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窪 徳 忠 1 . は じ め に ‐

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− 7 3 −

徳 之 島 の 竈 神 信 仰

窪 徳 忠

1 . は じ め に ‐

これまでもしばしばのべているように、私は中国の道教が説く三戸信仰の日本への伝来ルー トをさぐることを主な目的として、1966年夏始めて沖縄県地方を訪れた。ところが、三戸信 仰はおろか、庚申信仰の片鱗さえも承られなかった。けれども、かなり多くの中国的な信仰や 習俗が県下の広い範囲にわたって現行されていることを教えられた上に、それらと中国の類似 の信仰や習俗との比較研究がほとんど行われていない由をも知った。そこで、目的を変更し て、両者の比較研究を行うことにし、今日にいたっている。

沖縄県地方は、ふつう奄美地方とあわせて、南島または南西諸島などとよばれている。しか も奄美地方は、一時琉球王国に属したことがあったから、そのころ琉球王国を通じて中国の信 仰や習俗が流入したに相違ない。それらが、薩摩藩の支配によってどのように変って今日残っ ているかという点は、私にとってまことに興味ふかい問題である。そこで、つねにいきたいと は思っていたものの、その機会はなかなかめぐってこなかった。たまたま1978年、慮らずも 九学会連合奄美調査委員のひとりに加えられて、同地方に赴く好機を与えられた。そこで、2,

3の人々の助言に従って、素志を果たすべく、中国的な信仰や習俗の残存状態を調べて、沖縄 県地方のそれとの異同を考えることにした。しかし、その結果はきわめて不十分だったので、

そののちも機会を求めては同地方に赴いて補足調査を行い、これまた今日に及んでいる。

1982年に公けにされた九学会連合の奄美調査報告書では、私は主に調べた奄美地方の電神 信仰について、沖縄県地方、ひいては中国のそれと比較しながら報告した。その報告の、'はじ めに〃の部分でのべたように、内容はまことに不備だったので、前にふれたように、補足調査 を続行したのだった。けれども、その成果は思うようには挙らなかった。そのような折、まっ たく思いもかけず、本調査団への参加要請をうけた。私は、敢えてその好意に甘えることに し、前回の九学会連合の報告を受ける意味で、1984年10月5日から同月10日まで徳之島に 赴き、徳之島・伊仙・天城3町の竈神信仰を調べた。そこで、ここにその結果について報告し たいと思う。

今回、私が調べた部落(シマ)は、つぎの通りである。

徳之島町金見・山・井之川・徳和瀬

伊仙町伊仙・八重竿・佐弁・御前堂・面縄.喜念・馬根・中山・犬田布・阿権 天城町西阿木名・当部・浅間・与名間・松原

けれども、これらのシマの電神信仰の特徴を浮びあがらせるために、場合によっては、従来 調べたシマの信仰に言及することもあるので、その点を最初にお断りしておく。

また、本来ならば、まず中国の電神信仰を、ついで沖縄県地方のそれをくわしく紹介したの

(2)

− 7 4 −

ちに本論に入るべきであるが、前二者についてはこれまでもしばしばのべているので、ここで

(1)

はごく簡単にその概略をのべるに止めておく。また、比較の意味から、徳之島以外の奄美地 方の竈神信仰についてもふれるべきかもしれないけれども、紙数の関係から前著にゆずっ

(2)

て、ここでは省略に従う。なお、私としてはかなり手をつくして調べたつもりでいるけれど も、本稿にはきき洩らしや誤解、もしくは思いすごしなどを始めとする欠点が多いにちがいな い。もし、お気付きの点があったならば、細大となく示教をいただきたいと思う。

2.中国と沖縄県地方の電神信仰

中国では、すでに前5世紀ごろに、火をたく場所としての竈に神性を認めていたことは、明 白である。それは、火に対する信仰がそれより以前にあったことを物語っているけれども、そ の始源時期はわからない。当時の竜神がどのような性格の神と考えられていたのかも不明なが ら、少なくとも前2世紀のころには、つねに一家の人々の行動を監視していて、ある時期に天 の神に報告にいく、いわゆる司過神の一種と考えられていた。なかには、善悪双方の行動を報 告にいくように解釈した日本の研究者もいたけれども、私は悪事や罪過だけを報告にいくと考 えていたと思っている。

ところが、7世紀以降は悪事や罪過ばかりでなく善行をも併せて報告にいくと考えられるよ うになった。これは、電神信仰としては大きな変化である。おそらく、祭祀の効能を招福と考 えた結果のように思われるが、そのような考え方はとくに清代においてさかんになって、今日 まで続いている。清初に編集された『太上宝筏図説』以下の『太上感応篇』の註釈書や1965年 再刊の『竈君明善真経』その他に、竜神は人間の善悪を鑿察すると承えているのは、その確証 である。

前1世紀の前半のころ、陰子方が旧12月8日の朝炊事中に出現した電神をみて黄羊を供え

(3)

て祀ったところ、大金持になった上に、子孫も繁昌したという話によって、それから5,6世 紀ごろまでは旧12月8日に祀る慣習になっていたように推測される。以後9世紀までのあい だの祭祀日は、資料不足のためにはっきりしないが、10世紀ごろから今日までは、華北では旧 12月23日、揚子江以南の地方では旧12月24日に祀るようになった。このように変った理由 およびその淵源は、まだはっきり突きとめられないでいる。

電神が家族たちの罪過または功罪の双方を天神に報告するために上天する日については、4 世紀のはじめに著わされた『抱朴子』以下、19世紀の前半に編まれた『増訂敬電全書』にいた

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るまで、かなり多くの資料に毎月の晦日と明記されている。一方、10世紀以後に作られた文

(1)たとえば、拙著『増訂沖縄の習俗と信仰一中国との比較研究一』(1974、東大出版会)参照。

(2)拙著『中国文化と南島』(1981、第一書房)、拙稿「奄美地方の中国的信仰」(九学会連合奄美調査委 員会編『奄美一自然・文化・社会一』、1982、弘文堂)など参照。

(3)後漢書巻62、陰識伝に承える陰子方の話だが、そこにはそのとき黄犬を黄羊として供えて祀ったと 記されている。

(4)『増訂敬竈全書』は東大東洋文化研究所蔵。

(3)

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献のなかには、旧12月23日か24日と記されているものがきわめて多い。上天日に祀るのが ふつうだから10世紀以後になると、二通りの祭祀日があったように承られるbよくわからな いけれども、ル、まのところ私は、毎月晦日と記したのは従来の記載をそのまま踏襲した結果に すぎず、後者はそのころの実情を写したものであろうと臆測している。なお、10世紀ごろから 年1回年末に上天すると考えられるようになった原因や理由は、不明である。

上天した神は、当然下天してこなければならない。下天日については、資料の関係から16 世紀以前のことはわからないけれども、少くとも17世紀以後は大晦日とされている。臆測する に、10世紀以後には年末に上天すると考えられていたのだから、下天日もやはり年内と考え られた結果であろうと思われる。現在では、地域によって、大晦日、元旦、1月2.3.4.

(5)

7日などの相違があるといわれている。

中国では、神々を人格神視する傾向がつよく、必ず姓名がつけられている上に、誕生日まで 説かれている。竈神も、も,ちろんその例外ではない。そうして、姓が張もしくは蘇、名は単、

禅、吉利などとされ、誕生日は旧8月3日だと伝えられている。『台湾風俗誌』や『台湾旧慣 冠婚葬祭と年中行事』などによれば、戦前の台湾では各戸でこの日に電神を丁寧に祀っていた

らしいが、私のゑたところではほとんど現行されていない。おそらく、生活の変化で竃がなく なって、炊事場にその画像を置かなくなった結果のように思われる。なお、竃神には王氏とい

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う夫人もいたとされているが、そのようにいいだしたのは2世紀以来のことのようである。

電神が台所にいることについては、かれは玉皇上帝の息子だったが、元来大へんな女性好きだ った。そこで玉皇は、部下の神々を任命する際に、適材適所主義に則って、かれを台所に配置 した。それは、女性が台所で炊事や行水をするので、つねにその陰部が承られていいだろうと

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判断したためだという伝説がある。この話は、ほぼ台湾全島にわたって拡まっている。

電神の祭祀は、古いころのことは不明ながら、清代すなわち17世紀以降は送竈または辞竈 とよばれていた。『礼記』によれば、前2世紀ごろまでのその祭祀は、わずかな供物と酒だけ という、まことに簡素なものだったらしい。前1世紀以後は前述の伝えによって、黄色の羊が 供物とされていたと思われる。けれども、時代が下った4世紀ごろからは羊の代りに豚が供物

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とされることが多かったらしい。さらに、10世紀以降にはかなり数多くの供物が供えられる ようになっているが、『東京夢華録』巻10によると、12世紀前半ごろの北宋の都沐京の人々 は、その夜僧侶や道士をよんで読経させる一方、酒や果物を供え、竜の焚口に酒糟をぬりつけ たのち、紙銭を焼いて竜神の上天を送ったという。酒糟をぬりつけたのは、電神を酔わせて、

上天した折に天神に悪事を報告させまいとした愉快な悪だく象であった。それは「酔司命」と よばれていた。こんなやり方は14世紀まで続けられたが、17世紀になると、さらに「糖餅」

(5)婁子匡『新年風俗志』(1967、台湾商務印書館)による。

(6)『荊楚歳時記』12月8日の条の註、および『酉陽雑姐』巻14、竈神の条などによる。『荊楚歳時記』

の註にひく後漢の許慎の『五経異義』に承えているので、それによって夫人の存在は2世紀以来の説 ではないかと推測した。

(7)鈴木清一郎『台湾旧慣冠婚葬祭と年中行事』(1934、台湾日日新報社)p、465〜466参照。

(8)『荊楚歳時記』12月8日の条による。

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(9)

などの飴を供えるようになった。これまた、竈神の口を飴でねばらせて、悪事を告げさせまい とする楽い、悪だく承であるが、その名残りが現在の台湾や東南アジア各地で片糖などの甘い 菓子を供えることだろう。祀るのは、前5世紀ごろは女性だったが、前2世紀以後は男性とな

った。現在では、男性、女性、一家全員の3通りがあるようだ。

竈神の信仰は、6世紀前後に道教に取入れられたけれども、現行の道教経典で説くところ は、一般の信仰とはやや距りがある。ただ、『太上感応篇』その他の勧善書のなかには、しき りに電神を粗末にしないように記されている。これは、一種の社会道徳、もしくは炊事場内で の作法を教えたものというべきだろうが、その点をつよく感じさせるのは、竈前のタブーであ

る。

『抱朴子』巻6には、竈に跨がることが禁じてある。従って、竜への不敬はその以前、すな わち4世紀初頭以前から説かれていたに相違ないが、具体的なことはわからない。11世紀初期 には、女性が竜上に腰をかけること、竈前の悪口や雑言が一般に禁ぜられていたらしい。それ が17世紀以降には、薑をたたくこと、汚い衣服をおくこと、電前での突泣・雑言・用便・裸

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体や女性が股を開いて薪をくくることなど全30条に上るタブーが説かれている。これらは今 日でもかなり忠実に伝えられている。なお、竈神の御利益は長生、金儲け、子孫繁昌などが古 くからいわれていたが、のちには健康、長生、繁栄が強調されるようになって、今日に及んで

いる。

今日では、前に一言したように、炊事場に竈神を祀らず、いわゆる「神相図」のなかに画か れている関係上、正庁で他の神々とともに祀るようになって、信仰は以前に比べれば衰えたと はいうものの、いまだに主婦たちは毎日朝晩または毎月朔望に線香をたてて拝み、できる限り タブーを犯さないように努めているから、まだまだ生きているといって差し支えない。ただ、

上天の観念は少々薄れ、なかには、上天するのは承たことがないから本当かどうかわからない などという人もいた。

(11)

つぎに、沖縄県地方の電神信仰に移ろう。

沖縄県地方の電神信仰は、御嶽信仰とともに同地方の代表的な信仰とされているが、私の承 るところでは中国色が濃いのに拘らず、中国との比較研究はほとんど手がつけられていない。

従って、未解明な点が多い。中国の電神信仰が県下に伝えられた時期も、その一例である。従 来は、一般にいわゆる「三十六姓」が費したと説かれているけれども、私はその以前からの中 国との関係から推して、その渡来以前だったと臆測している。とはいえ、その時期ば特定でき ない。一方、県下には県下なりの火もしくは竈に対する信仰や神聖視があったに相違ないか

(9)『燕京歳時記』12月祭竈の条参照。そこには宮中では黄羊を、民間では南糖、関東糖、糖餅その他 を供えると記されている。

⑩『敬竈全書』、『増訂敬竈全書』などの「竈上避忌」の項参照。

⑪沖縄県地方では、文献資料が中国に比して著しく少ない関係から、竈神信仰の歴史的変遷を中国とほ

ぼ同様に考察することは不可能に近い。そこで、以下紹介するところは、私のこれまでの調査結果が

主となっている。御諒承をえたい。

(5)

− 7 7 −

ら、県下の竃神信仰は固有の火や竈に対する信仰と中国の竈神との複合信仰としてみなければ ならないと考える。

竈神の名称は、地方によって実にさまざまによばれている。そのすべてをここに紹介するわ けにはいかないが、3個の自然石をA型においた県下での竈の古形からきたと思われるウ(オ)

ミチ(ツ)ム(モ)ン系、竈からきたらしいウ(オ)カマ系、火の神に起源するブイ(ピ・上)ヌ(ナ)

カン系の3つに大きくわけることができる。このほか、ダヌカン(与那国町)、ヤヌカム(多良 間村)というよび名もある。よび名で注意することは、与那国町と多良間村とを除いて、一地 区としてのまとまった名称のない点である。これは、信仰に偏りのないあらわれと考える。

電神の神体は、古くは3個の石を曲型においた原初的電そのものであり、いわゆる大和お竜 が知られてからは、竈後またはその周辺近くにおいた3個の小石か泥を丸めたものとなった。

この点は、美男子の姿かも定福(司命)章君と記した字牌を神体とする中国と相違する。今日 では、 香炉の象をおく場合がふえつつある。神体の3小石は、従来は海や川からとると説かれ ていたがも実際は海、山川、野原、田、屋敷内などさまざまで、なかにはどこでもよいなど という地区さえあった。電神の神体もしくはシンボルを3小石とした関係からだろうが、竜神 は3人と考えるところが少なくない。もちろん、1人または不明という場所もあるが、中国の ように夫婦2人と考えているところはまったくない。性別については、女性が祀ることからの 連想で、女神と考えられているところが多いが、男または男らしいというところも少なくな い。なかには3人のうち1人は男性で、残りの2人は女性とのべた人もいたが、根拠は不明で ある。:多くの人々は性別はわからないといったが、これが実情だと思われる。ただ、与那国町

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租納で、竈神を男性とする民話を2つ聞かされたが、もしこの民話が古いころからの伝えだと すると、県下の竈神も以前は男神とされていたのが、のち女神視されるように変ったとしなけ れ ば な ら な く な る 。 ;

姓名については、大半の人々は知らないけれども、久米島や石垣市で後方の石をウブンガナ シも向って右をアハァリンガナシも向って左をヨーテンガナシといった場合や、石垣市川平の 7戸の旧家と分家とでは、家ごとに竈神の名が異なり、しかもそれぞれの家の始祖とされてい

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る場合もあった。今後十分検討する余地があろう。誕生日については、まったく意識されて いない。中国との相違点のひとつである。

:これに対して、中国の影響の大きなことを物語るのは、ゞ私の調べた全体の約80%が竈神は 上天するといい、知らない、不明が約15%も残りが上天しないとのべたことである。そうし て、ごくわずかの例外的な場合を除いて、大半の人々が、揚子江以南の地方と同じく旧12月24 日に上天するとのべた。池間島では、台湾とほぼ同様に、全部の神が旧12月24日か25日に

⑫それは、賛沢な夫が妻を離縁したのち、落ちぶれて、いまは裕福かつ幸福に暮している曾っての妻と 再会した。妻はすぐわかったが、夫はわからないので、妻が親切にした上で、実を告げると、夫はび っくりして死ぬ。妻は死体の処置に困って竈下に埋めて祈る。それをゑた人'々が、神を祀っていると 思って真似をするようになったという筋の話だが、除渓「客家掌故吐君的由来」(「台湾風土」、1967, 2月)の内容と酷似している。

⑬:註1同書p、547以下参照。

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上天し、旧1月7日に下天するとのべたが、台湾とまったく無関係といってよいだろうか。な お、上天するのは3神中の1人か2人で、他は留守番するとのべたところがあるが、これば、

中国と県下との両信仰の習合したあらわれではないだろうか。上天の目的については、まれに 神の集会・家庭内の不和・主婦の言動の報告などといった人,々もあるが、中国同様、一家の人 々の善悪の報告にいくためとのべた場合が圧倒的に多い。下天日についてはさまざまにいわれ ているが、そのうちでは旧1月4日とのべたところが一番多い。福建省方面の影響のつよいこ とを物語っていよう。なお、ごく一部だが、台湾同様、煤のなかに悪事が入っているとして、

まず台所の煤払いをしたのちに、電神を祀るところがある。悪事を天神に報告されない予防手 段である。

上天日には、煤のなかに悪事が入っているなどといわないところでも、まず煤払いをしてか ら供物を供える。供える場所は、竜神を祭ってある前である。供物は雑多で、一口にはまとめ られないが、豪勢な場合から質素な場合まである。ついで線香をたてる。これまで、那覇では 7回たてるといわれていたが、実は必ずしもそうではな、、。本数も雑多なので、説明ははぶ く。拝む人は、一家の年長の女性の場合が圧倒的に多いが、男性か主人の場合や、祭祀日によ って性別を異にするところもある。祈願内容は、一年間の加護の感謝と翌年の守護の願いだ が、いまでも、以前の中国同様に、"悪事を告げないでくれなどと祈るところが意外に多い。

下天日は、大晦日、元旦、2日以降など、さまざまだが、2日以降といいながら、元旦に竈 神を祀るところがある。おそらく、中国の竈神上天説を知らなかったころの県下本来の信仰の 名残りのように考えられる。下天日の祭祀の順は、上天日とほぼ同様ながら、線香の本数や供 物の量に多寡の相違のあるところもある。願う内容は、その1年間の加護である。なお、主に 八重山方面のことだが、当日の早朝、他人の踏まない波打際の砂と海水とを、波のくる度毎に 各1回、計7回とり、海水で神体を浄め、電前やその周囲に砂をまき、残った砂を竜前に盛っ

て線香をたてて祀るところがある。

竈神はなお、毎月朔望をはじめさまざまな日に定期的に祀る他、結婚、出産、死亡その他の 折に、その報告をする。子供の命名も電前で行われる。従って竃神は、中国同様、一家の守り 神、管理者、中国的にいえば「一家の主」といってよさそうである。現に、与那国町のダヌカ ン(家の神)、多良間村のヤヌカム(家の神)は、文字通りそう承ている例となろう。けれど も、その一方で、上記のような場合に先祖しか拝まないところもあれば、嫁が実家の電神に報 告しないところもある。分家の際も、竈の灰をもつところともたないところがある。さらに、

主人か主婦が死ぬと竈の3石を換えたところと換えないところがあるというように、実にさま ざまである。なお、県下一般に、旧1月4日に竈神にたてた願を旧12月24日に解く、オガン ブトチとよばれる行事が広く行われている。本来ならば、元旦と大晦日に行うべきだと思われ るが、上記の2日にそれぞれ行うことは、中国の送電、接竜の影響ではないかと考えられてな らない。いかがであろうか。

多くの人々は、富神を幸福・農作・健康を授け、邪悪・災難・病気をよける一方、なんでも

天神に告げる神と考えている。そのために多くのタブーが説かれているが、それは中国のもの

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−−79一二

と酷似している。主婦の竈前における叱言、不平・不満、悪口・陰口、夫婦喧嘩、怒り、泣く こと、汚れた物を竈上におくこと、火かぎ棒で竈をつくこと、竈に足をかけること、股をひら いて薪をくくることや、竃の周辺を不潔にしておくこと、その他が禁ぜられている。

このような篭神の信仰を流布させたのは、中国からの移住者の子孫である「唐栄人」、"その 習俗を見習った首里の士族などの他に、いわゆるユタ的職能者があったのではないかと思われ る。竈神の信仰との結びつきが、いまなおかなり密接なためである。この点は、今後の研究課 題と考えている。なお、竈神は各家の炊事場に安置されるのがふつうだが、それ'らへ外に地頭フ ィヌカン、村フネヌカン、ヌルフィヌカンなどとよばれ、個人の家とは関係のない竜神があ る。これは、第二尚氏がその支配と権威とを各地に浸透させるための手段として電神信仰を利 用しようとした結果であり、本来の竃神信仰とは別に扱うべきだと考えるので、ここでは省略 する。

3.徳之島の竈神信仰

前に注意したように、沖縄県地方においても文献資料に乏しい嫌いがあるが、さらに一層文 献資料に欠けているのが奄美地方である。その上、たとえば『南島雑話』のように、19世紀 以降に奄美地方を訪れた人の看察記録にしても、同地方の竜神信仰にはほとんどふれていな

(14)

い。まして、徳之島地方のそれについての文献資料は、私の知るかぎり、皆無である。従っ て、本稿でば沖縄県地方の場合と同様、私の調べた範囲内での現状報告が主とならざるをえ ない。ただ、現状から遡って考えて、徳之島地方においても、火およびその火をたく場所とし ての竈や竈がしつらえてあるところなどを神聖視し、そこにある神性を認めて、、たことだけは 事実のように思われる。そうして、その原初的な亀は、沖縄県地方と同じく、.9.型におかれた

3石であったに相違ない。

( 1 ) 名 称 と 位 置

沖縄県地方の竈神の名称は、前述のように、ウ(オ)ミチ(ツ)ム(モ)ン以下3つの系統 に大別され、しかもそれらの名称には地域的な偏りはみられない。それに対して、奄美地方で

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は実にさまざまによばれているが、徳之島地方においても同一傾向で、つぎのように統一性が 認められない。

○ オ カ マ ガ ナ シ 徳 之 島 町 金 見 ・ 徳 和 瀬 、 伊 仙 町 崎 原 ・ 面 縄 、 天 城 町 当 部 ・ 浅 間

⑭たとえば、同書Ⅱ、「ユタ之事」の条に、「火の神の祭りとて、五月、ユタを竈毎に呼て地炉の神を祭 るなり」(名越左源太『南島雑話』、平凡社東洋文庫本、第1冊p.137)と記されている程度にすぎな い。なお、同書(東洋文庫本、第2冊p.132)には喜界島の冬折目(ふゆん承)について、単に「十一 月、折目神祭り」と記すだけで、竈神については一言もふれていない。

⑮その具体的な名称については、拙著『道教入門』(1983、南斗書房)p.252〜3参照。それ以前にも、

たとえば『中国文化と南島』その他のなかでも表示したが、それらは資料が古い。『道教入門』の資

料は1981年9月現在である。

(8)

− − 帥 一

○ウカマガナシ ウ カ マ ガ ナ シ ーガス脇の茶碗一

徳之島町山・井之川・徳和瀬、

○ヒノカミ

山・井之川・徳和瀬、伊仙町喜念、天城町松原

○ヒノカミ 伊仙町八重竿・御前堂・

伊仙・馬根・中山・阿権、

天城町西阿木名

○ヒノカミサマ 伊仙町伊仙。面縄・喜念。

馬根、天城町与名間

○ ヒ ノ カ ミ ガ ナ シ 伊仙町馬根・中山・犬田布、

天城町西阿木名

○ ヒ ノ カ ミ サ マ ガ ナ シ 天 城 町 与 名 間 O ヒ ヌ カ ン ガ ナ シ 伊仙町御前堂

○ ジ ル ン カ ミ 天 城 町 天 城

○ジルノカミ 伊仙町阿権

○マチガナシ 徳之島町徳和瀬

○マーツノカミ 天城町浅間・与名間、西阿

( 徳 之 島 町 井 之 川 ) ( ' 6 )

(16)

木名 以上の名称について、いささか気のついた点を説明しておきたい。

これらの名称は、ウ(オ)カマガナシ系、ヒノカミ系、ジルノカミ系、およびマーツガナシ 系の4つにわけられる。前著で発表した通り、奄美地方の竈神の名称は実に雑多で、不統一で ある。喜界町のごとく、シマごと、もしくはシマの内部でさえ人によって名称がちがう場合が ある反面、沖永良部島のように、全島ウワーマガナシで統一されている場合もあるという工合 である。そのようななかで徳之島をみると、丁度その中間のように思われる。そうして、行政 区と名称の別とは無関係である。ウカマ系は徳之島町が中心だが、他の2町の1部にまたがっ ている。ヒノカミ系とジルノカミ系は、いままでのところ伊仙・天城両町にしか見いだされな いが、マーツ系は、かつて山で今回の話者が告げたことがあったから、これまた3町に通じて よばれているとしなければならない。このように同じ島内なのに、名称がわかれる原因は、他 の奄美地方を含めて、いまなおつかめずにいる。もし、おわかりの方があったならば、ぜひそ の理由を教えていただきた↓、。私は、一時、このような相違の原因を通婚圏とからみ合せて考 えてみたことがあったが、そんな簡単なことではなさそうである。

これらの名称を他の奄美地方のそれと比べて承ると、ウカマ系と同一のよび方はどこにも見 当らない。しいていえば沖永良部島のウワーマガナシであろうが、多少の違和感がある。私は むしろ沖縄県地方との一致に注目する。伝えはないけれども、沖永良部島には沖縄県地方のマ ーラン船が薩摩藩の支配下に属するようになってからも、しばしば入港していたということか ら推して、徳之島にもマーラン船やヤンバル船などが入港していたのではないかと思われる。

⑯以下、本文で地名をあげる場合には、煩をさけて、シマ名を記すだけに止める。御諒承をお願いした

い。

(9)

− 8 1 −

もしそうだとすれば、それらの交渉を通じて、沖縄県地方でいうウカマ系の名称が知られ、

↓、まに残って↓、るのではないかというわけである。大方の示教をえたい。ヒノカミ系の名 称 は、私の調べた範囲内では、奄美大島の竜郷町嘉渡や与論町の一部のそれと一致する。けれど も、徳之島を含めて、奄美地方全体として、電神と火神とを明確にわける意識に乏しく、むし ろ電神と火神とを同一視し、あるいは竈神に火神としての性格を認めようとする傾向がつよい から、調べ方によっては私の場合とはちがう結果のでることが十分に予想されるO:なかには、

沖縄県地方同様、竈神と火神とはちがうと明言した人々もないではなかったがく金見、西阿木 名、与名間)、ややもすると両者の区別が暖昧な場合が多く、話がすぐ火の玉や防火の方法に 移ったためである。

奄美地方では、周知のように、火をマチ・マチガナシ・マーチ・マツ・マーツなどという。

従って、竈神をマチガナシ・マーツノカミとよぶのは、竈神即火神と考えているよい証拠とな る。この点は、徳之島だけに限らず、奄美全体の竈神信仰を扱う場合に十分留意しなければな らないところであろう。マーツ系の名称は、竜郷町秋名と一致する。ジルノカミ系の名称は、

笠利町用、竜郷町浦、名瀬市幸町・根瀬部、住用村石原・山間などの大島の一部と一致する が、ジルとは竈がおいてある場所の謂だから、竈神の名称としてはいささか異質である。そこ で、これについてはジルの性 ジ ル の 模 型

質とともに考えてみたい。な お、以上の名称が遠く離れた 地区と一致する理由について は、いまのところ私は自分を 納得させるに足る解釈のつか ないことを附言しておく。

ジ ル ま た は ジ ロ は 、 一 般 に イロリと解釈されている。け れども、実際に説明をきき、

模型をゑると、、内地の常識で

( 伊 仙 町 立 歴 史 民 俗 資 料 館 ) ( ' 7 ) い う イ ロ リ で は な い 6 − 部 の 人々にとっては常識かもしれないが、念のために一言説明しておく。

徳之島では、3町を通じてジロ(地炉)をジルとよんでいる。ジルは、大きな家ではウンヤ ー(母屋)のシルベ(奥の間)とトーグラ(炊事場兼家族の居間)のシルベに各1宛おかれた が、一般の家ではひとつしかなかった。ジルは、家によって異なるが、大きくて6尺角、ふつ うは3尺角の広さであった。従って、八重竿には「3尺ジル」ということばが残っている。尤

(18)

も、まれに4尺×6尺、3尺×3尺5寸の場合もあったようである。ジルには、犬・中・小 の3竜か、大・小の2竈の他に、自在かぎがおかれるのが一般的だった。これらの竈のうち

⑰ジルの模型は、伊仙町立の歴史民俗資料館で承ることができた。

⑱メートル法では少々都合が悪いので、ここでは敢えて尺貫法によった。

(10)

− 8 2 −

大電では芋や飯、汁などをつくり、小電では茶などを沸かしたが、特に芋を煮る舅を別に戸外 や別棟にしつらえる場合もあった。なかには、竈全体をジルという(松原)、竈をジルともい う(天城)、イロリと竈を併せてジルという(伊仙)、ジルはイロリのこと(金見)などとい った人々もいたけれども、竈のあるところをジルという(金見)、ジルはイロリではない(御 前堂)、ジルをイロリとはいわない、ユルイということばもない(徳之島町神之嶺)、竜とジル はちがう、竈をジルとはいわない(伊仙)などと、、うことばに照らせば、ジル即イロリとみる のは速断にすぎるであろう。内地では、イロリに竃をおくところはないからである。なお、私 の故郷のイロリには灰が敷かれていたけれども、徳之島できいた範囲では、下に石を敷き、そ の上に海岸からとってきた砂をおいたということだから、この点からもジロをイロリと同一視

することはできない。

さらに、ジル全体が火の神だから、ジルは神聖なところ(馬根)、ジルは神聖な場所(当部)、

聖なるところ(松原)、ジルは汚してはいけない(金見)などと、とにかくジルを神聖な場所 視する傾向が3町を通じて承られるから、この点からもイロリとはちがうといわなければなら ない。のちにのべるように、2,3のところではジルに唾をはくことを禁じている。もちろん、

私の田舎でもそんなことは誰もしなかったが、そこを神聖視する観念は薄く、野良から帰って くると、イロリに足をかざして暖をとった。徳之島では、そんな態度は厳禁されている。けれ ども、ジルはイロリの用もするといったところ(金見)もあれば、用が済むと竃を片付けて、

ジルの真中で火をたいて皆であたった(浅間)ところもあるから、一面イロリとしての効用も果 していたことは否めない。神之嶺在住の前田長英は、いゑじくもジルはイロリ的なものだとの

(19)

べたが、けだし適切な表現であろう。とにかく私は、この機会にジル即イロリではな、、という ことを強調しておきたい。と同時に、このような性格のジルに竈をおき、そこに神が↓、るとす る考えは、沖縄県地方との大きな相違のひとつだと思っている.

( 2 ) よ り し ろ

沖縄県地方の竈神α神体もしくはよりしろは、古くは&・型の原初的竈そのもの、ついで大和 お竜になると竈後などにおいた3小石か泥を丸めたもの、最近は香炉という変遷を辿っている ことは前述した。徳之島では、大体は同じ変遷だが竜いささかの相違がある。

徳之島では、現在、与名間と浅間とを除いたすべての調査地で、火吹竹か盃あるいは茶碗の 糸底で竈の焚口にシルシをつける習俗がある。その場合、大竈か小竈だけ、戸外の竈まですべ て、ジルに造られた竃のゑ、焚口の両端あるいは片方のみなどの相違があるが、煩わしいので くわしい説明ははぶく。また、そのシルシにしても、。。b型と・6.型とがあり、場所によっては、

・6・は見なれているから悪魔が恐がらないから、.q・とするなどというところもあれば(神之嶺)

・・・は神の顔だから。?。ではないなどというところもあるが(上面縄)、これまたくわしい紹介は 省略する。いづれにしても、このシルシはカマンツラとよばれ、神のシンボルと考えられて

⑲直接私に話されたことである。記して、感謝の意をあらわす。

(11)

− 8 3 −

いる場合が大へん多い。従って、毎朝の拝みや祀りの際などには、そこに茶の初をかけ、供 物を供える。けれども、なぜ3個のシルシをつけるのか、意味を知らない場合が多い。私は、

品型の原初的な竃からいわゆる竈を造るように変った際に、以前竈その物を神としていた考え から、その竜神の宿っている場所を示すために、原初的竈の形を印したのではないかと臆測す る。そして、大和式の竈となってからも、従前同様竈その物を神とゑる考えには変化はなから

カマンツラ:: たにちがいない。そのことは、

山と崎原とで、シルンをつけな がらも、大竈そのも:のが電神の 神体だとのべたところから確め られるであろう。馬根のある人 は、カマンツラを刻しつつも、

ジル全体が神体だとのべたが、

これは神のいる場所すべてを神 聖視した結果と思われる。

従来、私は徳之島では、沖縄 県地方のように3個の小石もし

(徳之島町中央公民館)

くは士を固めたものを竈神のシ ンボルもしくはよりしろとする例に、ほとんど出合わなかったので、そのことを徳之島地方と 沖縄県地方の相違点のひとつと考えていた。ところが、今回の調査で然らざることを知ったの で、ここでややくわしく説明しておきたい。

3個の小石を竈神のよりしろとするのは、金見・徳和瀬、喜念および浅間・与名間、3個の

(20)

泥を固めたものをそれとするのは、喜念と当部である。金見では、人の踏まない海岸から、

吉日に主人が拾ってきて、ジルの大電の向って右に一列にならべる。旧の毎月朔望には海水と 砂をとり、海水で石を洗い、周囲に砂をまくけれども、石を3個おく理由は忘れられている。

徳和瀬では、カマンツラの前に一列にならべるが、主人は海から拾うといい、主婦は実家の祖 母が士を焼いて造ったとのべたから、石製と土製の双方の場合があったらしい。ならべるとは いいながら、金見とはちがって、土製の台の上に。。b型におく。そうして、これこそがウカマガ ナシだという。以前は、主婦が死ぬと、ウカマガナシは取換え、竈もこわしたが、いまはこわ さない点は、馬根と共通している。ただし、馬根では主人が死んだ場合であり、材料は土、個 数は1個である。

喜念では、石と土との双方があるが、まず石の方から説明しよう。石は主人が海岸からとっ てきて、竃脇のやわらかな土に差込むが、これがウカマガナシであり、毎朝茶をかけて、よい ことのあるようにしてほしいと祈る。石の高さは約7センチである。現在では、盆様のものの 上にのせてガスコンロの斜め後方においてあるが、盆のなかは毎朝かける茶で一杯になってい

例喜念での又聞だが、伊仙町目手久でも士を丸めたものを造り、それをネンマンという由である。

(12)

− 8 4 −

ウ カ マ ガ ナ シ ー鍋の脇のもの−

た。ここでは徳和瀬とちがって 主人などが死んでも取換えな い。一方、土製の場合は、竃 を造った土で団子状の3個を造 り、同じく土製の皿様のものの 上にのせて、ジルの電後におい てウカマガナシとする。造るの ば主婦である。当部の場合は、

話者の年齢が若かったので、高 さ約15センチ、直径約10セン

( 伊 仙 町 喜 念 ) チ の 土 製 の も の を ジ ル の 左 端 に おき、なにかの場合に移動したことしか覚えていなかったため、くわい、ことば不明である。

浅間では、3個の石を川に拾いにいくのは他とちがって主婦で、しかも片手で3個を同時に まとめて拾わなければならないという条件がある。従って、直径1〜2センチの小石である。

2個または4個ではいけないが、その理由は不明である。持ち帰ってジルの一隅にA型にお き、オカマガナシとした。毎朝茶を供える際には、老婆がその中央にそそぎも家族に災害のな いよう、火事の起らないように祈ったという。死者のでた際のことは、話者が未経験のためわ からなかった。与名間でも、川から3石をとって、竈の脇におき、ヒノカミサマとした。ここ では。P・型におく理由はわからなかったが、家族が死んでも石は換えなかった。石の大きさは、:

大体2〜3センチである。しかも面白いことには、浅間と与名間とでは、前述のように竈に カマンツラはつけず、カマンツラなどということばはきいたことがないということだった。し かも、浅間では竈を拝むことすらしない。このことと前述の竈にシルシをつけることとを考え 合せて私は、徳之島地方では、竈神のよりしろは、原初的竈から3個の石か土製のものとな り、そオ'が衰えるとカマンツラを刻むように変って今日にいたっているのではないかと考える が、いかがであろうか。つぎにのべるネンマンは、その間の推移を示唆しているもののように 思われる。

もっぱら私の粗漏のためだろうけれども、これまで徳之島以外ではネンマンということばは きかなかった。あるいは、徳之島とくに伊仙町方面の特有語ではないかと考えているが、もし 他町、他島でも同様のことばがあるならばぜひ教えていただきたい。元来ネンマン、ネィンマ

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ン、もしくはネィリヤンマソとは、あまり大きくなれそうもない小さな子、またはずんぐり むっくりしたものなどを指す、あまりよくないことばだといわれているが、伊仙、佐弁、御前 堂、喜念、馬根、中山、犬田布などでは、このことばで竈神のシンボルをよぶのである。ただ

し、シマによって多少の相違があるが、土製の点はゑな同じである。

㈱伊仙町伊仙在住の義憲和によれば、ネンマンはネィリヤンマンと発音するのだが正しいそうである。

記 し て 、 そ の 示 教 を 感 謝 す る 。 ー

(13)

−:鮪一一

喜念と馬根の一部とでは、同型の竈の向って左の部分を独立させ、かける鍋の大小に従って 移動するように造ったが、それをネンマンとよぶ。それは、高さ約15センチ、幅25センチぐ らいで、毎朝の茶はそこに向って供える。一方、他の馬根の人々は、ひとつでもネンマンとい うが、それが3個揃って.9.型におかれると、、ネンマンができた、もしくはネンマンになったと いうとか、1個でも3個でもよいなどという。それらはすべて竈を造る際にその土で同時に造 り、多くは竜後におく。造るのは主人である。大きさはさまざまだが、大体10センチぐらい の高さである。佐弁では、ネンマンをとくにカマ人形とよんでいる。数は3個、毎朝茶を供え

w

る。御前堂では、ジルのあったころに主人か大工が造ったが、数は1個で、高さ約15センチ、

直径約10センチだったという。しかも、茶はかけなかった。いまでは、香炉となっているた めに、50歳代の人々にはわからない。この点は各シマに共通している。

伊仙のある老婆によると、ジルの自在かぎの脇に高さ約6〜7センチの円錐形のネンマン1 個をおき、供物などはその前に供えた。』これは約70年前まであったが、・ない家もあった。主 人や主婦が死んでも造り換えなかったが、ネンマンを造らなくなってから、しだ↓、にカマンツ

ラを刻むようになったので、茶を朝供える場合も、ネンマンがあればネンマンに、ないときに はカマンツラにそそいだ。そうして、火事があった際には、まずネンマンを持ちだしたという

ことだった。別人によれば、ネンマンが竈神の神体で、家の根元にすわつていて、家の運命を 司る神である。高さが低くて、ずんぐりしているのでネンマンという由である。中山では、丸 い土製の団子を造ってジルの一隅におき、ネンマンとよんでいたが、拝象もせず、茶もかけな かった。茶はカマンツラにかけるだけだったと告げられた。そこで、前に推測したように、ネ ンマンも3個の小石と同一性格のものであったが、それが高さが低くて、団子に近かったので、

俗称としてよんでいたのが、いつしかそのよび名となってしまったのでほないかと考える。

以上のべたところによって、徳之島にも沖縄県地方と同様な3小石またはその代りの土製の ものをおく時期のあった由が明確になった。このことが、沖縄県地方と同様の意識のもとに行 われていたか否かを究めるのは、今後の一課題であろう。

( 3 ) 神 名 な ど

徳之島では、沖縄県地方とはちがって、電神の名を知っている人はひとりもいなかった。神

数については、伊仙、中山、西阿木名で 柱、八重竿で3柱と答えた他は、すべて知らなかっ

た。3柱と答えた八重竿の人は、神道的影響をつよくうけていたから、三宝荒神との関係を考

慮すべきだろう。 柱といった場合も、はっきりした根拠があるわけではないようである。神

の性別については、徳和瀬、馬根、中山面縄、阿権、与名間で女神、当部で女神らしいとの

べた以外は、すべて不明であった。与名間では、女性が拝むから竈神は女神だとのべたが、他

のシマでもほぼ同様の理由によることと思われる。面縄と阿権とでは、冗談に妻女を火の神と

いうことがある。阿権では家の火の神がおこるからなどとふざけていうことがあるが、面縄で

も同様だという。そうして、その話者は、むかし軍隊を除隊になったとき、2,3の友人たちと

飲もうとしたところ、鹿児島の男だけは、自分は火の神にたたられるからといって、ひとり先

(14)

− 8 6 −

に帰ったといい副えた。すると、鹿児島でもこのようにいうのだから、徳之島で同様にいうの は、鹿児島と無関係ではないのかもしれないと思われる。また、竜神の誕生日をのべた人はひ

とりもいなかった。

前述のように、沖縄県地方では、多くの人々が中国的電神上天説を承知していた。ところ が、徳之島では山の話者のひとりを除いて、ひとりとして竈神が上天するなどとは知らなかっ た。しかも、山のひとりにしても、旧12月に上天するときいたことがあるというだけであっ て、具体的な点はわからない。従って、私の調査した範囲内においては、徳之島では竈神上天 説はまったく知られていないといって大過ないように思っている。

従って徳之島には、沖縄県地方と異なり、特定の電神祭祀日はない。このことは、調査中に 各シマでしばしばきかざれた。

上 ユ カ ミ

ー竃脇においた香炉− けれども、外出時しか拝まない

与名間を除いて、すべてのシマ で毎朝拝むと教えられたが、当 部だけはやや明瞭を欠く。その 他のシマでは、その際茶、茶と 水、茶と水と飯、酒があれば酒 も供えるなど、供物に多少の相 違がある。また、供えるシマと そそく・シマとがあるが、くわし

い指摘は煩をさけてはぶく。そ

(伊仙町御前堂) の他、つぎのような日に拝むシ

マがある。

○朔望金見海岸からとってきた砂をまき、海水で3石を洗う。

御 前 堂 塩 を 供 う 。 西 阿 木 名 線 香 を 供 う 。

神之嶺潮でぬれている砂をささげる。

また、御前堂の別の家では、毎月の朔望と28日に酒を供え、西阿木名では元旦に、御前堂 のさらに別の家では大晦日と元旦に飯や茶を供えて、それぞれ拝むが、浅間では大晦日に海岸 からとってきた砂で周囲を浄める。崎原では正月のミズノエの日に祀るが、これは火の用心と 関係があり、竈神を火神視するあらわれであろう。当部でも正月に祀わたという。浅間ではア ブシバレー(虫払い)や旧9月9日、十五夜や二十三夜などにも拝むo拝む際に、線香をたて ないシマもあるが、たてるシマでも3本(金見)、1本(山、伊仙)、2本(御前堂、馬根、面 縄、阿権、西阿木名)などの別がある。なかには、1本線香は凶事のときといった伝えもある が(金見)、限られた地区だけのことらしい。

徳之島では、いまなお月待がかなりさかんらしいが、多くのシマでは月待の際にあわせて竜

(15)

− 8 7 −

神を拝む習俗がある。月待には十三夜から二十八夜まであるが、たとえば二十八夜の月は酉年 の人が拝むというように、個人個人によって拝む日がちがうとされている。金見、西阿木名で は、それがはっきり守られているが、山、御前堂馬根、中山、面縄では正・五。九月の二十 三夜だけという。さらに佐弁、犬田布、伊仙、阿権、喜念では、私のきき方が悪かったのか、

単に二十三夜に祀るといっただけだった。これらのシマでは、新い、砂で周囲をきよめ、酒、

洗米、団子などを供え、月を拝んだのちに竈神を拝むとされている。このように、月待と密接 な関係がある理由は不明ながら、他ではあまり耳にしなかったから、徳之島の特徴ではないか と思われる。とにかく、竈神だけの特定祭祀日はない。

これらの電神の祭祀には、主人はほとんど関係せず、もっぱら女性が拝むが、竈神は女性が 祀らなければならないものとされているとのべた老婆もいた(伊仙)。女性とはいい条、主婦 とのべたのは伊仙と御前堂のみで、他はすべて老婆か主婦とされている。奄美地方でもたとえ ば瀬戸内町や沖永良部・与論両島のように、ボユタ的職能者と竈神信仰とが密接に結びついてい るところもあるが、徳之島では両者の結びつきはきわめて薄いようである。私は、前回伊仙町 上面縄で、安全を祈るときにはモノツリを頼むときかされただけだった。≦,

老婆などが竈神を拝む場合には、つぎのようにいうb

( 2 2 ) 、

○ か ほ ど と あ ら し た ぼ れ ( よ い こ と の あ る よ う に し て 下 さ い ) { 金 見

○家内安全と火事の起きないよう守って下さい 伊 仙

ヒ ノ カ ミ ガ ナ シ

伊 仙 町 中 山

(今 は 戸 棚 内 に 安 置 し て い る − )

○火のたたりをしないように守って下:i:

さ い 伊 仙

○ 家 内 安 全 を お 願 い し ま す 八 重 竿

○ 今 日 も か ほ ど と あ ら し た ぼ れ : 面 縄

○茶の初を差上げますから、よいこと の あ る よ う に し て 下 さ い 喜念

○火の用心を今日も宜しく願います馬根 馬根でこのように願うのは、:以前酔って鍋を ひつくり返えして、大火傷をした人がいたため だという。

○今日もいつものように首尾よくあら し た ぼ れ 馬 根

○毎日かほごとばかりあらしたぽれ中山

○ご先祖さまとともに、火事にならな いように家を守って下さい(外出の 際 ) 阿 権

倒私のきき方が悪かったために、以下言語表現が不統一となった。御諒承をえたい。

(16)

−,88−

{:なおも阿権のある女性は、毎朝は「火の神さま」というだけだが、ロにはださないけれど も、防火や災難のふりかからないように家を守って下さいと頼むとのべた。

○マツ(火)がおごりたかぶらない(火事にならない)ようにして下さい(外出の*

際 ) 与 名 間

O 災 害 の な い よ う 、 火 事 の 起 ら な い よ う に お 守 り 下 さ い 浅 間

O今日も一日中無事に過ごさせて下さい 西 阿 木 名

これらの拝象ことばによって竈神の性格は大体見当がつくだろうが、さらに;:

○ 家 を 守 る 神 御 前 堂 、 伊 仙

○ 家 族 を 守 る 神 八 重 竿 、 馬 根 、 中 山 、 与 名 間 、 浅 間 、 西 阿 木 名 O 一 家 の 守 り 神 当 部

○主婦の守り神 浅 間

○ 家 を 火 事 に し な い よ う に 守 る 神 与 名 間

○ 火 の 用 心 の 神 伊 仙 、 喜 念 、 当 部 というところと併せて考えれば、徳之島の人々は、竈神を家を守り、家や家族を繁栄させる上 に、火事を防ぐ神と考えているといえよう。防火を願い、治病を願わない(金見)点を除け ば、沖縄県地方と共通性がある。そこで、前述のように火の神の性格がつよいとのべたのであ る。なお、馬根の1老話者は、不幸のあったときには、夜、海や山の見える高い所にいき、昆 布、魚、団子、白米5勺を供え、「アートート、トート、海の神、山の神、屋敷の神、火の 神さま、よいことをあらしたぼれ」というと、幸福がくる;とのべたから、災難をはらって、幸 いを責らす神ともされているようである。

人々は竈神を上記のような性格の神と考えていたから、その前でのタブーはかなり多い。そ のなかには、各シマに共通するものが多いので、ここではシマ名ははぶいてタブーだけを羅列 しておく。電前の喧嘩、口論、子供の叱責、悪口(ヤナロ)、不平、文句とくに女性の文句、大 声、無礼な動作、叱言、竃前のあぐら(とくに女性)、怒り、3石を踏み、またぐこと(とく に女性)、竈前を汚し、きたなくするこぎと、ジルのふちに足をのせ、足をかけること、竃また は竈神に足を向けたり、足を向けてねること、きたない薪をくくること、火箸で竈をつくこ と、女性が火箸で地をつつきながら不平をいうこと、竈に水をかけること、女性が股をひらい て薪をくくること、女性が股を開いて電前にすわること、竈神を粗末にすること、ジルに唾を は:くことなどがあげられる。そうして、もし竈神を粗末にすると、天から火の玉が下ってきて 火事になる(馬根)、竈前で喧嘩や口論をしてはいけないので、女房への文句はウンヤーヘい ってからいった(山)、亀前で不平や文句をいうと不幸がくる(馬根)などという。従って、

これらのタブーの精神は、沖縄県地方同様、竈もしくはジルに神性を認め、その前での不浄・

不潔をさけて身を慎み、神に対して失礼に当らないように努めていたことになろう。

なお、分家の際に灰を持参するのは西阿木名だけであり、主人もしくは主婦が死んだ際に竃

をこわし(徳和瀬・井之川・徳之島町諸田))、ネンマンをつくりかえる(馬根)ところが

まことに少ないのは、沖縄県地方との相違点のひとつである。ただ後者について『徳之島町

(17)

。−鯛一一

誌』には、司祭者の女主人が 死ぬと、火の神の霊力が失せ た と し て 、 カ マ ド を 新 し く す る習慣が「かつて」あったと いう意味のことが記されてい るから、徳之島町では以前行

(23)

われていたのかもしれない。

唯一の行政区による区別の例 となろう。

上 ノ 力

一一一

(伊仙町伊仙)

4 . む す び

以上もまず中国、ついで沖縄県地方の電神信仰の概略を紹介したのちに、徳之島地方の竈神 信仰について、必要な限りこれまでに私の調べたところをも含めて、今回の調査結果を報告し た。まことに不十分な結果ではあるが、一応は同信仰について理解していただけた。ことと思 う。ただ、私としてはなお不十分な点が少なくないので、折をえて補足調査を行って、その点 を補完するつもりでいるけれども、ここに調査中に感じた、電神信仰における徳之島の位置づ

けをしてみたいと思う。

まず、沖縄県地方との類似点は、神のよりしろとして、3小石もしくはネンマンなどと通称 されている土製のものを造ったこと、およびタブーであろう。ネンマンなどを造ることは、従 来の調査ではあまりはっきりとでてこなかったために、従来の私は相違点のひとつとしてい た。ところが、今回の調査によって、そのことが明白になったので、いまでは私は以前にはこ の他にもなお沖縄県地方との共通点がかなりあったのではないかと推測するようになってい る。ただ、沖縄県地方にはネンマンということばはない。ずんぐりした人は、首里語では二一

(24)

マーラーという由だから、ネンマンは奄美地方のことばだと思われる。タブーについては、沖 縄県地方を通じて中国と結びつくものが多いので、その理由づけに戸惑っている。

つぎに相違点としては、竈をジルにつくること、中国的竜神上天説を知らないこと、竃にカ マンツラなどシルシを刻むこと、名称と性格の関係、月待との結びつき、神の性格などがあげ られよう。竜をジルに造ることの理由はよくわからないが、あるいは気温の関係からかとも思 われる。それにしても、ジル即イロリ説がまかり通っていることは、なんとしても承服しにく

倒長沢和俊監修『徳之島町誌』(1970、徳之島町役場)p.576による。ただし「かつて」全町を通じて このような習俗が行われていたか否かは、再検討の余地があろう。

渡名喜明の示教による。記して感謝の意をあらわす。

(18)

− 卯 一

い。『伊仙町誌』でさえ「ジル(いろり)"」と記しているのはいただけない。ジルと「いろ

(25)

り」とは別のものである。中国的電神上天説が知られていないのは、おそらく忘れられた結果 と臆測するが、いかがであろうか。カマンツラについては、本文中でのべた。

沖縄県地方でも、竜神をフィヌカン・ヒヌカンすなわち「火の神」とよぶことがある。けれ ども、性格はその名称に反して竈の神である。これに対して徳之島では、ヒノカミ。ウカマガ ナシといいながら、きわめて火の神的色彩が濃厚である。沖永良部島の和泊町瀬名できいた話 だが、同シマのユタは新築の竃まつりの際に、大電に薪3本をもやしつつ、「マチガナシ、マ チティオイシヤブラ(火の神さま、祀ってあげましょう)」といったという。このことから推 すと、薑神に火の神的色彩がつよいのは奄美地方共通のことかもしれない。私の知る範囲内で は、鹿児島でも電神はオカマサー・ヒノカンサーとよばれ、火災よけや火の用心のために祀る

場合が多い。2,3の例を紹介すると、鹿児島県姶良郡加治木町仮屋町や川辺郡知覧町東別府浮

辺では、竜神をオカマサーといい、防火の目的で拝む。揖宿郡頴娃町郡麓鳥越・山川町成川や 肝属郡根占町川北浜馬場・大根占町神川中部落・佐多町伊座敷上之園では、火の用心や火災よ

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けのためにヒノカンサーを拝む上に、トカラ列島の竃神は火の神的の由である。とすれば、徳 之島を含む奄美地方の電神信仰には、鹿児島の影響がかなりつよいとみて差支えあるまい。従 って、徳之島の竈神信仰は、現段階においては鹿児島・沖縄両県の橋渡し的な位置にあるとい うことができよう。そこで、どこまで沖縄県的要素が残存しているかをきわめることが、今後 の課題のように考えられる。

(1985.1.26稿)

〔附記〕今回の調査に際しては、現地の松山光秀、前田長英、町田進、義憲和、四本延宏、

徳富重成などの方々に御厄介になった上、種々示教に与った。また、各シマの話者の方々か らは、つねに積極的な協力をえた。ここに、心からお礼を申しあげる。

倒『伊仙町誌』(1978、伊仙町役場)p.494参照

㈱トカラ列島の竈神については、下野敏見の示教である。記して感謝の意をあらわす。

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