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Historical transition Before, during and after

W orld W ar II ︱ 張   永嬌 ZHANG Y ongjiao 九 二 〇 年 代 に 草 野 心 平 の 活 動 で、 宮 澤 賢 治 の テ ク ス ト が 中 国 の 広 州 に 送 ら れ た こ と を は じ め と し て、 第 二 次 世 界 大 戦 下、 宮 澤 賢 治 テ ク の 中 国 へ の 紹 介 は 少 な く は な い。 一 九 二 〇 年 代 や 戦 時 下 の 中 国 に お け る 宮 澤 賢 治 の 受 容 と 一 九 八 〇 年 代 以 降 の 中 国 に お け る 宮 澤 賢 治 受 の 差 異 と そ の 原 因 を 考 察 す る こ と が 本 論 の 問 題 意 識 と な る。 こ の よ う な 視 座 に 立 つ 際 に、 「 中 国 で の 宮 澤 賢 治 研 究・ 翻 訳 」 と い う 現 象 論 は 広 州・ 旧 満 州・ 上 海 に お け る 宮 澤 賢 治 テ ク ス ト と 関 わ っ た 媒 体 を 取 り 上 げ、 そ れ に 伴 う「 賢 治 像 」 を 明 ら か に す る 上 で、 一 九 八 〇 以 降 に 中 国 で 再 紹 介 さ れ て い る 際 の「 宮 澤 賢 治 像 」 も 考 察 す る。 そ の 具 体 的 な イ メ ー ジ と し て、 日 本 の ア ン デ ル セ ン・ 教 育 的 な 機 能・ カ ル チ ャ ー( 宮 崎 駿 )・ 国 民 的 な 作 家 と い っ た イ メ ー ジ が 挙 げ ら れ る。 そ の 上 に、 宮 澤 賢 治 受 容 が 多 様 化 さ れ つ つ あ る 現 在 に お い て、 論 は 中 国 に お け る 宮 澤 賢 治 の 受 容 の 変 遷 を 辿 る 作 業 を 通 じ て、 全 面 的 な 作 家 像 を 浮 か び 上 が ら せ る こ と を 試 み、 中 日 の 文 化 に 関 す る 相 澤 賢 治︵ 一 八 九 六 年 八 月 二 十 七 日 ∼ 一 九 三 三 年 九 月 二 十 一 日 ︶ ︶ 1 ︵ のままであった。彼の没後、とりわけ﹁雨ニ ︶ 2 ︵ になる。それとと   一九九〇年代以前、日本における宮澤賢治研究は、作家の生き方 そのもの、彼の思想︵特に仏教思想︶に関する研究が多かった。例 えば、宮澤賢治の友人である儀府成一の﹃宮沢賢治・その愛と性﹄ ︶ 3 ︵ 、 森 荘 已 池 の﹃ 宮 沢 賢 治 の 肖 像 ﹄ ︶ 4 ︵ 、 境 忠 一 の﹃ 宮 沢 賢 治 の 愛 ﹄ ︶ 5 ︵ 、 弟 で ある宮澤清六の﹃兄のトランク﹄ ︶ 6 ︵ などがあげられる。そして、作品 の言語表現、 芸術手法と超現実性を論じるものも多かった。例えば、 天 沢 退 二 郎 の﹃ 宮 沢 賢 治 の 彼 方 へ ﹄ ︶ 7 ︵ 、 山 折 哲 雄 の﹃ 宮 沢 賢 治   童 話

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の世界   賢治の風光﹄ ︶ 8 ︵ などがあげられる。   一九九〇年代以降、 日本における宮澤賢治研究は人間愛、 自然愛、 仏教思想など讃頌の観点から脱却し、戦争・権力・諷刺・暴力など と結びつけて論じられることが多くなった。例えば、 安藤恭子の ﹃宮 沢賢治︿力﹀の構造﹄ ︶ 9 ︵ 、西成彦の﹃森のゲリラ   宮沢賢治﹄ ︶ 10 ︵ 、押野武 志 の﹃ 宮 沢 賢 治 の 美 学 ﹄ ︶ 11 ︵ な ど が あ げ ら れ る。 以 上 の 先 行 研 究 は 一九九〇年代以前の宮澤賢治研究とは異なる、 宮澤賢治の脱神話化 ・ 脱聖人化を試みた研究であり、宮澤賢治と彼のテクストとを位置づ け直すための重要な作業となる。一方、死後に有名となった宮澤賢 治 の 場 合、 そ の 神 話 化 と 聖 人 化 さ れ た プ ロ セ ス を 解 明 す る た め に、 作家やテクストの受容史の研究も、重要だと言えよう。現在におけ る宮澤賢治研究の内、受容に関する代表的な研究を紹介する。   鈴木健司 ︶ 12 ︵ ︵二〇〇二︶はほかの作家や研究者を含めた宮澤賢治受 容の状況を批判的に論じている。米村みゆき ︶ 13 ︵ ︵二〇〇三︶は宮澤賢 治が地方詩人から国民的な偉人へと変貌していく過程を追跡し、そ の過程に役割を担い果たした男たち・ ﹃岩手日報﹄ ・宮沢賢治友の会 に注目している。山下聖美 ︶ 14 ︵ ︵二〇〇七︶ は弟である清六に関する ﹁清 六 詣 で ﹂、 ﹁ 賢 治 さ ん ﹂、 賢 治 教 な ど の 言 葉 の 背 後 に 隠 さ れ た 権 威 性 に着眼している。西田良子 ︶ 15 ︵ ︵二〇一〇︶は﹁児童文学の読者論﹂を 導入し、読み手から宮澤賢治の童話の思想と魅力を感じ、多種多様 な読みの問題を提起している。構大樹 ︶ 16 ︵ ︵二〇一五︶は戦時下におけ る﹁雨ニモマケズ﹂への評価の高まりを考察し、アンソロジー詩集 に 収 録 さ れ 続 け た 現 象 と、 ﹁ 私 事 性 ﹂・ ﹁ 素 人 性 ﹂ と い う 文 学 的 価 値 を論じている。村山龍 ︶ 17 ︵ ︵二〇一九︶は初期受容における評価の変遷 に注目し、松田甚次郎・横光利一・保田與重郎などの人物の活動に よって再創造される﹁宮澤賢治﹂の像を明らかにしている。   以上の研究成果は二〇〇〇年代から宮澤賢治受容に関する研究が 研究者の視野に入ったことを示す意味で大変有意義である。 しかし、 観 点 に 偏 り が あ り、 宮 澤 賢 治 と、 彼 と 関 係 の 深 い 人 物 の 影 響 関 係、 或は宮澤賢治の研究者に関わる評論ばかりが圧倒的に多い。 そして、 ﹁ 聖 人 ﹂ 宮 澤 賢 治 が ど の よ う に 読 ま れ て き た か、 と い う 従 来 の 認 識 が強く反映されているという問題も存在する。具体的に以上の先行 研究から以下の課題が出される。   第一に、宮澤賢治受容の研究は少ない上に、中国における宮澤賢 治の受容が日本における宮澤賢治の受容と区別なしに論究されてい るが、単独の研究テーマとして分析する という 課題が出される。第 二に、現在ある受容研究においては、作家研究と作品解読の視座が 中 心 と な っ て い る。 構 大 樹 が、 戦 時 下 に お い て、 ﹁ 雨 ニ モ マ ケ ズ ﹂ を 掲 載 し て い た ア ン ソ ロ ジ ー 詩 集 を 取 り 上 げ て 分 析 し て い る よ う に、 ほかの宮澤賢治受容に関わる媒体も見逃してはいけないだろう。 第三に、多くの研究が宮澤賢治讃頌論という流れに巻き込まれてい る。その延長線上に、中国における宮澤賢治の研究と受容を視野に 入れる時、このような日本国内の研究との距離も確認する課題があ るだろう。以上の先行研究の諸問題から逃れているものとして、次 のような、 近藤健史の東アジアにおける宮澤賢治の受容についての、 総括的な研究がある。      賢治の作品が海外で広く読まれるようになるのは一九八〇年 代以降である。日本に留学して文学を学んだ各国の研究者や学 生たちが、賢治の作品を自国で紹介し始めたことにより、人気

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と 評 価 が 高 ま っ て い く。 韓 国 に お い て も 賢 治 の 翻 訳 は、 一九八〇年代を分岐点として、戦後世代が少しずつ社会に出て 活動を始めたことにより飛躍的に増えていく。      戦後、一九八〇年代末までは、中国における賢治の翻訳はほ と ん ど 現 れ な か っ た。 つ ま り﹁ 沈 黙 期 ﹂︵ 一 九 五 〇 年 代 ∼ 一九七〇年代︶があった。中華人民共和国樹立︵一九四九年︶ 、 文化大革命︵一九六六年︶と続き、その後特殊な社会政治体制 の時期であったため、両国の文化交流が半ば途絶えていたこと に起因している。      文 化 大 革 命 終 結 後︵ 一 九 七 七 年 ︶、 中 国 に お け る 日 本 文 学 の 翻訳と研究が復活し、盛んに行われるようになる。一九七九年 には、 第一級学術団体の全国組織学会である﹁日本文学研究会﹂ が設立された。そして賢治の翻訳も復活し、一九九〇年代から 本格的に翻訳本が出版されるようになってきた ︶ 18 ︵ 。   近藤が述べているように、一九八〇年代以降、中国における宮澤 賢治の翻訳が復活した。具体的には次節以降論じていくが、中国に おける宮澤賢治の受容というテーマに関する状況を総括したものに ついて述べておこう。一九九〇年代以降、宮澤賢治のテクストの翻 訳・出版が多くなる傾向が生じた。そして、その後の出版業界の動 きとして、 二〇〇三年五月に ﹃宮沢賢治童話文集﹄ ︵翻訳者 : 周龍梅、 解 説 : 彭 懿、 表 紙・ 挿 絵 : 兪 理 ︶ の 全 三 冊 が 中 国 の 大 手 児 童 図 書 出 版社である少年児童出版社によって発行された。宮澤賢治研究者の 黄育紅 ︶ 19 ︵ が指摘しているように、これは初めて全面的に 4 4 4 4 賢治文学を中 国の読者に紹介したものである。二〇〇〇年代以前は、童話の翻訳 が中心であり、児童図書出版社より出版されることが多かった。そ れ以降、詩集・絵本・シリーズ本など出版業界の活発な状況が現れ る。   翻訳・出版が活発になっている中、学会の設立とともに、中国人 研究者における宮澤賢治研究も﹁本格的﹂になっている。近藤の述 べている一九九〇年代以降の本格的な翻訳や出版に関わった人物と して、 先ず挙げなくてはいけないのは黄瀛の弟子である王敏である。 王敏は日本に留学して文学を学んだ初代の中国の研究者の一員であ る。彼女の翻訳・研究作業は戦後における宮澤賢治の受容の再出発 の起点と言える。以下、王敏をはじめとする中国における宮澤賢治 研究の成果を述べる。彼女は自著論文﹁宮沢賢治研究の五十年︱中 国への紹介︱﹂で以下のように述べている。 44      宮 沢 賢 治 の 童 話﹁ 注 文 の 多 い 料 理 店 ﹂ の 私 の 中 国 語 訳 も 一九八一年に日の目を見ることができた。八六年六月、日本文 学を紹介する季刊﹁日本文学﹂夏号、中国で初めて賢治特集を 組み、詩と童話各七点、それに私の論文﹁宮沢賢治研究の五十 年﹂ を含め掲載した。 日本文学に関心ある八人の共同作業であっ た。 ︶ 20 ︵   その後、王敏は﹃宮沢賢治と中国︱賢治文学に秘められた、遥か なる西域への旅路﹄ ︵二〇〇二 ・ 五、 国際言語文化振興財団︶ と﹃謝々! 宮沢賢治﹄ ︵二〇〇六 ・ 八、朝日新聞社︶などの著書もあり、宮澤賢 治 と﹃ 西 遊 記 ﹄、 ﹃ 唐 詩 選 ﹄、 神 農 と の 接 点、 影 響 関 係 を 中 心 に 論 じ ている。類似の研究として、 中国人の若手研究者である劉春燕の ﹁宮

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沢 賢 治 と 中 国 に 関 す る 研 究 :西 域 童 話 と 中 国 に お け る 受 容 を 中 心 に﹂ ︶ 21 ︵ がある。その後、宮澤賢治テクストの翻訳と研究で活躍してい る研究者は、王敏・于長敏・周異夫・周龍梅・彭懿・黄育紅・朱自 強・黄育紅・顧錦芬・劉春燕などがあげられる︵後述︶ 。   以上で整理してきたように、近年中国において宮澤賢治の研究と 翻 訳 が 盛 ん に な っ て お り、 こ こ で、 ﹁ 中 国 の 宮 澤 賢 治 研 究・ 翻 訳 ﹂ という現象そのものを研究の対象として通時的に論じる重要性があ ると思われる。歴史的コンテクストにおける研究・翻訳の動向を把 握するとともに、具体的に宮澤賢治テクストが載せられている媒体 の誌面に注目することによって、各時代における宮澤賢治と彼のテ クストに対する﹁解釈﹂の差異が浮かび上がる。   例えば、一九二〇年代に草野心平の活動で、宮澤賢治のテクスト が 中 国 の 広 州 に 送 ら れ た。 そ の 際 に、 ﹁ 詩 人 ﹂ で あ る 宮 澤 賢 治 の テ ク ス ト が﹁ 詩 ﹂ と し て 受 容 さ れ て い る。 第 二 次 世 界 大 戦 下 の 一 九 四 〇 年 代 前 後 に、 ﹁ 旧 満 洲 ﹂ と 上 海 な ど に お い て、 宮 澤 賢 治 の テクストは詩・歌・映画など様々な形で紹介されている。このよう な 戦 前・ 戦 時 下 の 中 国 に お け る 宮 澤 賢 治 の 受 容 の さ れ 方 に つ い て、 一九八〇年代以降の中国人宮澤賢治研究者の受けとめ方とその理由 について、先行研究では明らかにされていないように思われる。   そこで、これらのメディアにおける﹁宮澤賢治﹂の様相を整理す る 上 に、 ﹁ 風 の 又 三 郎 ﹂、 ﹁ 雨 ニ モ マ ケ ズ ﹂、 ﹁ 銀 河 鉄 道 の 夜 ﹂ な ど の テクストの翻訳・越境、そしてジャンル横断の多様な受容のされ方 をも検討していく。同時に、宮澤賢治の受容に関わる先行研究に現 れた問題性と﹁宮澤賢治讃頌論﹂ということとの関係を解明してい きたい。この問題に、中国における宮澤賢治研究の変遷を辿り、問 題性を掘り下げることを通して、答えたい。   このような問題意識から出発し、本論で広州における草野心平主 宰 の 雑 誌﹃ 銅 鑼 ﹄、 そ し て 中 国 で も 読 ま れ て い た﹁ 宮 沢 賢 治 の 会 ﹂ 編の雑誌﹃イーハトーヴォ﹄と、中国側のアカデミック雑誌﹃日本 文学﹄における宮澤賢治の受容の様相を取り上げる。更に、中国学 術情報データベースと出版業界における宮澤賢治に関する翻訳と研 究の現状を整理して分析する。 出版業界の動向を一つの糸口として、 中国社会における宮澤賢治受容史に注目してみたい。   本論文では、中国における宮澤賢治の受容史に注目し、それに関 わる研究史の変遷を辿る。特に戦後に宮澤賢治が中国へ再び紹介さ れる際と、戦時下の受容のされ方とのギャップを考察し、同時にそ の背後に機能している権力関係を明らかにすることを試みたい。一 方 的 な 高 評 価 が あ っ た こ と を 一 つ の 事 実 と し て 受 け 止 め る と と も に、歴史的コンテクストにおける多様な受容のされ方にも注目する ことによって、中日文化の相互理解を深化し、より健全で客観的な 方向に向かうことを本研究の目的としたい。 一.一九二〇年代における詩人﹁宮澤賢治﹂の越境   赤津三郎は一九二四年四月に刊行された宮澤賢治の自費出版詩集 ﹃ 春 と 修 羅 ﹄ を 当 時 中 国 の 広 州 に 留 学 中 の 草 野 心 平 に 贈 っ た。 草 野 心平は、同人誌﹃銅鑼﹄で交友関係のある中国詩人の黄瀛に賢治の 詩のことなどを伝えた。   宮澤賢治は一九二五年第四号から草野心平の誘いで同人に参加し て以来、 一九二八年の第一三号まで九回﹃銅鑼﹄に詩作を寄稿した。

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こ れ は 宮 澤 賢 治 作 品 が 中 国 に 紹 介 さ れ る 起 点 と な っ た。 ﹁ 黄 瀛 ﹂ と いう人物に注目することで、戦後に宮澤賢治の中国への再紹介の接 点が明確に浮上していく。   黄瀛︵一九〇六年一〇月∼二〇〇五年七月︶は中国人の父と日本 人の母の間に生まれ、中国の詩人として日中に知られている。草野 心 平 と 親 し く、 ﹃ 銅 鑼 ﹄ 同 人 と し て 活 躍 す る。 黄 瀛 が 宮 澤 と 対 面 し たのは一度だけである。一九二九年の六月、黄瀛は陸軍士官学校の 卒業旅行で花巻温泉に宿泊した機会に、上官の許可を得て宮澤家を 訪ね、病床にあった宮澤と対面した。   黄 瀛 は 陸 軍 士 官 学 校 を 卒 業 し て 帰 国、 戦 時 中 に 中 国﹁ 南 京 政 府 ﹂ の宣伝部の仕事をしていた。文化大革命後、四川外語学院教授に就 任し、王敏の大学院時代の先生となった。黄瀛は﹁賢治は美男子と は言えないですが、彼の詩がかえって美しいのだ。彼の詩を読むと す ぐ 分 か る こ と だ ﹂、 ﹁ 日 本 語 で 詩 を 書 く 時︵ 略 ︶、 詩 が ず っ と 私 の 旅 友 だ、 ︵ 略 ︶ 私 に と っ て 詩 が あ る か ら こ そ 現 在 ま で 生 き 続 け ら れ た﹂ ︶ 22 ︵ と述べたことがある。宮澤賢治が亡くなることを知った後の黄 瀛は東北詩人の死去について、不思議な﹁因果縁分﹂を感じざるを 得 な い、 と い う 感 銘 の 内 容 を 文 章﹁ 日 本 東 京 ﹂ ︶ 23 ︵ に 書 か れ て い る。 一 九 六 二 年 八 月 一 六 日 に 黄 瀛 は、 四 川・ 重 慶 に 平 和 と 中 日 友 好 の ために、文化的な才能を貢献したい、という文 ︶ 24 ︵ も残している。その 後、一九三四年一月に刊行された﹁宮沢賢治追悼﹂に黄瀛も執筆し ていた。   雑誌﹃銅鑼﹄について、鈴木貞美は﹁賢治は草野心平を中心にし た詩誌﹃銅羅﹄にかなりの数の詩を寄稿するが、その同人たちの顔 ぶれを見ても、交友圏は非共産党系の芸術革新派だった﹂ ︶ 25 ︵ と述べて いる。そして、 王敏は恩師の黄瀛について以下のように述べている。      黄瀛の一生は不幸な日中間の戦争と内戦に翻弄された人生で あったと言わねばならない。日本詩壇を去らざるを得なかった 恩師の叫びが筆者の耳に聞こえてくるようだ。しかしまた、恩 師が万国にと通い合う賢治のような心で、日中の平和な交流を 願い続けていたと思わずにはいられない。 ︶ 26 ︵   戦後、王敏は、文化大革命後の中国が一度否定された伝統文化と 外 国 文 化 を 見 直 す 機 運 を 迎 え た と い う 時 代 状 況 ︶ 27 ︵ に つ い て イ ン タ ビューに答える形で述べている。そのような機運の中で、彼女は日 本 に 留 学 し、 日 中 の 平 和 な 交 流 に 貢 献 し て い た。 二 〇 〇 七 年 四 月、 王敏によって翻訳された﹃宮沢賢治傑作選﹄が中国社会出版社より 出版された。その前書きの中には、この時の訳者としての経験につ いても触れている。そのことを少し述べれば、彼女は一九七九年以 降の中国での日本研究の再出発をしている中、四川外語学院の初め ての日本研究のクラスに入り、一九九四年には﹃宮沢賢治童話︵世 界 神 話 童 話 伝 奇 シ リ ー ズ ︶﹄ を 翻 訳・ 出 版 し、 二 〇 〇 六 年 に 朝 日 新 聞社から﹃謝々!宮沢賢治﹄を出し、そしてこの二〇〇七年の﹃宮 沢賢治傑作選﹄翻訳・出版へとつなげている。このように彼女は黄 瀛 の 志 を 引 き 継 ぎ、 ﹁ 宮 澤 賢 治 ﹂ を 通 じ て 日 中 友 好 交 流 に 大 き く 貢 献している。   王 敏 と 似 た 経 験 の あ る 人 物 と し て 騰 瑞 が 挙 げ ら れ る。 彼 女 は 一九九四年一〇月に﹃宮沢賢治童話選﹄を翻訳し、光明日報社から 出 版 し て い る。 訳 者 で あ る 彼 女 は 一 九 四 三 年 生 れ で、 一 九 八 七 年

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一一月に日本文部省教官の身分で岩手大学にて中国語を教えていた が、 そ の 後、 岩 手 テ レ ビ の 記 者 に な っ た。 ﹃ 宮 沢 賢 治 童 話 選 ﹄ を 翻 訳した時には、 岩手県花巻市の教育委員会の社会教育指導員に務め、 同時に富士大学の講師も担当していた。   そこで、この本の翻訳出版に伴い、当時の花巻市市長である吉田 功は序を書いている。この序において吉田は、岩手県における宮澤 賢治の存在を高く評価し、賢治作品の中国語への翻訳及びその出版 に深い感謝の気持ちをを述べている。序の中で﹁騰瑞先生﹂の教育 的 な 貢 献 及 び 国 際 交 流 へ の 貢 献 に 深 い 感 謝 の 気 持 ち を 表 し て い る。 併せて、この翻訳出版が、宮澤賢治の思想の流布と世界平和に著し く貢献することも述べている。 ︶ 28 ︵ そして、この翻訳は宮沢賢治のファ ンを中国にまで広げてくれ、そのことが宮澤賢治という一人の花巻 市民を日中の交流の架け橋としたのであるという。   草野心平が詩人であったため、宮澤賢治が中国大陸に最初に紹介 されたときは、詩人として紹介され、広まった。そして、黄瀛の弟 子の王敏の活動で、戦後日中文化の交流が復活する際に、宮澤賢治 が平和のために、文化的にも外交的にも用いられた。 二.一九四〇年代前後における﹁宮澤賢治﹂受容の多様化   村山龍は﹁人々に受容された宮澤賢治像﹂を追究し、松田甚次郎 編 の﹃ 宮 澤 賢 治 名 作 選 ﹄︵ 羽 田 書 店、 一 九 三 九・ 三 ︶ が﹁ 戦 前 の 宮 澤賢治受容の基盤として機能した﹂ ︶ 29 ︵ と述べている。これは松田の恩 師である宮澤賢治への礼賛であり、芸術家・宗教家・科学的聖農と しての宮澤賢治像が前景化されていた。遠藤純は﹁松田は強固な天 皇制崇拝を軸に︿農﹀という国策へと傾斜し、大陸開拓と賢治を結 びつける起因を築いた﹂ ︶ 30 ︵ と述べている。   その後、このような宮澤賢治像が植民地統治下の﹁旧満州﹂で広 く受容されてきた。宮澤賢治の﹁雨ニモマケズ﹂が一九四一年、銭 稲孫によって中国語に翻訳され、 ﹁北国農謡﹂ ︵北京近代科学図書館︶ となる。この作品は﹃日本詩歌選﹄にも収録され、一九四一年に日 本の文求堂から出版された。一九四二年三月、 大政翼賛会文化部は、 日 本 精 神 の 詩 的 昂 揚 の た め に、 ﹃ 翼 賛 詩 歌 ﹄ 朗 読 詩 集 に﹁ 雨 ニ モ マ ケズ﹂を収録した。一九四三年六月には大日本青少年団本部編青年 朗 誦 集 に﹁ 雨 ニ モ マ ケ ズ ﹂ が 収 録 さ れ た。 同 書 に﹁ 南 京 陥 落 ﹂﹁ 特 別攻撃隊﹂等の詩篇も収録された。一九四三年七月満州開拓青年義 勇隊訓練本部の﹃国語教科書下の巻﹄に﹁雨ニモマケズ﹂が収録さ れ、編集側から宮澤賢治の没我の精神を宣揚した。   時間的な変遷を辿ると、このような日本精神の代表となりつつあ る宮澤賢治の像が構築されていくことも分かる。銭稲孫による ﹁﹁北 國農謡﹂附記﹂ ︶ 31 ︵ に、宮澤賢治を詩人として紹介し、著作は﹁宮沢賢 治全集﹂六巻・十字屋書店刊行のものであると記されている。よっ て、 宮 澤 清 六 編 の﹃ 宮 沢 賢 治 全 集 ﹄ 全 六 巻・ 別 巻︵ 十 字 屋 書 店、 一九三九・六∼一九四四・一二︶が銭稲孫の翻訳の底本となってい たことが想定できる。戦時下の中国における宮澤賢治の受容は松田 甚次郎と宮澤清六・草野心平の代弁者としての役割が大きいと言え よう。米村みゆき︵二〇〇三︶は日本の国内における宮澤賢治の受 容について述べているが、宮澤賢治に対してある役割を果たした男 たちと宮沢賢治友の会などの機能を論じている。その延長線上とい う位置づけで、中国における宮澤賢治の受容もこれらの人的なネッ

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トワークが機能していると言えよう。   そして、宮澤賢治のテクストは当時の中国への侵略政策にも援用 されていた。森荘巳池は﹁中国語訳の﹁雨ニモマケズ﹂が旧満州で 米の供出に一役買った。そして、銭稲孫の訳は原作よりもすばらし かった﹂ ︶ 32 ︵ と述べている。そして、大陸開拓文学に属する福田清人の ﹃日輪兵舎﹄ ︵一九三九・ 一 二︶には、 ﹁雨ニモマケズ﹂が引用され ている。米村みゆきはこの現象について﹁賢治の受容は、国策に沿 うかたちで行われていたことを現在の私たちは知っておくべき﹂ ︶ 33 ︵ と 論じている。   そして、松田甚次郎や大陸開拓文学懇話会などの活動で、宮澤賢 治 は の 旧 満 州 で の 受 容 の さ れ 方 も 多 様 に な っ て い く。 ﹁ 満 州 建 国 大 学 ﹂ で は 宮 澤 賢 治 の﹁ 精 神 歌 ﹂ が 合 唱 さ れ、 ﹁ 愛 唱 歌 ﹂ と な っ て い た。 ︶ 34 ︵ 奉天放送局ラジオ番組﹁風の又三郎﹂は好評を得て、一九四四 年に再放送となっていた。 ︶ 35 ︵ 一九四〇年一〇月一〇日に島耕二が監督 し、日活多摩撮影所が児童劇団東童と提携制作した映画﹃風の又三 郎﹄が日本国内で公開された。この映画は後に、大連でも上映され ていた。その後、 一九四二年二月に、 季春明によって﹁風の又三郎﹂ が 中 国 語 に 訳 さ れ、 ﹃ 風 大 哥 ﹄ と し て﹁ 旧 満 州 ﹂ 新 京 の 芸 文 書 房 よ り刊行された。   こ の こ と は、 ﹁ 旧 満 州 ﹂ の み で は な く て、 上 海 で も 宮 澤 賢 治 の テ クストが刊行されていた。一九四三年一二月、 ﹁注文の多い料理店﹂ は 陳 綠 妮 に よ っ て 中 国 語 に 訳 さ れ、 ﹁ 定 件 繁 多 的 館 子 ﹂ と な り、 第 二次世界大戦下の上海の月刊女性雑誌﹃女声﹄第二巻第八期︵女声 社、太平出版印刷公司、三九∼四一頁、現在上海図書館所蔵︶の文 芸欄に掲載された。   このように、宮澤賢治のテクストは詩・番組・映画・歌・文芸作 品など多様な形式を持って中国に紹介され、教科書 ・ 詩集 ・ ラジオ ・ 影像・合唱・朗誦・雑誌・チラシ・新聞紙など多様な媒介を持って 日本人にも中国人にも受容されていた。   銭稲孫・陳綠 妮 ・季春明などの中国人翻訳者による中国語訳があ るとともに、日本人によって中国語に翻訳された宮澤賢治のテクス ト も 存 在 し て い た。 菊 池 暁 輝 に よ っ て 編 集 さ れ た﹁ 宮 沢 賢 治 の 会 ﹂ の月刊誌﹃イーハトーヴォ﹄は一九三九年一一月から一九四一年一 月 ま で 刊 行 さ れ て い る。 宮 澤 賢 治 の 作 品 の 紹 介、 賢 治 の 会 の 活 動、 宮澤賢治に関する思い出や、作品に関する評論などによって内容が 構成されている。松田甚次郎・森荘已池、いずれも賢治の会の会員 である。その中に、 ﹁旧満州﹂ 派遣軍による寄稿も多数ある。例えば、 一 九 四 〇 年 二 月 に 刊 行 さ れ た 第 一 期 第 四 号 に は、 ﹁ 北 支 ﹂ に あ る 誌 友佐々木由三によって﹁雨ニモマケズ﹂を中国語訳したものが掲載 されている。そして、第一期第五号の後記には以下の内容も記され ている。      九州、 樺太は言ふに及ばず、 南台湾、 北支、 満州の地からも、 清明一すじの声が、 騒音の空を伝り又地をゆすぶつて聞えてる。 殊にも北支からの﹁異境にあつてはイーハトーヴオ誌を待つこ と は 想 像 の 外 で ほ ん た う に 涙 の 出 る 思 ひ で す。 ﹂ と の 便 り に 私 はガクゼンとしたのであつた。 ︵中略︶      賢治の体につながるそれら土にある多くの青年たち、ガツシ リとした大きな躯、風の中に雨にたゝかれ射熱にやかれ黙々と 鍬を握るその手、貴方がその方に背に、今わが日本の国土を通

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じての世界の転生禍福の重責のかかつてゐることを私は思ふの である。 ︶ 36 ︵   同誌の他の号の﹁各地ニュース﹂欄にも旧満州・支那・上海・台 湾の誌友がしばしば寄稿している。北支派遣軍の一員である中島吉 太郎と橋本盛が、それぞれ一九四〇年七月一六日と八月三一日に書 いた﹁戦線より﹂を﹃イーハトーヴォ﹄に寄稿した。同年九月二一 日に刊行された第一期第十号にその内容が掲載されている。寄稿文 に は、 ﹃ イ ー ハ ト ー ヴ ォ﹄ と 宮 澤 賢 治 全 集 と 松 田 甚 次 郎 の 本 を 読 ん で 感 激 し、 ﹁ 雨 ニ モ マ ケ ズ ﹂ の 精 神 で 大 陸 の 建 設 に 貢 献 す る こ と が 書かれている。美しい日本と宮澤賢治の精神、そして興亜奉公のス ローガンが積極的に結びつけられている。   このように、 戦時下においては、 宮澤賢治のテクストが糧穀供出 ・ 大陸開拓・精神高揚のために使われていたが、宮澤賢治及び彼のテ クストと当時の国策との親和性はどのぐらい存在しているのかとい う問題も問わなければならないだろう。宮澤賢治が信仰した国柱会 の思想も想起させる。それは、 第二次世界大戦下の﹁大東亜共栄圏﹂ と い う﹁ 理 想 ﹂ が、 西 洋・ 近 代 に 対 抗 す る と い う 考 え よ り、 西 洋・ 近代の発展を模倣し、アジアという﹁世界﹂で日本の帝国主義を実 現する﹁理想﹂であるということである。このような時代で﹁国民 的 作 家 ﹂﹁ 日 本 精 神 の 代 表 ﹂ と な っ て い た﹁ 宮 澤 賢 治 ﹂ 像 は 戦 後 の 沈黙期を経て、 同じレッテルを貼られて再び中国に渡ってきている。 三.一九八〇年代以降の中国における宮澤賢治研究   一九八六年、中国語雑誌﹃日本文学﹄は宮澤賢治に関する特輯を 刊行した。中には、于長敏は、帝国主義に向かう時代に生きていた 宮澤賢治は出身の階級と世界観の限界で、その弱点と不足している ところも多々ある ︶ 37 ︵ ことを論じている。同誌に王敏も戦時下における ﹁ 雨 ニ モ マ ケ ズ ﹂ は 中 国 侵 略 の 当 局 に 選 択 さ れ、 そ の 反 動 的 な 政 策 を支えるための教科書に収録されていたことを言及している。 ︶ 38 ︵   その後、王敏は宮澤賢治と中国文化との関係性を中心に研究して いる。例えば、一九九三年に、王敏は盧綸・李白・杜甫などの詩歌 からの賢治への影響 ︶ 39 ︵ 、二〇〇三年に賢治の孫悟空へのこだわりにつ いて ︶ 40 ︵ 論じるものがある。   一九九九年に、周異夫は、宮澤賢治と田中智学が唱導してきた国 柱会との関連を考察し、彼は一生涯強い国家主義的思想を有したこ とを論じ ︶ 41 ︵ 、二〇一三年に ﹃宮沢賢治的 < 法華経 > 信仰和童話創作﹄ ︵吉 林出版集団有限責任公司︶を中国で出版した。   翻訳について、 二〇〇二年に黄育紅は、 ﹁風の又三郎﹂ の主題歌 ﹁風 の歌﹂の中国語への翻訳上の問題を中心に論じている。 ︶ 42 ︵ 二〇〇四年 に 周 龍 梅 は、 宮 澤 賢 治 童 話 と 中 国 神 話︵ ﹃ 山 海 経 ﹄ な ど ︶ と の 関 わ りを中心に考察している。 ︶ 43 ︵ 中国においても、周龍梅の宮澤賢治作品 の中国語への翻訳が最もよく用いられる︵後述︶ 。   二〇〇七年、若手研究者の崔莉は、安藤恭子﹃宮沢賢治︿力﹀の 構 造 ﹄︵ 一 九 九 六、 朝 文 社 ︶ を 援 用 し つ つ、 賢 治 童 話 に お け る 言 語 の使用とその権力構造を考察している。 ︶ 44 ︵   一方、 最新の中国における宮澤賢治研究の動向を把握するために、 中国学術情報データベース ︶ 45 ︵ における一九九四年以降の学術雑誌、新 聞、 学位論文等の検索結果を分析してみよう。 ﹁宮澤賢治﹂ をキーワー

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ド と し、 検 査 の 結 果 は 添 付 の 図 表 に 示 し た よ う に、 論 文 総 数 は 二〇二篇、二〇二〇年の予測数は一七篇、二〇一〇年以降は急速な 増幅が見られる。   同じ中国学術情報データベースに﹁宮澤賢治﹂をキーワードとし て入れ、二〇二〇年一月六日までのデータを基に、研究機関・研究 分野 ・ 掲載媒体 ・ 執筆者などを検索した結果は以下のとおりとなる。 研究機関から見ると、湘潭大学から統計一六篇の論文があり、吉林 大学から一二篇の論文があり、湖南大学と広東外語外貿大学から各 六篇があり、中国海洋大学から五篇の論文がある。研究分野から見 ると、 ﹁社会科学関係の基礎研究﹂が総数の八〇%以上を占め、 ﹁高 等 教 育 関 係 ﹂ の 内 容 は 約 九 % を 占 め、 ﹁ 社 会 科 学 関 係 の 政 策 研 究 ﹂ に関する論文は約八%を占めている。他には﹁社会科学関係の行業 指導﹂ ・﹁基礎教育と中等職業教育﹂ ・﹁文芸作品﹂ ・﹁社会科学の職業 指導﹂ ・﹁大衆文化﹂ ・﹁自然工程技術﹂ ・﹁自然科学の基礎と応用基礎 研究﹂の項目に分けられており、全体の一〇%以内の論文数を占め ている。   掲載の媒体から見れば、期刊雑誌には一〇一篇があり、修士論文 は八一篇があり、学術雑誌には一〇篇がある。   執筆者について 鄒菊雲 が五篇、周 異 夫 ・ 馬麗麗 ・ 周 婷婷 ・ 宋小琳 ・ 曹雅 潔 ・ 韓麗 萍が各三篇の論文を刊行している。論文のテーマから 見れば、 ﹁宮澤賢治﹂ ︵一九〇篇︶以外に、以下のキーワードを含む 関連論文が数えられ、 ﹃銀河鉄道の夜﹄ ・ 三八篇、文学作品 ・ 二一篇、 ﹃法華経﹄ ・ 一四篇、擬声擬態詞 ・ 一〇篇、料理店 ・ 一〇篇、人生観 ・ 八篇、主人公・八篇、日本語・七篇、幸福觀・六篇、童話創作・六 篇、擬声詞 ・ 六篇、児童文学 ・ 六篇、宗教性 ・ 五篇、擬態詞 ・ 五篇、 論文発行年度趨勢 *データ出典:中国知網。2020年:予測17篇。論文総数:202 篇;検索条件:主題―宮澤賢治。 URL:https://kns.cnki.net/kns/brief/default_result.aspx。最終アクセス:2020年1月24日。 論文発行数 ︵ 篇 ︶

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象 声 詞・ 五 篇、 他 に﹁ 翻 訳 方 法・ 文 学 創 作・ 日 本 文 学・ 大 正 時 期・ キリスト教・少年小説・童話集﹂をキーワードとした論文は各四篇 がある。   そして、二〇一三年以降、競争的な研究基金による宮澤賢治研究 も表れている。国家社会科学基金によるものは﹁黄瀛﹂に関する研 究 が 二 件、 ﹁ 銀 河 鉄 道 の 夜 ﹂ に 関 す る 研 究 が 一 件、 合 計 三 件 あ る。 江蘇省教育庁人文社会科学研究基金によるものは三件あるが、全て 宮澤賢治と彼の作品におけるエコロジー思想に関わっている。重慶 市 教 育 委 員 会 人 文 社 会 科 学 研 究 項 目 に よ る も の で あ る が、 ﹁ エ コ ロ ジー思想﹂と﹁和の思想﹂に関する二つの研究がある。   カテゴリとしては、文学が中心となっているが、言語学がその次 に 多 く 論 じ ら れ て い る。 そ し て、 宗 教・ 歴 史 に 関 す る も の が あ り、 近年は環境問題の深刻化とともに、宮澤賢治と環境について論じら れてきたこともあった。サブカルチャーに関する論文も出てきてい る。例えば、データベース上での最新の論文は、二〇一九年第二一 期 の﹃ 映 画 文 学 ﹄﹁ ア ニ メ 研 究 ﹂ 欄 に 掲 載 さ れ た 論 文 で あ り、 王 培 剛 の﹃千と千尋﹄と﹁銀河鉄道の夜﹂に関する比較研究である。ア ニメーションが盛んになっている中、中国の若者は日本のアニメー ションに多大な影響を受けている。宮崎駿とリンクされつつある宮 澤 賢 治 と そ の 作 品 が ア ニ メ ー シ ョ ン 化・ 映 画 化 さ れ て い る こ と が、 どのような影響を及ぼすのか、今後の課題として見ていきたい。   中国学術情報データベースのみを利用する検査の手段と方法の限 界性があるが、今後より細かい論点の整理と比較とを行いたい。今 回の考察では、概観的に一九八〇年代以降の﹁宮澤賢治﹂にかかわ る研究の現状について、作家研究が中心となっているという特徴を 指 摘 し た い。 翻 訳 研 究・ 言 語 学 関 係 の 研 究 も 徐 々 に 出 て は い る が、 作家研究が圧倒的に多い状況であると言えよう。テクストの中では ﹁ 銀 河 鉄 道 の 夜 ﹂ が 一 番 研 究 さ れ て い る。 中 国 に お け る 宮 澤 賢 治 の 研究は言語・仏教思想・翻訳・作家論・中国文化との関係性などの テーマが多かった。   以上からしてみると、 現代中国における宮澤賢治の研究について、 戦後世代が中心人物として活躍しており、宮澤賢治と交友した黄瀛 の弟子である王敏の研究実績が顕著である。王は宮澤賢治作品と中 国古典との関係を中心に研究している。戦時下における宮澤賢治の 受容について周異夫が正面から論じているが、他の研究者は少し言 及する程度に留まっている。この点について先行研究では明らかに されていないように思われる。今後の課題として掘り下げる余地が あるだろう。   四.一九九〇年代以降の中国における宮澤賢治の受容   4︱ 1.﹁日本のアンデルセン﹂となる児童文学家﹁宮澤賢治﹂   一 九 五 四 年 以 降、 童 話 = 心 象 = 閉 鎖 性 VS 児 童 文 学 = リ ア リ ズ ム =社会性という対立の図式を明示するために導入されたのは﹁リア リズム﹂という概念である。石井直人は日本児童文学の読者には仮 説上の読者しかいないと論じている。それはファンタジーに似合う 子どもであり、北欧の昔話に似合う子どもなのであるとも述べてい る。石井は、 日本の﹁童心主義﹂について以下のように論じている。      無 知︵ ignorant ︶ で あ り 無 垢︵ innocent ︶ で あ る よ う な 読 者 だ

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ということだ。この読者は、 ﹁人生経験﹂の知をもたず、 ﹁古典 的価値﹂を疑わない。わたしは、この無垢な読者は、読者像に 転 化 し て 現 れ た 一 種 の 童 心 主 義 に 思 え て な ら な い。 す な わ ち、 ﹃子どもの文学﹄ は、 幼年文学の読者としての ﹁幼い子どもたち﹂ に 無 垢 の イ メ ー ジ を 仮 託 す る こ と に よ っ て 描 か れ た、 読 書 の ユートピアなのではなかろうか。 ︶ 46 ︵   石井の論じたように、日本の児童文学はナイーヴな文学とナイー ヴな心の避難所として機能しているのである。宮澤賢治が中国に再 紹介される際にも、このような﹁児童文学﹂としての機能もクロー ズアップされている。   一九九四年八月に、周龍梅は﹃宮沢賢治童話︵世界神話童話伝奇 シ リ ー ズ ︶﹄ を 翻 訳 し 出 版 し た。 林 少 華 に よ る﹁ 序 言 ﹂ に、 こ の 本 の内容は日本の童話であると位置づけている。宮澤賢治を日本の児 童文学作家であり、詩人であると紹介している。そして、童心 4 4 を俗 世の心と対立している概念として解釈し、俗世に汚れない童心 4 4 を保 つことは賢治童話の意味であるとしている。   一九九九年九月宮澤賢治の ﹁貝の火﹂ が ﹃外国童話小金庫   巻二 : 燃焼的宝玉︱動物巻﹄に収録され、四川民族出版社より五〇〇〇冊 刊行されている。同書に収録された童話はアンデルセンの﹁みにく い ア ヒ ル の 子 ﹂、 グ リ ム の﹁ 黄 金 の 鳥 ﹂ な ど、 日 本 の 作 家 は 宮 澤 賢 治以外に、中川李枝子と戸川幸夫の作品も収録されている。   二 〇 〇 二 年 一 〇 月 に 出 版 さ れ た﹃ 銀 河 鉄 道 之 夜 ﹄ は﹁ The 4 4 4 Age 4 4 4 of 4 4 Innocence 4 4 4 4 4 4 4 4 4 ・ 純 真 年 代 4 4 4 4 ﹂ と い う 名 付 け ら れ た シ リ ー ズ 本︵ 王 宇 訳、 中国文史出版社︶の中の一冊である。その扉に宮澤賢治に関する紹 介が載せられたが、日本において宮澤賢治はアンデルセンより地位 が高いと記されている。そして、詩人である宮澤賢治の童心 4 4 からこ れらの童話が生まれたとしている。シリーズ本には他に、 オスカー ・ ワ イ ル ド︵ イ ギ リ ス ︶、 ケ ネ ス・ グ レ ア ム︵ イ ギ リ ス ︶、 ジ ャ ッ ク・ ロ ン ド ン︵ ア メ リ カ ︶、 エ ミ ー ル・ ス ー ヴ ェ ス ト ル︵ フ ラ ン ス ︶ な どの作品が収録されている。   二〇一三年八月に、 蒋海寧によって翻訳された ﹃宮沢賢治童話﹄ ︵敎 育 科 学 出 版 社 ︶ が 少 年 向 け の 百 部 中 外 経 典 名 著 と な り、 ﹁ 教 育 部 中 国敎育科学研究院基礎敎育課程研究センター﹂より審定され推薦さ れ て い る。 そ の 作 家 紹 介 欄 に は 宮 澤 賢 治 が﹁ 日 本 の ア ン デ ル セ ン ﹂ と呼ばれていると記されている。   二〇一五年五月に張杰によって翻訳された ﹃銀河鉄道之夜 :宮沢 賢治作品菁華集︵全二冊︶ ﹄︵湖南文芸出版社︶も、宮澤賢治につい て、 ﹁日本のアンデルセンと呼ばれる﹂と紹介している。   宮澤賢治テクストの翻訳から、中国社会における児童への関心が 高まることも浮上していく。石井の述べたように、翻訳や出版側は 想像上の児童像 4 4 4 4 4 4 4 を追及し続け、それに相応しい児童文学を作り出す 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 ことを目指している。しかし、 宮澤賢治と彼のテクストにおける ﹁児 童﹂ ︶ 47 ︵ の実相は社会・階級・資本などリアリズム的な要素と切り離せ ない関係性がある。この点は﹁ファンタジー﹂という理想化によっ て矮小化されたと言えよう。   4︱ 2.教育的な機能を果たす宮澤賢治テクスト   改革開放後、中国社会における﹁児童﹂への関心は教育に強く反

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映されている。宮澤賢治のテクストも教育的な機能が期待されてい る。前述の一九九四年八月、周龍梅訳の﹃宮沢賢治童話︵世界神話 童 話 伝 奇 シ リ ー ズ ︶﹄ の 中 の﹁ 風 の 又 三 郎 ﹂ と﹁ 銀 河 鉄 道 の 夜 ﹂ は い ず れ も 映 画 化 さ れ て お り、 そ れ ら が 日 本 の 文 部 省 推 薦 映 画 と も なっている。このことは、これらの作品の﹁教育﹂的作用が強いこ とを表している。   二〇〇五年九月、樊發稼は台湾光復書局から簡体字版の著作権を 得 て﹃ 旋 風 又 三 郎︵ 絵 本 外 国 児 童 文 学 名 著 ︶﹄ を 希 望 出 版 社 よ り 刊 行している。そして、三.六七億人の未成年者にとって授業以外に 読む最高の本であることを述べている。   二〇〇五年一〇月、 楊鳳蓮訳の﹃宮沢賢治童話精選︵上、 下二冊︶ ﹄ が天津大学出版社から刊行されている。内容は簡体字と日本語との 併記であり、日本語の学習書としても使える。そして、宮澤賢治の テクストが日本の全国各地の大中小学校の教科書にも収録されてい ることが記されている。   二〇〇八年五月に出版された童話集 ﹃渡過雪原﹄ ︵彭懿、 周龍梅訳︶ は明確な読者層を持つものとして世に出された。これには、南方分 級閲読・三年級︵試験版︶と書かれている。それと対照して、宮澤 賢治に関する紹介欄には ﹁日本の教育家﹂ と記されている。そして、 彼 の 作 品 は 日 本 の 小 学 校 と 中 学 校 の 教 科 書 に 収 録 さ れ て い る こ と、 高校の教科書には﹁雨ニモマケズ﹂が掲載されていることも書かれ ている。   そして、 内容自体はあまり変わらないのだが、 試験版と対照的に、 本番のバージョンも同年に出されている。表紙の装幀がきれいにな り、 学校や政府によって企画された教育イベント︵書香キャンパス ・ 閲読之星 ・ 千万少年快楽閲読︶の推薦図書である点も書かれている。 各童話の最後に、 ﹁心を用いて思考する﹂欄も増加され、 例えば﹁注 文の多い料理店﹂ の最後に ﹁今回、 彼らはどうして最後の結果となっ た の か、 正 し い と 思 わ れ る も の に チ ェ ッ ク を 入 れ て く だ さ い ﹂、 そ して、四つの選択肢はそれぞれ﹁食いしん坊、軽信、好奇心、お腹 がすいた﹂となっている。これを三年生の読み物として決めたのは ﹁ 南 方 分 級 閲 読 研 究 中 心 専 門 家 グ ル ー プ ﹂ で あ る。 作 家・ ジ ャ ー ナ リスト・教師・研究者・社長・政府関係者など一八人により形成さ れている。試験版より、その名前も明記するようになった。   ここに、宮澤賢治童話の教育的な側面が強調され、教育家として の 宮 澤 賢 治 像 が 構 築 さ れ て い る と 言 え よ う。 ﹁ 子 ど も 向 け ﹂ は 内 容 のわかり易さが要求されると同時に、その教育的な機能も要求され る。そして、この本は五冊のシリーズ本の中の一冊である。   二〇一〇年五月、同じく周龍梅訳の﹃銀河鉄道之夜﹄は﹁伝世経 典 ・ 必読文庫﹂の少年版の中の一冊となっている。この﹁必読文庫﹂ に 入 っ て い る 作 品 は ほ か に、 ﹃ 小 王 子 ﹄、 ﹃ ア ン デ ル セ ン 童 話 ﹄、 ﹃ 西 遊記﹄ 、﹃三国演義﹄などがある。必読図書として出版されるものに は、 出 版 側 か ら の 意 向 も 予 め 反 映 さ れ て い る。 ﹁ 作 家 略 歴 ﹂ 欄 に、 宮澤賢治の名が日本において家ごとに知れ渡っている理由は、彼の テクストが長期に渡って日本の小学校の国語教科書に掲載され続け ているからであると記されている。   二〇一六年八月に、 彭懿は﹃遇見宮澤賢治 :孤高而浪漫的児童文 学巨匠﹄を台湾で出版している。彭は、宮澤賢治について以下のよ うに述べている。

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     童話作家、詩人、日本のアンデルセンと呼ばれる。彼の人格 は作品と同様に、単純でもあり、複雑でもあり、彼は童話作家 であると共に、詩人でもあり、教師でもあり、農民芸術改革の 指導者でもあり、 そして慈悲心のある求道者でもある。確かに、 この﹁日本の国民的作家﹂の明確な定義付けは難しい。彼の作 品は日本で誰でも知っている。数多くの作品は日本の小学校国 語の教科書に選ばれ、長期にわたって日本人が最も好きな作家 の一人となっている。 ︶ 48 ︵   ﹁ 国 民 的 作 家 ﹂ と﹁ 日 本 の ア ン デ ル セ ン ﹂ と い う 同 じ フ レ ー ズ は 同 年 に 出 版 さ れ た 陳 瀅 如 訳 の 絵 本﹃ 橡 果 与 山 猫 ﹄︵ 二 〇 一 六・ 九、 遠見天下文化出版︶でも繰り返されている。佐藤宗子は翻訳につい て﹁教育的配慮﹂ ・﹁文学的配慮﹂ ・﹁経済的配慮﹂などの要素を見逃 してはいけないと論じている。さらに、翻訳という行為を時代の中 に置き、以下のようにその位置を述べている。      ﹁子ども﹂ が読者であることを配慮した上での、 ﹁翻案﹂ ﹁抄訳﹂ ﹁ 完 訳 ﹂ に﹁ 再 話 ﹂。 さ ま ざ ま な 翻 訳 の か た ち に は、 い ず れ も、 訳 出 に 関 わ る 者 の﹁ 子 ど も ﹂ 観 も、 ﹁ 物 語 ﹂ 観 も、 色 濃 く あ ら われるし、より大きな時代の動向も、もちろんその背後には存 する。翻訳作品に、何を期待してきたのか、そして今、何を期 待するのか。翻訳のさまざまは、単に形式の差であることを越 え て、 ﹁ 子 ど も ﹂ の 文 学 の 本 質 を あ ら た め て 考 え て い く 源 泉 と なっている。 ︶ 49 ︵   佐藤宗子の述べているように、様々な翻訳のバージョンにおける 形 式 の 差 よ り、 そ の 背 後 に 現 れ る 観 念 や 動 向 を 見 通 す 必 要 が あ る。 宮澤賢治の場合、その翻訳の繁栄はまず日本国内の宮澤賢治ブーム の延長線として位置付けられることができる。一方、それは中国の 出版業界の復活・中日関係の改善の表現でもある。更に、中国の経 済の発展とともに、精神文化活動への希求の中に﹁児童教育﹂への 重視が色濃く表れている。その希求に応じて出版業界も翻訳を経済 的 ・ 商業的な行為へと変換している。佐藤宗子の論じている﹁期待﹂ について、 中国の場合、 宮澤賢治文学における戦争関係の内容︵ ﹁烏 の北斗七星﹂ ﹁復活の前﹂ ︶は省略され、 ファンタジーの童話や自然 ・ 動物関係︵ ﹁銀河鉄道の夜﹂ ﹁注文の多い料理店﹂ ﹁風の又三郎﹂ ﹁雪 渡 り ﹂︶ の も の が 中 心 と し て 翻 訳 さ れ て い る 点 か ら 見 れ ば、 純 粋・ 理想主義・自然愛・動物愛などの子ども観が反映されていると見ら れる。   4︱ 3.宮崎駿とリンクされつつある宮澤賢治   一九九九年一月、楊鵬が﹃銀河鉄道之夜﹄というファンタジー小 説を出版している。楊は、花山文藝出版社より一〇〇〇〇部を刊行 し て い る︵ 五 三 千 字、 六. 四 元、 ISBN : 八 〇 六 一 一 七 〇 八 三 ︶。 銀河特急列車に乗って、奇妙な一夜の宇宙旅をする設定は宮澤賢治 の﹃銀河鉄道の夜﹄のパロディとして見られる。   二 〇 〇 五 年 四 月 に、 ﹁ も し、 そ の 魔 法 が﹃ ハ リ ー・ ポ ッ タ ー﹄ に 勝つようなら、その想像力が宮崎駿のアニメより射程が広いような ら、それは宮澤賢治の童話である﹂ ︶ 50 ︵ という宣伝の一文が﹃銀河鉄道

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の夜﹄ の中国語訳の図書の表紙に書かれた。 李毓昭の翻訳書では、 ﹁宮 澤賢治童話はロマンと幻想を結合し、虚構の世界を主題とし、理想 主義的な作風に満ちている﹂と表紙の裏部分の著者紹介欄に書かれ た。ここには、読者である楊柳の感想が序として記されている。そ の中で、楊は中国人読者として、宮澤賢治の童話が﹁ロマン的・理 想主義・宗教色・童心主義﹂等の思想を表し、ロマンと虚構の世界 を構築していると高評価している。   二〇〇八年五月、彭懿と周龍梅が翻訳した童話集﹃渡過雪原﹄が 南方日報出版社と貴州人民出版社より出版される。二〇一〇年一〇 月に第五回の印刷が行われた。この本は南方における年級別の推薦 図 書 で あ り、 明 示 的 に 小 学 三 年 生 向 け の も の と し て 出 さ れ て い る。 同時に、作家紹介欄に宮澤賢治の教育家としての身分が強調されて いる。さらに、扉には宮崎駿が﹁セロ弾きのゴーシュ﹂と同名のア ニメを作ったことをも言及している。   さらに、サブカルチャーにおける宮澤賢治の受容の多様化を示し た現象としては、二〇一五年四月に、上海市において小学生向けの 授業外のイベントとして、小学生によって﹁注文の多い料理店﹂を テーマとした寸劇が上演されている。 ︶ 51 ︵ 台湾にも宮澤賢治テクストの メディアミックスの状況が見られる。陳瀅如は台湾における﹁銀河 鉄道の夜﹂の異本作業について以下のように纏めている。      一 九 八 〇 年 代 の 台 湾 は、 一 九 八 四 年 の 日 本 映 画 輸 入 解 禁、 一九八八年の新聞・結社・言論規制解除などのメディア規制か ら解放される。その結果、一九八〇年代の日本の小説翻訳量は 四 四 〇 作 を 超 え、 一 九 七 〇 年 代 の 一 三 四 作 よ り 三 倍 を 上 回 り、 ﹁盛況期﹂に入ったといわれている。      宮沢賢治の作品は台湾において三八冊の翻訳出版がなされて い る。 ﹁ 銀 河 鉄 道 の 夜 ﹂ が ヒ ン ト を 与 え た 異 本 作 業 を 下 記 に 挙 げる。李建常監督と音楽監督桜井弘二の共作ミュージカル。松 本零士の﹃銀河鉄道999﹄ 、藤子 ・ F ・ 不二雄の﹃ドラえもん﹄ 。 久石譲のイメージ音楽CD、宮崎駿の﹃千と千尋の神隠し﹄に 現れた列車の幻想的なシーン。映画、 舞台、 音楽、 アニメーショ ン映画に至るまで、子どもから大人まで人々を魅力してやまな い。 ︶ 52 ︵   さらに、二〇一九年の翻訳作品に注目すると、宮崎駿と積極的に リンクさせて紹介する現象も見られる。例えば、二〇一九年六月に 出 版 さ れ た﹃ 銀 河 鉄 道 之 夜 ﹄︵ 劉 秋 芳 訳、 応 急 管 理 出 版 社 ︶ は ノ ー ベル文学賞、国際アンデルセン児童文学賞等の国際的な児童文学賞 の受賞作、そして実際には受賞していないけれども、影響力の広い 児 童 文 学 作 品 を 選 ん で、 合 計 三 十 五 本 を 出 版 し て い る。 こ れ ら は、 中国の小・中学生の授業時間以外の読書のための基礎書目として勧 められている。その中の一冊は宮澤賢治の ﹃銀河鉄道之夜﹄ である。 そして、 出版社によって宮澤賢治について、 ﹁日本のアンデルセン﹂ 、 宮崎駿等の日本アニメの創作者の霊感の源と見なされていることが 記されている。   最 新 の 翻 訳 作 は 二 〇 一 九 年 一 一 月 に 劉 子 倩 に よ っ て 翻 訳 さ れ た ﹃要求太多的餐庁﹄ である。日本文学として出されているが、 原作 ﹃注 文 の 多 い 料 理 店 ﹄ の 序 文 を 利 用 し、 内 容 は 第 一 章﹁ 土 と 平 和 ﹂、 第 二 章﹁ 人 類 と 自 然 ﹂、 第 三 章﹁ 森 の 善 悪 ﹂ と い う 三 つ の 章 に 分 け て

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全一八篇の童話を収録している。扉に有名アニメ ﹃となりのトトロ﹄ のモデルである﹁どんぐりと山猫﹂が収録・日本国民作家宮澤賢治 が人びとに届く童話・初心を取り戻すなどのフレーズが書かれてい る。   翻訳・出版業界の活発さとサブカルチャーの輸入等の多大な影響 力がこれら翻訳作の背後にある助力と言えよう。その両者をリンク して紹介する際に、中国における宮澤賢治受容の多様化が見られる 一方、商業活動としての翻訳出版の側面も見られる。一九四〇年代 の映画化は国策と密接に関わるが、現在におけるテクストのアニメ 化は資本と商業と深く関わっていると言えよう。これらのサブカル チャーの観客側の受容については、今後の課題としたい。   4︱ 4.﹁国民的な作家﹂である宮澤賢治   訳者や出版側から宮澤賢治をアンデルセンや宮崎駿と並べて紹介 す る 以 外 に、 ﹁ 国 家 ﹂ と い う レ ッ テ ル が 貼 ら れ て い る こ と が あ る。 例えば、二〇〇三年一一月に、河童によって新世界出版社から出さ れた﹃銀河鉄道之夜﹄は一二〇〇一∼一七〇〇〇冊を刊行し、同年 一二月に二回印刷を行った。このことは、日本国宝級 4 4 4 作家ですので 宮澤賢治の最も代表的な作品として﹃銀河鉄道の夜﹄を位置づける できごとである。   二〇〇五年四月、同じく周龍梅訳の宮澤賢治童話シリーズ本が全 三冊の﹃風又三郎﹄ ﹃銀河鉄道之夜﹄ ﹃水仙月四日﹄として出版され ている。それぞれ三〇〇〇冊を出している。宮澤賢治を ﹁童話天才﹂ として高く評価し、彼の作品を大人向け 4 4 4 4 の﹁外国文学﹂として勧め ている。二〇〇〇年六月二九日の朝刊﹃朝日新聞﹄東特集一六頁に ﹁この1000年﹁日本の文学者﹂読者人気投票   ミレニアム特集﹂ という投票結果が掲載され、宮澤賢治は一二七五票を獲得して第四 位となった。この記事の結果は宮澤賢治童話シリーズ本にも書かれ て お り、 太 宰 治・ 谷 崎 潤 一 郎・ 川 端 康 成・ 三 島 由 紀 夫・ 安 部 公 房・ 大江健三郎、そして村上春樹を遥かに上回っていたとも記されてい る。宮澤賢治は、中国で名が高い作家群より人気のある天才として その地位を確立している。   こ の 投 票 の 結 果 に つ い て は、 彭 懿 訳 の﹃ 要 求 太 多 的 餐 館 ﹄ ︵二〇一一・六、 百花洲文芸出版社︶ 、呉菲訳の詩集﹃春天与阿修羅﹄ ︵ 二 〇 一 五・ 九、 新 星 出 版 社 ︶ で も 触 れ ら れ て い る。 そ の 後、 顧 錦 芬も宮澤賢治の詩を中心に翻訳し、二〇一五年一二月に﹃不要輸給 風 雨 : 澤 賢 治 詩 集︵ 宮 澤 賢 治 誕 生 一 二 〇 周 年 記 念 出 版 ︶﹄ ︵ 商 周・ 城邦文化出版︶を繁体字訳し台湾で出版している。また、同冊の簡 体字訳を二〇一七年一月に天津人民出版社より出版しており、宮澤 賢治を日本の国民的詩人 4 4 4 4 4 として紹介している。   構大樹は今日の日本における宮澤賢治の受容について、世間で幅 広く知られており、 その理由として﹁賢治の知名度の高さへの信頼﹂ が 見 ら れ、 ﹁ 観 光 資 源 ﹂ と﹁ 文 コ ン テ ン ツ 化 資 源 ﹂ と し て 賢 治 の 受 容 が 進 ん で いることを論じている。 ︶ 53 ︵ 中国への導入・紹介の際には、このような 知名度や資源としての価値がないと勧められないことも事実と言え よう。それ故に、各翻訳書の扉には、宮澤賢治テクストの内容や魅 力 よ り、 ま ず は 宮 澤 賢 治 の 地 位・ 名 声・ 価 値 を 宣 伝 す る。 こ れ は、 新自由主義の時代における、文化資源としての﹁宮澤賢治﹂の国際 輸出であると言える。

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  ベ ン ヤ ミ ン は 翻 訳 者 の 営 み に つ い て、 ﹁ 翻 訳 の ほ う が 作 品 の 名 声 に み ず か ら の 存 立 を 負 う ﹂ こ と を 論 じ て い る。 ︶ 54 ︵ 宮 澤 賢 治 の﹁ 名 声 ﹂ とは、その国民性であり、知名度である。しかし、この﹁名声﹂は 戦 時 下 に お け る 教 科 書・ 詩 集・ ラ ジ オ・ 映 像・ 合 唱・ 朗 誦・ 雑 誌・ チラシ・新聞紙など多様な媒介での流通なしには到達できなかった かもしれない。その歴史的プロセスを明らかにすることは、様々な 出 版 物 と と も に 流 布 し て い る 宮 澤 賢 治 像 を 解 明 す る こ と に つ な が る。 まとめ   近 年、 宮 澤 賢 治 の 国 際 的 な 受 容 に 伴 い、 ﹁ 宮 澤 賢 治 ﹂ と い う 作 家 イメージも国際的に流布している。その機運の中で、一九八〇年代 以 降 に 中 国 に お い て 宮 澤 賢 治 の 研 究 と 翻 訳 も 盛 ん に な っ て き て い る。本論は、まず一九二〇年代に草野心平の活動で宮澤賢治テクス トが初めて中国大陸に紹介されたことを確認した。宮澤賢治と面識 のあった黄瀛とその弟子である王敏の活動は、戦前の一九二〇年代 と戦後の一九八〇年代以降の中国における宮澤賢治の受容の接点と なったことを見てきた。そして、一九八〇年代以降、王敏を代表と する活動は中日友好交流の外交的・民間的な社会背景も強く反映し ている。   一九三〇年代から四〇年代の第二次世界大戦下における宮澤賢治 の 広 が り は 国 策 と 深 く 関 わ っ て い る。 ﹁ 旧 満 州 ﹂・ 上 海 で の﹁ 詩 歌・ 映 画・ ラ ジ オ・ 文 芸 ﹂ な ど 多 様 な 受 容 の さ れ 方 に つ い て 確 認 し た。 その結果、宮澤賢治は日本精神・戦意高揚の代表となったことを示 すことができた。このことは戦後に氾濫している﹁宮澤賢治=国民 的作家﹂というフレーズの基盤ともなっていると言えよう。   第二次世界大戦後、中日文化交流の沈黙期を経て、一九八〇年代 以降に、中国における宮澤賢治受容の復帰も始まる。研究と翻訳が 盛 ん に な っ て い る 中、 、 宮 澤 賢 治 作 品 と 中 国 の 古 典 文 学 作 品 と の 比 較がよく研究されている。翻訳の面では、各バージョンの比較と方 言・翻訳技巧に関する研究がある。   本論は特に①﹁日本のアンデルセン﹂となる児童文学家﹁宮澤賢 治 ﹂、 ② 教 育 的 な 機 能 を 果 た す 宮 澤 賢 治 テ ク ス ト、 ③ 宮 崎 駿 と リ ン クされつつある宮澤賢治、④﹁国民的な作家﹂である宮澤賢治、と いう四つの特徴を中心に論じてきた。   その上、詩として受容されている﹁雨ニモマケズ﹂に注目する際 に、その戦時下受容・戦争利用の内容について、戦後の翻訳書には あまり触れられてこなかったことを確認した。研究者の于長敏は宮 澤 賢 治 文 学 の﹁ 限 界 ﹂・ 王 敏 は そ の 戦 時 下 利 用 の 事 実・ 周 異 夫 は 宮 澤賢治の国家主義思想、をそれぞれ論じている。しかし、これらの 論点はその後の﹁雨ニモマケズ﹂の翻訳と紹介の際に言及されるこ とは稀である。   現在生きている読者の私達に、 中日文化に関する相互理解の深化、 ﹁翻訳﹂という行為の性質、 ﹁児童文学﹂を中心に受容されてきた宮 澤賢治テクストの機能、訳者や出版メディアの意図について考えさ せる。   構大樹の論じるように、宮澤賢治が一種の文化資源であり、花巻 市の国際交流の要望に相応しい存在である。また、日中友好交流の 橋としての機能も果たしている。 ところが、 日本の国内において、 ﹁宮

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澤賢治﹂を創った男たちが重要視していた部分と名作化されていな かった部分が併存している。この影響で、中国に翻訳・紹介される 際 に、 注 目 さ れ る 部 分 と 無 視 さ れ る 部 分 も 存 在 す る こ と に な っ た。 これこそ、作品の背後に存する時代の動向であろう。   佐藤宗子の述べたように、現代日本児童文学の特徴として﹁子ど もへの関心・散文性の獲得・変革への意志﹂という三点があげられ る。そして、 海外の作品を日本へ翻訳する際には、 ﹁経済性 ・ 教育性 ・ 文 学 性 ﹂ が 求 め ら れ、 ﹁ 子 ど も 向・ 日 本 向・ 現 代 向 ﹂ と い う 基 準 も 設けられている。翻訳には、各時代の訳者の﹁子ども観﹂ ・﹁世界観﹂ もより明確に浮かび上がる。   本論は宮澤賢治像の流布を中心に整理し検討してきたが、戦時下 受容の問題・テクスト内容の翻訳の比較と読者側の反応・サブカル チャーにおける宮澤賢治の受容などを、今後の研究課題として進め ていきたい。 キーワード   宮澤賢治/中国/受容の変遷/多様性/児童文学 【付記】 ‌‌ 本 稿 は、 二 〇 一 八 年 一 二 月 二 三 日 に 行 わ れ た 歴 史 知 研 究 会 第 六 一 回 研 究 会︵ 於 立 正 大 学 品 川 キ ャ ン パ ス ︶ に て 発 表 し た 報 告 の 内 容 を も と に 大 幅 に 加 筆 し た も の で あ る。 当 日、 会場でご教示賜った皆様に心より感謝申し上げます。 【凡例】 ︵ 1︶ 引 用 文 中 の 傍 線 は、 特 に 断 り の な い 場 合、 引 用 者 に よ る も の で あ り、 引 用を略した部分については︵中略︶で示した。 ︵ 2︶ 文献については、単行本や新聞 ・ 雑誌 ・ 映画 ・ アニメのタイトルを﹃   ﹄ で 示 し、 単 行 本 や 新 聞・ 雑 誌 に 掲 載 さ れ た 文 章 の タ イ ト ル は﹁   ﹂ で 示 した。 ︵ 3︶ 引 用 文 中 の 漢 字 は 新 字 に 揃 え、 仮 名 遣 い に つ い て は 原 文 の ま ま と し た。 ま た、 ル ビ は 適 宜 省 略 し た。 中 国 語 の 作 品 を 紹 介 す る 際 に、 中 国 の﹁ 簡 体字﹂を適宜に日本でよく使われている﹁繁体字﹂に変えた。 【注】 ︵ 1︶ 萬 田 務﹁ 宮 沢 賢 治 研 究 史 ﹂︵ ﹃ 国 文 学   解 釈 と 教 材 の 研 究 ﹄ 五 月 臨 時 増 刊 号、第三十一巻第五号五月号、通巻四五一号、一九八六・五、学燈社︶ 。 ︵ 2︶ 構 大 樹﹃ 宮 沢 賢 治 は な ぜ 教 科 書 に 掲 載 さ れ 続 け る の か ﹄︵ 二 〇 一 九・ 九、 大修館書店︶二一頁。 ︵ 3︶儀府成一﹃宮沢賢治・その愛と性﹄ ︵一九七二・一二、芸術生活社︶ 。 ︵ 4︶森荘已池﹃宮沢賢治の肖像﹄ ︵一九七四・一〇、津軽書房︶ 。 ︵ 5︶境忠一﹃宮沢賢治の愛﹄ ︵一九七八・三、主婦の友社・東京︶ 。 ︵ 6︶宮澤清六﹃兄のトランク﹄ ︵一九八七・九、筑摩書房︶ 。 ︵ 7︶天沢退二郎﹃宮沢賢治の彼方へ﹄ ︵一九六八・一、思潮社︶ 。 ︵ 8︶ 山 折 哲 雄﹃ 宮 沢 賢 治   童 話 の 世 界   賢 治 の 風 光 ﹄︵ 一 九 八 五・ 七、 佼 成 出版社︶ 。 ︵ 9︶安藤恭子﹃宮沢賢治︿力﹀の構造﹄ ︵一九九六・六、朝文社︶ 。 ︵ 10︶西成彦﹃森のゲリラ   宮沢賢治﹄ ︵一九九七・二、岩波書店︶ 。 ︵ 11︶押野武志﹃宮沢賢治の美学﹄ ︵二〇〇〇・五、翰林書房︶ 。 ︵ 12︶ 鈴 木 健 司﹃ 宮 沢 賢 治 と い う 現 象 ︱ 読 み と 受 容 へ の 試 論 ﹄︵ 蒼 丘 書 林、 二 〇〇二・五︶ 。 ︵ 13︶米村みゆき﹃宮沢賢治を創った男たち﹄ ︵二〇〇三・一二、青弓社︶ 。 ︵ 14︶山下聖美﹃賢治文学﹁呪い﹂の構造﹄ ︵二〇〇七・八、三修社︶ 。 ︵ 15︶西田良子﹃宮沢賢治読者論﹄ ︵二〇一〇・三、翰林書房︶ 。 ︵ 16︶ 構 大 樹﹁ 徴 用 さ れ た < 宮 沢 賢 治 > 総 動 員 体 制 下 の﹁ 雨 ニ モ マ ケ ズ ﹂ と 文 学 的 価 値 の 所 在 ﹂︵ ﹃ 日 本 近 代 文 学 ﹄ 第 九 十 二 集、 二 〇 一 五・ 五、 日 本 近代文学会︶ 。 ︵ 17︶ 村山龍 ﹃︿宮沢賢治﹀ という現象   戦時へ向かう 一九三〇年代の文学運動﹄ ︵二〇一九・五、花鳥社︶ 。 ︵ 18︶ 近藤健史﹁東アジアと宮沢賢治︱韓国 ・ 中国における翻訳状況と特徴︱﹂ ﹃ 研 究 紀 要 ﹄ 第 二 七 号︵ 二 〇 一 四・ 三、 日 本 大 学 通 信 教 育 部 通 信 敎 育 研 究所︶ 。

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︵ 19︶ 黄 育 紅﹁ 中 国 で の 賢 治 ﹂﹃ 賢 治 研 究 ﹄︵ 第 九 一 号、 二 〇 〇 三・ 九、 宮 沢 賢 治研究会︶ 。   ︵ 20︶ 初 出 : 敏﹁ 宮 沢 賢 治 研 究 五 十 年 ﹂︵ 中 国 語、 季 刊﹃ 日 本 文 学・ 宮 澤 賢 治特輯﹄ 、 総第一六期、 一九八六 ・ 六、 日本文学編輯部、 吉林人民出版社︶ 。 引 用 文 : 敏﹁ 宮 沢 賢 治 研 究 の 五 十 年 ︱ 中 国 へ の 紹 介 ︱﹂ ︵﹃ 研 究 紀 要 ﹄ 第六号、一九九九、東京成徳大学︶ 。 ︵ 21︶ 劉 春 燕﹁ 宮 沢 賢 治 と 中 国 に 関 す る 研 究 :西 域 童 話 と 中 国 に お け る 受 容 を 中心に﹂ ︵博士論文、二〇一七・三、熊本大学︶ 。 ︵ 22︶ 王敏 ﹁日本へ留学の意義 : 国境を越えた近代教育実践者の黄瀛母子﹂ ﹃別 府大学紀要﹄第五十八号︵二〇一七・二、別府大学会︶ 。 ︵ 23︶ 黄瀛﹃詩人黄瀛与日本現代主義詩歌研究﹄ ︵楊偉 ・ 唐先容編著、 二〇一六 ・ 六、西南師範大学出版社︶七五頁。 ︵ 24︶ 前掲 ﹃詩人黄瀛与日本現代主義詩歌研究﹄ 八六頁。原文内容 :高村先生! 在 这 个 要 活 下 去 的 世 界 上, 为 了 和 平, 为 了 中 日 友 好, 我 正 准 备 奉 献 最 后 的力量。我 这 点微薄的文学才能,果真能承担此任 吗 ? ︵ 25︶ 鈴 木 貞 美﹃ 宮 沢 賢 治 イ ー ハ ト ヴ 学 事 典 ﹄︵ 二 〇 一 〇・ 一 二、 弘 文 堂 ︶ 九 八 頁。 誌 面 の 確 認 と﹃ 銅 鑼 ﹄ 性 格 を 今 後 の 課 題 と し た い。 本 論 は そ の 人 的な繋がりを確認する作業に重点を置く。 ︵ 26︶ 王敏 ﹁賢治を愛した中国詩人 ・ 黄瀛︱わが恩師を悼む﹂ ﹃外交ファーラム﹄ 第二一〇号︵二〇〇六・一、都市出版︶ 。 ︵ 27︶ 王 敏﹁ イ ン タ ビ ュ ー 文 学 者・ 王 敏 さ ん に 聞 く 宮 沢 賢 治 の 方 法 論 か ら 見 る 日中文化交流の明日 ﹂﹃曙光﹄ ︵特集 爾好!宮沢賢治︶ 第二巻第四号 ︵二 〇〇〇・七、翰林書房︶七頁。 ︵ 28︶ 吉田功 ﹁序に代えて﹂ ︵宮沢賢治著、 騰瑞訳 ﹃宮沢賢治童話選﹄ 一九九四 ・ 一〇、光明日報出版社︶一∼二頁。 ︵ 29︶ 村山龍 ﹃︿宮沢賢治﹀ という現象   戦時へ向かう一九三〇年代の文学運動﹄ ︵花鳥社、二〇一九・五︶一九一頁。 ︵ 30︶ 遠藤純 ﹁戦時下における宮沢賢治の受容︱大陸移民と松田甚次郎︱﹂ ﹃ 国 際児童文学館紀要﹄第一六号︵二〇〇一、 大阪国際児童文学館︶六七頁。 ︵ 31︶ 銭 稲 孫﹁ ﹁ 北 國 農 謡 ﹂ 附 記 ﹂﹃ 日 本 詩 歌 選 ﹄︵ 一 九 四 一・ 四、 文 求 堂 書 店 ︶ 一三〇頁。 ︵ 32︶森荘巳池﹃宮沢賢治の肖像﹄ ︵一九七四、津軽書房︶ 。 ︵ 33︶ 米 村 み ゆ き﹁ ﹁ 賢 治 の 会 ﹂ の 生 成 ︱ 宮 沢 賢 治 の 受 容 と 作 者 の 卓 越 化 ﹂﹃ 名 古 屋 大 学 国 語 国 文 学 ﹄ 第 七 十 八 号︵ 一 九 九 六・ 七、 名 古 屋 大 学 国 語 国 文 学会︶八七∼八八頁。 ︵ 34︶ 山下聖美﹁第二次世界大戦中、 及び敗戦直後における宮沢賢治受容﹂ ﹃藝 文攷﹄ ︵第六号、二〇〇一・二、文藝攷編集委員会︶ 。 ︵ 35︶ 近 藤 健 史﹁ 海 を 渡 っ た 宮 沢 賢 治 ︱ 北 京・ 満 州・ 上 海 ︱﹂ ﹃ 東 ア ジ ア 日 本 語教育 ・ 日本文化研究﹄第一七輯︵二〇一四 ・ 三、東アジア日本語教育 ・ 日本文化研究学会︶ 。 ︵ 36︶ ﹁後記﹂ ﹃イーハトーヴォ﹄第一期第五号︵菊池暁輝編、 一九四〇 ・ 三、 ﹁宮 沢賢治の会﹂発行︶三四頁。 ︵ 37︶ 于長敏﹁宮沢賢治及其作品浅析﹂前掲﹃日本文学 ・ 宮澤賢治特輯﹄季刊、 総 第 十 六 期︵ 一 九 八 六・ 二、 日 本 文 学 編 輯 部、 吉 林 人 民 出 版 社 ︶ 八 六 ∼ 九二頁。 ︵ 38︶ 王 敏﹁ 宮 沢 賢 治 研 究 五 十 年 ﹂ 前 掲﹃ 日 本 文 学・ 宮 沢 賢 治 特 輯 ﹄ 季 刊、 総 第 十 六 期︵ 一 九 八 六 年・ 二、 日 本 文 学 編 輯 部、 吉 林 人 民 出 版 社 ︶ 九 三 ∼ 九九頁。 ︵ 39︶ 王敏 ﹁万人共通の普遍性の交響曲︱宮沢賢治と中国文化を中心に︱﹂ ﹃帝 京 史 学 ﹄ 第 八 号︵ 一 九 九 三・ 一・ 三 〇、 帝 京 大 学 文 学 部 史 学 科 ︶ 一 六 一 頁。 ︵ 40︶ 王 敏﹁ 宮 沢 賢 治 の 中 の 中 国 ﹂﹃ 東 方 ﹄ 二 七 二 号︵ 二 〇 〇 三・ 一 〇、 東 方 書店︶ 。 ︵ 41︶ 周 異 夫﹁ 宮 沢 賢 治 の 国 家 主 義 的 想 念 ︱ 田 中 智 学 国 柱 会 と の 関 連 を 中 心 に ︱﹂ ﹃ 人 文 論 究 ﹄ 第 四 十 九 巻 第 二 号︵ 一 九 九 九・ 九、 関 西 学 院 大 学 人 文 学会︶二七∼九九二頁。 ︵ 42︶ 黄 育 紅﹁ 宮 沢 賢 治 の﹁ 風 の 又 三 郎 ﹂ ︱ 主 題 歌﹁ 風 の 歌 ﹂ の 中 国 語 へ の 翻 訳 上 の 問 題 を 中 心 に ︱﹂ ﹃ 千 葉 大 学 社 会 文 化 科 学 研 究 ﹄︵ 第 六 号、 二 〇 〇 二、千葉大学大学院社会文化科学研究科︶ 。 ︵ 43︶ 周 龍 梅﹁ 賢 治 童 話 と 中 国 神 話 ︱﹁ 水 仙 月 の 四 月 ﹂ の 中 の 西 王 母 ﹂﹃ 賢 治 研究﹄ ︵二〇〇四・一一、宮沢賢治研究会︶ 。 ︵ 44︶ 崔 莉﹁ 賢 治 童 話 に お け る︿ 力 ﹀ の 構 造 ︱ 言 語﹁ 植 民 ﹂ 及 び﹁ 反 植 民 ﹂ の 一側面から︱﹂ ︵修士論文、二〇〇七・四、広州外語外貿大学︶ 。 ︵ 45︶ 中 国 学 術 情 報 デ ー タ ベ ー ス︵ CNKI : China National Knowledge Infrastructure ︶ は、 中 国︵ 台 湾・ 香 港・ マ カ オ を 除 く ︶ に お け る 総 合 的 な 学 術 情 報 デ ー タ ベ ー ス で あ る。 中 国 で 発 行 さ れ る 重 要 雑 誌 九、 四 〇 〇 余 誌 を 対 象 と し、 一 九 九 四 年 以 降 の 四、 七 〇 〇 万 件 以 上 の 文 献 を 収 録 し て い る。 最 終 ア ク セ ス 日 : 〇 二 〇 年 一 月 二 四 日。 URL :https://kns.cnki. net/kns/brief/default_result.aspx 。 ︵ 46︶ 石 井 直 人﹁ 現 代 児 童 文 学 の 条 件 ﹂︵ ﹃ 現 代 児 童 文 学 の 可 能 性 ﹄ 日 本 児 童 文

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