ごあいさつ
平泉文化フォーラムは、平泉文化研究の先端的調査研究成果を公開する場として、
平成 12 年度から開催しており、今回で第 14 回を数えます。岩手県と地元の研究者
が多く所属する県内の大学等の高等教育機関で構成されます「いわて高等教育コン
ソーシアム」、岩手大学平泉文化研究センターとの共催で開催いたしております。
今回は、歴史学や考古学、科学分析なども含めた多方面から多角的な研究に取り
組んでいただいている平泉文化共同研究の成果を発表するとともに、古代から中世、
近世にかけての建築史を専門分野とし、平泉の文化遺産の世界遺産登録や文化財保
護行政にも深く携わってこられた清水擴先生から、ご講演をいただきます。また、
今年度実施された平泉関連遺跡の発掘調査の成果についても、それぞれ調査担当者
から報告を行います。
柳之御所遺跡を含め、平泉の文化研究はこれまでの多くの蓄積がありますが、今
後も様々な視点からの研究やその成果の公開が求められています。このフォーラム
が「平泉」の文化研究を進めていく上で今後の活動の一助になるとともに、参加さ
れました皆様の平泉文化へのご理解とご関心を深める機会となれば幸いに存じます。
平成 26 年 2 月1日
岩 手 県 教 育 委 員 会
い わ て 高 等 教 育 コ ン ソ ー シ ア ム
第14回 平泉文化フォーラム 日程
2月1日(土) 12:30 受付開始 13:00 開会あいさつ いわて高等教育コンソーシアム、岩手県教育委員会、一関市教育委員会 13:10 基調講演「仏教建築にみる平泉文化の特質」 清水 擴(東京工芸大学名誉教授) 14:40 休憩 14:55 遺跡報告 無量光院跡の調査成果(平泉町教育委員会) 15:15 遺跡報告 骨寺村荘園遺跡の調査成果(一関市教育委員会) 15:35 遺跡報告 白鳥舘遺跡の調査成果(奥州市世界遺産登録推進室) 15:55 研究報告 四面廂建物からみた平泉の都市景観 荒木志伸(山形大学) 16:25 研究報告 藤原清衡と「平泉」思想 伊藤博幸(岩手大学) 16:55∼17:05 質疑応答 17:05 平成25年度研究集会「日本都市史のなかの平泉」報告 岩手県教育委員会・一関市教育 委員会・奥州市教育員会・平泉町教育委員会 2月2日(日) 9:00 受付開始 9:15 遺跡報告 柳之御所遺跡の調査成果(平泉遺跡群調査事務所) 9:30 遺跡報告 伽羅御所跡ほかの調査成果 ((公財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター) 9:45 研究報告 奥州藤原氏の権力基盤に関する基礎的研究 七海雅人(東北学院大学) 10:15 休憩 10:25 研究報告 平泉仏教の歴史的性格に関する文献資料学的考察 誉田慶信(岩手県立大学) 10:55 研究報告 平泉の食文化 前川佳代(奈良女子大学) 11:25 研究報告 12世紀前後における奥州藤原氏文化と北海道の関連について-鍋と玉- 越田賢一郎(札幌国際大学) 11:55∼12:00 質疑応答 12:00∼ 閉会あいさつ 表紙イラスト:木村路子目 次
Ⅰ 基調講演 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
仏教建築にみる平泉文化の特質
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 清水 擴(東京工芸大学名誉教授) 1
Ⅱ 発掘調査成果報告 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5
無量光院跡の調査成果・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 島原弘征・ 鈴木江利子 2
骨寺村荘園遺跡の調査成果
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鈴木弘太・山川純一・二階堂里絵・澤目雄大 4
白鳥舘遺跡の調査成果 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 及川真紀 6
柳之御所遺跡の調査成果・・櫻井友梓・伊藤みどり・岩渕計・佐藤郁哉 8
伽羅御所跡跡ほかの調査成果 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 杉沢昭太郎 10
Ⅲ 研究報告
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
12
四面廂建物からみた平泉の都市景観・・・・・・・・・・・・・・・ 荒木志伸
(山形大学)13
藤原清衡と「平泉」思想 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 伊藤博幸
(岩手大学)17
平泉藤原氏の権力基盤に関する基礎的研究・・・・・・・ 七海雅人
(東北学院大学)20
平泉仏教の歴史的性格に関する文献資料学的考察
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 誉田慶信
(岩手県立大学)29
平泉の食文化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 前川佳代
(奈良女子大学)33
平泉文化と北海道・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 越田賢一郎
(札幌国際大学)39
仏教建築にみる平泉文化の特質
清水 擴
清水 擴先生略歴 東京工芸大学名誉教授。1945 年 2 月生まれ。1974 年東京大学大学院工学研究科建築 学専攻博士課程修了。専門は日本建築史。1989 年より東京工芸大学教授。 主要研究テーマは平安時代の仏教建築史および近世民家建築史。 2001 年∼ 2009 年文部科学省文化審議会第 2 専門調査会委員。2009 ∼ 2010 年文部 科学省文化審議会員。2001 年より平泉遺跡群調査整備指導委員会委員として、平泉遺 跡群の調査整備の指導を行っている。 主要著書に『平安時代仏教建築史の研究−浄土教建築を中心に』、『延暦寺の建築私的研 究』等がある。Ⅰ 基調講演
無量光院跡の調査成果
(平泉町)
平泉町教育委員会 島原弘征・鈴木江利子 1.はじめに 無量光院跡は、奥州藤原氏三代秀衡が建立した寺院跡です。平成14年から整備に向けた 調査を行い、北小島や橋の跡などの遺構が見つかっています。 28次調査は、①池北側の岸・池底確認、②東島の構造把握、③1次調査で確認された東 島の3棟の礎石建物の再調査を目的として、平成25年6月∼12月まで調査を行いました。 2.調査の成果 (1)池北側の調査 池の北側から半島状の岬と入江が見つかりました。岬の大きさは長さ28m、幅10m、入 江は幅11m、奥行29mあります。入江奥の岸の残りは非常に良く、当時の洲浜の様子を知 ることができ、現在行われている整備に生かせる成果です。岸に水が当たる部分を中心に小 石がまとまって見つかっており、部分的に石を葺いていた可能性があります。 無量光院跡の池では、中島・東島・北小島の周辺以外では小石が見つかっていません。そ の為石が葺かれていた範囲が入江に限定されるか、全体に及ぶかが課題となっています。 無量光院跡がモデルとした平等院の池においても、無量光院跡と同じ池北側から岬と入江 が見つかっており、本堂のある中島と北小島との位置関係が平等院と似ていることが分かり ました。このことは、平等院との類似性を考える上で重要です。ただし、平等院の場合は岬 が入江の入口部分において東西で対になっているのに対し、無量光院跡は片側(西側)のみ の確認となっています。 見つかった岬と入江(東から)Ⅱ 発掘調査成果報告
(2)東島の調査 東島東∼南側にある景石(庭石)の調査 を行いましたが、一部動かされている石は ありますが、大半の景石は元の位置を保っ ていました。北岸からは傾斜のゆるやかな 斜面に平らな石が張り付いていました。岸 をまもる護岸石と考えられます。 (3)東島の建物跡 昨年度の調査で、東方建物と報告された 建物が、一部柱筋がずれていること、根石 を構成する石の入り方が異なることから、 複数の建物に分かれることが分かりまし た。今回の調査では、確認された建物跡の 構造・規模を再確認するため建物の範囲の 南半部若しくは南東部を中心に調査を行い ました。 調査の結果、建物の柱を支える礎石は失われ、かろうじて礎石の下に広がる根石(※)が見 つかりました。西方建物の根石は残りが良かったものの、東側の中間建物・東方建物の残 りは悪いことが分かりました。特に東方建物の礎石及び根石のほとんどが失われており、 建物の形や大きさを確認することができませんでした。 ※根石は建物の柱を支える礎石を安定させるため、礎石の周りを固めている石のことで す。 護岸石(南から)
骨寺村荘園遺跡の調査成果
(一関市)
一関市教育委員会 鈴木弘太・山川純一・二階堂里絵・澤目雄大 はじめに 今年度は骨寺村荘園遺跡のうち、白山社及び駒形根神社(中川6地点)、梅木田遺跡、伝 ミタケ堂跡、不動窟の確認調査を実施しています。ここでは、主に白山社及び駒形根神社と 梅木田遺跡の調査成果について、ご説明します。 1.白山社及び駒形根神社の調査成果 駒形根神社の北西約250mの丘陵北側山裾で、大規模な土地造成の痕跡を確認しました。 今年度は最も大きな平場の発掘調査を実施しました。 平場は南北約20×東西15mの範囲で、南側は山裾を段切り上にカットしてあり、平場は 拳大の礫と黒色土を交互に積み上げて造成されていることが判明しました。平場の上面から は、7基の柱穴が発見され、3間以上の掘立柱建物が存在していたことが分かりました。ま た付近には建物の礎石とみられる2個の石材があります。その内の一つは当初、原位置を保 っていると考えていましたが、礎石上面と平場最奥部の比高差が6cmしかなく、後世に移動 された可能性があります。 この平場の北側には、池状の窪地を発見しました。トレンチ調査を行ったところ、窪地底 面には粘土が貼られており、人工物であることが明らかになりました。また窪地の周辺に柱 穴を発見しています。 平場の東側で、約30基の塚を発見しました。大きいものでは直径約4m、高さ80cm程度 です。測量を行った結果、配置に規則性は認められませんでした。なお物理探査も行ってい ます。 2.梅木田遺跡の調査成果 梅木田遺跡は平成12年度に発掘調査が実施され、大型の柱穴が発見されていました。今 年度はその調査区の再調査と、さらに範囲を広げた調査を実施しました。 調査では山裾をカットし、段々の平場を造成しており、下段に建物を構築していることが 明らかになりました。上段からは建物遺構は発見されません。下段の奥部には比較的大きな 溝が掘り込まれており、雨水対策とともに土地を区切る施設と考えられます。また部分的に 整地されていることも明らかになりました。 調査区南西側は黒色の土層に覆われており、自然流路(沢)の跡と考えられます。大きな 溝はこの沢に流れ込んでいます。つまりこの屋地の北西は山に、南西は沢に囲まれているこ とが明らかになりました。 大型の柱穴は18個を確認し、少なくとも2棟以上の掘立柱建物になることが判明しまし た。この他にも柱穴は多く発見しており、小型の建物や柵等の施設の存在が示唆されます。 出土遺物は乏しいですが、用途不明の金属製品(鈴か)が出土しています。 3.不動窟・伝ミタケ堂跡 不動窟では、窟全面に3基の柱穴が発見され、庇あるいは舞台等の施設の存在が示唆され ました。窟入口では貫痕があり、扉を設えたことが予想され、内部には燈明具を置く施設も 確認されています。 伝ミタケ堂跡では、トレンチ調査を実施しましたが、遺構遺物とも発見されませんでし た。 おわりに 白山社及び駒形根神社と梅木田遺跡は本寺川を挟み対面しています。両地点で発見された 施設は緊密な関係が予想され、土地造成や建物の規模からは荘園内の重要施設であったこと が想定されます。次年度以降、重点的に調査を実施して参りたいと考えています。O 梅木田遺跡遺構概念図 中川6地点遺構概念図 梅木田遺跡全景写真 中川6地点全景写真 ㆮ᭴ ㆮ᭴ 㧵 㧭 ㆮ᭴ ㆮ᭴ 㧴 㧳 㧱 ㆮ᭴ ㆮ᭴ ㆮ᭴ ㆮ᭴ ㆮ᭴ ㆮ᭴ ㆮ᭴ 㧯ർ┵ᒛ 㧶 㧭ධ┵ᒛ 㧮ධ┵ᒛ 㧷 㧯 㧯┵ᒛ 㧰 㧮ർ᧲┵ᒛ 㧮 㧲 ⍹ ⍹ ⍹ ⍹ ⍹ ⍹ 近世造成面 柱穴:遺構3,5,7,8,9,10,11 礎石据跡か:遺構4,6,11 O
白鳥舘遺跡の調査成果
(奥州市)
奥州市世界遺産登録推進室及川真紀
白鳥舘遺跡は、白鳥川と北上川の合流点の南東約700mの地点に位置し、北上川に半島状 に突き出した丘陵に立地します。遺跡は標高27∼30m前後で、北と東が北上川に接してい ます。 これまでの発掘調査によって、遺跡の丘陵部は10世紀頃に集落として利用されたのち、 14世紀頃に城館となり、15世紀半ばには現在のような城館として大きく整備されたと考え られます。平成20年度からの調査では、丘陵南西部の低地で12∼13世紀の遺跡の存在が確 認されました。 今年度の第12次調査は、低地に広がる12∼13世紀の遺構群の北側の範囲を把握するた め、昨年度に調査を行った11次調査区の北隣の水田を調査しました。その結果、12∼14世 紀と推定される井戸跡、溝跡、鍛冶炉跡、掘立柱建物跡、土坑などの遺構が確認され、中 国産陶磁器、国産陶磁器、かわらけ、銭、釘などの鉄製品や、鉄滓(てっさい)の付いた炉 壁、絵が線刻された砥石などの遺物が出土しました。 今回の調査区では、調査区の中央部から東部にかけて区画溝と思われる溝跡が確認され、 その周囲で多数の柱穴と井戸跡、鍛冶炉跡、土坑などが出土しました。また、調査区の西部 には、昨年の調査で確認された溝の延長と考えられる南北溝が確認されました。このうち区 画溝は、南西から北西方向に延びる溝に、ほぼ直交する2本の溝が西側に枝分かれして延び ています。溝で区画された内側には、掘立柱建物跡の柱跡と考えられる多数の柱穴がありま すが、復元できる建物跡は2間×3間程度の小規模な建物で、何度か建て替えが行われたと 考えられます。区画溝の範囲では18基もの井戸跡が確認されました。区画溝より古いもの と新しいものがあることから、これらの遺構群は、ある程度の期間にわたって利用されたこ とが伺えます。鍛冶炉跡は、精錬炉と考えられるもので、周囲から製鉄炉壁と推定される鉄 滓の付着した炉壁が出土しました。この遺構の周辺では、白色の粘土が充填されている遺構 や、炭が多く含む土坑などが確認されています。 これらの遺構からは、12世紀から14世紀の前半にかけての遺物が少量出土しました。こ のうち12世紀のものはかわらけ、青磁、渥美・常滑産陶器で、13世紀以降のものと考えら れるのは、かわらけ、青磁、東北地方産陶器、銭(北宋銭)、鉄滓、釘などの鉄製品や銅製 品、砥石です。銭は14点出土しましたが、このうちの11点は緡銭の状態で出土しました。 砥石は、表面に細い工具で彫ったと思われる落書きのような絵が描かれています。 今回の調査によって見つかった区画溝と周辺の遺構群は、これまで低地で確認された遺 構群とは溝跡や建物跡の方向が大きく異なること、低地からは出土していなかった14世紀 頃の遺物が出土したことから、多くが13∼14世紀前半頃の遺構と考えられます。これによ り、これまで12∼13世紀前半までと考えられていた低地の利用時期が12∼14世紀前半に及 び、丘陵部の遺構群と時間的に連続することが判明しました。また、今回の調査区では、北 に向かって下がっていく自然地形は認められず、低地の遺構群の北限と想定していた堤防の 南の低地は、堤防構築時に土取りされた跡地と考えられました。このことから白鳥舘遺跡の 低地に展開する12∼14世紀の遺構は、堤防の北側の微高地から北上川岸まで広がる可能性 が高くなりました。 次年度以降の調査では、堤防北側の微高地について発掘調査を行い、遺跡の北側の範囲を 確認するとともに、川湊遺構の確認を進める予定です。柳之御所遺跡第 75 次調査の成果
(平泉町)
岩手県平泉遺跡群調査事務所櫻井友梓・伊藤みどり・岩渕 計・佐藤郁哉
1.今年度の調査位置と目的 今年度の調査は柳之御所遺跡の南西部にあたり、無量光院跡と近接し、猫間が淵跡と呼ばれ る低地帯にかけての範囲を対象にしました。堀内部と外部とを区切る2条の堀跡が位置すると 考えられてきた範囲を対象としています(図1)。この地点は、水田として利用されてきました が、周囲の調査状況から2条の堀跡が延長すると考えられ、後世の改変が少なく良好に残存す ることが期待されていた範囲です。以前の調査で一部トレンチを設定し調査を行っており、堀 跡を確認していますが、周辺の状況など不明な点が多く残されていました。 今年度は、2条の堀跡の存在が推測され、無量光院跡周囲の地形の観察から遺構の所在が想 定できる範囲の遺構を確認し、一部にトレンチを設定して遺構の分布や堆積の状況、遺物の様 相を検討することを目的に調査を行いました。2.調査成果
調査範囲では内側と外側の堀跡、2時期 にわたる整地層、橋状の遺構を確認しまし た。 ○内側の堀跡 内側の堀跡は、現在の町道に沿うように 確認しました。柳之御所遺跡側の上端は現 在の道路の下に伸びており確認できていま せんが、底面からの立ち上がりから幅は10 ∼12m程と考えられます。深さは2m程 で、断面の形状は逆台形となっています。 他の地点では4m程の深さで確認されて おり、やや浅く感じられますが、柳之御所 遺跡の内部からの比高を考えると、今回確 認した外側部分との比高より深くなること が想定でき、遺跡内部からみた際には他地 点と同規模の堀跡であったと考えられま す。また、断面の形状は今回確認した範囲 では逆台形状ですが、V字の範囲があるな ど、地点によって異なっていたことがわか ります。 ○外側の堀跡 幅は5∼6m程、深さ2m程の逆台形の図1 柳之御所遺跡第75次調査位置図
今年度調査位置 堀跡 池跡 中心建物 5& 5& 2 2 2 22 2 2 2 ②72次調査区 ③73次調査区 ④今年度調査範囲 ①21・69・70次調査区 25年度調査範囲形状です。猫間が淵側が緩やかで、柳之御所遺跡側は急な傾斜に掘り込まれています。堆積の 状況からは、全体に水成堆積の砂が主体となりますが、大きく3回ほどに分かれて、比較的短 期間で埋まっていったとみられます。掘り直し等は行われておらず、他の地点との差が目立ち ます。 ○整地層 外側の堀跡から無量光院跡に近い部分で2時期の整地層を確認しています。両者の間に手づ くねかわらけを含む自然堆積層があることから、新期の整地層は12世紀後半以降と考えられま す。それぞれの時期は12世紀中葉以前と後半に位置づけられます。いずれも範囲は限定的です が、無慮光院跡と柳之御所遺跡の間で地業が行われていたことは両者の間の関連を裏付けるも のです。 ○橋状の遺構(SX1) 調査区の中で7個の柱穴を確認しました(図2)。これらは新しい時期の整地層に伴うもの で、12世紀後半代の遺構と考えられます。柱は残りの良い範囲では径20∼30cmで,柱が残るも のでは加工の痕跡がみられます。柱の間隔は縦方向で300cm、横方向で270cmでほぼ均等にな っています。堀跡部分では延長が確認できませんでしたが、無量光院方向への通路として用い られたと考えています。この遺構は西方向を向いており、その延長には金鶏山が望めます。
3.まとめ
今年度の調査では2条の堀跡と2時期の整地層、12世紀後半代の橋状遺構を確認しました。 堀跡を渡る橋の有無などに課題は残りますが、無量光院との間に両者を結ぶとみられる施設を 確認したことは大きな成果となりました。周囲には未調査の範囲もあり、今後改めて検討して いきたいと考えています。
図2柳之御所遺跡第75次調査平面図
伽羅御所跡ほかの調査成果
(平泉町)
(公財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター 杉沢 昭太郎
1.花立Ⅰ遺跡 第30次調査 所在地:西磐井郡平泉町平泉字花立地内 調査対象面積:2,175㎡ 花立Ⅰ遺跡は金鶏山と高館・柳之御所遺跡の間にあり、花立山の裾にある緩斜面に立地し ている。 検出遺構(12世紀):溝2条、性格不明遺構1、柱穴3個、旧河道2条 旧河道 調査区北側で見つかった旧河道は柳之御所遺跡と無量光院跡との間にある「猫間が淵」と 呼ばれている旧河道と同じものである。幅45∼20m、深いところでは3m近くある。12世紀 段階ではかなり埋没して浅くなっていたようである。また、調査区南側にも小規模な旧河道 が見つかった。 調査成果 ・遺跡北端部には旧河道(猫間が淵)が延びていることが判明した。 ・旧河道以外の場所は遺構・遺物共に少なかった。これは県道工事の際に削平されたためと 推測される。 2.花立Ⅱ遺跡 第24次調査 所在地:西磐井郡平泉町平泉字花立地内 調査対象面積:小公園165㎡、県道630㎡ 花立Ⅱ遺跡は無量光院跡の西隣にあり、南側は白羅山遺跡、北は柳之御所遺跡と接する。 検出遺構(12世紀):井戸跡2基、土坑7基、堀跡1条、溝跡22条、旧河道3条、整地層 1、性格不明遺構等 堀跡 調査区の南端部、無量光院跡と隣接する部分にある。元々旧河道であった場所に上幅約5 m、下幅約0.5m、深さ約2mの堀を設けていることが分かった。断面形はⅤ字形を呈し、概 ね北−南の方向へと延びている。12世紀後半のかわらけと下駄1点が出土した。 調査成果 ・今回の調査区は遺跡の北端部にあたり、無量光院跡や花立Ⅰ遺跡と隣接する地点である。 ・堀跡は無量光院跡西辺の堀跡にあたると考えている。現況で確認できる堀跡を延長させる と、やや西に振れるものの概ね直線的に堀が延びていることが分かった。 ・堀は小規模な旧河道を埋め立てて(整地層)から造られていた。 ・今回は遺跡の北端部を細長く調査したことになる。井戸跡や土坑などが見つかり12世紀後 半には居住域であったようだが、その遺構分布には密なところと薄いところがあった。 3.伽羅之御所跡 第22次調査 所在地:西磐井郡平泉町平泉字伽羅楽地内 調査対象面積:280㎡ 検出遺構(12世紀):堀跡1、土坑4、柵列5、溝5、柱穴約242 出土遺物:かわらけ、陶磁器など 調査成果 ・調査区からは伽羅之御所跡を取り囲む堀跡が見つかった。 ・堀跡は北北東−南南西方向へ延びている。これは隣接する無量光院跡の堀・土塁・建物の 軸線、白山社遺跡及びその参道の方向と概ね近い。 ・堀の外側にあたる部分には柵列が複数確認された。また、柱穴もかなりの密度で分布して おり多くの建物があったことを示している。柱穴の中には大きく深いものもあり、規模の大 きな建物の存在を窺がわせる。これらの中には「伽羅御所」よりも古い段階のものも含まれ る可能性がある。 ・これまでの調査成果から伽羅之御所跡は東西約180m、南北約100mの範囲ではないかと 想定した。花立Ⅰ遺跡 旧河道(猫間が淵)調査状況 花立Ⅱ遺跡 調査区南端部で見つかった堀 跡は無量光院跡西辺にある堀 跡の一部となる可能性が高 い。 伽羅之御所跡 堀の深さは約1.4mある。 堀の右側が伽羅御所跡の内部 になると考えられる。
藤原清衡と「平泉」思想
岩手大学平泉文化研究センター 伊藤 博幸
はじめに 平泉地名の謂われは?なぜ当地を平泉というのか?その地名は最初からあったのかどう か?江戸時代よりこの地名の意味や命名の契機についてはさまざまに言われてきた。一般 には『吾妻鏡』文治3年(1187)10月29日条の「今日、秀衡入道、陸奥国平泉館に於いて 卒去」が平泉の歴史的初見とされ、さらに同書文治5年(1189)9月23日条の「清衡、(中 略)去ぬる康保年中、江刺郡豊田館を岩井郡平泉に移して宿館となす」という記事から、そ の地名は清衡当初からあったとするのが通説的理解である。ただし、地名としての平泉は初 めて衣川を訪れた西行の家集『山家集』の「衣河」を読んだ詞書中1)に見られるので、 12世紀中頃にはその存在が確認できるが、やはり清衡当初から平泉といわれていたという 確証はない。いうまでもなく、江刺郡から岩井郡平泉に宿館を移したという記事は、12世 紀末葉頃の知識を清衡代に投影したに過ぎず、後付けの要素が強い。 報告では、「平泉」地名をめぐる研究動向を紹介しながら、平泉の本来の意味や由来につ いて考えてみたい。これらを検討する過程で、「平泉」思想なる概念を提唱できれば幸いで ある。 「平泉」地名研究の動向 当地における「平泉」の語源については、江戸時代以来、平地に泉が湧き出るところから の命名、また慈覚大師が骨寺村平泉野にあった寺を中尊寺に移したという平泉野本源譚など が代表的なものとして伝わっている。 このような伝承地名譚に対して、近年、平泉地名を歴史的に考える研究が現われてきた。 1987年、『寝殿造の研究』を著わした太田静六氏はその論文中で、「ついでながら、藤 原氏三代が栄えた平泉という地名については、今まで誰もふれておられないが、これは盛唐 時代の東都・洛陽の郊外にある別荘地で、唐の宰相李徳裕がここに別荘を営み、『平泉山居 戒子孫記』を残したので知られる唐の平泉に因んだものと私考される2)」と、はじめて平 泉地名問題を李徳裕の別荘地との関わりで取り上げた。 次いで、同様の問題を指摘したのは高橋富雄氏である。氏は1993年の『図説奥州藤原氏 と平泉』において「わたくしは最近、清衡以前、岩井郡に平泉の地名がなかったばかりか、 その移転とともにこの地名が命名されて、その宿館を平泉館と呼んだのでもないと確信する ようになっている。そして移転当初の清衡館は岩井営のように呼ばれたと推定し(上略)、 その岩井営が平泉館と呼ばれるようになった時期・理由であるが、これは清衡晩年近く(中 略)、中尊寺を中心とする黄金文化が、岩井府を花の都のように飾り、柳営また花の御所 (下略)のように讃えての名であろう。(その平泉館の由来も)同じように、著名な唐宰相 李徳裕(787−849)の豪奢を極めた別荘「平泉荘」に倣ったものであろう。平泉荘から平 泉館へ。まことに自然な移行である。平泉館ははじめのうち、ヘイセンのタチというような 呼称もあったりして、だんだんにヒライズミのタチというふうになっていった3)」と考え た。清衡以前、当地に平泉地名はなく、平泉館と呼ばれる時期も清衡晩年であり、その由来 も李徳裕の平泉荘に倣ったものとする。またその読みもヘイセンと音読みだったとする。平 泉を当初はヘイセンという音読であったとするのは卓見である。 ところで高橋氏は、この後著わした『平泉の世紀』(1999年)の中の「平泉のおこり」 においても、清衡以前には「平泉」はなかった、清衡以後も「平泉」の名で呼ばれる地名はしばらくなかったとしながら、一転してこの名は、清衡とともに歴史的に新しい時代を おこす「理念表徴」としての造語である。まず「平泉」はヒライズミでなく漢音ヘイセン と呼ばれた。ヘイセンは平安京の平安に擬した「たいらのみやこ」にあやかっての「たい らいずみ」である。安らかなる「平夷」としての「平安」。「平泉」も「平戦」として、 長い戦いを平夷におさめとる平安の泉、そういう願いが込められていたとして、李徳裕別 荘由来説を取り下げてしまった4)。そして清衡の「平泉理想」が明確な形をとるのが、 「中尊寺落慶供養願文」であり、それは聖都構想であったという。 平泉の都市づくりがどのような風水思想のもとに行なわれているか、そこにおける苑池 の配置はどういう原理に基づくのかなど、平泉を歴史地理学的に研究している前川佳代氏 は平泉の語源について、その名前は、平泉の苑池的性格から名付けられたと考えている。 それは『平泉旧蹟志』に載せる起源譚を受け、「平らな泉の湧き出る場所」であり、これ は中国唐の宰相李徳裕の別荘「平泉荘」の語源も同じであるとする。平泉荘は、12世紀に はすでに痕跡を残すのみとなっていたようだが、白居易などの多くの文人が「平泉荘」に ついて詩を残しており、詩文から平泉藤原氏がその存在を知るところとなった可能性は十 分にあるとする5)。 平泉地名問題を中国側の文献を用いて初めて明らかにしたのが、藪敏裕氏の「平泉起源 考」である6)。平泉に関する初の専論といってもいい。藪氏ははじめに先学が取り上げ た李徳裕の詩文を詳細に検討し、平泉山荘の名称は、山下の平坦な土壌から泉が湧き出る ことに由来すること、それは平泉と呼ばれた渓谷の総称であり、ここには歴代の多くの宰 相経験者の別業があったこと、平泉山荘が『穆天子伝』所載の崑崙山の山頂にあるとされ る平泉と同名であることを嘉していること、また別荘の涌泉は、所有者にその吉凶を教え てくれる神泉であるとされていること、などを指摘した。次いで、白居易と平泉山荘の関 係について分析を加え、洛陽城内に住む白居易は、別業を平泉に求めたいと希望してお り、その平泉でたびたび酔遊した白居易は(李徳裕のように平泉を理想郷と考えていたか どうかは別にして)平泉に強い愛着をもっていること、最後に『政事要略』「白居易伝」 を引き、白居易は単なる文人としてだけでなく、文殊菩薩の生まれ変わりとして(浄土世 界へ導く偉大な菩薩であると信じられて)わが国に将来されたことを指摘した。白居易像 についてわが国で大きな影響を与えたのが『白氏文集』である。「中尊寺落慶供養願文」 も白居易の影響が見られるという。李徳裕の詩文により洛陽南郊の平泉山荘は、白居易に よって詩に詠われ、文殊菩薩の言葉として東アジアに広まり、一部で仏教的な別業の名称 として受容され、清衡も永年の平和を願うための別業の名称としてこの地に平泉と命名し ようとしたとする。 伊藤は藪説を受け、さらに中国梁村溝平泉寺の現地踏査を踏まえながら、中国での平泉 は元来、伝説上の聖山崑崙山にある理想郷であった。それが次第に山中の楽園観に転じ、 あるいは隠遁空間に転じて、隠れ家的別荘となった。白居易に関する詩文や観念ともども これらの総体がわが国の「平泉」概念といえるとし、元来の平泉は別荘(別業)なので清 衡の宿館も当初は別荘と理解すべきだろうとした7)。語源の「平らな泉」にはもともと 波風が立たない、つまり戦乱のない世という意味付けがあり、清衡の平泉命名にはこのよ うな理由があったと考えた。 また、平泉と命名される以前の当地方は、広域「衣川」であり、平泉命名の時期は、清 衡晩年の中尊寺が整備される段階と推定し、中尊寺落慶供養願文と地名の命名が一体性を もつ可能性を指摘した。 まとめ―清衡と平泉 研究動向を概観すると、1900年代の前半と、2000年代の後半に二分できる。さて、わ が国平泉地名のルーツは中国盛唐の李徳裕(787−849)の別業、平泉山荘に行き着く。こ れは、すべての研究者に共通する認識である。それを媒介したのが平安初期に将来された
白居易(772−846)の『白氏文集』であることも後半の研究成果から明らかである8)。 また、そのはじめは、ヘイセンという音読みであり、訓読みヒライズミは後出的であるこ とも推定できる。さらに平泉と命名されるまでは、当地方は衣川の一地域であったことも 認めてよいであろう。 平泉の命名の時期は、おそらく「中尊寺落慶供養願文」草案作成時期とそれほど差異は ないと推定できる。「願文」は平安後期を代表する漢文学者藤原敦光の草案とされるが、 「願文」が白居易の詩句を引用していることは、藪氏の指摘の通りである。すなわち敦光 は、「平泉」の由来も漢籍から熟知していたことは十分に考えられる。あるいは、清衡は 自らが宿館を構えた当地の命名を敦光に打診した可能性もあろう。わたしが、中尊寺落慶 供養願文と地名の命名が一体性をもつ可能性を考えるのは以上の理由による。 平泉命名を打診された敦光は、清衡にその由来についてどのように説明したのであろう か。苑池、清水、林泉、竹林等々を備えた大規模な邸宅であること、そのルーツは崑崙山 の理想郷であったこと、都とは離れた別荘地であること、あるいは楽園的隠遁生活の場で あること等々、まさに「中尊寺落慶供養願文」の趣旨と一体となった「平泉」がそこに現 出したのである。 究極の問題である清衡は、広域衣川の南半地区になぜ別業を構えたのか、つまり「平 泉」をそこに構えた理由である。それを解くカギは、平泉のロケーションにあると考えて いる。これについてさらに研究を深めていきたい。 引用・参考文献 1) 後藤重郎校注 1982『山家集』新潮日本古典集成 新潮社 pp320−321.によれば、 詠まれた時期について文治2年(1186)10月12日説もあるが、現在は出家直後の陸奥行脚 の折りと考える説が有力とされる。こきでは後者に従う。 2)太田静六 1987「平等院鳳凰堂の源流」『寝殿造の研究』吉川弘文館、所収。ここで は新装版(2010)pp264−281.を使用した。 3)高橋富雄 1993「総論 藤原四代―五 平泉衣裳哲学」『図説奥州藤原氏と平泉』河 出書房新社 pp44−51. 4)高橋富雄 1999『平泉の世紀―古代と中世の間』日本放送出版協会 pp30−45. 5)前川佳代 2001「平泉の苑池―都市平泉の多元性―」『平泉文化研究年報』第1号 pp 59−70. 6)藪 敏裕 2013「平泉起源考」『平泉文化の国際性と地域性』汲古書院 pp5−20 7)伊藤博幸 2013「「平泉」地名の由来」『いわて文化財』第255号 p6. 8)わが国における『白氏文集』の渡来の歴史は、もっとも著名な記録として天台留学僧慧 萼の筆写した唐の会昌4年(844 和暦承和11年)のものがあるという。これ以後、『白氏 文集』が平安王朝文学に大きな影響を与えたことは周知のところである。静永 健 2010 『漢籍伝来―白楽天の詩歌と日本』勉誠出版 pp113−119.参照。
平泉仏教の歴史的性格に関する文献資料学的考察
岩手県立大学 誉田 慶信
はじめに 藤原基衡期(12世紀中期)の平泉仏教の特質を文献資料から読み込む。 安定期としての基衡の時代。平泉の街路形成。毛越寺の建立。大平泉への発展。 白河院政期への視線。荘園制社会が成立した白河院政後期。都市研究の盛況。戦後歴史学 の批判、在地領主制論からの転換。一方で歴史の中の「地域」論。秀衡の平泉幕府論。 では、その前段階としての基衡期の歴史的性格は何なのか。中世奥羽史とは何だったの か。 基衡がおこなった仏会とは何か。それは、藤原基衡が立っていた奥羽社会、平泉藤原氏政 権が直面していた歴史的課題とどのように関連していたのか。以上の点を考察する。 Ⅰ 清衡の千僧供養、基衡の千部一日経 (1)天治3(1126)年3月の鎮護国家大伽藍落慶供養のときの一切経会・万燈会・千僧 供養。とりわけ千僧供養は重要。京都の御願寺。延暦寺・園城寺・東大寺・興福寺の仏会。 平清盛が福原和田浜や安芸国厳島神社で千僧供養。東の千僧供養、西の千僧供養。 では基衡のときの仏教は何か。毛越寺の建立。宋版一切経の輸入。 あらためて同時代史料に着目する。 山本信吉「中尊寺経」(藤島亥次郎監修『中尊寺』河出書房新社、1971年) (2)4点の千部一日経。いずれも「紺紙金字法華経」妙法蓮華経巻第8 ① 保延四(1138)年五月十六日、奉為先考藤原清衡成仏得道、奉書写千部一日経内、 第六十二部也/弟子藤原基衡/導師伝灯大法師範耀/問者阿闍梨範覚 (静岡県湖西市妙立寺蔵) ② 保延六(1140)年五月四日、奉為先考藤原清衡成仏得道、書写千部一日経内、第二 百二十四部/弟子藤原基衡/講師伝灯大法師幸慶/問者阿闍梨兼耀 (田中塊堂『日本写経綜鍳』思文閣、1974年) ③ 保延六年七月十一日、奉為先考藤原清衡成仏得道、書写千部一日経内、第二百七十一 部也/弟子藤原基衡/講師伝灯大法師増忠/問者大法師応円 (東京都 個人蔵) ④ 久安四年(1148)閏六月十七日、奉為先考藤原清衡成仏得道、書写千部一日経内、 第五百七十二部也/弟子藤原基衡/講師伝灯大法師乗恵/問者大法師増忠(金剛寺所蔵) (3)①の問者の範覚は、在地世界の寺院に僧侶にあらず。京都の三井寺から千部一日経 の問者として招請された僧侶。大治2(1127)年12月3日法成寺御八講では竪者となる。 『中右記』同日条。また、長承元(1132)年5月27日には、最勝講結願にあたり、僧事が あり、阿闍梨となっている。『中右記』同日条。範覚は、藤原氏道隆流の藤原家範の子。 『尊卑分脈』。兄弟に白河院院司(四位別当)として活躍した家隆を筆頭に家行・家保・宗 隆らがいる。姉妹(姪か)は美福門院の女房。また、兄弟に仁和寺の阿闍梨行範がいる。行 範は仁和寺僧で陸奥国に住む。行範の師は、「本朝傳法灌頂師資相承血脈」(『大日本古文 書 醍醐寺文書 之一』によれば、寛助。寛助は若年の覚法法親王を扶持し、「法師関白」 と称される。嘉承2年(1107)年に鳥羽天皇護持僧。大北斗法の供養導師。栗本徳子「白 河院と仁和寺」(『金沢文庫研究』286号、1991年)。平泉ー三井寺僧の範覚ー行範ー寛 助ー覚法法親王の人脈。また藤原忠 との人脈。忠隆の子が、陸奥守藤原基成。 園城寺千僧供養と藤原清衡。『古事談』巻五の34「三井寺鐘の由来の事」。 導師の範耀は延暦寺僧か。延暦寺僧と園城寺僧が平泉に招請される。 ③と④の講師・問者の増忠、『尊卑分脉』によれば藤原道隆流の藤原経忠の子。藤原経忠と陸奥守藤原基信は兄弟。兄の増修は園城寺で阿闍梨。増忠も寺門であったか。また、兄弟 の行縁も都維那であり、最勝寺の僧侶。③の問者応円は、保元元年(1156)年3月15日 の祇園恒例一切経会で咒願を読み上げることとなった応円か。 基衡がおこなった千部一日経は、延暦寺・園城寺の僧らを招請してなされる。王都仏教 との恒常的なネットワークあってこその千部一日経。 (4)千部一日経とは、法華経一部を一日で書写し終わること。多人数でおこなう頓写 経。(田中塊堂『日本写経綜鍳』思文閣、1974年)。法華経八巻二十八品を一日に書写 するには、書き手30人、調巻師3人などが必要とされた『二中歴』(『史籍集覽』第32 集)。仏会としての千部一日経。単なる写経にあらず。 金泥千部法華経の事例は、仁平元(1151)年11月8日に藤原家成(中納言)が、八条 堂で金泥法華経一千部を供養した、とある(『本朝世紀』同日条、「濫觴抄」『群書類 従』巻20)。金字法華経一部の供養は珍しくないが千部となると話は別。「濫觴抄」に記 載される。藤原家成と美福門院得子は従姉妹同士。家成の父は家保。家保の父は、善勝寺 流の祖の藤原顕季。藤原家成は大国受領系鳥羽院近臣、美福門院の中心勢力。1141年ころ は、美福門院・藤原氏末茂流・村上源氏顕房流・藤原氏中御門流と待賢門院・藤原氏閑院 流との対立構図の渦中にあり。元木泰雄『院政期政治史研究』(思文閣出版、1996年)佐 伯智広「鳥羽院政期王家と皇位継承」(『日本史研究』598号、2012年)。鳥羽院近臣藤 原家成だからなしえた金泥法華経一千部の供養。 金泥法華経は「一部」が一般的(『長秋記』大治4年7月30日条文)。 遠大なる藤原基衡の「紺紙金字法華経」千部一日経。破天荒な法華経供養。 (5)千部一日経は、特別な発願のもとに、その集団の総力をあげて長期にわたり継続し て仏会をおこなう。当時の社会でむしろ希有の作善。法華八講こそが一般的。「年中行事 秘抄」(『群書類従』4公事部)。法華八講では、北京三会とともに法勝寺法華三十講・ 御八講などは国家的法会の中核をなす。論議会。上島享『日本中世社会の形成と王権』 (名古屋大学出版会、2010年)。千日間、法華経の読誦、講説をする法会としての千日 講。『今昔物語集』巻15の24。『兵範記』仁安3(1168)年4月24日条。関白藤原基実 家司平信範の「私家千日講」。仁安3年4月24日で六百日に。諸家の法華八講は、本来の 目的の中心は追善供養。同時に一門内部結合の確認・促進、外部に対しては一家一門の勢 力を顕示。高木豊『平安時代法華仏教史研究』(平楽寺書店、1973年)。『中右記』寛治 8年(1094)年3月19日条郁芳門院媞子平癒祈願の大般若経一部書写。 『中右記』天仁元(1108)年八月の色紙五部大乗経の書写。藤原敦光草の願文。等身の 金色の釈迦像を造り寝殿に安置。十二口の僧侶による講説。「互為講師又問者」となる。 開放された結縁の場。「聴聞の男女皆以て随喜」「道俗賓客来集」。寿永2(1183)年運 慶発願法華経書写(『平安遺文題跋編』2961∼2967号文書)。35日間の法華経書写。料 紙の調達。書写・法華唱題。 嘉禄元(1225)年、鎌倉で行われた金泥経書写と千僧供養。鎌倉幕府は千部一日経供養 をしたか。嘉禄元年(1225)年天災地変ひどし。前年には北条義時の後妻の伊賀氏藤原 頼経を廃し一条実時の擁立を企て鎌倉騒動。伊賀氏を追放。「世上病死之者数千に及ぶ、 その災を攘せんがため、般若心経と尊勝陀羅尼経万巻、一千部仁王経」書写がなされる。 実際は、鶴岡八幡宮にての千僧供養(仁王経転読)と般若心経と尊勝陀羅尼経の一千巻の 「摺」、百巻の金泥経書写。諸国一宮に下される。鎌倉幕府の宗教政策の特質。 (6)基衡発願の千部一日経。清衡の「成仏得道」は鎮魂、追善供養。重視すべきは、論 議会がおこなわれたこと。基衡は「弟子」。菩薩道。法華経法師品の「読・誦・解説・書 写・受持」のうち、より一般的だったのは「書写から読経へ」より「書写から埋経へ」 (高木『前掲』。法華経書写のあとに講が行われる。巻第八の奥に導師・講師・問者。被 物をどうするか。素直に解釈すれば「法華経」八巻28品に開経の無量義経と結経の観普 賢経も追加。紺紙金泥法華経を書写。その講説を千日おこなう。大変な人力が必要。写経
の僧侶と講説者(問答者)は別。平泉の論議会に延暦寺・園城寺の学僧が招請され続ける こと。 藤原清衡による天治3(1126)年3月の千僧供養の場合は、鎮護国家大伽藍落慶供養と いう歴史的瞬間としておこなわれる。それに匹敵する仏会は、千部一日経。 平泉・奥羽を法華経の説く仏土にし「続ける」という日常性の創出という意味で千部一 日経は重要。『吾妻鏡』文治5年9月17日条「寺塔已下注文」三月の千部会の底流に。 Ⅱ 千部一日経発願の背景にあるもの (1)平泉の千部一日経はいつ発願されたか。保延3年初。田中塊堂『日本写経綜鍳』。 保延3(1137)年7月月16日の清衡命日。あるいは、同年の晩秋か。なぜ、この年に基 衡は千部一日経を発願したのか。清衡没後の三七日の大治3(1128)年8月6日に「平 氏」が金泥法華経の一日書写。「平氏」は、「北方平氏」のことで「清衡正妻」(川島茂 裕「藤原清衡の妻たち」(入間田宣夫・本澤慎輔『平泉の世界』高志書院、2002年)。大 治4年7月13日清衡一周忌でも法華経書写。発願者は不明。しかし千部一日経発願にあら ず。 (2)『長秋記』大治4年(1129)8月21日条。つまり、頭弁が「陸奥国清衡二子合戦 間、公事多欠怠多、兄弟基衡惟常」と語る。頭弁(源雅兼)が述べている。源雅兼は、蔵 人頭で右大弁(『弁官補任』)。源雅兼は、『尊卑分脈』では、陸奥守源信雅と兄弟。陸 奥守源信雅にとってもこの一族内紛、相続争いは収拾できないほどのもの。 『長秋記』大治5年6月8日条。清衡長男小館(惟常)と弟御曹子(基衡)の平泉藤原氏 の跡目争い。兄とその子らを斬首にした基衡。奥羽の家臣団を二分した争乱(斉藤利男 『奥州藤原氏』山川出版社、2013年)。同様の一族内紛は、後三年合戦でも。『尊卑分 脈』は清衡に「後三年合戦濫觴此仁也、異父同母の舎弟と清原家衡相論此事なり」と記 す。 (3)『古事談』第四の二五と『十訓抄』下第十。信夫佐藤氏季春。 陸奥守藤原師綱の検注はいつなされたか。初代検注。赴任してまもなく。保延3年2月 の任命。たとえば出羽国の場合。出羽守源光国による寒河江荘乱入事件(天仁2年1109) は、出羽国入部の直後。誉田慶信「白河院政期の出羽守と『都の武士』」(伊藤清郎『最 上氏と出羽の歴史』高志書院、2014年)。平泉藤原氏にとって、もっとも頼りになる信夫 佐藤氏季春の首を切る。代々、奥州藤原氏に仕えた後見人、乳子。入間田宣夫『平泉藤原 氏と南奥武士団の成立』(歴史春秋社、2007年)。小館(惟常)との争乱に勝利できた最 大の功労者であった。斉藤利男『前掲書』。 基衡の置かれた政治的な環境が明らかに。入間田宣夫『平泉の政治と仏教』(高志書 院、2013年)。平泉藤原氏の実効支配を確保しようとした基衡の政治の結果。清衡の千僧 供養に見る壮大な単発的な仏会とは異なる、より継続性のある「法華滅罪」の仏会が必要 に。 保延3年夏に千部一日経発願がなされる。 (4)大石直正「奥州藤原氏の相続形態」(『奥州藤原氏の時代』吉川弘文館、2001 年)。次子相続が奥羽武士団社会の習い。奥州藤原氏四代も。無条件な不文律としての次 子相続だったのか。跡目争いの結果として、清衡・基衡の次子相続が達成された。長男の 小館と次男の御曹子との間で「現実」として発生している事実に注目。 兄の惟常一族を斬首して奥州藤原氏の跡目を奪取。基衡の「不安」。深刻な罪障心。 (5)樋口健太郎「藤原忠実の追善仏事と怨霊」(『日本歴史』第787号、2013年12月) 九条道家による藤原忠実追善仏事(法華八講)が、寛喜3年(1231)に、忠実死後七十 年たってから初めて行われた。自分の子に災厄をもたらす忠実の霊を鎮めるためであった (長年、忠実追善仏事をしなかったが故に九条兼実跡継ぎが続けて異常な死をとげたの だ、ということに対する恐怖。鎮魂の必要性)。なお、治天の君による追善供養執行の背 景に「自分の治天の君としての正統性を確立し、地位を安定化させるため、しだいに追善
仏事を積極的に継承して、分立する皇統を吸収していった」。なお、布谷陽子「承久の乱 後の王家と後鳥羽追善仏事」(羽下徳彦『中世の地域と宗教』吉川弘文館、2005年)。山 田雄司「崇徳院怨霊の胎動」『崇徳院怨霊の研究』思文閣出版、2001年)。 (6)保延3年は、基衡次男の秀衡(次郎)が15歳で元服。「人々給絹日記」の小次郎 (泰衡)。秀衡の弟の俊衡を樋爪清綱の養子に出す。基衡の長男は? 秀衡への平泉藤原 氏跡目相続は無事されるか? 基衡自身の法華滅罪のみならず、次郎も先祖の一族の統率 者として追善供養をおこなうこと。仏事の「共有化」。そのためにも気の遠くなるような 「滅罪生善」を成就し続けるための仏会を選択していく。 千部一日経(紺紙金字法華経)は、京都の上級公家・顕密大寺院でも容易に成就できな い。あたかも王権の模倣のごとし。むしろ、そう見られる方が基衡にとっては好都合。藤 原師綱のような国司に対しては、「千部一日経」を「選択」することで、仏土における善 行と菩提心を見せることに。清衡・基衡・(秀衡)と続く平泉武士政権へ。藤原師綱在任 保延6年夏、千部一日経が連日のごとく行われる。師綱は鎮守府将軍を併任。「内と外」 からの不安。南奥羽にまで勢力を伸ばしていく基衡は、院政期公家政権と必然的に新たな る政治的緊張を背負い込んでいく。基衡は仏教による「平和戦略」を徹底遂行。千部一日 経の仏会を底流にしつつも、「仏土」のさらなる荘厳化が課題に。毛越寺の創建へ。 おわりに 平泉仏土「成立過程」の画期に見る、武士政権平泉藤原氏の柔軟な外交戦略。 毛越寺金堂円 寺の法号額を摂関家藤原忠通が書いたことの意味。仁和寺覚法法親王。 『今鏡』『古事談』と異なる「寺塔已下注文」の言説。毛越寺の表象(法号額)を藤原 基衡が、確保していること。京都と平泉の対峙。鎌倉幕府の平泉仏土を征服、仏による平 和創出の主役たらんとする表象(伊豆国願成就院の額)の発見。
平泉の食文化
奈良女子大学 前川 佳代
はじめに 現代の平泉の食文化を、神事を中心にした餅文化、仏事を中心とした団子文化、日常を 中心とした八斗文化としたのは石川渡氏である(石川2003)。「八斗(はっと)」は、 現在も家庭料理として、旅館やお休み処では平泉の名物として味わうことができる。「は っと」は、挽いた小麦粉を水やぬるま湯でこね、二時間以上寝かせて薄くのばし、鍋に入 れて煮込んだ料理である。岩手県では、「ひっつみ」や「すいとん」もよく似た製法をと る。同じ様な煮込み料理は、山梨県の「ほうとう」だろう。古代にも「はっと」と同じ材 料・製法で作られた「餺飥(はくたく)」という料理があった。12世紀の平泉ではどのよ うなものが食べられていたのだろうか。 人々が何を食べていたのかを知ることは、その人を知ることにつながり、ひいては彼ら が生み出した平泉文化をひもとく手がかりとなるだろう。 1.平泉で食べられていたもの―自然科学分析からみえる食べ物 平泉で食べられていた食材を、トイレ遺構の自然科学分析結果から抽出してみたい。 ●寄生虫卵分析(表1) 回虫卵、鞭虫卵、肝吸虫卵、異形吸虫卵、ウェステルマン肺吸虫、宮崎肺吸虫、槍型吸 虫卵、横川吸虫、日本海裂頭条虫、広節裂頭条虫卵、カピラリアなどの寄生虫卵が検出さ れている。 回虫卵・鞭虫卵は、体内より排泄物と共に排出された卵が施肥などによって野菜に付着 し、それを食べることによって体内に侵入して成虫になるといわれる。肝吸虫卵はコイ・ フナなどコイ科の淡水魚に、ウェステルマン肺吸虫はモクズガニ・イノシシ等、宮崎肺吸 虫はサワガニ・イノシシ等、槍型吸虫卵はアリ類、横川吸虫はアユやシラウオ、日本海裂 頭条虫(サナダムシ・)広節裂頭条虫卵はサケ・マス類、カピラリアは鶏の小腸に寄生す る。 分析結果では、野菜は生食か不完全調理によって食べられていたこと、コイやフナ、サ ワガニ、イノシシ、モクズガニ、アユ、サケ・マス 類、鶏の摂食が想定され、生食か不完全調理で食 していたとされる。寄生虫の種類が多く検出されて いるのは、柳之御所遺跡である。サケ・マスの摂取 は、柳之御所以外にも花立Ⅰ遺跡から泉屋遺跡まで 中心区の市街地に広がる。コイ・フナの淡水魚は多 少でも志羅山遺跡屋遺跡でみられる。 ●種実分析 検出された種実で食用となりうるものは以下であ る。 ナス、ゴマ、エゴマ、ウリ(雑草メロン、マク ワ・白ウリ、モモルディカ)、シソ、 オニグル ミ、イチゴ(キイチゴ・オランダイチゴ)、アケ ビ、ブドウ(ヤマブドウ、ノブドウ)、クワ(ク 鳥獣戯画よりワ、ヤマクワ)、マタタビ、グミ(アキグミ)、ガマズミ、サルナシ、カキノキ、ウメ、 クリ、モモ、マツブサ、アカザ―ヒユ科、イネ、イネ科、オオムギ 特に、キイチゴ、メロン、ナスの種実が多い。 ●花粉分析 花粉分析によって検出された草木で食用可能なものをあげる。 イネ、イネ科、ヒエ、ソバ、アブラナ科、マメ科、ヨモギ、ネギ、セリ、アカザーヒユ 科、ベニバナ、センブリ属 特に、イネ、イネ科、アブラナ科、ヨモギ、アカザ―ヒユ科が多い。 アカザ―ヒユ科は種も花粉も検出されており、虫下しの薬となることから、寄生虫分析の 結果と重ねて、寄生虫を体内にもつ人々が服薬していたと考えられている。センブリは胃 薬となる。 2.平泉で食べられていた料理―貴族の宴会料理を参考に ●平泉で検出された食材と宴会料理 『類従雑要抄』の宴会料理を参考に平泉で検出された食材で料理を作ったのが下の表2 である。 菓子 木菓子:ナシ・サルナシ(獼猴桃)・カキ(串柿・枝柿)・クリ(掻栗・平栗・甘 栗) 唐菓子: その他:イネ・イネ科(餅・椿餅) 交菓子: 干物 サケ・マス、コイの楚割、アユ(押鮎:塩漬けして干したもの・白干鮎) 生物 サケ・マス、コイ・フナの膾(鱒膾、鯉膾)、アユ(塩鮎、鮨鮎、煮塩鮎:塩 煮の鮎)イノシシ(猪宍)、シロウリ(白瓜・黒瓜・糟漬瓜・味噌漬瓜)、ナス(醤漬茄 子)、アブラナ科(蕪・蘿蔔(大根))、シソ科(白根(シソ科の多年草)) 貝物 窪坏物 マス(鱒)、アユ(鮎子(子うるか))、ナス(茄子子(茄子の種?))、ウリ (瓜子(瓜の種?))、エゴマ(荏裹(荏胡麻の葉で野菜を包んだもの)) 四種物 (塩・醤・酢・酒) 酒肴 追物 コイ(鯉味噌、零餘子:鯉の皮付き切身を串に刺し塩魚をかけて焼いたもの)、フ ナ(鮒の包焼(鮒の腹に結び昆布・串柿・芥子・焼栗などを詰めて焼くか、味噌で煮たも の))、アユ(鮎の焼き物)、アブラナ科(茎立(油菜や蕪菜の浸しもの)) 汁物 コイ(寒汁(松茸・鯉)、汁膾(汁の実の魚を別の器に盛って供する熱汁)) 飯 イネ・イネ科・ウリ(飯・水飯・湯津ケ(若布・干瓜を加える)、搗粉粥) 餅 イネ・イネ科(鏡餅) 酒 イネ・イネ科+麹 寄生虫卵分析で、魚や鳥などの生食か不完全調理が示唆されていたが、現在でいう刺身 は膾といい、薄く切って重ねて高く盛って出された。トイレ遺構の決め手ともなりやす い瓜やナスの種は、種自体を食べていたことが宴会料理から想定された。ナスの種を採取 するには熟させる必要があり、完熟ナスは現在我々が食べている食べごろのものより不味 いことから、古代人は不味いナスを食べていたといわれていた。しかし種を食べていたな ら、種を採る用のナスは完熟させ、ナスの漬物などは我々が食べるナスと同じ美味しいナ スを食べていたといえる。アブラナ科の検出が多いが、茎立という料理があった。茎立 (くくたち)という言葉は万葉集にも出てきており、蕪などアブラナ科は古代から日本人 が食べていた食材であることがわかった。エゴマは荏裹という荏胡麻の葉で野菜を包ん だ、今の紫蘇巻に似たものを想定できる。
平泉で検出される食材以外を使った料理をみてみよう。菓子は、他に松の実、柏の実、 干棗、石榴、小柑子、橘、菱、甘葛、野老(ところ:いものこ)などである。石榴は平 安時代に日本へ伝わったとされるが、柳之御所遺跡から石榴の絵が描かれた板が出土して いる。甘葛は、冬季のツタから採れる甘味料であり、平泉周辺にもツタは自生するので、 作ることは可能である。これに薄くスライスした薯蕷(山の芋)を入れて煮込んだものが 薯蕷粥である。石鍋を使って煮詰めるのが良いらしい。石鍋も出土している。生物の肉は 雉、鹿、鳥足などで、山野で獲れる。魚は鯛や鱸が宴会料理の定番で、貝物とともに、沿 岸や石巻から北上川の水運で運ばれてきた可能性はある。窪坏物の老海鼠はホヤで、三陸 のホヤが想像できよう。酒肴は五種(鮑・干鳥・蛸・小鳥・海月)と二種(生鮑・擁剱) があり、食材を補えば作れる。二種の擁剱はワタリガニで、北上川のモズクガニで代用で きるようにも思う。 古代の菓子は果物を指す言葉であったが、菓子には木菓子と唐菓子と呼ばれる加工菓子 が存在し、唐菓子は貴族の宴会にはかならず出されていた。 ●唐菓子について 唐菓子は古代中国唐から日本に伝わった、小麦粉をこねて形を整え、揚げたり焼いたり した加工菓子である。源順編の『倭名類従抄』には、八種唐菓子が出てくる。これらの中 の一部は、神饌として奈良県の春日大社など古い格式のある神社には今も残っている。 私は、以前「唐菓子」を「平安時代初期に八種に固定された、粉と油を使用した造形菓子 で、舶来品というニュアンスを含む」と定義したことがある(前川ほか2010『奈良と菓 子』)。粘土細工と同じ要領で、さまざまな形に造られたようである これら唐菓子を含む粉食品も材料の米や麦は存在するため、平泉で作られて食べられて いた可能性はある。このような粉食品の一つが、「八斗」に似た「餺飥(はくたく)」で ある。 3.古代食「餺飥(はくたく)」 ●「餺飥(はくたく)」について 「餺飥(はくたく)」は『倭名類従抄』によると「小麦粉をねってのばして方形に切っ たもの」とある。時代が下って中世の料理書『厨事類記』には「バウタウ」がみられ、 ヨキ暑預ヲヲロシテ、コメノコニアハセテ、ヨクヨクレム木ニテヲシヒラメテ、粉ヲスコ シカケテ、カタナニテ長二寸アマリニキリテ、サクヘイノヤウニホソクキリテ、ユヲワカ シ、ユデテトリアゲアズキノスリシルニテマイラス と、原材料が小麦粉から米粉に変化している。小麦粉のようにグルテンがないため、暑預 をおろして入れるのだろう。 この「餺飥(はくたく)」は、平安時代後期の日記類には摂関家藤原氏の春日詣や春日 行幸の際に、春日社の馬場殿にあった黒木御所(屋)での宴会の場面で登場する。庭中に 握舎をもうけて、8∼20人くらいの妓女が楽にあわせて踊りながら「餺飥(はくたく)」 を打ち、それをいただくという趣向をこらしたものだった。藤原道長の日記『御堂関白 記』寛弘四年(1007)二月三十日条には「餺飥常のごとし」とあり、恒例であったことが わかる。詳細は、藤原頼長の『台記別記』仁平元年(1151)八月十一日条にみえる。妓女 12人が楽に合わせて餺飥を打つこと、餺飥屋は6間あり、一間に2人いたこと、出来上が った「餺飥(はくたく)」は折敷高坏に盛られて小豆の汁が添えられて出されたとある。 『厨事類記』のバウタウも小豆の摺汁に入れて食べるとあった。「小豆ばっと」のような ものだろうか。 ●折敷高坏について 「餺飥(はくたく)」が盛られた折敷高坏は、高坏に折敷を載せた器である(野場 1987)。高坏には土高坏が用いられたといい、羽柴直人氏は、柳之御所遺跡から出土する
土製の大型の高坏をそれにあてている(羽柴2001) 柳之御所遺跡第56次調査で出土した釘痕がある折敷は、木製の高坏をつけたと推測され ているが、これが折敷高坏に該当しよう。 ●臼について 小麦粉を使用するには、精麦し、さらに粉にしなければならない。精麦や製粉には臼が 使用されていたと思われる。 この時代には、搗き臼と足踏み臼の唐臼(カラウス)、また摺臼の存在が知られる。摺 臼は「枕草子」九十五段にみえる「くるべきもの」と考えられており、上下二段に分か れ、二対の縄がつけられ、向かい合って座った二人が交互に縄を引いて上臼を動かす。こ の縄引き臼は、紺紙金字一切経(藤原秀衡発願)の「大般若経」巻第六十三の見返し絵に みえている。縄引き臼に人を逆さまにして突っ込み、二体の餓鬼が挽き臼の縄を引いてい る。平泉に摺臼があった可能性がある。 摺臼はもみ殻を取り除くときに使用する。搗き臼は精米、精麦に使う。麦を粉にするた めに、中世以降は石臼で粉を挽くが、12世紀平泉の時代では何を使用したのか。 古代には水力を動力とした碾磑の存在が知られる。碾磑は、職員令義解の註や集解釈に よると、水碓と呼ばれ、碾は米を作り碓には石を杵には木を使っていた。磑は麺を作り、 臼杵は石で作られていたという。水力というと水車が思い浮かぶが、水力を利用したカラ ウスもある。碾磑は水力を利用したものと推定する関根真隆氏は、奈良の年配者の話とし て近年まで米の粉や小麦粉はカラウスで搗いていたことを紹介している(関根1969)。カ ラウスでも製粉できるとなると、12世紀平泉でもカラウスの利用が考えられる。 米や麦を粉にすると、殻とわけるための篩や箕も必要となろう。そして粉をこねる段階 では、コネ鉢の使用が考えられる。大量に作る場合は、臼と杵でついた可能性もある。 「餺飥(はくたく)」は、「打つ」という表現がされている。 おわりに 平泉の食文化を考えるために、まずは発掘調査に伴う自然科学分析の成果から食材を抽 出し、何がどのように食べられていたかを、京都の貴族の宴会料理と重ねてみた。分析結 果を貴族が食べていたものにつきあわせると、自然科学分析だけではわからなかった食べ 方が想定できた。 疑問点も残る。サケ・マスが縄文時代から北海道や東北地方で多く食べられていたこと は知られているが、もともと当地方の人たちは生で食べていたのだろうか。サケやマスと いうと塩漬けや燻製が思い浮かび、特に厳寒期が長いこの地方では保存食が発達していた はずである。トイレ遺構の寄生虫卵分析の結果(表1)をみると、サケマスや淡水魚の寄 生虫卵が検出される遺構と検出されない遺構がある。そのため摂食制限があったのではな いかという想定をされている。私は、生食する人としない人があったのではないかと考え た。貴族の宴会料理には生食で出てくるため、宴会にでる人とでない人といった区別もで きるように思う。これらの遺構が平泉の都市内にどのように分布するかなども合わせて今 後の課題としたい。また野菜を生か不完全調理で食べていたという分析結果については、 戦前の日本人の野菜の食べ方を考えても合点がいかない。野菜をサラダで食べることは戦 後になってからである。必ず火を通していたにも関わらず寄生虫に感染していたのだか ら、感染ルートは他にも考えられよう。 「八斗(はっと)」の呼び名と文字は平泉町旧小島村が発祥地という(石川2003)。 「はっと」という料理は栃木県と福島県の境から岩手県まで広がる。古代食「餺飥(はく たく)」が「はうたう」と読まれ中世の「バウタウ」となり「ほうとう」となったと山梨 県では説明されるが、呼び名でなく形態からは「はっと」も「餺飥(はくたく)」の系譜 にある。青森県の「かっけ」や、大分県の「やせうま」という菓子も同じである。「餺飥