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山梨大学教育学部紀要 第 26 号 2017 年度抜刷

1814 年~1815 年のウィーン会議と音楽-

オペラ、ジングシュピール、バレエ (続)

Music at the Congress of Vienna (1814-1815): Opera, Singspiel, and Ballet (cont.) ジェラルド・グローマー

Gerald GROEMER

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1814 年~1815 年のウィーン会議と音楽-

オペラ、ジングシュピール、バレエ (続)

Music at the Congress of Vienna (1814-1815): Opera, Singspiel, and Ballet (cont.) ジェラルド・グローマー

Gerald GROEMER

ウィーン会議中に上演された演目の種別

 会議開催中にはどのような演目が最も頻繁に上演されたのであろうか。一覧表には現在でも人気の 高い作品がいくつか見られる。会議が開幕する前の 1814 年5月 23 日夜7時にはすでに、ベートーヴェ ン作曲『フィデリオ』(Fidelio, op. 72、図3)の改定版がケルントナートーア劇場で初演され、会議開 催中にはこれが 13 回の再演を果たした。27 モーツァルトの作品からは、1814 年 11 月2日以降アン・デ ア・ウィーン劇場で7回上演された『ドン・ジョヴァンニ』(Don Giovanni, K. 527, 独名Don Juan, 1787 年プラハ初演)が最も多く、同劇場にて 11 月 21 日以降には『魔笛』(Die Zauberflöte, K. 620, 1791 年初 演)も 6 回舞台に載せられた。また『フィガロの結婚』(Le nozze di Figaro, K. 492, 独名Die Hochzeit des Figaro, 1786 年ブルク劇場で初演)も会議開幕直前の 1814 年 10 月 25 日に加えて、1815 年4月7日にア ン・デア・ウィーン劇場で上演された。28 なお、グルックの作品からは 1779 年に作曲され同年パリで大 成功を収めた4幕の『タウリスのイフィゲニア』(Iphigénie en Tauride, 独名Iphigenie auf Tauris)のみで あり、1815 年4月5日以降ケルントナートーア劇場で4回行われた。29

 総じていえば、ウィーンが誇った作曲家の作品の上演頻度が少なかった。新聞の評論家もそれに ついて不満をあらわにし、「新しい芸術を発展させた」ドイツ語圏の音楽界の三羽烏であったハイド ン、モーツァルト、ベートーヴェンの作品は、ウィーンでは音楽的に遥かに劣る作品に圧倒されたと 歎いている。30 ウィーン在住のある特派員は 1814 年 11 月 20 日の音楽雑誌にドイツ語圏の読者に向けて、

ウィーンの歌劇場と演奏会におけるプログラムについて次のように報告している。

 全ヨーロッパがウィーンに集結したこの頃、ウィーンの演奏者は先祖から受け継がれてきたこの帝 都のかねてからの所有物である宝物を見せてくれるかと思った。これらの作品のお陰でこの都市は、

はじめて音楽の分野で大きな評判を得た。これは全世界の教養のある人々の誇りであり、ドイツ語圏 の音楽家であるモーツァルトとハイドンが残した作品がウィーンで高く評価されるかと期待したとこ ろ、残念ながら諸式典を面白くおかしくするために、つまらないトルコ風のドラムと耐え難いほどう るさいタンバリンの音だけが使われた。国内外の芸術家が自主的に開催している数少ない演奏会では 空席が目立ち、さらに気の毒な芸術家は殊勝な劇場経営者から入りの半分を召し上げられ、演奏会の 経費を自腹で賄うことも珍しくない。モーツァルトの『フィガロの結婚』はかなり上手に一度だけ上 演されたが、ふだん彼の『ドン・ジョヴァンニ』そして何よりも『魔笛』はあまりにも下手に演奏さ れている。舞台措置、舞台衣装などが悪いのではなく、歌劇の本質である音楽演奏が下手なのであ

27 『フィデリオ』は 1814 年7月18日(7回目の上演)より現在上演される形をとるようになった。

28 Wiener Theaterzeitung, 7巻 126 号 (1814 年 11月22日)、502頁。Katharina (Cathinka) Buchwieserがスザンナ役を演じた ようである。

29 オーストリアではtragisches Singspielと分類された『タウリスのイフィゲニア』は 1781 年グルックの監督でドイツ 語に訳され、ウィーンのブルク劇場 (Nationalhoftheater) で上演された。グルックの唯一のドイツ語で書かれた歌劇と なる。1783 年にはイタリア語に訳され、同じブルク劇場の舞台に掛けられた。

30 AmZ, 16 巻 37 号 (1814 年9月 14日)、614頁。

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り、あちらこちらの地方劇場ではもっと上手に演奏されているほどである。31

 少し誇張的に表現しているのであろうが、ウィーン市民にとって、あるいは国内外の会議の参加者 にとって、確かにモーツァルトとハイドンの存在はそれほど大きくなかったことは間違いない。32 一 方、ウィーンにおいてその名声がピークを迎えていたベートーヴェンの『フィデリオ』は、評論家に

「その独創性と天才的な瞬 間」がなくもないとしぶし ぶと認められていたが、こ の作品は明快さと釣り合い の よ さ に 欠 け、 舞 台 芸 術 の 作 品 と し て はF. パ エ ー ル(Ferdinando Paër, 1771 年

~1839 年 ) が 1804 年 に 同 じ題材を取りあげた『レオ ノーラ』(Leonora)という 歌劇に劣っていると判断し た。33

 ウィーン会議が開かれる 20 数年以前から、ドイツ語 に翻訳されたフランスのオ ペラ・コミック(喜歌劇)

がウィーンではやり、1820 年代のロッシーニの台頭ま でその流行が続く。34 1810 年 代にはフランス風のバレエ も大きな人気を博した。こ の背景をもとに、ベートーヴェンの作品はパエールのオペラと比較して舞台効果が少ないと判断され たようである。一覧表を見てみると、パエールには4作品が認められ、イズアールの3作品、L. ペル

スイ(Louis-Luc Loiseau de Persuis, 1769 年~1819 年)とボワエルデューの2作品ずつがウィーン会議開

催中に上演されたことが分かる。

 ウィーン在住作曲家により、もともとドイツ語で書かれたジングシュピールは高い人気を維持した

31 AmZ, 16 巻 49 号 (1814年12月7日)、829-830頁。

32 同評論家は次のようにウィーン市民を咎めている。「公共の場では我々のハイドンの曲は一音も演奏されてこな かったのである。彼の存在は一般聴衆の意識から消え去ってしまった。国の飾り海老であるこの偉大な男はもう5 年半ほど教会の墓地で眠っているのに、墓をなんとかして探そうとしている外国人のための些細な記念碑さえ無 い。最近になってようやく、S. ノイコム (作曲家でハイドンの弟子のSigismund Neukomm, 1778 年~1858 年) が自費 で墓の上に墓石を立てたのである」。モーツァルトの墓の所在地も不明であったことはよく知られているが、ウィー ン会議の際ウィーンに足を運び、様々なイベントに参加したドイツの名出版社の社長息子であったC. ベルトゥフ (Carl Bertuch, 1777 年~1815 年) はカール教会にモーツアルトの記念碑の建設を提案した(Carl Bertuch, Carl Bertuchs Tagebuch vom Wiener Kongreß, 98, 104頁)。

33 Der Sammler,7巻 15 号 (1815 年2月4日)、68頁。実はベートーヴェンはパエールを高く評価し、『レオノーラ』の

楽譜を所持したようである。パエールは 1801 年までケルントナートーア劇場の音楽監督を務め、後に主にパリで活 躍したイタリア人であった。

34 ウィーンにおけるフランスのオペラ・コミックの流行の詳細についてはCarolyn Kirk, The Viennese Vogue for Ópera-

comique 1790-1819参照。1790 年~1816 年の間には計 120 演目のフランス歌劇がウィーンに上演された(同書、iii頁)。

ウィーンにおけるロッシーニのオペラの上演についてはWalter Szmolyan, “Rossinis Opern in Wien”; Alice M. Hanson, Musical Life in Biedermeier Vienna, 65-70頁参照。

図3 1814年5月23日『フィデリオ』の改訂版の初演を広告するビラ(右)。 Österreichische Nationalbibliothek Bildarchiv und Grafiksammlung所蔵。

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35 Morgenblatt für gebildete Stände, 1814年12月10日 (295号)、1180頁。

36 Friedensblätter, 1814年11月24日 (63号)、250頁。

ことが、一覧表からも読み取ることができる。さらに軽いものとしては、歌付きのあちゃらか芝居

(Posse mit Gesang)と歌付きの演劇(Schauspiel mit Gesang)などのジャンルであり、これらも繰り返し

上演された。一覧表に掲載されている 100 以上の演目の中、おおよそ 60 作品に及ぶ。ウィーン在住の作 曲家による演目を見れば、レオポルドシュタット劇場の音楽監督(Kapellmeister)の一人であったミュ ラーには 20 作品が認められ、ヨーゼフシュタット劇場とレオポルドシュタット劇場の両方に活躍した カウエルには18作品、もう一人のレオポルドシュ

タット劇場の音楽監督であったフォルケルトには 6作品、そして主にケルントナートーア劇場で活 躍し、より真面目な歌劇を作ったワイグルとギロ ウェッツには4作品ずつがこの時期に上演され た。

上演頻度の高い演目

  会 議 中 に 発 行 さ れ た 新 聞 に よ る と、 上 演 頻 度 の 高 い 演 目 は ス ポ ン テ ィ ー ニ 作 曲 の「 叙 情 的 な 悲 劇 」(tragédie lyrique)『 ラ・ ヴ ェ ス タ ー ル 』(La vestale)、 ワ イ グ ル 作 曲 の 涙 腺 を 刺 激 す る ジ ン グ シ ュ ピ ー ル『 ス イ ス の 家 族 』(Die Schweizerfamilie, 1809 年にケルントナートーア劇 場で初演)、ギロウェッツ作曲『目医者』(Der Augenarzt, 1811 年にケルントナートーア劇場で初 演)、そしてベートーヴェン作曲『フィデリオ』

であったとしている。35

 ところが、一覧表にあるように、『目医者』は 会議中にはただの4回しか上演されなかったこと がわかる。評論家はあげていないが、実は、最も 上演頻度の高い作品は、フォルケルトが作曲し、

レオポルドシュタット劇場の振り付け師であった K. ハンペル(Karl Hampel, 1778 年~1819 年)が 手掛け、「機械付きの大パントマイム」と広告さ れた、『勝利するアモール』(Der siegende Amor)

であり、会議開催中に 24 回も上演された。36

劇の分野の筆頭作は、18 回も舞台にかけられたペルスイ作曲『解放されたエルサレム』(La Jérusalem délivrée, 独名Das befreyte Jerusalem, 1812 年パリで初演、図4)、あるいは同じく 18 回の上演を経験し たカウエル作曲『ホーエン・マルクトの音楽家たち』(Die Musikanten am hohen Markt, 1815 年ウィーン で初演)であった。それに次ぐのは、15 回のカウエル作曲『ベルタ・フォン・リリエンシュタイン』

(Bertha von Lilienstein, 1814 年 12 月 19 日ヨーゼフシュタット劇場で初演)、14 回にはカウエル作曲『ア ントニオとクレオパトラ』(Antonius und Cleopatra, 1814 年 11 月8日にレオポルドシュタット劇場で初 演)と『わがまま姫とパンくず髭王』(Prinzessin Eigensinn und König Bröselbart, 1814 年 11 月 17 日にレ オポルドシュタット劇場で初演)、ワイグル作曲『スイスの家族』、スポンティーニ作曲『ラ・ヴェス 図4 1815 年2月 13 日に再演された『解放された エルサレム』を広告するビラ。Wien Bibliothek im Rathaus所蔵。

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37 Kirk前掲書、283 頁。

38 新プロダクションについては各年のWiener Hof-Theater Taschenbuch参照。

39 Zeitung für die elegante Welt, 1815 年 4 月 20 日 (76号)、607頁。

40 Morgenblatt für gebildete Stände, 1814 年 11 月1日(261号)、 1043頁。

41 デュポールについてはSeyfried前掲書、16-27頁 , 288-291頁参照。フランス人であったデュポールは長い間スパ イであると疑われ、1815 年5月に皇帝に国外退去を命じられたようである。デュポールの扱いについてはGlossy前

掲書、158-160, 161-162, 164, 196-197頁など参照。ケルントナートーア劇場におけるバレエ上演の全般については

Michael Jahn, Die Wiener Hofoper von 1810 bis 1836, 83-87頁参照。

タール』、そして 13 回にはベトーヴェン作曲『フィデリオ』、ボワエルデュー作曲『村の新地主』(Le nouveau seigneur de village, 独名Der neue Gutsherr, 1813 年パリで初演)であった。結論すれば、上演頻 度の最も高い演目は、地元のカペルマイスターたちが作曲した作品であり、その大半は一夜漬けで完 成された滑稽芝居であった。

 フランス系の歌劇にはペルスイ、ボワエルデュー、スポンティーニなどの作品も再三上演され、な かでも市内の3つの劇場で、会議開催中に 12 回も舞台に載せられたボワエルデューの『パリのジャン』

は、1812 年のウィーン初上演以来、47 回以上も再演され、高い人気を博し続けていた。同様に4年で 3つの異なるプロダクションを経験したスポンティーニ作曲『ラ・ヴェスタール』は 1814 年9月から 上演され、その後 73 回も繰り返し舞台にかけられた。ボワエルデューの『村の新地主』も 1824 年まで 99 回再演された。37

 1814 年5月 23 日初演の『フィデリオ』の改訂版は、会議を意識しながら上演された可能性があり、

会議終了後には 1815 年 12 月 11 日まで、つまり6ヶ月間1度も上演されなかった。それ以外には 1815 年 2月 11 日のペルスイ作曲『解放されたエルサレム』のウィーン初上演(オーストリア皇帝の誕生日を 記念する慈善興行)とその約一ヶ月後に上演されたC. S. カテル(Charles Simon Catel, 1773 年~1830 年)

作曲の歌劇(tragédie lyrique)『セミラミス』(Sémiramis, 1802 年パリで初上演)のリバイバル以外には、

国内外の賓客を意識して興行された演目は確認できない。したがって、会議がもたらした絶好のビジ ネス・チャンスは、あまり活用されなかったようである。演目の数を見ても同じ結論が導き出される。

1814 年6月1日から 1815 年5月 31 日の期間には、ケルントナートーア劇場では歌劇6作品とバレエ 7作品しか発表されず、前年の同じ期間の歌劇・バレエ7作品ずつとほぼ変わらず、2年前の 1811 年 6月1日から 1812 年5月 31 日の歌劇 10 作品、バレエ8作品よりもかなり数が減少している。38 ウィー ンの特派員がベルリンの新聞に報告したところによると、ケルントナートーア劇場には「新しいプロ ダクションは少なく」、通常古い演目が再演され、その間に『フィデリオ』が披露される程度である。39 また新聞にも報道されているようにヨーロッパ諸国より無数の人々がウィーンに流れ込んだ好期であ るにもかかわらず、3軒の大きな劇場が同時に営業している日は少なく、オーケストラと合唱団が合 併されたため、同じ夜に大きな演劇と豪華な歌劇の興行の実行はほぼ不可能であった。合併は、営業 面から見れば、それはそれで結構なことであろうが、芸術の面では大きな欠点であると結論している。40

バレエとパリのダンサーたち

 ところがバレエの分野では、ウィーンの劇場経営者が外国の来客がもたらしたチャンスを狙い特別 な工夫をしたようである。バレエは 1776 年ヨーゼフ2世によって廃止された後、レオポルド2世に よって復活し、ミラノからダンサーと振り付け師のS. ヴィガノ(Salvatore Viganó, 1769 年~1821 年)、 パリで活躍したF. タグリオーニ(Filippo Taglioni, 1777 年~ 1871 年)、フランス人のL. A. デュポール

(Louis Antoine Duport, 1781 年~ 1853 年)などがウィーンに招聘され、新演目を創造し、ウィーンのバ

レエ文化の発展に大きく貢献した。41 先に触れた『勝利するアモール』の例が示すように、19 世紀初頭 のウィーンでは、バレエの人気は高く、1814 年 10 月 4 日、つまり会議が正式に開かれる1ヶ月前から

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42 Feyerlichkeiten, 56, 66頁。クロイツァーのバレエについてはWiener Theaterzeitung 1814 年8月6日(7巻 93号)、 341, 369-370頁; Der Sammler, 1814 年8月7日 (126号)、503-504頁参照。MosesとはE. クリンゲマン (Ernst August Friedrich Klingemann, 1777 年~1831 年) が 1812 年に発表した作品であり、付随音楽はF. ウーベア (Friedrich Uber, 1781 年~1822年)が作曲したが、1814年11月26のビラ(Theaterzettel)によれば、行進曲と合唱曲はサイフリードが作曲した。

43 Leipziger Zeitung, 132 号、1814 年7月7日、1963頁。

アン・デア・ウィーン劇場にはA. コツェブエ(August von Kotzebue, 1761年~1819年)作の喜劇『試練』

(Die Feuerprobe)と 3 幕の大バレエであったR. クロイツァー(Rudolphe Kreutzer, 1766 年~1831 年)作 曲『アントニウスとクレオパトラ』(Antony et Cléopâtre, 独名Antonius und Kleopatra, 1808 年初演)の特 別公演が行われていた。10 月 10 日に同劇場ではバレエ入りの劇的な詩『モーゼス』(Moses)が催され た(11月26日再演)。

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 しかし最も大胆な 企 画 は、 パ リ 王 立 の バ レ エ 団 の ダ ン サーたちを呼集した こ と で あ っ た。 ラ イ プ ツ ィ ヒ の 新 聞 に よ れ ば、 そ の 一 団 は 1814 年 7 月 前 後、当地(ライプツ イヒ)で短期間活躍 した後、ウィーンへ 向かった。43 団員に は、女性ではスター のE. ビ ゴ ッ テ ィ ー ニ(Emilia Bigottini, 1784年~1858年、図 5)をはじめ、 A . プ チ(Aimée Petit)、 姉 妹 の ジ ュ リ ー と テ オ ド ー ル・ オ メー(Julie Aumer, Theodore [Theodora]

Aumer, 1797年~1837 年)が含まれ、男性 で はA. ド ハ イ エ ー

(André-Jean-Jacques Deshayes, 1777 年~1846 年)、 アントニン(Antonin)、ヴォランジュ(Volange)、ま た振り付け師兼ダンサーでオメー姉妹の父親でもあったJ. L. オメー(Jean-Louis Aumer, 1774年~1833年、

図6)から編成されていた。ビゴッティーニは、巨額の10,000fl.の契約をウィーンの劇場と結び、他の ダンサーたちも相当高い報酬を得ていたと考えられる。一団は 1814 年7月 16 日にアン・デア・ウィー ン劇場でコツェブエ作詞、モーツァルトに師事したウィーンの作曲家であったI. サイフリードが付随音 楽を作曲した『賢い女』(Die kluge Frau, 1801 年初演)に出演した。新聞ではビゴッティーニが絶賛さ 図5 1825 年にクロイツァー作曲、L.ミ

ロ ー (Louis Jacques Jessé Milon, 1766 年 ~ 1849 年 ) 振り付け3幕のバレエ『クラ リー、または結婚の約束』(Clari; ou La promesse de marriage, 1820 年初演 ) に登場 するバレリーナのE.ビゴッティーニ。

Godefroy Engelmann (1788年~1839年)画。

New York Public Library所蔵。

図6 1820 年前後のギロウェッツ作曲、

オメー振り付け『ヴェンドーム公爵の 小 姓 た ち 』(Les pages du duc de Vendôme, 1820 年初演 ) に登場するバレエ・ダン サ ー のJ. L. オ メ ー。Godefroy Engelmann (1788年~1839年)画。New York Public Library所蔵。

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れる一方、オメー姉妹は「まだ初心者」とやや批判的に評価された。44 引き続きこのダンサーらは 1814 年8月 10 日にC. ボッシ(Cesare Bossi, 1773 年~ 1802 年)作曲、J. L. オメー振り付けのバレエ『フロー ルとゼフィール』(Flore et Zéphire, 独名Zephyr und Flora)に登場し、喝采を浴びた。この演目は会議 開催中にも 11 回の再演を果たした。45 また 1814 年 11 月6日、一団はペルスイ作曲のバレエ『ニーナ』

(Nina, 1813 年 11 月パリ初演)にも出演し、この演目も高い人気を得て、会議開催中には計 13 回も上 演された次第である。ベルトゥフの手記の記述を見ると、『ニーナ』の出演でビゴッティーニは宮廷よ り1,500fl.、ドイツ生まれでフランスに帰化した外交官のE. ダールベルク(Emmerich Joseph de Dalberg, 1773 年~1833 年)より2,000fl.、興行利益自体より8,000fl.も手に入れ、A.プチも1,000fl.の報酬を得て おり、「パリの娼婦たち」は実に商売上手であると軽蔑的なコメントをしている。46 1815 年 1 月 13 日 にビゴッティーニとアントニン等は帰国し、2月にはパリのバレエに出演し活躍を続けていた。しか し、その後もウィーンの舞台に登場するバレリーナは必ずビゴッティーニと比較され、その影響力は 絶大であった。47 一団が帰国した後、バレエの新たな人気に便乗しようとしたせいか、3月 17 日にヨー ゼフシュタット劇場でもフォルケルトが編曲したバレエ『ペルセウスとアンドロメダ』(Perseus und Andromeda)が初演され、その後会議開催中には 18 回も再演された。

劇場での演奏・上演の質に関する報道

 ウィーン会議開催中に上演された演目とジャンルの概要は以上に述べた通りであるが、音楽的ある いは演劇的にはどのように評価されたのであろうか。実は、1814 年前後の新聞の評論家は、ウィーン の音楽界と演劇界全般を非常に批判的に捉えていた。ウィーンには専門的な音楽院が欠如しており、

その結果上手な歌手の育成が大きな課題であった。すでに 1808 年に「劇場監督がいくらがんばっても、

ドイツ語で書かれたオペラの上演のための素晴らしいテノールが見つからない」と不満をもらしてお り、慢性的な歌手不足のため、良質で古典的な歌劇作品の上演はままならなかった。48 そして新演目上 演の無いまま年月が過ぎていった。1814 年には評論家も「舞台芸術は前進というより後退している」

と主張し、あるいはウィーンでは「3年前まで、まさにヨーロッパ有数のオペラがあったが、今はも う国外からの期待には応えられていない」と残念がっている。49 その3年前に別の評論家は、新演目の 数はウィーンが、パリを除けば、他の都市には引けをとらないと主張するものの、一方で作曲家と歌 手はやはり国外に頼らざるを得ないと報告している。彼によれば、劇場ではいつも地元のワイグルと ギロウェッツ、あるいはアン・デア・ウィーン劇場に所属したI. サイフリードの作品しか上演されてお らず、自慢できる作品が何ひとつない。なおそれを満足に歌唱できるウィーンの歌手もどこにもいな いと強調している。50

 男女のオペラ歌手が払底しているなか、イタリア人が呼ばれたものの、彼らは長期滞在を嫌い「不 思議なことに、会議が開始され無数の輝かしい人々が全世界からウィーンに集合している最中、最後 のイタリア人歌手が早くも帰国した」。51 残ったイタリア人歌手だけでは、ウィーンの評論家と聴衆を

44 Wiener Theaterzeitung, 7巻 86 号 (1814 年7月 21 日)、341頁。Morgenblatt für gebildete Stände, 1814 年7月 16 日 (169 号)、780頁。当時愛国心に燃えていたオーストリアの聴衆はフランス人のオメー姉妹を激しくやじり、かえって地 元のダンサーと見なされたM. デカーロ (Magdalena de Caro , 1788 年~1816 年 ) に喝采を送った。Glossy前掲書、304 頁参照。

45 Wiener Theaterzeitung, 7巻 94 号 (1814 年8月 10 日)、373-374頁。

46 Bertuch前掲書、51頁 (1814 年 11 月9日)、74頁 (1814 年 12 月 18 日)。

47 Morgenblatt für gebildete Stände, 1815 年2月 17 日 (41 号)、164頁。ビゴッティーニとオメーたちがウィーンの観客 にどのような印象を与えたのかについてはFranz Xaver Gewey, Briefe des neu angekommenen Eipeldauers, 1814 年、第 10 冊48-55頁、第 12 冊3-18頁が興味深い。

48 Vaterländische Blätter, 1808 年5月 28 日(6号)、41-42頁。

49 Morgenblatt für gebildete Stände, 1814 年 11 月 11 日 (270 号)、1080頁; 同 12 月 10 日 (295 号)、1180頁。

50 AmZ, 12 巻 21 号 (1810 年2月 21 日)、333-334頁。

51 Morgenblatt für gebildete Stände, 1814 年 11 月 30 日 (286 号)、1144頁; 同 1814 年 12 月 10 日 (295 号)、1180頁。

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52 これは4年間における3回目の試みで、あたりを取り 73 回も再演を経験した。

53 Der Sammler,6巻 191 号 (1814 年 11 月 29日 )、764頁。

54 Morgenblatt für gebildete Stände, 1814 年 11 月 11 日 (270 号)、1080頁。

55 Der Sammler, 1815 年2月 23 日 (7巻 23 号 )、100頁。

56 Morgenblatt für gebildete Stände, 1814 年 11 月 11 日 (270 号)、1080頁。

57 Wiener Theater-Zeitung, 1815 年3月 11 日、97頁。

58 パルフィ伯爵の残した手紙から、当時伯爵がバレエの上演から期待していた効果とウィーン市民のバレエの好み について読み取ることができる。Glossy前掲書、第1巻、203-204頁参照。

59 AmZ, 1815 年 10 月 25 日 (17 巻 43 号)、718-719頁。

60 Der Sammler, 1815 年2月18日 (7巻 21 号)、91-92頁 ; 同 1815 年2月 21 日 (7巻 22 号)、95-96頁。

61 Der Sammler, 1815 年2月23日 (7巻 23 号)、99-100頁。

62 Der Sammler, 1815 年4月1日 (7巻 39 号)、171-172頁。

満足させる力を持ち合わせていなかったようである。1814 年9月に、先に取りあげたスポンティーニ 作曲『ラ・ヴェスタール』の新しいプロダクションが舞台にかけられ、やはりドイツ語で歌われた。52 国外生まれ、あるいは国外で研鑽を積んだ歌手にとり、これはありがた迷惑で、下手なドイツ語の発 音が聞き苦しいと強く非難された。53 ドイツ語を充分に発音できた歌手にも問題が山積した。1814 年 10 月に G. マイヤベーア(Giacomo Meyerbeer, 1791 年~1864 年)が 1812 年に作った喜歌劇『アリメレ ク』(Alimelek oder die beiden Kalifen)が上演された際、ソプラノのC. ブフウィ-サ(Cathinka [Katharina]

Buchwieser, 1789 年~1828 年 ) は「調子は一貫して低すぎる」、テノールのJ. N. シェルブレ(Johann

Nepomuk Schelble, 1789 年~1837 年)の歌唱は「調子はずれ」、バスのA. フォルティ(Anton Forti, 1790 年~1859 年)は声が少し枯れているように聞こえたと新聞が報じている。54 歌手の技術的な不備以外 にも、彼らの趣味あるいは芸術的素質の無さも取り上げられた。例えば 1815 年2月以降アン・デア・

ウィーン劇場で上演されたペルスイ作曲『解放されたエルサレム』を聴いた評論家は、歌唱法につい て「完璧で素晴らしい楽器の音と同様、歌手が数分間維持する高音は感心するが、それは綺麗な音楽 演奏の欠如の代用にはならない」と手厳しい判断を下す 。55 やはり古今を問わず、スター歌手の多くは 迦陵頻伽の如き歌声を衒うことを最優先し、演奏が音楽的な意味をなしているかどうかは二の次と考 えたようである。

 オーケストラの演奏も不充分であったと指摘された。『アリメレク』の場合、「おそらく散発的なリ ハーサルのためオーケストラはばらばら」で、評論家を怒らせた。56 あるいは別の演奏では、指揮者を 兼ねたカペルマイスターの「あまりにもうるさい拍子を打つ行為は邪魔である」場合もあった。57  ウィーンの観客を満足させる地元のバレエ・ダンサーが不在であったため、1815 年の夏にアン・デ ア・ウィーン劇場を運営していたパルフィ伯爵が再度パリに足を運び、ビゴッティーニをはじめ、数 人のダンサーと契約を結ぶことを試み、また歌手とも交渉したようである。58 評論家はこの運営手法に ついて、ライン川の向こうから到来する者を崇拝することはいつまで続くのであろうかといらだちな がら問いかけ、七歩の才の持ち主であれば招聘してもよいが、芸術家の絶え間ない輸入という大きな 潮流には賛成しがたいと異論を唱えている。59

 そして何よりもフランス系のオペラ自体とウィーンにおけるオペラ・コミックの延々と続く流行に 対する批判は、この時期から行われるようになった。『解放されたエルサレム』について、評論家はま ず荒唐無稽の台本を厳しく批判し、登場人物が立体性を欠き、フランス文化全般と同様に軽薄で取る に足りない者ばかりであると主張している。60 ついでに音楽も槍玉に挙げられている。61 和音に頼りす ぎる音楽であり、形式とメロディーが不充分、劣悪なセリフとプロットもあり、作品は聴衆を魅了す る力に乏しいと判断された。聴衆の拍手で何度も中断された音楽の流れに歌声が負けてしまい、舞台 絵は綺麗ではあるものの、歌劇の内容の無さを隠すほどの魅力はない。「盲目的にフランスの音楽を尊 崇する者」に対する批判も強く、その背景にはドイツ人あるいはオーストリア人の愛国心があり、そ れにフランス系の歌劇の芸術的な欠点が複雑に絡み合っている。62 バレエの衣装あるいはプロットに関 しても批判が集まった。1814年9月以降には、P. モンシニー(Pierre-Alexander Monsigny, 1729年~1817年)

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63 Morgenblatt für gebildete Stände, 1814 年 11 月1日 (261 号)、1043-1044頁。

64 Bertuch前掲書、113-118頁 (1815 年2月 5-7 日)。

65 Friedensblätter, 1814 年 11 月 12 日(58 号)、240頁。

66 Perth, Tage-Buch, 1814 年 12 月 17 日項。

67 Friedensblätter, 1814 年 12 月 22 日(75 号)、308頁。

68 例えば1817年にドイツの歴史家のC. ミュラー (Christian Müller)は、ミュンヘンの劇場に所属したアントワネット・

プファイファー (Antoinette Pfeiffer) が「ウィーン会議でフランスの最も優れたダンサーと舞台をともにした」こと を自慢げに記録している(Müller, München unter König Maximilian Joseph I, 645頁)。

69 この問題についてはDer Sammler,6巻 203 号 (1814 年 12 月 20 日)、812頁参照。

が 1769 年に作曲したオペラコミック『脱走兵』(Le déserteur, 独名Louise und Alexis oder der Deserteur)

によるバレエが上演され、ウィーンに早くも到着した各国の高位の方々の多くが観客席を埋めた。し かし「古臭いフランスの衣装を観客はばかばかしいと感じた」と新聞が報じており、ウィーンに長く 滞在した振り付け師のオメーがなぜ観客の好みを的確に把握できないのか、また時代遅れでありふれ た題材を選んだのかについては、評論家にとっても理解に苦しむところであったようである。63

聴衆の反応

 上演に問題が山積したにも関わらず、劇場はウィーン市民と外国の来賓に厚い支持を受け、とりわ けファシング期間中(復活祭の6週間ほど前の灰の水曜日から復活祭の前日まで)には「夜明けまで 滑稽劇、小規模のバレエ、喜劇が上演されている。人々は皆忙しく振舞い、召使は遊楽のためのチッ プを貰い、通常ウィーンの人々は熱愛している劇場に足を運んでいる」とベルトゥフが日記に記録し ている。64 ファシングのために特別な演目も考案され、劇場自体の模型が、あるいは「ツム・シュペ

ル」(Zum Sperl)というウィーンで最も有名な舞踏会場の模型が大道具として舞台上に建てられ、舞台

が観客の映し鏡となることもあった。

 会議に出席した皇帝以下各国の君主、軍司令官、高官、貴族なども、シェーンブルンとアウガルテ ンに開催されたイベントはもちろん、その他の劇場をも再三再四訪れた。例えば開会直後の 11 月6日 にケルントナートーア劇場で初演された『ニーナ』には多くの高位の人々が参集した。65 12 月 17 日の 再演についてもマティアス・ペルトが日記において、まずビゴッティーニが特に大きな拍手を得たこ とを記録し、そして「劇場は込み合うほどいっぱいで、光栄にもロシア皇帝・皇帝妃、オルデンブル クとザクセン・ワイマールの公爵夫人、バイエルン国王・王妃、ヴュルテンベルク国王、カール大公、

アルベルト・フォン・ザクセン・テシェン公爵、プロイセンのヴィルヘルム王子、そして他の王子た ちが皆出席した。ここにて初めてフランスの有名な雄弁家で大臣であるタレイラン公、あるいはプロ イセンの大臣ハルデンベルク公を見た」と詳細を明らかにしている。66 『ニーナ』初演の5日後(11 月 11 日)にもオーストリアとロシアの皇帝妃、バイエルン国王、プロイセン国王のフリードリヒ・ヴィ ルヘルム3世(Friedrich Wilhelm, 1770 年~1840 年)、国内外の諸侯などが揃ってアン・デア・ウィーン 劇場に足をはこび、おそらくフランス人のE. ミレー(Ernest Louis Miller, 1740 年~1811 年)が作曲し、

当時この劇場の専属振り付け師であったデュポールが作った『カリプソの島にいるテレマフ』(Telemach auf der Insel der Kalypso, 1813 年ウィーンで初演)を堪能した。67 一方、ダンサーたちとその支持者も、

雲の上の方々のために持ち前の芸を披露することを大きな名誉と感じ、帰国後の衣錦の栄を楽しみし ていた。68 このような効果もあり、バレエの上演の多くは大成功を収め、観客は満足して帰った。しか し成功の背後には大量の無料入場券のばらまきによる意図的な情熱の存在も無視できない。69

 大きな劇場にて催された豪華な上演以外にも、貴族たちは、ウィーン市民の風俗あるいはオースト リア方言が大きな特徴となった演目にも関心を示した。とくにプロイセン国王はしきりにレオポルド シュタット劇場とヨーゼフシュタット劇場にたち寄り、そこでミュラー、フォルケルト等が作曲した パロディ、ドタバタ喜劇、ジングシュピール、パントマイムなどを鑑賞した。例えばレオポルドシュ タット劇場で、フォルケルトが人気の高い既存の歌劇とバレエ音楽を編曲し、P. ライノルディ(Paolo

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Rainoldi, 1781 年~1853 年)が振り付けた『ペルセウスとアンドロメダ』に国王は3回も足を運んだ

(1815 年3月 18 日、4月 25、27 日)。会議開催中の 1814 年 11 月 13 日から 1815 年5月 13 日の間、プロ イセン国王は少なくとも 14 回この劇場を訪れ、ヨーゼフシュタット劇場にも 1814 年 11 月 13 日と 12 月 29 日などの上演に赴いた。その他にもデンマーク国王フレデリク6世(Frederick VI, 1768 年~1839 年)

は 1814 年 11 月4日にレオポルドシュタット劇場でパエール作曲の2幕の喜歌劇『少ないが、それで も好い、または変容した女』(Poche ma buone, ossia Le donne cambiate, 独名Der lustige Schuster oder die

verwandelten Weiber,『愉快な靴屋』)が舞台にかけられた。このオペラ・コミックの筋は元々アイルラ

ンド人の劇作家の C. コッフィー(Charles Coffey, ?~1745 年)が 1731 年に発表した「バラド・オペラ」

(ballad opera)であり、原題は『あとのたたりが恐ろしい』(The Devil to Pay)であった。当時大成功し

たこの喜劇が 1743 年にドイツ語に訳されたのちベルリンで上演され、やがてジングシュピールの一般 的な原型となった。G. M. フォッパ(Giuseppe Maria Foppa, 1760 年~1845 年)はこの作品のプロットを フランス語に翻訳し、パエールは軽やかな節を付け、大衆に受けのよい滑稽劇に仕上げた。19 世紀初 頭にはウィーンのケルントナートーア劇場、アン・デア・ウィーン劇場、ヨーゼフシュタット劇場で も上演される演目となった(図7)。

 あるいは 1814 年 12 月3日には、デンマーク国王とアルベルト公爵等もレオポルドシュタット劇場で

I. シュースター(Ignaz Schuster, 1779 年~1835 年)作曲の『さかさまな世の中』(Die verkehrte Welt)を 見た。ヴュルテンベルグ国王フリードリヒ1世(Friedrich I Wilhelm Karl von Württemberg, 1754 年~1816 年)も同劇場を数回訪れ、いくつかの演目を楽しんだ。

 このように貴族たちは郊外の劇場で行われたオペレッタや軽い滑稽芝居などを評価したようである 図7 パエール作曲の『愉快な靴屋』より序曲(J. C. G. Junghanss [1771年~1823年以降]編曲によるピアノ 独奏版)。Prag: Marco Berra, 出版年不詳。

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が、一般市民側からは、そこで上演された演目に対する否定的な意見もあった。政府の役人であっ たマティアス・ペルトは 1815 年1月 21 日にレオポルドシュタット劇場で初演されたミュラー作曲の ジングシュピールを鑑賞し、日記に「夜はレオポルドシュタット劇場に行き、C. ウィーデマン(Carl Wiedemann, 1818 年前後没)作詞3幕の『クレムスでマスタードを製造するバウムシャーベル爵士の フォン・シュナーベル氏』(Herr von Schabel Edler von Baumschabel, Senffabrikant von Krems)と題される とても中身の無い滑稽劇が初演された。主役を演じた人気道化役のシュースターの素晴らしい演技に より、この芝居のレベルがある程度高くなった。もし他の役者がシュナーベルを演じていれば、この 劇は容赦なくやじられたであろう。音楽も同様に楽しい箇所が少なく、ミュラー氏は大概我々を耳障 りな音で楽しませようとしたようだ」と作曲家を扱き下ろしている。70

むすび

 概して言えば、ウィーン会議に参加した各国の君主、代表者、軍幹部などとその同伴者は、主に2 種類の上演を経験したと言える。そのひとつは政府が企画した豪華絢爛なイベントで、帝国がそれに よって自国の経済力、政治的権力、文化的覇権力を誇示しようとしたものである。来客がシェーンブ ルン宮殿あるいはアウガルテンに招かれ、そこで何万本もの蝋燭に照らされるホールにおいて大々的 に分かりやすい演目が上演され、その前後に豪奢な晩餐などが続いた。帝都ウィーンはオーストリア のみでなく、全世界の首都であるという印象を会議参加者に与えるように、ウィーンでしか体験でき ないような出し物が用意された。

 もうひとつは町で常日頃運営されていた劇場での上演である。舞台にかけられた演目の主たる役割 は、ウィーンの文化を世界にアピールするのではなく、黒字を出すためのものであった。もっとも ウィーン会議開催中であっても、外国の高位の方々のみで観客席を埋めることは不可能であり、入場 券の値段を会議参加者の経済力に合わせることにも無理があった。したがって、諸劇場の経営・監督 の責任者は経営上リスクが少なく、かつウィーン市民がかねてより楽しんだ演目を舞台に載せたため、

その結果プログラムは例年と大きく変わらなかった。演目と上演様式を外国の来客に合わせるという よりは、地元ウィーンの人々の好みに従わせるという方針が採られたようである。

 プロイセン国王などがいくつかのドタバタ喜劇を再三観賞した事実を考えてみると、この方針は決 して間違っていないと思われる。貴族の演目と演奏者に対する期待と評価基準、しいていえばその教 養は劇場を訪れたウィーン市民の文化的レベルとはあまり変わらなかったと考えられる。外国人のた めに特別なプログラムが工夫されなかった結果、ウィーンの劇場では主にフランス人あるいはイタリ ア人の作曲家が作りドイツ語に訳されたオペラ・コミックが上演され続け、あるいは地元のカペルマ イスターたちが作ったオペレッタや歌混じりの喜劇などが聴衆に提供された。

 ウィーン会議に出席するためこの都市を訪れた外国人の大半は、おそらくハプスブルク家が主催し た歌劇・バレエの上演を高く評価し、町の劇場の数と歌劇の上演頻度の多さにも驚いたであろう。し かしウィーンが誇ったグルック、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、サリエリ、ギロウェッ ツ等が作曲した歌劇にはそれほど接していないと考えられる。ウィーンの作曲家が残した歌劇の名作 はこの時期にはむしろ他の都市で繰り返し上演され、ウィーンがやがて歌劇の分野でも「音楽の都」

と言われるようになった要因はかえって外国で探さなければならないのである。

70 Perth, Tage-Buch, 1815 年1月 21 日の項。

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Wiener Hof-Theater Taschenbuch auf das Jahr 1815. J. F. Castelli, Hrg. 第11巻. Wien: Wallishauser, 1815年.

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[付記] 本稿(正・続)は科学研究費基盤研究(C)(課題番号 17K02280、代表ジェラルド・グローマー)の助成を 受けた研究成果の一部である。

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