髙田宗平
『論語義疏』
受容史初探
『論語義疏』 に 関する研究の現状と課題 に 見る 『論語』 注釈書受容の実相 に 於ける 『論語義疏』 受容の諸相 の『 論 語 』 注 釈 書 の 受 容 に つ い て、 日 本 史 学 で は『 論 語 集 解 』 の そ れ に 究 が 見 ら れ る も の の、 『 論 語 義 疏 』 に つ い て は 等 閑 に 付 さ れ て き た。 こ の 『 論 語 義 疏 』 を 引 用 す る 日 本 古 代 典 籍 の 性 格、 成 立 時 期、 撰 者 周 辺 の 人 究 す る こ と、 古 代 の 蔵 書 目 録 か ら『 論 語 義 疏 』 を 捜 索 す る こ と、 古 代 の 受容の事跡を渉猟すること、等から、日本古代の 『論語義疏』 』 は 、 天 平 一 〇 年 ( 七 三 八 ) 頃 に は 既 に 、 日 本 に 伝 来 し て お り 、 奈 良 ・ 通 じ て 、 親 王 ・ 公 卿 ・ 中 下 級 貴 族 ・ 官 人 ・ 釈 家 に 受 容 さ れ 、 浸 透 し て い た 。 紀 で は「 古 記 」・ 「 釈 」・ 「 讃 」 の 撰 者 で あ る 明 法 官 人 に よ っ て 律 令 解 釈 に、 ~ 一 一 世 紀 初 頭 に 於 い て は 皇 胤 で あ る 具 平 親 王 が『 止 観 輔 行 伝 弘 決 』 所 究 の た め に、 更 に、 一 一 世 紀 前 半 で は 明 法 博 士 惟 宗 允 亮 が 朝 儀・ 吏 務 の 先 例 を 明 ら か に す る た め に、 右 大 臣 藤 原 実 資 が 有 職 故 実 の 理 解 の た め に、 そ れ ぞ れ 『 論 語 義 疏 』 を 利 用 し て い た。 ま た、 釈 家 で は、 九 世 紀 で 空 海、 一 〇 世 紀 で 法 相 宗 興 福 寺 の 中 算 が『 論 語 義 疏 』 を 利 用 し て い た が、 一 一 世 紀 後 半 に 至 る と、 仏 典 を 始 め 多 様 な 日 本 古 典 籍 に『 論 語 義 疏 』 が 利 用 さ れ た。 そ し て、 一 二 世 紀 前 半 で は、 左 大 臣藤原頼長が幾多の漢籍を講読したが、その一つとして 『論語義疏』 を講読していた。 就 中、 具 平 親 王 の 周 辺 や 藤 原 頼 長 の 周 辺 に、 文 才 に 長 け た 公 卿 並 び に 中 下 級 の 貴 族 や 官 人 で あ る 文 人・ 学 者 が 集 ま り、 両 者 は と も に そ れ ぞ れ の 時 期 の 論 壇 の 中 心 と な っ て、 漢 籍・ 漢 学 の 講 究・ 談 義 が 行 わ れ た。 そ こ に 於 い て、 講 読 さ れ て い た も の の一つが『論語義疏』である。 【 キ ー ワ ー ド 】『 論 語 義 疏 』、 日 本 古 代 典 籍 所 引『 論 語 義 疏 』、 具 平 親 王、 藤 原 頼 長、 漢籍・漢学の講究・談義はじめ
に
日本は、古くから中国文化の影響を受けてきた。漢字・漢籍、また、 それらを媒介として、漢学・律令法・仏教等多くの知的体系を受容して き た こ と は 周 知 の 事 実 で あ り、 こ れ つ い て は 多 言 を 要 す る ま で も な い。 従って、日本古代の知的体系の一斑を解明するためには、漢籍の研究が 必要不可欠と言える。 日 本 に 伝 来 し た さ ま ざ ま な 漢 籍 の う ち、 『 論 語 』 は、 正 倉 院 文 書 に そ の名が見え (( ( 、また、木簡に習書が見える (( ( 等、古くから広く講読され、日 本文化に浸透していったものであることは首肯されよう。 た だ し、 『 論 語 』 は、 経 文 の み の 単 独 の 成 書 と し て で は な く、 注 釈 を 伴った書として伝来したものと考えられる (( ( 。従って、日本古代に於ける 『論語』の受容とは、厳密には『論語』注釈書の受容と言うべきである。 日本古代の『論語』注釈書の受容について、歴史学の分野では、三国 魏の何晏(一九〇~二四九)の『論語集解』の受容に関しては考察が加 え ら れ て い る も の の、 後 述 す る 如 く、 『 論 語 集 解 』 と と も に 広 範 に 利 用 されていた六朝梁の皇侃(四八八~五四五)により撰せられた『論語義 疏』については等閑に付されてきた。従って、本稿では、日本古代に於 ける『論語義疏』受容の諸相の一斑を明らかにすることを目的とする。❶
日本古代中世の
『論語義疏』
に
関する研究の現状と課題
第一項 受容研究 まず、日本中世に於ける儒教・儒学の受容の研究の嚆矢として、名を 挙げるべきは、足利衍述氏 (( ( であろう。氏は、江戸時代の盛運を醸成した のは朱子学の思想的背景によるものとの認識から、その起源を解明する た め、 鎌 倉・ 室 町 時 代 の 儒 教・ 儒 学、 就 中、 朱 子 学 を 史 的 に 考 察 し た。 主に、人物や家について立項し、列伝的な内容であるが、当該分野の先 駆的研究と言えよう。序論中に「鎌倉時代以前に於ける我国儒教」と題 して立項し、古代の通経の儒として清原頼業・藤原頼長・藤原通憲、等 を 指 摘 し た。 ま た、 「 経 書 講 抄 書 目 解 題 」 に 於 い て、 日 本 中 世 に 邦 人 に より撰せられた『論語』注釈書について、 (一)本文は『論語集解』 、な いしは『論語義疏』によるも、講義は新古両注の折衷であること、 (二) 講義の際に依拠した古注は、主として 『論語集解』 や 『論語義疏』 であっ て、 時 に は 北 宋 の 邢 昺 『 論 語 正 義 』 も 採 用 す る こ と が あ る こ と、 ( 三 ) 説くところは主に清原家の家説によること、 (四) 『論語総略』は鎌倉時 代末期から南北朝時代の書写にかかることから、当時、既に古注と新注 とを折衷する学風が始まっていたことを示す有力な資料であること、等 を主張した。 日本古代に於ける漢籍・漢学受容の実態の解明に先鞭をつけたのは、 内野熊一郎氏 (( ( である。氏は、漢学のうち経学に着目した。主として文飾 された経書の句説の事例を日本古代典籍から捜索し、その典拠を検討し、 日 本 古 代 に 於 け る 経 学 の 実 態 を 究 明 し た。 そ の 一 斑 と し て、 『 論 語 』 注 釈 書 の 受 容 に つ い て、 ( 一 ) 奈 良 時 代 の 論 語 学 は『 論 語 鄭 玄 注 』、 『 論 語 集 解 』、 『 論 語 義 疏 』 が 行 わ れ て い た こ と、 ( 二 ) 平 安 時 代 初 期 の 論 語 学 に於いては『論語義疏』が確実に使用されたこと、等を明らかにした。 阿 部 隆 一 氏 (( ( は 、 書 誌 学 ・ 文 献 学 の 立 場 から 、 鎌 倉 時 代 末 期 から 室 町 時 代 末 期 の 『 論 語 』、 室 町 時 代 の 『 孟 子 』、 の 各 講 究 を 、 邦 人によ り 撰 せら れ た『 論 語 』と 『 孟 子 』の 各 注 釈 書 の 厳 密 な 原 本 調 査 に 基 づ い た 検 討 に よ っ て 解 明 し た 。『 論 語 』 の 講 究 に つ い て 、( 一 ) お お よ そ 、 古 注 を 主 体 と し な が ら 、 時 代 が 降 る に つ れ て 、 新 注 に 傾 倒 し 、 新 注 を 採 用 す る こ と が 多 く 、 新 古 両 注 折 衷 と な る こ と 、( 二 ) 清 原 家 の 抄 物 を 見 る と 、 単 な る 量旧鈔本『論語義疏』の性格に論及した点は高く評価できる。 先の第一期と次の第二期の間に、阿部隆一氏 ((( ( による「金沢文庫蔵鎌倉 鈔本周易注疏其他雑抄と老子述義の佚文」がある。 『周易注疏其他雑抄 ((( ( 』 は、東大寺凝然の高弟智照によって撰せられたもので、その内容は『華 厳演義鈔』に引く外典(漢籍)を抽出し、注釈を加えたものである。氏 は、 『周易注疏其他雑抄』所引『論語義疏』と、武内本及び諸旧鈔本『論 語 義 疏 』 と を 比 較 検 討 し た。 そ の 結 果、 『 周 易 注 疏 其 他 雑 抄 』 所 引『 論 語義疏』には武内本等に比して、誤脱が認められるものの、間々武内本 等を校勘し得る所が認められ、皇侃疏校勘上、重要な資料であること、 更には、鎌倉時代以前に溯及する日本古典籍に引く漢籍の文辞や、書入 は漢籍校勘上、重要視すべきこと、を指摘した。 氏が、書誌学・文献学、とりわけ校勘学の見地から、日本古典籍所引 『 論 語 義 疏 』 の 性 格 や 校 勘 資 料 と し て の 貴 重 性 を 説 い た こ と は、 極 め て 重要な指摘である。 第二期の高橋均・山口謠司の両氏の研究について述べる。 当 該 時 期 は、 高 橋 均 氏 ((( ( の 一 連 の 研 究 に よ っ て、 『 論 語 義 疏 』 の 文 献 学 的 研 究 が 牽 引 さ れ、 前 進 し た 時 期 と 言 え る。 氏 は 一 連 の 研 究 で、 ( 一 ) 旧鈔本『論語義疏』諸本全てに邢 昺 『論語正義』が竄入していること、 並びに旧鈔本 『論語義疏』 に竄入した 『論語正義』 は旧鈔本 『論語義疏』 諸本間で殆ど異同が見られないことから、日本に於いて旧鈔本『論語義 疏』に『論語正義』が竄入し、それが祖本となり、伝写されていったこ と、 ( 二 ) 敦 煌 本『 論 語 疏 』 と 旧 鈔 本『 論 語 義 疏 』 と で は、 先 行 す る の は敦煌本『論語疏』の形式のテキストであること、を明らかにし、また、 ( 三 ) 敦 煌 本『 論 語 疏 』 の 形 式 を 旧 鈔 本『 論 語 義 疏 』 の 形 式 に 改 編 し た 特 定 の 編 者 が 存 在 し た 可 能 性 を 推 定 し た。 更 に、 ( 四 ) 武 内 氏 が 校 勘 す る際に使用しなかった旧鈔本『論語義疏』や敦煌本『論語疏』を資料に 加え、校勘した。 と り わ け、 氏 が、 日 本 古 典 籍 所 引『 論 語 義 疏 』 と 旧 鈔 本『 論 語 義 疏 』 及び敦煌本『論語疏』とを比較検討し、旧鈔本『論語義疏』が唐鈔本に 由来する本文を有していることを、具体的に明らかにしたことは重要で ある。しかし、日本古代中世の『論語義疏』の実態を把捉するには、使 用した日本古典籍が『令集解』 ・『秘密曼荼羅十住心論』 ・『世俗諺文』 ・『論 語 総 略 』 の 四 書 で は 決 し て 充 分 と は 言 い 難 く、 更 に、 『 令 集 解 』 に 新 訂 増 補 国 史 大 系 本 を、 『 秘 密 曼 荼 羅 十 住 心 論 』 に 日 本 思 想 大 系『 空 海 』 所 収 本 並 び に『 弘 法 大 師 空 海 全 集 』 本 を 用 い て お り、 テ キ ス ト の 選 定 に 問題がある。 一方、山口謠司氏 ((( ( は「 『論語義疏』の系統に就いて」に於いて、 『令集 解』 ・『令義解』 ・『政事要略』 ・『性霊集略注』 ・『弘決外典鈔』 ・『世俗諺文』 の各書に引用される『論語義疏』と、旧鈔本『論語義疏』を底本並びに 対校本とする武内本、及び敦煌本『論語疏』とを比較検討し、その結果 を、 ( 一 ) 日 本 古 典 籍 所 引『 論 語 義 疏 』 と 武 内 本 で は 本 文 に 少 な か ら ざ る 異 同 が 見 え る も の、 ( 二 ) 日 本 古 典 籍 所 引『 論 語 義 疏 』 に は 見 え る が、 武内本には見えない本文を持つもの、 (三)日本古典籍所引『論語義疏』 には見えないが、武内本には見えるもの、に三分類した。これらの異同 を単純な誤写・衍字衍文・脱字脱文によるものではなく、武内本が日本 古 典 籍 所 引『 論 語 義 疏 』、 敦 煌 本『 論 語 疏 』 と 系 統 を 異 に す る こ と に 起 因するものとし、長澤氏の説を承け、旧鈔本『論語義疏』は宋刊本に由 来するテキストである可能性を主張した。 氏が、右に述べた(一) ~(三)の字句の異同を、直ちに本文系統に関 わるものと断じている点は、なお検討の余地があろう。 また、氏が、 『論語義疏』を引く日本古典籍として、 『令集解』 ・『令義 解』 ・『政事要略』 ・『性霊集略注』 ・『弘決外典鈔』 ・『世俗諺文』の六書を 用いたことは高く評価すべきであるが、例えば、 『令集解』 ・『令義解』 ・ 『 政 事 要 略 』 の テ キ ス ト に 新 訂 増 補 国 史 大 系 本 を 用 い て い る 等、 テ キ ス
的 な 新 古 両 注 の 折 衷 で は な く 、 訓 詁 字 義 の 点 で は 古 注 を 多 く 踏 襲 し て も 、 義 理 の 点 は 新 注 た る 朱 注 に 依 拠 す る こ と が 多 い こ と 、( 三 ) 宋 学 は 当 初 、 禅 僧 により 移 入 さ れ た も の の 、 清 原 家 は 経 学 に 於 い て 、 五山 の 叢 林 より 宋 学 の 享 受 が 積 極 的 で あ る こ と 、( 四 ) 経 書 の 講 読 に つ い て 、 や や も す れ ば 五 山 の叢 林 は 作 詩 作 文 の 補 助 手 段 の 傾 向 が 見 え る の に比 べ 、 清 原 家 は 儒 本 来 の態 度に 立と う と し 、 経 書 の学 識 理 解 の点に 於 い ても 、 清 原 家 は 五山 の 叢 林 と は 格 段 の 差 を 示 し て い る こ と 、等 を 解 明 し 、 中 世 の漢 学 の中 心 とな っ た の は 五山 の 叢 林であ り 、 宋 学 の 摂 取 も 五山 の 叢 林 が 中 心 で 、 清 原 家 は 五 山 の 叢 林に 先ん じら れた 等 、 清 原 家 の 地 位 を 低 く 評 価 す る 従 来 の 説 に 対 し 、 批 判 論 駁 し た 。 更 に 、 氏 は 、『 論 語 義 疏 』に つ い て 、「 現 本 (現 存 旧 鈔 本 ― 筆 者 注 ) が 必 しも 侃 ( 皇 侃 ― 筆 者 注 ) の 旧 形 を 悉 く 完 備 す る に 非 ざ る こ と は 明 ら か で あ る が 、( 邢 昺 正 義 の ― 筆 者 注 ) 竄 入 の 箇 所 を 除 け ば 、 書 写 の体 式 を 別 と し て は 殆 ど旧 形に 近 い と 推 定 され る 。」 と し 、 ま た 、「 皇 疏 が 室 町 時 代 に 根 強 い 影 響 力 を 有 し た の は 、 皇 疏 自 体 の 注 解 の 態 度 目 的 内 容 が 、 我 が 室 町 期 の そ れに 全 く 一 致 し て い たか ら で あ る 。 皇 疏 は 六 朝 時 代 の 経 師 の 諸 説 を 集 成し 、 そ れを 講 義 風 に平 易に 叙 述し 、 独 創 的 学 術 性 を 有 す ると い う よ り は 、 啓 蒙 的 な 講 義 本 で あ る 。 そ の 文 体 用 語 法 等 よ り 考 え て 、 皇 疏 は 元 来 皇 侃 が 行 っ た講 義 の 聞 書 筆 録 を 整 理 し て 成 っ た も の で は あ る ま い か と 筆 者 ( 阿 部 隆 一 氏 ― 筆 者 注 ) は 秘 に 推 測 し て い る 。 即 ち 皇 侃 義 疏 は そ の性 格 上 、 六 朝 時 代 に 於 け る 、 言 わ ば仮 名 抄 に該 当 する 。 此 が 室 町 時 代 の 仮 名 抄 盛 行 期 の 趣 尚 に合 致 し た こ と は 当 然で あ る 。」 と 述 べ た 。 こ れ は 、『 論 語 義 疏 』 の原 撰 本 復 原 や 旧 鈔 本 『 論 語 義 疏 』 の 性 格 、 旧 鈔 本 『 論 語 義 疏 』 の伝 本 の多 く が 室 町 時 代 の 書 写 に か か る こ と の 意 味 、 等 を 検 討 す る 上 で 極 め て 重 要 な 指 摘 で あ る 。 和島芳男氏 (( ( は、歴史学の立場から、日本中世に於ける宋学受容を歴史 的に解明した。その中で、 『論語』注釈書の受容について、 (一)奈良時 代 の 大 学 寮 に 於 い て は、 『 論 語 』 注 釈 書 と し て『 論 語 鄭 玄 注 』 と『 論 語 集解』 が用いられたこと、 (二) 平安時代中期の官人層は、明経道に代わっ て紀伝道が栄えたことから、 『五経正義』を知らず、 『論語集解』を読ま ずとも、詔勅・宣命等の起草にあずかり、四六駢儷文等の技巧によって 権門勢家の知遇を得て官途の昇進を期待するような状況で、経学の素養 が 不 充 分 で あ っ た こ と、 ( 三 ) 藤 原 頼 長 は、 『 五 経 正 義 』 や『 論 語 義 疏 』 を家司藤原成佐等と談義して習得し、養老学令所定のものより、新しい 唐 代 正 義 の 学 を 受 容 し て い た こ と、 ( 四 ) 花 園 天 皇 が『 論 語 』 談 義 を 催 すために、自ら『論語義疏』 、北宋の邢 昺 『論語正義』 、南宋の朱熹『論 語 集 注 』 並 び に『 論 語 精 義 』、 朱 氏 竹 隠 注 等 を 抄 出 し て い た こ と、 ( 五 ) 鎌倉時代には朝儀が衰退し、明経家は本来の大学寮教官としての職能が 狭められ、家学・家説の進講・伝授が主な活動になっており、醍醐寺三 宝院所蔵『論語集解』及び大東急記念文庫所蔵『論語集解』の奥書・識 語が示す如く、中原・清原両家が古注を相伝・伝授していたこと、 (六) 明応八年(一四九九)に大内義興が正平版『論語集解』五冊を覆刻した こと、 (七)足利学校には七代庠主九華によって書写された『論語集解』 一 冊・ 『 同 』 五 冊 の 二 種 が 存 し、 一 冊 本 は 別 筆 に て 皇 侃・ 邢 昺 の 疏、 新 注が書入れられており、九華以後も新古両注折衷の学風であったこと、 等を明らかにした。氏の研究により、初めて『論語』注釈書の受容が歴 史学的視点に立って考察され、古記録や奥書・識語から『論語』注釈書 受容の事実と受容層を明らかにしたことは高く評価できる。 しかし、氏の研究は、主に『論語集解』の受容についてであって、 『論 語義疏』 について多くは述べていない。古代では 『台記』 、中世では 『花 園 天 皇 宸 記 』 の 各 事 跡 に よ っ て、 『 論 語 義 疏 』 の 受 容 を 述 べ て い る が、 この両古記録に現れる事跡のみが『論語義疏』受容の実相ではなく、そ の片鱗に過ぎない。また、氏は、古記録や奥書・識語を例証としている ため、受容の事実を示すに止まり、実際に受容された『論語』注釈書の 系統・性格を解明するまでに至っていない。
一方、近年、高橋智氏 (( ( は室町時代古鈔本『論語集解』の文献学的研究 を行った。氏は、室町時代古鈔本『論語集解』の日本所在八四本、台湾 所在一〇本を詳細に原本調査し、室町時代に於ける『論語集解』の流伝、 系統を解明した。室町時代に於ける『論語集解』を、清家本系、正平版 系、義疏竄入本系に大別し、特に義疏竄入本系は寺院系のテキストに多 いことを明らかにした。更に、 (一) 室町時代中後期書写に係る旧鈔本 『論 語義疏』と、足利学校ないしはその周辺で書写された『論語集解』等の 漢籍古鈔本とは書式や字様に於いて類似点が認められることから、旧鈔 本『論語義疏』は足利学校を中心に発信されたもので、足利学校の学団 や 学 僧 が『 論 語 集 解 』 の 転 写 を 繰 り 返 す 過 程 で、 『 論 語 義 疏 』 等 を 吸 収 し既存の『論語集解』のテキスト内に反映させて、義疏竄入本系が形成 さ れ て い き、 室 町 時 代 後 半 期 に は こ れ が 多 く 出 現 し た こ と、 ( 二 ) 古 活 字印刷の到来とともに、清家本を基に慶長刊本が刊行されたこと、 (三) 寺院系のテキストは近世に引き継がれることはなく、後の幕末の書誌学 者や蔵書家がこれを見出すまで、世に現れることがなかったこと、等を 明らかにした。氏の研究を、日本中世に於ける『論語義疏』受容の視点 か ら 見 る と、 『 論 語 義 疏 』 が 足 利 学 校 を 中 心 に 発 信 さ れ た こ と、 義 疏 竄 入本系『論語集解』が寺院系のテキストに多いこと、を解明したことは 重要である。 以上、日本古代中世の『論語義疏』に関する研究の現状と課題のうち、 受 容 研 究 の そ れ に つ い て 述 べ て き た。 『 論 語 義 疏 』 に つ い て、 阿 部 氏 に よる書誌学・文献学からの指摘が見られるものの、歴史学からの和島、 書誌学・文献学からの高橋智の両氏の研究は『論語集解』が主であって、 また、足利氏は中世の儒教・儒学史、内野氏は古代に於ける経学の受容 研究、からの成果である。かかる研究状況から鑑みるに、右の諸論考が 存 す る 一 方、 『 論 語 義 疏 』 受 容 の 変 遷 を 跡 づ け る 研 究 は、 未 だ 充 分 で は ない状況と言える。 第二項 旧鈔本 『論語義疏』 の文献学的研究 近代に於ける旧鈔本『論語義疏』の文献学的研究の歴史は、主として、 第一期 武内義雄・長澤規矩也、第二期 高橋均・山口謠司、第三期 影山 輝國の諸氏に大別できる。 第一期の武内義雄・長澤規矩也の両氏の研究について述べる。 まず、武内氏 (( ( は、古典学の大前提となる本文の復原に取り組んだ。 『論 語義疏(校本) ・校勘記』 (以下、武内本と略称する)は、文明本(龍谷 大学大宮図書館写字台文庫所蔵)を底本に選定し、宝徳本(石川文化事 業財団お茶の水図書館成簣堂文庫所蔵)以下、全一〇本を対校本として、 旧鈔本『論語義疏』の本文を校勘・復原した。武内本が完成したことに より、旧鈔本『論語義疏』の文献学的研究は飛躍的に進展した。ただし、 旧鈔本『論語義疏』の性格については究明していない。この他、武内氏 の「梁皇侃論語義疏について」は、武内本に於いて校勘に用いた旧鈔本 『論語義疏』諸本を解説するとともに、 『論語義疏』の原形・来歴等を考 察 し た も の で あ る。 ま た、 「 論 語 皇 疏 校 訂 の 一 資 料 ─ 国 宝 論 語 総 略 に つ い て ─ 」 及 び「 国 宝 論 語 総 略 に つ い て 」 は、 『 論 語 義 疏 』 の 原 形 を 窺 知 せ し め る 資 料 と し て、 曼 殊 院 門 跡 寄 託 京 都 国 立 博 物 館 保 管『 論 語 総 略 』 を考察し、校勘資料としての有効性を説いたものである。 これに対して、長澤氏 ((( ( は「論語義疏伝来に関する疑問」に於いて、旧 鈔本『論語義疏』は唐鈔本に由来するテキストとする一般的な認識に対 し、 『 経 典 釈 文 』 所 引 皇 侃 疏 が 旧 鈔 本『 論 語 義 疏 』 と 一 致 し な い こ と、 台北国立故宮博物院所蔵盈進齋本以外の旧鈔本『論語義疏』は北宋の邢 昺 疏を含んでいること、皇侃疏の原形は単疏本形式と推測されるが、単 疏本形式の鈔本が伝存していないこと、から宋刊本に由来するテキスト の可能性を提起した。 長澤氏が、研究を行う上で無批判に資料を用いることに警鐘を鳴らし、
トの選定に問題がある。 第三期の影山輝國氏 ((( ( は、武内本や高橋均氏による校本の不備を補訂す る目的から研究を行い、現在も進行中である。氏は、 「『論語義疏』校定 本 及 校 勘 記 ─ 皇 侃 自 序 」 及 び「 『 論 語 義 疏 』 校 定 本 及 校 勘 記 ─ 何 晏 集 解 序疏─」に於いて、台北国立故宮博物院所蔵本を含め、三六本の旧鈔本 『 論 語 義 疏 』 の 悉 皆 調 査 を 行 い、 三 六 本 の 他、 武 内 本 及 び 根 本 武 夷 校 正 寛延三年(一七五〇)刊本の二本を含めて校勘を行った。氏の研究は、 現時点での旧鈔本『論語義疏』の文献学的研究の到達点と言っても過言 ではなかろう。 なお、氏による 「翻刻 『論語義疏』 (大槻本) ─皇侃自序─」 並びに 「翻 刻『 論 語 義 疏 』( 大 槻 本 ) ─ 何 晏 集 解 序 疏 ─ 」 は、 旧 鈔 本『 論 語 義 疏 』 の悉皆調査の過程で得た成果を提出したもので、室町時代の釈家に於け る『論語義疏』の解釈や外典解釈を窺う上で重要な資料となろう。 また、右の影山氏及び洲脇武志氏・齋藤建太氏による「翻刻『論語義 疏』 (大槻本)─学而篇・為政篇─ ((( ( 」は影山氏の翻印の続編である。 他 方、 洲 脇 氏 ((( ( は、 「 市 島 本『 論 語 義 疏 』 跋 文 に つ い て 」 に 於 い て、 市 島謙(一八二九~一八八四)の書写にかかる新潟県新発田市の市島酒造 株 式 会 社 市 島 史 料 館 所 蔵『 論 語 義 疏 』( 以 下、 市 島 本 と 略 称 す る ) の 跋 文 の 翻 字 及 び 書 き 下 し を 行 い、 ( 一 ) 狩 谷 棭 齋 湯 島 求 古 楼 蔵 本( 以 下、 求古楼本と略称する)→丹羽思亭本→市島本、の如き書承関係、すなわ ち求古楼本は市島本の祖本と推定し、更に求古楼本は天正年間(一五七 三 ~ 一 五 九 二 ) に 書 写 さ れ た も の で あ っ た こ と、 ( 二 ) 慶 應 義 塾 図 書 館 所蔵天文本は丹羽思亭の門人円山善甫によって発見され、当初は完本で あったこと、 (三) 「求古楼 〔本〕 は邢 昺 正義の竄入が無く、根本刊本序文に極 めて類似した序文が備わっていた可能性がある」こと、を指摘した。 これまで、旧鈔本『論語義疏』の文献学的研究の現状と課題を述べて きたが、本稿に関わる特に重要な点を示すならば、以下の通りである。 『論語義疏』 の本文復原は、武内氏が先鞭をつけ、その成果を高橋均・ 影山の両氏が批判的に継承したが、三氏に共通して言えるのは、何れも 旧鈔本 『論語義疏』 相互の校勘であり、室町時代の時点での 『論語義疏』 の 復 原 に 止 ま っ て い る。 し か し、 『 論 語 義 疏 』 は 早 く 奈 良 時 代 よ り 講 読 されていたのであり、従ってこのことを視野に入れた本文復原の試みが 求められよう。なお、阿部氏が、鎌倉時代書写にかかる『周易注疏其他 雑抄』所引『論語義疏』について、その性格並びに『論語義疏』の本文 校勘資料としての有効性を唱えたことは、高く評価できる。 第三項 本稿の視角 以上、先行研究の現状と課題を述べてきたが、ここで先行研究の問題 点を次にまとめると、 ① 武内氏は、旧鈔本『論語義疏』の性格を解明せずに本文の校勘・ 復原作業を行ったこと ② 旧鈔本『論語義疏』の性格について、長澤氏が宋刊本に由来する 可能性を提起し、これを承けて山口氏が宋刊本説を主張するが、 一方、高橋均氏は唐鈔本に由来することを主張し、宋刊本・唐鈔 本の両説が併存すること ③ 高橋均・山口の両氏が日本古典籍所引『論語義疏』を検討材料と する際の、日本古典籍のテキスト選定に問題があること ④ 武内・高橋均・影山の三氏による旧鈔本『論語義疏』の校勘・復 原は、室町時代の時点の校勘・復原に止まっていること の四点を指摘することができる。 これらの問題点を解決するには次の方法が考えられる。 ① ②④については、日本古典籍に引く『論語義疏』を捜索し、その 引用文と、旧鈔本『論語義疏』とを比較検討すること。 ③ については、無批判に活字本をテキストに用いず、良質な写本を
用いること。 以上の方法を用いることによって、日本古代に於ける『論語義疏』受 容の実相が歴史的に解明されると思われるのであるが、歴史学の立場か ら 日 本 漢 籍 史 研 究 を 行 っ た 太 田 晶 二 郎 氏 ((( ( は、 漢 籍 史 の 研 究 を 行 う に 当 た っ て、 「 先 づ、 ど の よ う な・ ど の 漢 籍 が い つ ご ろ 日 本 に 伝 来 し て 我 が 国にたしかに存在し世に流布通行してゐたかを明確にして置くことこそ 第一に必要である」と述べている。 右の太田氏の言に、筆者は独自に 「誰 (如何なる階層) が受容したか」 を加えたい。これを本稿の課題である『論語義疏』に当てはめるならば、 (一) 『論語義疏』を含む如何なる『論語』注釈書が受容されたか (二)いつごろ日本に『論語義疏』が伝来したか (三) 誰 が『 論 語 義 疏 』 を 受 容 し た か、 な い し は 如 何 な る 階 層 が 受 容したか (四)受容された『論語義疏』は如何なる性格であるか と な る。 ( 一 )~ ( 四 ) を 究 明 す る に は、 〈 A 〉 日 本 古 代 典 籍 か ら『 論 語 義疏』の引用文辞を博捜し、その性格を解明すること、 〈 B 〉『論語義疏』 を引く古代典籍の性格、成立時期、及び撰者周辺の人的関係を追究する こと、 〈 C 〉古代の蔵書目録から『論語義疏』を捜索すること、 〈 D 〉古 代の古記録から『論語義疏』受容の事跡を渉猟すること、等が必要であ る。 こ れ ら の う ち、 〈 A 〉 に つ い て は、 旧 稿 ((( ( で 明 ら か に し た の で、 本 稿 では〈 B 〉~ 〈 D 〉について考察し、日本古代に於ける『論語義疏』受容 の 諸 相 の 解 明 を 企 図 し て い る。 〈 A 〉~ 〈 D 〉 を 総 合 す る こ と に よ り、 日 本古代に於ける『論語義疏』受容の実相が歴史的に解明されるであろう。
❷
日本古代典籍
に
見る
『論語』
注釈書受容の実相
日本古代に於ける漢籍の受容並びに利用状況を考察する上で、漢籍の 学習についても知る必要があろう。その手がかりとなる次の如き資料が ある。 『 養 老 令 』 に は、 経 学 を 学 ぶ 上 で 使 用 す べ き 注 釈 書 が 規 定 さ れ て お り、 これを次に示すと、 『令義解』巻三・学令第十一 ((( ( に、 凡敎授正業、周易鄭玄・王弼注、尚書孔安國・鄭玄注、三禮・毛 詩鄭玄注、左傳服虔・杜預注、孝經孔安國・鄭玄注、論語鄭玄・ 何晏注、 とあり、学令に大学寮で教授すべき書が規定されている。その中で『論 語』については、後漢の鄭玄(一二七~二〇〇)の『論語鄭玄注』と何 晏の『論語集解』が規定されている。 では、 『養老令』の基となった唐令 ((( ( を見ると、 諸敎授正業、周易鄭玄・王弼注、尚書孔安國・鄭玄注、三禮・毛 詩鄭玄注、左傳服虔・杜預注、公羊何休注、穀梁范 注、論語鄭 玄・何晏注、孝經孔安國・鄭玄注、老子河上公注、 と あ り、 や は り、 『 論 語 』 注 釈 書 に つ い て は『 養 老 令 』 と 同 一 の『 論 語 鄭玄注』と何晏の『論語集解』が規定されている。本稿で取り上げてい る『 論 語 』 注 釈 書 に つ い て は、 『 養 老 令 』 と 唐 令 は 異 同 が な く、 前 者 は 後者を踏襲したものと推測される。 しかし、学令に規定された漢籍のみが流布し講読されたと見ることが できるだろうか。 後述の如く、日本古代典籍には、皇侃の『論語義疏』も数多く引用さ れ て い る。 そ こ で、 日 本 古 代 の『 論 語 』 注 釈 史 上 に 於 け る『 論 語 義 疏 』 の相対的位置を大局的に究明するため、既に『論語義疏』の引用文辞の 性格について検討した、 『令集解』 ・『弘決外典鈔』 ・『政事要略』 ・『令義解』 「 上 令 義 解 表 」( 以 下、 「 上 表 文 」 と 略 称 す る ) 等 の 注 釈 の、 各 書 に 引 用 される『論語』注釈書の一覧を以下に掲げ、 『論語』注釈書の受容の状況、 及びその中での『論語義疏』の位置を考察していく。なお、 『政事要略』と密接な関係にある『小野宮年中行事裏書』に引用される『論語』注釈 書も検討材料に加える。 第一項 『令集解』 諸説 貞観年間 (八五九~八七七) に明法博士惟宗直本により編纂された 『令 集解』に引用される『論語』注釈書は全四三箇条認められる。以下の表 (に列挙する。 表 1 『論語』 注釈 書名 篇名 『令集解』 の令名 ・ 条名 『令集解』 諸説名 頁数─行数 ( 集解 八佾 官位令 或云 (─ ( ( 集解 子路 官位令 或云 (─ ( ( 集解 尭曰 職員令 ・ 神祇官条 或云 ((─ (行間書入 ( 論語 (経文) 八佾 職員令 ・ 神祇官条 或云 ((─ (行間書入 ( 義疏 八佾 職員令 ・ 中務省 ・ 画工司条 釈 ((─ (左 ( 集解 微子 職員令 ・ 民部省条 古記 ((─ (右 ( 集解 雍也 職員令 ・ 左衛士府条 釈 (((─ (右 ( 義疏 雍也 職員令 ・ 左衛士府条 古記 (((─ (右 ( 義疏 皇序 後宮職員令 ・ 書司条 古記 (((─ (左 (0 義疏 為政 東宮職員令 ・ 東宮傅条 古記 (((─ (右 (( 集解 為政 僧尼令 ・ 徳行釈 釈 (((─ (左 (( 集解 為政 僧尼令 ・ 徳行釈 古記 (((─ (右 (( 義疏 八佾 戸令 ・ 聴養条 釈 (((─ (左 (( 義疏 為政 戸令 ・ 国遣行条 讃 ((0─ (右 (( 集解 雍也 ・ 子張 戸令 ・ 国遣行条 古記 (((─ (右 (( 集解 学而 戸令 ・ 国遣行条 古記 (((─ (左 (( 集解 学而 戸令 ・ 国遣行条 古記 (((─ (右 (( 論語 (経文) 学而 ・ 公冶長 戸令 ・ 国遣行条 古記 (((─ (右 (( 論語 (経文) 学而 戸令 ・ 国遣行条 讃 (((─ (左 (0 論語 (経文) 公冶長 戸令 ・ 国遣行条 古記 (((─ (右 (( 集解 公冶長 戸令 ・ 国遣行条 古記 (((─ (左 (( 義疏 子路 田令 ・ 園地条 古記 (((─ (右 (( 論語 (経文) 子路 田令 ・ 賃租条 古記 (((─ (右 (( 集解 郷党 賦役令 ・ 調絹絁条 古記 (((─ (右 (( 集解 八佾 賦役令 ・ 辺遠国条 釈 (0(─ (右 (( 義疏 先進 賦役令 ・ 孝子条 古記 (((─ (左 (( 集解 為政 学令 ・ 釈奠条 釈 (((─ (右 (( 集解 為政 学令 ・ 釈奠条 古記 (((─ (左 (( 義疏 述而 学令 ・ 在学為序条 釈 (((─ (右 (0 義疏 述而 学令 ・ 在学為序条 古記 (((─ (右 (( 論語 (経文) 先進 選叙令 ・ 応選条 古記 (((─ (左 (( 義疏 陽貨 選叙令 ・ 郡司条 釈 (((─ (右 (( 集解 子罕 選叙令 ・ 秀才進士条 釈 (0(─ (右 (( 集解 公冶長 継嗣令 ・ 定嫡子条 釈 (((─ (右 (( 論語 (経文) 子路 継嗣令 ・ 定嫡子条 古記 (((─ (左
以上を、まず、 『論語』注釈書ごとに分類すると、 『論語集解』が二〇 箇 条、 『 論 語 義 疏 』 が 一 三 箇 条 そ れ ぞ れ 認 め ら れ る。 な お、 経 文 を 引 用 するのみで、如何なる『論語』注釈書を利用しての引用か判断し難いも のが一〇箇条存する。 次に、これらを明法家による大宝・養老令の諸説ごとに分類する。 「 古 記 」 全 二 三 箇 条 の う ち、 『 論 語 集 解 』 が 一 〇 箇 条、 『 論 語 義 疏 』 が 七箇条それぞれ認められる。また、経文のみを引用するものが六箇条存 する。 「 釈 」 全 一 三 箇 条 の う ち、 『 論 語 集 解 』 が 七 箇 条、 『 論 語 義 疏 』 が 五 箇 条それぞれ認められる。また、経文のみを引用するものが一箇条存する。 「讃」全二箇条のうち、 『論語義疏』が一箇条認められるに過ぎず、 『論 語集解』の引用は認められない。また、経文のみを引用するものが一箇 条存する。ただし、引用条数が少ないので、利用実態の分析には適しな い。 「 或 云 」 全 四 箇 条 の う ち、 『 論 語 集 解 』 が 三 箇 条 認 め ら れ る が、 『 論 語 義疏』の引用は認められない。また、経文のみを引用するものが一箇条 存 す る。 た だ、 「 或 云 」 の 撰 述 者 や 成 立 期 が 詳 か で は な く、 利 用 実 態 の 詳細は不詳である。 これらをまとめると、次の如き事柄が言えよう。 第一に、先の表 (のうち、 「古記」による引用と見られる『論語義疏』 は、 (・ (・ (0・ ((・ ((・ (0・ ((の七箇条が存する。このことから、 「古 記」成立期である天平一〇年(七三八)頃 ((( ( には既に『論語義疏』が日本 に伝来していたことは明らかである。 第 二 に、 「 古 記 」 並 び に 延 暦 六 ~ 一 〇 年( 七 八 七 ~ 七 九 一 ) 頃 に 成 立 した「釈 ((( ( 」ともに、 『論語義疏』の他、 『論語集解』が『論語』注釈書と して、利用されている。 「古記」 ・「釈」 何れも 『論語集解』 が 『論語義疏』 に 比 し て 引 用 条 数 が や や 多 い も の の、 八 世 紀 に 於 い て は、 『 論 語 集 解 』 と『論語義疏』の利用は ほ ぼ拮抗していたことが看取される。 以上の如く、 『論語義疏』は八~九世紀を通じて、 「古記」 ・「釈」 ・「讃」 の明法官人に利用された。 第二項 『弘決外典鈔』 正暦二年(九九一)に村上天皇の第七皇子具平親王により撰述された 『 弘 決 外 典 鈔 』 に 利 用 さ れ る『 論 語 』 注 釈 書 は 全 一 六 箇 条 認 め ら れ る。 (( 義疏 為政 考課令 ・ 五常事 釈 (((─ (右 (( 論語 (経文) 先進 考課令 ・ 徳義者内外称事 古記 (((─ (右 (( 義疏 為政 考課令 ・ 徳義者内外称事 古記 (((─ (右 (( 論語 (経文) 里仁 考課令 ・ 最条 古記 (((─ (右 (0 集解 雍也 考課令 ・ 最条 釈 (((─ (左 (( 集解 為政 考課令 ・ 最条 古記 (((─ (左 (( 論語 (経文) 子張 考課令 ・ 最条 釈 (((─ (左 (( 集解 子路 考課令 ・ 最条 古記 (((─ (左 凡例 ○ 当 該 表 の 作 成 に 当 た っ て は、 『 令 集 解 』 の 底 本 に 新 訂 増 補 国 史 大 系 二 三巻 『令集解』 前篇 (一九六六年、吉川弘文館) 、同二四巻 『令集解』 後篇(一九六六年、吉川弘文館)を用いた。 ○ 『令集解』 の該当箇所は、新訂増補国史大系本の頁数・行数・双行の 左右によって示した。 (例) 「 ((─ (左」は、 「 ((頁 (行左」を指す。 ○ な お、 当 該 表 の 作 成 に 当 た っ て、 戸 川 芳 郎・ 新 井 榮 藏・ 今 駒 有 子 編 『 令 集 解 引 書 索 引 』( 一 九 九 五 年 訂 正 版、 汲 古 書 院 ) 及 び 奥 村 郁 三 編 著『 令 集 解 所 引 漢 籍 備 考 』( 〈 関 西 大 学 東 西 学 術 研 究 所 研 究 叢 刊 一 四 〉 二〇〇〇年、関西大学出版部)を参考にした。
以下の表 (に列挙する。 先の表 (を『論語』 注釈書ごとに分類すると、 『論語義疏』 が八箇条、 『論 語 集 解 』 が 五 箇 条、 『 論 語 鄭 玄 注 』 と 見 ら れ る も の が 一 箇 条 そ れ ぞ れ 認 められる。なお、経文を引用するのみで、如何なる『論語』注釈書を利 用しての引用か判断し難いものが二箇条存する。 『弘決外典鈔』に於ける『論語』注釈書の利用は、 『論語義疏』が『論 語集解』に比して、やや上回るものの、両書は ほ ぼ拮抗していたと見る ことができよう。 以 上 の 如 く、 村 上 天 皇 第 七 皇 子 の 具 平 親 王 は、 『 止 観 輔 行 伝 弘 決 』 所 引 外 典 を 講 究 す る た め に、 『 論 語 義 疏 』・ 『 論 語 集 解 』 等 を 利 用 し た。 こ れについては、第三章で後述する。 第三項 『政事要略』 長保二年(一〇〇二)に明法博士惟宗(令宗)允亮により撰述された 『 政 事 要 略 』 に 引 用 さ れ る『 論 語 』 注 釈 書 は 全 一 八 箇 条 認 め ら れ る。 以 下の表 (に列挙する。 表 2 『論語』 注釈書名 篇名 『弘決外典鈔』 の巻数 ・ 篇数 (『止観輔行伝弘 決』 の巻数) 頁数─行数 備考 ( 集解 子罕 巻一 序 (下─ ( ( 義疏 衛霊公 巻一 序 (上─ (0 ( 義疏 季氏 巻一 一 ((下─ ( 疏文を利用した案語 ( 義疏 季氏 巻一 一 ((下─ ( 疏文を利用した案語 ( 義疏 季氏 巻一 一 ((下─ ( 疏文を利用した案語 ( 義疏 雍也 巻一 二 ((上─ (( ( 集解 先進 巻一 二 ((下─ ( ( 鄭玄注 衛霊公 巻一 二 ((下─ (( ( 集解 学而 巻二 三 ((上─ (( (0 集解 為政 巻二 四 ((上─ ( (( 義疏 陽貨 巻三 五 (0下─ ( (( 義疏 微子 巻三 五 ((下─ ( (( 集解 里仁 巻三 六 ((上─ ( (( 義疏 子罕 巻三 六 ((上─ ( (( 論語 (経文) 為政 巻四 八 (0上─ ( (( 論語 (経文) 為政 巻四 八 (0上─ (( 凡例 ○ 当 該 表 の 作 成 に 当 た っ て は、 『 弘 決 外 典 鈔 』 の 底 本 に 天 台 宗 典 編 纂 所 編 『続天台宗全書 顕教 3 弘決外典鈔 玄義・文句外勘鈔』 (一九八年、 春秋社)を用いた。 表 3 『論語』 注釈 書名 篇名 『政事要略』 の巻数 ・ 篇名 頁数─行数 備考 ( 集解 郷党 巻二九 年中行事十二月下 (追儺) ((0─ (( 旧記所引 ( 義疏 郷党 巻二九 年中行事十二月下 (追儺) (((─ ( 旧記所引 ○ 『弘 決 外 典 鈔 』 の 該 当 箇 所 は、 続 天 台 宗 全 書 本 の 頁 数・ 上 下 段 の 別・ 行数によって示した。 (例) 「 6 下─ 3 」は、 「 6 頁下段 3 行」を指す。 ○ な お、 当 該 表 の 作 成 に 当 た っ て、 尾 崎 康「 弘 決 外 典 鈔 引 書 考 並 索 引 」 (『斯道文庫論集』三輯、一九六四年)を参考にした。
以上を『論語』注釈書ごとに分類すると、 『論語集解』が六箇条、 『論 語義疏』が四箇条、 『論語図』が三箇条、 『論語図注』が一箇条それぞれ 認められる。なお、経文を引用するのみで、如何なる『論語』注釈書を 利用しての引用か判断し難いものが四箇条存する。 傾向として、次の如きことが言える。 第 一 に、 『 論 語 集 解 』 が『 論 語 義 疏 』 に 比 し て 引 用 条 数 が 若 干 多 い も の の、 両 書 の 引 用 は ほ ぼ 拮 抗 し て い る。 従 っ て、 惟 宗 允 亮 は、 『 論 語 』 注 釈 書 と し て、 『 論 語 義 疏 』 と『 論 語 集 解 』 を 充 分 に 活 用 し て い た こ と がわかる。 第 二 に、 『 政 事 要 略 』 に 引 用 さ れ る『 論 語 義 疏 』 の う ち、 表 (の (に ついては 「旧記」 を介して、惟宗允亮が引用したと見られる。その他 「旧 記」を介しての『論語』注釈書の引用には、 『論語集解』が一箇条、 『文 選李善注』に引く『薛綜注張衡二京賦』と推測される注釈を介して経文 のみの引用 ((( ( が一箇条、それぞれ認められる。 第 三 に、 「 私 教 類 聚 」 並 び に「 骨 」 を 介 し て『 論 語 集 解 』 の 引 用 が 認 め ら れ る。 「 私 教 類 聚 」 は 吉 備 真 備( 六 九 五 ~ 七 七 五 ) に よ っ て 神 護 景 雲三年 (七六九) 頃に撰述された教訓書である ((( ( 。「骨」 は唐の永徽四年 (六 五三)以後、唐末までに成立した唐律疏の注釈書『律疏骨 録』で、貞 観(八五九~八七七)以後寛弘(一〇〇四~一〇一二)以前に日本へ伝 来したものである ((( ( 。両書は佚書となっており、佚文として片鱗が残るに ( 論語 (経文) 郷党 巻二九 年中行事十二月下 (追儺) (((─ (0 旧記所引文選李善 注に引く薛綜注張 衡二京賦カ ( 論語図 不明 巻二九 年中行事十二月下 (追儺) (((─ ( 佚書 ( 義疏 憲問 巻六七 糺弾雑事 (男女衣 服并資用雑物) ((0─ (( ( 集解 陽貨 巻六七 糺弾雑事 (男女衣 服并資用雑物) (((─ (( 或云所引カ ( 集解 郷党 巻六七 糺弾雑事 (男女衣 服并資用雑物) ((0─ ( 或云所引カ ( 義疏 郷党 巻六七 糺弾雑事 (男女衣 服并資用雑物) ((0─ (( ( 義疏 八佾 巻六八 糺弾雑事 (至敬拝 礼下馬) (((─ ( (0 集解 尭曰 巻八一 糺弾雑事 (断罪) (((─ ( (( 集解 八佾 巻八二 糺弾雑事 (罪名并 贖銅八虐六議) (((─ (~ ( 行間書入 骨云所引 (( 論語図 不明 巻八二 糺弾雑事 (罪名并 贖銅八虐六議) (((─ ( 佚書 (( 論語図 不明 巻八二 糺弾雑事 (罪名并 贖銅八虐六議) (((─ ( 佚書 (( 論語図注 不明 巻八二 糺弾雑事 (罪名并 贖銅八虐六議) (((─ ( 佚書 (( 論語 (経文) 憲問 巻八二 糺弾雑事 (罪名并 贖銅八虐六議) (((─ ( 三礼図所引 (( 集解 憲問 学而 衛霊公 季氏 子張 巻八四 糺弾雑事 (自首覚 挙) (((─ (( 私教類聚所引 (( 論語 (経文) 衛霊公 巻九五 至要雑事 (学校) ((0─ ( 私教類聚所引 (( 論語 (経文) 里仁 巻九五 至要雑事 (学校) ((0─ ( 私教類聚所引 凡例 ○ 当 該 表 の 作 成 に 当 た っ て は、 『 政 事 要 略 』 の 底 本 に 新 訂 増 補 国 史 大 系 二八巻『政事要略』 (一九六四年、吉川弘文館)を用いた。 ○ 『政事要略』 の該当箇所は、新訂増補国史大系本の頁数・行数によっ て示した。 (例) 「 ((0─ ((」は、 「 ((0頁 ((行」を指す。 ○ な お、 当 該 表 の 作 成 に 当 た っ て、 木 本 好 信・ 大 島 幸 雄・ 正 野 順 一・ 吉 永 良 治 編『 政 事 要 略 総 索 引 』( 一 九 八 二 年、 国 書 刊 行 会 ) 及 び 阿 部 猛編『詳細 政事要略索引』 (二〇〇七年、同成社)を参考にした。
過ぎない。 第 四 に、 『 論 語 図 』 及 び『 論 語 図 注 』 か ら の 引 用 が 認 め ら れ る が、 両 書 が 中 国 に 於 け る 撰 述 か 日 本 に 於 け る 撰 述 か は 未 詳 で あ る。 『 論 語 義 注 図』一二巻が『隋書』経籍志に著録されている ((( ( ものの、これと両書との 関係は不明である。 以上のことから、惟宗允亮は、朝儀・吏務の先例を明らかにするため に、少なくとも『論語義疏』並びに『論語集解』等の『論語』注釈書を 利用したことが明らかである。 第四項 『小野宮年中行事裏書』 『小野宮年中行事裏書 ((( ( 』(長元二年〈一〇二九〉以後成立)は、右大臣 小野宮家藤原実資(九五七~一〇四六)が撰した『小野宮年中行事』に 実資自らが加えた裏書・首書を書写したものである。 『 小 野 宮 年 中 行 事 裏 書 』 に 引 用 さ れ る『 論 語 』 注 釈 書 は 次 の 表 (に 掲 げた如く、一箇条のみ認められる。 『論語義疏』の引用が一箇条認められるに過ぎず、 『論語』注釈書の利 用 傾 向 を 見 る の は 難 し い。 実 資 は、 『 小 野 宮 年 中 行 事 』 を 編 纂 す る に 当 た り、 『 政 事 要 略 』 を 参 考 に し て い た こ と、 ま た 実 資 の 依 頼 に よ り『 政 事要略』の編纂が企図された可能性があること等が先学により指摘され て い る ((( ( 。 本 引 用 は、 実 資 が、 『 政 事 要 略 』 に 引 用 さ れ た『 論 語 義 疏 』 を 参照し、裏書として書入れた可能性がある。 第五項 『令義解』 「上表文」 等の注釈 『 令 義 解 』 は、 天 長 一 〇 年( 八 三 三 ) に 淳 和 天 皇 の 詔 を 受 け て、 右 大 臣清原夏野・文章博士菅原清公等によって編纂された『養老令』の公的 注釈書である。 『令義解』 「上表文」等の注釈に、 『論語』注釈書の引用は、 全四箇条認められる。以下の表 (に示す。 これらを『論語』注釈書ごとに分類すると、 『論語集解』 、『論語義疏』 が各一箇条認められる。なお、経文を引用するのみで、如何なる 『論語』 注釈書を利用しての引用か判断し難いものが二箇条存する。 表 5 『論語』 注釈書名 篇名 『令義解』 の引用箇所 頁数─行数 ( 論語 (経文) 憲問 詔令義解頒下 (((─ (左 ( 義疏 雍也 上令義解表文 (((─ (右 ( 集解 子路 上令義解表文 (((─ (左 ( 論語 (経文) 序 令義解序 (((─ (右 凡例 ○ 当 該 表 の 作 成 に 当 た っ て は、 『 令 義 解 』 の 底 本 に 新 訂 増 補 国 史 大 系 二 二巻『律・令義解』 (一九六六年、吉川弘文館)を用いた。 ○ 『令義解』 の該当箇所は、新訂増補国史大系本の頁数・行数・双行の 表 4 『論語』 注釈書名 篇名 丁数─行数 ( 義疏 八佾 (裏─ ( 凡例 ○ 当 該 表 の 作 成 に 当 た っ て は、 『 小 野 宮 年 中 行 事 裏 書 』 の 底 本 に 鹿 内 浩 胤 「『小野宮年中行事裏書』 (田中教忠旧蔵 『寛平二年三月記』 ) 影印・ 翻 刻 」( 『 禁 裏・ 公 家 文 庫 本 研 究 』 一 輯、 二 〇 〇 三 年 ) 所 収「 翻 刻 」 を用いた。 ○ 『小 野 宮 年 中 行 事 裏 書 』 の 該 当 箇 所 は、 右 の「 翻 刻 」 に 付 さ れ た 原 本 の丁数、表裏の別、及び行数によって示した。 (例) 「 (─裏 (」は、 「第 (丁裏 (行」を指す。
『論語集解』 並びに 『論語義疏』 の引用が一箇条づつ認められるのは、 「上 表文」 の注釈である。 「上表文」 の注釈の成立期・撰者は明らかではない。 ただし、鎌倉時代書写に係る広橋本『令義解』に「上表文」の注釈が 存することから、鎌倉時代以前には「上表文」の注釈が成立していたこ とは明らかである。更に、そこに『論語集解』と『論語義疏』の引用が 認められることから、この両書の引用も鎌倉時代以前に存在したものと 見て大過なかろう。この時代に於いても『論語義疏』が利用されていた ことが窺われる。 第六項 小結 以上、 『令集解』 ・『弘決外典鈔』 ・『政事要略』 ・『小野宮年中行事裏書』 ・ 『令義解』 「上表文」等の注釈、の各書に引用される『論語』注釈書につ いて考察した結果、 『養老令』学令では、 『論語鄭玄注』並びに『論語集 解』のみ規定されているが、学令の規定は、日本古代の論語学の実状を 反映したものではなく、唐令の規定を踏襲したものと推定される ((( ( 。従っ て、日本古代に於いて『論語集解』と『論語義疏』はともに広く流布し、 受容された。更に、両書は日本古代の論語学並びに『論語』注釈史上、 比 肩 す る 存 在 で あ り、 『 論 語 図 』 及 び『 論 語 図 注 』( と も に『 政 事 要 略 』 所引)等の他の『論語』注釈書に比して、圧倒的に受容されたものと言 える。 なお、 『弘決外典鈔』前掲表 (の (は、 『論語鄭玄注』を単独で引用す るかに見受けられるが、 『論語鄭玄注』は単独の成書としては受容されず、 『 論 語 集 解 』 も し く は『 論 語 義 疏 』 を 介 し て 間 接 引 用 し た も の と 推 測 さ れる ((( ( 。
❸
日本古代
に
於ける
『論語義疏』
受容の諸相
本章では、日本古代に於ける『論語義疏』の受容の諸相について見て いく。 日本古代での 『論語義疏』 の受容の実相と変遷を把捉するには、 (一) 日本古代典籍に引く 『論語義疏』 、(二) 古記録に現れる 『論語義疏』 、(三) 蔵書目録への著録状況を捜索し、検証する必要がある。併せて、次の表 (に掲出した日本古典籍の撰述者等とその周辺の人的交流・環境につい ても考察していく。 管見の及ぶところ捜索し得た『論語義疏』の存在を現す事象を、時系 列に従って、以下の表 (に掲げる。 表 (に掲げる他、寛弘四年(一〇〇七)に源為憲によって撰せられた 『世俗諺文』 にも 『論語疏』 の引用が存する。ただし、これは、皇侃の 『論 語義疏』 以外の疏、例えば、六朝梁の褚仲都 (生歿年不詳) の 『論語疏』 一〇巻を想定することも可能であるが、俄かには同定し難い ((( ( 。 表 6 書名 撰者名 成立年代 所蔵者 備考 ( 「古記」 (『令集解』 所引) 天平一〇年 (七三八) 頃 国立公文書館内 閣文庫 ・ 国立国 会図書館 ・ 宮内 庁書陵部 ・ 国立 歴史民俗博物館 等 ( 「釈」 (『令集解』 所引) 延暦六~一〇年 (七八七~七九一) 頃 同右 ( 「讃」 (『令集解』 所引) 弘仁 ・ 貞観期 (八一〇~八七七) 頃 同右 ( 『秘密曼荼羅十 住心論』 空海 天長七年 (八三〇) 頃 高山寺 ・ 高野山 金剛三昧院 左右によって示した。 (例) 「 (((─ (左」は、 「 (((頁 (行左」を指す。先の表 (から、次のことが看取される。 『論語義疏』 が日本古代に於いて、律令 (表 (の (・ (・ (・ (・ (()・ 仏 教( (・ (・ (・ (0・ ((・ ((・ (()・ 宮 廷 儀 式( (・ ()・ 文 学( (() の 各 分 野 に 関 わ る 典 籍 に 引 用 さ れ、 親 王( ()・ 公 卿( (・ (()・ 官 人 ( (・ (・ (・ (・ (()・釈家( (・ (・ (0・ ((・ (()に広範に利用され ていたことが見て取れる。更に、釈家については、真言( (・ (0・ ((・ (()・ 南 都 仏 教( ()・ 天 台( ()・ 浄 土 教( (() の 章 疏 解 釈 の 際 等 に 利 用されていたことが言える。 以下、時系列に従って見ていこう。 八~九世紀の明法官人では、 『令集解』 所引 「古記」 が 『大宝令』 を、 「釈」 及び「讃」が『養老令』を注釈する際に『論語義疏』を利用し、それら 『 論 語 義 疏 』 の 引 用 を 含 め た 各 注 釈 を 明 法 博 士 惟 宗 直 本( 生 歿 年 不 詳 ) が『令集解』編纂(貞観年間〈八五九~八七七〉頃)に際して、利用し た。 更 に、 前 章 で 述 べ た 如 く、 『 令 集 解 』 に 引 用 さ れ る「 古 記 」 は 天 平 一〇年(七三八)頃、 「釈」は延暦六~一〇年(七八七~七九一) 、「讃」 は弘仁・貞観期(八一〇~八七七)頃にそれぞれ成立したとするのが通 説であり ((( ( 、従って、 『論語義疏』の引用の初見は、 「古記」が引用するも の と 見 な し て よ か ろ う。 し て み れ ば、 『 論 語 義 疏 』 は 天 平 一 〇 年 頃 に は、 既に日本に伝来していたことは明らかである。 九世紀では、弘法大師空海(七七四~八三五)が『秘密曼荼羅十住心 論』 (天長七年〈八三〇〉頃成立)に於いて、 『論語義疏』を引用してい る。空海は、讃岐国多度郡少領佐伯田公の子息、初名は真魚と言う。伊 予親王の侍講である舅父(母方の伯叔父)の阿刀大足から、 『論語』 ・『孝 経 』、 史 伝、 文 章 等 を、 大 学 寮 に あ っ て は 直 講 味 酒 浄 成 に『 毛 詩 』・ 『 春 ( 『日本国見在書 目録』 藤原佐世 貞観一七年 (八七 五) ~寛平一〇年 (八八九) 頃 宮内庁書陵部 ( 『妙法蓮華経釈 文』 中算 貞元元年 (九七六) 醍醐寺 (『弘決外典鈔』 具平親王 正暦二年 (九九一) 久遠寺身延文 庫 ・ 称名寺等 (『政事要略』 惟宗允亮 長保四年 (一〇〇二) 大阪市立大学学 術情報センター 福田文庫等 ( 『小野宮年中行 事裏書』 藤原実資 長元二年 (一〇二九) 以後 国立歴史民俗博 物館 撰者の生歿年 九五七~ 一〇四六 (0『三教指帰注集』 成安 寛治二年 (一〇八八) 大谷大学博物館 ((『般若心経秘鍵 開門訣』 濟暹 承徳元年 (一〇九七) 高野山光台院 ・ 高野山大学図書 館増福院文庫 ・ 智積院智山書庫 ((『台記』 藤原頼長 康治元年 (一一四 二) ・ 同二年 (一一 四三) ・ 天養元年 (一一四四) ※ 国立公文書館内 閣文庫 ・ 宮内庁 書陵部等 ※『論語義疏』 講 読の事跡が認め られる年 ((『往生要集外典 鈔』 平基親 不明 真福寺宝生院真 福寺文庫 撰者の生歿年 一一五一~歿年 不詳 ((『三教指帰注』 覚明 平安時代末期~鎌 倉時代初期カ 慶應義塾図書館 撰者の生歿年不 詳 ((『和漢朗詠註略 抄』 無名カ 平安時代末期~鎌 倉時代初期カ 不明 撰者の生歿年不 詳 ((『令義解』 「上表 文」 の注釈 不明 鎌倉時代以前 国立公文書館内 閣文庫 ・ 国立歴 史民俗博物館等 ((『全経大意』 不明 不明 金剛寺 藤原頼長の学問 との近縁性が指 摘されている ((( ( 。 凡例 ○ 成 立 年 代 が 不 詳 の も の は、 参 考 と し て 備 考 覧 に 撰 者 の 生 歿 年 を 西 暦 で記した。
秋左氏伝』 ・『尚書』を、更に明経博士岡田牛養に『春秋左氏伝』をそれ ぞれ学んだ ((( ( 。本書の他、空海が撰した『三教指帰』 ・『文鏡秘府論』 ・『篆 隷万象名義』 ・『遍照発揮性霊集』の内容から、空海の漢籍・漢学の学識 が 見 て 取 れ る が、 そ の 素 地 と し て、 右 に 触 れ た 官 人 か ら 伝 授 さ れ た 漢 籍・漢学の知識があったことが言えよう。その一端を顕すのが『秘密曼 荼羅十住心論』に引く『論語義疏』であって、空海が『論語義疏』を講 読していたことは想像に難くない。更に、空海の出自も注目される。空 海は讃岐国佐伯氏の出身であり、同族には、初代東寺長者に就任した実 恵(一名、檜尾僧都・道興大師)がいた。実恵は、漢学の素養があり、 書博士佐伯葛野と同佐伯酒麻呂に儒学を学んでいる。佐伯葛野は田公の 孫、すなわち空海の甥、酒麻呂は田公の子息、すなわち空海と兄弟の関 係に当たり、また、酒麻呂の子息豊雄も書博士となっている。このよう に、讃岐国の佐伯氏から多くの書博士を輩出していることも、空海の漢 籍・漢学の学識を養う上で、基底になったと考えられるだろう。 一〇世紀後半には、中算(生歿年不詳)の撰にかかる『妙法蓮華経釈 文』の中に『論語義疏』の引用が認められる。中算は、興福寺松室貞松 房に住した学侶である ((( ( 。本書の撰述の経緯については、序 ((( ( に、藤原文範 ( 九 〇 九 ~ 九 九 六 ) の 命 を 受 け て 貞 元 元 年( 九 七 六 ) に 脱 稿 し た こ と が 記され、更に巻下末葉の奥書 ((( ( によると、清書せぬうちに中算が歿したた め、弟子の真興が師の遺命を受けて完成させ、文範に献上したことが記 されている。 本書の撰述を中算に依頼した藤原文範は、北家長良流出身の儒者で、 経歴を見ると文章生を経て、少内記・蔵人・式部少丞・式部大丞・右衛 門権佐・左少弁・右中弁・左中弁・右大弁・左大弁・参議・権中納言・ 中納言に任じられた ((( ( が、とりわけ文章生の後、内記・式部丞・弁官を歴 任したことが注目される。文範は文章生出身であるから、漢籍を学んで おり、漢籍・漢学・漢詩文に通じていたことが推測される。 本 書 は、 『 法 華 経 』 の 字 句 を 抄 出 し、 音 義 訓 釈 を 付 し た 字 書 的 性 格 を 有するものである。中算は、本書の引用漢籍を見ても、内典に止まらず 外 典( 漢 籍 )、 就 中、 訓 詁 学 に 精 達 し て い た こ と が 窺 わ れ よ う。 従 っ て、 漢唐訓詁学のうち、義疏の学の素養も当然具有していたと推測され、 『論 語義疏』の引用が認められることがそれを顕していると言えよう。更に、 書名に「釈文」の名が付されていることから、奈良時代書写と推定され て い る 興 福 寺 所 蔵『 経 典 釈 文 』( 第 十 四 礼 記 音 義 ((( ( ) と の 関 係 が 想 起 さ れ よ う。 興 福 寺 に は、 『 経 典 釈 文 』 の 他 に 奈 良 時 代 ま た は 平 安 時 代 初 期 の 書写と推定されている『講周易疏論家義記』残巻 ((( ( が蔵せられている。ま た、奈良時代から平安時代前期の興福寺の学侶善珠の 『唯識義灯増明記』 に於いても義疏類が引用されている ((( ( 。『妙法蓮華経釈文』 ・『経典釈文』 (第 十四礼記音義) ・『講周易疏論家義記』残巻や『唯識義灯増明記』は、奈 良時代から平安時代中期の南都法相宗に於いて、漢籍・漢学、とりわけ 義疏の学が講究されたことを示す証左と言えるが、その一つに『論語義 疏』の存在が窺われる。 一 〇 世 紀 末 ~ 一 一 世 紀 初 頭 に な る と、 具 平 親 王 ((( ( ( 九 六 四 ~ 一 〇 〇 九 ) による『論語義疏』の利用が顕著である。 『弘決外典鈔』 (正暦二年〈九 九一〉成立)を撰述した具平親王は、文章生から大内記となった慶滋保 胤 ((( ( や侍読の橘正通 ((( ( に師事した。 具平親王が『弘決外典鈔』を撰述した背景は、師慶滋保胤を通じて、 天台僧増賀上人に教えを受け、叡山横川に於いて止観を学んだことにあ り、ある僧侶 ((( ( に依頼されて、本書を撰し、増賀上人に贈って是正を乞う た。 具平親王は、一〇世紀末~一一世紀初頭の一条天皇の時代に於ける文 壇の中心的存在であり、経学・漢詩文・和歌・仏道・管弦・医術に通暁 し、能書家でもあった。親交があり、具平親王の書斎桃花閣 ((( ( に集ったと 思しき人物は、先の保胤・正通の他、大江匡衡・大江以言・紀斉名・源
順・源為憲・菅原資忠・藤原為時・藤原惟成等の中下級貴族である文人 達、 藤 原 斉 信・ 藤 原 公 任・ 藤 原 行 成 の 如 き 文 才 に 長 け た 公 卿 達 で あ る。 具平親王が該博な学殖に裏打ちされた比類無き文人であることは言うを 俟 た な い。 更 に、 『 弘 決 外 典 鈔 』 所 引 漢 籍 ((( ( を 見 て も、 漢 籍・ 漢 学 の 素 養 が い か に 深 遠 で あ る か を 窺 い 知 れ よ う。 従 っ て、 『 論 語 義 疏 』 の 講 読 は 言うに及ばず、広範に漢籍を講読していたことは想像に難くない。また、 具 平 親 王 が 漢 籍 を 所 蔵 し て お り、 そ れ を 行 成 が 借 用 し た こ と は『 権 記 ((( ( 』 か ら 見 て 取 れ、 具 平 親 王 の 人 的 交 流 の 中 で の 漢 籍 貸 借 の 一 端 が わ か る。 具 平 親 王 の 書 斎 桃 花 閣 所 蔵 の 漢 籍 の 一 つ と し て、 『 論 語 義 疏 』 が 存 在 し た可能性が高いであろう。 一一世紀前半では、惟宗家と小野宮家の周辺で『論語義疏』の受容が 見られる。 惟宗直本の曾孫または孫と言われている ((( ( 明法博士惟宗允亮(生年不詳 ~一〇〇九頃カ)が長保四年(一〇〇二)に撰述した『政事要略』に於 いても、 『論語義疏』を利用している。 『政事要略』に引用された『論語 義疏』の多くは、類書等が介在しない直接引用と推定される ((( ( ことから、 允 亮 は、 『 論 語 義 疏 』 の 鈔 本 を 目 睹 し 得 る 環 境 に あ っ た こ と が 推 測 さ れ る こ と は 旧 稿 ② で 述 べ た。 つ ま り、 『 論 語 義 疏 』 の 鈔 本 は、 允 亮 以 前 か ら惟宗家に伝来したものであった可能性が考えられる。 他 方、 小 野 宮 家 と『 政 事 要 略 』 は 密 接 な 関 係 に あ っ た。 『 小 野 宮 年 中 行 事 裏 書 』 所 引『 論 語 義 疏 』 は、 『 政 事 要 略 』 か ら の 間 接 引 用 と 推 定 さ れ ((( ( 、実資を始めとする小野宮家の人物は、惟宗家伝来の『論語義疏』を 目睹し得る環境にあったであろうことは旧稿②で述べたが、更に一歩踏 み込んで、小野宮家にとっては、有職故実を家学として相伝する上で漢 籍・漢学の知識は必須であって、小野宮家に『論語義疏』を含む漢籍を 所蔵していたと推論することも不可能ではあるまい。 一 一 世 紀 後 半 以 降、 釈 家 に 於 け る『 論 語 義 疏 』 の 受 容 が 顕 著 に な る。 この傾向は、中世まで綿々と続く。管見の及ぶところ、その濫觴として、 濟暹 ((( ( (一〇二五~一一一五) の撰にかかる 『般若心経秘鍵開門訣』 に 『論 語義疏』が引用される。濟暹は、東密に精通し、仁和寺慈尊院に住した 学 侶 で、 南 岳 房 僧 都 と も 称 さ れ た。 濟 暹 は、 空 海 の 遺 業 を 継 い で、 『 遍 照 発 揮 性 霊 集 』 の 散 佚 し た 巻 第 八 ~ 一 〇 を『 続 遍 照 発 揮 性 霊 集 補 闕 鈔 』 三巻として編集して補い、一〇巻本とした。これが現行本『遍照発揮性 霊集』一〇巻であることは夙に知られている。その他、撰述したものは 『 遍 照 発 揮 性 霊 集 』 の 注 釈 書『 顕 鏡 鈔 』 を 始 め 六 六 部 九 五 巻 を 数 え、 学 侶として名高い。仁和寺二世門跡大御室性信入道親王(三条天皇の皇子 師明親王) から伝法灌頂を授けられた。 『続遍照発揮性霊集補闕鈔』 や『顕 鏡鈔』を撰述していることから、濟暹は漢籍・漢学に通じており、仁和 寺周辺に『論語義疏』を含む漢籍が存在していたことが推測される。 一 二 世 紀 前 半 に な る と、 『 台 記 』 の 記 主 で あ る 左 大 臣 藤 原 頼 長( 一 一 二〇~一一五六)が『論語義疏』を講読した事跡が『台記 ((( ( 』に全五箇条 認められる。 まず、頼長の周辺 ((( ( について述べる。頼長が漢籍を広範に講読し経学に 精 通 し て い た ((( ( こ と は、 『 台 記 』・ 『 台 記 別 記 』・ 『 宇 槐 記 抄 』 を 繙 け ば 誰 も が首肯できよう。 以下に、頼長が師礼をとった人物を挙げる。 ( ()『台記』の中で先師 と呼称される源師頼をまず挙げるべきであろう。師頼は弁官・蔵人頭・ 大 納 言 等 を 歴 任 し た 人 物 で、 頼 長 は、 師 頼 が 大 江 匡 房 か ら 伝 授 さ れ た 『漢書』を学んだ。また、 ( ()藤原令明は式家出身の儒者で、内記に任 じられ、また、摂関家の家司を務めた。頼長は令明から『孝経』 ・『文選 李 善 注 』 を 学 ん だ。 ( () 明 経 准 得 業 生 か ら 外 記・ 大 学 助 教 を 歴 任 し た 中 原 師 安 か ら は『 論 語 』・ 『 古 文 孝 経 』・ 『 御 注 孝 経 』 を 学 ん だ。 ( () 南 家出身で、曾祖父藤原実範以来の儒家であり、博学として知られた藤原 通 憲( 信 西 入 道 ) か ら は、 易 筮 を 学 ん だ。 ( () 頼 長 の 家 司 で あ っ た 少