「 白 山 」 号 処 女 列 車 に 乗 っ て
牧田 次郎
昭和40年10月1日、この日福井駅から上野行きの 急行列車二本が新設され、とくに昼行の上野行きは 本県置県以来(ちょっと大げさかな)の優等列車。 鉄道マニヤのわれわれのみならず、県、福井市、県 商工連、県観光連なども大喜び。当日は花やかな出 発式が朝と晩、福井駅二番ホームで挙行された。午 前7時35分、EF70にひかれた「白山」八両編成がホ ームにつくと、“祝白山号”のヘッドマークの前は マニヤでいっばい、盛んにシャッターを切り始める。 やがて北知事が、祝辞を述べ、着飾った県の女子職 員が機関士、カレチらに花束を送る。このころ隣り の三番ホームに米原行きの通勤列車が到着、列車か ら降りた客も含めて、ホームは身動きならぬほどに なり、われわれ(といっても辻川会長と二人だが) 初乗り組はテープ切りなど見ないまま車中の人とな る。祝賀行事で一分延、高志高ブラスバンドの演奏 や人々のバンザイの声に送られて処女列車は静かに ホームを滑り出した。客車はナハ10とオロ61の軽量 編成、それにFけん引なので足はすこぶる軽い。電 車急行でも十六分かかる福井-金津間を十五分で飛 ばし、「1分延」はたちどころに回復。この間に福井 支部発行の記念券を全乗客に配る。初日のこととて 客はやや少なく、ハが116、ロが7と、合計123人。 記念券は好評で、とくに三人ずれの若い女性グルー プから「よい記念になりますわ」と感謝されたとき は、図案の説明までして、いささか得意でした。同 乗した木戸金鉄局経理部長も辻川会長から図案の説 明を聞いて「国鉄の駅長にも仲々センスのある者が いるものですな」と感心しておられた。オロ61の中 で金鉄局の人たちと楽しくしゃべっている中を“わ れらの白山号”は軽快に走り続け、大聖寺で上り「第 一加賀」の交換待で五分延となったのも松任あたり で回復、金沢へは定時で新装なった六番ホームへ無 事滑り込んだ。金沢で回送車両三両を前につけて発 車、富山でば糸魚川電化の開通式。伴野局長らの盛 大な見送りを受けて発車した。富山操車場では国鉄 職員が多数出て手を振っていた。黒部まで乗って楽 しい初乗りを終わった。列
車 番 号
(今次時刻改正の列車番号) 編集部 列車には「越前」「白山」を初めとして、いろい ろな名称がついている。そのほか朝一番の汽車でと か、夜の終列車でとかその地方の愛称?らしいもの がついていて一般に通用されているが鉄道の業務上 ではこれら愛称ではいろいろな不便と手違が生じる し又時間はその所々でしかわからないので列車には 「番号」をつけている「ア、それは機関車の前につ いている、あの番号ですか」とよく言はれるがそれ は機関車だけの番号(EF70という型式と番号)で あって列車番号は列車自体には表示されていないの が普通である。(東海道線の電車列車には表示して あるのがある。) サテその列車番号の仕け方は、列車設定基準規程 弟9条により原則として次のようになっている。 (1) 下り列車は奇数番号 上り列車は偶数番号 ① (2)1位及び10位の数字 旅客列車−−−−1∼49 (ただし頭又は末尾に記号を附したしたときはこれ によらないことができる。) 荷物列車−−−−−50∼49 貨物列車−−−−−50∼99 (5)100位の数字 線区又は系統を区別する必要がある場合につけ る。 (4)1000位の数字 1000及び2000台−−定朗列車の予備番号 5000台−−−−−−不定期列車 4000台−−−−−−不定期列車の予備番号 6000台−−−−−−単行機関車列車 ② 9000台−−−−−−臨時列車 (5)記号の使い方 ア 頭に冠する記号 荷物列車−−−−−荷 回送列車−−−−−回 試運転列車−−−−試 イ 末尾に附する記号 電車列車−−−−−M 気動車列車−−−−D (6)同一停車場において同一の列車番号を他の列車 に使用してはならない。 以上のように定められている。なお今次改正後の 北陸線関係の列車番号は次のようにつけられてい る。注① 列車の上り下り別は起点寄に向うのを上りと して、東京寄を起点としている。そのため数線区を 往復する列車については一部線区では上下逆の場合 がある。北陸線の601、602レは信越線では上り列車 として順当であるか北陸線では奇数番号が上りとな っている。又大阪行の501、502レ等は東海道線では 偶数が下り列車となる。その列車の終着駅までは列 車番号は変らない。 ② 単行機関車列車とは機関車の運用上、機関車だ けで(次位連絡として2台又は3台のときもあるが・ ・・)列車として運転されるものである。貨物列車 が輸送上の都合で機関車だけで運転されるときは列 車の種別は単行機関車列車(普通に単機−タンキと 呼んでいる)であるが列車番号は貨物列車のものを 使用する。 北 陸 本 線
40年 10月 ダ イ ヤ 改 正 雑 感
K K
生
9月5日、期待された10月1日よりのダイヤ改正が 新聞に発表された。新開発表は、地区的な北陸線の みしか詳細は不明であるが、幸の日曜の事、一日中 ダイヤ検討であけくれる。 色々と取沙汰された東京行「能登」の存続、上野 行福井始発「越前」、「白山」の新設ディーゼル特急 「はくたか」と「白鳥」の分離等先刻承知済のこと であるが、先ず全般のスピードアップ(特にローカ ル列車)とローカル通勤列車の「いくらか」程度の 増発が実現したわけだが、何と言っても米原-富山 間の完全複線化と線路改良が終らない間は致し方な いのかもしれない。43年10月の貨物列車高速化に伴 う全国白紙改正に大い咋期待する事にする。 先ず、スピード振りを急行(列車急行を除く)に ついて調べて見ると下記の通りで客車急行「立山」 は電車に変ったから当然として最早福井-大阪間 3.15分のキャッチフレーズは返上すべきである。 ※ 「白鳥」は新潟経由になる 上り線に敦賀ループ線あるため下り列車の方が早くなっているデイゼル動車のスピードアップが 見られないのは何故か。 下り特急「雷鳥」が2.23 下り急行「第一立山」 が3.00を切る2.55が出現したわけで、今后の完全複 線化と湖西線による短絡で特急2.00急行2.50はそう 遠くないと思う。 ローカルビジネス列車の増発はいくらかの程度で 「いつでも座れる列車」には程遠い。次回改正に期 待したい。例えば下り福井発6.20と8.07の中間17.25 と19.20の中間に夫々1本が欲しいし、又上り8.42、 19.04、22.02福井止を今庄又は敦賀迄延長されたら と思う。 何れも、ラッシュアワーであり列車間隔が1時間 以上もある事は誠に不便である。対大阪ビジネス列 車として下り17.00大阪発「第二加賀」を富山行に し、18.00か19.00発福井準急を出せば、富山人にも 便利になるし、いくらかでも「すわれる列車」にな ると思う。上りは福井発8.00位の準急大阪行として は如何。下り米原発20.46敦賀止21.56が福井迄延び たら鈍行ででも大阪で18.00位迄用達が出来るのた が、金沢-名古屋間の臨急「兼六」名古屋17.50は同 様な意味で定期化を待ちたい。北 陸本 線ダ イヤ 回 想記 (そ の
1)
“ ゆのく に ” をし のん で
辻川 利雄
昭和40年10月ダイヤ改正、糸魚川までの電化開通 で北陸本線の高速化、近代化がさらに完成に近づいた。 福井から急行「越前」、「白山」が県民多数の声援 で待望の始発列車になった。 秋の夜永のつれづれにひと昔前昭和30年頃のダイ ヤを中心とした各地での思い出話を綴ってみよう。 さて昭和29年10月改正の金鉄局のダイヤ、実はこ の頃はまだ「ダイヤ」でなく「北陸本線運行図表、 昭和29年10月1日」と厳しく書かれている。「ダイヤ」 と書き改められたのは31年4月1日訂補の「第9版」 からで、それまでは漢字が使われていた。 これなどは全く今昔物語のとびらにふさわしい。 当時の北陸本線は今庄-杉津-敦賀-中郷-米原の旧 線、SL全盛時代であって、僅かに急行列車は2本、 その4往復(501レ、502レ、601レ、602レ)のみが 国鉄最新式のDEL、DD50型のけん引試験施行中で あった。柳ヶ瀬、杉津あたりは名物のスイッチバッ クとトンネル、むせかえる煙で人も車も真黒になった。 そして、木ノ本-敦賀-杉津-今庄間25ミリの長距 離連続勾配と旧型狭小トンネルと山風、谷風の動き に阻まれた陸路の解消、北陸トンネルの堀開と複線 電化の“夢”を秘めた調査や準備が検討され始めた。 正に北陸本線と福井県にとっては歴史的な“夜明け 前”の時でもあった。直面の課題として北陸トンネ ル開通までの北陸本線の危機を1000トン輸送の実現 で打開しようと、D51の重連又は三重連方式或はD51 +DD50(DF50)重連による動力車出力増が真剣に 研究されつつヤード延長等が急いで行われ、苦難の3 年目を迎えそれが成功した輝かしい年であった。 「制動用圧縮空気利用に上るキャプ内空気清浄(室 温低下)装置」が敦機区で開発され、それを装備し た5輌のSL=D51526、D51789、D51313の3重連によ る実重量1000トン貨物列車のけん引運転試験が敦賀 -今庄間で554レ、265レ両列車によって10日間に亘 って行なわれ、良い成績が得られたよろこびは、国 鉄のみならず北陸線沿線の好況の産業界にももては やされその経済的効果は大きいものがあった。 連日35°Cを超える8月上旬の酷暑に、既に故人 になられた当時の小柳金鉄局長、現金鉄局長の伴野 運転部事務課長、敦機飯島区長(現静鉄局運転部長) の熱汗を流しての指導と乗務員、機関車一体となっ た斗魂の烈しさが、7号、15号トンネル内の熱気の うずまきと共に昨日のことのようにまざまざと思い 出される。私も試験列車に同乗して有害ガス定量を 担当したが、杉津の青く澄んだ海と空が機関車のな かからは全く別の世界のものとしか思えなかったこ と、敦賀の舞崎寮で討論のあとの整理や準備打合せ などで夜が白むまで勉強したこと等と思い出はつき ない。現運転部保安課長上野方弘氏も当時の仲間の1 人であった。 31年10月改正ダイヤで始めて大阪-金沢間に週末 運転準急「ゆのくに」のスジがのった。(5505レ・550 るレ)この列車なかなかの好評でレジャーブームの さきがけとして何時も満員の利用率であった。金沢 -今庄間はC57けん引で80粁制限速度いっばいで快 走したが、今庄-杉津-中ノ郷間はD51重連、時とし て多客期は増結3重連で、ことに大桐-山中、疋田-雁ケ谷間などではダイヤ設定通り25粁を出すために は重油バーナーをフルにふかし、〆切を60%近くに 上げ殆んどナマ蒸気を吐出すためドラフトにはタタ ク様な緊迫感があり山仕事の人達が驚いてよくふり かえったものである。 大桐で姉妹列車の行違いがあるが、雨の日など上 りが今庄を出て、重連最初の協調運転に呼吸があわ ずに空転などもおこすと、大桐通過の下り列車を駅 外停車させてしまうこともあった。 又柳ケ瀬トンネルを何かと苦労して通りぬけ、列 車全体が湯気に包まれて南口の雁ヶ谷信号場に着 き、大阪発上野行急行601レを待避する時、南風に のった601レのD51重連のドラフトがすぐそこに聞 えたら、カーブの向うになかなか姿を現わさず、5 分遅れでいら立つこともよくあった。そんな時遅れ を戻すために長浜までを制限速度つつ一杯で駆けお りる。各駅での通票交換と投炭、給水の忙しさにに 助手は汗をふくひまもない腕もさぞいたいたろうと 同情することも毎度で、長浜駅構内カーブでのブレ ーキ扱いと次の田村駅の場内信号確認には乗務員の 苦労はいつも大きいものがあった。 米原駅では吹機区のC62が悠然と待っていて軽々 と引き出していったものだ。北陸本線に誕生以来10年、数々の思い出のあった 「ゆのくに」が今度のダイヤ改正で愛称が消去った のは誠に淋しいことである。 当時の北陸線での変ったダイヤでは、名古屋-富 山間711レ、712レ急行貨物で上りだけの556レ、558 レが北の国からのリンゴ、玉ねぎ、キャベツなど四 季おりおりの産物の香りを沿線にまき乍ら走り、秋 になると蜜蜂の大家族が帰って来たりした。 SLとしてはE10が倶利伽羅越えに補機として活躍 し、スーパージャイアンツには一寸気毒だった。 金局管内では大糸線はまだ開通せず、小浜、七尾、 高山各線も全てがSL万能で、今日花形のDC準急は また全然登場していない。 わが国交流電化のさきがけである仙山線の営業運 転が昭和30年8月開始されたは特筆さるべきでその 後の発展は云うまでもないが実にめざましい。 東海道本線は米原駅の改良と電化が完成したが準 急「ひえい」はまだSL客車けん引であったし進駐 軍の白帯列車が巾をきかせていた。 省れば昭和30年は戦後ようやく10年、復興が本格 的に始まったばかりの時代。以後の今日迄の10年は、 国鉄近代化が如何に華々しいものであったか、当時 の私自身をもふりかえってみてまさに感無量である。 北陸本線よ栄光あれ!
楽 し か っ た 支 部 創 立 総 会
牧田 次郎
昨年4月、鉄道友の会福井クラブとして発足した われわれのグループも、いよいよ正式支部に登録さ れることになり、4月25日午後1時から、福井市・福 井新聞社五階ホールで「鉄道友の会福井支部創立総 会」を開いた。 クラブ発足以来、一年間の事業内容が“支部活動” としても、そん色のないものと、2月の本部理事会 で認められたものだが、正直いってこんなに早く昇 格できるとは役員一同も考えていなかった。それだ けに会員の喜びも一しお深く、全会員の七割に当た る90人が出席した。 会場には、最後のD51を送り出したときの「さよ なら蒸気機関車・JRC福井クラブ」と書いたヘッド マークをはじめ、HOモデル、切符(昔の乗車券は キップと呼んだ方がなつかしい)、時刻表、ダイヤ、 駅弁ラベルなどいっばい飾られ、昇格総会にふさわ しい花やかさ。会員は一歩足を入れただけでうれし さいっぱいの表情だった。 総会には事務局長の鷹司平通氏をはじめ、伴野金 鉄局長、八尾国鉄福井駅長、大上京福鉄福井支社長、 福島福井鉄道社長、青田福井新聞社長、奥田県商工 労働部長ら多数の来賓が出席、鷹司事務局長らのあ いさつのあと議事にはいった。 議事といっても、うれしくてたまらない会員が自 分たちの規約、役員、事業計画を審議することなの で、議事進行もいたってスムース。和気あいあいの うちに終わり、すぐアトラクション行事に移った。 新幹線の映画、酒井雅光氏のスライド、ステレオ 「日本の鉄道」など盛りだくさんの行事が続き午後4 時すぎまで楽しいひとときだった。 なお鷹司事務局長は「友の会の会員が集めている 汽車や電車の写真、乗車券やラベルなどの資料は、 いつかは記帳な郷土史の一ペ−ジをつくることにな るのたから、しっかりやってください」とわれわれ を激励された。 鉄道関係の月刊誌、図書、新刊 福井駅前ひまわり書店
TEL 22−5540北 陸 本 線 の 想 い 出
(阪神支部) 小倉 文夫
私が初めて北陸本線に乗ったのは昭和15年8月で あった。 上野から快速(確か高崎迄快速)の直江津行でオ ロ51だった列車から下車、直江津で乗換たのは今で は524レに当る列車だったと想う。車は同じオロ51 だったが、後年もう一本の大阪-新潟間普通(今の522 レ?)に乗ったら、オロ51-マロネロ38で、旅行馴 れた父がマロネロに飛乗ったので私もマロネロの 「乗心持?」を楽しんだ。 尤も「かもめ」(当時神戸-東京)のマイネロフで 三軸の音は知っていたが、それでも三軸の音は珍し かったし、マロネロが大変美しく思えた。 501レは歴史が古いが、私は戦時中の17年に乗っ たので、既にハネはなく、オロ51だったが大阪から 超満員、食堂車の女の子がいやに威張って居たもの だ。その頃豪華に思えたスシ37も今はどこへやら、 それでもオハ35が立派な3等車だった。 601∼602は全くのオンボロ急行で今ならさし当り 「立山」クラスだが、マロネ29(1番台)にスロ33 或はオロ31、オハ35かスハ32であった。この列車は 大阪-金沢間だけ2等切符を買った者はロネに入れた のでよく父と入り込んだが(昼は普通急行券だけで 乗れた)、寝台灯の電球が着脱式で、ボーイが寝台 時間近くになると、スワンベースの電球を真鍮のブ ラケットに差し込んで廻ったものだ。 おなじみは姫路発北陸-信越-高崎経由上野行で、 オロ31、オハ31、スハ32、サボには「軽井沢経由」 とあった。戦争中の「列車隣組」も2等車でやった が、大阪-小松間がその「隣組時間帯」で、長距離 の「乗客代表」が検札時に組長に指名され、座席の 整理やら、駅弁構入券取扱いをやらされた。 何の事はない「カレチのサボリ」の肩代りだった が、当時は軍隊並の省営鉄道、カレチの権威は大し たものだった。(尤も今のカレチは二重発売でドナリ つけられるのが仕事だが、少し可哀そうでもある。) 「組長」の黄色い旗が小松を出ると外され、「防 空」?で1つおきに点った車内灯の下でカレチが、「こ れで列車隣組を解散します御苦労様」と敬礼して出 て行ったものだ。 中には戦前から常連の父にチップをもらって居た ボーイがカレチに出世したのが居て、WCに立つと 小声で「お帰りの切符が入らなかったら何とかしま す」と恩返しをして呉れた事もあった。 戦後は昭和21年の冬に再び北陸本線の客となった が、直通は大阪10.50の富山行のみ(昼間)後に青 森行となり、午後の高岡行(今の551)が出来たが、 混雑は物凄く、米原乗換が多くなった。 姫路発上野行は(米原-上野)となり、大体今の251 レのスジで走ったが、オハ31、マハ29、オロハ31、 スロハ32、オロ51等々、優等車は日に依って何が入 るか解らず、22年頃になつてオロ40が入った。 やがて懐しい501-502レが復活したが、オロ31や オロ40、オロ35+スロハ32とまだ優等車が揃わない 汚い編成で、後に復活されたる601-602レが、「復興 整備車」のオロ35を連結して走り出した。 復活当時はオハフ35+オハ35(金沢-上野)+オ ハフ33+オハ35+35+35+オロ35+ニと大阪-金沢 間は6輌だったから、C59が余裕夕ップリに引いて 走った。(米原迄) その後スロハ52+スロ54の編成となり、特ロが出 来るに及んでスハフ42+スハ45×4+スロ54(オロ 55)+スロ51+ニ。やがて金沢上野間にマロネフ58 が入り、多客時にはスロハ58が「増」のサボつきで 入るなど、「北陸」は相当株が上った。(C62が米原 迄)尤も「ガラクタ編成」の「ゆのくに」より遅い との不満はあったが。 501∼502は長らく変化なく、マロネロ38、ヤスロ50 が富山解結の見すぼらしい姿が見られ、スハシ38が 長く使用されたが、ワザワザこの変テコな「ハ」に 乗りたいと列を作るマニアもあった。 後にナハ11系+スシ38+スロ60+スロ50+ナハネ 10+マロネ29(1番台)「ネ」は富山迄の「日本海一 世一代の晴姿」の時代があったが、ナハ11を熊本局 にボッタクられ、大阪発19.10になってからは、ス ハネ30、オロ61、それにスハ47迄入るとの没落ぶり には聊か可哀そうでもある。それに新潟へ御挨拶に 伺っての逆向きは納得出来ない。オロネ10も私の気 に入らめ車の一つたが、私が理想とする501∼502レ は次の様なものである。 ☆ナハフ11+ナハ11(大阪一秋田)+ナハフ11+ナ ハ11×5+オシ17+スハ44(指)+スロ51+ナロ10 +ナハネ11+オロハネ10+ユニ14輌はチト重いが、大阪-米原EF58、田村-富山EF70、富山-青森DD50 ×2なれば引けるであろう。(線路が持たぬ??) 31-11-19 東海道電化改正ダイヤで生れた「立山」 は最も気に入らぬ汽車だが、この列車にはまだ5回 程しか乗って居ない。何しろ岐阜-高山経由の方が 富山へは「時間的に速い」のだから全くDF50なる 腰抜け機関車の所似だった。尤もED70やEF70が引 く様になっても余り速くならないのは、重量客車の 為だろうが、この上は「重くなりついで」にマシ35 でも連結し、スロ50+スロ54、停車駅を更に削って 戦前の急行の姿?に戻して欲しい。 「越中で(立山)加賀では(白山)オンボロ急行 国鉄−ダヨ」と(越中オワラ節)の替唄が飛出した り、「空気を運ぶ(しらさぎ)も、特急に変りがな いじゃなし」とか、「525レよりオソイ急行(加賀)」 では北陸本線常連としては情ない。尤も今更「列車 憐組」を買って出て、戦時中のお返しをしてやり度 くとも、そんな制度がないので残念だが。 (40・5・50受領)
福 井 支 部 第
1回 例 会 に お じ ゃ ま し て
名古屋支部
白井 良和
雨もようの6月15日 JRC福井支部創立第1回の例 会に招待を受けて、豊橋発8.02の名鉄特急の客とな った。7連のパノラマカーは始発駅から立つ人がチ ラホラ、途中日本車両本店で新造の横浜市港湾局山 下埠頭線DD561を名鉄デキ1502が牽引して出場中だ ったので、これを撮影後、名古屋駅から東海道・北 陸・高山線経由名古屋行準急“こがね”に乗車した。 編成は先頭よりキハ5895+キハ55227+キハ55163+ キハ58476+キハ55159+キロ2545+キハ28161+キ ハ55156で、前部2両は増号車だったが、団体専用の 表示も何もないのに、空席だらけでも一般の乗客を 締め出し、団体の横暴ぶりを発揮していた。やっと のことで席を得て東海道を一路西下、パノラマカー の110km/hより、こちらの90km/hでの走行ぶりの方 がスピード感に勝るのは振動と騒音のなせるわざで あろうか。米原から逆行して北陸線に入る。坂田-田村間の交直接続点も、DCなるが故に無視して快 走を続ける。木ノ本から北へしばらく平行していた 旧柳ケ瀬線は架線が張られて北陸線の上り線とな り、余呉駅手前より右へ分岐してバス専用道路とな ってしまった。 遠く旧中ノ郷駅のウォータータンクを望見すれ は、昭39.4.26に実施した名古屋支部“柳ケ瀬線お別 れ会”の思い出が甦ってくる。余呉から先は複線化 工事の真最中、施設局の土運車が小さなDLに牽か れて活躍していた。近江塩津駅長さんのお話による と、8月中旬迄には新線に切り換え、現在線を補強 の上複線として使用するとのこと。(但し沓掛(信) -新疋田間は新深坂トンネルの工事が難航して少々 遅れる見込み)赤い交流電関の基地、敦賀第二機関 区を車窓に見て、敦賀着1I.51、この駅にはいつ来ても 公安さんの姿が多いのは何故だろうか。我々一行が乗 車予定の小浜線95dレは既にホームへ入っていた。 C5857福の牽くスユニ722、オハニ3625、オハ6155、 オハ6145、オハフ612274、オハユニ6111の6両編成、 乗客は座席定員の1/5にも満たない。それにしても 何と二やユの多いことか。しばらくすると機関士、 機関助士、指導機関士、それにJRC福井支部のメン バーがホームに現われる。支部の人達は既に敦賀第 一機関区の見学を終え、三班に分かれ、第一班は先 発のDC急行401Dレ“あさしお”の運転室試乗、第 二班がこの936レ、第三班は後続の貨物976レでSL のキャプに交代で添乗させてもらう手配ができていた。 小生も支部会員の御厚意によってこの956レ第二 区間でSL試乗を許されたので、割当の区間までス ユニ722のあいている郵便室側にひかえることにす る。11.55敦賀を後にした福知山行956レは久しぶり の“けむりの旅”を楽しませてくれた。鳩原のルー プ線を左に見て、気動車駅西敦賀を通過、次駅粟野 でSLの牽く921レと交換、ここから待望のSLに乗り 込む。僅かな停車時間の間に前の試乗者から国鉄作 業服、帽子、手袋を受取り2人1組でキャプに入る。 乗務員に挨拶し、指導機関士の説明の受けている間 にタプレットが来て発車、三人の乗務員が通票の形 と出発信号機の現云を確認し終えると、機関士はレ ギュレターハンドルをグッと引く、1520mmの動輪 がゆっくりと回転をはじめ、徐々にスピードがあが って行く。思えば昭31.5 雪深い飯山線でC56に便乗させてもらって以来、久しぶりの蒸ロコ乗車であ る。ボイラーのぬくもり、煤煙の匂い、蒸ロコ特有 の振動、“すばらしきかなSL”と叫びたいような気 分である。気動車駅東美浜を通過、美浜まで10.2km を最高70km/h程度で一気に快走する。 上り勾配あり、下り勾配あり、スノーセットあり、 トンネルも短いながら5本あって、なかなか変化に 富む区間だ。助士は16kg/c㎡の蒸気圧を保つため投 炭に忙しい。C58はこのクラスの線区では最も使い 易いカマらしく、ここでは気動車列車の他は貨客と もオールC58牽引とのこと敦賀第一、福知山両区の ロコが元気に活躍している。最近観光地として売り 出した若狭湾国定公園の一部となっている三方五湖 を右に見て三方駅着。ここで次の試乗者と交代、次 位のスユニに引きあげる。区分棚の前に四つ置かれ た丸椅子にかけてしばらく鉄道の話題に花が咲く。 交直両用電車特急“しらさぎ”の登場や旧名鉄モ700 形の福井鉄道への進出など、福井と名古屋のつなが りも徐々に深くなりつつあるようだ。こういう機会 でもなければ乗れない戦災復旧郵便車の殺風景な車 内で記念撮影をしたが、電灯が暗くて絞り開放で 1/15砂のシャッターを切らないと写りそうもない。 十村あたりから車外は小雨となり、本物の雨ととも にシンダの黒い雨が盛んに車内に降り込んで来た。 新平野で955Dレキハ20572+キハ1021と交換、雨に ぬれた若狭路を小浜線の要衝、小浜へと安着した。 ここで先発隊の出迎えを受け、956レを捨てる。こ の列車の発車ぶりを撮影後、小浜線管理長(小浜駅 長兼務)の御挨拶があり、助役さんから近くこの一 線からも姿を消す通票閉塞器と腕木式信号機の説明 を聞く。またこの附近では珍しい貨車用トラバーサ ーや機関車の圧搾空気を動力とするターンテーブル を見せていただいているうちに、後続部隊の976レ が到着。C58557の次位に連結された緩急車の窓か らも会員の笑顔がのぞいている。 この列車は24両編成、ここで5両解放、1両連結し て給水の後、舞鶴へ向けて発車するのだが入換作業 後の停車時間がしばらくあるので、このロコをバッ クに本日の例会一行25名で記念撮影影をする。 やがて、雨の中をブラスト高く発車して行く976 レを見送ったが、列車の後尾には緩急車をつけず、 たまたま最後尾に連結された白い冷蔵庫がテールラ イトを一つだけぶら下げて走り去ったのにはいかに もローカル線らしい風情があった。一行はこの列車 が加斗で交換してくる959Dレで帰路につくためホ ームに戻る。近江塩津駅長で支部会員の中谷正氏を わずらわして帰りの乗車券を購入してもらったら、 新幹線PR用のかわいらしい袋に入れて下さったの が嬉しかった。国鉄では珍しい女性の声が列車の接 近を知らせると、ヘッドライトをつけたキハ20299+ キハ20598の2連が雨にぬれた低いホームに到着する。 敦賀方面へは小線が重要な足となっているため か、車内はかなり満員であった。途中、新平野で960D レキハ1021+キハ20572と、美浜で962Dレキハ20597 +キハ26155+キハ20574と交換して、16.04敦賀着。 北陸線は上下とも連絡時間が短いので、今日一日お 世話になった福井支部の方々にお礼を云うのももど かしく、あわただしい別れであった。16.06発金沢 行255レはED7014の牽く6連、16.08発大阪行512レ はED742の牽く9連のPC、やっとのことでオハ47に 落ちつく。ダイヤを見て、この列車が今よ暁2.55新 津をスタートしており、大阪着は20.12となってい ることを発見、ちょっと驚かされた。往路には通ら なかった上り線専用の鳩原ループトンネルをぬけ、 新疋田でクハ481-6系11連の“雷鳥”を待避、交直 両用の花形特急電車が延長5170mの深坂トンネルに 吸い込まれて行くところを1枚カメラにおさめる。 このあたり鈍行列車の旅の醍醐味といえよう。田村 からはED301がバトンを受け継ぎ、米原へ着くと、 もう東京行144レ(東海道線に残る唯一の夜行鈍行 列車)が待っていた。EF58140の牽く15両編成、最 前部のオハフ559に乗り込むと、車内はアベックが 一組だけ、この車、スハフ52289の近代化ながら、 なかなか感じがよい。大垣で9D5Dレ“しろがね1号 ”に先を譲り、岐阜では越美南線直通の週末臨時快 速“みぼろ(キハ55182+キハ28155)が先発して行 った。尾張一宮で144レを捨て名鉄ホームへ、すぐ に入って来たパノラマ特急190Dレ、7503系7連に乗 り換える。これで20.30には豊橋に着ける。もしこ のまま144レに乗り続けていれば、豊橋着21.29だか ら僅か90kmほどの距離で59分の時間短縮になるわ けである。濃尾平野の豪雨をついて110km/hで突っ 走っていることを客室内の速度計で知った時、やは りバノラマ特急は速いんだなと再確認した次第。 最後にこの例会に御紹待下さり、いろいろと御世 話いただいた福井支部役員酒井雅光氏はじめ会員の 皆様に心から御礼申しあげるとともに、今後いつの 日にか隣接支部である両支部共 催の例会がもてることを希望し て拙文の結びとしたい。 1965・ 6 記
近 江 塩 津 駅 を 中 心 と し た
複 線 工 事 に つ い て
中谷 正志
木ノ本敦賀間の線増工事は昭和13年 11月になり、その間戦争等のため中止 すること2回に及び昭和29年度より再々 開となり昭和32年10月1日我国初めての交流電化区 として華しく開通した。当時の柳ヶ瀬トンネルを中 心とした急勾配での5台重連であえいだことを思う とき赤いEDがキーという響笛を残して走っていく 様な近代化を思はすに充分であった。しかし輸送力 強化のため複線化が直ちに青写真化されていた。 昭和39年9月岐阜工事局塩津工事区が誕生し余呉-近江塩津間4k800メートル間に余呉トンネルを初め として、4トンネル。沓掛-近江塩津間2k100メート ルの間にトンネル2ケ所が掘られた。トンネルのあ るとこを、山谷と連り、その間の谷川を止めず山道 を埋めることなく、又村落の墓地を避ける等の諸条 件を考えて、全部盛土で結ぶのだから、平地と違い 仲にの難工事であった。一番高い築堤は高さ20メー トルである。ようやく本年7月には全盛土及トンネ ル完成し、いよいよ砕石(バラス)レール、コンク リート枕木を敷き、電車架線信号機の移転又は新設、 土工線(工事材料運搬のための線路、これは本線に 切替えられる。)の仮設、ホームの移設等の諸工事 が今春になって活発となってきた。近江塩津線にお ける沓掛方面は次のように進捗した。 (1) 先づ線路が新設されるために、その線を走る 列車から見易い場所(旧線距離600メートル以上) に、又は工事進捗のために信号機を移設する。(5月20 日上り場内信号機を現位置上り直江津方150メート ルの地点に建柱。6月10日下り出発信号機中継信号 機2基をホーム上から米原方10メートルのホーム下 の地点に建柱)。 (2)新線敷設のための材料(砕石、枕木、レール等) 輸送のため既成線に分岐器を挿入し、土工線の分岐 点とする(4月28日既成本線に251分岐器挿入(保線 要員70名、6月25日土工線内2ケ所の分岐器新設) (5)土工線に材料運搬のための臨時工事列車が運 転される(6月27日から7月27日まで) (4)土工線完成(将来の上り線)し踏固め試運転検 測車運転(線路に対する建植物の距離の異常の有無 を調査する)(7月25日) (5) 2位式単灯型の信号機を5位式多灯型に切替準 備のため仮設する。(7月31日) ( 注 ) 単灯型―進行(青)と停止(赤)を現示する。 進行(青)(上部) 多灯型― 注意(橙黄色)(中部) 停止(赤)(下部) 自動閉そく式区間の標準型である。 (6) 電車線(架線)建設の電柱建柱各柱電線張架 ざっと以上のような工事が8月9日切替日までに進渉 するのである。この間に於て綜合的な打合会(関係 現場間のみ3回、小会議数回)あっては各工事相当 区所に於て工事を進めるものである。ちなみに路盤、 トンネルも含めて路線は岐阜工事局、電気関係は大 阪電気工事局の外に金鉄局(勿論現場の駅、保線区 信号通信区、電力区を初めとする各業務機関)全て の力が結果される。 8月9日7時40分218列車が(現在の下り線を運転し て)近江塩津訳に到着するや52号転てつ器は鎖錠さ れ(動かぬようにする)、土工線といわれた線に結 ばれる。一方電車架線は軌道中心に合せて同じくて っ去される。又は調整されるこの間列車を運転しな いこと約70分(途中5本の上り列車を運転線路変更 した)にて、上本線が完成した。この線路切替の前 後信号関係の切替工事は長時間を要するのて実際の 工事間合は7時02分から16時50分までとなり、その 間駅においては信号機に高3本信号旗を使用する。 転てつ機は機械的に動作しないので全部が現湯にお いて個々に手動となり1列車毎に進路をとり関係転 てつ器をキーボルト(転てつ器を転換出来ないよう にする金具)を解錠するが機械的電気的に連動しな い(関連性がなくなる)進路を構成することはまこ とに危険性があるので全神経をそれに集中する。そ のため通過列車は全部停車扱となるので当然時刻変 更となる。当日の貨物列車運転休止となったもの6 本、時刻変更したもの72本でその区間の最遠は米原 ∼加賀笠間に及ぶものである。その結結果不要とな った転てつ器はキーボルトと犬釘により固定化され 後日更めててっ去作業が行われ、その後において平 常のレールが挿入されるものである。 このようにして沓掛方面は切替工事終了と同時 に廃線化された。一方余呉方面は沓掛方面と大同小異工事は進捗したが既成線は余呉トンネル内の軌 道強化①)をするために新線(現下り線)へ単線運 転のまま切換作業を行い現在線の軌道強化工事終了 後上下線を別けて複線化されるものである。これが ため諸設備を一見新線方へ結びかえる訳であるが上 り線と下り線は近江塩津構内にある約40メートルを 距てたトンネル口をひかえているので線路を約40度 近く向を変えその上(既成線将来の上り線)に土工 線を敷設するもので、次の図のようになる。これよ り以前に下りホームか新下1番線のために改造工事 をした(工事延長95メートル、最大移設1630ミリメ ートル)なお下りホーム上の下本線出発信号機中継 信号機はホーム下に移設された。一方線路は毎日列 車の間合をぬって準備が行われるので既設線路間に 新線材料及一部転てつ器が置かれていて、どのよう に線路が付替られるのが見当がつかぬ程で又電車線 架線もくもの巣の如く張られて山間の小駅に6本の 本線とそれぞれに対する諸設備は大ヤード(構内) にもひってきする様であった。 8月12日5時35分から15時までの間において切替工 事一切が行われた。当日列車運転休止貨物列車5本 時刻変更するもの45本その区間は最大米原-粟津間 に亘るもので保線関係電力、信号通信等の要員は250 人近い陣容であった。列車は既成線の最終は212列 車であり新線は214列車であって此の間80分である が信号関係は15時00分まで使用出来ず此の間平信号 旗や転てつ器の取扱は8月9日同様である。なお既成 線に対する軌道強化のため土工線は先の図点線の如 く当日敷設されその翌日から保線関係のモーターの 入線により工事着工され新しい砕石輸送のため臨時 工事列車が9月1日から9月15日まで毎日ホキ10両究 入り古レールてっ去のため9月16日チキ空車6両人り 9月18日古いレールを満載したチキ6両の編成からな る臨時工事列車が出発し一応の工事は終了した。な お近江塩津-余呉間の新線並に軌道強化用の諸材料 器具は余呉駅にある土口線から搬入された。 9月25日、秋分の日に5時35分から14時まで新線の 単線運転を上下線に分離する工事が行はれた。この 時の要員は130名余で列車の運転休止5本臨時踏固め 試運転列車2本、時刻変更59本最大米原-作見間に亘 った。これで余呉の近江塩津-沓掛間6.9kメートル が複線となり開業以来満8年にて新しいといおうか 本当の近代化された一区間に入った。 以上の工事過程は一人近江塩津駅のみでなく必ず 隣駅余呉、沓掛とも同様な取扱が行なわれているも のである。 当地区としては来秋の深阪トンネルの開通を待つ こと切なるものがあるが小さな区間でも10月1日の 白紙ダイヤ改正に大きな成果をもたらす工事が無事 済んだことは一抹の寂しさの中にも大きな誇を感ず るものである。 (注) 軌道強化とは 既成線の線路道床の砕石を全部取除き、新しい 砕石を入替え枕木はコンクリート製(3号5型)で レールはN型レール(50kレールは、同じである が複部の厚さが1ミリ薄く15ミリとなり、高さは9 ミリ余高くなっている)を使用し杭木との間に軌 条パット(ゴム製のもの)を入れて列車の震度を 少くしスピード向上させることができる。
越 美 北 線 に 涼 を 求 め て
越美北線及び北電勝原第二発電所見学会は去る8 月8日行なわれた。真夏の太陽の照る福井を後に涼 を求めて勝原に向った。十名程の参加であったが金 鉄局のはからいで、我々の為に新車のキハ30型を増 結してもらい、うれしい限りである。キハ07202+ キハ3025の二両編成で、特にキハ30型は越美北線の ラッシュの緩和の為に6月から入ったものでロング シート、両開き三つ扉の通勤用である。我々の乗っ た1211D決速は南福井で本線511レとすれちがい福 井平野を50km/hで走り越前東郷に停車。足羽川沿 に渓流を登り、市波、美山と停まり、美山で122D と交換。越美北線では美山と越前大野の二駅しか交 換できないのである。坂戸トンネル402mを抜け奥 越の中心越前大野駅二番ホームにすべりこむ。ここ で90%程乗っていた乗客の大部分の人は降り、あと 勝原までは我々の専用車?となる。会員は山本福井 車掌区長さんの作製された越美北線沿線図を配布し てもらったり、車掌氏のはからいで後部運転室に入 って見学したり、そこから写真をとったり、記念に 車内券を求めたりして楽しんでいるうちに福井県最 長の339mの真名川鉄橋や九頭竜川第一鉄橋を渡る。 そして九頭竜川の渓谷沿にトンネルをくぐって、鉄 橋を渡ると終着勝原だ。この駅は島ホームで脇には 転車台もあり、駅舎もブロック作りのモダンなもの である。だが駅員は一人もいない。越美北線では越 前東郷(委託)美山と越前大野の三駅以外は駅員は配 置されていない。そのためここも例にもれず車掌氏 が集札掛をかねる。冬のスキーシーズンには車掌区 から3∼4名配置されるとの事である。 ここまでくると真夏とはいえ福井と比べて数度は 違い肌も涼しさを感ずる。ここから歩いて第二発電 所へ。国道の展望台から100mほど降りた九頭竜川 の崖ぷちにある。係員の親切な説明を受けて、再び 展望台へ登り、記念撮影を行う。越美北線も朝日ま で着工線だから、工事もそのうち始まろう。この九 頭竜川の渓谷沿に列車の音がこだまする日も、そう 遠くはないだろう。さらに南線と手を結ぷ日がくる ととを願い、つばめのバスに乗り大野に向う。再び キハ30の乗客となり帰路に着いた。 K.T 記(連載)
越 前 岡 蒸 気 物 語 (
1)
沢崎 和長
岡蒸気が気笛を鳴らし、黒煙をなぴかせ南条の山 々を越え、越前の国福井まで走って来たのが、今か ら69年前の明治29年7月15日のことである。 敦賀-福井間の山を越え走り続けた岡蒸気も、国 鉄近代化の波に押され昨年6月30日南福井駅に国鉄 関係者や当支部員(当時クラブ)等何百名が集り、 「さよなら蒸気機関車」とお別れ式をしたことはま だ記憶が新しい。 この日を最後として永久に本線より姿を消してし まった。さてここで北陸線敦賀福井間に走った岡蒸 気の歴史をたどって見よう。 まず、北陸線長浜駅構内に昔の駅の建物がある。 この建物から北陸の歴史が始まったともいえる。こ れは鉄道開業当時新橋駅を建てた英国人技師シャツ バルトチャールスが建築主任となり新橋駅とそっく りのものを建てたもので、現在は鉄道記念物(昭和33 年10月14日指定された)として保存されている。こ の駅舎は明治15年5月10日に完成したもので、これ から見ても北陸線の歴史は古い。維新のシンボル「文 明開化」の北陸進出は、ダイナミックな岡蒸気の鉄 輪のひゞきと共にもたらされたと云ってもよかろ う。長浜敦賀の鉄道は太平洋岸と日本海を結ぶ重要 幹線として明治17年に日本で三番目にテビューし、 北陸への足がかりが近代国家へ精一杯背伸び始め た。当時の日本にどんな重要なポイントを占めてい たかを裏付けている。 明治26年8月、南は敦賀から、北は富山の双方か ら鉄道工事が始められたが、敦賀今庄間には大きな 壁のような、南条の山々が立ちはだかっていた。敦 賀大桐間になんと難工事だった12のトンネルを堀り、明治29年7月15日に福井まで開通した。明治5年 新橋より汽笛一声岡蒸気が走り出してより24年目の ことである。 当時越前の人々にとって文明のパイオニアという 実感“まっ黒な怪物”という感情が交錯してまさに おどろきだったに違いない。昨年3月に築25年の中 古マンションを購入、引き渡しを行いました。 同時に住民票の移動も開業当時に職員の服務規定 も完全でなく、のんびりしていた。列車の運転も8 往復程度で列車は客車貸車の混合で数少なく、夜半 から夜明までは列車の運転はなかった。しかし、当 時汽車を動かすということは全く命がけで、小イキ な車長(現在の車掌)もススだらけで赤い目をこす りながら、神経をとがらせて精力を集中したものだ った。現在に於ては想像もつかない事である。 北陸線の草分けとして最初に走った岡蒸気は、 2120形式である。これは英国から勾配用として多数 輸入したもので、飽和蒸気機関車「別名B6と呼ん だ」で今でも鉄道部内や鉄道ファンにはなつかしが られている。 この機関車は明治の代表「カマ」として愛用され たものであるが、1つ悪い癖があった。それは敦賀 今庄間の1000分の25勾配のトンネル区間では煤煙を そのまゝ運転室へ流れ込むことだった。悪くすれば 火夫「現在の機関士」を窒息死させるタチの悪いイ タズラ者もあった。このためダンスホールのダンサ ーではないが、勾配区間ではいつも後向きに走る逆 行運転をさせていた。現在この型の機関車は国鉄岡 山機関区に一両入換用として細々どうにか生存して いるが、それも廃車寸前の運命にある。尚、2120型 は当時4,000円で買入れたとの事である。2120型に 続いて2400形式というドイツ製の蒸気が走り出し た。これも同じく「B6」といわれ、先の2120型と同 じく明治の代表カマとして愛用されたものである。 当時山中峠をのぼり切った所で列車は1時停車大 桐に向かう急な下り坂では機関車が制動すれば列車 全部のブレーキがかゝる貫通制動の装置はなく、機 関車にブレーキをかけてもスピードが出すぎる。そ こで客車や貸車の最後に取付けてある手動のサイド ブレーキを、車長が火夫(現在の機関士)に合わせ てクルクル回して締めながら坂を下った。 次号につづく
支 部 の 歩 み
昭和40年 4月25日 支部設立総会(福井新聞ホール)本部鷹 司理事、金鉄局伴野局長、橋本駐在長、局文書課 長、局広報係長、福井・武生両駅長、県商工労働 部長、福鉄社長、京福支社長、福井新聞社長、名 古屋支部長、名古屋北陸支部会員、福井支部会員 等100名出席。規約審議、役員選出、行事開催を 決定。来賓あいさつ、祝電披露、ステレオ「日本 の鉄道」鑑賞、スライド視聴、自己紹介、記念撮 影。支部報「わだち」No.1 発行。 5月2日 運営委員会(辻川支部長宅)今後の支部の 運営について。「わだち」発送。全国各支部へあ いさつ状送付。辻川支部長、加藤副文部長、瓜生、 貴志、酒井、沢崎、高田、多田、田中英、田中完、 富田、佃、西野、牧田の各氏出席。 6月1日 小浜線見学会例会開催案内通知。 6月15日 敦賀第一機関区見学、小浜線SL乗車会、 出席会員30名(含名古屋支部会員)福井7.46→敦 賀9.13敦賀−小浜間402Dレ、936レSレ、979貸レSL に停車区間毎に交代乗車。小浜14.50→16.04敦賀 16.06→福井17.34。 6月26日 本部総会、辻川支部長評議員に選出される。 7月21日 越美北線見学会開催を全員に通知する。 8月8日 越美北線DC、北電勝原第二発電所見学会、 出席会員10名。 8月12日 近江塩津駅複線切替工事見学会、出席会 員5名。 9月9日 運営委員会(駅ビル) 山本広報係長、福 井駅長、同主席助役との懇親会および10月の発車 式について。山本広報係長、梶井駅長、同主席助 役、辻川、加藤、瓜生、貴意、黒瀬、酒井、高田 田中完、多田、佃、富田、中谷、西野、西岡、牧 田の各氏出席。 10月1日 急行「白山」「越前」発車式於福井駅。出 席会員15名。支部では記念券を発行し、初日の乗 客に配布する。辻川支部長、牧田委員富山での糸 魚川電化記念式出席。 11月12日 11月例会開催案内通知。11月28日 11月例会 駅ビル 「わだち」No.2 発行。