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「ペテルブルグと音楽-オペラ《スペードの女王》について」

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ペテルブルグと音楽

―オペラ《スペードの女王》について―

浅岡 宣彦

大阪市立大学大学院文学研究科表現文化教室 * チャイコフスキイはプーシキンの作品を題材にして三つのオペラを作曲した。《エヴゲーニ イ・オネーギン》、《マゼッパ》、《スペードの女王》である。それぞれ韻文小説、叙事詩、散文 小説と異なるジャンルからオペラ化したものであるが、散文作品の脚色に消極的であったチャ イコフスキイは当初『スペードの女王』の作曲に否定的であった。1888年3月に弟モデス トに書いた書簡には次のように書かれている。「(…)オペラを書くとすれば、それはぼくの心 を深く揺さぶるような主題に出会った時だけだ。『スペードの女王』のような主題はぼくの心 を動かさない。」1 しかし翌年の12月には帝室劇場支配人フセヴォロシュスキイの要請に同意 し、1890年1月14日には創作に専念できる場所を求めてフィレンツエに向かっている。 創作への没頭振りは当時の書簡からも明らかで、弟モデストの台本の到着が待ちきれないほど 順調に作曲が進み、僅か44日間で草稿が書き上げられた。 原作とオペラの台本とを比較すると、かなりの異同が見られる。原作者に対する冒瀆ではな いかと批判された所以である。時代設定、季節、舞台の場面も大幅に変更されたが、登場人物 の設定も同様で、例えば、主人公ゲルマンは小説ではGermann と表記され、苗字であるのに 対し、オペラではGerman と綴られ、名前に変更されている。原作のゲルマンはロシアに帰化 したドイツ人の息子という設定であるが、名前の変更によりドイツ出身の印象が薄められた。 ヒロインのリーザの設定も著しく変更された。原作では未完の小説『書簡体小説の断章』のヒ ロイン、リーザと同じく、伯爵夫人の《養女》の身分に置かれていたが、オペラでは伯爵夫人 の姪に格上げされ、その結果としてゲルマンとリーザとの間に社会的立場の相違が設けられた。 更に、原作には登場しないリーザの婚約者エレツキイ公爵が導入され、ゲルマン、リーザ、エ レツキイ公爵の間にオペラに特有の三角関係が作り出された。作品の結末も大きく変更された。 総じて、プーシキンの作品には自殺をする登場人物が少ない。南方で書かれた叙事詩『コーカ サスの捕虜』(1820-21)にチェルケスの娘が登場する。彼女はバイロンの東方叙事詩『海賊』 に登場する献身的なメドラと情熱的なグルナーレの性格を併せ持つ女性で、捕虜となったロシ ア人の青年に恋をし、彼の逃亡を手助けしたあと、山岳の急流に自らの身を投じてその生涯を 閉じる。このチェルケスの娘の自殺にはカラムジンの『哀れなリーザ』(1790)の影響も見逃

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せない。貴族の青年に恋をし、結局は相手に捨てられて池に身を投げた農民の娘の物語である。 破局の原因のひとつはゲルマンと同じく青年が大敗を喫したカード賭博にある。カラムジンの 小説における貴族と農民の娘との社会的葛藤はプーシキンの叙事詩では征服する帝国と征服 される山岳民、文明社会と未開社会との対立という構図に移行しているが、この作品のエピロ ーグに「帝国のテーマ」が響いている。「雲白き頭を垂れよ、帰順せよ、コーカサス!/かく てエルモーロフが乗り出して行く。/そして激しい戦いの叫びも静まった。/すべてロシアの 剣の前にひれ伏した。/コーカサスの誇り高き子たちよ、/お前たちは戦い、恐ろしい最期を とげた。」(川端香男里訳) もうひとつの例としては、未完の劇詩『ルサルカ』がある。この作品は貴族の青年に裏切ら れた粉屋の娘がドニエプル河に身を投げてルサルカ(水の精)に変身し、復讐の機会を狙うと いう物語である。『スペードの女王』の原作では老伯爵夫人がゲルマンの脅迫に衝撃を受けて 落命するだけで、ゲルマンは発狂して精神病院に収容され、リザヴェータは老伯爵夫人の家令 の息子と結婚し、自らも養女を養う、という設定になっている。チャイコフスキイのオペラに 登場するリーザは、カラムジンの『哀れなリーザ』のヒロインのように、或はチェルケスの娘 や粉屋の娘のように、冬の運河に身を投げて自殺し、主人公ゲルマンはカード賭博に大敗した 後にピストルで自らの命を奪ってしまう。 これらの変化の結果、オペラには原作とは異なる要素が導入された。ゲルマンとリーザとの 一途な愛、貴族と平民との許されざる恋、それに悲劇的結末、というメロドラマ的要素である。 原作のゲルマンは舞踏会の戯言の形ではあるが、トムスキイの評に拠れば、「ナポレオンの横 顔とメフィストフェレスの心」の持ち主で、「他人をすべてゼロと考え、自らを1と信じ」、栄 光以外には「信仰も、霊感も、愛も、自由も」信じない人物である。彼がリザヴェータに接近 したのはあくまでも目的遂行のための手段としてであって、愛のためではなかった。ゴゼンプ ードは次のように強調する。「プーシキンの主題で書かれたオペラを評価する場合には、音楽 作品の内容と原作との相関関係から出発すべきであって、台本とプーシキンのテキストとの対 比や、作曲家によって主題に導入された個別的あるいは全般的変更から出発すべきではない。」 ² 確かに、文学的源泉に対するチャイコフスキイの態度はプーシキン文学を軽視する作曲家の 現われと見るべきではないだろう。例えば、チャイコフスキイはフォン・メック夫人に宛てて 次のように書く。「あれほど音楽を熱烈に愛していながら、どうしてあなたがプーシキンを認 めることができないのか、理解に苦しみます。プーシキンは天才的才能によって実にしばしば 詩という狭い世界から音楽の果てしのない領域に分け入っています。これは口先だけの空言で はありません。彼が詩の形式で書いているという本質にはかかわりなく、詩そのもの、その音 の連続性の中に、心の奥底にしみ入る何かがあります。この何かこそ、音楽なのです。」(岩田 貴訳³)作曲家の友人カーシキンの回想に拠ると、チャイコフスキイは、「プーシキンの言葉で ロマンスを書くことはほとんどできない、何故なら詩人(の作品)ではあまりにも明瞭に、完 璧に、見事にすべてが表現されているので、音楽でつけ加えることが何もないからである」4

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と語っている。これらの発言は作曲家がプーシキンを敬愛していたことの明らかな証拠であろ う。決して詩人を蔑ろにしていた訳ではない。では何故に原作に変更をもたらしたのか。それ を解く鍵は作曲家の次の言葉に隠されていると思われる。「私は実際にテキストが醸し出す感 情、気分、形象を《正しく、誠実に、率直に》表現する能力が自分に与えられていると思われ る。その意味で私はリアリストである。」5 これは1891年に書かれたもので、作曲家の創作 活動を総括するような内容になっているが、チャイコフスキイがプーシキンの作品を作曲する 上で自らに課した課題はまさにこの点にあったのではないか、つまり作品に込められた詩人の 《感情と気分と形象》を《正しく、誠実に、率直に》把握し、音楽という表現手段を用いて再 現することにあった、と考えていいだろう。 * 帝室劇場支配人フセヴォロシュスキイとモスクワの代表プチェリニコフとの往復書簡に以 下の記述が見られる。1885年5月6日付けである。「(…)ところでカンダウーロフに、『ス ペードの女王』からリブレットを作成するように委託してくれませんか。舞台の設定はとても 上手くいく可能性があります:賭博場、公爵夫人宅の舞踏会、同じ公爵夫人宅の夜の場面、そ れから亡霊の出現、-幻想の要素を与えることが可能です、衣装に関しては、舞台を一つ前の 世紀に移させましょう、問題は帽子です。同様にプーシキンの詩を利用することも可能です。」 6 この段階ですでに時代設定を19世紀30年代から18世紀に移す構想が見られる。その理 由のひとつは衣装に関係しているらしい。「時代背景は支配人の希望で18世紀に移された。 18世紀の豪華な衣装で舞台を華やかにするためであった」7 というある解説を裏付ける言葉 である。しかしそれだけであろうか。プーシキンの作品で描かれているのは19世紀30年代 のペテルブルグであるが、作品の中では60年前のパリが意識的に対比されている。トムスキ イのアネクドートは次のように始まる。「(…)六十年ほど昔お祖母さんはパリに行って、あ そこの人気の的だった(…)あのころの婦人連はファラオンをやったものだが、あるときお祖 母さんは宮中のカルタ会で、オルレアン公と争ってそれこそさんざんな負け方をしてしまった。 (…)」或いは、伯爵夫人が死んだ後、ゲルマンは秘密の階段を降りながら感慨に襲われる。「六 十年の昔には、それもちょうどこの刻限に、粋な上衣を裾長に王鳥髷した果報者が、三角帽を 抱きしめ、やっぱりあの寝間へ通ったものだろう。(…)」(『スペードの女王』からの引用は 神西清訳、以下同)60年前、すなわち1770年代はフランスでは革命前の爛熟した時代に あたり、ロシアではエカテリーナ女帝の治世下で帝国が栄華を極めていた時代にあたる。しか しそれはまたプガチョーフの農民暴動が発生する直前の時代でもある。フランスに関する情報 源は主に書物であったが、そのひとつにカラムジンの書いた紀行文『ロシア人旅行者の手紙』 がある。1790年4月のパリの情景であるが、その中に次のような描写が見られる。 しかし本当のフランス人の娯楽はもうその時にはパリの集まりでは珍しくなっていました。恐ろしい 遊びが始まりました。若い貴婦人たちは毎晩お互いを破産させるために寄り集まって、トランプ遊び

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に興じ、優雅なしきたりや社交術を忘れてしまっていたのでした。(…)皆が小理屈を言い、もった いぶり、ペテンにかけ、そしてラシーヌやデプレオーが理解できなかった、したがらなかったであろ う新しい奇妙な表現を取り入れました-そしてもし突然頭上に革命の雷鳴が轟かなかったら、われわ れは退屈のあまりどうしたらいいのか、分からなかったところです。8 18世紀70年代のパリ、それから60年後の19世紀30年代のペテルブルグ、更にそれ から約60年経過した1890年に、チャイコフスキイが『スペードの女王』をオペラに作曲 したことになる。ここには奇妙な60年サイクルが見られる。その『スペードの女王』の編曲 が終りかけた4月に作曲家はフォン・メック夫人に宛てて次のように書いた。 (…)ところで今ロシアでは何か不都合なことが起きていますね。皇帝の側近たちが陛下を保守的 傾向に引きずりこんでいますが、これはとても悲しいことです。反動の風潮はトルストイ伯爵の作 品が何か革命的檄文でもあるかのように迫害されるまでに達しています。若者たちは暴動を起こし、 ロシアの状況は本質的にとても暗いものです。しかしそれらは私がある情熱的な愛情でロシアを愛 する妨げにはなりません。9 ペテルブルグは帝国の首都である。ロシアの現状に対するチャイコフスキイの絶望的な想いと ロシアへの絶大なる愛の矛盾した感情の中にプーシキンを評したフェドトフの表現を借りれ ば《帝国と自由の歌びと》プーシキンとの共通性を読み取ることが可能であろう。30年代の ペテルブルグの情況は90年代の革命や暴動を予感させる暗い反動的体制下のペテルブルグ に通じるものがある。ロシア帝国の黄金時代をオペラの時代背景に据えた狙いは舞台効果の面 だけではなく、革命を招来するような爛熟した社会への暗示を避けようとする政治的配慮とと もに、帝国への黄金時代への憧憬の想いが込められたものと考えられる。それは同時に作曲家 と同時代の社会の現実を逆照射する狙いもあったのではなかろうか。 * 原作の『スペードの女王』が書かれたのは1833年の秋である。この秋には、他に《ペテ ルブルグ物語》という副題を持つ叙事詩『青銅の騎士』、シェイクスピアの喜劇『以尺報尺』 を翻案した叙事詩『アンジェロ』、更には『プガチョーフ叛乱史』や、グリム童話を粉本に持 つ民話『漁師と魚の話』、『死んだ王女と七人の勇士の話』などが書かれている。シジャコフが 指摘しているように、『スペードの女王』の草稿が現存していないために、正確な創作過程を 辿ることは困難であるが、三つの作品、『青銅の騎士』、『アンジェロ』、『スペードの女王』の 創作が時期的に交錯し、並行して書かれたことは間違いない。10 この秋に書かれた作品はそれぞ れ相互に関連を有し、1833年秋の詩人の統一的な構想の中に組み込まれていたと考えられ る。特に、叙事詩『青銅の騎士』と小説『スペードの女王』は接点が多く、一方は韻文で、他 方は散文で書かれた《ペテルブルグ物語》である。物語の舞台は『スペードの女王』も、『青 銅の騎士』も、湿った、陰うつな秋から冬にかけてのペテルブルグで、その情景はいずれの場 合も内的緊張感と不安感に満たされたものであり、首都は主人公ゲルマンとエヴゲーニイにと

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って敵対的な都市として描写されている。二つの物語の筋はペテルブルグの平凡な市井の住民 に起った特異な事件に関する物語で、その事件はいずれも主人公の期待と崩壊と滅亡に終って いる点で共通している。《ペテルブルグ物語》の作品の名称にも共通性が見られる。ペトルー ニナが指摘しているように、『スペードの女王』も、『青銅の騎士』も、物語の主人公の名前(ゲ ルマン、エヴゲーニイ)ではなく、その敵対者、それもその本人自身の名前ではなく、その敵 対者の死後にその人物の機能を担い、一定の時に主人公の運命に断固として介入してくるメタ ファー的「代理人」の名前である。11 作品 主人公 敵対者 死後の名前 『スペードの女王』 ゲルマン 老伯爵夫人 スペードの女王 『青銅の騎士』 エヴゲーニイ ピョートル大帝 青銅の騎士 ペトルーニナはさらに次のように指摘する。「これらの名称は多義的で象徴的である。〈ス ペードの女王〉は単に賭博カードを示すだけでなく、老伯爵夫人のことを示しており、主人公 を狂気と滅亡に導く運命のシンボルである。」12 『スペードの女王』の舞台になっているペテルブルグはロシアの中の〈ヨーロッパ〉であり、 《西欧に開かれた窓》としてピョートル大帝の《運命的な意志》によって建設された人工の町 である。「最初はアムステルダムを目標にしたが、次第に構想が膨らんで北方のパリ、または 北方のローマを目標に掲げた。その目標を実現するために数万人の人々がネヴァ河のデルタ地 帯に駆り集められた。主に、百姓、兵隊、犯罪者、捕虜のスエーデン人やタタール人などで、 彼らには住まいも食事も与えられず、道具もなかった。掘られた土を彼らは自分たちの着てい る服で運んだ。土砂降りの雨のしたで、蚊の大群に悩まされながら、これらの不幸な人々は泥 の土壌に木の杭を打ち込んでいた。飢餓、病気、強制労働による死者の数は不明である。恐ら く、数十万人はいたであろうが、ピョートルがそれに全く関心を抱かなかったので、誰も計算 すらしなかった。」13 18世紀の文学は総じて自然の征服者ピョートルを讃美する作品が多い。 しかし水面下では反ピョートル陣営から流布された「ペテルブルグ伝説」、即ち、神の摂理に 反して建設されたペテルブルグは不可避的に滅亡するという予言が広まっていた。穏健なカラ ムジンでさえ次のように書く。「ペテルブルグは涙と遺体の上に建設されたと言うことが可能 である」(1811 年)。アンツィフェロフは『ペテルブルグの魂』の中で、「実に、ペテルブルグ は人骨の上に建てられた都市である」(1922 年)と書き記した。ポーランドの詩人ミツケーヴ ィチは次のように断じている。「ローマは人間の手で造られ、ヴェネツイアは神々によって造 られた。しかしペテルブルグを造ったのはサタンであるという私の意見には誰もが同意するで あろう」(1832 年) プーシキンは1828年に一遍の小詩『華やかな都 貧しい都』を書いた。最初の2行を引 用する。 華やかな都 貧しい都

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囚われの心 整斉の姿 小詩の最初の2行にペテルブルグの特徴、ペテルブルグの持つ二面性が凝縮して的確に捉え られている。華やかさと貧しさが合せ鏡のごとく共存する町、外見上の美しさと精神的隷属と が縒り合わされた町である。プーシキンは1822年に書いた覚書「18世紀ロシア史ノート」 の中で、「ピョートル一世は啓蒙の必然的結果である民衆の自由を恐れなかった。何故ならば 自らの威力を信じ、人類を、恐らくは、ナポレオン以上に軽蔑していたからである」と書き記 しているが、これはピョートル大帝の中に啓蒙君主の顔と専制君主の顔を洞察した言葉である。 このピョートル観は叙事詩『青銅の騎士』の中で見事に結実した。『青銅の騎士』はピョート ル大帝の偉業とその成果であるペテルブルグを讃美した「序詞」と、1824年にペテルブル グを襲った大洪水とその洪水で恋人を奪われ、都市を建設したピョートル大帝に罪ありとして その騎士像「青銅の騎士」に呪いの言葉を浴びせ、自滅したコロームナの住民の不幸な物語を 綴った「本文」とから成る。『青銅の騎士』と同じく、『スペードの女王』もまたペテルブルグ を舞台に展開していく。ロートマンはペテルブルグの空間の特徴としてその《幻想性》と《劇 場性》を指摘した。14 ロートマンに拠れば、ペテルブルグの空間の劇場性は「舞台」区域と「楽 屋」区域の明確な区分にある。「舞台」区域には王侯貴族の豪華な邸宅が立ち並び、上流階級 の人々が横行闊歩する、《華やかな都、整斉の姿》である。他方、「楽屋」区域でひっそりと暮 らしているのは役人、貧者、《市民以下の人間》たちで、《貧しい都、囚われの心》を表す。「舞 台」区域はペテルブルグの中心に位置する宮殿や目抜き通りのネフスキイ大通りなどであり、 「楽屋」区域にあたるのは町の周辺に位置するコロームナやワシーリエフスキイ島などである。 『青銅の騎士』の「序詞」で謳われているのはペテルブルグの表の顔、その「舞台」区域で、 「宮殿・塔の壮大な建物が 整然と/すきまもなしに立ち並び」「ネヴァ河は御影石の装い凝 らし」「海軍省の尖塔はあざやかな光を放ち」「私は愛する 連兵場の/将兵の壮んな士気を」 といった表現に読み取れる。(『青銅の騎士』からの引用は木村彰一訳)それに対し主人公エ ヴゲーニイはコロームナの住民であり、彼の恋人の住まいは「入り海の渚に近い」ワシーリエ フスキイ島である。この二つの区域には社会的格差が厳然として存在しているが、日常的には 両者の間に均衡が保たれている。しかし両者の関係が何らかの原因で衝突する時にドラマが発 生する。多くの場合、「楽屋」区域の住民の偶発的反抗という形で展開されるが、その反抗は 失敗に終わり、ペテルブルグの日常の生活から取り残され、忘れ去られてしまうのである。 『スペードの女王』の主人公ゲルマンはトムスキイの語った3枚の勝ち札のアネクドートで 《心からの賭博好き》である《激しい情熱と燃えるような空想》に火をつけられるが、他方、 ドイツ人特有の計算高い性格から、《倹約、節制、勤勉》を金科玉条に賭博への誘惑を退けよ うと格闘する。彼が三枚の勝ち札のアネクドートの呪縛に捉われたのはペテルブルグの街を歩 いている時であった。「楽屋」の住民であるゲルマンはもの思いに耽りながら偶然に舞台区域 に登場し、伯爵夫人邸に訪問者が訪れる場面を目撃する。彼は舞台に登場する富裕者たち、帝 国の首都を代表する人々、貴族や高級官僚の面々を目撃するのであるが、彼の目に映るのは彼 らの地位や階級や富を象徴するような事物「嫋(しな)やかな美女の脚(あし)や、かまびす しい乗馬靴、縞模様のくつした、外国使臣の細靴など」のみであって、人間の顔ではない。作

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者はこれらの風刺的なメトニミーを用いて、ゲルマンに敵対的なペテルブルグの「舞台」区域、 《顔を失った》上流貴族の世界を表現し、彼の《見すぼらしい部屋》との落差を強調している のである。15「この対照(フェドラの豪華な邸宅と主人公ラファエルの屋根裏部屋)こそは、悪 をそそのかす誘惑の魔手であった。すべての罪は、こうして生まれてくるのだ。」(バルザック 『あら皮』山口義雄、鈴木健郎訳) 見すぼらしい部屋に戻ったゲルマンは賭博の夢を見る。翌日、また街をさまようと、偶然「* **伯爵夫人の邸」に通りかかる。ゲルマンには「え知れぬ或る力が彼を導くように」思われ たのである。「彼は立ちどまって、じっと窓を見あげた。その窓の一つに、ふさふさとした黒 髪が(…)窺われた。ふと顔がこちらを向いて、ゲルマンはそのみずみずしい面立ちと黒い眼 を見た。彼の運命はこの一瞬に決した。」この黒髪の女性が伯爵夫人の養女リザヴェータであ る。ゲルマンはこうした「偶然」の中に自らの抗い難い運命を感じ、賭博の誘惑に傾斜する心 を容認していくのである。 * チャイコフスキイのオペラ《スペードの女王》には『青銅の騎士』の中で詩人プーシキンに より指摘されたペテルブルグの2面性、二重性が描かれている。即ち、帝国を称える要素と、 同時に「意地の悪い運命の象徴」としてのペテルブルグである。アンツィフェロフは「ペテル ブルグの魂」の中で、「プーシキンはペテルブルグの明るい側面を歌った最後の歌人であった。 一年一年北方の首都の様相はますます陰鬱になっていく。その険しい美しさは霧の中に消えて いく。ペテルブルグはロシア社会にとって次第に病的で表情をなくした住民の住む冷ややかで、 潤いのない、《兵舎の》町と化していく」と書いた。16 これはドストエフスキイの『未成年』 に描かれたペテルブルグのイメージに通じるものである。 このようなじめじめした、しめっぽい、霧深いペテルブルグの朝にこそ、プーシキンの『スペードの 女王』のゲルマン某の奇怪な夢想が(これは稀に見る偉大な創造で、完全にペテルブルグの一典型- ペテルブルグ時代の一つのタイプである)、ますます強化されるにちがいない、とわたしは思うので ある。(工藤精一郎訳) プーシキン以降、ペテルブルグのテーマはゴーゴリの一連の作品:『ネフスキイ大通り』、『狂 人日記』、『肖像画』、『鼻』、『外套』や、ドストエフスキイの作品などで描かれていくが、総じ てその舞台はペテルブルグの「楽屋」区域か「楽屋」の住民の視点から描かれたもので、町の イメージはチャイコフスキイがフォン・メック夫人に書いた印象とあまり変わらないものであ る。17 チャイコフスキイはこの様なペテルブルグの描写に辟易をしていたとされる。18 オペラの構成を見ると、舞台設定が上述した通りプーシキンの原作と大きく異なっている。 第1場(夏の庭園)、第2場(リーザの部屋)、第3場(金持ちの貴族の仮面舞踏会)、第6場 (冬の運河)の場面は原作にはない。新たに導入された場面はすべてペテルブルグの「舞台」 区域に属する空間が用いられている。特に、オペラの第1幕の舞台は原作と大きく異なり、爽

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やかな五月の「夏の庭園」で幕があがる。ミハイロフ城とネヴァ河左岸にある夏の庭園はピョ ートル大帝の命で1704年に造園されたペテルブルグで一番古い庭園であり、貴族たちの園 遊会も開かれた「舞台」区域の象徴的庭園でもある。『青銅の騎士』の「序詞」に次のような 詩句がある。 「(…)私は愛する ピョートルの創れるものよ。/私は愛する おまえのきびしい整斉の容(すがた) を/力に充ちたネヴァの流れを/その岸の御影石を/おまえの柵の鋳鉄の唐草を/(…)」「(…)ピ ョートルの市(まち)よ うつくしくあれ/ゆるぎなく立て ロシアのように。/願わくは 征服さ れた自然とおまえの/和解のときがくるように/(…)」(『青銅の騎士』木村彰一訳) この詩句で触れられている《柵の鋳鉄の唐草》は夏の庭園を囲む鉄の柵のことである。プーシ キンはミツケーヴィチの諷刺に反論する形で帝国の象徴であるペテルブルグを讃美し、そのペ テルブルグの象徴の一つとして夏の庭園を引用しているのである。恐らく、チャイコフスキイ はこうしたコンテクストの中で夏の庭園を取り上げたものと推測される。 夏の庭園を五月の陽射しを浴びて散策する人々の姿は平和な首都の生活を暗示させる。子供 たちの遊びに耳を澄ますと、そこにも「帝国のテーマ」が読み取れる。「ぼくらがここに集ま ったのはロシアの敵を脅すため/悪い敵ども、覚悟しろ(…)/祖国を救うのがぼくらの定め (…)/いとも賢き女王陛下に栄あれ/ぼくらみんなの母にして、女帝は国の/誇りなり、美 の精華なり!万歳、万歳、万歳!」しかしこの平和な春の場面は不吉な物語の前途を暗示する かのように、雷鳴とゲルマンの内面に目覚めた情熱の嵐の呼応で終る。「雷、稲妻、風よ!お 前たちに堅く誓う:彼女は俺のものにする。俺のものに、俺のものに、俺のものに、さもなく ば死んでやる!」 「帝国のテーマ」は第2幕の金持ちの貴族の仮面舞踏会の場面で更に明確に描かれる。作曲 家は18世紀の時代精神を詳細に考察し、18世紀を想起させる音楽を随所に用いて栄華を極 めたロシア帝国の黄金時代を見事に再現することに成功している。15歳のプーシキンはエカ テリーナ二世の時代を次のように謳った。「かの黄金の時代は 永遠に走り去ってしまった、 /偉大な女帝の王笏のもとで/仕合せなロシアが栄光の冠をいただき/おだやかなとばりの うちに 花咲いていた時代は!」(草鹿外吉訳)プーシキンの時代において、「エカテリーナの 時代」はロシア帝国の栄光の時代、最も華やかな時代と見做されていたが、それは既に永遠に 過ぎ去った過去の時代と認識されていた。それから60年が経過した90年代には更に隔世の 感がしたであろう。牧歌劇「羊飼いの娘のまごころ」は羊飼いの娘プリレーパが金持ちのズラ トゴール(金山)のプロポーズを退けて貧しいミロブゾール(やさしい眼差し)を選択し、金 や地位ではなく、真実の愛を選択するという物語である。この牧歌劇のあとでゲルマンと伯爵 夫人が舞台で鉢合わせをし、互いに相手を凝視する場面がある。この場面を契機にしてゲルマ ンはプーシキンの原作のゲルマンに、つまり「ナポレオンの横顔とメフィストフェレスの心」 を持つ人物像に近づいていく。この幕の終わりにエカテリーナ女帝自身が舞台に登場し、女帝 を称える讃歌で幕が閉じる。「栄光あれ、エカテリーナ、栄光あれ、心やさしき母よ!栄光あ

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れ、エカテリーナ!栄光あれ、やさしき母よ!万歳!万歳!万歳!」 このエカテリーナの登場を境にして、オペラの展開は叙事詩『青銅の騎士』の「序詞」の部 分から「本文」の部分に、即ちペテルブルグの讃歌からペテルブルグの抱える矛盾の告発へ移 行するように感じられる。即ち、プーシキンがピョートル大帝とその改革の成果であるペテル ブルグを叙事詩『青銅の騎士』の「序詞」で讃えたとしたら、チャイコフスキイはピョートル の衣鉢を継ぎ、ピョートル大帝の記念像(青銅の騎士)を建立したエカテリーナ二世とその華 やかなペテルブルグの世界を「第1幕と第2幕」で讃えたということが可能であろう。叙事詩 の「序詞」ではピョートルの壮大な夢とその100年後の夢の実現した姿が描かれているが、 その100年後とは詩人プーシキンと同時代の首都の姿である。それに対し、オペラで描かれ ているエカテリーナの時代は作曲家の約100年前のペテルブルグの姿に他ならない。従って、 チャイコフスキイはオペラの中でペテルブルグの讃歌を復活させたのだが、それはあくまでも 作曲家と同時代のペテルブルグの表象ではなく、100年前のペテルブルグであり、旧き良き 時代への郷愁にみちたものと言わざるを得ない。 第3幕、即ち通し番号で言えば第4場から音楽は主人公たちの内面の世界に焦点が当てられ、 恐怖心や不安や決意など作曲家と同時代の人々の重苦しい苦悩に満ちた情感が表現されてい る。ゲルマンの心はリーザへの一途な愛と3枚の勝札への誘惑との相克に揺れ動いていたが、 リーザもゲルマンも等しく情念の犠牲者である。リーザは原作の伯爵夫人の養女という貧しい 存在ではなく、伯爵夫人の姪という社会的にも、経済的にも恵まれた女性であり、しかもエレ ツキイ公爵という非の打ち所のない婚約者を得て、彼女の将来は更に安定した生活を保障され ていた。彼女自身心から選んだ相手であり、知性、美貌、家柄、富、何においても申し分のな い相手である。「あの方よりも高貴で、美男子で、見栄えの美しい方がいるでしょうか。いえ、 誰もいやしない。」それにも拘らず、彼女の心は意に反して不吉な影を持つゲルマンに惹かれ、 破滅の道を歩んでいくのである。人間の心の闇の深さを彼女は夜に向かって告白する。「おお、 聞いておくれ、夜よ!お前にだけは私の心の秘密を打ち明けることができる。それはお前のよ うに暗い、私から安らぎと幸福を奪った悲しい瞳の眼差しのように...」リーザにはゲルマン が堕天使のように美しく思われ、彼の目の中に激しい情熱の炎を認め、心は彼の虜と化してい くのである。ゲルマンも同様であろう。リーザの愛を受け止めれば、彼の社会的立場は安定す るにも拘らず、賭博の情熱に捉われて破滅の道を歩むのである。この心の闇の呪縛を運命と考 えるならば、ゲルマンとリーザの破滅の物語は運命に翻弄される《不幸な、気違いじみた》同 時代の若者たちの愚かしさ、悲しさを音楽の言葉で刻印したものである。 プーシキンが『スペードの女王』を書いた1833年は1825年のデカブリストの乱が敗 北に終わり、社会変革を担うべき進歩的な若い貴族層が壊滅し、ニコライ一世の反動的政治が 首都ペテルブルグを重く覆っていた時期である。詩人はその時代の閉塞感とピョートルの改革 で台頭した新興貴族の奢侈な生活振りの中に約60年前のパリの状況を重ね合わせて描写し たのである。同様に、チャイコフスキイが『スペードの女王』をオペラ化しようとした90年

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代は1881年のアレクサンドル二世暗殺後のアレクサンドル三世による反動的な政治が重 く社会を覆っていた時代である。チャイコフスキイは毎年繰り返される首都の洪水の災害、大 火、激化する学生運動などから帝国の象徴としてのペテルブルグへの危機感を募らせていた。 その一方で、ゴーゴリやドストエフスキイなどが文学作品で描く暗い、じめじめしたペテルブ ルグの描写にも抵抗を感じていた。そこでオペラ『スペードの女王』ではプーシキンの伝統を 踏襲し、ペテルブルグの黄金時代であるエカテリーナ時代に時代背景を変更することによって、 旧き良きペテルブルグ時代への郷愁を描き、他方、劇の展開ではチャイコフスキイと同時代の ペテルブルグに迫っている悲劇的な運命をゲルマンの運命に重ねあわせて描出した。『青銅の 騎士』に描かれたピョートル大帝は<ヤヌスの像>のように、二つの顔に分化する。「奇しき建 設者」と「専制君主」の顔である。正の遺産と負の遺産、正の機能と負の機能と言い換えるこ とも可能であろう。オペラ『スペードの女王』ではこの二つの機能がそれぞれエカテリーナ女 帝と伯爵夫人(スペードの女王)とに分けて描かれることになる。最後にゲルマンが正気に戻 り、公爵に許しを請い、リーザへの愛を告白して死ぬフィナーレは賭博熱によって人間性を喪 失したかに見えたゲルマンに人間性の復活を印象づける場面であり、人間性への絶望ではなく、 希望の表明と読み取れる。その点でもこのオペラはヒューマニズムに満ちたプーシキンの精神 に通じるものである。 注 1 М.Чайковский. Жизнь Петра Ильича Чайковского. Втрех томах. «Алгортм». 1997. 2 А.А.Гозенпуд. Пушкин и русская оперная классика. Всб.: «Пушкин и русская культура», «Наука», 1967. стр.202. 3 サハロフ編『チャイコフスキイ』(文学遺産と同時代人の回想)(岩田貴訳)群像社、1991年、111 頁。 4 М.Чайковский. Жизнь Петра Ильича Чайковского. Втрех томах. «Алгортм». 1997. 5 Вас. Яковлев. Пушкин и музыка. Гос.муз.изд-во. 1957. 6 Вас. Яковлев. Пушкин и музыка. Гос.муз.изд-во. 1957. 7 『最新名曲解説全集19』歌劇Ⅱ、音楽之友社、1980. 8 カラムジン著『ロシア人の見た十八世紀パリ』(福住誠訳)、彩流社、1995. 9 М.Чайковский. Жизнь Петра Ильича Чайковского. Втрех томах. «Алгортм». 1997. 10 Сидяков Л.С. «Пиковая дама», «Анджело» и «Медныйвсадник». В сб.: Болдинские чтения. 1979. 11 Н.Н.Петрунина. Две «петербургские повести» Пушкина. В сб.: Пушкин. Исследования и материалы,Ⅹ. 1982. 12 Н.Н.Петрунина. Две «петербургские повести» Пушкина. В сб.: Пушкин. Исследования и материалы,Ⅹ. 1982. 13 Соломон Волков. История культуры Санкт-Петербурга. Изд-во Независимая газета. 2001.

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14 Ю.М.Лотман. Символизм Петербурга и проблемы семиотики города. В кн.: Избранные статьи в трёх томах. Таллинн, «Александра», 1992. 15 Г.П.Макогоненко. Гоголь и Пушкин. Советский писатель, 1985. 16 Н.П.Анциферов. «Душа Петербурга», «Брокгауз-Ефрон», 1922. 17 チャイコフスキイは1878年にフォン・メック夫人に宛てて次のように書いた。これは作曲家のペ テルブルグに対する感情を示すひとつの証左となるであろう。 「ペテルブルグは今日この上もない圧迫感と憂愁の想いを抱かせます。第一に、天気がひどい。霧、 いつまでも続く雨、湿気。第二に、一足ごとに擦れ違うコサック軍の巡回、まるで包囲されている感 じです。第三に、屈辱的な講和のあとに帰還した軍隊で、これらのことは神経を逆撫でし、憂鬱にさ せます。私たちは恐ろしい時代を体験しつつあり、起こっている事柄を深く考えると、恐ろしくなり ます。一方には、全くあきれ返るような政府があり、(…)他方には、不幸な、気違いじみた若者た ちがいて、数千人単位で裁判も受けずに鳥も通わないような僻地へ追放され、その両極端の間にあら ゆることに無関心で、なんら抗議もせずにその両者を眺め、利己的な利害に拘泥している大衆がいる のです。」 18 Соломон Волков. История культуры Санкт-Петербурга. 2001.

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