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大正期から昭和戦前期の私立大学における教員養成の実態 : 東洋大学学生の傾向と卒業生の教職従事状況の分析から 利用統計を見る

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全文

(1)

大正期から昭和戦前期の私立大学における教員養成

の実態 : 東洋大学学生の傾向と卒業生の教職従事

状況の分析から

著者名(日)

豊田 徳子

雑誌名

井上円了センター年報

7

ページ

135-167

発行年

1998-07-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002663/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

大正期から昭和戦前期の私立大学における教員養成の実態

東洋大学学生の傾向と卒業生の教職従事状況の分析から

豊田徳子喜量

﹂はじめに  本稿は、大正中期から昭和戦前期の私立大学︵専門学校を含む︶における中等教員養成の実態を、東洋大学を 事例として、特に学生の傾向と卒業生の教職従事︵就職先︶状況の分析から明らかにすることを目的とする。  戦前の私立大学にとって中等教員養成に関する特典は、その存立に大きな意味を持つもののひとつであり、東 洋大学も例外ではなかった。大正末期から昭和戦前期の東洋大学の教員養成システムとその数量的変遷について はすでに考察した︵−︶。東洋大学は、明治三五二九〇二︶年の哲学館事件により無試験検定の特典を文部省から 取り消され、運営.経営上大きな打撃を受けた。明治四〇年に再び許可されてからは、学科およびその無試験検 定免許状科目を拡充させていくとともに、多数の合格者を輩出するにいたった。特に大正末以降︵ただし昭和一 一年から一三年については不明︶についてみると、専門学校令による大学部と専門部を合わせて卒業生のほぼ七割 から八割、また大学令による文学部でも同じく六割以上という高い割合で免許状を取得していたことが分かっ た。すなわち、東洋大学は、無試験検定による中等教員養成学校としての性格を持ち、また社会的にも一定の評 価を得ながら、中等教員の需要を充足させる役割の一端を確実に担っていたのである。 135 大正期から昭和戦前期の私立大学における教員養成の実態

(3)

 以上のことをふまえ、さらに教員養成の具体的な実態を明らかにするために、まず、この時期に東洋大学に入 学してきた学生、すなわち中等教員資格取得希望者の入学資格︵出身学校︶、年齢︵卒業時︶、経験・経歴等を調査 分析してその傾向をみる。次に、無試験検定による中等教員資格を取得した学生が卒業後、実際に教員としてど のような教育機関︵11学校︶に就職したのか、アウトプットの問題を調査する。これらのデータから、東洋大学 の教員養成および教育界に果たした役割とその性格・特色を明らかにしたい。調査の対象としたのは、大正七年 から昭和一二年までの専門学校令による大学部・専門部卒業︹予定︺学生四、四五六名と昭和七年から一二年ま での文学部卒業︹予定︺学生三九四名である。 136 二 学生の傾向・特色の依拠資料について  最初に、入学者の入学資格、年齢︵卒業時︶、経験・経歴等を取りあげ、どのような傾向あるいは特色を持って いるかを明らかにする。その前に依拠資料について述べておきたい。大正七︵一九一八︶年から一五二九二六︶ 年までの分については、﹃自大正五年度至大正十五年度 大学部専門部教員無試験検定有資格名簿︵教員免許状︶ 教務課﹄︵東洋大学井上円了記念学術センター資料室所蔵︶に依った︵これに基いて表1を作成︶。これは、当時の教 務課が作成した各年度の教員無試験検定の有資格者名簿を綴った簿冊である。各名簿の記載項目は、有資格者学 生の﹁氏名﹂・﹁生年月日﹂・﹁族籍﹂・﹁卒業学校名﹂・﹁受験学科﹂︵11無試験検定免許状科目︶である︵2︶。  昭和二︵一九二七︶年から九二九三四︶年までの分については、﹃東洋大学卒業生一覧﹄、昭和一〇年は﹃就 職希望者名簿﹄、昭和=年、一二年は﹃東洋大学卒業見込者名簿﹄︵いずれも井上円了センター資料室所蔵︶に依 った︵これらに基いて表2および表3を作成︶。これらの名簿類は、大学側がおこなった就職難打開のための方策

(4)

のひとつとして作成されたものである︵3︶。すなわち、これらは就職斡旋活動に大きな力を発揮するものとして、 大学側が毎年、卒業学年の学生に申告書を提出させて作成したパンフレットであり、全国の中等学校をはじめ地 方在住の校友・関係者に配布された。年度によって卒業予定学生の紹介項目の内容に精粗の差はあるが、﹁氏 名﹂・﹁本籍﹂・﹁生年月日﹂・﹁出身学校﹂・﹁特長﹂または﹁特技と経験﹂等が記載されている。就職斡旋のために 作成されたという性格から、誤植を別にして資料的には信頼できる内容のものといえる。なお、名簿に載ってい る卒業予定学生が実際に卒業したかどうかは、﹃創立一〇〇周年記念 卒業生名簿﹄︵学校法人東洋大学 昭和六二 年一〇月二八日発行︶によって確認した。 一一 鼕w生の傾面∵特色  まず、入学資格から見ていこう。この入学資格は、前記資料の﹁卒業学校名﹂または﹁出身学校﹂の事項に記 載された入学前の学歴によって知ることができる。専門学校令による大学部および専門部の入学資格には、第一 種生と第二種生の区別があった。  第一種生として第一学年に入学できる者は、以下のとおりである︵4︶。   一、中学校を卒業した者   二、専門学校入学者検定規程に依る試験検定に合格した者   三、同規程により一般の専門学校入学に関し指定を受けた者︵即ち、師範学校、実業学校其他中学程度の宗教     学校等︶  これに対して第二種生として第一学年に入学できる者は、以下のとおりである︵5︶。 137 大正期から昭和戦前期の私立大学における教員養成の実態

(5)

一、 二、 三、 四、  中等教員無試験検定の有資格に関してみると、 り、特に第一種生と第二種生との間に差はない。  また、昭和四年度から開設された大学令による文学部に入学できる者の資格は、以下のとおりである︵旦。   一、本大学予科を修了した者   二、欠員ある場合は更に下記の出身者の入学を許可する     ①高等学校高等科卒業者     ②元私立哲学館大学、専門学校令に依る東洋大学及び東洋大学専門部卒業者で大正七年文部省令第三号      第二条に依り指定された者︵倫理教育学科及び東洋文学科卒業者︶     ③大学令に依る他の大学予科修了者     ④大正七年文部省令第三号第二条に依り指定された者︵高等学校、大学予科と同等以上の卒業生︶     ⑤東洋大学が指定した女子高等師範学校および専門学校の女子卒業者︵7︶   三、願に依り退学した者で再入学を願い出た者  以上がいわゆる正規入学者であるが、この資格を充たさなくても授業料または聴講料を払って、﹁選科生﹂あ 兵役法施行令または文官任用令により中学校と同等以上と認定された学校を卒業した者 小学校本科正教員、尋常小学校正教員、小学校専科正教員若しくは小学校準教員の免許状を有する者 教員免許規程に依り授与された教員免許状を有する者 本大学に於いて大学部並びに専門部に入学できる学力があると認めた者、但し本項に該当する入学者 は、大学部並びに専門部卒業後教員無試験検定を受けることができない       第二種生の第四項での入学者以外はその資格を認められてお 138

(6)

るいは﹁聴講生﹂として入学することができ、選修科目の試験に合格した者には修了証書または聴講証書が授与 された。  表1は、専門学校令による大学部・専門部の学生について、それぞれ入学資格、年齢︵卒業時︶を一覧したも のである。大学部と専門部の違いについてふれると、大学部は専門学校令による﹁東洋大学﹂すなわち﹁大学﹂ と名乗ることが許されたものであり、専門部と入学資格は同一であるが、カリキュラム上の違いのほかに、専門 部が修業年限三力年であるのに対して、大学部は四力年であった。なお、大学部は昭和三年に大学令による文学 部の開設が許可されたのにともない、昭和六年三月限りで廃止された。  まず、大正期︵大正七年から一五年まで、ただし大正八年、=年については不明︶の大学部について、表1ー① をみると全体の有資格者数は一五〇名で、そのうち卒業者数は一四八名である。入学資格は、第一種生が一四九 名、九九・三%とほとんどを占めている。卒業時の平均年齢は、各年二一二歳から二六歳で、全体での平均は二四 歳である。大学部の修業年限は四力年なので二〇歳で入学した者が多かったといえる。また、年齢層は二〇歳代 が九六%二四四名︶とそのほとんどを占めている。  同じく専門部について表11②をみると、全体の有資格者数は四一一名で、そのうち卒業者数は四〇四名であ る。入学資格に関しては、大学部と比較して第一種生の割合は三八〇名、九二・五%とやや低く、小学校教員免 許状を持つ第二種生の割合は三一名、七・五%で、特に大正一四年に一一名、一五年に一九名と多くなっている。 卒業時の平均年齢は二五歳で、修業年限が三力年なので二二歳での入学者が多かったといえ、大学部よりも年齢 が高い。また高年齢者に四〇歳、五〇歳代の者がみえ、大正七年から一五年までの全体の年齢層は、二〇歳代が 八六二%︵三五四名︶、三〇歳代以上が=二・九%︵五七名︶となっている。このことから専門部では、一度社会 139 大正期から昭和戦前期の私立大学における教員養成の実態

(7)

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(9)

に出た後で入学してきた者、いわゆる社会人入学者の一割以上の存在をうかがうことができる。  表2は昭和期の大学部・専門部について学生の傾向・特色をみたものである。利用した資料についてすでに述 べたように、パンフレット中の﹁特長﹂または﹁特技と経験﹂の項目を調べることによって、表1でみた入学資 格と年齢のほかに、入学前の学生の経歴・経験を詳しく知ることができる。  表2ー①の大学部︵昭和二年三月から六年三月卒業まで︶についてみると、この五年間の無試験検定許可学科︵8︶ の卒業予定者数は五七七名で、そのうち卒業者数は五三四名である。入学資格は、大正期より第一種生の割合が 五〇五名、八七・五%と低くなり、小学校教員免許状を所有する第二種生が増えて、全体の二五名、四.三%を 占めている。また、第一種生中に甲種実業学校卒業者が四五名、八・九%いる。卒業時の各年の平均年齢は二四 歳から二五歳で、全体での平均は二四歳である。年齢層は、二〇歳代が九四.五%︵五四五名︶で、三〇歳代以 上が五・四%︵=二名︶となっている。学生の入学前の経験・経歴についてみると、第一種生中の免許状所有者 ︵四名︶と前述した小学校教員免許状を所有する第二種生の二五名とを合わせて、二九名、五.五%が小学校教 員の免許状を所有している。そして、それを少し上回る三三名、六二二%が実際に小学校教員の経験者となって いる。また中等教員の免許状をすでに所有している者も小学校免許状所有者と同数の二九名、五.五%いる。  同じく専門部について表2ー②︵昭和二年三月から一二年三月卒業まで︶をみると、この=年間の卒業予定者 数は三、三一八名で、そのうち卒業者数は三、=○名である。入学資格で第一種生の割合は二、八九三名、八 七・二%で大学部とほぼ同じであるが、このうち甲種実業学校の卒業者が四七九名、一六・六%を占めている。 昭和一〇年、一二年は、二〇%を越えており、実業学校からの進学者が少なくなかったことを指摘できる。また 小学校教員免許状を所有している第二種生が三二九名、九・九%と約一割を占め、昭和二年、五年は一五%以上 142

(10)

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(11)

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(12)

を占めていて、大学部よりも高い。卒業時の平均年齢は各年二三歳から二五歳で、全体での平均は二四歳であ る。年齢層を全体でみると二〇歳代は八九・七%︵二、九七六名︶、三〇歳代以上は一〇%︵三三一名︶で、これも 大学部より高い割合である。入学前の経験・経歴についてみると、第一種生と第二種生を合わせて小学校教員免 許状所有者は三七三名、=・六%と一割を超え、また小学校教員経験者は七六九名、二三・九%を占めている。 特に昭和二年から五年までは学生の三割から四割近くが小学校教員の経験者であることが注目される。  このように第一種生・第二種生を合わせて、小学校の教員免許状所有者および小学校の教員経験者が、東洋大 学の特に専門部に多く入学していることを特色としてあげることができる。これは、小学校教員であった彼ら が、小学校よりもいわゆる上級学校である中等学校の教員資格の取得を希望して、入学してきたものと考えられ る。  次に表3は、大学令による文学部︵昭和七年三月から一二年三月卒業まで︶の学生について、入学資格、年齢 ︵卒業時︶、経験・経歴等をみたものである。なお、文学部は昭和四年から開設され、修業年限は三力年であり、 第一回の卒業者が出るのは昭和七年三月である。文学部は、昭和一二年までは﹁国文学科﹂、﹁哲学科﹂、﹁仏教学 科﹂、﹁支那哲学支那文学科﹂の四学科からなっていた︵昭和一三年四月から新たに﹁史学科﹂が開設され五学科とな る︶。この六年間の卒業予定者数は三九四名で、そのうち卒業者数は三五三名である。入学資格についてみると、 正規入学者が三四五名、八七・六%を占め、その他︵聴講生・選科生・不明を含む︶は四九名、一二・四%である。 卒業時の平均年齢は、各年二四歳から二六歳、全体での平均は二五歳である。また年齢層は、二〇歳代が九二・ 一%︵三六一二名︶を占め、三〇歳代以上が七・九%︵三一名︶となっている。入学前の経験・経歴についてみると、 小学校教員免許状を所有している者は四名、一・二%、小学校教員経験者も一六名、四・六%とわずかであり、 145 大正期から昭和戦前期の私立大学にtsける教員養成の実態

(13)

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(14)

大学部・専門部と比較すると大きな違いがある。これは、文学部が、特に専門部のように資格取得目的の性格が 強くないためであろう。なお、中等教員の免許状所有者の二〇名、五・八%の多くは、専門部卒業の際、中等教 員免許を取得して、文学部に進学した者である。 四卒業生の教職従事︵就職先︶状況の依拠資料につそ  これまで東洋大学に入学した学生の傾向等についてみたが、では彼らは実際に卒業後、どのような教育機関 ︵11学校︶に就職したのか。  表1、2、3で対象とした大正七年三月から昭和一二年三月までの卒業学生について、その就職先を調査す る。この就職先の調査に利用した資料は、大正=二年度および一四年度、昭和二年度および三年度の﹃東洋大学 一覧﹄の﹁出身者一覧﹂部分、昭和六年度および一二年度の﹃東洋大学出身者名簿﹄である。これらは、大学側 が編集・発行した小冊子で、五十音順に﹁卒業生ならびに出身者の氏名﹂・﹁卒業年度﹂・﹁住所および職業﹂が記 載されている。職業は、名簿編集に際して回収できた返答分のみを掲載したと考えられるので、卒業者全員の職 業が記載されているわけではない。しかし、このように﹃卒業者名簿﹄への職業記載の理由のひとつは、卒業者 と在学生との連絡を可能にするという就職に関する便宜を大学側が考慮してのものであった。  就職先は、学生が卒業後最初に、就職した学校を採った。例えば、大正一五年三月に卒業した者の場合、昭和 二年度の﹃東洋大学一覧﹄の職業欄が中学校の教員となっていて、昭和三年度の三覧﹄では実業学校の教員と 変わっている場合は、最初の中学校の方をとった。なお、すでに注︵2︶で述べたように中等教員無試験検定を受 けた場合、検定に合格して文部省から免許状が下付されるまでに四、五カ月︵七月から八月頃︶、場合によっては 147 大正期から昭和戦前期の私立大学における教員養成の実態

(15)

それ以上の時間・月日を要したため、就職が卒業した翌年になる場合もあり、職業の記載がない者については、 卒業後数年経った三覧﹄や﹃出身者名簿﹄で調査・確認した。また、卒業後に一旦、住職や新聞記者など教員 以外の職業に就いたことが明白である場合は、数年後に教職に就いていてもこれは採らなかった。  就職先の教育機関︵11学校︶の種別は、以下のとおりに分けた。   ①中等学校︵中学校、高等女学校、師範学校、指定・認定学校︶   ②実業学校︵甲種、乙種︶   ③専門学校︵実業学校を含む︶・高等学校・大学   ④尋常高等小学校   ⑤その他︵①∼④以外の学校、例えば女学校、実業補習学校←青年学校︵昭和一〇年︶、専修学校、聾盲唖学校、幼    稚園等︶  なお、就職先は旧植民地および外国の学校︵中等学校︹高等普通学校︺、実業学校、専門学校・高等学校・大学、小 学校︹公学校︺、その他︶をも含むものとした。  右記学校のうち、例えば、文部省の指定・認定学校はどれであるのか、職業欄に書かれている﹁実科高等女学 校﹂は﹁高等女学校﹂と﹁実業学校﹂のどちらに属するかなど、各学校の種別の確認は、大正一四年度、昭和五 年度、昭和九年度の﹃日本帝国文部省年報﹄の﹁学校及図書館別一覧﹂、その他でおこなった。また、学生の中 には専門部を卒業後に大学部あるいは文学部に進学する者もいる。このため、就職先が重複して表に出ている。 大正七年から昭和一二年までの重複者は合計四三名で、その内訳は中等学校二三名、実業学校八名、小学校七 名、専門学校・高校・大学一名、その他四名である︵9︶。 148

(16)

五 卒業生の教職従事︵就職先︶状況  図表4は、大正七年三月から一五年三月まで︵ただし大正八年、一一年については不明︶の大学部・専門部の卒業 学生について、教員として就職した先を調査し、就職者数とその割合をみたものである。  まず、大学部[4ー①]についてみていく。  この期間を全体としてみると、無試験検定有資格者一五〇名中、卒業生は一四八名で、そのうち教職に就いて いる者は五二.○%︵七七名︶である︹4ー①ーω︺。さらに中等学校への就職者数とその割合を年次的にみる と、教員就職者数は増加傾向となっている。またその割合は年によってバラツキはあるものの、最低が五〇%で ありそれ以上の比較的高い率で推移しているといえる。これに次ぐものが実業学校であり、小学校への就職者は みられない︹4ー①1②、③︺。  次に、専門部︹4ー②︺についてみる。この期間全体は、無試験検定有資格者四=名のうち卒業者は四〇四 名である。このうち三〇六名が教職に就いており、その率は七五・七%と高い比率になっている︹4ー②ーω︺。 中等学校への就職者数とその割合を年次的にみると、人数は増加傾向となっているが、割合は逆にやや減少傾向 にあり実業学校への就職率が少しずつ増加していることがわかる︹4ー②1ω、③︺。大正期の専門部は、免許 取得率とともに教員としての就職率もかなり高いことが指摘できる。就職先は、中等学校が主体であり、これと 増加傾向にある実業学校とによってほぼ占められているといえる。  では、昭和にはいるとどうなるか。  図表5は、昭和二年から六年までの大学部、同じく昭和二年から一二年までの専門部の卒業者について、教員 としての就職先を調査し、就職者数とその割合を一覧したものである。 149 大正期から昭和戦前期の私立大学における教員養成の実態

(17)

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1 大学部卒業学生の教員就職先(%)累計[大正7−15年]  9.5 1’F・,5.’

大正7年  大正9年 大正10年 大正12年 大正13年 大正14年 大正15年 ■中等学校庄覇実業学校 ZZ尋常高等小学校E:コ専門学校・高校・大学=その他 151 大正期から昭和戦前期の私立大学における教員養成の実態

(19)

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(20)

図表4一②一②   人 0 5 1 0 0 1 0 5 0 専門部卒業学生の教員就職先(人数)累計[大正7−15年] 大正7年  大正9年 大正10年 大正12年 大正13年 大正14年 大正15年 ■中等学校錘翻実業学校 [乙乙尋常高等小学校[三コ専門学校・高校・大学[コその他 図表4一②一〔3}  % 0 0 1 5 7 0 5 5 2 0 専門部卒業学生の教員就職先(%)累計[大正7−15年] 大正7年  大正9年 大正10年 大正12年 大正13年 大正14年 大正15年 ■中等学校畷翻実業学校 口尋常高等小学校[]専門学校・高校・大学[その他 153 大正mから昭和戦前期の私立大学における教員養成の実態

(21)

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(22)

図表5一①一(2)  人 0 4 0 3 0 2 0 1 0 大学部卒業学生の教員就職先(人数)累計[昭和2−6年] 昭和2年 昭和3年 昭和4年 昭和5年 昭和6年 ■中等学校 睡溺実業学校 ZZ2尋常高等小学校 [1[1専門学校・高校・大学 =その他 図表5一①一〔3)  %

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1 大学部卒業学生の教員就職先(%)累計[昭和2−6年] 昭和2年 昭和3年 昭和4年 昭和5年 昭和6年 ■中等学校 〔墾翻実業学校 [乙2]尋常高等小学校[:]専門学校・高校・大学 [コその他 155 大正期から昭和戦前期の私立大学における教員養成の実態

(23)

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(24)

図表5一②一②   人 200 150 100 50 0 専門部卒業学生の教員就職先(人数)累計[昭和2−12年] 昭和2年昭和3年昭和4年昭和5年昭和6年昭和7年昭和8年昭和9年昭和10年昭和ll年昭和12年 ■中等学校慶羅]実業学校 ZZ|尋常高等小学校 [三コ専門学校・高校・大学[]その他 図表5一②一〔3}専門部卒業学生の教員就職先(%)累計[昭和2−12年]  % O l

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昭和2年昭和3年昭和4年昭和5年昭和6年昭和7年昭和8年昭和9年昭和10年昭和11年昭和2年 ■中等学校 庄図実業学校 EZ2尋常高等小学校 [竺]専門学校・高校・大学[]その他 157 大正期から昭和戦前期の私立大学における教員養成の実態

(25)

 まず、昭和二年から六年までの大学部︹51①︺についてみると、この時期の全体で、卒業予定者数五七七名 中卒業者数は五三四名である。このうち一一七名が教職に就いており、その率は二一.九%で、大正期と比較す ると低くなっている︹51①ーω︺。中等学校への就職者数とその割合をみると、人数.割合とも年によって増減 がみられ、中等学校以外に実業学校への就職率が高くなっている。教員就職先は大正期よりも中等学校の占める 割合が低くなり、年によって実業学校と分け合うかたちになっていることがわかる。なお小学校への就職者は、 大正期にはみられなかったが、人数・割合ともに高くなっている︹5ー①ー②、③︺。  次に、昭和二年から一二年までの専門部︹5ー②︺についてみる。この時期、全体では卒業予定者三、三一八 名中卒業者数は三、一一〇名で、全体で教員就職率は、三二・二%︵一、○○○名︶である︹51②ーω︺。中等 学校への就職者数とその割合を年を追ってみると、就職者数は昭和二年の八六名をピークに以後年々減少の一途 をたどっており、その割合も年々減少している。これに対して実業学校はある一定の割合を維持して推移してい ることがわかる。また、小学校への就職率が年々増加していき、かなりの割合を占めるようになっている。この ように昭和にはいって、専門部は中等学校への就職者が減り、小学校に就職する者の割合が高くなっているのが 特色である︹5ー②ー②、③︺。先に述べたように中等教員の資格取得を目的に入学、免許状を得て卒業しても、 思いどおりに中等学校に就職することが困難になっていく状況がうかがえる。  図表6は、昭和七年から一二年までの文学部の卒業学生について、同じく教員として就職した先を調査し、就 職率と人数を一覧したものである。なお、図表には現れていないが、前述した文学部四学科のうち﹁仏教学科﹂ の卒業者で教員として学校に就職した者は皆無であり、﹁国文学科﹂が七一.六%︵五八名︶とその多くを占めて いる。 158

(26)

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(27)

図表6一② 人

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図表6−{3} % 文学部卒業学生の教員就職先(%)累計[昭和7−12年] 昭和7年 昭和8年  昭和9年  昭和10年  昭和11年  昭和12年 ■中等学校 隠図実業学校 匹iヨ尋常高等小学校[ニコ専門学校・高校・大学[コその他 160

(28)

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(29)

 全体では、卒業予定者数三九四名中卒業者数は三五三名で、このうち八一名が教職に就いており、その割合は 二二・九%で高いとはいえない︹6ーω︺。中等学校について就職者数とその割合を年次的に追っていくと、昭和 一二年を除くと四名から七名の間で推移している。また、この時期の小学校への就職者の割合の高さも注目さ れ、中等学校と小学校への就職率を合わせると昭和七年から一二年までを通して、両者で少なくとも五〇%から ほぼ七〇%以上を占める状態となっている︹6ー②、③︺。  なお表7は、朝鮮・台湾などの旧植民地および外国の学校への就職者数を示したものである。大正七年から昭 和一二年までの就職者数の合計は、大学部・専門部・文学部の卒業生合わせて、一二〇名である。このうち、昭 和二年から七年までの大学部・専門部は、毎年七名から一五名の者が旧植民地・外国の学校に就職しており、多 数とはいえないが一定数の就職者のいたことがわかる。 162 六 さいごに まとめに代えてー  以上みてきたことからいえることは、次の点である。  学生の傾向・特色としては、全体として卒業時の平均年齢が二四歳から二五歳であり、また専門部では三〇歳 代から四〇、五〇歳代の者も一割以上みられた。大正期から昭和戦前期の高等教育機関の特色として、学生の年 齢が現在よりも高くかつ幅のあったことと、一度社会に出た後で再び入学する者が少なくなかったことを確認で きる。  免許状資格取得率については、すでに大学部・専門部で七割から八割であることがわかっているが、今回の就 職率と比較すると、大正末から昭和初期︵二年頃︶までは、免許状取得率と就職率がほぼ合致するかたちで好成

(30)

績を上げていたことがわかる。すなわち、この時期の東洋大学は、中等教員無試験検定の免許状科目を充実さ せ、多数の学生をもつ専門部を中心として、多くの中等教員を養成し、かつ実際に教員を社会︵教育機関ー学校︶ へと送り出していたのである。しかしそれ以降、しだいにギャップを生じるようになっていく。特に専門部を中 心に好調であった就職率が、昭和三年以降年々悪くなり、それまでの中等教員の就職に関する実績が、かなり低 下していっていることがわかる。その理由のひとつとしては、当時の中等学校教員の需要の充足・過剰状況があ げられる︵−o︶。したがって、これ以降、就職先も中等学校だけに固執するわけにはいかず、実業学校、その他の 学校を含む各方面へと広がっていかざるを得なくなったといえる。  また、教員養成における役割のひとつとして、東洋大学は、小学校教員から中等学校教員へのステップ的機能 を果たしていたという点があげられる。それまで小学校教員であった者にとって、専門部を中心にした東洋大学 は、上級学校の教員資格を取得することができるひとつの場であったといえる。  ところで、大学関係者も、昭和一四年の専門部拓殖科の新設にみられるように、主な就職口を中等学校をはじ めとした各種の学校とする状況を、何とか打破したいと考えており、これは戦後に続く大学の経営の在り方・方 針にも影響を与えていったものと考えられる︹11︶。  次稿では、東洋大学と同じように経営の柱に中等教員の養成を置いていた他大学︵専門学校を含む︶との比較 をおこないたい。それによって、東洋大学と他大学との共通性および東洋大学の独自性を分析し、東洋大学にお ける教員養成の全体像を明らかにしたいと考えている。  なお、本稿の執筆にあたっては東京大学大学史史料室の中野実氏のご教示を得ました。記して謝意を表しま す。 163 大正期から昭和戦前期の私立大学における教員養成の実態

(31)

︵1︶・︵3︶ 中野実・豊田徳子﹁大正末期から昭和戦前期における私立大学の中等教員養成に関する研究﹂﹃井上円了セン   ター年報﹄第五号、一九九六年七月。 ︵2︶ この名簿の欄外には、合否判明の際にメモされたと考えられる免許状下付月日と免許状科目等が書かれている。    これと関連して、無試験検定による免許状下付の一連の手続きについて、現在残っている簿冊資料にしたがって簡   単に述べると、以下のとおりである。大学側では、毎年三月実施の卒業試験に当たり、だいたい二月頃、文部大臣に   対し無試験検定の有資格者の人数、試験期日、試験時間割、試験方法の開申をおこなった。    そして教員無試験検定の出願を希望する学生は、左記の書類を整えて教務課に進達方を願い出るものとした︵﹁教   員検定二関スル心得﹂﹁東洋大学一覧昭和八年度﹄=○頁︶。   ①教員検定願   ②履歴書   ③身体検査書   ④中学師範実業学校等の卒業証明書または小学校教員免許状所有者は地方長官の証明書   ⑤東洋大学卒業証明書   ⑥履歴書に身上に関する事項の記事︵改姓名の如き︶ある場合にはそれに関するコ 籍抄本﹂を添付する    検定料は一科目七円で、相当金額の収入印紙を願書に添付した上、出願者の印で消印するものとした。    大学側では、これら願書を文部省に対し、卒業試験および卒業式終了後の四月から五月頃に︵事情があって追試験   を受けた者や再申請者は別として︶ある程度一括して提出した。多い年は、申請者が四〇〇名以上にもおよび、この   ため事務ではその処理に忙殺されることになった。文部省からの問い合わせとしては、前記の書類⑥項にあるように   特に改姓名に関する書類の不備の指摘や確認が多く、最終的に文部省から大学に対して各人の合否の通知がなされ、   免許状が下付された。したがって大学側では、すでに卒業して地方に帰るか住んでいる者には合否の連絡をすること   も必要となることが多かったようである。    なお、大学側の願書提出が三月の卒業式を終えた四月以降であり、それから合否が判明するまで、早くてもだいた 164

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  い四カ月から五カ月くらいの日数がかかるので、三月の卒業者が翌月以降、すぐ教職に就くということはできなかっ   た。 ︵4︶ ﹁昭和三年度 東洋大学学則﹂ ︵5︶同右。 ︵6︶ ﹁昭和八年度 東洋大学学則﹂ ︵7︶ 文学部の入学資格のうち、第二項の⑤に関して付け加えると、これは昭和八年度から実施されることになったもの   である。﹁欠員ある場合﹂という条件付きであるが、東洋大学は、昭和八年度から﹁近時女子ノ向学心熾烈ニシテ大   学教育ヲ希望スル者﹂が多いという状況に応え、﹁特二女子ノ学部進入ヲ企図﹂して、東京女子高等師範学校をはじ   め、合わせて一二校の女学校卒業者の入学を認め、女子が﹁聴講生﹂というようなかたちでなく正規の大学令による   大学の学部生となる道を開いた。翌九年度には、さらに=二校の女学校を追加してその枠を拡大した︵﹃東洋大学百   年史 資料編 1・上﹄三八二ー三八五頁︶。 ︵8︶ 無試験検定を許可された学科については、注︵1︶中の表を参照。したがって、大正一〇年度から開設された専門部   の新学科、文化学科︵昭和四年三月廃止︶と社会事業科︵昭和三年﹁社会教育社会事業科﹂と改称、昭和九年三月廃   止︶の二学科の学生は含まれていない。 ︵9︶ 就職先は、以上述べてきた資料と手順によって調査したため、注︵1︶の論文中において、各年度の﹃東京府統計   書﹄.﹃文部省年報﹄により作成した大学部・専門部および文学部の教育︵学校職員︶従事者数︹表4︺と多少のズレ   が生じている。 ︵10︶ これについては、昭和六︵一九三一︶年二月一〇日付の﹃東洋大学新聞﹄第七四号に、当時専門部で﹁教育学﹂を   担当していた西山哲治︵私立帝国小学校・同幼稚園の創設者︶が﹁中等教員検定試験及臨教の廃止﹂と題して、次の   ような論説を載せている。これは、中等教員の﹁濫造﹂および免許状の﹁乱与﹂によって、就職が極めて困難になっ   ている状況に対し、文部省が速やかな対応・解決策を実施するよう求めたものであるが、この当時、東洋大学に入学   してきた地方の青年の卒業後の実情をもよく示している。     中等学校の免許状を無試験にて授与する特典を有する学校は余りに多きに過ぐる今日となつた。四高師、高等 165 大正期から昭和戦前期の私立大学における教員養成の実態

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   学校、大学、私立大学専門学校、臨教、高女の補習科、専攻科等においてこの特典を乱与し、粗製濫造に陥しめ     てゐる、水産講習所卒業生に動植物学の中等教員免許状さへ与えてゐ己勤である。     明治時代、中等教員不足なりし時設けた一時的の臨時教員養成所と口しながら殆ど永久的に現存せしめてゐ     る。更に年々検定試験によつて中等教員を資格づける。故に私立大学の如きは中等学校へ就職し得るもの一割に     も達しない、甚だしきは五分にも達しない就職状態であるとは何たる悲惨なる現状であらう。⋮:︵略︶−⋮・     故に本年卒業して中等学教員免許状国語、漢文、修身の三科を得た甲は月五十円の保険会社の外交をやつてゐ     る、或は乙は師範を出て数年小学校教員した後本年東洋大学を卒業したが免許状は貰つたが口はない、今更郷里     へ帰つて小学校教員の口を探して同輩より低い待遇に甘んずることは忍び得ないからせめて東京附近の小学校に     でも出たいと泣いて訴へるのであつた。⋮⋮︵略︶⋮⋮      この社会政策を実施するには往年内務、司法両省が弁護士、開業医の国家試験を廃止したる如く中等教員検定     試験を一時中止しては如何、⋮⋮︵略︶⋮⋮      又、臨教を全廃するとか、高等学校、高女の補習科、その他乱与したる特典学校、特典科目数を整理す謁陀     か、或はこの特典を鳴物入に誇大宣伝して徒らに学生の大多数を集中せしむることを取締るとか、地方の青年救     育者に徒らに東京へ逃出し、無理をして数ケ年苦学した後の無効にも等しき惨状を周知せしむるとか、この緊急     問題の応急問題の応急策を講ぜんことを敢て田中文相に熱望する次第である。 ︵11︶ 大正一四年頃から昭和にはいると、朝鮮・台湾等旧植民地の学校に就職する者が一定数出てくるが、東洋大学はこ   の方面への就職開拓のため、専門部に昭和一四年度から﹁大陸﹂において、法政・経営・貿易関係で活躍する人材養成   を目的とする﹁拓殖科﹂を新設した。昭和一四年四月以降、東洋大学には朝鮮・台湾など旧植民地の学生がこの﹁拓   殖科﹂を中心に、かなり多数在籍するようになる。左の表8は、昭和六年から一八年までに在籍した朝鮮人および台   湾人学生の数を一覧したものである。この拓殖科が一回めの卒業者を出すのは、昭和一六年一二月である。昭和 六   年以降は戦局が一段と厳しくなっていくのであるが、この時期前後の東洋大学のイメージおよび就職は、それまでと   は異なった状況を呈していたと考えられる。 166

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︵戊柏鴻S﹃柵幕汁栂帖臼齢繍﹄言肝O☆薄︶ 167 大正期から昭和戦前期の私立大7における教員養成の実態

参照

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