山田正亮 life and work
─ 制作ノートを中心に
中林和雄
山田正亮の作品群は終戦直後から今にいたる日本の状況の中、その評価も様々に変転し、生前の
2005
年府中市美術館で画期的な個展が開催されたものの、近年の絵画をめぐる受容環境の大きな変 化ともあいまってか論じられる機会がやや減じている様に思われる。しかしながら、50
年間にもわたっ て描き続けられ、約2,000
点ずつ残るタブローと紙作品1)は、重厚な成果として今日さらに大きな意味 を持つと思われる。それは一方では、海外発の流行や社会的な雰囲気の波に乗りつつその場その場を しのぐ傾向の強い日本の戦後美術の中にあって、頑ななまでの内向的求心性を堅持した稀有の体系と して貴重な重石となる存在であり、他方では、生み出され続けた一点一点の作品の密度、クールな外観 のうちから静かに、しかし生き生きと情動に働きかける力、つまりは単体の作品としての質の高さによっ ても際立っている。そして、複数作品の体系への凝集力と、一点一点の作品の観る者への訴求力、内向 と外向という理屈上両立しがたく思われるこれらふたつの力を相補的にそなえているというところが山 田正亮の仕事の特異な点なのである。筆者は
1991
年「山田正亮の絵画
複数について」と題した小論を本紀要第3
号に寄稿した。彼の作 品に対する筆者の基本的なとらえ方は今でもその当時と大きく変わるものではないが、一方で日本に おける絵画、とりわけ抽象絵画をめぐる環境はこの20
年で大きく変化したといわざるを得ない。この 変化の内実自体、これもまた日本にありがちな流行現象という側面も否めないのだが、必ずしもそれだ けとはいい切れないところもある。端的にいえば、抽象絵画、ないしいわゆるフォーマルな姿勢から探 究される絵画は、かつて日本で美術に関わる多くの人たちが信じていた様な絵画の普遍的な究極形態 ではなく、むしろそれどころか長い絵画の歴史からすれば、この100
年のみに限定された例外的な事 象とすらいい得るかもしれない、という問いをここにきてわたしたちは意識せざるを得なくなっている。山田正亮の
56
年から95
年にかけての作品群Work
の体系はこれまで自律的造形の徹底的な追究と いった面から語られることがほとんどであったが、今日にあっては、それを踏まえつつもより包括的な 立ち位置から視点の更新を試みなければならない。無反省な、もしくは楽天的なフォーマリズムはもは やその根拠とはならないのであり、いかにWork
を語り得るのか、改めて模索しなければならない。そ うすることによってこそ、この画家の作品群の特異なあり方の真価と時代性をさらに深く理解すること ができるだろう。それは最終的にはまた、抽象絵画という存在がいかに可能であり、またそれをいかに 見るべきかという古くて新しいテーマに改めてなんらかの手がかりを得るための探究の出発点ともなる だろう。制作ノート
山田正亮は
1949
年から72
年までにわたって、制作に関 する諸相を克明に記述したノートを残した(図1)。現在56
冊が確認されている。主としてB5
判の大学ノート、原稿用 紙、リングノートなどに書かれ、その日の制作の状況、例え ば「 25P
ウルトラマリン20P
グレー15P
ローアンバー」「 30F 2
3
時間 カーマイン オーカー・・・」という様に、何号のキャンバスを何点描き、どの絵具を用いたかといっ たメモ、そして制作の中でその時何が焦点であったかにつ いての記述が多くの部分を占めているが、時には日記の様 に、見に行った展覧会や読書の記録、自身の健康のこと、
私的な問題など様々な内容が盛り込まれている。特筆すべ
きは、制作中の作品を写したと思しい色鉛筆やインクなどによるかなり精巧なスケッチが、ノートの多く の紙面上でかなりの部分を占めていることである。このスケッチによってこれらのノートは詩画集の様な 視覚的存在感をも獲得している。画家の筆跡は時に判読も難しく、さらに独特な言い回しにより文意は 不明確な場合も少なくないが、これらのスケッチと並列ないし重層されることによりその一見晦渋な言 葉は意外なほど具体的な像を結び始める。ノートは通読することによって画家の制作現場の切実な実 状をかなりの程度追体験できる貴重な存在となっている。筆者は今回、これらのノートのかなりの部分 に目を通す機会を得、本稿は基本的にその経験を基点に構想されたものである。
もとより画家の言葉は示唆に富んでいる反面、そこに重きを置きすぎた場合、作品への判断に曇りを 生じさせるという懸念もあろう。とりわけ
「孤高の画家」
といわれ、内的世界に閉塞しがちだったこの作 家の場合、わたしたち第三者はそこに意識的でなければならないだろう。今後、記述の年代等について のより精密な考証も望まれる。一方で、20
歳そこそこの時から20
年間にもわたって綴られた画家の格 闘の記録として、これらのノートが重要であることはやはり疑い得ない。そこにいるのは、制作の場で絵 画から開示される色と形の独自な秩序のあり方について、言葉のもどかしさに耐えつつも書きとめよう とする画家である。それは、絵画と人生をリンクさせることのないフォーマリスト山田正亮という既存の イメージを一方で強めるのだが、他方では、その息を詰める様な記述の連なりからは、逆に絵画と人生 は実は切り離しようがなく、フォーマリズムの深奥には結局人間が潜んでいるのだという当然の事実を も納得させる力がある。ノートの記述は時に手紙の様に誰かに語りかける文体をとるが、それが実際の手紙の草稿であるとは 考えにくい場合が多い。つまりノートは備忘録という以上に、孤独な画家の伴侶であり、ダイアログ形式 のモノローグを通じてその制作の持続を支える機能を持っていたとも考えられる。単なる資料というに とどまらず、反復の本性と持続の深部を明るみに出すこの画家の仕事のあり方を、制作の過程に付き 添い言葉でそれを反芻することでまざまざと伝えているこのノートは、今後、戦後の美術、あるいは絵画 全般に関心を持つあらゆる層に広く開かれるに値するものであると考える。
図1 山田正亮 制作ノート
過程としての絵画とその持続
「絵画として成立させるため、相当数の作品を制作しなければならない」
2)と山田正亮はその作品がに わかに世間的注目を浴び始めた78
年3)に書いている。「相当数」
であることはこの画家が56
年から95
年 に制作した絵画群の総体Work
の体系の成り立ちの基本と密接に結びついている。そして「相当数」
は、実は画家の最初期からの強いこだわりであった。そのことが画家のノートから如実に読み取られる。
ノートには最初期から常に
「過程」
、「移行」
、「経過」
、「未完」
、「時間」
、「反復」
、「持続」
といったキーワー ドが頻繁に記され続けていて、彼にとって一点一点の作品を描くことは常に何らかの大きな全体に向 けて行為を持続していくという意味づけを最初から持っていたことが分かる。しかし一方それらのノー トを通読する作業の中でまず感得されてくるのは、彼の仕事のあり方がただ単に、順列組み合わせを網 羅する様に形態のパタンを組み替えることで相当数の作品を積上げて、そこに体系の伽藍を築く試み ではなかったということである。それは、事前に設計図が準備された建築作業ではなく、日々の格闘、不 安なあがきの連続の中で不意にかろうじて垣間見える何ものかの兆しのみを信じながら、約束されない 土地に向って続けられる概ね単調な旅であった。数に物をいわせるため作品を集積していくといった目 的で仕事がくりかえされるわけではなく、むしろくりかえしの過程、その持続だけが作品であるかの様な 姿勢がそこにある。「作品は数多く描かれなければならないといつも思っています」(2 1952)4)
52
年のノートには既に静物画のスケッチとともにこの記述が見られるが、さらにそれ以前、作品を描き出して間もない
49
年にも既に「北荘画廊にて5) 桜井浜江の戦争中の仕事のことなど 非写実の純粋 さが外的なものを拒否する この絵を見たとき麻生や靉光などの絵を自 分の中で並べて見ていた こういう緊張を続けて[い]るのはむづかしい 長い仕事を続けるためにはどこかその張りつめた空気を破らなければな らないだろう」(1 1949 図
2)
とより直截に
「長い仕事を続ける」
ことについて語られ、そのための展望 が記されている。そこには後年の淡々として一見クールな自身の絵画ス タイルへの予兆も読み取られる。53
年には、「輪郭を形成した 純粋な時間を確保すること 原初的な生活と同じ様 ゆっくりやること」(3 1953 図
3)
「記憶による静物」
が一段落し、対象の解体が進み始めた55
年には、対 象の輪郭がほとんど判別しがたくなった色彩豊かなスケッチの傍らに「これは記憶ではない ある変容かもしれない 日々刻々 絵画の背景に 在って 脈絡もなく変容する可能性の断片 過程の段階が開示されるの は たえまなく描かれ続ける時間と絵画との合一性」(15 1955 図
4)
可能性の断片は作家にではなく絵画の背景にあるのであり、それは過程 図
3 制作ノート 3 1953
図2 制作ノート 1 1949においてのみ、過程の段階として開示される。そして絶え間なく描か れ続ける時間こそが絵画の核心にある。さらにより明確に
「夕方 雨 (作品)の側に在る くりかえしはそれよりも以前にありな がら 描くことを止めないのは 移行を決定力として自分以外に始め と終りを保存している証明なのだ たえまなくあり続ける絵画から離 れることはできない 過程は時に刻まれる 作品に終りはない 終り の場所を確めることはできない 無数の作品の平静な変化を その起 りうる さまざまな確実性の状態を ひとつの肯定としてかいま見る だけだ」(15 c.1955)
この作家独特の言い回しであるが、あえてくだいてしまうと、くりかえ すことは以前と同じことをやることではあるのだが、そのくりかえしの うちに、作家ではなく絵画の側から
「移行」
がもたらされるのである。作品に終りはない、あるいは終りは知られない。作家はそこに肯定的 要素を見るのである。同様に、
57
年、多くの正方形が画面の枠の水平 と垂直の線に平行に配された横長の作品のスケッチとともに「生成を早めることはなかったが 従順であると同時に 反復が新しさ と共にあった カオスを切捨てる 自由を獲得する 長い年月を要し たが 無駄ではない 昨日と今日の継続する入口を持つ 移行は動い ている」(20 1957 図
5)
59
年、横方向のストライプへの移行の前段階となった縦方向のストラ イプが上下二段に重なる画面が精妙かつ複雑な配色で描かれた横に「50M 変化は急ではいけない そのことの期待に終るからだ この変 形は決定的なものではなく 今年の仕事は 対立関係を残したままで 終る」(26 1959)
進行中の
50M
の作品を記録したものと考えられる。さらにはストライ プのスタイルへの転換を経た後の61
年にも、「 100P 」
と記された暖色 系の多色の横ストライプとやや小ぶりの寒色系のそれが斜めに配置さ れたページの余白に「距離の中に過程を間近く見る 完成されるということは 過程をある 限界とする時は考えられない 対立する推移を見ようとする 作品は 経過の中に在り続ける これを見つめ続けることは 忍耐がいるが
しかし そうしたことには 何の努力もしていない(これは実現されるものだから)」(29 1961 図6)
「過程」
が「ある限界」
であるとはすなわち、画家が知ることができるのは、もしくは関わることができるの は過程のみであり、その限りにおいては完成を云々することはできないというある意味イデア論的な視図
6 制作ノート 29 1961
図5 制作ノート 20 1957 図4 制作ノート 15 1955点であり、そういった反復の中に在ることには確信が持たれていることが理解される。
54
年には既に「午後から描く 40F 10F 8F 完成させないことだ というより完成は過程なのだ」(11 1954 )
とある。
「相当数」
の作品を描くことはもちろんあらゆる作家にとって必須の事項とはいえる。だが、常に すべてを過程ととらえ、次から次に描くというこの連鎖そのものをこれほど重要視した画家は多くはな いだろう。それは技巧や様式の修練といったこととは本質的に違う、いってみれば裸形の反復である。過程は基本的に同じことのくりかえしであり、一回性の作品との格闘である一方、その反復の果てに開 かれる境地があることについて画家は早くから確信を持っていた。画家も行く先は知らないが、
「絵画と
の契約」に導かれて進んでいる。そして、体系が最初から見通されていなかったからこそ、個々作の充溢 もあり得たのであろう。個々作の力と絵画群全体への連なりというこの二項背反の上に生ずる矛盾に満 ちた緊張こそがWork
を支え続けた。そしてこの緊張の持続の中でのみ到達され得る領域があった、と いうことをいま残されたWork
が実際に知らしめている。山田正亮は
「完成は過程なのだ」 「数を描かねばならない」
という意識を最初期から50
年間もコンスタ ントに強く持ち続けた。もちろん長年描き続け、結果として多数の作品を残した画家は多くいるが、山 田正亮的な持続のあり方はそれらとは基本的に異なっているように思う。通常、画家の個人様式は、同 時代の社会的、美術的状況の画家への影響や、個人史の変転に沿って、山あり谷ありの中で変化する。画家は環境との応酬の中で経験を積み、やがては成熟ないし衰退に向う。それが一般的なあり方であ ろう。画業を積んでいけば成長し、社会との関係においてきっと何かを獲得できる、違うステージに上 がれるという期待がその動因となる。山田正亮の作品群の連なり方はそれと違っていて、常に同じス テージに、しかも自覚的に留まっており、全作品は権利上同時に発生していたが、それが一個人の描く 行為を経る必要上
40
年も要したとすらいってみたくなる程に、常に均質な全体性とともにある。起承転 結はそこに定めがたく、いつも同じことを続けているのであり、その反復と還元され得ない複数性を自 らの本性として深く自覚しているというか。もちろん何かを期待してはいるのだが、それは完成や絶頂 ではなく、続けるために続けるという様相であり、それしかできないがそれをやると悟っている。6)意図的 に外界を拒絶するかの様な、見ようによってはかなり虚無的な態度といえなくもない仕事の展開、それ は画家の生来の極めて几帳面かつクールな気質に帰される面もあるだろうが、それだけではなかなか理 解しにくいところでもあろう。戦争と記憶
山田正亮が絵画を始めたのは、敗戦前後の状況が彼の生にもたらした大きな欠落感のゆえであるこ とを、本人も何度か語っている。初期のノートにも下記の記述が見いだされる。
「戦争は恐怖 特異な状況は 死が自分と同一化することを おおいかくしてしまう 焼夷弾は雨の中に 僕は動けず立ちつくしてゐた どうしたと兄が僕の手を強く引いた 火柱が立って家が倒壊する光景を 他人の出来ごとのように 不意に襲ってくる死を眺めてゐた 近くにいた女と子供は短い一回生の時間を
閉じた 一瞬のことだった 高田馬場の僕の家一帯は無化した 無数の人間が死んだ 何んの抵抗もなし 見る見る殺されて行く 爆撃はくりかえされた ここは無防備都市 国は少年に何を与えたのか 空白 はそこに生じた」(2 c.1951)
3
度焼け出されたという空襲の経験が十代半ばの山田正亮の精神に大きな負荷を与えたことは想像に 難くない。終戦後間もない時期には父親を失い、栄養失調状態の中本人の健康もかなり損なわれ、52
年には結核により生死の境を見ている。とことんネガティブなこの状況にあって、選択されたのが絵画で あった。「戦争を経た状況の中では 普遍としての絵画自体を問題にするしかない」
と画家は語ってい る。7)すべてが雲散霧消した人間的・社会的秩序にかわる拠りどころを、早熟な少年は人間の外部に求 めた。16
歳にしてすべては空白化し、ゼロから創るべきものとしての絵画に賭けたというのである。例え ば香月泰男等の様に画家が戦争体験によって画風を決定づけられたのではなく、戦争によって植えつけ られた大きな欠落感に対処するために、描くこと自体が始められたのである。その様にして絵画を選ん だ山田正亮にとって、それは美術史や美術界の流行を参照しつつ学ぶべき対象ではなく、まず、生きる ための切実な処方であったと想像される。その事態を画家はしばしば「絵画との契約」
と表現している。「絵を描き続けたまえ 絵画との契約である」(2 c.1951)
「契約」
のひとつの大きな契機となったと思われる、戦争に起因する苛酷な経験は、その後も長く山田正 亮の描く根拠であり続けたようである。例えば、村松画廊でのクロス作品の個展を控えた66
年8
月10
日になっても、また戦争の記憶は唐突に回帰する。「敗戦 あの時の夏の空白から20年」(43 1966)
山田正亮の絵画は喪失から始まっている。そして先に見た通り画家はまた、その絵画の追究に終りはな いこと、すべては過程でしかないこと、すなわち持続へと運命づけられていることを、何故か最初から明 確な前提としていた。戦争によるあらゆる価値体系の否定、無化によって安直な真理や結論を拒絶する 心性が植えつけられたということなのだろうか。そこにのみ原因を特化することはもちろんできないが、
少なくとも敗戦前後の異常な経験がこの画家の生来の性質や蝕まれた健康状態と作用しあった結果、
何か普通ではない状況が生み出されたことは確かであろう。
画家のノートにおいては戦争のこと、自己の生死や健康のこと、そして絵画のことが常に同じレベル に並列されており、それは一見唐突な飛躍だが、画家本人の中では自然に接続されていたようである。
「時間が過ぎ去ろうとした様だが過去なのではない 東京大空襲 戦争の残酷さについて 君の書いた手 紙の内容は この前の続きですね 僕は内的空間から無理に引離されている様な気持ちで 今二点の絵を 並べて見る そして去年描いたデッサンも数枚も同時に視ている 一年前位の見ている時間が 現に在る のは違うのだが 当然の様に作品の中では同じだと云えるでせう ここで重要なことはくりかえしの意味で す より確実でより堅固な 描き始めた時より その基本性○○の支えかもしれませんが くりかえしと 云うのは同じものです 作品の強度に近接するため その地点にとどまる外 僕は終ることはないでせう その時間にあってと同様に 戦争は残酷なもので作品をも引ずる 亮 5月 21日 No.69」(2 c.1951)
2
本ずつの瓶とグラスがページの左下に配されている。文章は混乱しており脈絡は読み取り難いが、ともかくも画家はここで、おそらくは進行中の作品を、一年前のデッサンとともに見る時間を、戦争の残酷 さの記憶へと唐突にも接続しつつ、自己の画業におけるくりかえしの意味とその不可避性について、手 紙の形式で語っている。ある意味で混濁したこの記述のうちに、おそらくは山田正亮の
Work
を40
年に わたって持続せしめた動因の一端が生な形で覗いている。「記憶は時をへて消えさることも可能ですが ものごとの始まりは時間をおいて見なければその位置を意識 することはできないでせう 最初の風景 レアリテによる認識 そして静物 死んだ自然 形態 与えら れる 色彩 その内部の特質を 自分で体験した敗戦直前の直後の空白に在る意味を考へて見て下さい すべてを絵画存在の理由にするわけではありませんが ひとつの現実であることは確かと云えるかもしれ ません。」(2 1952)
彼にとって、絵画との
「契約」
、自己の心身の運命、戦争体験は比喩のレベルを超えて同一平面上で分 かちがたく絡まり合っていたと解釈できる。結核発病の直前の頃の記述と考えられるページには「静物は記憶の内部でつくりだされるが ここに絵画の基本に定着させること ここまでは確実なものだ 今現実的な○理の仕方を 漠然とその可能を自覚する身体に 予定した様な変調があらわなのだ こうい う状態がくるのならもう少し仕事を急げばよかった しかし いづれ
にしろこの一二年の静物作品は確実な客観的な時間の段階に在るこ とを想定することは可能だ 熱がある 今は早く横になりたい」
(2 c.1952)
ここでも自らの身体の
「予定した様な変調」
と絵画の持続が当然の 様に同一平面上に置かれ、突き放すかのように冷静に語られている。少年期に生死の境をいきなり体験し、その後も父の死や自らの病気 により常に死の不安は画家と
「内密な関係」
にあった。そのありよう は65
年になっても依然、戦争の記憶と重なり合いながら時折浮上し てくる。「まだしばらくの間 このよそよそしい 接触は 戦争に対する恐怖 を拡大して 死の形成を間近く感じる 僕はこの(死)とは内密な関 係があるし こう云う形態も決定的な特質をもっているので本来性と も云えるだろう」(38 1965 図7)
絵画の過程の持続は自らの生の持続可能性とオーヴァーラップする。
「制作 3
時間」と注記された正方形の作品の大きなスケッチの余白に「僕はいつまで生きるか 絵画の要求を充たしてやることができるか 確信はあるが 生きていればの話」(15 1955 図8)
同年の、
「 40F 」
と記されたラフな下描きの余白にも、「僕はいつまで生きられるか 可能性に対しては無関心を装うことだ しかし少くとも70才ぐらいに描ける状態におけないものか あまり
そんなことは考えたことはなかったし 病気の時はもうこれまでと 図8 制作ノート 15 1955 図7 制作ノート 38 1965
思ったことだし 又戦中のことを思えば生きていることさえ不思議なことだ 70才などといったのは この ところの位置での考へは 相当数の作品を必要としている意識が強いからだ しかし今 現在の絵画作品 の経過にあって語る必要はないが 相当数の作品は必須の条件になるだろう。」(14 1955)
生きていれば絵が描ける、というよりも、この画家にとって生きるはすなわち描くなのである。画家は
70
歳を間近にした95
年、「 『 Work 』
の全体はひとつの円環を形成する。」
8)と述べ、この系列に終止符を打 ち、以後新系列のColor
を手掛けることになる。それが既に55
年の段階で想定とはいえないまでも、ど こかに遠望されていた。この様相はずっと後、64
年になっても変わらない。2
色のストライプ画面のス ケッチが右上と右下に描かれた原稿用紙に「もう10年あるいは20年生きることが可能ならば たとい制作を脅す條件に重なったとしても 過程の段 階を持続し より根元的な絵画の輪郭を その固有性を所有できる確信はある(そのことに全力を集中さ せる)しかし絵画の制作をすべて放棄させる すべてを(無化)しさまざまな現実と具体的に引離される こ の時 生涯の意味が過去となり失はれたもの以外はない(死は絶対で確実なもので或る日必ずくる)」
(35 1964)
絵画を放棄させられることはすべての無化であり生涯の意味は失われることになる。持続への意志は時 に次の様なかなり倒錯的な居直りとも思える不死性の想定にまでいたることもある。
「健康が失はれても死ぬことはない 絶対にと自分に云いきかせる 限界がきても未経験で不明だが 仕 事は続けるだろう 戦争中 雨の様に降る焼夷弾も僕だけには当らないと思っていた グラマンの機銃掃 射も 土の上にうつ伏せした時 隣にいた青年は背中を射たれ即死した 僕は恐怖を直視したわけではな い 死は僕の周囲をとりまいて眺めている しかしその向き合いがいつまでか保證はない 52.10.3」
(2 1952)
絵画の持続への矜持と自信は、自らの不死性の仮定と結び合うのか。大変凡庸ないい方になってしまう のだが、
Work
は比喩を超え画家の生そのものに直結している。山田正亮という名の一個人が、戦争体 験を経て空白感を埋めるべく絵画を選択し、その客体的な自律性の持続の中に空白の代償を得た、と いうのではなく、空白の中で絵画と「契約」
した十代の少年は絵画制作の持続の中でのみ山田正亮とい う人物になり、画家自らの生のスパンは自動的にその絵画の持続と重なり合うことになった。山田正亮 の人生はいってみれば絵画という鋳型により鋳込まれており、画家にとって絵画の持続は人間が理由も なく本能的に自らの生の永続を期待するのと同じ意味合いを持つ問題なのではなかったか。そして、冷 静に見える画面の背後には常に死への乾いた意識が影の様に広がっており、それが各々の作品に深み とニュアンスを与えている。ここではもちろん山田正亮という一個人が絵画にその一生を捧げたといった事態をロマンチックに顕 揚しようとしているわけではない。ただ、この一個人は絵画の持続と一体化することによってのみその生 を堅持し、作品と作家のこの徹底した一体化こそがひいては今残された
Work
という作品総体の独特な 存在感を支えているのではないかと考えるのである。「人と作品」 life and work
といういい方は、美術を 語る際の常套句であるが、そこでいわれるlife
とは一人の人間としての画家の生涯、社会的出自や、社 会の中での浮き沈みのことであろう。しかし、山田正亮においてその人と作品はあまりに近接していてそれらの相互関係を考えるということ自体が難しくさえ思われるのである。もちろん山田正亮は、人生 とは峻別された
「客体」
として絵画を成立させることを目指す、と何度も語っていた。確かに、よくある 様に画家の身に起きた波乱万丈の物語や私的な感情の振幅を絵の印象に重ね合わせ、共感してくとい う様な鑑賞法とはこれほど無縁な作品群もない。だが、「人生と峻別」
することが強調されればされるほ ど、反語的に、人生と絵画との抜き差しならない深い関係をそこに思わずにはいられないのである。「絵画の核は人間と云うのはわかっている」(44 1967)
画家の生と絵画の展開の同一視ないしはそれらを近接させる試みは、絵画の自律を旨とするフォーマリ ズム的な立ち位置からすると好ましくないものとされるかもしれない。しかし、本来フォーマリズムとは、
どこか人間と離れたところに客観的、合理的な秩序系を想定しようとする努力ではなく、色や形が人間 の原初的な感性の中に明かす事物の普遍的相を探るという態度であるはずではないだろうか。だからこ そそれは時代を超えて何らかの意味を持ち得るのである。人間の感性を離れてフォーマリズムはなく、
その入り口は常に個々の人間の具体的経験であるはずだ。問題はそういった個別の経験がいかにして普 遍の領域にまで高められるかということである。絵画と人生の
「峻別」
とは、ある特定の個人の私的経験 を絵画に直接に反映しようとはせずに、私性を捨てより大きな感覚に開かれた原初的な人間として、よ り太く深い造形の根幹に向き合う態度と解することができるだろう。そして、幸か不幸か十代半ばの人 格形成期を過酷で混乱した状況下に過した山田正亮は、直接的かつ安易に絵画に投影・反映できる様 な固有の個人的価値観を失った状態、もしくは依然持てない状態で絵画の中に取り込まれた。明晰な 知性をそなえつつも特性の持てない宙吊り状態にあった画家は、表現すべき個人的内容などに頓着す る間もなく、直に無名性の領域に降下し得たのではないだろうか。「孤高」の画家
山田正亮はこれまで
「孤高の画家」 「独立独歩の画家」
すなわち戦後変転する日本の美術潮流に背を 向け、ひたすら絵画自体の導くままに描き続けてきた画家として評価されてきた。戦後日本の猫の目の 様な流行の変転とその姿勢は相いれず、おのずから距離をとっていた、と。だが例えば、58
年教文館画 廊での初個展を前にした画家が、展示プラン(図9)
などを記す一方で
「発表はその[形体の瓦解と生成の]境界と制作を中核にする ことになるが ここでも他人と共有不能に堪えることになる だらう。」(25 1958)
と書いているのを読む時、またストライプの絵画を初めて世 に問うたはずの
62
年の養清堂画廊での個展の直前の「発表はほとんど何も期待できないだらう」(31 1962) 図9 制作ノート 25 1958(教文館画廊個展展示プラン)
そしてオープニング直後の
「不特定の人間の判断はいいと云っても 事態を変えるものでもない」「現実的 具体的な出来事へ 形態 と色彩にははっきり示されている例外的な重要性を 彼らは想像の抽象的な何かしか話さない」(31 1962 )
といった記述を見出すとき、この孤高は画家の中ではあらかじめ織り込まれていた事態であったのかと 思わずにはいられない。自分を理解しない世間に背を向けたと簡単にいうことができない様なのである。
作家として初個展に期待しないというのは、非常な屈折といえ、そこにはプライドの高いこの画家の強 がりが皆無だとは思われない。しかしここにはもはや単なる開き直りや意地といったもの以上に、自らが 選んだ方向性からの帰結をそのまま受け入れるある種の諦観すら読み取れる。この孤立の実態は一人 であることへの気概といったヒロイックなものでは決してなく、常に不安と絶望に満ちていたことは想像 に難くないのだが、一方でこの事態が確信を持って冷静に予感されていたらしいことに驚かされる。例 えば初個展の
6
年前、52
年のノートには既に、絵画の持続と自己の生を同一化することへの不安ととも に、自らの画業の不遇への見通しが語られている。「(絵画との契約がつくりだすものへ)描くことの徹底した時間が生みだす 僕は現在の状態をいろいろと考 えて見る 今まで過してきた経過を思えば 孤立のなかにあったのは思ったとおりだ 一切の現実に対立 していると云っても これは僕が望む前に向うからやってきた その状態は制作にも現れてくる 絵画の 存在から(自分を取除こうというのだ) 絵画[の]この決定が多くの不安を呼びこむ一方 本質上 その感 覚が充満するこの領域を離れることはできない この乖離をくりかえし 解答のない 空白にもそれは存 在する これは予見だけど(今でも数少いけれど) 僕はむろん確信はあるが 当分の間誰も認めないだら うね。」(2 1952)
さらには
「なかなか人と合わないことに気をつかう必要はないと思っています 描くことは決定的なものでもなく それらの変形だろうから うまくいかなくても 仕方がない 作品の近接を保持するために 一人で歩く より外はない 急ぐことはない あるがままの創りだす距離の中に どうぞ時がゆっくり近づいてくれる様 に」(2 1952)
との記述がある。一人であることはごく初期のうちから、自らの画業の定めとして受け入れられていた。
山田正亮の絵画の方向性が、同時代の日本の美術のあり方と大きく食い違っていたことによる不遇、と いうのみでは足りない様であり、彼のスタイル、すなわちひたすら視覚と触覚を通しての画面との対話、
さらに絵画同士の対話の観察によってのみ歩を進めていく彼の様なやり方、そしてそこに
「進歩」
を想定 せずに、反復過程とともにある還元され得ない複数性こそが重視されるその姿勢の堅持は、おそらくど の様な時代と社会のもとにあっても、画家を社会的な孤立に追い込むべくあらかじめ定められているの である。画家のノートを一読すれば、彼が常に一貫して同時代のあらゆる美術動向をよく観察していた ことが知られる。アンデパンダン、自由美術、国展などの団体展、タケミヤ画廊、フォルム画廊、南画廊、東京画廊ほかの当時の代表的な画廊、国立近代美術館(
「抽象と幻想」
展、国吉康雄遺作展ほか多数)、ブ リヂストン美術館での展覧会、海外の美術動向の記事や各種美術論についてのメモまで、コンスタント にきめ細かく記録されている。影響されなかったといっても見ていなかったわけではないのである。だが、その観察は強烈なほどの批評性を帯びていて、結果として、他の画家たちの活動の方向や姿勢への疑 義に転ずることが多い。強く興味を覚えた作家作品についても(ピカソにすら)彼の考察はいつしか否定 的な方向をとり、自分は彼らとは違うことをしている、となるのであり、自ら孤立を呼び込むことになる。
その姿勢は様々なレベルでのコミュニケーションにおいておそらくは軋轢もうみ、作家活動の実践的場面 においてマイナスの作用も多く持ったことであろう。しかし、この徹底した批評性、その覚悟、それは画 家個人の性格的特性でもあり、また少年期の戦争体験をはじめとする常軌を逸した状況が契機となっ て発現したものだとしても、彼の画業の孤高性は、過程の絶えざる持続の中に内向的に凝集する
Work
の成り立ちそのものと不可分に結びつく、原理的孤立ともいうべきものなのではないか。あらかじめ、自らを閉じる様運命づけられた構造。山田正亮は
58
年以前、アンデパンダンや自由美術 へのわずかな出品を除き、おそらくは自分の作品を人にほとんど見せていないと思われる。通常画家は 発表の機会をひとつのデッドラインとして制作の日程を組んでいく場合が多かろうが、山田正亮にはそ ういったことが不思議なほどなく、ノートには40
年代から、自己作品が人に何といわれた、とか誰それ の作品ないしなにがしかの事象によって自身の絵画へのなんらかの触発や刺激を受けたといった記載が ないのは異常なほどである。画業の最初から評価者はひたすら画家本人のみ、もしくは絵画同士である。絵画同士の相互批評の場が
Work
であり、その意味でその全体は複数においてのみ成り立ち、かつ構造 上外界に対して超然と閉じている。その頑なさは驚異的な持続を見せる。晩年山田正亮はその画業を ひとつの円環に例えてみせて、その円環は95
年に閉じられた、と語っているが、下手をすればその内向 的自閉は他を排除し、ひとりよがりな痩せ細った世界へと転落していく危険すらも常に持っていただろ う。後に見る様に、山田正亮の画業の中で
60
年の縦長キャンバス上の横ストライプの画面の出現は、基 本的に淡々と進行することが特徴であるそのWork
の系列の変遷の中ではやや異例の大きな飛躍だと 認められるが、その飛躍の当時にあっても、1
ページに2
点から3
点配された多色のストライプ画面のス ケッチとともに次の様に記されている。「4月 作品への理解は遠い ここで考えるのは 作品におこりうる 伝達可能の基準を取り去ること つ まり僕の絵画に伝達可能は当分こない」「これらの作品を状況が照らすには20年はかかるだろうし 状況と いうのもむづかしい」(29 1961)
「制作に確信を持つが その重要性は それを理解するのはおそらく10年後か」(29 1961)
そして山田正亮は実際にその
17
年後に世間から意外なほどの厚遇をもっていきなり認められる様にな るのだ。乱暴ないい方になるかもしれないが、この画家にとって不遇は必要条件だった。孤立状況は絵 画の持続の過程を背後から支える。もし画家が初期からいわゆる美術界に受け入れられていれば、そこ にはある社会的立場と関係が築かれ、おそらくこれほどの内向的な持続を推し進めることは困難であっ ただろう。同年「 Work
オイルを使用99 54 」
と記された多色ストライプの余白には「(不遇の場所)作品にとって善でも悪でもない 作家自身が方策もなく ひとつの支えもないと云うのでは ないが 完全に孤立又は○と云うものもある 生の内容に一寸した欠落がある 又自己否定の価値あるい
はそれらの沈滞 これは単なる喪失であって 長い時間でもかまわない 不遇はいいことだ その間ゆっく り自分を確め 絵画とその距離を 正常に保つことができる 別に無理に云っているわけではない やせ がまんでもない 作品の重要性を理解することは かんたんなことではないし この確信が又 不遇をよ んでいることになる」(29 1961)
だが完全な隔絶は不可能である。それはフィクションでしかあり得ないだろう。そして、画家の生と一体 化した絵画内部のロジックのみによって動き、持続のうちに外界から隔絶した全体を築こうとするその 不可能な努力の集積、
40
年にわたるその継続、その徹底こそが逆説的にも非常に高い力をもって外部 を開くのである。「長い仕事」
に言及した49
年の記述を再び思いおこそう。「桜井浜江の戦争中の仕事のことなど 非写実の純粋さが外的なものを拒否する(中略)こういう緊張を続 けて[い]るのはむづかしい 長い仕事を続けるためにはどこかその張りつめた空気を破らなければならない だろう」(1 1949 図
2)
「非写実の純粋さが外的なものを拒否する」
。それはまさしく山田正亮の原理的といえる孤立の絵画世 界そのものではないのかと一見思われよう。しかしここで画家は既に、内部への閉塞はいかに徹底して も実は完全ではあり得ないことを予感していたのではないか。張りつめた空気は必然的に破れるのであ る。造形の自律という能天気な信念のもと内に閉じこもりきれたと信じるのは素朴に過ぎる。制作は閉 じと開かれの単純な二者択一を超えて、内と外との絡み合いのうちに展開する。内部はそもそも外部 あっての内部だから内部への自閉は論理的にいっても完全ではあり得ない。不透明な水槽の内にたまっ た水の気配は見えなくても外から何となく感じられるものだ。山田正亮の絵画群Work
の持続・反復と いう閉じの試みとその開かれ方こそが、このパラドックスを実体化している。自足を究めようとすればす るほど、やがて体系には外部に向けてぽっかりと抜け穴が穿たれる。水を注ぎこまれ続けたダムはあふ れるか、決壊する。閉じ方が濃密であればあるほど、蓄積されるポテンシャルは巨大になっていくだろう。ストライプ、決壊
淡々と続く反復過程の中にある、あるいは反復過程そのものとして ある
Work
の系列。しかしその全体の中に、やはりある種の波が存在 することも事実である。それは一点ごとの絵画の質云々のことではな く、Work
の全体性への距離感の相違という様なものである。60
年の、時に(不適切だと思われるが)山田正亮の
「トレードマーク」
とも称される 横方向のストライプの画面の出現が、その波の最も顕著な例であり、本来波風立たない大洋の様に平坦な海面の拡がりとしてあるはずの
(もちろん水面下では無数の事象が起こっているのだが)
Work
の世界の 中では、ある種突出した様相を見せている。これまで10
年以上にわ たって淡々と継続された絵画とのやりとりは、ここで確かにひとつの転換点を迎えたと考えられる。 図10 制作ノート 28 1960
「絵画の優位を見出す」(28 1960 図10)
「絵画の原初的な表出は大きな魅惑を抱かせる」(29 1960)
この様な記述は普通に読むと何のことはないのだが、この画家の ノートを通読していく作業を経ると、これがめったにない最上級の賛 辞であり、常に抑制のきいたこの画家の文章の中にあっては飛び切 りの高揚と興奮の表現であることが分かってくる。この頃のノートの 紙面はことごとく、次から次に湧いてくるかの様な
2
点から4
点の対 照的な色づかいのストライプ作品で埋められ、ノートの表紙にまでも 縞模様が引かれている(図11)。他の時期のノートの言葉は多くが模 索中のそれであり、もがく画家が焦る自分自身をなだめるかの様な 苦渋に満ちており、この様な全面肯定の言辞が続けて現れる例はまれである。しかも重要なのは、ここで 讃えられているのが画家自身ではなく「原初的な表出」
を見せ、「優位」
にたった絵画そのものなのだとい う点である。画家は絵画へのストライプの出現をそれこそ自分のことの様に喜んでいるのである。水平にひかれる多種の色彩の線の連続、勢いのある横方向のストロークのみにより画面の全面を埋め 尽くす、ないしは覆い尽くすのが
60-62
年のストライプの絵画である。そこには伝統的な絵画のあり方か らすればやはり大きな飛躍があった。ここにいたる以前の山田正亮の絵画はすべて、画面上のいろいろ な場所に様々な形を配しそこに何らかの関係と構造を生みだそうとする模索の連続であり、確かに「解
体」を目指してはいたが、依然、伝統的な絵画同様、広義の「構図」
の探究であることに変わりはなかっ た。しかしストライプはもはや構図ではない。それは暴力的なほどの横方向の流れであり、長方形の中で 生じ得たはずの諸々の運動や対比をすべて覆って絵画表面を流れていく川の様なものである。作家自 身、この当時のことを振り返って、ストライプを何十点も連続して描くことは、「狂気の沙汰」
であって、「並みの神経ではできない」
、「魔がさした」
様な行為であり、その時は「のめりこんでいたし、冷静さは
失っている。」
と述べているが9)、確かにこのスタイルは冷静になれば空恐ろしくなる様な無謀な試みで あっただろう。それは59
年の縦方向の細い帯の連続の画面(図12)
や矩形の集合の画面(図13)
が90
度 回転されたところから生じるという形態の上での発生の脈絡を確かにもっているのであり、その意味で図12 山田正亮《Work B-196》
1959年 oil on canvas 73 117cm
図13 山田正亮《Work B-205》1959年 oil on canvas 73 117cm
図11 制作ノート 28 1960表紙は順序だったロジカルな展開の一環とも一応は見られ、例えば具 体美術協会流の、人のやらないことをやれといった一か八かの思 い付き的暴挙で試みられたのでは決してなかった。そしてそうで あるからこそ返ってその飛躍は危機感をはらむのである。だが、
この様な危険を承知の上で画家はストライプに進んだ。このスタ イルは、単に形態の自己展開といったレベルの事象というにとど まらず、持続を旨として内向的凝集をくりかえす山田正亮の制作 のあり方から必然的に帰結するものであり、さらにはそのあり方 を力強く肯定し、補強するものであったからだ。
「 80P 」
と「 70M 」
の多色のストライプのスケッチとともに「色彩の線と形体の決定的な絵画の領域を所有する(反復することが)固 有の運動となり本質的な作用を促す」(28 1960)
反復がついに本質と化すこと。そのことで所有される決定的な絵画の領域。ストライプの画面は観る者 の視線を左右に流し、画面の外へと導く。縦長のフォーマットともあいまってそれは壁の存在を顕在化 させる。例えば《
Work C-73
》(図14)
と《Work C-77
》(図15)
の二点の様に同じフォーマットで異なる配 色のなされたストライプ2
点が隣り合うと、ふたつの絵とその周囲を巡る視線の循環が形成され、ふた つの絵を両極とした勾配上で、見ることにふくらみが生まれる。このスタイルは壁という即物的な外部 を顕在化させるとともに、自らの背後にある、あるいはあり得る無数の他のストライプの絵画という外部 をも強く想起させる。画家のノートにおいてもストライプ作品のスケッチはたいてい1
ページに2
点から4
点が収められ、時にはそれらが即物的に矢印でつながれ、各々の間の連関が示唆されていることもある。色彩の線の淡々とした継続そのものであるストライプによる作品は、山田正亮の制作の根幹にある姿勢、
還元され得ない複数性をめぐる反復の持続を、形式の中に直截に体現したのである。ストライプはそれ 自体常に等質であり未完である。それは未完を積極的に定式化す
る可能性を画家に開いた。
「絵画の優位を見出す 同じものではなくても 類似のものであれ ば 統一ある全体を示す 色層はどの様に変えてもいい 又 ど う変えてもその意味は同一であること あるいは どの場所でも未 完であるということが本質的に理解する」(28 1960 図
10)
画家はこの時期の、多くの色をランダムないし均等に用いたストラ イプのスタイルに関してよく
「全色彩」
ないし「全色彩の等価性」
と いう言葉を用いている。「全色の等価性は あくことがないくりかえしを続け ひとつの手 段と方法となり 全色彩を感覚し意識する」「制作のうちに投出さ れた色彩の充溢」(30 1961 図16)
図14 山田正亮《Work
C-73》 1960
年 oil oncanvas 180 68cm
(口絵、左)
図15 山田正亮《Work
C-77》 1960
年 oil oncanvas 180 68cm
(口絵、右)
図16 制作ノート 30 1961
「全色彩」
とはある特定の色彩が画面において主要な役割を果たす ことなくいかなる色彩も等価の関係にあるという意味である。それ ゆえストライプの画面においては色彩は常にいか様にも交換可能 であり、無限の組合せと拡張に向って開かれている。線の無限性 と色の等価性を手段とすることでくりかえしが必然的に定式化さ れ、持続の形式が内容となった。複数性を不可避にするストライプ の形式。ストライプは、とりわけ他の絵画を要請し、そこに山田正 亮の持続的内向が構造そのものとして具現化された。「 15M 」
の暖 色系ストライプと「 25M 」
の寒色系のそれが横に並列され、その互 換性が矢印で示されているスケッチの下に「色彩のくりかえしのことは本質あるいは生である」(28 1960 図
17)
画家の生そのものと同期する絵画の持続はここで強く裏付けられたという確信。例外的なほどの画家の 興奮と高揚はそのことによっていよう。そして
56
年から95
年までの山田正亮の作品群の総称「 Work 」
の 語がノートに何度も現れはじめるのもこの頃のことである。61
年「 50F 」
と「 40M 」
とさらにもう一点のス トライプの余白には「あらゆる力を排斥し 他人と共有は不能かもしれないが 単純な云い方をすれば 精神を占領する何ん でもないものの生産体系の時期 これは安易な仮定ではないし 対象が連続した傾向にある移行である限 り この持続は 絵画上重要な事項の啓示があることはたしかだ 淡々と続けること 作り出し 独力で 定着する」(29 1961)
山田正亮のストライプ作品は意味内容を無化し、思い入れや解釈を拒絶する様なクールなスタイルであ るのにもかかわらず、逆説的にも大きな訴求力をもって観る者に迫ってくる。それは内向的自閉を徹底し た
Work
の系列を大きく外に開く契機となった。未完であるということは生きる余地があるということだ。ストライプは絵画の未完、無限の持続をその画面の内部から強く要請している。ストライプによって回り 続けることができ、次の一点を描くことが正式に認められるのである。画家の生と一体化し半ば自己目 的化している制作の持続は、ストライプによって公認されたのだ。とりわけ初期のストライプにあふれる生 命感、なまめかしささえ発するそれは、筆触の強調や絵具の滴りに起因するところもあるものの、なによ りもこの様な永続的なスタイル、次の一点を保証するスタイルの発見の喜びに裏打ちされてのことではな いか。それは例えばジャクソン・ポロックのあのポーリング技法の発見にも似ている。それはなんというこ とでもないのだが、画家にとってはユリイカともいうべき邂逅であろう。ここではつまりストライプという形 式そのものを一般的に論じてみても始まらない。かくかくの出自を持ち、絵画への独特な向き合い方を 堅持してきた山田正亮という画家が、その仕事の半ばでこの形式に巡り合ったことが重要なのであり、
これは誰しもがおこし得た事態ではないのだ。画家の生とその絵画は密に絡み合っている。絵画の持続・
反復こそを画業のはじめから制作の根幹に据えていたからこそ、画家はこのストライプという特異なスタ イルを、自らの絵画の動因そのものを体現し、形式と内容の融合をもたらす作品として成立させ得たと
図17 制作ノート 28 1960
いえるであろう。結果としての作品には克己と過剰がないまぜになった、不可思議な高揚が滲出してく る。潜在的動因がいかに孤独で、自閉への危機をはらんであるものだとしても、結果として生じた抽象絵 画はそれらの不安や懸念を昇華した、あるいは不安ゆえこその緊張をはらんだ悦楽を具現化した。
沈静
大きな転換点としてのストライプの出現。そこでダムは決壊したのか。
10
年間溜められたものはなん らかのはけ口を求めていただろう。内向を徹底した果てにそれは色彩の線の奔流となって噴き出し、そ こで山田正亮の絵画群は外に向って開いた。しかしその次にどうしたか。あろうことか、画家は決壊を 補修したのである。何故か。ただ描き続けるために。奔流は喰い止められ、自己抑制は必須のものとし て堅持されるのだ。ストライプがこの画家の
「トレードマーク」
になること、すなわち代表的作品ないし代表的スタイルとし て固定化すること。その様な突出の危険は、持続的過程の時間こそを絵画と考え、それを自らの生と同 一視していた山田正亮にとって死活問題であったはずだ。ストライプは限りない反復の持続としての制 作を形式自体においてともかくも可視化し肯定する存在であったにもかかわらず、《Work C-73
》(図14
)、《Work C-77
》(図15
)、《Work C-105
》(図26
)に見られる多彩さや筆勢は、そしてその過剰性は、抑制を踏み外した表現性を生んでいく傾向もあり、それは
Work
の持続を自壊させる可能性をも持って いた。両刃の刃としてのストライプ。作家が述べるストライプ発見時の狂騒、尋常でない精神状態とは、その両極に引き裂かれた制作の局面の帰結かもしれない。ここでもやはりポロックにとってまさに両刃 の刃であったポーリングのことを想起せざるを得ない。
代表作となり、絵画の明確な
「展開」
、起承転結を固定化してしまいかねない、ある種の高揚をはらん だ初期ストライプは、出現から2
年ほどすると中性化に向い始める。62
年のノートには「沈着な態度を示し始める絵画」(31 1962)
という言葉が見える。ここでも主語は絵画であるのだが、いずれにしろ突出しすぎる存在は持続を危う くしかねない。天上の絵画を夢見つつ描き続けるものの、本当にそこに到達したとしたら絵画は終って しまうだろう。それは山田正亮にとって自身の生の終りをも意味しかねない事態である。もちろん本当 に天上に到達などできないにしても、なまじ
「成熟した個人様式」
といったものを獲得し、そこに到達し たかの様な幻想のうちに安堵感を持ってしまったとしたら、それはやはり持続のテンションを途切れさせ てしまうだろう。画家は、動き続けねばならないことを本能で察知し、決壊した堰を補修し始める。それ は絵画の側からの指令であったかもしれないが。あるいは、主語が常に絵画であるならば、もとより画家 は補修などしていなくて、溜まった水が排出されたことで貯水量が減り、ダムは通常運用に戻ったとい うべきかもしれない。