詩人ウィリアム・ワーズワスがまだ無名の若者であったフランス革命時 代の初期に、現場のフランスで革命の急進思想に接し、革命を支持し共和 ¿ ワーズワスの急進思想とマシューズ宛初期書簡
ワーズワスのマシューズ宛初期書簡研究:
急進への道
安 藤 潔 要 旨: 英国ロマン派の代表的詩人ウィリアム・ワーズワスが青年期初期に抱いてい た急進的思想を、これまでの伝記的研究の成果を参照しつつ、ケンブリッジ時 代の友人ウィリアム・マシューズに宛てた手紙に探る。本稿では14通の書簡の 内大学卒業後の1791年から1794年 2 月付けまでの 6 通を精査し、詩人がまだ無 名の時代にフランス革命の現場で革命精神に接しその影響を受ける過程を追い つつ、手紙に現れたその急進思想に傾いていく実像を追う。大学を卒業して直 後の詩人は、マシューズを始めとする友人の多くと同じく、モラトリアム的状 況にあり、詩作の他に聖職や法律家の道や個人教授の仕事を考え、またジャー ナリストのはしりとして雑誌刊行をもくろむなど、さまざまな考えを抱きつつ、 民主主義や共和制度などを理想的な社会のありようと考えるようになっていく。 但し急進的といっても、ワーズワスは基本的には革命フランスのジロンド的な 穏健派であり、ジャコバン的急進には嫌悪感を抱いていたことは後の『序曲』 にも明示されている。その立場はこれらの青年期初期の手紙やその他伝記的資 料から見ても基本的にはフランス革命を支持する考え方である。但しワーズワ スの急進思想は革命を英国にも呼び込もうとか、英国の王政を打倒しようと試 みるほどの急進ではなく、むしろ穏健なリベラリストの改革派のそれであった といえよう。なお、続くマシューズ宛 8 通の書簡に現れた急進思想の最盛期に ついての研究は次稿以降に譲る。 キーワード: 英国ロマン派、ウィリアム・ワーズワス、William Wordsworth、フランス革 命、急進思想、初期書簡、ウィリアム・マシューズ、William Mathews主義を信奉するに至ったことは大作『序曲』(The Prelude1 ))に詳しく描か れている。これについては拙著『イギリス・ロマン派とフランス革命』2 )の 第 2 部、「ワーズワスとフランス革命」の項で詳しく考察した。また『序 曲』の中で描かれたワーズワスの急進主義については拙著への書評に答え る形でその後再考し、短いまとめを公表した3 )。その結論では、ワーズワス が『序曲』を創作し始める1799年ころには、すでに90年代前半のような急 進思想を失っていたので、その本質を探るには初期書簡集、および『リリ カル・バラッズ』より前の初期の習作を調べる必要があるという認識に達 した。本研究では、特にワーズワスの急進思想が現れているといわれる、 ケンブリッジ時代の友人ウィリアム・マシューズに宛てられた1791年から 1796年に至る14通の手紙を精査することにより、ワーズワスの若き日の急 進性の本質を探りたい。なお、本稿ではその内容が最も急進的に至る直前 の、1794年 2 月17日付の手紙までの 6 通を中心に精査し、手紙が書かれた 背景やその時期のワーズワスの動向を検討する。それ以降の 8 通にまつわ る研究は次稿に譲ることとする。 マシューズについては様々なワーズワス伝に紹介がある他、Selincourt/ Shaver の初期書簡集4 )の脚注の記述が最も詳しいようであり、(Letters EY,
48n.; Moorman, Early Years 92; S. Gill, A Life5 ), 432-3; K. Johnston,The
Hidden Wordsworth6 ), passim.)以下の記述は主にこれらの情報による。ウィ
リアム・マシューズ(William Mathews, 1769−1801)はロンドンのストラ ンドで書籍商および薬の行商を営んでいたメソディスト説教師の息子であ り、弟に有名な喜劇俳優となるチャールズがいた。この弟の妻が夫亡き後 回顧録を出しているようで、(Gill, 433n)そこから辛うじて兄ウィリアムの ことも朧げにわかっているようである。彼は1769年生まれだったが、ワー ズワスがケンブリッジのSt. John’s College に入ったのと同じ学期にPembroke College へ入学し、共に1791年 1 月に BA の学位を取得して卒業している。 在学中はこの親友たちは現代語、特にイタリア語への関心を分かち合った。 弟の回想によると、マシューズは抽象的な学問、特に数学に専念していた が、一方特に言語に渇望的なまでの勉学意欲を持ち、20歳を前にしてすで に 6 ヵ国語に通じていたという。ワーズワスが彼に宛てた手紙は、詩人の 現存する最も初期のドキュメントに属し、その無名の青春時代の様子が窺 われる重要な資料の一つである。 ワーズワスは1791年に大学を終えてからロンドンにしばらく滞在した後、
ウェールズ他を経て、同年11月に再度革命下のフランスへ旅立つが、マシ ューズはレスターシャの学校で 1 年ほどの期限付きの教職につき、その後 にロンドンに出ている。この間も二人の友人付き合いは続いたが、ワーズ ワスが滞仏中の1792年の、夏か秋にマシューズはポルトガルを訪問してい る。帰国後彼は1793年にロンドンの法学院の一つ、the Middle Temple への 入学を認められ、1794年に MA を取得している。彼は教会の聖職を考えも したようだが、以下にも論述するように、私的な事情による困難さと考え 方の変化により、牧師職に就くことには踏み切れなかった。彼は無神論者 ではなかったが、既存の宗教の一般的な見掛け倒し、重々しい儀式に強い 反感を持っていたようである。 1794年の大逆罪裁判7 )のころ、マシューズは1787年創刊のThe World、
1789年創刊のOracle、1794年の創刊のThe Telegraphを含む数紙の新聞の 国会記者の仕事もしている。1796年には弁護士資格を得るが、依頼人は少 なく、1801年 2 月に自ら「落胆した男」と称して西インド諸島へ旅発ち、 7 月にトバゴで黄熱病に罹り亡くなった。彼は当時の英国の優秀な若者の進 む道のほとんど、牧師、教師、文筆家、法律家の道を探りつつ、海外にま で新天地を求めてついに思いを果たさず夭折したのである。 ムアマンも述べているが、ケンブリッジ在学中マシューズがワーズワス の最も親しかった親友だったようである。しかしワーズワスの交友関係に ついては、ケネス・ジョンストンが指摘するように幼少期以来特殊な様相 を帯びていたようで、後の重要なコールリッジとの関係も含めて認識が必 要なようである。ワーズワスは一般的に自分と個性の異なる友人を選ぶ傾 向が強く、すでにホークスヘッド・グラマー・スクールの時代からこの特 徴は目立っていた。少なくとも若いころは、人の慰めとなることも、逆に 尊大になることもさほどはなかった。彼は印象的な人柄で、人々を惹きつ けたが、彼のほうから誰かに惹きつけられるということは余りなかった。 但し彼には友情を育む才があり、若くして両親をなくしたので、年長者と の付き合いに長けていたようである。一方ワーズワスとの付き合いにはリ スクも伴っていたようで、十代から二十代の三人の親友とも、後に彼との 交わりを振り返り苦い思いをする。ホークスヘッド時代の親友 John Rainrock Fleming は余り知られていないが、ケンブリッジ時代は本稿のテーマのマ シューズで、この後サマーセット時代はコールリッジである。 3 人ともワー ズワスの成長を目の当たりにしながら、後に彼と疎遠になって行った。ワー
ズワスのほうが彼らに幻滅したこともあろうが、ワーズワスも彼らを幻滅 させたかもしれない。以上がジョンストンの指摘の要旨だが(Johnston 49− 50)、親友関係が長続きしないのは偉大な人物につきものの現象かとさえ感 じられる。片方が偉大すぎれば一方は賛美者として少し目下から喝采する 立場となり、そこに親友関係は成り立ちにくかろう。しかしワーズワスと コールリッジは、ともに偉大な存在だったにもかかわらず蜜月の時期が短 期間で終わったことには、孤高の魂の運命といったものを感じさせられる。 Selincourt/Shaver 編のワーズワス初期書簡集に収められているマシュー ズ宛の最初の手紙は1791年 6 月17日付、発信地は Denbigh shire 云々となっ ているが、当時ワーズワスは北ウェールズの Ruthin 近く、Llangynhafal の Plas-yn-Llan という所にあった友人 Robert Jones の親の邸宅に寄寓していた。 前年の1790年に大陸旅行を共にしたケンブリッジの友人ジョーンズの故郷 である。1791年 1 月にケンブリッジを卒業して去ったワーズワスは 4 ヶ月 ほどロンドンに滞在した。彼の若い時期のロンドンでの生活は数度にわた る経験を混交して『序曲』に描かれているが、この手紙でも 3 週間前に辞 したあの大都市の喧騒と怠惰を述べている。この手紙は大学卒業直後に友 人に消息を伝えるもので、当時のケンブリッジ卒業生たちの友情のありよ うが伝わるものの、嵐のような同時代の息吹が伝わってはこない。 この頃、マシューズはメソディストの父親の、彼に対する聖職就任の期 待の圧迫から逃れるようにレスターシャの教育機関で臨時教員の仕事をし ていた。しかしその待遇はあまりよくなくて、将来の展望も立たず、有能 なゆえの悩みに苛まれていた。ワーズワスが 8 月 3 日に同じウェールズの アドレスから送った 2 通目の手紙には、このマシューズの悩みを癒すよう、 励ましと助言の言葉が記されている。 マシューズは同時代の文学に関してワーズワスの見解を問いかけていた ようで、ワーズワスはこれに答えてアフリカ大陸の中央部に住む種族につ いての説明を求めるようなものだと、皮肉にもユーモラスな喩えを用いて、 現代文学には与り知らぬところを表明している。この点について考察が必 要である。ワーズワスの手紙の何気ない表現には裏がある。彼がこの時期
Tristram Shandy三巻とSpectator数誌しかないと述べているのは、手元に
実際それらしかないという意味で、彼の頭の中には同時代の詩のことがい っぱいあったに違いない。しかしマシューズにはあえてこの話題を避けた ということであろう。(Johnston 265−6n)ワーズワスはこの頃イタリア語 やスペイン語を勉強する意図はあったようだが、結局はほとんど何もして いなかった。牧師になるには年齢が足らず、ロンドンの法学院に入るつも りもなかったようで、まさにモラトリアム的状態だが、現代のように給料 を受け取るような仕事につくという考えは一般的に当時の人々には余り強 くなかったようである。むしろ 1 通目と 2 通目の手紙に目立つのは友人の 消息を頻りに気にしている様子である。 この後 2 ヵ月足らずして、 9 月23日にワーズワスからマシューズに 3 通 目の手紙が送られる。この手紙の発信地はケンブリッジになっているが、 ワーズワスはウェールズからロンドン近郊に移動していた。目的は親族の ジョン・ロビンソンに会うためで、現在のヒースローの近くというIsleworth の彼の家におそらく逗留していたものと推測されている。ロビンソン(John Robinson, 1727−1802, MP for Appleby & Harwich)はワーズワスの祖父 リチャードの妻の甥、つまりワーズワスの亡き父ジョンの従兄で、かつて リチャード・ワーズワスから湖水地方の大貴族 Sir James Lowther, Earl of Lonsdale の法律事務を引き継いでいた時期があった。その仕事は彼が後に 国会議員になってしばらくしてワーズワスの父親ジョンに引き継がれた。 なお、ワーズワスの祖母は結婚前 Mary Robinson という名だったが、後に Lyrical Tales(1800)を書く一時期女優で皇太子の愛人でもあった同名の 女流詩人とは関係ない。一方ワーズワスも愛読したElegiac Sonnets(1784) の作者 Charlotte Smith はロビンソンの義妹で、彼の紹介でワーズワスはこ の年の渡仏前に彼女に会って歓待されている。更に彼女はワーズワスに Helen Maria Williams や Jacques-Pierre Brissot ら、フランスの重要人物へ の紹介状を書き、彼の滞仏中の経験に重要なきっかけを与えた。 ジョン・ロビンソンはロンズデール伯とのしがらみを断って後に政界で 貪欲に活動し、ノース卿政権下で財務長官、ピット政権では森林検査局長 などの重職も歴任し、国王ジョージ三世の覚えもよかったという。彼は親 族に仕事を紹介する努力も惜しまず、ワーズワス兄弟は職を得る事に関し てこの遠縁からの恩恵を何度も受けたようである。ワーズワスは彼やラン ダフ主教のように、政界で成功した知人を目の当たりにする機会があった ことになる。ロビンソンの娘は貴族と結婚していたので、ワーズワスの遠
縁には Charlotte Smith のような文人の他にも政治家や貴族がいたことにな る。 1791年 9 月に彼がウィリアムを呼び寄せたのには二つの目的があった。 ワーズワス兄弟の亡き父親にはロンズデール伯からの報酬の未払いがあり、 その受領の権利はワーズワス兄弟によって相続され、支払いに関して係争 が解決しかかっていたので、その最終段階の話し合いがあったことが第一。 そして第二にはウィリアムに自分の選挙区 Hrawich の副牧師(curate)の仕 事を薦めるためであった。しかしこの仕事は条件が悪く、ワーズワスはロ ビンソンのこの後者の申し出を、まだ牧師になるための年齢に達していな いという理由で断る。 9 月23日付マシューズ宛の手紙では単に聖職に就く 年齢に達していない理由で断りに行ったことが記されているだけである。 彼のような当時の大学卒業生が進む道のほとんどはイギリス国教会の牧師 か、法律の世界であった。しかし何れも卒業と同時に就職はできなくて、 前者の場合は23歳まで待ち、後者の場合はロンドンの法学院でさらに研鑽 を積む必要があった。但し聖職の場合は正式な年齢に達するまで仮資格の ような形で就任することもできたようだから、ワーズワスが断ったことに は別の意味もあり、ロビンソンや母方の叔父で後見人の、苦労して聖職の 道をはい上がった経験を持つ William Cookson を憤慨させることとなった。 ワーズワスがこの聖職就任を断った理由として、ジョンストンは「より 大きな独立の可能性に反して、小さいが確実な収入にある職に就くことに は拒絶した(Johnston, 278)」と説明している。ロビンソンを訪問したもう ひとつの目的、ロンズデール伯との係争が好転する目処はワーズワス兄弟 の経済的自立の展望を示すもので、ワーズワスにはもう少し状況の推移を 見ようという気持ちがあったともとれる。しかし聖職を避ける気持ちはど んなものであったか。マシューズの場合は父親がメソディストの俗人説教 者、母親が国教会の信者という、両親の宗旨が異なることも問題で、父親 の期待から逃れるように臨時教師の仕事に就いたのだが、そこでの更なる 悩みにワーズワスは次のように答えた。‘ I should perhaps prefer your idea to your present situation, or to vegetating on a paltry curacy.’(「僕なら君の今の 立場より、ましてやつまらない牧師職に無為に暮らすことよりも、君の考 えを選ぶだろう。」Letters EY, 58)「君の考え」とは現教職や牧師職よりもも っと自由で独立した生活をすることで、この言葉にはワーズワス自身の身 の上についての思いも込められているといえよう。
また一方、ワーズワスにとっては当時の体制側の聖職が気持ちに沿わな いところもあったのではないかと考えられる。この1791年の初めに学位を 取得した後、彼はロンドンに滞在したが、その間に親族の紹介で Samuel Nicholson という商人と知り合いになり、Old Jewry のディセンター(非国教 会系プロテスタント)の教会に行っている。当時は急進派のディセンター 説教師 Richard Priceが亡くなった直後で、Joseph Fawcett がその跡を継い で説教を行っていた。ワーズワスもこの説教を聴く機会があり、その自由 の大義には心を動かされたのかもしれない。これは単なる憶測に過ぎない が後の Godwinらとの交わりへの展開も念頭に置くべきであろう。しかし彼 がフランス革命に共感し共和主義とまで言わないまでも、民主主義的価値 観を持ち始めるのは、この後のフランス滞在中にボーピュイと交わって以 降のことである。 何れにせよ、当時のワーズワスは旅をすることに一種のオブセッション があったようで、90年の大陸旅行をともにした Jones とこの時期にウェー ルズを回る。さらにこの91年の終りには再度フランスへ旅立つ決心をする のも旅へのオブセッションゆえであっただろうと思われる。政治的関心抜 きのフランスのイメージはワーズワスにとって、それほど好かったようで ある。11月23日にマシューズに宛てた手紙は、その途中にブライトンから フランスへ出帆を待っている時に出したものである。互いの身の上を心配 はしているが、ワーズワスは‘ I am doomed to be an idler through my life.’ と書いたとき、すでに自分の人生がマシューズとはかけ離れていることを 暗に意識していたかもしれない。一方で叔父が東洋の言語を学ぶことを勧 めているが、‘Oriental languages’といってもインドや中国、極東の言語を 意味するのではなく、ヘブライ語、アラム語、および上級のギリシア、ラ テン語の意味で、これはワーズワスがさらに高位の聖職者または大学のチ ューターになる可能性を見越してのことのようである。またワーズワスが 91年の終りに再度フランスへ行った目的は一般にはフランス語の習得と考 えられているが、聖職に就く前にフランスの僻地で過ごすことも悪くない と叔父も認めたようである。少なくとも他の親族もそう認めていた。(Letters EY, 61n)但し当時フランスに行くことが、決して賢明な選択であったとは いえない。ジョンストンはそれを「1917年に自分のロシア語を改善するた めにモスクワに行くようなものだった。(Johnston, 281)」とまで譬えてい る。1791年当時のフランスの情勢がそこまで逼迫していたとは言い難いが、
ワーズワスは 2 度目のフランスで、彼の人生で決定的な経験をするのであ った。 こうしてワーズワスは1791年11月26日にフランスへ 2 度目の上陸を果た す。前年から 1 年余り経ての再訪だが、アルプスをめぐる自然が目的であ った前回とは異なり、この訪問ではさまざまな人物との出会いがあり、革 命にかかわるいろんな場所にも訪れる。紹介状をもらった Helen Maria Williams には会えないが、彼女のLetters from Franceのモデルになった人 物には早速ルーアンで会うこととなった。この実話は恋と革命の展開のハ ッピーエンドの物語となり、ワーズワスのアネットとの実話と彼がそれを 託した物語詩Vaudracour and Juliaと対照的である。このフランス滞在で の彼の最大の出会いは言うまでもなくアネット・ヴァロンとミッシェル・ ボーピュイで、これらに関しては既に詳述した(拙著p. 143−56)。ここでは アネットがワーズワスの子供を生んだフランスの愛人だったというイメー ジを払拭して、彼女が反革命の地下活動女性闘士で、ヴァンデの反乱以降、 ナポレオン時代を通じて王党派のレジスタンス活動を続け、後にはオルレ ア ン の 乙 女 に ま で 譬 え ら れ て 年 金 を 下 賜 さ れ た こ と を 指 摘 し て お く (Johnston, 295)。もうひとつ付け加えたいことはアネットの未婚の姉フラ ンソワーズ Françoise も婚外子をもうけていることである。英国とは対照的 に、当時のフランスの上流階級の女性は性的にかなり放縦だったようであ る。しかし現存するアネットの手紙には真剣な愛が感じられる。(Baker, 68)二人の運命は「事実は虚構より奇なり」そのものである。 ワーズワスは11月30日にパリに到着し 5 日まで滞在する。当時のフラン スはバスチーユ事件から 2 年半で、いまだ革命の不安定な状況が続いてい た。 6 月に国王一家がヴァレンヌまで逃亡を図り、未遂に終わるとパリに 連れ戻され、王制廃止の意見が強くなってきた。ワーズワスが到着したの は比較的平穏な時期であったが、彼が国民議会やジャコバン・クラブなど、 さらに既に革命にまつわって歴史的になった場所を訪問したことは『序曲』 第 9 巻にも述べられている(Prel. ix, 40−79;拙著p. 136−8)。そして直ち に、より恒常的な住まいとなるオルレアンに移動するのだが、この地でも 彼は Helen Maria Williams に会うことはできない。しかし彼は綿布製造工
場を経営するThomas Foxlow というシェフィールド出身の英国人企業家と知 り合いになる。ワーズワスは、奴隷制に立脚した産業に携わる彼を通じて この町の最高の、つまり貴族的な王党派で反ジャコバンの社交界に紹介さ れる。彼はそのような社交界からも、オルレアンからもまもなく退くが、 この間にアネットと知り合ったものと思われる。出会いから数週間で彼女 は彼の子を身籠る。1792年 2 月に入って彼がブロワに移動したのも彼女の 近くに居たいとの思いからであったようで、この縁からさらにボーピュイ と知り合いになる。それまでにワーズワスは漠然とした民主主義の価値観 を心に抱いていたようだが、王党派一族の中の女性を愛しながら、一方で このボーピュイとの親交を通じてフランス革命の思想、古代史から革命の 同時代に及ぶ歴史、周りに実在する農民の貧困に至るまで、ロワール川沿 いの散策などの間に学んでいった。そして彼は遂に自らを民主主義者と認 め始める。 この頃に書かれたのがブロワ発1792年 5 月19日付のマシューズ宛手紙で ある。この時期アネットとの関係が深まっていて、彼に時間の経過がにわ かに早く感じられたのは当然であった。ワーズワスはマシューズからの便 りを、オルレアンからブロワに移動する直前に受け取ったようで、手紙の 内容は前回の手紙と同様互いの身の上に関する事柄から始まっている。マ シューズは現在の臨時教師の仕事が気に染まないようで、また経営者夫妻 の仕打ちにも憤慨を感じていたようである。ワーズワスは彼のこの苦労を 気遣い、その才能を認めて、自分たちは「独立を得るための何らかの方法 で結ばれている」という希望があると励ましている。独立を求める気持ち はマシューズに劣らずワーズワスにも強かった。但しこの段階では彼はア ネットの妊娠には気付いていないようである。彼はまず文筆の道の可能性 を示唆する。
The field of Letters is very extensive, and it is astonishing if we cannot find some little corner, which with a little tillage will produce us enough for the necessities, nay even the comforts, of life.
(文学の分野はたいへん広範だから、どこかちょっとした隅っこでも見 つからないほうが不思議だ。そこをちょっと耕せば、生活の必要、い や安逸さえも得るに十分だろう。Letters EY, 76)
こうしてワーズワスは叔父がポストを提供してくれるので、この冬か来春 には聖職叙任をするとの意思さえ示す。“vegetating on a paltry curacy”(「無 価値な牧師職に就いて無為に暮らすよりも」)と 1 年足らず前に同じ人物に 宛てて書いた様子とは大きな違いである。ウィンザーのキャノン(聖堂参 事会会員)にまで指名された叔父 William Cookson は甥を英国に呼び戻す ため、Forncett の自らの副牧師として彼を迎えようとしていた。今度ばか りはこの誘いを拒絶は出来ない。この一方ワーズワスには著作の自信があ り、その方面での可能性を探るために書籍商として出版界とのつながりの ある父をもつマシューズに頼ろうとしたのであろう。 このような状況のときにワーズワスはボーピュイと出会った。彼がボー ピュイから受けた影響について、ここで再度語る必要はないので、グレゴ ワール司教のことを述べておきたい。Bishop Henri Grégoire はヴァロン一 家が居を構えるブロワの町の司教に革命政権の下1791年 3 月に就任し、アネ ットの叔父の一人が当時彼の下で司祭職に就いていた。グレゴワールは11 月に憲政友の会(Les Amis de la Constitution: the Friends of the Constitution) のブロワ支部の長に選ばれた憲政主義の司教で、当時の「ヤンセン主義の カトリックの、最も敬うべき理想主義者で、過去の教会の弊害を共和主義 的な考え方で改革し、同時にキリスト教の慈善主義で革命の行き過ぎを和 らげることを狙っていた(Johnsotn, 301)。」この時期ワーズワスがフラン スで学んだ革命の理想と価値観は、主にボーピュイによるもので、彼のみ が目立っているが、彼の直接の言及はないものの、このグレゴワール司教 と彼が主催した集会にも彼が多大な影響を受けたことに注目すべきであろ う。その痕跡はDescriptive Sketchesのスイスのことを語った部分に見られる という。ワーズワスは彼の兄弟を苦しめたロンズデール伯や、後に文書で 攻撃を試みるランダフ主教のような保守的な貴族や聖職者を軽蔑し、この グレゴワール司教やアネットの叔父のような憲政主義の聖職者、リベラル な貴族には尊敬の念を向け、彼らが主催する集会にはよく出席していたよ うである。なお、グレゴワールは1792年 9 月21日、ワーズワスがオルレア ンにいた頃、革命中央政府に戻り国民公会に王制廃止を提案する。 従って、 5 月19日付の手紙でワーズワスがマシューズに「フランスの一 般的な関心事については、その王国〈フランスは当時まだ王国〉自体の真 ん中の、小さな地方都市にいるより、ロンドンの方が情報を得る機会が多 いということだ。(Letters EY, 77)」と述べて、革命の情報が余りないそぶり
をしていることは解せない。想像するに、これは恐らく検閲を恐れてのこ とだろう。さもなくばマシューズを侮っているともとれる。一方その直後 でディロン将軍の残虐な殺戮のことを遠まわしに伝えた後、「今度の夏が間 違いなくフランスの運命を決めるだろう。」と予測している。これは1792年 の夏の予想で、実際は王政廃止、共和制施行につながるのだが、このよう なことを暗示しているのかもしれない。ワーズワスはさらに仮にドイツ軍 がパリを占領することになっても、革命を後戻しすることは最早できない と示唆した後、こう書いている、“Yet there are in France some[?millions]− I speak without exaggeration− who expect that this will take place.”「それで もなお、フランスには何[?百万]人もの ―私は誇張なしに語っている― このことがおきることを予想している人々がいる。(Letters EY, 78)下線強 調筆者」これが革命のゆり戻しを意味するのか、あるいは共和制移行など の進展を意味するのか断定はできない。しかし彼の当時の立場では既に共 和制を支持のはずで、後者の意味にとったほうが良いだろう。その一方で 現実には、アネットの王党派的考え方があり、それとボーピュイやグレゴ ワールのような革命推進派の両方が彼の身近にあった。 ワーズワスがこの1791−2 年のフランス滞在中に出した手紙でLetters EY に収められているものはこのマシューズ宛以外は兄のリチャードに宛てた 2 通だけである。その内容は親族に海外滞在の経緯を伝えるだけの事務的 な事柄で、事実関係を確認する程度の役にしか立たない。手紙として本質 的に彼のこの時期の様子を探れるのはマシューズ宛の 1 通だが、それとて も英仏双方の官憲による検閲を恐れてか、不都合なことは書いていないと も考えられるので甚だ曖昧な結果になっているといえよう。 この後ワーズワスはオルレアンとパリに戻り、さらに英国に帰る。この 間に九月虐殺が起きており、ブロワとパリは英国人にとって危険な町にな りつつあった。またアネットは身重の姿が目立ち始め、オルレアンに戻さ れた。Descriptive Sketchesの結末部分はアルプスから飛んで急にロワール 河畔に舞台が移り、またその最後の70行が最も同時代的な内容で、詩人の 若き日の急進思想を探る上でも外すことができないが、この部分に関して は近い将来に検討したい。ここではワーズワスがオルレアンを去る前にわ が子の洗礼に際して法的に申し立てをして、自分の名前が父親として教会 の記録に載るように手はずを整えたことを付け加えておこう。1792年12月 15日付の洗礼記録は Juliet BarkerがWordsworth: A Life in Letters, pp. 20−21
に掲載している。ワーズワスがオルレアンとアネットのもとを去ったのは、 新しく生まれる子を含めた家族を養う手段を英国で講じるためで、そのた めにはあれほどためらっていた聖職も厭わなかった。 こうしてワーズワスは『序曲』第10巻にあるように、九月虐殺直後のパ リを経由して英国に戻る。革命フランスはこの 8 月に王権を停止し、 9 月 22日には共和国の宣言をしていた。主導権を奪った急進派の中ではさらに 権力闘争が続き、最も過激派のジャコバン党ロベスピエール一派が実権を 掌握しつつあった。この 1 年前の状況とは全く変わり、九月虐殺の後パリ 在住の英国人は帰国するか地方に逃れ、またパリに向かっていた人々もこ の町を避けていた。この風雲急を告げる時期のパリにワーズワスは、落ち 着かない身の上にもかかわらず 5 週間余りも滞在する。その理由としては 出入国手続きの停滞とも、ワーズワス自身この大都市と革命の成り行きを もう少し見届けたい気持ちがあったとも想像されている。この 2 回目のフ ランス訪問の、 2 度のパリ滞在では、おそらく91年11月頃に国民議会 (National Assembly)とジャコバン・クラブを訪問したが、92年の10月か ら11月にかけての滞在では形勢の悪化しつつあった穏健派ジロンド党員の 何人かと知り合いになったようである。ルーヴェのロベスピエール弾劾に ついては『序曲』に示唆されている。具体的に誰と接触したかといった詳 細は彼の手紙や文学作品には明らかではないが、少なくとも彼は革命の只 中を実体験し、後年それを『序曲』の一部に描いて見せた8 )。その記述には 決して明らかではないが、ワーズワスには自らも革命の一翼を担いたいと の思いもあったようである。結局この時は実質的行動には出なかったよう だが、『ランダフ主教への手紙』が彼なりの行動の結果だったといえよう。 事実当時パリに在住の英国人の中には英国で革命を起こすことや、フラン ス革命軍の援助で英国王を倒すことを画策する団体を作った者もいたよう である。それらにワーズワスの実名は見られないが、彼がそんな団体のど こかに出入りしていたことは想像に難くない(Jonston, 323−6)。 ワーズワスは娘キャロライン(カロリーヌ:Anne-Caroline)がオルレア ンで洗礼を受けた頃にパリを離れたと見られている。当然生まれたわが子 を見ることはなかった。後にわかるのだが、彼がフランスを退去した時期 が脱出の最後のチャンスだった。この機を逃してフランスに留まった英国 人を待ち受けていたのは、死か投獄であった。国王ルイ十六世の処刑から 英仏開戦、王妃マリー・アントワネットの処刑に及ぶ期間にフランスに留
まっていた英国人の多くは有名人も含みスパイ容疑などで逮捕・投獄、最 悪の場合処刑された。これを逃れてもフランスに留まっていて、その後の 動乱の中で命を落とす英国人も多かったようだ。しかしワーズワスがかろ うじて生きて帰った母国英国でも、フランス革命にまつわるどんなフィク ションにも劣らぬ衝撃が待ち受けていた。 こうしてワーズワスは騒乱状態のフランスから1792年12月20日頃までに 帰国するが、祖国の首都ロンドンも革命寸前の騒然たる状況であった。帰 国して兄リチャードの部屋に転がり込み、彼が直ちに行ったことは、手元 に暖めていたAn Evening WalkとDescriptive Sketchesの出版準備であった。 この両作品ともこの時期の追加部分は注目に値するようである。この 2 冊 は1793年に入り、 1 月29日に急進派の出版者としてペイン、ブレイク、ゴ ドウィン、ウスルトンクラフトらとも関係の深かったジョゼフ・ジョンソ ンによって出版された。この事実がすでに、ワーズワスが91年末の渡仏直 前に Charlotte Smith に会って以来、滞仏中に急進派の信認を受けるまで言 動を展開していたことを窺わせる。しかし政治的に動乱の時代には詩が社 会の片隅に追いやられることは已むを得ない。ジョンストンはワーズワス が10月に入ってからの Thomas Holcroft の批判に刺激され、後の『リリカ ル・バラッズ』への発端となったことを指摘している(Johnston 332)。ワー ズワスはこの詩で親族に、特に後見人の叔父 Cookson に能力を示したかっ た。そして以前退けた副牧師職を今回は望んだが、その事情自体の理由で 彼は拒絶された。急進思想は隠し得たであろうが、私生児をもうけたこと はもとより、カトリック女性を妻にする見込みが、牧師職を遠のかせるこ ととなったのである。 ワーズワスが 2 冊の詩を出版した直後に、かつて貴族院に議席を持ち、 ケンブリッジの神学教授でもあった、湖水地方ウィンダミアの広大な邸宅 に住むランダフ主教が、以前出した説教の出版物に付録をつけて再出版し、 かつてのフランス革命支持の立場を撤回した。これに対してワーズワスが 『ランダフ主教への手紙』を書き、出版直前で公開を断念したことはゴドウ ィンの『政治的正義』の影響についての論議と共に、拙著161−172で論述 した。ジョンストンはワーズワスのランダフ主教攻撃の激しさの裏には、叔 Â 急進への傾斜
父に牧師職就任から突き放されたことへの思いもあると見ている(Johnston, 336)。このころ、ワーズワスにとって打撃の大事件がおきる。 1 月21日に パリでルイ16世が処刑され、 2 月 1 日にフランスは英国に宣戦布告する。 英仏間は戦争状態に突入し、相互の行き来が困難になる。こうした公的な 社会の衝撃的な動きに、ワーズワスにとっては私的な打撃が重なり、途方 に暮れることになる。 このような時期に書いた『ランダフ主教への手紙』は煽動罪、あるいは 大逆罪の訴追も免れない内容で、恐らくジョゼフ・ジョンソンの助言で出 版を見合わせたものと思われる。出版して著者と発覚したら、逮捕監禁は 免れず、死刑とまで行かなくとも、オーストラリアに流刑となったことで あろう。その草稿は写しが残され現在は Grasmere の Wordsworth Library に一部だけあるようだが、このような過激な散文をワーズワスが独力で書 いたとは思えない。彼は恐らく帰国後ロンドンのいろんな政治団体に出入 りし、多くの人々との討論の過程でさまざまな知識を得てこの散文を書い たのであろう。ジョンストンは彼が親しくした団体が「ロンドン通信協会」 のような過激な活動的団体というよりは、国会議員が関わり、中産階級の 会員が多かった団体のようで、Morning Postに会員募集を出していたよう なものだっただろうと推定している(Johnston, 341)。 彼はロンドンで恐らくそのような団体の催しを通じ、ホークスヘッド時 代の友人 William Calvert に再会する。すでに父親の財産を相続して、大学 にも行かずにジェントルマンになっていた彼とその弟 Raisley との親交の中 から、ワーズワスは旅をする家庭教授の仕事を考える。先のフランス滞在 でも、グランドツアーをする貴族の付き添いのチューターの仕事を考えて いたようだが、英仏開戦でフランス旅行ができなくなった今、彼は英国内 で貴族や上流階級のチューターをして回ること考えていたようである。彼 とカルバートは、93年の 6 月から 7 月ころ、共和制になったフランスと王 党派の反撃のニュースが喧しいロンドンを後にして、この夏をまた旅です ごす。旅の終わりには愛する妹ドロシーとの再会も目論んでいた。 こうして傷心から気を取り直した彼はワイト島滞在からウェスト・カン トリー、ソールズベリー平原を経てバース、ブリストルを経、ウェールズ に入りワイ川沿いをティンタン修道院から数マイル上流まで行き、 8 月末 に91年以来の Robert Jones の父親の邸宅にたどり着き滞在する。この旅の 始めにカルバートの馬車が壊れたといい、二人は別行動をとることになっ
たが、ワーズワスは一人旅のそれぞれの地で直ちに、あるいは数年後に詩 作をする種をこの旅で収穫したといえる。この二人の経緯について疑問を 挟むむきもある。ウェールズ到着後ワーズワスは‘Salisbury Plain’を書き 始めるが、この後12月に至るまでの彼の消息ははっきりしていない。これ に関してはムアマン以来ワーズワス伝のミステリーで、ひそかにフランス に戻ったのではないかとの推測はいまだ決着がついていない(Moorman, 238−242; Gill, 77−78; Johnston, 358-400; Barker, 93-95; 拙著, 186−7)。最も 妥当な推測はウェールズの Clwyd, Plas-yn-Llan に居たということだろう (Barker 93−95)。ワーズワスが93年の晩秋から初冬にかけてパリに行った 可能性がある根拠は、唯一カーライルの回想録によるもので、彼自身、あ るいは彼にゴルサスの処刑を見たと語ったワーズワスが記憶違いをしてい たと見るのが妥当であろう。これ以外の客観的証拠はない。さらにはワー ズワスが1793年に出した手紙も発見されていないようだ。アネットが彼に 出した手紙は途中で留め置かれ、彼に届かなかったが現存している。この 一方戦時下のためワーズワスがフランスのアネットに宛てた手紙は失われ たのかもしれない。この事件に満ちた 1 年間、彼が誰にも手紙を書かなか ったということは疑問だが、1793年付けのワーズワスの手紙は現存しない ようである。 ワーズワスは93年のクリスマスを Cumberland の Whitehaven にあった父 方の伯父リチャードの家で過ごす。牧師職に就く話が彼のフランスでの不 始末とその前後に抱いた急進思想ゆえに潰えた後、彼は母方の親族と距離 を置いて父方の方に頼ろうとしたともいえる。年が明けてから94年 1 月に は Keswick 近郊の Windy Brow にあった旧友 Calvert の所と Bassenthwaite の やや北の、John Spedding の Armathwaite Hall を転々と移動する。次いで彼 は 2 月の中頃までに Halifax の Rawson 邸にたどり着く。William Rawson は 亡き母の従姉妹Elizabeth(née Threlkeld)の夫で、ドロシーが‘Aunt’と呼 ぶ Rawson夫人には彼女が幼いときに結婚前の彼女の世話になっていた。彼 女の結婚の経緯はドロシーの1790年10月 6 日付 Jane Pollard 宛手紙に書か れている。気の置けない Rawson邸に暫時滞在するワーズワスは 3 年以上会 わなかった妹Dorothyにここで再会する。妹は久しぶりの兄の急進思想やフ ランスでのいきさつに驚きつつも、すべて理解しこの後兄妹二人で独立し た生活を目指す決心をしたようである。 ワーズワスの書簡集に収められた現存する次の手紙はこの頃書かれ、2 月
17日付、マシューズ宛でこの Halifax 近郊の Mill-house 発信となっている。 この手紙では、互いの消息を確認しあった後、マシューズが法律の専門家 になるためにロンドンの法学院の一つ、Middle Temple に入学したことを 良い選択としている。但しユーモラスながら“all professions I think are attended with great inconveniences, but that of the priesthood with the most.”(「どんな専門職にも不便はつき物だが、中でも聖職者の仕事は最悪 だ。」Letters EY, 112)としている点は注目すべきである。ワーズワスが牧師 職やその他の決まった職業の不自由さ、不便さを嫌っていたことがこの一 言に集約されているといえよう。しかし不承不承生活のために就こうかと 思ったが、手元から離れていった就職の機会への思いも込められているよ うに読み取れる。 次にワーズワスは法律に関心を持ちつつも、自分には法曹界に進むには 気力も財力もないことを述べている。さらに彼が自らの能力を意識する外 国語に関しても、スペイン語やイタリア語から遠ざかっているが妹に教え るつもりがあること、フランス語には自信があることなどを伝えているが、 基本的に語学そのものにそれほど関心があるようには読めない。むしろマ シューズのポルトガル滞在の経験に関して尋ねている点に注目すべきであ る。
What rema[rks do]you make on the Portuguese? in what state is knowl-edge with them? and have the principles of free government any advo-cate there? or is Liberty a sound of which they have never heard? (「ポルトガルの感想はどうでしょう。彼らの知的状態は。そこには自 由な政府の原理を擁護する人はいますか。それとも自由とは彼らの聞 いたことのないものでしょうか。」Letters EY, 113) ここにはすでに、英仏以外の国の自由な状況にも関心を持つワーズワスを 見ることができる。しかしながら、この手紙は根本的に従来からの友人同 士の消息を確かめ合う程度の内容で、彼の急進思想が本格的に現れる手紙 は、この次の数通である。
ワーズワス兄妹は94年 4 月に入り、Halifax から Kendal を通り、Grasmere に向かう。そこからさらに Windermere に至り湖水地方の中心地を歩き、
Keswick の Windy Brow にしばらく滞在する。この地は先に William Calvert がワーズワスに提供した住まいで、 5 月半ば頃まで滞在し、その後また Whitehaven へ行っている。この間も兄は詩作を続け、妹はフランス語やイ タリア語を学びつつ方々に手紙を書いている。また、Calvert の弟 Raisley が ワーズワスに自らの収入の一部を提供している。この時期は湖水地方及び その周辺の親族や友人、知人宅を転々として、兄妹は定職も定まった収入 もないまま、親族からの送金を頼りに漂泊の生活をしていたのである。
1 )以下特に言及しない場合はE de Selincourt(ed.), H. Darbishire(2nded rvd.),
William Wordsworth: The Prelude, or Growth of a Poet’s Mind, Oxford English Texts ser.,(Oxford: Clarendon Pr. 1959)の1805年版に準拠する。
2 )安藤潔『イギリス・ロマン派とフランス革命――ブレイク、ワーズワス、コー ルリッジと1790年代の革命論争』桐原書店2003年刊。以下拙著と略す。 3 )「ワーズワスとゴドウィン――『序曲』を中心に」関西コールリッジ研究会第
123回研究会(口頭発表、於同志社大学、2004年 9 月);「ワーズワスとゴド ウィン」『関西コールリッジ研究会会報第13号』2005年 4 月 1 日。
4 )Ernest de Selincourt(ed.), Chester L. Shaver(2nd ed rvd.), The Letters of
William and Dorothy Wordsworth: The Early Years 1787-1805,(Oxford: Clarendon Press, 1967). 以下引用、参照は全て本書に準拠し、本文中では Letters EYと略す。なお、選集のAlan G. Hill(ed.), The Letters of William Wordsworth,(Oxford &c: Oxford U. P., 1984)も使用したことを付言する。 5 )Stephen Gill, William Wordsworth: A Life, Oxford Lives,(Oxford: Clarendon
Pr, 1989). 以下Gillと略す。
6 )Kenneth R. Johnston, The Hidden Wordsworth: Poet・Lover・Revel・Spy, (New York: Norton, 1998). 以下本書の引証には Johnston としてページ数を 付す。以上の他ワーズワス伝としてはMary Moorman, William Wordsworth: A Biography: The Early Years: 1770-1803.(Oxford: Clarendon Pr., 1957)、John Williams, William Wordsworth: A Literary Life(New York: St. Martin, 1996)、 Juliet Barker, Wordsworth: A Life,(London: Penguin, 2001:以下Barkerと記 す場合は本書)、do. Wordsworth: A Life in Letters,(London: Penguin, 2002) 等も随時参照した。年譜はMark L. Reed, Wordsworth: The Chronology of the Early Years 1770-1799(Cambridge, Mass: Harvard U. P., 1967)、F. B. Pinion, A Wordsworth Chronology(London: Macmillan, 1988)を用いた。その他拙 注
著「参考文献」p. 19−27参照。 7 )当時英国に数多くあった急進派の団体のうち、職人階級を主とした「ロンド ン通信協会」が1794年 5 月に大規模な国民会議を計画したことに対し、ピッ ト政権は人身保護法を停止して協会の主要メンバーを大逆罪の嫌疑で逮捕収 監した。裁判の結果は全員無罪で同年12月までに釈放されたが、この裁判を 境に英国政府のフランス革命支持派、国内改革主義者に対する反動政策は強 化され、世論も大きく反革命の方向に振れることとなった。拙著p. 32他; Alan Wharam, The Treason Trials, 1794,London, Leicester UP., 1992.
8 )拙著、第 2 部、第 4 章「『序曲』第10巻と1792−94の二都物語:¿ パリ、 1792年」pp. 174−183。