九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
「南蛮運気論」の流布と受容
平岡, 隆二
長崎歴史文化博物館 : 主任研究員
http://hdl.handle.net/2324/19465
出版情報:洋学 : 洋学史学会研究年報. (18), pp.1-50, 2010-08-01. 八坂書房 バージョン:
権利関係:
洋学18︵二〇〇九︶論説
﹁南蛮運気論﹂の流布と受容
平岡 隆二
はじめに 近世初期の日本で成立したキリシタン系宇宙論書の一つである﹁南蛮運気論﹂︵一七世紀中頃成立︶は︑西洋
のアリストテレス・プトレマイオス的宇宙論に遡源する内容を持ちながら︑その本文に中国の天文・気象・医学
理論である﹁運気論﹂にまつわる引用や術語の改変等が混在することから︑日欧科学交流の黎明期における興味
深い所産として知られている︒
この﹁南蛮運気論﹂が︑元イエズス会士で転びバテレンの沢野忠庵︵O筒馨︒<ぎ腎⑦霞魚鑓博一五八○頃〜一六五
〇︶等の手によって成立した﹁乾坤弁説﹂の異本であるということは︑大矢眞一氏が一九五〇年にその旨を説く
論考を発表して以来定説となったが︑近世を通じて写本の形で伝わった同書の本文はまだ活字出版されておら
ず︑諸本の伝存・流布状況に関する研究もほとんど未開拓のまま残されている︒そこで本稿では︑これまで調査
することのできた﹁南蛮運気論﹂写本計十二点を紹介しつつ︑とりわけ同書が近世期の知識人にどのように写し
伝えられ︑どのように読まれたのかという問題に焦点をしぼって考究・分析することにする︒
一、
薄{の流布と受容
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表1は本稿で取り扱う﹁南蛮運気論﹂写本の一覧である佗︒各写本の特徴を比較できるように︑ここでは計七
つの項目︑︵一︶番号・略称︵欠本の有無︶︑︵二︶所蔵機関︑︵三︶標題︵内題/外題の区分︶︑︵四︶近世期の旧
蔵者︑︵五︶奥書︑︵六︶推定成立年︑︵七︶各写本の初出ω︑を立てて一覧にした︒
この表から分かるように︑﹁南蛮運気論﹂の現存写本には︑﹁乾坤弁説﹂写本群ωと同様に︑別題を有する異称
表1番号・略称︵欠本︶所蔵機関標題︵区分︶旧蔵者奥書推定成立年初出
近世写本﹇01﹈大河内本豊橋市美徳博物館南蛮運気論︵外︶松平輝綱なし一六七〇年以前初出
﹇02﹈松浦本︵地部︶﹇03﹈山内本﹇04﹈桑木A本︵天部︶松浦史料博物館土佐山内家宝物資料館丁丁大学附属図書館天文書︵外︶天文要解︵内︶天文要解︵内︶松浦静山谷垣守不明なし谷垣守︑一七三六年谷垣守︑一七三六年江戸後期以苗一七三六年一七三六年以降初出初石初出
﹇05﹈白雲本﹇06︺林集書本﹇07﹈天理本不開東北大学附属図書館天理大学附属天理図書館南蛮天地論︵内︶南蛮天地論︵内︶芙文運気論︵内︶不明不明戸板保佑杉貞蕎︑一六七〇年なし杉叢篭︑一六七〇年﹇付轡あり﹈江戸中期頃江戸中期頃一七八二年以藩初出書殴書欝
﹇08﹈秋岡本︵天涯︶神戸欝立博物館天文運気論︵内︶仙台の人杉貞蕎︑一六七〇年﹇付言あり﹈一七八二年以降書目
﹇09﹈小圃本︵地部︶奥彊市立水沢図書館南蛮運気論︵内︶小鼠仲達撞鐘仲達︑一七九三年一七九三年書員
近代写本
﹇10﹈京大文図本︵抄写︶﹇11﹈学士院本﹇12﹈桑木B本京翻大学文学研究科図書館冒本学士院九彊大学附属図書館南蛮天地論︵外︶南蛮運気論︵外︶南蛮運気論︵外︶
111 一九一一年一九一三年一九一三年以降初出書目書日
本が多数存在している︒ただし﹁乾坤弁説﹂写本群に比して︑奥書など旧辞者にまつわる情報がより多く残され
ており︑また本書が近世の知識人にどのように読まれたのかを推測するに足る書き込み等の情報も比較的多いの
が特徴である︒以下︑各写本の書誌を記述するとともに︑その内容・背景にまつわる解題を付す⑮︒
1.近世写本
︹01大河内本︺
豊橋市美術博物館大河内家文書蔵︑請求番号六一八・六一九︑二冊︑袋綴︑二五・六×一七・三㎝︑外題﹁南蛮
運気論﹂乾・坤︑内題なし︑各冊四六・四八丁︑巻頭目録なし︑毎半葉九行︒留置一点﹁大河内﹂方・陽・朱︒
「南蛮運気論」の流布と受容
これは江戸初期の幕府老中・松平伊豆守信綱︵一五九六〜一六六二︶と︑その長子の甲斐守輝綱︵一六二〇〜
一六七二︶を祖に持つ大河内松平家に伝わる写本である⑯︒同家文書中には︑他にも﹁乾坤弁説﹂現存最古の写
本﹁弁説南蛮運気書﹂︵寛文十年﹇一六七=罫書︶σをはじめとするキリシタン関係史料が複数残されているが︑
それらはいずれも川越藩時代の第二代藩主輝綱に由来することが確実視され俗︑この大河内本﹁南蛮運気論﹂も︑
後述の﹇05﹈白雲本・﹇07﹈天理本等に見られる奥書﹁以松平甲斐守之写本書之︒時寛文十年十月十二日﹂の存
在から︑輝綱の旧蔵書と見てほぼ間違いない︒したがって本写本の成立は寛文一〇年一〇月一二日︑すなわち西
暦一六七〇年一一月二四日以前ということになり︑これは成立年に関する情報が得られる現存写本の中でもっと
も古い︒ その本文は他の全ての﹁南蛮運気論﹂写本と同様︑全編を通じて漢字カタカナ混じり文で書かれるが︑本写本
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と次の﹇G2﹈松浦本のみカタカナの一部が漢文に付した訓点のように右寄り小文字で書かれるという特徴を持っ
ている︒さらにこの両写本には︑他の全ての近世写本に見られる内題がない︒以上の特徴は﹁南蛮運気論しの最
初期の本文体裁を反映するものと考えられ︑同書原型鎚9象巻︒の復元や諸本の系統を考えるにあたって重要な
情報である︒
また同家文書所収の﹁智光院様﹇輝綱﹈﹂自筆の断簡が貼り込まれた一紙文書中には︑
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信書者肥前国長崎之一向宗光源寺之住僧松吟︑伝受南蛮人而記之︒
マ マ 改名忠庵ト号/吉利支丹之目明シシテ住長崎也>C9︒ ﹇以下朱筆﹈︿南蛮人トハ伴天連︑於日本
という記述が見え︑これは明らかにこの大河内本﹁南蛮運気論﹂もしくは﹁弁説南蛮運気書﹂の解題であるが︑
その内容は﹁測量毒言﹂所収の毒草拙書簡に見える︑享保期の長崎に伝わっていた忠庵系宇宙論書の由来とも合
致している⑳︒このような情報が写本とあわせて現存していることは︑業主がこれらを長崎で入手した/させた
ことを強く示唆しており︑これはキリシタン系宇宙論書の初期の伝播ルートに関するほとんど唯一の情報として
大変貴重である伽︒その入手先は現在のところ史料によって裏付けることができないが︑曳綱はすでに一六五二
年に幕府大目付の井上筑後守政重︵一五八五〜一六六一︶を通じてオランダ人に地球儀を発注しており糎︑また
忠庵がその井上の指示によって﹁南蛮運気論﹂﹁乾坤弁説しの祖本となった﹁忠庵ローマ字草稿﹂を作成したの
もほぼ確実であることからQ3︑あるいは輝綱は井上からこれらの写本を入手したのかもしれない︒
なお輝綱の関心は︑南蛮・紅毛系の天文地理学だけではなく︑航海術にも及んでいた︒輝綱自筆と伝えられる
「南蛮運気論」の流布と受容
ボルトラーノ海図の存在はよく知られているが偲︑上に引用した解題と同じ袋に含まれる一紙文書には︑
地墨一度 四十三里七半也︒六尺五寸間三十六町也︒是二三百六十度ヲ乗レハ︑壱万五千七百五十里也︒是
世界之広サ也︒
○阿蘭陀ニチハ日本之二里半ヲ一里ト定ル︒依一度十七里半ト云︒阿蘭陀爆風ヨキトキハ七度走ル由︒田河聞
伝㈲︒
なる記述があり︑これは一七世紀後期長崎の航海者であった島谷見立に由来する写本﹁舩乗ひらうと﹂に見え
る︑ 一︑ヲランダの一度はヲランタの道十七里半︒日本三拾六町一里にして四拾三里七合半に賦也︒ヲランタの
一里は日本之二里半伽︒
という記述とよく対応している︒また同じく島谷系の写本である﹁比呂宇土﹂門按針術﹄門算法日月考篇には︑
カラト 度ハ五十二里半︒但今ハ四十三里七半也︒南蛮運気論二四十五里ト云御︒
なる引用が見えており︑これらの写本の読者が﹁南蛮運気論﹂を参照していたことも知られる︒以上の史料はい
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ずれも断片的ではあるが︑輝綱の天文・地理・航海術に対する関心が︑近世初期長崎における知的環境の影響を
色濃く受けたものであったことが窺えよう︒
また輝綱が中国の渾天説に関する記述や︑﹃素立入式運気論点﹄から日月の運行に関する記述を収集していた
ことはかって指摘したが磁港︑同家文書群に含まれる写本門日かげ之本﹂にも︑中国系の二十八宿名や刻・尺・寸
等の諸数値が散りばめられた円表の内に︑明らかに西洋天文学説に基づくものと分かる諸天の階層構造に関する
書き込み﹁影像/廿八宿/鎮星/歳星/隠男/日/太白/辰星/月﹂が付されている㈱︒この写本は余白に付さ
れた書き込みの年号から万治年間︵一六五八〜六〇︶頃の成立と考えられ︑また裏面に輝綱由来の﹁寄井阿蘭陀
字﹂伽と同じローマ数字の書き込み﹁罵︒︒卜α①刈︒︒OμOHOO﹂が見られることから︑やはり曳綱が作成したものと
推定してよかろう︒
このように︑首綱において南蛮・紅毛と中国系の知識が渾然一体をなしていることは︑西川如見が︑
6
ソノカミ 往昔長崎蛮流ノ運気者ト号スル輩モ︑劉温箭が運気論ヲ通学セスト云走塁シト見エタリ紐︒
と述べた一七世紀長崎の状況とも合致しており︑大きな注目に値する︒この﹁長崎蛮流ノ運気長しの学統につい
てはまとまった資料が残されておらず︑わずかに﹃先民伝﹄﹁測量秘儀﹂等に断片的な情報が見えるにすぎない
が︑その学風を窺い知る上でも︑輝綱の残した資料群は重要な意義を持つものである︒
︹02松浦本︺
松浦史料博物館蔵︑請求番号乙一一三−一四九一︑一冊︑袋綴︑二七・一×一九・三㎝︑外題﹁□□書﹂全︵鼠
損により判読不能︒題言下部に鉛筆で﹁天文書﹂と付す︶︑内題なし︑全四六丁︑巻頭目録なし︑毎半葉九行︒
印記二点﹁平戸藩/蔵書﹂方・陽・朱︑﹁楽歳堂/図書記﹂方・陽・朱︒
「南蛮運気論」の流布と受容
これは平戸藩主の松浦静山︵一七六〇〜一八四一︶が創設した楽歳堂文庫蔵書である︒この写本には﹁南蛮運
気論﹂という標題は見られず︑﹃国書総目録﹄などでは﹁天文書﹂として記載されるが︑本文を精査したところ
﹁南蛮運気論﹂写本と判明した︒ただし地部は現存しておらず︑暗部のみの零本である︒本文料紙は全丁とも裏
打ち補修済みで︑かつ著しい錯丁がみられるが︑それらを本来あるべき丁順に並べなおすと︑隣接する丁同士が
明らかに共通の虫食い穴を有しているため︑この錯丁は補修時にでも生じた混交であろう伽︒
その本文は﹇01﹈大河内本と同じく内題を有せず︑カタカナの一部が右寄り小文字で書かれている.この種の
特徴の一致が偶然に生じることは考えにくいため︑これはたとえ静山の生きた江戸中後期に転写・成立したもの
であるとしても︑﹇01﹈大河内本に近い古本の特徴を有する写本と推定できる︒
本写本唯一の標題である外題の前半部は破損して読めないが︑松浦史料博物館に架蔵される﹁楽歳堂蔵書目
録﹂㈱和書巻上・天文之部・天学類に﹁天文書 写一冊﹄の記載があることから︑かつて﹁天文書しと題されてい
たことは確実である︒ただし静山が本写本をキリシタン系と見なしていたことを伝える資料は︑管見では知られ
ていない︒むしろ上記﹁楽歳堂蔵書目録﹂の該当類別に含まれる他書のほとんどが一般的な国書伽であることは︑
本写本が楽歳堂に架蔵された時点において︑転びバテレンに由来する書物と認識されていなかったことを暗示し
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ている︒本書を南蛮系ではなく国書︵とりわけ医家者流の運気論書︶とする見方は︑次の﹇03﹈山内本や﹇05﹈
白雲本・﹇07﹈天理本においても同じで︑近世期における本書受容の一般的特徴と言うことができるため︑たと
え静山がその正体を見破ることができなかったとしても︑決して故なしとはしない︒
︹03山内本︺
土佐山室家宝物資料館蔵︑請求番号や四四〇一一一i二㈲︑二冊︑袋綴︑二七・五×一九・五㎝︑外題﹁天文単
解﹂乾・坤︑内題﹁天文愚考﹂︑本文丁数四〇・三九丁︑各巻頭に門天文要解目録﹂あり︑毎半葉十一行︑印記
二点﹁山内/文庫﹂方・陽・朱︑﹁釜山書蔵﹂縦長楕円・陽・黒︒両冊とも見返しに﹁八十一/天文上図入全二﹂
と墨書した貼紙を付す︒坤巻三五オ〜三七ウにかけて﹁虫喰ス歎﹂﹁虫喰し﹁虫喰/内歎しの書込みあり︒朱・墨
の書込みあり︒
︵谷垣守自筆奥書︶﹁右天文要解上下二冊国島栄庵丈所蔵也/蓋医家者流所講習運気推測余流也粛然/天象之論
明備足銀天経或問等井面焉以/故託大薮生謄写校閲爲家厳云爾/元文元年丙辰十一月上溝 於東武谷垣守宮識﹂
坤巻三九ウ︵訓点省略︶
これは土佐藩の山内文庫に伝わった写本で︑﹁天文要解﹂と題されているが︑本文はまさしく﹁南蛮運気論﹂
であることを確認済みである︒
この写本には本文とは別筆で土佐藩士の谷垣守︵一六九八〜一七五二︶自筆奥書が付されている︒垣守はしば
しば江戸に出て多くの文人と交わり数多くの写本を作成していたことが山内文庫中の諸本から分かるが鱒︑これ
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「南蛮運気論」の流布と受容
は奥書から︑江戸の国島栄庵なる人物の蔵本より元文元年︵一七三六︶に転写したものと分かる︒本文と奥書が
別筆なのは︑垣守が別入に謄写を依頼し︑奥書のみ自ら付したという事情によるものらしい︒ただし本文中には
三無自筆の朱の書き込みが散見されるため︑彼が本写本を丁寧に読み込んでいたことは間違いない︒それらの書
き込みの中には︑たとえぼ︑
﹇本文﹈ 八重ノ衆星︑其数積り難シト雛︑星光体ヲ見分ホトノ星辰ヲ積ルニ其数一千二十有者也︒
︹垣守朱書傍記﹈阿蘭陀ノ国二顕レタル星数也︵乾巻一四オ︶︒
﹇本文﹈天ノ一回ハ三百六十度也︒此一回ヲ十二時一二回スルニ︑三十度ヲ一時二回リ︑一度ヲ四分ノ問二
回ル者也︒
﹇垣守朱書傍証﹈ 四分ト云︑三国ニチハ百廿ヲ一時ト定ム︒然ハ一度四分ニアタル也︒積テ三回ノ問廿分也
︵乾巻一八オ︶︒
と見えている︒この﹁阿蘭陀﹂﹁旗国﹂の典拠は必ずしも明らかではないが︑垣戸がこれらの数値を確かに西洋
系と認識していたことがわかる︒鶴沼は父の二字山︵一六六三〜一七一八︶が残した大量の暦学関連資料伽の存
在から︑和漢の暦学について少なくとも一定の知識は持っていたはずであるし︑奥書から分かるように﹃天芝或
問﹄も読んでいた︒しかしその奥書で︑
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﹇本書は﹈蓋し医家者流講習する所の運気・推測の余流なる歎︒然るに天象の論︑
と井せ考るに足れり︒ 明備にして︑天皇或問等 鐙
と述べるように︑垣守は本書を医家者流の運気・推測の学の余流と推定した︒近世初期の日本では︑運気論を研
究し消化しようとする努力が一七世紀を通じて続けられ︑数多くの和刻本・著作が出版されると同時に︑﹃焔管﹄
等にまつわる﹁医学講説人﹂の出現も見るに至った鵬︒おそらく垣守は︑当時彼の周りにあった運気論関連書と
の類推から本書もその一種と位置づけ︑かつその﹁天象の論﹂も他書に比すれば﹁明備﹂であるとの賛を与えた
のであろう︒和漢洋の天文学説に関する知識を有していた近世中期の知識人が︑本書を運気論の余流として理
解・受容したことを物語る一例として︑本写本の存在は貴重なものと言える︒
︹04桑木A本︶
九州大学附属図書館桑木文庫蔵︑請求番号二四八︑一冊︑袋綴︑二七・一×一九・五五︑外題﹁天文要素﹂全︑
内題﹁天文要解﹂︑全三六丁︑巻頭に門天文要素目録Lあり︑毎半葉十行︒印記一点﹁竹島﹂小円・陽・朱︒三
一ウ〜三四オにかけて﹁虫喰/ス歎﹂﹁虫喰し﹁虫喰/内黙しの書込みあり︒
︵奥書︶﹁右天文要解上下二冊国島栄庵丈所蔵也蓋医/家者流所講習運気推測余流也千手天象零落/明六足与天
経或問等愚考焉書置託大薮生山/写校閲爲家珍云爾/元文元年丙辰十一月上辮 於東武谷垣守謹識﹂三六ウ
︵訓点省略︶
「南蛮運気論」の流布と受容
これは九州帝大教授桑木或雄︵一八七八〜一九四五︶の蒐集にかかる写本で︑地部のみの零本である︒書記の
﹁竹島﹂なる旧濡者は不明であるが︑奥書の一致と︑本文中の書き込み﹁虫喰/ス歎﹂﹁虫喰/内面﹂の一致から︑
明らかに﹇03﹈山内本より派生した写本と分かる︒これにより江戸の国島直撃本に遡る﹁天文用品﹂の系統が︑
土佐の谷垣守を経て︑さらに転写を重ねていたことが判明する︒
︹05白雲本︺
現所在不明︑二冊︑袋綴︑寸法不明︑外題﹁天地論﹂上・下︑内題﹁南蛮天地論﹂巻之上一本作裏運気論・巻之下︑
尾題︵上巻︶﹁南蛮天地論偏・︵下巻︶﹁南蛮運気論﹂︑墨付五二・五三丁︑各巻頭に﹁天地補巻之上目録縞﹁南蛮天
地車上之下目録﹂あり︑毎二葉十行︒印記三点﹁白雲颪﹂縦長方・陽・﹇不明﹈︑﹁﹇羅文不鮮明﹈﹂方・陰・﹇不
明﹈︑﹁以卿/氏し方・陽・﹇不明﹈︒書き込み・頭注・挿図多数あり︒
︵奥書︶﹁南蛮運気論以松平甲斐守之写本書之/時寛文十年十月十二日/杉五器電工﹂下巻五三ウ
本写本の現物は未見であり︑現所在も不明であるが︑偶々入手する機会を得た白黒コピー複写本によると明ら
かに近世期の写本であるため︑ここで特に取り上げる次第である伽︒本文冒頭に付された印記﹁白雲嵐偏から︑
ここでは仮に白雲本と名づけた︒
まず奥書から︑これは﹇01﹈大河内本の墨流に位置する写本と推定される︒﹁工臨貞奄﹄なる人物の素性は不
明であるが︑本写本が寛文一〇年︵一六七〇︶の書写にかかる杉貞奄自筆本である可能性については︑これとほ
ぼ同じ奥書を持つ﹇07U天理本等に︑本写本に見られる巻頭目録や多くの書き込み等がまったく見られないこと
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から︑ほぼ排除し得る︒したがってここでは本写本は﹇07﹈天理本等と同じく杉の自筆本から派生した一写本と
推定しておく︒なお本写本の作成者および近世期の所有者は不明であるが︑これはのちに和算史家の三上義夫
(一
ェ七五〜一九五〇︶の所有に帰した可能性がある︵﹇10﹈京大文図本の項参照︶︒
さて本写本には︑他国には見られない多くの書き込み・頭注・挿図が付されており︑これらは門南蛮運気黒し
が近世期にどのように読まれたかを考える上で貴重な情報源となる︒たとえぼ大地球体説の一証左として忠庵が
掲げる︑月蝕の際に月に映る地球の影が﹁虹形偏︵円形︶であるという観測事実に対しては︑
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函館二︑地ノ象ヲ円ナリト云ニハ東西ハ昏蒙ノ遅速ヲ証トシ︑南北ハ両極ノ高底ヲ以テ徴スルニテ随分ト正 ママ混融分明ナリ︒然ルニ月蝕ノ時ノ地ノ影ノ定形二移ルヲ以テ地ノ円ナルヲ論スル説二面テ︑予力愚昧ナルハ
甚以テ惑ヲ生スル者也︵下巻二一ごオ︒本文字下げ︶︒
なる本文字下げの按文を挿入し︑続いて以下の批判を展開している︒
依テ挙不審問テ云︒月ノ体元平西分シテ鏡ノ如クナラバ左モアルヘシ︒月ノ体ハ元円満ニシテ半玉ノ如シ︒
假令平直ノ影ヲ移ストモ下形鳥撃ルヘシ︒目詰二丸キ器ヲ置テ平直ノ板ヲ中二隔テ燭ヲ乗テ其影ヲ移スニ︑
丸キ躰ハ中凸ナル二五二塁虹形二移ルナリ︒況日蝕ト亘理二説3ト尚以テ不審ナリ︒日蝕ハ隔ル物直二月ノ
円躰ニシテ︑而モ日躰ノ中二月ヲ見ル者也︒月蝕ハ移ル物ハ日ノ光ニシテ︑碍ル物日直地二心スシテ地ノ影
也︒影何ソ形象アランヤ︒只其受ル者ノ形ニヨリテ凸凹気随テ影モ亦一様ナラス︒讐ヘハ不平ナル鏡面ニハ
移ル顔モ亦屈曲シテ見ユルナリ︒然レトモ僻案ナレハ識者ノ解ヲ待ノミ︵下巻二三オ〜ウ︒本文字下げ︶︒
ここでこの人物は︑影が円いからといって必ずしも遮蔽物が円いとは言えず︑投影される対象︵月︶が球形であ
れぼ︑遮蔽物︵大地︶が平直の可能性もあり得ると論じているのであり︑その正否はともかくとして︑丸い器
︵月︶・平らな板︵大地︶・蝋燭︵太陽︶を用いた比喩は実に念の入ったものである︒
他に注目すべき書込みを探ってみると︑上巻巻頭目録の末尾に︑
「南蛮運気論」の流布と受容
此書画故道南蛮運気ト題セシヤラン︒不審也︒古説ヲ見レハ西洋暦術ノ論ナリ︒尚コレラ識者二問ヘハ︑其
運気ヲ論スルヲ見レハ但十二八九ハ運気論ノ説ニシテ西南方ノ人ノ説トハ見ヘス︒此書察スルニ︑医家ノ手
鑓出タルト見ユレハ左モ有ルヘシ︒西南方ハ四行︿火風/水澄﹀ヲ建テ︑惟天竺ニハ五大︿地水火/風空﹀
ヲ立ル︒五行目近シ︒天地ノ無窮ナルタトビニ行ト云ヒ五行ト謂フトモ︑其理相通セハ大同小異ナルモノ也︒
サリナカラ南蛮ト題セシナラバ全ク其説ヲ述ヘキ事也︒
予一覧ノ後︑宝勢ノ不足ナルハ小藩ス︒高説ノ非ナルモノハコ・二曲論︑別二管見ヲ記ス︵上巻ニウ︶︒
なる挿入文が見られる︒すなわちこの書込み者は本書の﹁南蛮﹂という標題と内容との間に見られる齪齪に﹁不
審しを感じ︑考証を試みていた︒彼曰く︑その説は﹁西洋暦術ノ論しであるものの︑識者に尋ねたところ運気に
ついて論じた部分は十中八九が運気論の説とのことで︑身自らも﹁南蛮ト題セシナラバ全ク其説ヲ述ヘキ事也﹂
と養しみっつ︑本書を門医家ノ手綱出湯ルしと見なした︒この点は﹇◎3U山内本の谷垣守と同様であるが︑その
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本質が﹁西洋受血ノ論﹂であると断言した点は慧眼と言うべきであろう︒本文各所に﹁此図元本ニナシ︒便覧ノ
為二補之﹂等として挿入された計九点の新図も︑いずれも本文の議論をよく理解し︑その内容を的確に図式化し
たものであり伽︑この書き込み者の天文暦学に関する知識・能力はかなりのものであったことが窺える︒
また本写本上巻のアーミラリー天球儀の図︵三〇ウ︶は︑通常とは逆に北極を下︑南極を上に描いているが伽︑
その余白には︑
三婆
此図ハ南国ノ為二設ケタル図也︒本邦ニテ見ルニハ方角見ニクシ︒
ヲ見ル時ハ下ヲ上ニシテ巳午ヲ天頂ニシテ見レハ見ヤスシ︒ 南蛮ト題セルニヨリ如此ナルヘシ︒今是
との書き込みが見られる︒ここからこの書込み者が﹁南蛮﹂という語によってキリシタンの南欧諸国ではなく
﹁南国﹂︵おそらく東南アジア方面︶を想起していたことが分かるが︑先に引用した挿入文においても南蛮縫西南
方と位置づけており︑必ずしも南蛮鍵キリシタンという受け止め方をしていない︒さらに本文で﹁唐土ヨリ日本
へ渡海﹂した船の喩えが用いられる箇所には︑
南蛮ノ書二非サル徴ナリ︒唐船日本ノナト云シバ小児ヲアサムク面形ノコトシ︵下巻二ニオ︶︒
と断じた頭注が付されている︒総じて本写本に付された書き込みや率直の存在からは︑キリシタンの嫌疑に対す
る忌避感や隠匿の痕跡はまったく感じられず︑杉奥書の一六七〇年以降︑徽度の転写を経ていた可能性も考え合
わせると︑その成立は寛文よりかなり時代が下った江戸中期頃と推定しておく︒
︹06林集書本︶
東北大学附属図書館林集書蔵︑請求番号一六八七︑一冊︵上下巻の合冊︶︑仮綴︑二八・二x二一・○㎝︑外題 マ マ﹁天地論﹂上下︵打付︒表紙中央にも﹁天地論﹂と付す︶︑内題﹁南蛮天地論篇巻之上・巻之下目録終︑全八七丁︑
上巻冒頭に﹁南蛮天地論巻之上目録﹂︑下巻冒頭に﹁南蛮天地論巻之下目録﹂あり︑毎譲葉十二行︒印記三点
﹁素/行﹂方・陽・朱︑﹁□彦﹇ヵ﹈﹂︵印字不鮮明︶円・印字陰刻・緑︑﹁浅井﹇ヵ﹈/之印﹂方・陰・朱︒本文
と同筆の頭注あり︒本文中に明らかに後代の筆で﹁酉ノ正中ヲ運行ノ時ハ是日月正距之/成川﹂︵六〇ウ︶︑﹁於
支那島川村大字本川源太屋敷﹇ヵ﹈/菅野尚吉﹂︵六一オ︶と書き込みあり︒鉛筆・インクによる後代の書込み
あり︒
「南蛮運気論」の流帯と受容
本写本には﹁天地論漏﹁南蛮天地論臨という標題しか見えないが︑すでに﹃国書総目録﹄が明示しているよう
に﹁南蛮運気論﹂の異称本である鵬︒これは林鶴一︵一八七三〜一九三五︶が東北帝大在職中に各方面から寄贈
を受けたり買い集めた和算・天文書コレクションの林集書鵬に架蔵されるが︑本写本の由来については現在のと
ころ手がかりが得られていない︒本文中には明らかに後代の筆で﹁成川﹂﹁菅野﹂なる人物による書き込みがあ
るが︑その詳細も不明である︒
本写本に複数捺された印記の内︑とりわけ﹁素行﹂印については︑かつて山鹿素行︵一六二二〜一六八五︶の
印である可能性が示唆されている儲︒しかし︑素行がこの印を用いたことを裏付ける資料は知られていないよう
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である緬︒また本写本は奥書を欠くものの︑それ以外の書誌劇烈は﹇05﹈白雲本と酷似しており︑加えて巻頭目
録の章題番号を﹁θ﹂﹁◎﹂のように○で囲むという特徴まで一致している︒すでに指摘したように﹇05﹈白雲
本は近世中期頃に成立したものと推定され︑また素行と同時代の古写本である﹇01﹈大河内本にはこの種の巻頭
目録は見られない︒以上の状況証拠は︑いずれもこれが山鹿の旧蔵本である可能性を考えにくいものとしている︒
ここでは本写本は﹇05﹈白雲本と同じ系統の写本で︑その成立も同じ江戸中期頃と推定しておく︒
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︹07天理杢
天理大学附属天理図書館蔵︑請求番号四四〇/イ十三/四四一四五︑二冊︑袋綴︑二七・一×一八・七㎝︑外題
﹁天文秘書天文運気﹂上/四十四・﹇題二日ガレ﹈︑扉題﹁天文秘書﹇白抜き太文字﹈﹂四十四・四十五︑内題
﹁天文運気論﹂上・下︑各冊本文三九・三九丁︑巻頭目録なし︑毎点葉十一行︒全冊とも内題部は棚削・後補さ
れたもの︒
︵奥書︶﹁南蛮運気玉将松平甲州之写本書之時寛文十年十/月十二日 重氏貞奄識/﹇以下別墨﹈此書今改号天
文運気論﹂下巻三九ウ
これは江戸中期の天文学者・和算家で︑仙台藩の天文方をつとめた戸板保佑︵一七〇八〜一七八四︶の旧蔵に
かかる写本で︑彼が晩年に纏め上げた﹁天文四伝書﹂髄と呼ばれる叢書群の一つ﹁天文秘書﹂所収の写本である︒
﹁天文秘書﹂は︑戸板が付した自序によると︑
先師の伝籍︑陰陽の家書︑古今珍書の類及諸弟子の発明・異術と錐へども︑
学士改暦に志ある者の要用に備えん轡︒ 今尽く之を編集して以て後の天
「南蛮運気論」の流布と受容
がために編纂した由であり︑本写本の成立もこの序が書かれた天明二年︵一七八二︶以前とすることができる︒
本写本は前出の﹇05﹈白雲本と同じく杉貞奄の奥書を持つため︑輝綱⁝杉系統の写本の一つと推定されるが︑
両巻とも内題部の本文料紙を切り取った跡があり︑新たに貼り足された紙片上に︑本文とは墨の乗りが異なる筆
で﹁天文運気論﹂という新内題を墨書している︒杉の奥書には﹁南蛮運気論⁝﹂と明示されることなどから︑切
り取られる以前の本紙には﹁南蛮運気論議という内題が付されていたことが予想される︒さらに奥書末尾の﹁此
書髭改号天文運気論﹂という付言はこの新内題と同一の墨と認められるため︑この制削・後補は戸板が書写後に
書名の変更を意図して施した可能性が高い︒
ではこれが戸板の手によるものだとして︑彼はどのような意図でこの改名を行ったのであろうか︒ここでも従
来キリシタン系宇宙論書の流布について一般的に言われてきた︑キリシタンの嫌疑を怖れて﹁南蛮﹂の文言が次
第に削除され失われていったということを示す確証が見当たらないのに対して︑いずれの状況証拠も戸板が本書
の内容を﹁南蛮﹂ではないと判断し︑標題を改変したことを示唆するように思われる︒
まず﹁天文四伝書﹂を構成する他の三叢書である﹁崇禎類書﹂﹁天文雑書﹂﹁歴史類聚﹂に含まれる写本群を見
ると︑蘭学系などあきらかに西洋起源とわかる書物はすべて﹁零墨類書﹂に叡録されており㈱︑本写本を収める
﹁天文秘書﹄中には皆無である︒とりわけ戸板は︑本文中に﹁マルソ§黛︒お︒漏讐セテンホロωo審露寓◎﹂など︑明ら
かに西洋起源と分かる術語が頻出する写本﹁按針術﹂㊨を︑一度は﹁歴史類聚﹂に収めたものの︑後にこれをと
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りたてて﹁崇禎類書の類﹂伽であると注記するなど︑自らの分類体系にかなりの注意を払っていた︒また﹁崇禎
類書﹂には︑利覇實﹃測量法義﹄・交儒略﹃職方外紀﹄など︑在華イエズス会士の著作が多数含まれているが︑
吉宗による禁書緩和からすでに半世紀近くを経て︑漢訳西洋一算書に基づく改暦を企図していた戸板にとって︑
これらの書物をつとめて入手・書写しておくことは自明の作業であり︑そこにキリシタンの嫌疑を忌避しようと
する意識は事実上なかったと言ってよい︒さらに﹁天文秘書﹂所収の他の写本の内︑中根元圭の著書等から天文
関係の記事を抜粋した﹁諸子天文﹂組を見ると︑そこには同様の内題金剛削・後補が多数見られ︑このような標
題の改変は﹁南蛮﹂ロ﹁キリシタン﹂という認識に限って行われたものでもなかった︒
以上のような﹁天文四伝書し全体に通じる特徴を見ると︑当代随一の天文学者であった戸板が本書を西洋に由
来する書物と認めず︑その結果︑内容をよりょく反映する﹁天文運気論﹂と改題して﹁天文秘書﹂に収録したと
考えることも︑決して故なしと言えまい︒
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︹08秋岡本︺
神戸市立博物館秋岡コレクシ潔ン蔵︑請求番号四︵天文暦学関係書︶︑一冊︑袋綴︑二七・○×一八・○㎝︑外
題なし︑扉題︵原外題か︶﹁天文秘書天文運気論﹂下︑内題﹁天文運気論﹂下︑全三九丁︑巻頭目録なし︑毎半
葉十一行︒印記一点﹁秋岡図書﹂方・陽・朱︒
︵見返し貼紙ペン書き︶﹁本書ハ厳松堂ニアリタリ︑仙台ノ人ノ旧蔵内 ママ ︵奥書︶﹁南蛮運気論士松平甲州書写本書之時寛文十年十/月十二日 弔事貞奄誠﹇以上本奥書﹈/印書今改号
天文運気論し三九ウ
本写本については︑かつて大矢氏が﹁秋岡武次郎氏所蔵のものは﹁天文運気論﹂と題し下巻のみの零本である﹂
と紹介したことがある幽︒旧蔵者︵秋岡氏か︶が付した見返し貼紙の記述によると︑仙台に伝わっていた写本の
由であるが︑その書誌的情報は﹇07﹈天理本と酷似しており︑さらに毎半葉十一行からなるテクストの改行位置
が本文全戸にわたって﹇07﹈天理本とほぼ完全に一致するため︑この両者が密接な関係にあることは疑いを入れ
ない︒そして﹇07﹈天理本において刷削・後補された内題部が︑本写本では自然な体裁をとっていることを考え
ると︑これは﹇07﹈天理本から派生した写本とみて間違いなかろう︒
︹09小圃本︺
奥州市立水沢図書館蔵惚︑請求番号二九四︑一冊︑袋綴︑約二八×一九㎝︑外題﹁南蛮運気論﹂乾︑内題﹁南蛮
運気論﹂巻之上︑全四〇丁︑巻頭目録なし︑毎門葉十一行内外︒総記二点﹁立生館/図書印﹂方・陽・朱︑﹁立
生/館﹂方・陽・朱︒朱の頭注・書き入れあり︒ ママ ︵奥書︶﹁寛政五年歳次癸丑夏五月上旬従/藤蒼海先生所受叢書也/小圃遜安世謹騰之﹂四〇ウ
「南蛮運気論」の流布と受容
これは奥書から︑奥州水沢藩留守氏に医師として仕えた小圃仲達︵一七四六〜一八〇六︶の旧蔵本と分かる︒
留守氏流図立生館の印記が捺され顧︑天馬のみの零本である︒毒心は仙台藩の天文学者藤広期︵一七四八〜一八
ノ ママ〇七︶の弟子であったが緬︑奥書﹁藤蒼海先生より潔くる所の書なり︒小圃遜安世︑謹で之を嚇すしによると︑
これは藤蔵本からの転写本らしい︒この藤の師にあたるのが上述の戸板保佑であり︑学業旧蔵書にはこれ以外に
も戸板の﹁天文四伝書しからの写しが多数含まれている幽︒そこで本写本を﹇07﹈天理本と比較してみると︑そ
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の本文テクストの改行位置がとくに一四丁以降はほぼ完全に一致しており︑また前半部についても︑その書写行
印が十行・十三行など一定しないものの︑そこでも﹇07﹈天理本との一致が指摘できる︒以上からこの﹇09﹈小
圃本と﹇07﹈天理本が同系統の写本であることは問違いないであろう︒
2e
2.近代写本
︹10京大文図本︺
京都大学大学院文学研究科図書館蔵︑請求番号国史/す七/三︑一冊︵﹁天文沙汰弁解﹂との合綴︶︑二三・八×
一六・二㎝︑外題﹁天文沙汰弁解乾坤弁説/南蛮天地論一名南蛮運気論抄出﹂︑内題なし︑七一丁オの扉に﹁南
蛮天地論一名南蛮運気論抄出しと題する︑巻頭目録なし︑全六丁︵七ニオ〜裏見返し︶︑毎半葉十三行︒朱の頭
注あり︒本文中に朱入りの貼紙あり︒
︵奥書︶﹁原本駿/南蛮運気論以松平甲斐守之写本書之時寛文十年十月十二日杉氏貞蕎識﹇以上本奥書﹈/余
が所蔵ノ乾坤弁説貞巻星部二目録アツテ本文ハ欠ケタリ︒三上義夫此一冊ヲ余二寄贈シテ其ノ欠ヲ補フ︒然レド
モ本文アツテ弁説ナシ︒且ツニ十九号ハ尚欠文ナリ︒十洲居士識/﹇以下別筆﹈明治四十四年七月男爵細州潤次
郎氏蔵本ヲ謄写ス﹂七七ウ〜裏見返し
本写本は乾坤弁説の異称本﹁天文沙汰弁解﹂@との合綴本で︑天部二十五章〜二十八章のみの抄写である︒こ
れは同じく京大文学研究科図書館収蔵の写本﹁乾坤弁説﹂総︵上記﹁天文沙汰弁解しとは別写本︶と同じく︑明
治末期にまとめて謄写・校訂された近代写本群の一つであるが︑その奥書には男爵細川潤次郎︵一八三四〜一九
二三︶の私蔵本から明治四四年︵一九一一︶に謄写したとあり︑その細川蔵本も三上義夫蔵本からの転写本︵抄
写︶であるらしい︒したがってこれは三上が有していた勝気⁝杉系統写本の末流に位置する写本ということにな
る︒ その三上・細川蔵本は現存如何を確認できていないが︑本写本は︑章題番号を○で囲むという特徴が﹇05﹈白
雲本・﹇06﹈林集書本と共通しており︑さらに﹇05﹈白雲本にのみ見られる﹁十二宮ノコトナリ︒宿トイヘハ廿
八宿馬マカイテ問分ケニクシ︒宮トイフペシしという頭注を有している幽︒したがって本写本の祖である三上本
は︑少なくとも﹇05﹈白雲本と同系統と推定され︑あるいは三上蔵本一1﹇◎5﹈白雲本という可能性も考えられ
る︒
「薄蛮運気論の流布と受容
︹H学士院本︶
日本学士院蔵︑請求番号六九三八︑二冊︑袋綴︑二六・七×一九・一㎝︑外題﹁南蛮運気貴し乾・坤︑
各冊四六・四八丁︑巻頭目録なし︑毎半葉九行︒
︵奥書︶﹁大正二年九月大河内正敏蔵書澱リ写記偏乾巻四六オ︑および坤巻四八ウ 内題なし︑
これは﹇01﹈大河内本の大正期の転写本である︒当時大河内家文書の所有者で︑東京帝大教授や理研所長を歴
任した大河内正敏︵一八七八〜一九五二︶は前出の三上義夫と交流があり︑本写本と同時期に学士院に収められ
た大河内本﹁弁説南蛮運気書﹂の近代転写本㈱には三上による識語が付されている︒三上は日本学士院所蔵の和
算・天文史料コレクションの形成にもっとも重要な役割を担った一入であり観︑本写本も三上の収集にかかる可
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能性が高い︒
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︹桧桑木B本︺
九州大学附属中央図書館桑木文庫蔵︑請求番号一六六一︑二冊︑仮綴︑二八・二×二〇・二㎝︑外題﹁南蛮運気
論﹂乾・坤︑内題なし︑各冊三四・三五丁︑巻頭目録なし︑毎半葉十三行︒朱筆による校訂の跡あり︒
乾癬の見返しに鉛筆書きで﹁物理︵犀︒︶畷ωOO﹂と付されていることから︑これは九州帝大教授の伊藤徳之助
寄贈本であり︑何らかの理由で桑木文庫に編入されたものと思われる︒本写本が近代の転写本であることは︑そ
の体裁・紙質から直感的に理解できるところであるが︑これと上記﹇11﹈学士院本を比較してみると︑毎半葉の
減数は異なるものの︑テクストの改行位置が本文心行にわたってほとんど完全に一致しており︑また本文中に付
された補入の位置およびその内容まで共通している︒したがって︑この両者の一方は他方の忠実な写しと考えら
れるが︑﹇11﹈学士院本は奥書に由来を明記しているし︑また本写本には転写元との本文改行箇所を一致させる
ために付したと考えられる不自然な朱筆︵乾巻一ウ︑五ウ等︶や︑転写し忘れた数行を後に朱で加筆した箇所
︵坤巻二八ウ︶などが見受けられ︑﹇11﹈学士院本における該当箇所が自然な体裁を取っていることを考えると︑
本写本は﹇11﹈学士院本からの転写本と断定して間違いなかろう︒
二︑現存諸本の書写系統
前節で諸本に付した解題において︑写本相互の近親性や︑その背景としてある書写系統の存在について︑
に一定の見通しは提示しておいた︒ここでそれらを整理すると︑ すで
・﹇02﹈松浦本は﹇01﹈大河内本と同じ古本の特徴を有する︒
・国島栄庵本←﹇03﹈山内本←﹇04﹈桑木A本という系統が存在する︵←は由来をあらわす︶︒
・﹇01﹈大河内本の写しである杉叢藍本より派生した︷﹇05﹈白雲本・﹇06﹈林集書本︸︷﹇07﹈天理本・﹇08﹈
本・﹇09﹈小圃本︸の二系統が存在する︒
・近代写本三点の由来は︑それぞれ﹇05U白雲本︵三上蔵本?︶←﹇10﹈京大文図本︑﹇蟹﹈大河内本←
学士院本←﹇12﹈桑木B本︒ 秋岡
﹇11U
野蛮運気論」の流姦と受容
となる︒以上をうけて本節では︑諸本に見られる本文異同の精査・分析に基づいた﹁南蛮運気論﹂書写系統図を
提示すると同時に︑本書の原型震︒ゴ9巻Φを復元するためにはどの写本を利用し︑また如何なる方法.基準を採
択すべきかについて考察する勧︒ただし﹇04﹈桑木A本と︑近代写本三点の由来はすでに自明であるためこれを
略し︑以下では残りの近世写本八点を考察の対象とする︒
表2は諸本の本文からとりわけ重要と思われる異同を選び︑それぞれ天蚕と地部に分けて一覧にまとめたもの
である︒天地の二部に分けた理由は﹇02﹈松浦本・﹇◎9﹈小圃本は天部のみ︑﹇08﹈秋岡本は地部のみの零本であ
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表2〈天部)
丁一行数 テキスト 異同 大河内 林 白雲董 天理 小圃 松浦 山内
1 2◎ウ.5 爾籏マテ 西辰マテ X
2 13ウー3 等分ノ筋 等分ノ節 X x*1
3 28か3 外幾重ノ天 二十重ノ天 X *2
4 39ウー9 骨髄ノ 骨ノ内釜髄ノ *3 X
5 03ウー2〜3 出テ船引ハ…天ノ東ヨリ なし[自移り] X
6 2黛オー2〜3 i報緬…筋陰り なし瀬瀬舅 x
7 01オ なし[内題] 南蛮耳触論巻之上 運
??
文運熱論上y南 リ運気論巻之上z芙 カ要鮮ビ
1オー2 し 天之川目
2ウー4鼠 [ク] [ク]
0 0オ.7 シ [キ]也
1 5ウ し[刷掃] 蛮天地論巻之上終
2 オ.§ 胎平産 孕平産k入胎平産ア
3 1ウー4猛 九[章番制 八x九[0囲み]y
4 2オ.8 二十八[章番号] 三十七x甘
ェ[○囲み]y
5 5か3 十度 十一度x五十一度y
6 5寒.5 惑星バー奪 惑星ハ七年 *4
7 1ウー4 午午未ノ 午ノ臼午未ノX丙
゚ノ牛乗ノy
8 王ウ.3 £レ」ル奢琶 知者滋
9 2オー6 申[ノ]午未ノ 申[ノ]日ノ午未ノ
◎ 5オー9 し 〔ツ3ハ
1 1オー1fL し[章番弩] [○囲み]x第一y
2 2オー1〜2 星 星 *5
3 7オ有 ス ル者犠x不存爵毯ア
4 1オー6 〔ケ] [ケ]
5 2オ.6 力十重ノ芙 一重ノ天x外
繽dノ果y 6
6 4ウー3 外力]十重ノー天 外]一璽ノー天X[
ゥ九童ノー天y
.
7 1オー7〜ウー3 〔ケ]
8 0オ.1 満 満x歎ル満¥
9 1ウー8 蝕ト云コトナシ. 蝕ト云コトシx蝕
Xルト鷲コトナシy
(} 9ウ4 εメ3 メx娘メy
1 2オー9 星ノ内 重ノ内x七曜ノ内y
2 1か6 [フル] ワル
3 2オー4 紅チ]
4 3オ.4 燥ノ氣 燥ノ氣
5 零4 満シテ 壇シテX濫満シテy ?
6 2ウー5〜6 百六十度…此縦 し[目移り]
7 7オ.3 八十七日窯時ニシテ 八十七隠士一時ニシテ
8 0か4〜ウー6 ス時入焼目産 ス時ハ胎平産
9 5寒一2 季一疫 ナ一変
0 6ウー6〜7 午/亥子 子/巳午
1 7ウ.4 し 南へ…百二十分ニスル
2 5オー9〜ウー3 〔ノ宿]/子[ノ宿] [ノ宿]/午〔ノ宿]
3 6ウ3 し 五ナレハ下天トスルナ
9か6,ウー7 十九日三斜半 十七日鑑時半
5 オー7 瞬輔殺之愛有弓トイヘトモ 有肩摩之憂
6 4ウfL 日/右旋[行]/辰 輪/左旋[行]/極
7 8オ4 星ヲ隠ス其ノ翻シアリ 辰星有線例
9オー8 時半四十九分之間ユ 十五刻ユ
記 *1「節」に朱で「筋」と付す *4「七」に朱で「一」と付す 「恐盈誤」と付す
2「九」に朱で「九一本二十二作ル」と付す *3行間に「ホ子ノ内ノ油」と付す 5「五」に朱でし本作三jと緑す *6頭注「十富作一」 *7「益」に
4
「南蛮運気論」の流布と受容 表2(地部)
丁.行数 テキスト 異同 大河内 林 白雲電 天理 秋岡 山内
49 38オー3 其厚薄ノ 其原薄ノ X
50 39ウー5,6 充塞 充寒 X
51 22ウー2 道程ナリ 道チ里ナリx
ケ千里ナリy
X y*1
52 48オー2 其高サ…峯勝報也 なし X x
53 04卓絶 噂 図なし X
54 28ウ,1 如此地ハ…スト饗 なし X
55 44ウー9 及テ水中…スル晶 なし[目移り] X
56 20ウー1 なし 昏暁ノ…待ノミ x*2
57 24オー3 なし 五里一作九里[頭注] X
58 27ウ図 雫 図なし x
59 01オー1fL なし障番弩〕 一[○囲み] X x
60 02オー3 なし 投クル X x
61 ⑪9オー5,6 云[ク3鉱 田[ク3f£ X X
62 32オ.4 震動スル春ナリ 震動スル者ソ X X
63 41ウ.2丘 之弁障葦翻 之弁忍事[章題3 x x
64 ◎2ウ.2 なし 爆無季x 本書無爵y X X y
6§ ◎1オ なし納翻 函蟹天地論巻之下 運氣x
﨣カ運氣論下y ヌ心要鮮影
X x y y Z
66 圭2オー9 土之丸璽 」ヒブも重x 一とミ九重ア X X ア y
67 1§オ.3 なも 左ノ海上ノ論ヲ以テ罵知x
父m海上ノ論ヲ以知ヘシ¥
X X y ヲ
総 鱒ウー6 蛋ル類膨3 生ル類之事 X x x X
69 45オー6,7 墨髭 暮露 x x X x
70 45オー9 雲鷺 電光 X X X X
71 12ウ.9 然ルニ 然こノの故二x然ルニ故二y X y x X
72 34オー3 土ノ檎氣魑ユ 土ノ冷槁ノ氣二x
yノ冷長座y
y X x x
73 07オ 一8 掌中ノ燥ト 去ニシ夏ノ燥氣ト X x X
74 35オ.7 左行シテ避ナル 逆ニシテ左行スル X X x
75 37オ.6 五月一陰猛ノ氣 五月一陰ノ蔓生ス X x x
76 44ウー8 水中嶋模スルカ如シ 水中二投スルカ如シ X X x
77 17ウー1 辰己ト戌亥ト 辰ト己ト戌ト亥トx
C己与戌亥y
X x X y
78 26ウー6 錐有卯ノ方晶 東[シ]卯ノ方二在トイヘトモx
拷Kノ方二有トy
x X X y
79 41オー7 電雷光 覧電光X 覧光y 雷電光Z Z y X x
80 42ウー3 電雷光 寛電光x覧光y y X X
81 43オー6 微湿ノ氣 微温ノ氣X微雲ノ氣y
ヲ寒ノ氣z
y X X z
82 17オー8 日ノ光りヲ不藁[トキハ]則チ 不稟日光則 X X
83 24ウー8 有テ 在テ X X
84 32ウー2 熱勢ノ 熱熱ノ X X
85 46オー5 有ルコト稀也 在ルコト移也 X X
86 47ウ.9 軽浮ナル諏トナク 軽浮ナルコトク X X
87 41ウー5 上升スル灘トナク 上升スルコトクx
繽。ナル也y
X X y
88 25ウー6 不片 不片寄 X x X
89 正0ウー3 出復シテ 出撃シテ X
90 23オ.9 霞二遠ク 剛毛近ク x
91 16オ.7 動カサルロト雌語ノ館シ 不動節語 x
92 2王オー韮〜2 ヨヨリモ…春ナ弓 なし x
93 31ウ.3 一チ三灘五ナ璽 一千五十里 X
% 35ウー5 菅二塁 二牽七縫 X
9§ 43ウー5 難聴ノ 独喰3湯ノ X
96 4§ウ.6 的二 独喰湾蜘二 x
注詑 *1頚淫ゼ手里門誤力賞作遂程懲」 *2Pt入文
25
るためである︒いずれも第2列に掲げたテクストが︑諸本においてどのような異同として現れているかを第3列
に示し︑さらにその分布を第4列以下に記号xで示している︒異同が複数ある場合はx︑y︑zの記号によって
区別した︒また各テクストの本文における位置を特定するため︑ここでは﹇01﹈大河内本における丁・行春を第
−列に示した︒
26
1.﹇遷0﹈大河内本を祖とするA系統
A︷﹇遷0﹈大河内本︸
現存最古のこの写本については︑本文に単純な誤記も見られるが︵異同1︑2︑49〜51︶︑他本に散見される
いわゆる﹁目移り﹂などに起因する長文の脱がほとんど見られず︵異同5︑6︑36︑52︑54︑55︑92︶︑原型に
近い本文を保持する写本であることを裏付けている︒そしてこの﹇01﹈大河内本の写しである杉貞謡本からさら
に派生したと考えられるのが︑以下に掲げるAα・Aβの二系統である︒
Aα︷﹇05﹈白雲本・﹇06﹈林集書本︸
この二写本は︑標題の一致や︑章題番号を﹁e﹂﹁O﹂のように○で囲むという特徴が一致するだけでなく
︵異同13︑14︑21︑59︶︑多数の異同を共有することからも︵異同7〜12︑60〜67︶︑同系統の写本と認められる︒
その相互関係については︑﹇◎5﹈白雲本に多数見られる書き込みや補薬の類︵前節の解題参照︶が﹇06﹈林集書
本にはまったく見られず︑またこの両者が図や目移り等による長文の脱をほとんど共有していない︵異同5︑6︑
52̀58︶ことなどからして︑共通の親本として想定される未知の写本αからそれぞれ枝分かれしたものと推定さ
哺蛮運気論の流布と受容
図1−1 a
[06]林集書本 [05]自雲篭本 図1−3
[01]大河内本
杉貞篭本
図1−2 s
[07]天理本 藤広則本?x︐︐
[08]秋岡本 [09]小圃本
[07]天理本 藤広則本?x︐︐︐
[09]小岩本
[08]秋岡照
れる︵図1−1参照︶︒
Aβ︷﹇07﹈天理本・﹇08﹈秋岡本∴09﹈小素本︸
この三者は解題で述べた本文改行箇所の一致だけでな
く︑数多くの異同も共有することから︵異同29〜34︑65〜
67︑79〜88︶︑明らかに同系統の写本である︒
このうち﹇08﹈秋岡本は﹇07﹈天理本とほとんど同じ本
文を持っており︑さらに後者において棚削・後補された内
題が前者では自然な体裁をとることから﹇07﹈天理本←
﹇08﹈秋岡本という関係にあると見て間違いない︒
また﹇09﹈小圃本の位置については︑共通の親本として
想定される写本βから︑﹇09﹈小圃本︑﹇07﹈天理本へとそ
れぞれ枝分かれしたと考えるのが妥当と思われる︒という
のも﹇◎9﹈小圃本の標題は︑この系統の源流と考えられる
﹇01﹈大河内本と同じ﹁南蛮運気論﹂であるだけでなく︑
その本文には﹇07﹈天理本にみられる異同の起源とおぼし
き行問の書込みが残されているからである︒たとえば異同
2︑35における﹇09﹈小官本の読みは︑本文は﹇01﹈大河
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内本と同じであるが︑行間に訂正・考証の書き込みが付されており︑さらにその訂正・考証の読みが﹇07﹈天理
本における本文となっている︒このような異同の存在は︑成立年の問題から﹇◎9﹈小角本←﹇07﹈天理本の可能
性が排除される以上︑﹇09﹈小髭本と同じ本文・書き込みを有する親書βの存在がまずあって︑そこから分岐し
た﹇09﹈小雪本の方の枝ではその形態がそのまま残されたのに対して︑﹇07﹈天理本の方の枝では元の本文が失
われ書き込みの方が本文に組み込まれるにいたった︑と考えない限り説明が困難である㈹︒
なお﹇09﹈小手本は奥書に藤広則本からの転写本とあるため︑以上の図式にしたがうと︑︵1︶β11藤広則本
←﹇◎9﹈小耳本︑︵2︶β←藤広則本←﹇09﹈小叩本︑の二つの可能性が考えられる︒﹇09﹈小圃本にはnO7U天
理本にない目移りの脱や明らかな読み誤り︵異同36〜38︶もあるため︑これらは︵1︶︵2︶のどちらかの過程
で発生したに違いないが︑藤広則本が現存しない以上︑そのいずれかを疑問の余地なく推定することは不可能で
ある︒ともあれ︵1︶の場合︑師匠の戸板が弟子の藤の写本を転写していたという︑通常やや考えにくい事態を
想定せざるを得なくなるのに対し︑﹇07﹈天理本も藤広則本もともに当駅βからの枝分かれとなる︵2︶の可能
性の方が︑一般的に考えてより自然であることから︑ここでは後者の可能性を採択しておくことにし︑戸板を中
心とする仙台藩ネットワークの近辺から新資料が発見されることを期待したい︵図l−2参照︶︒
以上のようにAα・Aβの両系統にはそれぞれα・βという親本が想定されるのであるが︑他方この両系統本
のすべてに共有異同が多く検出され︵異同16〜20︑68〜70︶︑とりわけ文意を補足するために後に挿入されたと
思しき長文テクストまで共有している︵異同67︶という事実を指摘しうる︒このことはα・βに共通の珍本があ
ったことを物語っており︑さらに両系統に特有の杉貞篭奥書の存在を考えあわせるならば︑その親本が杉貞蕎本
であることを疑う余地はなかろう︒すなわちα・βは︑杉貞奄本からそれぞれ枝分かれしたもので︑その下位に
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位置する写本はいずれも﹇01﹈大河内本の末流と推定できるのである︒
しかしながらここで︑Aα系統の二写本のうち︑門05﹈白雲本だけがAβ系統との共有異同を多くもち︑﹇06﹈
論集書本が共有しない場合が多い︵異同22〜26︑η〜78︶という事実を指摘しておかなければならない︒この両
本が親本αから枝分かれしたものであることは標題の一致や異同の分布からほぼ動かないものの︑その一方だけ
がAβ系統と異同を共有することは以上の図式だけでは説明がつかず︑あるいは﹇05﹈白雲本にAβ系統の本文
との混成8三︒日ぎ巴8があったのかもしれない︒そこで﹇05﹈白雲本にその証左がないかさぐってみると︑確か
に話本上巻内題に見える﹁一本作南蛮運気論しなる文言は︑この標題を有する別の写本を参照したことを示唆し
ている︒また現資料による限りではあるが︑﹁南蛮運気論﹂という標題はAβ系統にのみ残存するものであった︒
したがってここでは︑﹇05﹈白雲本の成立にあたってAβ系統の写本との校合が行われた可能性を採択し︑その
影響をβの上辺から﹇05﹈白雲本へと伸ばした破線によって図示した︒以上から﹇01﹈大河内本を祖とするA系
統をまとめて図示したものが︑図1−3である︒
「南蛮運気論」の流布と受容
2.B系統︷﹇02﹈松浦本︸︑C系統︷﹇03﹈山内本︸の位置
つぎに︑残された︷﹇02﹈松浦本︸︵B系統とする︶と︷﹇03﹈山内本︸︵C系統とする︶の位置について考察す
る︒表2の右上および左下の空白部が物語るように︑この両本はAα・Aβ系統の異同をほとんど共有していな
い︒したがってこの両系統が枝分かれしたのは︑すくなくともA系統における杉貞奄本より上位であったと考え
ることができる︒すなわち︑この﹇02﹈松浦本・﹇◎3﹈山内本と︑﹇01﹈大河内本との関係を明らかにすることに
よって︑現存写本の祖本として措定される門南蛮運気論旨原型の形態に遡及することが可能となるであろう︒こ
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