• 検索結果がありません。

公立学校教員の基本権主張可能性

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "公立学校教員の基本権主張可能性"

Copied!
16
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

目次 はじめに

第1章  公務員の職務上の行為と基本権主張可 能性

第2章  公立学校教員の職務上の行為と基本権 主張可能性

 第1節 学問の自由を享受できる理由  第2節 学習権の保障と基本権主張可能性  第3節 小括

第3章  公立学校教員が国家機関であることと 職務中の私的行為に関する学説 第4章  公立学校教員の職務時間外の行為にお

ける学説 おわりに

はじめに

 近年,とりわけ2000年代に入ってから,公立 学校教員の基本権保障とその限界に関わる事件 が裁判で争われている。例えば,憲法19条の 思想・良心の自由に関する問題として,入学 式・卒業式における国歌斉唱時のピアノ伴奏拒 否の事例や,国歌斉唱時の不起立が問題となっ た事例,国旗掲揚に伴いリボンを着用した教員 が文書訓告を受けた事例(1)などを挙げることが できる。また,教員の政治的中立性をめぐる法 律の改正に関しての動きも国会で見られる。例 えば,北海道教職員組合が民主党議員へ違法に

選挙資金を提供したとされる事件を受けて,自 民党とみんなの党が2010年3月10日に,教員が 違法な政治活動を行った場合には3年以下の懲 役か100万円以下の罰金を科せられるようにす る教育公務員特例法の改正案を衆議院に提出し た(2)

 このような状況の中,公立学校教員の基本権 保障とその限界に関する理論的枠組を整備する ことが必要である。公立学校教員は,もし可能 であるなら,職務中において基本権を引き合い に出して自由を主張することがどの程度でき,

どこに限界をもつのか。あるいは職務外にあっ ては,教育公務員特例法などとの関係から,ど の程度自由が保障され,制限されるのか(3)。ま た,採用に際して公立学校教員志願者はどの程 度思想の自由を保障されるのか(4)。それぞれの 場面における教員の基本権保障とその限界を考 える必要がある。

 しかし,公立学校教員の基本権保障と限界に ついて考える前に,職務上の行為と職務外の行 為における,教員の基本権主張可能性が問題と なる。つまり教員は,職務上の活動に際して基 本権を引き合いに出して国家に対して自由を享 受することができる地位にあるのか。

*早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程3年(指導教員 西原博史)

論 文

公立学校教員の基本権主張可能性

― 職務上の行為,職務中の私的行為,職務外の行為 ―

安 原 陽 平

(2)

 また,公立学校教員は,公務員のコロラリー として考えるべきであるのか,教員固有の地位 を有する者として考えるべきであるのかという ことも注意しなければならない。なぜなら公立 学校教員は,一方で地方公務員として公務員の 地位にありながら,他方で教育公務員として職 務と責任について特殊性が認められているから である(5)

 そこで本論文では,以下の課題に取り組む。

公立学校教員は,(1)職務上の行為に際して基 本権を引き合いに出して,公権力に対して自由 を主張できる地位にあるのか(第2章),(2)

職務中の私的行為は基本権を引き合いに出して 保障されうるか(第3章),(3)職務外におい ての行為と基本権主張可能性はどのように考え られるべきか(第4章)。

第1章  公務員の職務上の行為と基本権 主張可能性

 公立学校教員の職務上の行為に際しての基本 権主張可能性の問題を考える前に,本章では,

公務員一般の職務上の行為と基本権の関係を確 認する。

 公務員一般の法的地位は,明治憲法下では 特別権力関係で説明されていたが[室井

1968

:

335

-

],日本国憲法下では一面では全体の奉仕 者として考えられ,他面では基本権の保障が及 ぶ地位にある者として考えられている。[芦部

1994

:

246

-

 ただし公務員は,職務遂行においては国家公 務員法(国公法)および地方公務員法(地公法)

による様々な義務を負っている。具体的には,

勤務時間および職務上の注意力のすべてをその 職責遂行のために用いなければならないとする

職務専念義務(国公法101条,地公法35条)や,

法治主義の達成のために課せられている法令順 守義務(国公法98条1項,地公法32項)などを 挙げることができる。

 とりわけ基本権保障との関係で問題になる点 として,争議行為等の禁止(6)(国公法98条,108 条の2,108条の5,地公法37条,52条,55条)

や政治的行為の制約(7)(国公法102条,人事院規 則14

-

7,地公法36条)が公務員には課せられて いる。

 これら2つの義務に関する最高裁の判例は,

公務員の基本権保障の主張可能性を認めたうえ で,公務員の地位の特殊性と職務の公共性や行 政の中立的運営や国民の信頼などから,各種基 本権が制限される,との構図を採る。

 ただこのように考えるからといって,公務員 が職務上の行為に際して基本権を引き合いに出 し,上司や上級官庁に対して自由を主張できる 可能性があるとまでは解することはできない。

これら2つの判例における行為は,基本的には 公務員個人の私的行為あるいは労働者としての 争議行為(正確に言えば争議の煽動)である。

そのため,基本権の問題として考えられ,その うえで職務との関係あるいは公務員の身分との 関係において,基本権が制限されるという論理 構造をとっているのである。

 それでは公務員は職責遂行に際して,基本権 主張可能性が認められるのであろうか。この点 については,法令順守義務などの義務との関係 から考えるに,公務員の職務上の行為と基本権 は基本的には関連のないものであって,職務上 の行為に際して基本権を引き合いに出すことは 可能ではない,とする一般的理解が成立してい るものと考えられる(8)

(3)

 教育公務員である公立学校教員が職務上の行 為に際して基本権を引き合いに出し自由を享受 できる地位にあるかについても上記のような公 務員一般の論理で考えることが可能である。し かし,教員の場合,教育という専門性が要求さ れる職種に就いているため独自の法的地位を与 えようとする見解がある(9)。教員の職務上の行 為を学問の自由で根拠づけて,国家や公権力か らの干渉を排除しようとする考えである。

 学問の自由は,特権的自由と市民的自由と いう2つの側面を有している[高柳

1983

:

46]。

仮に学問の自由を市民的自由の側面に着目して 捉えた場合,表現の自由や信教の自由などと連 続性を持つ自由となる。このような市民的自由 を,公立学校教員は,職務上の行為に際して基 本権を引き合いに出して享受することは可能で あろうか。

 第2章では,特に市民的自由の享受という観 点から,職務上の行為に際して公立学校教員の 基本権主張可能性を認める諸見解を検討する。

第2章  公立学校教員の職務上の行為と 基本権主張可能性

第1節 学問の自由を享受できる理由

(1)権力的干渉,党派的影響の排除(鈴木安蔵)

 教員の職務上の行為,すなわち教育活動が,

学問の自由によって保障される理由を,権力的 干渉の排除,党派的勢力の不当な影響の排除と いう点から把握する者として鈴木安蔵がいる。

 鈴木は,まず教育の政治的中立とは何かを問 題として,「教育の政治的中立とは,第1に,

教育が,権力的統制,それに類する一定の政党 的支配から独立におこなわれる原則を意味す る。」,「教育の政治的中立ということの第2の

意味は,このような冷静で寛容な学問的立場,

その立場からの教育という原則を指すものであ る。」[鈴木

1969

:

105

-

]と2つの原則を挙げて いる。

 そしてこれら2つの原則を踏まえながら,政 治的中立との関係における教員のあり方につい て述べる。そこでは,公立学校教員は,一般に 行政の執行を直接の任とするものではないこ と,教育に携わる職責をもつものであることか ら,一般の公務員と異なる関係におかれるべき であるとしている[鈴木

1969

:

125]。

 続けて鈴木は,教員が教育の場において,政 治活動に走ることは不当ではないかとしながら も,このことについては「教員自身の良識,自 制,相互のまた社会批判によって是正すべきも のであって,法的規制を加えることは,逆に教 育の政治的中立に対する権力的干渉,侵害であ る。それは,学問の自由をおびやかすものとせ ざるをえない。」としており,学問の自由に関 しては「すなわち『義務教育諸学校における教 育を党派的勢力の不当な影響又は支配から守 り,もって義務教育の政治的中立を確保すると ともに,これに従事する教育職員の自主性を擁 護する』という目的を達成するために,まさに 憲法は,上述のごとく,学問の自由を保障する」

としている[鈴木

1969

:

126]。

 鈴木は,憲法23条の学問の自由を根拠とし て,教育活動への国家による介入を防ごうとし ている。とりわけ党派的勢力からの影響を教育 活動から排除するために学問の自由は保障され なければならないという見解を示している。た しかに特定の政党の影響力が教育活動に及ぶと いうことは,教育の政治的中立性や公権力によ る一方的な教育内容に対する干渉の危険などを

(4)

考えると,許容されるものではないといえるだ ろう。しかし,教員自身の学問の自由による権 力的干渉の排除という発想は,教員自身が児 童・生徒などに対して党派的影響力を行使する 可能性,あるいは教員自身が児童・生徒の権利 を侵害する可能性が考慮されていないのではな かろうか。もちろん,「教員自身の良識,自制」

などによって教員の政治活動を是正するべきと いうように一定の配慮をしているが,この良識 や自制がどの程度抑制的な効果があるのかは疑 わしい。

(2)真理の代理者である教員(宗像誠也)

 教員が学問の自由を享受できる理由を,教員 が真理の代理者であるということに求める見解 を採る者として宗像誠也がいる。例えば,宗像 は以下のように述べている。まず教師の教育 権(10)は,「教師が真理の代理者たることにもと づく」としながら,「教師は,教育行政権の末 端として,権力の命ずるままに教育していれ ばいい,というものではない。」と一般行政か らの教師の独立について述べている。その理 由としては,「真理を決定するのは行政ではな い。文部省でも内閣でもない。行政は本来的に 権力の作用である。権力は真理にかかわるもの ではない。」ということを挙げている。そして 学問の自由については,「学問の自由は,大学 教授が享有すると全く同様に小学校教諭も享有 する。この点には疑問の余地はない。つぎに下 級の教育機関で『享受の自由』が制限されるの は,ただただ被教育者たる児童生徒の学習権と いうことからのみ説明されるべきことなのであ る。児童生徒の理解力,判断能力の発達程度と いうことからのみ。」としている[宗像

1961

:

94,97,102]。

 宗像は,教員を真理の代理者としながら,教 育行政権の末端であることを否定し,教育を受 ける権利を侵害しないかぎりで教員の学問の自 由を認めようと試みている。たしかに真理は行 政が決定するものではなく,権力は真理に関わ るものではないかもしれない。しかしだからと いって教員が真理の代理者であるということに はならない。さらには学校における教育活動の 中には,そもそも真理かどうかが問題にならな いものもあるだろう。そう考えると,真理の代 理者として教員を想定し,教員に学問の自由の 享受を認めることは適当ではない。

 とりわけ,児童・生徒に対する権利侵害の可 能性について考える際,憲法23条と憲法26条の 人権相互間の調整(11)で解決しようとすること に,疑いが生じる。というのも,真理の代理者 である教員の学問の自由の行使は,結果として 児童・生徒の権利保障につながることはあるか もしれないが,基本的には児童・生徒との関係 で教員優位の関係を構築することとなり,児 童・生徒の教育を受ける権利を教員の学問の自 由に劣後させる可能性を生じさせるからであ る。

 以上,教員がなぜ学問の自由を享受できる法 的地位にあるのかについての諸見解を見てきた が,これらの見解に共通する点は,教育に携わ る職責をもつ者であることなどから,公立学校 教員は他の公務員とは異なる地位にあるとして いる点にある。そこでは,教員に対する公権力 からの干渉を,基本権を引き合いに出して排除 することができる地位に教員はあるとされる。

 専門職性や児童・生徒との関係などから,教 員の専門的自律性を認めるということは必要で あるかもしれない。しかしその理由づけを,実

(5)

定法制度内部での権限配分の問題ではなく,基 本権の問題として考えることで生じる児童・生 徒の権利侵害の可能性を慎重に考慮しなければ ならないであろう。

 とりわけ,教員の学問の自由を認めた場合,

教員による学問の自由の行使が,児童・生徒の 利益になるという視点に解消されながら解釈さ れてしまったり,仮に権利侵害が意識されて も,教員の判断による人権相互間の調整で解決 可能であるというように解釈される可能性があ る。このような場合,教育を受ける権利が保障 されている児童・生徒の立場は,教員の基本権 行使の前に,教育活動の中で周縁に追いやられ てしまう可能性があるのではなかろうか。

 このことを踏まえながら以下では,児童・生 徒の教育を受ける権利,学習権を保障するため に,教員が基本権を引き合いにだせるとする 諸々の見解を検討する。

第2節 学習権の保障と基本権主張可能性

(1)堀尾輝久

 まず児童・生徒の学習権を保障するために教 員が基本権を引き合いに出せる地位について,

教育思想の立場から見解を述べた論者に堀尾輝 久がいる。堀尾は,権利としての教育をその出 発点とするが,そこには子どもの学習権と親の 教育権の2つの契機が含まれているとする。そ してこれら2つの権利の関係は,子どもの権利 が親権の内容を規定するという関係をとり,親 権は義務性を有することとなる。この親の教育 義務は,その性質上委託ないしは共同化され,

私事の組織化として公教育が想定され,その公 教育の中で,教員は親義務の委託先として想定 されるのである。このような地位のなかで教員

には,真理を自由に学びとる権利としての学習 権を実現させるために,真実を,子どもの発達 に即してアレンジすることがその専門的任務と して担わされる。また教育との関係における国 家の任務は,教員の免許や教育財政等の形式的 側面での配慮やサービス(条件整備)にその任 務を限定されねばならないとされる。そして教 員の教育の自由については,それが国家権力と の関係を含む限りにおいて,思想・良心・学問 の自由と深くかかわった,市民的自由の一つと 考えられるとしている。[堀尾

1971

:

199

-

,321]

 堀尾の理論によると,教員は親義務の委託先 として想定され,国家は形式的側面における条 件整備を整える役目を担うこととなる。堀尾の 理論においても第2章第1節でみた論者たち と,行政から教員を切り離して捉えている点で 共通している。

 ただ教育の自由に関する見解を述べるにあ たって,子供の権利に規定されてはいるもの の(12),教育の自由は,対国家との関係で,思 想・良心・学問の自由として考えている点にお いては,第2章第1節で挙げた論者たちが,教 育活動を学問の自由に限定して語っていたのに 対して,より広い自由であると捉えているこ と,また児童・生徒の権利をその出発点として 捉えていることに差異があるといえる。

(2)兼子仁

 児童・生徒の学習権のために教員が職務上の 行為に際して基本権を引き合いに出せるとして いることを,現行法制の枠組みの中で論じてい るのが兼子仁である。兼子は,教育法を教育制 度に固有の法論理の体系として捉え,教育制度 と教育そのものが分けられるとしる。そのうえ で,教育を非権力的な作用として教育行政とは

(6)

異なるものとして捉えている。そして教育にお いては,子どもの学習権が保障されなければな らず,そのために教育の専門的自律性が確保さ れなければならないとする。現行教育法制にお いて学校の教師は,みずからが行う教育活動の 内容を自主的に決定する権能を保障されている と兼子は理解し,そして教師の教育権の教育条 理的根拠を人間的主体性,真理教育の自由性,

専門的自律性,自主的責任制に求めている。[兼 子

1978

:

195

-

,273

-

]。

 教育の宗教・政治等にたいする中立性につい ては,立法・行政の拘束力によって確保しよう とするときは教育の自主性を損なうと兼子は認 識している。このような認識の中で教員は基本 権を引き合いに出せるかというかいう点につい ては,学校教師も職務外にあっては,現代社会 に生きる国民個人にほかならず,人権としての 政治活動の自由を有するとされ,さらに教育担 当者としては,教育担当者としてもみずからの 政治活動の自由を持たずに政治活動の自由を重 んずる政治教育をなしえない道理であろうとい う見解をとる。教師と学校の教育活動に,理由 ある具体的障害が予想される範囲を越えて政治 活動制限が行われるときには,教師の人権は侵 害されるとする。また,兼子は,現行教育法制 において学校の教師は,教育権を保障されてい ると解している。そして教育行政当局が教師の 教育活動の具体的内容を捉えて“偏向教育”等 で違法と認定し,それを理由に免職をはじめ不 利益処分を行うことは,人事行政を通じて教育 活動を法的に拘束することになるため,教育基 本法10条1項の禁ずる「不当な支配」に該当す ると述べている。[兼子

1978

:

265

-

,273

-

,329

-

]。

 兼子によると,教員は,子どもの学習権保障

に裏打ちされた教育の専門的自律性を有した非 権力的な存在である。このような地位にある教 員は,法的拘束から自由な教育活動を保障され ていると解釈することができる。このことから 公立学校教員は,法令順守義務を負わされてい る公務員と異質な地位として把握することが可 能となる。

 とくに基本権を引き合いにだすことは可能で あるかどうかという問題については,職務外に おいても職務内においても可能であるとされ,

職務中の教育活動に対する制約も基本権の問題 として扱われている。たしかにこのような視点 は,教員の基本権が侵害される可能性について の視点を提供する。しかし,そこは教育活動と 基本権行使の両方が混在する可能性が含まれる ことになりはしないだろうか(13)。その際,自 身の基本権行使を正当な教育活動であると主張 しながら,教員による児童・生徒への一方的な 働きかけが看過されるおそれがある(14)

(3)今橋盛勝

 堀尾,兼子らの教育法学の成果を踏まえなが ら,同時に児童・生徒の学習権,思想信条の自 由との関連で教員の裁量権の逸脱などが問題と なっていることに目を向けて,2つの教育法関 係を提示した人物として今橋盛勝がいる。今橋 は,戦後日本の教育法関係においておもに現象 化した2つの教育法関係として,まず第1の法 関係として「国・自治体,教育行政機関・学校,

教員・社会教育職員という教育関係諸機関内部 の権能と権限と責任・義務をめぐる法関係」を 挙げ,この第1の教育法関係を媒介として教育 法学が生成し,教育法理論が深化してきたと述 べる。そして第2の法関係として「国・自治 体,教育行政機関,教育機関と子ども・生徒・

(7)

学生・父母・住民・研究者・出版社等との法関 係」を挙げ,この関係で起きている紛争に目を 向けている。[今橋

1983

:

25

-

 これら2つの教育法関係を踏まえて,今橋 は,教師の教育権の法的根拠と内容について考 察をしている。そこで今橋は2つの法命題を確 認する。「第1は,『教師の教育権』は,子ども の学習権・一般人権保障のために職務上必要と され,認められる権利・権限であるという法命 題である。第2の法命題として,『教師の教育 権』は,第1の法命題のために,国・文部省・

教育委員会・校長等の教育内容に対する公権力 的関与,教師の教育活動への公権力的統制を排 除するところに,その法的意味を見出しうると いう法命題」を挙げている。[今橋

1983

:

359

-

 これらの法命題を確認しながら,「教師の教 育権」について,2つの捉え方を示す。1つ目 としては「憲法23条・26条等から,対国家との 関係において,「教師の教育権」を憲法上の権 利または憲法的保障を受けた職務上の権限とし て把握し,子どもの学習権・一般人権の保障の ために,父母・住民との協議・合意・調整する 義務と,その上に「教育専門的事項」の一応の

「最終的決定」を教師(集団)にゆだねざるを えないという公教育の特質から,教育内容を決 定する権利・権限とする解釈」を挙げている。

 2つ目としては「奥平教授,兼子『教育法(旧 版)』がいう法的教育機関として教師が職務上 もつ固有な権限とする法解釈」を挙げている。

[今橋

1983

:

361

-

(15)

 今橋は2つの教育法関係を提示し,それらを 踏まえながら,教員の教育権の法的根拠を探 る。教員の教育権については,教員の教育権を 憲法上保障された権利または憲法的保障を受け

た職務上の権限という把握の仕方と教員が職務 上もつ固有な権限との2つの捉え方が可能であ るとしている。本論文の課題に即して見た場 合,前者においては,対国家との関係で基本権

(今橋によると憲法上の権利)を引き合いに出 すことが可能である法的地位が想定されている ことになる。逆に職務上の権限を行使する地位 として教員の地位を見た場合,教育活動を基本 権を引き合いに出して根拠づける余地はなくな るであろう。

(4)内野正幸

 今橋によって教育権の2つの捉え方が提示さ れたが,今橋が挙げた捉え方と異なる構造で教 員の教育の自由を主張する論者としては内野正 幸を挙げることができる。内野は,教員の教育 の自由について,以下のように述べている。「教 師の教育の自由は,人権としての側面と職務権 限のとしての側面を合わせもつ,とする併存説 が妥当であろう。すなわち,教師は,雇用者な どから(科目名,授業日時,受講対象者などを 含め)一定の職務を割り当てられた者であり,

雇用者および教育行政当局に従属せざるをえな い(いわば従属者としての)地位にある。そこ で,教師の教育の自由は,具体的な教育活動な どにかかわって職務命令や不利益を受けない,

という点では人権としてとらえられるべきであ ろう」,「たしかに,公務の遂行は原則として人 権性をもちえないが,しかし,教育について は,それが(いわば聖職に少し似た)特殊な性 質をもっていることや,教師が従属者として法 的利益を侵害されやすい立場にあることにかん がみ,いわば例外的に人権性が肯定されてよか ろう」と内野は,教員の教育の自由を人権と職 務権限の2つの側面を持つものとして捉えてい

(8)

る[内野

2010

:

111]。その人権性も法的利益の 侵害などに限って認められるもので,教育活動 全般にわたり認められるものとはしていない点 で,教育活動全般において憲法上の権利が認め られるとすると今橋の教育権の捉え方とは異な るものであるといえる。

第3節 小括

 以上,学問の自由によって職務上の行為を基 礎づける学説,児童・生徒の学習権のために 基本権を引き合いに出せる学説を検討してき た。校長や教育委員会,あるいは文部科学省な どの教育活動に対する干渉や統制に対して,教 員の自由あるいは裁量を認めることは,個々の 児童・生徒の教育を受ける権利に対応した教育 活動を行うために必要であろう。この一定程度 の自由あるいは裁量の根拠を基本権にもとめる か,法規によって創造された職務権限にもとめ るか(16),それともその両方に求めるかについ ての見解はそれぞれ相応の説得力を持つ。

 基本権に求めるという説あるいは基本権およ び職務権限の併存説については,教育活動に際 して(それが全体にしろ一部にしろ),公立学 校教員が基本権を引き合いに出して権力的干渉 や統制から自由であることを示す。もちろん,

上意下達の命令系統や法的拘束から自由である とするこの法的地位の想定は,教員自身の立場 からみた場合,最も理想的な法的地位といえる かもしれない。しかし,教育活動に際して教員 の基本権を引き合いに出して公権力からの干渉 を排除しようとする法的地位の想定は,児童・

生徒への侵害が教員によって引き起こされる可 能性を考えた場合,仮に想定することが可能で あるにしても,かなり限られた場面に限定され

るべきではなかろうか。またこのような地位の 想定は,教育公務員である公立学校教員に対し て,他の公務員とは異なる特権を付与すること になる。

 他方,職務権限説をとった場合については,

関連法規に拘束されながら職務上の行為を行 い,必要に応じて裁量権を行使することにな る。ここでは教員の活動は,基本権とは無縁と なり,教育に関する国家機関の権限行使とな る。この立場にたつ場合,公立学校教員の教育 活動に対しての裁量がどこまで認められるの か,その内容と限界を明確にしておくことが必 要となる。ここでは,職務上の行為が法律に よって拘束されるという意味で,公立学校教員 は公務員とその地位において共通点を有するこ ととなる。

 仮に公立学校教員の職務上の行為を教育に関 する権限行使と捉えた場合,市民的自由すなわ ち対国家との関係において国民が一般に享受で きる自由を職務中に享受することが可能である かどうかという問題が浮かびあがってくる。以 下では,公立学校教員を国家機関として捉える 諸見解において,公立学校教員が職務中に市民 的自由を享受できる地位にあるかどうかという 問題をどのように考えているかを検討する。

第3章  国家機関であることと職務中の 私的行為に関する学説の検討

(1)市民的自由との断絶(浦部法穂)

 公立学校教員が対国家との関係において,国 民一般が享受するという意味での自由権の担い 手であるかという問題について,自由権の担い 手たりえないとする見解を展開するものとして 浦部法穂がいる。浦部は,自由権との関係で教

(9)

員がどのような法的地位にあるかについて,教 員の教育の自由との関連で以下のように述べ ている。「教育を行う学校の教師は,教育を受 ける子どもやその親との関係では,まさに公 権力そのものなのである(私立学校の教師で も,公教育にたずさわるかぎりにおいて,国の

agent

”とみなされるべきものである。)。つま

り,子どもや親の立場からみると,教師は権力 そのものであって,決して自由権の担い手たり えない存在なのである。」[浦部

2006

:

196

-

]と いう立場を浦部はとる。

 ただし,「教師が不当な権力的干渉を受けず に教育を行えるような保障が必要であることを 否定するのではない。それは絶対に必要なこと であると考える。ただしそれは,教師の「学問 の自由」に含まれるからという理由によるので はない。教師の自由な創意・工夫なしに真の教 育は成り立ちえないであろうと思うし,した がって子どもの「教育を受ける権利」も満たさ れえないであろうと考えるからである。」[浦部

2006

:

197

-

]というように教育活動において,

教員は権力的干渉を受けない地位も有すること に言及している。

 浦部は,教員は権力そのものであり自由権の 担い手足りえないとしながら,他方で教員が不 当な権力的干渉を受けずに教育を行えるような 保障が必要であることについても言及してい る。後者については,第2章第2節で検討した 教員の教育権の問題と関連し,どのような根拠 と内容で教員が不当な権力的干渉を受けずに教 育活動を行うことができるかという問題へと接 合していく。前者については,教員は権力であ るために,国民一般が享受している自由権の担 い足りえないとするが,はたして教員はその職

務中において常に基本権を引き合いに出して国 家に対して自由を主張できる地位にはないので あろうか。

(2)市民的自由の余地(奥平康弘)

 この点について,教員を国の“

agent

(機関)”

として捉えながらも,教員が市民的自由の名の もとに憲法上の権利を引き合いに出せるとする 見解を述べているものとして奥平康弘を挙げ ることができる。奥平は,「教師は,教育を施 す子どもたちとの関係では,学校教育制度とい う一定の制度の枠組にあるかぎりで権限を有し 義務をもつにすぎない。」としながら,「教師の

『教育権』は,こうした制度的な制約のもとに おいてのみ成立するものであるから,権利とい うよりは,権限である。とりわけ,『国民』の だれでもが有するといった意味での『国民の教 育権』ではなく,またそれ自体はけっして憲法 上の権利でもない。憲法以下的法規範が創設す る実定法上の権限である。」と教師の教育権を 職務上の権限として捉えている。

 教師の教育権を以上のように捉えながら,市 民的自由との関係における教員の法的地位につ いては以下のように述べている。「このように

『教師の教育権』を理解するからといって,教 師が教育のことがらについていかなる意味でも 憲法上の権利を有するものではない,と結論づ けるには速断にすぎる。教師は,実定法制度の かぎりにおいて『教育権』を有するにすぎない が,当該実定法制度そのものの内部で,統治機 関が違憲な行為を行った場合には,ある種の教 師は,これを自己の市民的自由(教育の自由と 呼ぼうと,思想・信条の自由,表現の自由,学 問の自由と呼ぼうと,大差ない)の名において,

違憲無効の挑戦を行う権利を有する場合があ

(10)

る。」と述べ,そのような具体的な事例として,

一定の政治理論を名指して学校教育の場で教え ることを禁止して,それに違反した者に対し制 裁として刑罰または懲戒が規定されたり,君が 代などの使用を強制し,それに服さなかった 教師を懲戒処分にすることなどを挙げている。

[奥平

1981

:

417

-

 奥平は,教師の教育権は憲法上の権利ではな く実定法上の権限としながら,同時に場合に よっては市民的自由の名において統治機関の違 憲な行為に対して挑戦する権利を有するとして いる。この説では,教員を学校設置者の

agent

(機関)として子どもたちに接するとしている 点では浦部と共通点を持つが,いくつかの場面 を想定して教員が基本権を引き合いに出して違 憲無効の挑戦を主張できる場合があるとしてい る点に,その浦部との違いを見てとることがで きる。

(3)児童・生徒との関係性(西原博史)

 奥平はこのような可能性を示唆しているが,

この違憲無効の挑戦を,教員個人の自由の問 題,つまり教員の主観的権利の問題へと引きつ けながら,実際に教育現場で起きている問題を 素材としつつ独自の見解をもつものに西原博史 を挙げることができる。

 西原は,浦部および奥平と同様に,教員の職 務上の行為は生徒に対する権力行使にほかなら ないという立場をとっている[西原

2001

b:

40]。

このような法的地位を想定しながら,公立学校 教員は職務上の行為に際して基本権を引き合い に出せるかという問いに答えようと試みる。当 初は,場面わけをしながら,各教師が,日常的 な教育活動の割り当てを離れ,単なる校長の補 助機関として学校に関わる場面では,職務上で

あってもなお市民的自由が成立する余地がある という立場をとっていた[西原

2001

a:

461]。し かし,その後,「君が代」強制における思想・

良心の自由に関する論点について,教師が自ら の権利を単純に主張するという枠組みから,教 師として権利侵害に手を貸すことを拒む権利の 問題として教員の権利を児童・生徒との関係を 踏まえたうえで再構成している[西原

2001

b:

40](17)。そして教員の思想・良心の自由という 観点から職務命令等を吟味する場面として,教 員の人格否定に至るような職務命令が発せられ た時を例外的に挙げている[西原

2007

:

145]。

 西原は,浦部や奥平がとる立場同様に,教員 を権力の主体としてとらえる。そしてその教員 が基本権を引き合いに出せる場面としては,教 師として権利侵害に手を貸すことを拒む場合 と,教員の人格否定に至るような職務命令が発 せられた時を想定している。とりわけ前者の場 面において,違憲な国家の行為に対して市民的 自由の名のもとに違憲無効の挑戦ができるとし た奥平と異なり,児童・生徒の権利との関係で 教員の基本権の問題を把握しようとしている点 にその特殊性を見てとることができる。もちろ んこの主張に対しては,場面が限定されるの ではないのかという批判もあるが[米沢

2008

:

60],教員対国家という単純な図式ではなく,

そこに児童・生徒の権利問題をも含めた形で論 ずることによって,より現実に即した理論構成 になっているといえるのではなかろうか。

 以上,教員を公権力として捉える諸見解か ら,市民的自由の享受に関する教員の法的地位 について検討した。ここで共通していること は,教員は,職務上の行為に際して,教育に関 する権限を担った権力主体であり,基本的には

(11)

基本権主張可能性を有しないということであろ う。ただし,権力主体であるという点で共通は しているものの,場面によって基本権の主体た りえるかどうかという点については,まったく 基本権の主体たりえないとする見解,いくつか の場面では成り立ちうる場面があるという見解 といったようにばらつきがある。

 このような諸見解を踏まえながら,職務中に 個人の信条等に基づいて行われる行為が基本権 で保障されるかどうかについては,「公立学校 教員」対「国家」および「公立学校教員」対「児 童・生徒」という2つの関係を同時に考慮にい れながら,検討するべきであろう。この視点に よると,たとえば教員が自身の信条等を根拠に 国家に対して自由を主張しようとする際に,同 時に児童・生徒の権利等も考慮に入れることと なり,単純な教員対国家という図式を離れて,

児童・生徒の権利をも含めた形で公立学校教員 の権利を考えることが可能となるからである。

このような2つの視点を想定した場合,児童・

生徒の権利を侵害せずかつ職務上の権限も十全 に遂行しているという条件を備えてはじめて,

公立学校教員の基本権を引き合いに出す可能性 が出てくるといえるだろう。

 その点,児童・生徒と関わりを持たない職務 外においては,公立学校教員は他の市民と同様 の地位にあると考えられるが,この点について どのように考えられているのか以下見ていくこ ととする。

第4章  勤務時間外における基本権主張 可能性

 公立学校教員も,職務をいったん離れれば他 の市民と同様に,基本権を引き合いに出して特

別な制約に服しない自由を享受する立場にある であろうか。

(1)裁判官との類推(田中耕太郎)

 この点について,教育が政治から独立してい るという観点から司法とのアナロジーで教員の 職務外における地位を想定するものとして田中 耕太郎がいる。田中は,「附言するが教育者の 学外における政治的活動は,学校の機関として なすものはないから,法律上は禁止されてはい ない。これと比較すべきは裁判官の場合であ る。裁判官については,法は在任中積極的に政 治運動をなしてはならないものとしている(裁 判所法52条1号)。裁判官についてのこの禁止 は,もちろん裁判官としての本来の職務には関 係のない,個人としての活動に関するものであ るが,三権分立の精神に由来するものと解せら れる。教育者についてはかような禁止は存在し ないのであるが,教育も司法と同じく政治から 独立したものである以上は,たとえ教育者とし ての職務に関係ないとはいえ,教育者が政治運 動に狂奔するがごときことは,裁判官の場合と 同じく好ましくないといえるのである。従って 裁判官について存するような禁止を教育者につ いて認めることも立法上考慮に値するのであ る。」と,教育者の政治活動について述べてい る。[田中

1961

:

619]

 田中は,司法が政治から独立していることや 三権分立の精神から職務外にあっても積極的な 政治活動が禁止されていることを引き合いに出 して,教育者もそれと同様の禁止を認めること も立法上考慮に値すると述べている。

 この点につき,裁判官が憲法上身分を保障

(憲法78条)されているのに対し,教員はその ような身分保障がないこと,教員が三権のうち

(12)

の一つを直接に担っているわけではないことな どから,裁判官とのアナロジーで教員の政治的 活動を考えることには無理があるのではなかろ うか。また,裁判官にしても教員にしても,な ぜ職務とは関係のない職務外の行為に関して広 汎な制約が課されるのか疑問である。

 裁判官にしても公立学校教員の場合にして も,職務外にあっては基本的に私人としての自 由が認められるべきであろう。

(2)職務外における私人性の徹底(兼子仁)

 職務外にあっては私人として基本権上の自由 を享受できることを前提としながら,もし仮に 職務外に児童・生徒との関係が認められたな ら,教員の基本権行使と児童・生徒との関係,

教員の政治的中立性などどのように考えるべき であろうか。この点につき,兼子は,生徒たち の自発性を問題としながら,教師個人の社会 教育活動(18)をめぐる政治的中立性の問題につ いて言及している。兼子は,「学校の休業日等 にリクリエーション等のために教師が自校生徒 を校外に引率する生活指導行為は,原則として 教師個人の私的な社会教育活動であるから,そ うであるかぎり,当然,学校教育活動の政治的 中立性にかんする教育基本法8条2項の適用を 受けない。」という点を出発点とする。ただし,

「もっとも,社会教育活動も,教育活動であっ て政治活動ではない以上,教育活動における政 治的中立性という教育条理法上の要請に沿うて いる必要があると解されるが,それは,以下の 原理をふまえた上で,実態に即しつつ十分具体 的に解釈認定されなければならないと考えられ る。」としている。

 そしてこの点について兼子は,被教育者の自 発性という点に注目しながら,「社会教育活動

にあっては,教育者が自由な一個人として自主 的な被教育者に対することが多く,学校教育に おけるよりも,政治的中立性という条理上の要 請が緩和されてよい理由があると考えられる。」

としており,具体的には「学校教育活動におい てすら教育基本法8条2項違反とはならないと 解されるところの(この点の論証はここでは 省略する),当該教育活動じたいの結果として 特定政党の支持・反対の態度を将来せしめると いうことがないような場合は,社会教育活動と しては教育条理法上何ら問題はないと言える。」

と述べている。そして特定政党の支持・反対 の態度を招来せしめたような場合については,

「教師個人の私的な社会教育活動に対して,生 徒たちの側に十分な自発性が実在したと認めら れるならば,その限りでは当該社会教育活動は 政治的中立性にかんする教育条理法に反すると ころがないと言えよう。」という解釈をしてい る。[兼子

1976

:

247]

 兼子は,教員の私的な社会教育活動について は,とくに生徒の自発性が認められる場合,政 治的中立性に反することはないと述べている。

たしかに,休日等の教員の私的な活動を,学校 で行われる教育活動とみなすことは難しいかも しれない。しかし,休日等の職務外においても なお教員と児童・生徒との関係性は継続するた め,たとえ生徒の自発性が認められる場合で あっても,教員の私的社会教育活動の政治的中 立性などは十分に吟味されなければならないの ではなかろうか。

 以上,公立学校教員の勤務外における法的地 位について見てきたが,職務との関連性,児 童・生徒との関係性が認められない場合には,

基本的には勤務外における教員は他の市民と同

(13)

様に自由を享受する立場にあると言える。ただ し現行法制においては,公立学校教員をはじめ とした公務員に対して,広汎な政治的行為に対 する制約が課せられているため,教員も含めた 形で,この制約を課す法律の憲法適合性につい ては別途考える必要がある。

 勤務時間外であっても,児童・生徒との関連 が認められる場合には,日々の学校における関 係性から完全に私人ということは難しいと考え られる。この時にはたとえ勤務外であっても,

児童・生徒に対しての政治的中立性あるいは宗 教的中立性から,他の公務員とは異なり,教員 の行為に対してはなんら可能性がある。この点 においては,公立学校教員は,他の公務員とは 異なる教員固有の制約が担わされる可能性があ る。

おわりに

 公立学校教員の基本権主張可能性について,

職務上の行為,職務中の私的行為,そして職務 外の行為についてそれぞれ検討してきた。公立 学校教員による職務上の行為は,基本権を引き 合いに出して基礎づけることができるのかとい う問題について,学問の自由から基礎づけよう とする見解や憲法26条の教育を受ける権利を保 障する手段として教員は基本権を引き合いに出 せるという見解をそれぞれみた。また職務上の 行為とは別に,職務中における教員の私人とし ての行為,つまり一市民としての行為が基本権 に保障されうるかについて見てきた。

 職務上の行為について基本権を引き合いに出 して国家に対して自由を主張するという図式 は,教育活動に対する権力的干渉を阻むという 意味では効果的であるかもしれない。しかし,

教員自身が児童・生徒の権利侵害の可能性を有 しているという点を踏まえた場合,それでもな お基本権行使という図式を維持できるかどうか は疑わしい。基本的には,教員の教育活動にお ける裁量は,職務権限として捉えられるのが妥 当ではないか。この点については,他の公務員 と同様に職務中に一定程度の裁量を有するとい う意味で,公立学校教員の公務員性というもの が前面に出てくると思われる。

 他方,職務中における教員の私人としての行 為,つまり一市民としての行為が基本権に保障 されうるかについては,上記のように職務権限 を執行する者として公立学校教員を捉えた場 合,教員の権力性が意識されることとなる。そ のように考えると,教員が職務中に市民的自由 を享受する余地がないように解釈できるが,こ の点については「公立学校教員」対「国家」お よび「公立学校教員」対「児童・生徒」という 2つの関係の中で教員の基本権主張可能性を考 えるべきであろう。つまり,児童・生徒の権利 を侵害せずかつ教育に関する職務上の権限も十 全に遂行しているという条件を備えて,はじめ て教員の基本権を引き合いに出す可能性が語ら れうるということとなる。

 また,職務外については,基本的に児童・生 徒との関係が認められないときには,一市民と して自由を享受できる地位にあると考えられ,

児童・生徒との関係が認められる場合には,例 外的に,教員固有の権利制限が考えられるので はないかと推察される。

〔投稿受理日2010. 5. 22/掲載決定日2010. 6. 10〕

(14)

⑴ 卒業式に国旗が掲揚されたことに伴いリボンを 着用した教員が受けた文書訓告の違法性,ならび に,卒業式・入学式における国歌斉唱時のピアノ 伴奏拒否を根拠とした教員の異動が問題となった 国立ピースリボン事件判決(東京地裁判決 2006 年7月26日最高裁判所ホームページhttp://www.

courts.go.jp/hanrei/pdf/,東京高裁判決 2007年6月

28日判例集未搭載),国歌斉唱時における教員の 不起立が問題とされたココロ裁判(福岡地裁判決 2005年4月26日判例集未搭載),国歌斉唱時のピア ノ伴奏拒否が問題となった日野市立小学校君が代 ピアノ伴奏拒否事件最高裁判決(最三判 2007年2 月2日判例時報1962号3頁)など。

⑵ 2010年3月11日朝日新聞

⑶ この点につき,ドイツにおける教員の職務外の 政治的活動の自由を考察するものとして,[安原 2009b: 244]。

⑷ この点について,ドイツにおける憲法忠誠義務 と就業禁止実践を参考にしながら公立学校教員志 願者の基本権保障について検討しているものとし て,[安原 2009a: 112]。

⑸ たとえば,教育公務員特例法1条は「この法律 は,教育を通じて国民全体に奉仕する教育公務員 の職務とその責任の特殊性に基づき,教育公務員 の任免,給与,分限,懲戒,服務,及び研修等に ついて規定する。」とあり,一方で全体の奉仕者と しての側面が意識され,他方で教育公務員の職務 とその責任の特殊性が意識されている。

⑹ 国家公務員の争議行為の一律禁止についてその 合憲性が争われた事例として,全農林警職法事件 判決がある。最高裁は,争議行為が公務員の地位 の特殊性と職務の公共性と相容れないこと,公務 員の勤務条件が国会の制定した法律で定められる こと,市場の抑制力が働かないこと,人事院制度 による代償措置が採られていることなどから,争 議行為の一律禁止を合憲としている(最大判 1973 年4月25日刑集27巻4号547頁)。

⑺ 公務員の勤務時間外における政治的行為が問題 になった事例として猿払事件を挙げることができ る。最高裁は,公務員の政治的中立性を維持し,

行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確 保するという国民全体の共同利益を重視しながら,

公務員の意見表明の制約は,公務員の政治的中立

性を損なうおそれのある行動の禁止に伴う限度で の間接的,付随的なものとして,公務員の政治活 動の規制は合憲とした(最判 1980年12月23日民集 34巻7号959頁)。

⑻ たとえばこの点につき浦部は,「もっとも,公務 員は国や地方公共団体の事務を担当するものであ るから,その行う職務上の行為は,国民に対する 関係においては,国や地方公共団体の行為そのも のであることになる。国や地方公共団体は,国民・

の基本的人権の享有を保障すべき義務を負ってい るから,公務員も職務の遂行にあたって,この義 務を忠実に果たすべきことが求められる。」と公務 員の職務上の行為について述べている。この見解 を前提にすると,公務員の職務上の行為は,当該 公務員の基本権とは関連のないもので,国民・住 民の基本権を保障する義務であると考えることが 可能となる。[浦部 2006: 76-]。

⑼ 教員の法的地位に関する国際的な基準として ILO・ユネスコの教員の地位に関する勧告がある。

この勧告では「教育職は専門職としての職務の遂 行にあたって学問上の自由を享受すべきである。

教員は生徒に最も適した教材および方法を判断す るための格別に資格を認められたものであるから,

承認された計画の枠内で,教育当局の援助を受け て教材の選択と採用,教科書の選択,教育方法の 採用などについて不可欠な役割を与えられるべき である」(61項)と述べられている。もちろん,学 問の自由を日本国憲法でいう学問の自由と同視す ることが可能であるかどうかなどの問題もあるが,

この勧告から,その専門職性から,教員に対して 独自の地位を与えようとする見解がみてとること ができる。

  このILO・ユネスコの教員の地位に関する勧告 の日本における紹介としては,[宗像 1967: 17-]。

⑽ 宗像のいう教師の教育権の定義は,「教育にた いする権利,発言権というくらいの意味で,ゆる やかに理解しておいてほしい」とあるように厳密 な定義ではなく,ゆるやかな定義である。[宗像 1961: 92]。

⑾ 制限に関する類似の見解として,[有倉 1970: 5]。

⑿ 堀尾は,「教育の自由は,それが国家権力との関 係を含む限りにおいて,思想・良心・学問の自由 と深くかかわった,市民的自由の一つと考えられ

(15)

る。」としながらも,「教育の自由は,子供の権利 の確認と,新たな「発達と教育の理論」の発展を まって,はじめて成立すると考えてよい。」と述べ,

「教育の自由を,市民社会の歴史にもとめ市民的自 由一般に解消させるのは必ずしも正しくない。」と して,教育の自由を市民的自由の一つとしながら も,市民的自由一般とは異なるものであるとして いる。[堀尾 1971: 321-]。

⒀ このような批判については,[奥平 1981: 415]。

⒁ たとえばこの点について,「公教育を親義務の共 同化とか親と教師集団の組織化とか主張する意図 は,前にも述べたように,教育内容の決定から国 家を排除することである。そしてその一つの大き な理由は,子供の学習権尊重・保護と親の教育の 自由の確保である。しかし,この理由が,どうし て教育内容の決定から国家を除外し,教員の大幅 な決定権へとつながるのか,理解できない。」とい う批判がある。[伊藤 1981: 50]。

⒂ 教師の職務上の権限について,奥平は以下のよ うに述べている。「教師の,学校教育制度という枠 組みのなかにおけるありようは,複合的である。

それは,子供たちとの関係,親との関係,教師集 団(学校)との関係,学校設置者との関係などか ら成り立つ。学校設置者がだれであるかというこ とにかかわって,それとは別に,さらに,中央統 治機構をも想定しうるであろう。こういった諸関 係のなかで,教師は,親の直接的な信託(私立学 校の場合)もしくは間接的な信託(国公立学校の 場合),および国民一般の抽象的な信託に基づいて 存立するところの学校設置者のagent(機関)とし て,子供たちと接する。教師の『教育権』は,こ うした制度的な制約のもとにおいてのみ成立する ものであるから,権利というよりは,権限である。

とりわけ,『国民』のだれでもが有するといった 意味での『国民の教育権』ではなく,またそれ自 体はけっして憲法上の権利でもない。憲法以下的 法規範が創設する実定法上の権限である。」[奥平 1981: 417]。

⒃ この点については,例えば以下のような見解も ある。「『国家の教育権』を前提としつつ,教員の 専門職性を前提とする裁量をどこまで認めるのか という議論が現実的だといえよう。」[坂田 2002:

43]。

⒄ この問題についてなお教員の人権の問題として

考える見解として,[佐々木 2001: 1-]。

⒅ 学校教育活動と社会教育活動の区別については,

[兼子 1976: 243]。

参考文献

青木宗也編[1977]『教育公務員の勤務条件』(勁草 書房)。

芦部信喜[1994]『憲法学Ⅱ人権総論』(有斐閣)。

有倉遼吉[1964]『教育と法律』(新評論)。

――――[1970]「憲法と教育 憲法26条を中心として」

公法研究第32号1頁。

安西文雄ほか[2009]『現代憲法学の論点』(有斐閣)。

伊藤公一[1981]『教育法の研究』(法律文化社)。

――――[1986]「教師と教育権限」季刊教育法第65号 148頁。

今橋盛勝[1983]『教育法と法社会学』(三省堂)。

内野正幸[1994]『教育の自由と権利』(有斐閣)。

――――[2010]『表現・教育・宗教と人権』(弘文堂)。

浦部法穂[2006]『憲法学教室 全訂第2版』(日本 評論社)。

奥平康弘[1981]「2章 教育を受ける権利」芦部信 喜編『憲法Ⅲ 人権(2)』(有斐閣)361頁。

兼子仁[1976]『教育権の理論』(勁草書房)。

――――[1981]『教育法 〔新版〕』(有斐閣)。

教育法研究会[1988]『教育法』(ぎょうせい)。

坂田仰[2002]『学校・法・社会』(学事出版株式会 社)。

佐々木弘通[2001]「『人権』論・思想良心の自由・

国歌斉唱」成城法学66号1頁。

鈴木安蔵[1969]「第二章 教育の政治的中立と学問 の自由」鈴木安蔵・星野安三郎『学問の自由と教 育権』(成文堂)。

高柳信一[1983]『学問の自由』(岩波書店)。

田中耕太郎[1957]「司法権と教育権の独立」ジュリ スト121号2頁。

――――[1961]『教育基本法の理論』(有斐閣)。

戸波江二・西原博史編著[2006]『子ども中心の教育 法理論に向けて』(エイデル研究所)。

西原博史[2001a]『良心の自由 増補版』(成文堂)。

――――[2001b]「「君が代」裁判と憲法」法学セミナー 562号38頁。

―――― [2007]「「君が代」伴奏拒否訴訟最高裁判決 批評「子どもの心の自由:を中心に」世界765号 137頁。

(16)

――――[2009a]『自律と保護』(成文堂)。

―――― [2009b]「「君が代」裁判と外部的行為の領域 における思想・良心の自由の意義」労働法律旬報 1709号6頁。

堀尾輝久・兼子仁[1977]『教育と人権』(岩波書店)。

堀尾輝久[1971]『現代教育の思想と構造』(岩波書 店)。

――――[2002]『教育の自由と権利』(青木書店)。

宗像誠也[1961]『教育と教育政策』(岩波書店)。

宗像誠也ほか[1967]『教師の自由と権利 ILO・ユ ネスコ勧告を中心に』(労働旬報社)。

室井力[1968]『特別権力関係論』(勁草書房)。

安原陽平[2009a]「公立学校教員志願者の「適性」

と基本権保障に関する比較憲法学的考察-ドイツ における憲法忠誠義務と就業禁止実践を参考とし て-」社学研論集第13号112頁。

――――[2009b]「公立学校教員の勤務時間外における 政治的活動の自由と憲法忠誠-ドイツにおける基 本法33条5項の射程をめぐって-」社学研論集第 14号244頁。

米沢広一[2008]『憲法と教育15号 改訂版』(北樹 出版)。

参照

関連したドキュメント

少子化と独立行政法人化という二つのうね りが,今,大学に大きな変革を迫ってきてい

専攻の枠を越えて自由な教育と研究を行える よう,教官は自然科学研究科棟に居住して学

ケイ・インターナショナルスクール東京( KIST )は、 1997 年に創立された、特定の宗教を基盤としない、普通教育を提供する

青少年にとっての当たり前や常識が大人,特に教育的立場にある保護者や 学校の

実習と共に教材教具論のような実践的分野の重要性は高い。教材開発という実践的な形で、教員養

全体構想において、施設整備については、良好

17‑4‑672  (香法 ' 9 8 ).. 例えば︑塾は教育︑ という性格のものではなく︑ )ット ~,..

関西学院は、キリスト教主義に基づく全人教育によって「“Mastery for