神の小屋と赦しの恵み
「神の小屋」 ウィリアム・ポール・ヤング著 吉田利子訳 サンマーク出版 2008年
総合文化学部英米言語文化学科 福峯綾菜
神様とおしゃべりしたことはあるだろうか?一緒に料理をしたり、庭仕事をしたり、寝 転んで星を見上げたことは?――私はある。いや、訂正しよう。庭仕事はしたことがないし、
星を見上げた時は歩いていた。しかしこの本の主人公マック、本名マッケンジー・アレン・
フィリップスはそれらすべてを実体験したのである。音楽を聴きながらノリノリでパイを 作る『パパ』、父なる神様を手伝いながらおしゃべり。サラユー(意味:風)と名乗った聖 霊と共に庭の植物の根っこを引っこ抜きながらおしゃべり。そして、だれもがその名を知る あの有名な救世主イエス・キリストと共に、ビロードのような空に浮かぶ壮大なダイアモン ドの草原を見上げておしゃべりしたのだ。
作者ウィリアム・ポール・ヤングは宣教師の両親のもとに生まれたカナダ人作家であり、
『神の小屋』は処女作である。ストーリーはウィリアムがマックから聞いた話を文字にした 体で書かれ、書き出し部分は二人称視点でマックを紹介しているが、一章からは彼の一人称 視点で事の顛末が描かれていく。2017年に『アメイジング・ジャーニー 神の小屋より』
というタイトル(日本語版)で映画化もされている。
マックは5人の子どもの父であったが、ある日末の娘ミッシーが連続殺人犯に連れ去ら
れ、殺されてしまう。事件の日はマックが下の子 3 人をキャンプに連れて行った最終日だ った。マックや妻のナンはその悲しみや苦しみを「大いなる嘆き」と呼んだ。マックもナン も時間をかけて「大いなる嘆き」を少しずつ忘れるようになっていったが、完全に無くなる ことはなく、一緒にキャンプに行った長女ケイトは特に責任を感じてその後何年も塞ぎ込 むようになってしまった。そんなある日のこと、マックのもとに一通の手紙が届く。差出人 は『パパ』となっているが、既に父親が他界していたマックに心当たる人物はたったひとり だけであった。ナンは祈る時や会話の中で、神様のことを「パパ」と呼ぶ。そこで手紙の送 り主は神様なのかもしれないと考えたマックは、手紙の云う通り、因縁のある小屋へと出か けて行く。そうしてマックは、その小屋で神様とともに濃厚な週末を過ごすことになるので ある。
この本は、キリスト教の信仰者向けであり、また物語(ストーリー)を読む、というよ
りは内容(メッセージ)を受け取る、吟味するという楽しさに重きを置いて読むのが良いだ ろう。信仰者たちが「神様」という彼らにとって根本であり、しかし目に見えぬ存在をどう 捉え、認識するべきなのかといった普遍的な議題を示唆する部分――本の中で『パパ』がア フリカ系アメリカ人の女性のカタチをとって描かれていたりする――や「神様との関係」が どうあるべきなのかといった議題を示唆する部分などが多くある。それら議題の存在が大 きく、単純に物語として読むには難しいと感じる人が多くいそうであると推察されるから である。しかし信仰者であれば自身の信仰と照らし合わせ、吟味する機会として役立てるこ とができるはずである。事実私も上に書いたように、今まで神様とどのように関わってきた だろうかと振り返ったり、教会の説教で語られることが、一教会の指針や思想ではなく、世
界規模のものであることを確認することができたり、たいへん面白く思ったのである。そし て、キリスト教に対する関心と基本的な知識も持つ人に限られるとは思うが、信仰を持たな い人にたいしては、キリスト教の考え方の一つに触れてみる機会としてほしいと思う。神様 はどんな方なのか、聖霊様とは何で、どのような働きをするのか、なぜ人間を造ったのか、
人間はどのように生きるべきなのか、そして神(イエス)が人になった理由はなんなのか。
たくさんの疑問や不思議を、物語と登場人物たちの造詣深い言葉を通して解き明かしてく れる様は知的好奇心をくすぐること間違いなしである。
さてここで、この本で抵抗感を与えやすいと思われる場面について、私の意見を述べたい と思う。それはマックがパパとの会話のなかで、ミッシーを殺害した犯人を「赦す」と決断 する場面であるが、これに対して、マックがむりやり自分自身を納得させようとしているよ うに見えて、ばかばかしいと感じてしまった人たちがいるようなのである。しかしこれはと ても聖書的なことであり、また重要なことである。赦そうと思って簡単にできることではな いことは確かである。しかしだからこそ、神様の愛を貰い受けている信仰者たちは、その貰 った神様の愛を使って、愛せるはずもない人を愛すること、赦せるはずもない人を赦すこと ができるのである。そして愛すること、赦すことは自分自身の祝福のためになるのである。
なぜなら、赦さずに居続けることは自分にとっても重苦しいことであり、また、人を赦すこ とは神様から受けた『赦し』を完全に自分のものとすることだからだ。であるからして、こ の場面でパパがマックに求めたことは、「私は自分自身の力にギブアップして、神様に頼ろ う!」という決心だったのではないかと私は考える。信仰者の生活は実に明るく、楽しげで ある。もちろん人生の困難に出会うことも多々あるが、しかしそのようななかにあっても、
案外気楽にして居られたりするものである。なぜか。それはまさに、神様を信頼し、その愛 と力に頼る方法を知っているからなのだ。その信頼を築くためには、マックがしたように、
神様とたくさんおしゃべりすることが近道であると思う。そしてそのおしゃべりとは、祈り のことである。
【あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配して くださるからです。 ペテロの手紙第一5章7節】
神様が心配してくださるとは、私たちはいったい何者なのだろうか!まだ神様の愛に触 れたことのない人が、「神の小屋」を通してその機会に恵まれることを願って、この書評を 綴じるとしよう。