシヤの改革﹂
1 資料仮説 ユリウス・ヴェルハウゼン︵一八四四︱一九一八︶は近代旧約学の父と呼ばれる︒それは彼が聖書を特別扱いせず他の文学作品に適用されるような方法︵歴史的批判的方法︶で研究したからである︒もちろん先駆者たちはいた
が︑近代旧約聖書学の研究史は︑ヴェルハウゼンから記述するのが大方の習慣となっている 1︒ ヴェルハウゼンの旧約聖書研究への貢献で一番重要なのは︑いわゆる﹁四資料仮説 2﹂である︒神の名を﹁ヤハウェ﹂とするものをJ資料︵ヤハウィスト資料︶︑﹁エロヒーム﹂とするものをE資料︵エロヒスト資料︶と彼は名づ
けた︒そして申命記的特徴を持つものをD資料︵﹁申命記﹂Deuteronomiumから︶︑祭司的特徴を持つものをP資料︵﹁祭司﹂Priestから︶とした︒ヴェルハウゼンは時間的順序を古い方からJEDPと考えたが︑もっとも確からしい基準点は前七世紀後半のヨシヤの改革︵前六二二︱六〇九︶であった︒つまり︑D資料の時期を固定して基準点と
し︑他の資料を並べたのである︒この資料仮説は長い間公理のように扱われ︑この考え方の上により複雑な資料仮
説がさまざまに提出されるようになった︒しかし︑JとEについては︑確たる年代づけの理由はない︒内容的に昔のことを扱っているなどの事情でD資料やP資料より早いと考えられただけかもしれない︒このような疑問から︑
ヤハウィストなどいないという立場があらわれた︒現在この立場を代表するのはレントルフ︵一九二五︱二〇一 3四︶
やブルム︵一九五〇 4︱︶である︒レントルフ説はヤハウィスト資料を否定するだけでなく︑それとの関連で理解されるエロヒスト資料の根拠も掘り崩すことになる︒彼はさらに祭司資料も独立したものとは考えにくいとした︒そう
だとすれば独立した資料として考えられるのは申命記的資料だけだということになる︒Dについても︑その重要性
は広く認識されているものの研究者の見解が一致しているわけではない︒そしてその見解の相違は︑申命記改革とも呼ばれるヨシヤ改革理解と密接に関連するのである︒
2 列王記と歴代誌 紀元前七世紀後半にユダ王国のヨシヤ王が祭儀集中と祭儀浄化を伴うなんらかの改革を行ったという記事は旧約
聖書の列王記下二二章一節から二三章三〇節と歴代誌下三四章一節から三五章二七節に見られる︒ふたつの記事のどちらをより重視するかという点で︑﹁ヨシヤの改革﹂研究の方向性が違ってくる︒もちろんこのふたつの記事は
並行記事であるから︑両方分析して比較すべきなのであるが︑ほとんどの場合︑研究者は研究をはじめる前の段階
でどちらに依拠するかを決定している︒多数の研究者が列王記をより信頼できる聖書資料とみなしている︵ホフマン︵一九四七 5︱︶︑シュピーカーマン︵一九五〇 6︱︶︑ピーチ︵一九六七 7︱︶ら︶︒それは︑列王記が申命記史書と呼ばれ
る一連の文書︵旧約聖書の申命記から列王記下まで︶に含まれ︑捕囚期までに成立したと考えられる︵ノート︵一
九〇二︱一九六 8八︶︑スメント︵一九三二 9︱︶︑クロス︵一九二一︱二〇一 A二︶ら︶のに対して︑歴代誌はそれより遅くペルシア時代に成立しており︑成立時期だけから考えても一般的資料価値が劣るのは明白であるからである︒それに加
えて歴代誌には﹁一代内での応報﹂という神学的立場を貫徹させるため︑史実を神学に妥協させる強い傾向があ
り︑それゆえ資料価値が低くなると考えざるをえない︒
二 申命記と改革の関係 1 ﹁発見された書物﹂とは何か 列王記の物語において改革の契機となる Bのが︑神殿修復の際発見されたという﹁律法の書﹂︵﹁契約の書﹂﹁モー セの律法﹂︶である︒この書物は一八〇五年にデ・ヴェッテ︵一七八〇︱一八四 C九︶によって申命記と同定され︑後にヴェルハウゼンに受け継がれることによって︑ほとんどの研究者の間で一致をみる数少ない事項のひとつとなっ
た︒四資料仮説の年代づけも︑Dが前七世紀だということに基礎を置いていた︒そしてJ資料やE資料の存在さえ
疑われている現在でも︑多くの研究者によって申命記の年代はヨシヤ時代の前七世紀だということが受け入れられ
ている︒
2 改革と申命記家・申命記史家の関係 ノートは一九四三年の有名な著書 Dで︑捕囚期のひとりの申命記史家を想定したが︑その後ドイツ語圏では﹁捕囚 期﹂の申命記史家を細かく分けていく研究が続いた︒スメントは律法への関心を強く見せる﹁後代の﹂編集層を分離して﹁法規主義的申命記史家﹂︵略号Dtr N︶と呼び︑もともとあったと考えられる部分を﹁歴史主義的申命記史
家﹂︵略号Dtr H︶と呼んだ︒さらにスメントの弟子ディートリヒ︵一九四四 E︱︶は︑もうひとつの申命記主義的編集 層を分離した︒それは預言に強い関心を示すため︑彼はそれを﹁預言者的申命記史家﹂︵略号Dtr P︶と呼んだ︒時間的順序は
D tr H
↓D tr P
↓D tr N
となる︒シュピーカーマン Fはヨシヤ改革を論じる際︑基本的にスメント学派に依拠しており︑とくに新しい展開を見せていない︒これだけでも充分多くの編集層とその著者が区別されるわけで
あるが︑ドイツ語圏ではさらにそれぞれを細かく分けようとする研究が行われ︑一貫した編集方針に基づく一連の申命記史書という概念自体が挑戦されるようになって現在にいたっている︒この反動でノートが提唱した﹁ひとり
の申命記史家﹂を再評価しようという﹁ネオ・ノート説﹂という立場もみられる︒ただし︑ひとりの申命記史家だ
けでは説明しきれないことや矛盾が多すぎるという問題が残る︒ホフマンは基本的にネオ・ノート説に依拠しているようだが︑この理由で一貫した説明ができていない︒
これに対して英語圏ではクロスが︑ヨシヤ時代に第一の申命記史家︵略号Dtr 1︶によってヨシヤに救いがあると いうプロパガンダを広めるための主たる編集が行われ︑捕囚期に第二の申命記史家︵Dtr2︶によってノートが想定 するような悲観的な二次的編集が行われたという説を提出し︑多くの支持者を集めてきた G︒スメント学派に比べれ
ばクロス学派の方が現実的であろう︒
三 改革の歴史性 ヨシヤの改革と申命記が密接に結びついているとすれば︑申命記の年代がヨシヤ時代でなければ︑申命記的書物
に基づいた改革などありえなかったということができる︒申命記の年代を前五世紀とする説は昔も今も少数説では
あるが︑近年全体的にトーラーの成立年代を下げる﹁低年代説﹂と呼ばれる見解が強くなってきたのに伴って︑以前よりも信頼性を増してきているようである︒
1 歴史性否定説 ヘルシャー︵一八七七︱一九五 H五︶はもっぱらエレミヤ書︵捕囚前から捕囚期︶とエゼキエル書︵捕囚期︶にヨシ
ヤ改革の痕跡が見られないということから︑ヨシヤ改革はフィクションであって︑申命記の成立は前五〇〇年頃で あるとした︒列王記も歴代誌も検討せずに導き出されたこの申命記の年代はヘルシャー本人が認めるように﹁暫定的で貧弱﹂な結論 Iではあるが︑この説が現在まで続くフィクション説の基盤となったと考えられるので︑少し詳し
く見てみたい︒ヘルシャーによると﹁この法﹇申命記法﹈は実際︑捕囚前の国家において有効な法ではなく︑した
がってそれはヨシヤ王が﹇前﹈六二〇年に国家法として掲げた︑神殿において発見された律法の書と同一ではありえない︑という結果がもたらされる J﹂︒彼が︑申命記法が国家において有効でないとする理由は︑あまりにイデオロ ギー的性格が強く K︑理想主義的プログラムであると考えるからである L︒ カイザー︵一九二四 M︱︶は︑ヘルシャーが列王記すら見ずに雑な議論をしたことを批判しつつも︑ヘルシャーと同 様の結論に至っている︒その根拠は王下二二︱二三章の文学的層位を解明することは困難であるから︑内容的に歴史性があるかどうか判断すべきというものである N︒ヘルシャー同様非常に根拠が貧弱である︒ヴュルトヴァイン
︵一九〇九︱一九九 O六︶もほぼ同じことを論じている︒﹁王下二二︱二三章は︑申命記の年代とその個々の層のために 考慮されるべきではない︒それ自身に充分根拠のある︑より正確な年代が発見されない限りは P﹂︒そしてこう述べている︒﹁王下二二︱二三章は︑申命記史家の闘争の方法として理解されるべきである︒ユダ人あるいはユダヤ人
の共同体の生活において︑申命記の祭儀的︱儀礼的要求を遂行するための Q﹂︒ニーアも同様に﹁王下二二︱二三章 に報告されているようなヨシヤの祭儀改革は︑歴史的に証明されていないだけでなく︑歴史的にありえないものとして評価されるべきであり R﹂︑﹁捕囚期および捕囚後の申命記史家的著者が︑捕囚直前の祭儀改革および浄化という
フィクションを築き上げたのである S﹂と述べている︒
2 歴史性肯定説 歴史性を否定しようとする立場は常に存在するものの︑大方の研究者はある程度ヨシヤ改革の歴史性を肯定する
ことで一致している︒
四 日本における申命記およびヨシヤ改革研究史 1 関根正雄の研究 ヴェルハウゼンが近代旧約学の父であるならば︑関根正雄︵一九一二︱二〇〇〇︶は日本の近代旧約学の父である︒ 最初に関根の︑次いで関根の弟子である鈴木佳秀︵一九四四︱︶の申命記およびヨシヤ改革理解を概観すべきであろ
う︒
関根は一貫してマックス・ウェーバー︵一八六四︱一九二〇︶のひとつの提案とユンゲ Tの研究書から受けた示唆を 基に︑ヨシヤ時代の軍事官僚制国家成立を前提とした申命記研究を行ってきた U︒さらにフォン・ラート︵一九〇一
︱一九七 V一︶の影響下に︑改革におけるレビ人祭司の役割を主張した︒ 繰り返し言及される関根の立脚点のひとつはウェーバーの﹃古代農業事情﹄︵=﹃古代社会経済史﹄︶の一節であ る︒それは﹁イスラエル﹂という項目の中にあるヨシヤ時代についての︑以下のような短い言及の中にある︑﹁つまりヨシア王の改革以後においては︑官僚制化と神政政治化とはあいならんで進行する W﹂という一文である X︒
たしかにウェーバーはこの記述においてヨシヤ改革は﹁官僚制化と神政政治化﹂を同時にもたらしたと述べてい
るが︑それは他のオリエントの都市国家と同じ類型的状態に入ることと捉えられている︒同時代のオリエントの都
市国家の状況とイスラエルを比較する必要があると解すれば意義ある提案かもしれないが︑ヨシヤ改革によってイ
スラエルが典型的なオリエントの都市国家の状況に至ったというウェーバーの想定自体に問題が指摘されねばならない︒そもそもウェーバー自身がオリエントに典型的な専制的な王の支配にもとづく官僚国家の成立に不可欠と考
えるのは治水の必要性なのである Y︒なるほどメソポタミアのチグリス・ユーフラテス川やエジプトのナイル川の例
を考えれば首肯できる︒だがイスラエルには︑そのような恩恵をもたらすと同時に氾濫をくりかえす大河は存在しない︒その点で古代オリエントの都市国家と比較するより古代ギリシアの都市国家と比較する方がより適切であ
り︑実際最晩年の大著﹃古代ユダヤ教 Z﹄においてウェーバーはこの比較を念頭においた分析を行っている a︒したが
って︑ウェーバーの著作の中でも年代が早い作品の片言隻語に深い意味を見ることは不適切である︒
さらに関根は︑祭儀集中によって職を失った地方の﹁レビ人祭司﹂が役人として任用されたと想定するが︑聖書内・聖書外テクストのどこにも根拠がない︒逆に改革において地方聖所の祭司だった﹁レビ人祭司﹂︵この語自体 が意図的につくられたものであるが b︶は︑旧約聖書においては︑失職後﹁寡婦・孤児・寄留者﹂と同じ﹁貧しき
人々﹂のカテゴリーに入れられるようになったということが読み取れる︒申命記では繰り返し﹁レビ人﹂をないがしろにしないように勧めており︑現実にはしばしばないがしろにされていたであろうことが容易に想像できる︒
2 鈴木佳秀の研究 鈴木佳秀は︑師の見解を忠実に継承している︒鈴木は二〇〇五年になっても﹁筆者は︑ヨシヤ王が行政改革を行い︑その総仕上げとして法典を編纂したという立場を取っている c﹂と明言している︒そして改革の担い手について
は﹁関根正雄によって指摘された解釈が重要である︒ヨシヤ王によって地方のレビ人が召し集められ国家の役人と
して登用された可能性が関根によって指摘されている⁝ d﹂と書いている︒レビ人役人説の根拠として鈴木は五点挙げているが︑その中の二つ目は完全に誤った認識から出発している︒彼は﹁町の門における裁判に︑国家の官僚で
ある裁判人と役人が任命され派遣されている︒派遣された裁判人あるいは役人は︑地方法共同体での裁判を司り法
規の適用を監督する立場にある︒特に刑の執行を監督し 0000000000︑死刑囚の埋葬を行う責任を持つ 00000000000000︒裁判人と役人とは聖俗両面にわたる係争を分担している e﹂︵傍点筆者︶というのだが︑旧約聖書において祭司というものは近親者を除く死 体に近づいてはならないことになっている f︒大祭司︵申命記の時代には存在しなかったが︶などは近親者でも近づ くことが禁止されている g︒鈴木はレビ人が役人になった瞬間に祭司としての禁忌が適用されなくなると想定してい るわけではなく︑逆に祭司こそそのような役割を果たすものであると考えているようで﹁祭司だけが死体を処理で 00000000000
きるのである 000000﹂と述べている︵傍点筆者︶︒実際には︑祭司には死体に触れることが原則として許されないのであっ
て︑レビ人役人登用説の根拠は間接的である上︑信憑性が薄弱である︒
3 評価と問題点 もし強大な﹁オリエント型﹂の軍事官僚制国家成立が改革と申命記編纂の前提であるとするなら︑その前提がほ
とんど崩れた現在︑その改革理解と申命記理解には大幅な修正が必要となろう︒また関根と鈴木に限ったことでは
ないが︑同時代の楔形文字文書をほとんど顧慮しない旧約学者の研究姿勢は否定的に評価せざるをえない︒改革当時の社会状況・国際情勢をほとんど聖書のみから類推するのは方法論的に問題である︒少なくとも一九五〇年代以
降は申命記および他の旧約聖書学研究に利用可能な楔形文字文書が多数発見・出版されているのであるから︑それ
らを参照すべきであったと思われる︒
五 ヨシヤ改革の
﹁
規模﹂
についての新しい見解 主として考古資料とその解釈に基づいて︑アルバーツ︵一九四三︱︶のような伝統的立場が想定してきたよりは︑ 限定的な規模の変化がヨシヤ時代のユダに起こったと推測する研究者が最近では多くなっている︒ベン・ツヴィは﹁﹃ヨシヤの帝国﹄は存在しなかった︒その代わりに非常に限定的な領土的拡張︵ベテルの領域︶があり⁝︒ヨシヤが自分の王座の下に一二部族の再統合を遂行したという証拠は全くない h﹂と述べており︑ハルトマイヤー︵一九四二︱︶は﹁王下二三章二八節bを別として⁝王下二三章四︱一五節*における祭儀的浄化と除去の措置について再 構成されたカタログが⁝ヨシヤ治世における小規模な祭儀改革を証言している i﹂と言っている︒ナアマン︵一九三 九︱︶の考えによるとサマリアの丘陵地帯に拡張した可能性はあるが︑より北の中央丘陵地帯以上には進まず︑ガリラヤあるいはイズレエルの谷は含まれていなかった j︒
つまり︑近年の研究においては︑改革の歴史性については認める立場が多いものの︑その規模はエルサレムを中
心とするささやかなもので︑とても﹁巨大な軍事官僚制国家﹂などと呼べるようなものではなかったと考えられているのである︒
六 楔形文字文書と申命記の関係 1 ヒッタイトの﹁条約﹂か新アッシリアの文書か k 申命記の成立に影響を与えた楔形文字文書として最初に注目されたのは︑ヒッタイト王国が他の国々と結んだ
﹁条約﹂であった︒メンデンホール︵一九一六︱二〇一 l六︶は一九五四年にこの説を発表した︒しかし翌一九五五年には﹁エサルハドン王位継承誓約文書﹂︵と呼ぶのがふさわしいことが現在では明らかな文書︒以下
E SO D
と略記 する m︶が発見され︑一九五八年にワイズマン︵一九一八︱二〇一 n〇︶によって﹁エサルハドン宗主権条約︵The Vassal- Treaties of EsarhaddonVTE︶﹂として出版された︒出版後ただちに申命記二八章の祝福と呪いのリストとの類似が指摘され︑ワインフェルド︵一九二五︱二〇〇九︶がもっとも説得的な説明を与えた o︒たしかに申命記二八章にある﹁祝福と呪いのリスト﹂の祝福の部分は
E SO D
には見られないし︑申命記一︱一 一章にある﹁歴史的序文﹂もE SO D
にはついていないが︑これは単に文書の性質の違いによるものである︒特定 の国家間での誓約と︑ひとつの国と何百もの相手との誓約ではおのずから書式が異なるのである︒ヒッタイトの﹁条約﹂文書に帰せられる特徴は古代西アジアに広くみられる習慣にすぎずヒッタイト特有のものとはいえない︒
それにもかかわらず聖書学者の中には聖書中のアッシリアの描き方があまりにも凶暴なためか︑新アッシリアの文
書の影響よりヒッタイトの﹁条約﹂の影響を好む傾向も根強く残っていた p︒ 2 タイナト版の発見 最初に
E SO D
が発見されたのはアッシリアの古い首都アッシュルであった︒三つの断片が知られている︵アッシュル版︶︒一九五五年には九部がニムルドで発見され︑一九五八年に出版されてから研究が進み︑内容がほぼ理解できるようにもなった︒しかしニムルド版が発見されたのが当時のアッシリアの首都のひとつカルフ︵現在のニ
ムルド︶であり︑発見された
E SO D
の名宛人がメディア人であったため︑文書中に明記してあるように︑本当に多くの名宛人に対してこれが発行され︑それぞれが自分たちの領域へ持ち帰ったのかどうかは不明であった︒
しかし︑二〇〇九年に発見され二〇一二年に出版された qタイナト版はこれらの曖昧さを解消したといえる︒現在 のトルコにあるテル・タイナト︵古代名クナリア︑クヌルア︑あるいはキナリア︶は︑当時のアッシリア帝国の属州であった︒クナリアの代官に宛てられたタイナト版
E SO D
は︑E SO D
の﹁あなた方の神のように︵この文書を扱え︶﹂という要求どおり︑古い神殿の至聖所︵一番奥の部屋︶から発見されたのである︒これは︑
E SO D
が領域内および属国にくまなく存在していたであろうことを強く示唆している︒代官や町長に配布されていたものが︑忠実な属王であるユダ王国のマナセ王に交付されないなどということはありえない︒おそらくエルサレム神殿に︑ヤ
ハウェとともに
E SO D
が祀られていたに違いない︒それを読むことができ内容を知ることのできる立場にあった エリート層︵宮廷役人=書記とエルサレム神殿の祭司︶は︑E SO D
の影響下において申命記を起草したと想定す ることが許される︒この場合︑ステイマンズ︵一九六一 r︱︶のようにアラム語訳を使ったと想定する向きもあるが︑当時のエリート層は自国の言語以外の言語も学ばざるを得なかったのであって s︑ヘブライ語と同系統のセム語であるアッカド語が読めなかったとは思えない︒おそらくアラム語訳を経ることなく直接アッカド語のテクストを参照
して申命記が書かれたと想定される︒
3 レヴィンソン︵+スタッカート︶とバーマンの論争 タイナト版を受けて︑聖書法の専門家レヴィンソン︵一九五二 t︱︶は申命記一三章一節が
E SO D
の借用であるこ とを証明した︒さらにレヴィンソンとスタッカート︵一九七七 u︱︶は申命記全体がE SO D
の影響下に成立したと主張した︒そしてステイマンズもタイナト版によって自分の説︵申命記二八章へのE SO D
の影響︶がさらに確固たるものになったという論文を発表した v︒それにもかかわらず︑ヒッタイトの﹁条約﹂が申命記に影響したというテ
ーゼにあくまでこだわるバーマン wは︑何も起こらなかったかのようにタイナト版を無視した論文を発表し続けている︒その姿勢はレヴィンソンとスタッカートによって批判されたが︑バーマンは反論し︑さらにレヴィンソンとス タッカートが反論する形で︑論争が行われた x︒前一五︱一二世紀のヒッタイトの﹁条約﹂文書︵しかもそれは自国
に宛てられたものではない︶にアクセスするより前六七二年の文書︵自国に宛てて発行されたもの︶にアクセスする方が前七世紀のユダ王国エリート層にとってよほど簡単であったであろう︒
4 クラウチの﹁タイナト後﹂の反対説 最近旧約神学者のクラウチ yが︑アッシリアの文書︵とくに
E SO D
を念頭においている︶の影響が申命記にあっ たかどうかを論じた研究書を出版し︑タイナト版の発見にもかかわらず︑E SO D
が直接申命記に影響したことを 否定している︒その主な論拠はタイトルにも使用され︑くりかえし出現するsu bv er sio n
という概念︵クラウチはこの語を︑アッシリアへの反抗を表明すること︑というほどの意味で使用していると思われる︶に集約されてい
る︒要するにクラウチは﹁アッシリアに対する反対運動あるいは思想的反抗としてユダが
E SO D
を似て非なるものに変えて申命記を作った﹂という立場を批判しているのである︒ユダの中でE SO D
にアクセスできたのは一部 のエリートであろうから︑一般のユダ人は知らなかったであろう︒そういう状況でE SO D
を換骨奪胎あるいは脱 構築してみせて何の意味があるのか︑というのである︒申命記を読み聞かせられた人々は︑それがE SO D
のパロディであることに気づく可能性がほとんどないのであるから︑E SO D
を使用する意味がないというのであろう︒さらに彼女は
E SO D
の内容は﹁オリジナル﹂とはいえず︑﹁古代近東﹂に一般的な特徴しか備えていないので︑ とくにE SO D
だけが申命記に影響を与えたとはいえないと主張している︒また︑エルサレムからユダ王宛のE SO D
が発見されていないことも論拠に挙げている︒Su bv er sio n
として成立しない︑という点については︑申命記記者がE SO D
を独特の方法で使用した際︑とくに﹁反アッシリア﹂を宣伝しようという意図はなかったことを指摘しなければならない︒前七世紀後半のユダにとっては︑アッシリアはもう力を持っていなかったからである︒アッシリア支配下にあっては﹁反アッシリア﹂の動
きがあってもおかしくないが︑アッシリアの頸木から脱け出し︑おそらくはエジプトの支配下︵そうでなければ
﹁権力の空白状態﹂︶にあったユダにとって︑わざわざアッシリアの文書を使用するからには︑積極的な意義があっ
たはずである︒政治支配から逃れてはじめてアッシリアの文化の独自の受容が可能になった可能性がある︒
E SO D
は単に古代西アジアの一般的要素を集めただけに留まらず︑新しい画期的な要素を持っていた︒それは︑誓約というものが︑誓約当事者の生存中のみ効力を持つという常識を変え︑はじめの誓約当事者が亡くなっても効力を持続させようとした点である︒それによって﹁永遠の誓約﹂がはじめて可能となった︒それが︑ユダのエリートたちが
E SO D
を受容した最大の理由であろう︒国家を建て直そうと苦闘していたユダのエリートたちは︑改革の理念をなんとかして民衆に根づかせようと考えたに違いない︒その際﹁アッシュルバニパルに従う﹂ことを誓った者たちが死んで代替わりしてもなお︑あるいはアッシュルバニパルに従うことを要請したエサルハドンが亡くなってもな
お︑さらにはアッシュルバニパルが亡くなっても︑その子孫に従うことを要求する
E SO D
の仕組みは重要であった︒実際︑ヨシヤの死によって改革が頓挫しても︑さらにユダ王国自体が滅亡しても︑神ヤハウェと民イスラエルの間の誓約は︑子々孫々受け継がれるべきものとして理解され︑驚くべきことに効力を持続して今日に至ってい
る︒つまり︑ユダのエリートたちは︑すでに弱体化したアッシリアへの﹁あてこすり﹂を民衆に見せつけたかった
のではなく︑利用するに値する概念装置を導入して︑民衆に自分たちの思想を根づかせたかったのである︒ クラウチは︑半世紀近い
E SO D
研究の進展を無視してV T E
という語を使いつづけるなど︑聖書外資料とくにアッシリアの資料の意義とその研究を軽視する傾向が顕著にみられ︑申命記とアッシリアの関係を扱うという非常
に興味深いテーマの深化が阻害されている︒
5 マークルの﹁タイナト後﹂の見解 ごく最近ドミニク・マークル zは︑概説書の中で︑ヒッタイトの条約が申命記に直接的影響を与えたというには時 間が隔たり過ぎており︑申命記に最も重要な直接的影響を与えたのは
E SO D
であると断言している︒E SO D
の内容︑また二〇〇九年にタイナトでもそれが発見されたということを考慮するなら︑同様のものが︑ユダ王マナセによってエルサレム神殿に﹁公に展示されていた﹂という想定がゆるされるというのである︒しかしマークルでさ
え︑いまだに
E SO D
をE ST
と呼んでいることからわかるように︑充分E SO D
研究の進展を考慮しているとはいえない︒
6 渡辺和子のESOD 研究への貢献 渡辺和子は︑この三〇年以上一貫して
E SO D
研究の最先端を切り拓いてきた研究者であり︑E SO D
研究の第一 人者である︒E SO D
︵Esarhaddon’s Succession Oath Documents︶という文書の呼び名も彼女がはじめて使用した︒E SO D
研究に対する彼女の多大な貢献の核は︑︵一︶E SO D
が宗主権﹁条約﹂V T E
︵Vassal-Treaties of Esarhaddon︶ でも王位継承﹁条約﹂E ST
︵Esarhaddon’s Succession Treaties︶でもなくD ie V er eid ig un g a nlä ß lic h d er T hr on - folg er eg elu ng A sa rh ad do ns
である︵﹁アデー﹂とは﹁誓約﹂を意味する︶ことを証明したこと あ︑︵二︶E SO D
が神の印章を押された﹁天命の書版﹂の機能を持っていることを認識したこと い︑︵三︶
E SO D
の複雑な構成を論理的 に整理し難解な新アッシリア語︵文法︶を言語学的に正しく解明したこと うにある︒ これからのヨシヤ改革研究および申命記研究には︑渡辺の業績を参照することが不可欠であると考えられる︒おわりに
タイナト版﹁エサルハドン王位継承誓約文書﹂の発見・出版によって︑ヨシヤ改革の理解も大きな修正を受ける
ことになる︒もちろんタイナト版の示唆をどう捉えるかにより︑大きな差が出てくるであろうが︑いずれにせよ︑
タイナト版の存在を無視した議論はもはや成立しない状況である︒本稿ではヨシヤ改革研究史に限って︑それも細
部を省いて現在要請されている再整理を試みた︒おそらくマナセ王がエルサレムに持ち帰った
E SO D
が宮廷役人やエルサレム神殿祭司に知られており︑後のヨシヤ改革に独特の方法で利用されたと考えられる︒しかしこの点についての詳細は別稿に譲らねばならない︒
注︵
︵ R. E. Clements, , Guildford / London: Lutterworth Press, 1976照︒原著はである︒ 1︶たとえばR・E・クレメンツ︵村岡崇光訳︶﹃近代旧約聖書研究史││ヴェルハウゼンから現代まで﹄教文館︑一九七八年参
︵ た︒ として出版されたが︑一八八三年の第二版からというタイトルになっ Cf. J. Wellhausen, 6th ed., Berlin: Georg Reimer, 1905.2︶この著作は一八七八年に R. Rendtorff, 3︶R・レントルフ︵山我哲雄訳︶﹃モーセ五書の伝承史的問題﹄教文館︑一九八七年︒原著は
, Berlin: Walter de Gruyter, 1976である︒︵
︵ E. Blum, , Berlin / New York: Walter de Gruyter, 1990.4︶
︵ , Zürich: Theologischer Verlag, 1980. H-D. Hoffmann, 5︶
︵ H. Spieckermann, , Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 1982.6︶
︵ Siebeck, 2013. M. Pietsch, , Tübingen: Mohr 7︶
︵ M. Noth, , 2nd ed., Tübingen: Max Niemeyer, 1957.8︶
︵ , München: Chr. Kaiser, 1971, pp. 494‑509. R. Smend, Das Gesetz und die Völker, H. W. Wolff ed., “”9︶
︵ 1973, pp. 274‑289. , Cambridge: Harvard University Press, 10 F. M. Cross, “The Theme of the Book of Kings and the Structure of the Deuteronomistic History,” F. M. Cross ed., ︶
︵ 11 ︶歴代誌の物語において﹁発見された書物﹂は既にはじまっていた改革に拍車をかける役割を果たしている︒
︵ (Diss. University of Jena), 1805. 12 W. M. L. de. Wette, ︶
︵ 13 Noth, 1957.︶
︵ , Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 1972. 14 W. Dietrich, ︶
︵ 15 Spieckermann, 1982.︶
︵ 16 Cross, 1973.︶
︵ 1922, pp. 161‑255. 17 G. Hölscher, Komposition und Ursprung des Deuteronomiums, 40, “”︶
︵ 18 Hölscher, 1922, p. 238.︶ 19 Hölscher, 1922, p. 228.︶
︵
︵ p. 228うことを示している﹂︵︶︒ 20 ︶﹁申命記立法のイデオロギー的性格は︑それが捕囚前のユダに生まれたのではなくて︑むしろ出来事の後の時代に属するとい
︵ 21 Hölscher, 1922, pp. 228‑229.︶
︵ tersloher Verlaghaus Gerd Mohn, 1984. 22 O. Kaiser, , 5th ed. Gütersloh: Gü-︶
︵ 23 Kaiser, 1984, p. 133.︶
︵ 395‑423. 24 E. Würthwein, Die josianische Reform und das Deuteronomium, 73, 1976, pp. “”︶
︵ 25 Wülthwein, 1976, p. 214.︶
︵ 26 Wülthwein, 1976, p. 214.︶
︵ , Weinheim: Belz Athenäum, 1995, pp. 33‑55, p. 51.“” 27 H. Niehr, “Die Reform des Joschija: Methodische, historische und religionsgeschichtliche Aspekte,” W. Gross ed., ︶
︵ 28 Niehr, 1995, p. 51.︶
︵ 五一︱一五四頁を参照されたい︒ 者の書評﹁G・フォン・ラート︵山吉智久訳︶﹃古代イスラエルにおける聖戦﹄﹂︵﹃キリスト教学﹄第四八号︑二〇〇六年︶︑一 解においてユンゲに言及しているフォン・ラートもまた︑ドイツ近代史と古代イスラエル史を重ねて見ていたことについては筆 書解釈に持ち込んだのではないかということである︒そのためか近年ユンゲを引用する旧約学研究者は皆無である︒申命記の註 以降一九四五年の敗戦まで続いた︶にあって︑ドイツがヴェルサイユ条約を破棄し軍事官僚制復活に至るという時代情勢を︑聖 本は入手できず目を通していないのだが︑出版年とタイトルから推測できるのはユンゲはナチスの時代︵一九三三年の政権獲得 29 E. Junge, , Stuttgart: Kohlhammar, 1937.︶残念ながらこの
︵ ︱五九二頁︶︑五六九頁参照︒ 30 ︶たとえば関根正雄﹁申命記とその影響││啓示の歴史的背景﹂︵﹃聖書学論集﹄第八号︑一九七一年︶︑六八︱八八頁︵五六六
︵ がヨシヤ改革の綱領であることを否定している︒ 31 ︶フォン・ラート︑二〇〇三年︑二七︱二八頁ではフォン・ラート自身がユンゲを引用し︑レビ人祭司の役割を強調し︑申命記 32 ︶マックス・ウェーバー︵上原専禄・増田四郎監修︑渡辺金一・弓削達共訳︶﹃古代社会経済史││古代農業事情﹄東洋経済新
報社︑一九八四年︑一七九頁︒︵
︵ pp. 449‑450. ‑, Tübingen: J. C. B. Mohr (Paul Siebeck), 2006, 33 Max Weber, J. Deininger ed., ︶ Max Weber, W. Schulchter ed., に変えてある︶︒原書は 34 ︶マックス・ウェーバー︵黒正巌・青山秀夫訳︶﹃一般社会経済史要論﹄上巻︑一四五︱一四六頁︵引用にあたって旧字を新字
, Tübingen: J. C. B. Mohr (Paul Siebeck), 2011, pp. 144‑145.︵
︵ 2005.和訳はマックス・ヴェーバー︵内田芳明訳︶﹃古代ユダヤ教﹄上・中・下巻︑岩波文庫︑一九九六年︒ ‑, Tübingen: J. C. B. Mohr (Paul Siebeck), 35 Max Weber, E. Otto ed., ︶
︵ 7.2, 2008, pp. 213‑229. 36 Cf. Y. Takahashi, “A Study on Max Weber’s Ancient Judaism: Theoretical Framework and Methodology,” ︶
︵ , 1992, pp. 343‑345.R・アルベルツ︵髙橋優子訳︶﹃ヨシヤの改革﹄教文館︑二〇一〇年︑四六︱五〇頁︒ 37 R. Albertz, ︶
︵ 38 ︶鈴木佳秀﹃ヘブライズム法思想の源流﹄創文社︑二〇〇五年︑一三〇頁︒
︵ 39 ︶鈴木︑二〇〇五年︑一六三頁︒
︵ 40 ︶鈴木︑二〇〇五年︑一七二︱一七三頁︒ 41 ︶レビ記二一章一︱四節﹁ヤハウェはモーセに言った︑アロンの子ら祭司たちに言え︑彼らに言え︑彼の親族のために自分を汚 000000000000
してはならない 0000000︒しかしもし彼の近親者すなわち彼の母 00000000000000000︑彼の父 000︑彼の息子 0000︑彼の娘 000︑彼の兄弟のため 0000000︑また彼にとっての近親 0000000000
者で処女である姉妹のためには汚れてもよい 00000000000000000000︒同族の者のためには 000000000︑決して汚れてはならない 00000000000﹂︒︵試訳および傍点筆者︒レビ記の当該箇所が申命記より後だとしても︑祭司観が突然大きく変わるとは考えにくい︒︶︵
らない︒彼の衣服を引き裂いてはならない︒すべて死体のところへ行ってはならない︑彼の父のためにも彼の母のためにも汚れ 00000000000000000000000000000000000042 ︶レビ記二一章一〇︱一二節﹁彼の兄弟のうち︑頭に油注がれ聖別されて任命され祭服を着る大祭司は︑彼の頭髪を乱してはな 0000000000000000000000000000000
てはならない 000000︒彼は聖所から出てはならない︒彼の神の聖所を汚してはならない︒彼の神の注ぎの油による聖別のゆえに︒わた