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中国長江三峡考 ―<華陽国志>「巴亦有三硤」をめぐって― 利用統計を見る

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(1)

中国長江三峡考 ―<華陽国志>「巴亦有三?」をめぐ

って―

著者

飯塚 勝重

著者別名

IIZUKA Katsushige

雑誌名

アジア・アフリカ文化研究所研究年報

31

ページ

15-40

発行年

1996

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00010097/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

││︿華陽国志﹀﹁巴亦有三枝﹂をめぐって

i

は じ め に 中園長江(揚子江)の三峡ダム工事は、 一九九四年十二月十四日、正式 に着工され、現在における世界最大の水利工事として注目をあびている。 工 事 は 西 暦 二 、

00

九年までかかって完成される予定である。工事の目的 は、第一には大規模洪水の防止であり、第二に発電による電力確保、第三 に下流と上流を往復する水上交運(観光を含む)の大規模化、第四に漁業 -濯瓶など経済開発および北方への水不足調節である。 この三峡とは、長江六、三

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加の流域の上流の末端に位置し、 四川省 東南隅から湖北省西南部にかけて、およそニ

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の問、断崖絶壁に囲ま れた大峡谷の連続をいう。その上、長江を縦断横断する背斜構造による山 容が水中に隠れて岩礁(灘・堆・梁・積・珠などと呼ばれる)となり、広 く 、 浅 く 、 かつては船舶の航行を妨害することが ま た は 深 く 鋭 く 突 出 し 、 甚しかった。この区間は、風景絶佳の上、 その形状や土地の伝説などを象 って幾つかの峡谷名がつけられている。三峡とはその主なものを取り、上 中園長江三峡考

流から下流にかけ、麗塘峡・亙峡・西陵峡をいう。二四

O

回のうち、種塘 峡は全長七・五回、農塘灘により名づけられている。一必峡は全長四四・玉 回、海抜千米を超える星山からつけられ、 一 名 一 必 山 峡 と も い う 。 西 陵 峡 は 全長六九回、西と東の二段に分れるが、東段の終末は山容も低まり、江面 は一拠に幅六

OO

米を超える広さとなる。西陵山、或いは現在湖南省宜昌 市の旧名、夷陵により名づけられたと言われる。 三峡ダムはこれらの内、西陵峡の中段に位置する、湖北省宜昌市三斗坪 鎮、中盤島の花筒岩地帯を利用し、全長一、九八三米、高さ一八五米の堰 堤を設け、通常水位一七五米、総貯水量三九三億立方米、約六

OO

回の上 流・重慶市にまで達する河道型大人造湖を造ろうとするものである。この 工事に至る歴史的過程や工事の規模、完成後の諸方面への影響などについ ては、既に世界史的課題として議論され、中国国内の長く、かつ周到な検 討経過を経て実施に到ったものである。しかし、なお一部には賛否の議論 も残されている、が、現実的に着工に入り、中国圏内では大旨論議はまとめ られているかのようである。現に筆者も一九九四年五月と一九九六年八月 一 五

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中 国 長 江 三 峡 考 に 現 地 を 通 過 し た の で あ る 、 が 、 その時点で、僅かの聞に、既にダムの外貌 が分るまでになっており、工事のピッチの早さに驚いたものである。 こうした三峡工事の諸問題は、 その結果について後に若干触れることに なるが、本稿では直接にそれらの問題をとりあげようとするものではない。 中国の長い歴史の中で、 いわゆる三峡がどのようにして出現し、 どのよう な変遷をたどっているか、名称上の問題を主としながら、歴史地理上の問 題として追及してみたい。長江流域にはそれぞれ特長のある地域が多くあ るが、華南の東西を掘する位置にあった三峡程、歴史的にも話題となった ものはないのである。 本稿では、一一一峡ダムに至るまでを歴史的三峡、或いは古三峡と呼び、ダ ム完成以後を新三峡と呼ぶ場合があることを最初にお断りしておきたい。 世界第三の大河、長江は、現在は青蔵高原、青海省境の唐古並山脈、各 投丹冬雪山(海抜六、六二一米)の麓を源泉とし、浩花河、通天河、金沙 江 を 経 、 四川省宜漬において、 かつて長江本流とされた眠江と合流し、長 江となる。眠江から下流まで、 かつては江水、揚(楊﹀子江といい、 ま た 、 宜浜から湖北省までの問、眠江支流と合わせた花江、 かつて、西漢水と呼 ばれた嘉陵江、貴州省を流れる烏江などを合わせ、一二峡地区を通過して、 ハ 6 ﹀ 江漢平原に入るまでを担割江或いは川江とも別称していた。 本稿では引用文献に関わる以外はこの流域も一般的に長江と呼ぶことと す る 。 なお、本論では、歴史的な三峡を扱う場合、この長江の流域を一括して 巴・萄の地として通称するが、これは大旨、現在の四川省、湖北・湖南省 の東南・北角に当り、東部の巴と西部の萄に二分される。西部高原以東の、 ム ノ、 却陳山脈、大涼山脈、大婁山脈、 亙 山 山 脈 ( 明 月 山 脈 ﹀ 、 大巴山脈などの 諸山脈に固まれた範囲を主とし、場合により雲貴高原に言及することを予 めお断りしたい。またこの地域は従来、巴夷、巴蛮、西夷、西戎、西南夷 などの地と呼ばれ、漢民族および少数民族の交錯する地域で、族源問題、 居住地域問題など、未解決な問題が多く残っているが、本稿の性質上、随 時専門諸家の研究成果を参照させて頂くに止めたい。 一、中園長江の出現 今日の中国の地質学上の説明では、三峡の出現は四川省盆地の出現と相 互 に 関 連 が あ る 。 今から一・八億年前、 それまで海であった四川方面は、地球上に発生し た法山運動により、見命山脈やそれに連なる巴顔略粒・秦嶺山脈などが突 出し、長江中・下流が陸地となって、雲貴高原などが出現した。さらに横 断山脈により東より西に向って、雲夢沢・巴萄湖・西昌湖・損湖などが連 続して西方の海面に連なっていたという。 一・四億年前ジュラ紀から一億 年前の白亜紀にかけ、長江上流の方から次第に地殻の隆起、があり、 一 必 山 等 の山脈が横断・隆起し、 四川盆地は陥没するとともに、造山運動によって 古長江の形ができてきた。しかし、白亜紀に入って四川盆地は次第に上昇 し、逆に雲夢・洞庭盆地は下降を続け、やがて亙山を分水嶺とする東西の 旧長江が出現した。およそ三│四千万年前、始新世代に入り激しいヒマラ ヤ運動により、青蔵高原などが出現、約三

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万年前頃、激しいヒマラヤ 山脈の隆起とその影響により、長江流域の西部が更に上昇し、湖北より四 川盆地に向って流れていた古長江は逆流し、浸蝕作用によって遂に亙山山

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脈 を 貫 通 し 、 現 在 の よ う な 長 江 の 流 れ が 完 成 し た と 一 一 言 う 。 長江三峡がこのような地質学上の経過によって形成されたものとして、 偶然の一致であろうか、地元に伝わる次の説話がある。 北調・臨道元︿水経注﹀巻三コ了江水の条に、局国の開僻を伝えるもの と し て 、 来敏本萄論目、剤入管令死、其戸随水上、荊人求之不得、瞥令至技山下、 復生、起見望帝、望帝者杜宇品、従天下、女子朱利、自江原出、漏宇妻、 遂王子萄、号白望帝、望帝立以篤相、時星山峡市萄水不流、帝使瞥令撃 思峡通水、萄得陸処 とあり、仮りに、後世にも起り得た、三峡峡谷中の岩壁の崩落現象によっ て、谷中の水流が塞ぎ止められ、それを杜宇が水利作業に従って開通させ たことを反映したものとしても、いかにも一必峡が挟陸であったということ ( 8 V を、伺わせる説話の一つである。 一方、文献上的にき問えば、長江上流の事情が、当時のいわゆる中原に明 らかにされ、三峡、もしくは三峡を構成する個々の峡名が記録されるに至 るのは、戦国時代末、西方の秦が南方の楚に対する侵入を始めたことによ る 。 遠交近攻、合従連衡を繰り返し、次第に強固となった秦は華南の大国楚 の 背 後 を 衝 く た め 、 先 づ 隣 国 、 萄 と 巴 へ の 侵 入 を 図 る 。 ︿ 史 記 ﹀ 巻 玉 ・ 秦 本 紀 、 恵 文 王 初 更 九 ( 前 一 二 一 六 ﹀ 年 に 、 司馬錯伐萄、減之 とあり、これより先、秦将司馬錯らによる萄への進出が行われる。︿史記﹀ 巻 七

0

・ 張 儀 伝 に 、 中 園 長 江 三 峡 考 宜・萄相攻撃、各来告急於秦、秦恵王欲発兵以伐萄、以震道険狭難至、 而 韓 又 来 侵 秦 、 ( 略 ) 司 馬 錯 日 、 ( 略 ) 夫 萄 、 西 僻 之 国 也 、 而 戎 翠 之 長 也 、 ( 略 ) 得 其 地 、 足 以 広 園 、 取 其 財 、 足 以 富 民 繕 兵 、 不傷而彼己服滞、不 如萄完、恵王目、善、寡人請聴子、卒起兵伐萄、十月、取之、遂定萄、 庇萄王更号篤侯 と あ り 、 張 守 節 ︿ 正 義 ﹀ に ﹃ 表 云 秦 恵 王 後 元 ︿ 前 一 二 一 一 四 ) 年 十 月 撃 滅 之 ﹄ とある。張儀は当初、巴萄への進出よりは、目前の対韓対策、或いは漢中 を仲介とする楚との直接対決を主張していた。しかし、秦が巴・萄進出策 を取ることにより、自ら楚に赴き、楚の懐王に次のように警告を与えた。 前 掲 張 儀 伝 に 、 秦西有巴・萄、大船積粟、起於波山、浮江己下、至楚三千余里、航船載 卒 一 一 筋 載 五 十 人 与 三 月 之 食 、 下 水 市 浮 、 一 日 行 三 百 余 里 、 里 数 雄 多 、 然而不費牛馬之力、不至十日而距好関、拝関驚、則従境以東尽城守失、 胤 問 中 ・ 亙 郡 非 王 之 有 、 ( 略 ) 夫 待 弱 国 之 救 、 忘 彊 秦 之 過 と あ る 。 秦はその警告通り着々と南進し、︿史記﹀巻五・秦本紀、 昭 王 二 七(前二八

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年 に 、 又使司馬錯発鴎西、因易攻楚皿問中、抜之 とし、続いて同三

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前 二 七 七 ) 年 に 、 萄 守 若 伐 楚 、 取 亙 郡 及 江 南 、 居 跡 馳 問 中 とあり、その結果、同巻四

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・ 楚 世 家 、 傾 裏 王 の 伝 に 、 十九(前二八

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年、秦伐楚、楚軍敗、割上庸・漢北地予秦、二十(前 二七九)年、秦将自起抜我西陵、二十一 (前二七八)年、秦将白起遂抜 我 部 、 焼 先 王 墓 夷 陵 、 楚 裏 王 兵 散 、 遂 不 得 我 、 東 北 保 於 陳 城 、 二 十 ニ 七

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中 園 長 江 三 峡 考 (前二七六﹀年、秦復抜我一必・斡中郡 とあり、同巻七三・自起伝も同様記事を伝える中で、 其明年︹秦昭王二十九(前二七八)年︺、攻楚、抜郷、 焼 夷 陵 、 遂東至 茸陵、楚王亡去、東走徒陳、秦以部震南郡 として、ここに長江上流域が秦の制圧する所となったのである。しかし、 巴・萄はもともと西南夷と隣りあい、巴夷・巴蛮の地とも一言われ、漢側の 進出の遅れた地域であった。また、三峡のみならず、長江上流の急端、狭 陸、岩礁による川中の障害の多さなどから、舟運は最も危険な水路であり、 つい最近まで東西の交通を妨げていたことも事実である。 このような長江の開発の開始と、 それにも勝る交通上の障害を越えて、 いわゆる三峡が歴史上に登場するのにはどのような背景があったか、次節 以降で扱っていきたい。 ニ、︿水経注﹀における三峡 一般に現在の三峡につながる文献上の初出は、臨道元︿水経注﹀である と言われる。しかし、この三峡は歴史的に言えば必ずしも現在の個々の名 称と同一とは言えず、時代により様々な名称をもっていたようである。こ れらのことは今後漸次追及することとし、先づ︿水経注﹀関連記事の紹介 から始めてみたい。以下各史料上のアルファベット等は筆者の都合により 付したものである。 ︿水経注﹀巻三三の江水篇に、

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江水又東運魚復県故城南、 故魚国也、(略)地理志江関都尉治、 公 孫 述名之潟白帝、取其王色、萄章武二年、劉備矯呉所破、改白帝震永安、 入 巴東郡治也、(略)江水又東運広渓峡、斯乃三峡之首也、其間三十里、(略) 峡中有崖塘・黄寵二灘、 夏 水 回 復 、 沿祈所忌、(略)其峡蓋自昔再盤以 通江、郭景純謂巴東之峡、夏后疏撃者也、 とあり、第一峡として広渓峡の名をあげている。名称の由来は明らかでは ないが、これは明らかに後の農塘峡のことである。 さて、第二峡である。同書巻三四に、 同又東出江関入南郡界、江水自関、東運弱関・拝関、押関、農君浮夷水所 置也、弱関在建平・称帰界、昔巴・楚数相攻伐、藷険置関、以相防拝、 秦 兼 天 下 、 置 立 南 郡 、 白 星 下 皆 其 域 也 、 ( 略 ) 江 水 又 東 運 一 必 県 故 城 南 、 県故楚之度郡也、秦省郡、立県以隷南郡、呉孫休分矯建平郡、(略)故 菱国也、江水又東、 度 渓 水 注 之 、 ( 略 ) 江 水 又 東 遥 一 必 峡 、 杜字所撃以通 江水也、(略)江水歴峡東、運新崩灘、(略﹀其下十余里、有大星山、非 惟三峡所無、乃当抗眠・峨、借嶺衡・疑、其翼附霊山、(略)其間首尾一百 六十里、謂之一必峡、蓋困山潟名也、自三峡七百里中、両岸連山、略無欠 処、重巌畳峰、隠天蔽日、自非停午夜分、 不 見 犠 月 、 (略﹀有時朝発白 帝、暮到江陵、其間千二百里、 雄 乗 奔 御 風 、 不以疾也、(略)故漁者歌 日、巴東三峡一必峡長、猿鳴三戸涙狛裳 第二峡は亙峡であり、起点は現在の一必山県である。峡名は一必山によって 名づけられたとあり、古来より現在まで続いた名称である。僅かに星山峡 または仙山峡と変名する程度である。但し、注目すべきは、地元漁者の歌 に﹁巴東三峡﹂とあることで、これは後に再び触れることとしたい。 次に第三峡であるが、流域が最も長く、 かつ二段に分れ、寛狭急緩の流 れに加え、舟行に危険な個所が多い。従って、峡中峡あって名称も多いが、

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通過の旅客によって灘所に目を奪われ、峡谷の影観を嘆賞する暇もなく、 或る人は峡名を記し、或る人は灘所を記すようである。同書巻三四に、 例 制 又 東 過 祈 帰 県 之 南 、 地理志日帰子園也、(略)宋忠回帰即 菱、帰郷蓋菱郷失、古楚之嫡嗣有熊撃者、以廃疾不立、市居子菱、矯楚 県 故 帰 郷 、 附庸、後王命魚裳子、(略)哀山松日、 崩 原 有 賢 姉 、 聞 原 放 逐 、 又 来 帰 、 (略)因名称帰、(略﹀故宜都記目、務帰蓋楚子熊緯之始園、而屈原之郷里 也、(略)江水又東運帰郷県故城北、(略)東帯郷口渓、(略)逗狗峡西、 峡崖禽中石、隠起有狗形、 形 城 具 足 、 故以狗名峡、(略)又東過夷陵県 南、江水自建平至東界峡、盛弘之謂之空冷峡、峡甚高峻、即宜都・建平二 郡界也、(略)江水又東運流東灘、其水並峻激奔暴、(略)哀山松田、自 萄至此、五千余里、下水五日、上水百日也、(略)江水又東運黄牛山、下 有灘、名目黄牛灘、(略)故行者謡日、朝発黄牛、暮宿黄牛、三朝三暮、 黄牛、如故、(略)江水又東運西陵峡、宜都記目、自黄牛灘東入西陵界、 至 峡 口 百 許 里 、 而両岸高山重障、(略)所謂三峡此其一也、 山 水 粁 曲 、 (略)江水出峡、東南流、運故城洲、(略)北対夷陵県之故城、 以上の︿水経注﹀本文を長く引用したのは、こうした都道元の記した自 然状況が、近世に至るまで殆んど変ることなく続き、 そのため、時代を経 ることによる峡名の変遷や三峡構成論の変遷が、この︿水経注﹀を基準と して考えていくことが出来るからである。 し か も 、 第 一 一 一 峡 に つ い て 、 ︿ 水 経注﹀では、﹃江水又東運西陵峡、(略)所調三峡此其一也﹄としながらも、 務帰から夷陵(宜日日)までに数個の峡名をあげ、西陵峡は終末(湖北から は入口)の一部を示しているかのようである。こうした︿水経注﹀の三峡 が、大形船舶によって安全に航行できるようになるのは、欧米列強および 中園長江三峡考 日本が中国諸港の開港を求め、日清戦争により重慶が開港したことに伴な ぃ 、 ﹃ 英 人 リ ト ル ( ﹀ 同

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色 色 N ・ピ邑与が一八九八年、小蒸汽船利川号 ︿ 一

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を ついで一八九九年イギリス箪艦ウッドコックおよびウ

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( U ﹀ ドラッグ号(共に一五

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が長江を重慶まで遡江した﹄ことに始まるが、 その後、ダイナマイトによる岩礁爆破など水道開撃工事を経るまでは、軍 艦といえども座礁の危険に常にさらされていたようである。 本論では、個々の峡谷の状況の歴史的変化を刻明にすることが全ての目 ム、 -;z:;; 貞 参 疏

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そ れ を 参 考 的 で は な い 。 楊守敬(熊 個々の峡谷の名称、状況を比較できるのであるが、それを暫くおいて、果 して﹁三峡﹂なる語、が︿水経注﹀以前にどうあったのか、初出的にはいか なる文献に求めるべきか、次節以降で明らかにしたい。 、︿文選﹀における三峡 一一一峡という語の初出の史料は、︿文選﹀(梁・昭明太子撰)巻四・左思 八四割都賦﹀にみられ、さらに同巻二了郭瑛(景純)︿江賦﹀がこれに関わ る 。 左 思 ( 太 仲 ) は 、 紀元二八

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年 頃 、 ︿ 三 都 賦 ﹀ を 作 り 、 洛陽の紙価を 高めたと言われる。この中の︿萄都賦﹀において、萄中の風物を余す所な く明らかにしたのであるが、それを覆う地域は、 倒 夫 萄 都 者 ( 略 ) 、 廓 霊 関 而 馬 円 、 帯 二 江 之 鶴 見 流 、 抗 峨 包 玉 墨 而 矯 宇 、 眉之重阻、水陸所湊、兼六合市交会葉、豊蔚所盛、茂八区而竜藷葉、於 前則跨踊健鮮、枕輔交祉、経余所豆五千余里 と あ り 、 眠 江 の 流 域 を 下 る 中 で 、 霊 関 ・ 玉 墨 ( 山 ) ・ 蛾 眉 ( 山 ) ・ 鍵 ( 魚 ) ・ 九

(7)

中 園 長 江 三 峡 考 伴 ( 柿 ) ・ 交 祉 の 地 名 が あ り 、 ほぼ現今の四川省から貴州省、 雲 南 省 の 一 部を含み、当時の萄および南中(晋代の寧州・現在の雲南地方の総称)の 地を南北に貫ぬいている。さらに東西を言えば、 於東則左瞬巴中、百撲所充、外負銅梁於宕渠、内函要害膏膜 於西則右挟眠山、湧漬発川、陪以白狼、夷歌成章 と あ る 。 ︿ 萄 都 賦 ﹀ に お け る 巴 は 、 現今の四川省を萄と二分するが、 後 漢 の時代迄、秦が進出した嘉陵江に沿ったル l トで下流の江州、後に巴県今 の重慶を中心として開発される。後漢の初平元(一九

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年、益州牧劉毒 の時、先づ塾江以北を巴とし、江州より臨江(四川省忠県)を永寧郡、駒 忍(四川省雲陽県)より魚復(四川省奉節県)を固陵郡とすることで、こ こに巴は三分される。建安六(二

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一)年には、永寧郡が巴郡、回陵郡を 巴郡は巴西郡とされ、ここにいわゆる三巴が成立する。︿萄都賦﹀ 巴 束 郡 、 の巴中は、外側に宕渠(四川省渠県)の鋼、梁山ありとすれば、 ほ ぼ 、 A 7 の 嘉陵江流域に限られるであろう。萄の西は云うまでもなく、眠山を中心に 眠江の諸流域を示している。 大よそこの様な地域を示した︿萄都賦﹀は、萄の中心、成都の状況を詳 しく述べた後、次の様にいう 倒若夫王孫之属、郷公之倫、 巷無居人、(略)西輪金堤、東 従 禽 於 外 、 越 玉 津 、 ( 略 ﹀ 志 未 馳 、 時 欲 晩 、 追 軽 翼 赴 絶 遠 、 出彰門之閥、馳九折之 坂、経三峡之熔牒、踊玉航之憲濯、(略)如濃池、集乎江州 ここに始めて三峡の名が出現する。今、この賦にそって現在の地名を充 ててみると次の様になる。 ( げ ) 金堤は今の四川省濯県の地にあり、 ( 沼 ) 玉津は今の四川省彰山県。彰門は今

の四川省彰県西北。九折之坂は唐の劉良の注に﹁九折坂在漢寿・厳道県、 却来山﹂とあるように、今の四川省柴経県西の耶来問。五肌は今の四川省 峨眉県西南、唐の李善注に﹃在越届問、当擁信用南安県之南也﹄とある。損池 は今の雲南省混明県の濃池であり、江州は四川省江北県にあたる。 以上の様な文脈からみれば、倒における三峡はむしろ、萄と巴の間にあ り、しかも萄から南中に向かう方向にあったのではないかとさえ伺えるの で あ る 。 但し、劉良注に可三峡、巴東永安県有高山、相対相去可二十丈、左右崖 甚高、人調之峡江、水過其中﹄とあるが、これは現在の三峡にあたり、 ︿水経注﹀以来の地理知識が唐代に充分に知れ渡っていた事に依るもので はないであろうか。これに関して、東晋一克帝(一一二七│三二二在位)に仕 えた前引郭瑛(二七六

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コ三四)の︿江賦﹀を見ると、江水を上流から叙 述していく中で 例若乃巴東之峡、夏后琉撃絶岸、万丈砕立競駿 とあり、唐・李善注は 制善目、盛弘之剤州記古歌目、巴東三峡、亙峡長、援鳴三戸、一課狛裳 とし、同じく唐の李周翰の注は 翰 目 、 巴東地名、有三峡山、一角撃之通江水、絶岸高万丈、石壁如立、而 雲霞班駿 とある。この両者の注では明らかに現今の三峡を巴東三峡と称しており、 郭撲の﹁巴東之峡 L は、左恩の三峡と異る地理的状況を示しており、ここ に二つの三峡がみられるのである。ここで節を改め、同じ東晋代に著され た︿華陽国志﹀からこの問題を考えてみたい。

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回、︿華陽国志﹀にみる三峡 第二節で記したように、巴・萄の地、 および長江上流が秦側によって開 発されるとともに、次第に長江の流れの細部が知られ、開発に利用される ようになる。︿史記﹀巻六・秦始皇本紀に、 政代立掲秦玉、当是之時、秦地己井巴・萄・漢中、越宛有部、置南郡、 ( 略 ) 二 十 六 ( 前 二 二 一 ) 年 、 ( 略 ) 秦 初 井 天 下 、 (略)分天下以潟三十 六郡、郡置守・尉・監 とあり、斐晒・集解注は﹃一ニ十六郡者(略)巴郡・萄郡・斡中・長沙﹄な どとあるように、この地域が秦による郡・県体制の中に組み込まれ、 ( お ) ゆる漢化が浸透することになった。 し、 わ このような歴史的経過に刻明な地誌を組み合わせ、開僻以来から東晋中 葉までの西南中国の歴史を著したものに、東晋・常藤撰︿華陽国志﹀十二 巻がある。本書の成立は泊三五O年頃と言丸山一、萄一地江原県(今の四川省 崇慶県﹀の名族の出と言われる常壊は、氏族出身の李氏成漢(泊三一O二│ 三四七)に仕え、後、東晋に降った経過から、常晴樹のみによってしか記録 され得なかった記事も多く、歴代正史の欠を補っているが、三峡について も独自の問題があり、以下にこれを明らかにしていきたい。 な お 、 ︿ 華 陽 国 志 ﹀ の 注 釈 に つ い て は 、 ︿ 幻 ) 国志校補図注﹀(以下︿任氏校補図注﹀という)および劉琳氏︿華陽国志 ( お ﹀ 校注﹀(以下︿劉氏校注﹀という)があり、日本において中林史朗飴およ 中 国 に お い て 、 任乃強氏︿華陽 び東洋大学アジア・アフリカ文化研究所研究員による共同訳注作業(以下 ︿訳注稿﹀という)などがあ併特に任乃強氏の校注は精細を尽している。 中 国 長 江 三 峡 考 本稿はこれらの成果に助けられていることを予め記しておきたい。 ︿華陽国志﹀巻一・巴志には、巴郡・巴束郡、浩陵郡・巴西郡・宕渠郡 の六郡をあげ、総説としてその郡の成り立ち、地理的環境、特産物、居民 の状況(蛮夷の統治との関係)などを記した後、属県の各々に豪族・大姓 名を含む地誌を記している。この巴郡総説の中で、分郡の議の後三巴の成 立 と な っ た 経 過 を 暗 記 し た 上 で 、 制巴子時雄都江州、或治塾江、或治平都、後治国中、其先王陵墓多在枚、 其畜牧在温、今東突破下畜温是也、又立市於亀亭北岸、今新市里是也、 其郡東根有明月映、広徳興、 故 巴 亦 有 三 政 、 ( 略 ﹀ 江 州 郡 、 郡治、塗山 有高王洞及塗后澗 とある。この一文は﹁有三峡﹂と言いながら東突映、明月破、広徳明をも っ て 三 峡 と い う の か 、 巴(其)郡東の釈に三峡、が連続してあるのか、ある としても明月峡(疎)のみしか、峡名が読み取れない。清・元和の人顧広 折(本節注 M m ) ( 一七七O│一八三九) は広徳興に校訂(国学基本叢書本 による﹀し、﹃按此有誤也、以水経注訂之、 当 作 黄 葛 映 、 故下文言巴亦有 三政、続漢書志注引此作広徳瞬、当是伝写之誤、而李主又依彼誤改此耳﹄ とあり、広徳興は黄葛映の寸伝写誤﹂であり、東突峡・明月峡・黄葛峡で あると主張されるようである。三峡の個々に大きな問題が残るが、先づ ﹁巴有三挟﹂とは何か、個々の峡名と併せてこの問題を考えていきたい。 同 書 巻 一 ・ 巴 志 に 、 巴 郡 の 統 県 を 示 し て 、 ∞江州県郡治、(略)根県、郡東四百里、治清陵水会 とあり、棋は今の四川省浩陵県で、江州県ハ重慶)から東四OO里会二 O回)にあり、活陵水(現烏江)が長江に流れ込む西岸にあるとする。と

(9)

中 園 長 江 三 峡 考 すれば、﹁巴の三棟 L は今の重慶市から長江を下って今の浩陵県近辺迄に あ っ た こ と に な る 。 筆者はすでに現今の三峡は、︿水経注﹀成立以前、 ﹃巴東之峡﹄または﹁巴東における三峡﹂と認識されていた可能性を指摘 した。それと同時に、︿水経注﹀の成立に至る迄に、﹁巴の三峡 L が 、 し 、 わ ゆ る 三 巴 諸 郡 の う ち 、 巴郡の長江流域中において存在し、巴東三峡とは別 であったということを再認識しておきたいのである。因みに宋、宿成大の (mM) ︿ 呉 船 録 ﹀ に は 、 (淳照四・一一三七年)(七月)康成(十三日)、泥培を出発、六十里に して恭州に室る。これより峡路に入る。 と、恭州(今の重慶)から三峡路へ入ったという認識があったと思われる が、それでは、この巴の三峡にいかなる問題があるのか、峡名、構成上の 諸問題について節を改め検討を加えたい。 五、巴の三峡 ︿水経注﹀巻三三・江水篇に

ω

又東北至巴郡江州県東、(略)江之北岸有塗山、(略﹀又東宝根県西、 延江水従鮮柄郡北流西屈注之、江水東運陽関巴子梁、江之両岸、猶有梁 処、巴之三関、斯矯一也、延照中、萄車騎将軍部芝箆江州都督治此、江 水又東右蓮黄葛峡、山高験、全無人居、江水又左逗明月峡、東至梨郷、 歴鶏鳴峡、江之南岸有根県治、華陽記目、根県在巴郡江州東四百里、治 清陵水会 とあり、巴郡郡治たる江州を記述した後、直ちに﹃東至叔県西﹄とあり、 ﹁陽関巴子梁﹂から﹃江之南岸有根県治﹄ ま で に 、 丁度︿華陽闘志﹀にい う巴の三峡に該当するかのように、黄葛峡、明月峡、鶏鳴峡があったとす る。しかも、︿華陽国志﹀に有った ﹁ 東 突 碩 ﹂ は︿水経注﹀江州県近辺の 記述には一切表れていない。 そこで、陽関巴子梁であるが、 ︿ 水 経 注 ﹀ の ﹃江水東運陽関﹄が、本文に当る ﹁ 根 県 西 ﹂ の記述の後に注としてあるた め、東としての起点が何処からか決め難い。ここで前掲揚守敬︿水経注 疏﹀の説を引いてみたい。 同守敬按、括地志稿浩州之陽関、安宇記亦云在浩州界、明地理志在浩州 西、再貢錐指・一統志並云巴県東、拠此注、巴子梁在陽関、而方輿紀要 以横石灘当之、似誤、黄石見下 と、諸書の説を勘案すると、巴(江州)県の東、浩州ハ根、倍陵県﹀の西 でしかも浩州の界にあるというが、や﹀莫然とした指摘である。また、 ︿ 三 国 士 山 ﹀ 巻 三 三 ・ 後 主 伝 、 延 照 十 ( ニ 四 八 ) 年 の 条 に 秋、活陵属国民夷反、車騎将軍部芝往討、皆破平之 とあり、同書巻四四・郵芝伝には 頃 之 潟 督 、 江 州 と あ る が 、 それ以上の記事を伝えていず、陽関と江州の関係が必ずしも明 ら か で は な い 。 し か し 、 一応陽関巴子梁が偶のように倍州界にあるとすれば、黄葛峡も またその東(下流)にあり、﹁陽関巴子梁﹂から 寸 、 江 之 南 岸 ﹂ までに三峡 があったと考えるのが順序ではないだろうか。 以上の事を踏まえ、さらに︿水経注疏﹀の各峡の注釈に従って考えてみ

' ﹄ 、 。

J J ' v 先づ︿水経注疏﹀は黄葛峡について、

(10)

( お ) ( 幻 ﹀

ω

守敬按、初学記八引益州記作黄葛峡、而杜甫詩云、黄草峡西船不帰、 又通鑑唐大歴四年、活州守捉使王守仙伏兵黄草峡、胡氏引此注調即一峡、 蓋葛、草形近錯出也、惟明地理志謂大江入浩州東、運黄草峡、萄瀞日記、 黄葛峡約在明月峡之下百余里、与臨氏先叙黄葛、後叙明月不合、考名勝 志引図経云、塗山之足、有古黄葛樹、其下有黄葛渡、 則峡在今巴県東 一 統 志 謂 即 黄 葛 峡 、 楊守敬の考案は、今の長寿県東と倍州、今の浩陵県の境に入った所に黄草 峡があり、黄葛峡のことであるという。しかし、 それは明月峡の下流百余 里にあるが、一方、巴県の東に黄葛峡があったともする。では、この三峡の 基点の明月峡はどこであったのか、続いて︿水経注疏﹀は次のように記す。 側守敬按、華陽国志一、根有明月峡、御覧五十三引李麿益州記、広陽州 東七里、有遮要ニ槌石、石東二里至明月峡、峡前南岸、壁高四十丈、其 壁有円孔、形如満月、因以局名、賓室一一間在巴県東北八十皇、重慶札前在 県東五十里 今、楊守敬は、個々の引用書に基き、明月峡が浩陵界にあるとし、巴県 (重慶)の﹃東北八十里﹄或いは ﹃ 県 東 五 十 里 ﹄ を挙げることにより、前 引

ω

により、黄草(葛)峡はこれよりさらに東(下流)百里の地にあるこ とになる。それでは第三峡はどこにあるか、同じく︿水経注疏﹀は M W 守敬按、元和志、鶏鳴峡在浩陵県西十五里、唐清陵県即今浩州治 とあり、さらに前引の

ω

の ﹁ 江 南 岸 有 根 県 治 ﹂ について同書︹( )内は ︿宋代地理叢書四種・文海出版・一九六二﹀による異同︺に、 同 開 守 敬 按 、 嚢 宇 記 引 四 夷 県 道 記 ( 士 山 ) 、 洛 陵 故 城 在 萄 江 南 、 浩 江 ( 陵 ) 西 、 其浩江、南自皿問中来、白域之西、一咋(なし)萄江十五里、有鶏鳴峡、上 中国長江三峡考 有根城、即漢根県(也﹀ と あ る 。 以上の︿水経注﹀および︿水経注疏﹀によって得られる一応の位置関係 は 次 の 様 に 見 え る 。

ω

黄葛(草)峡。陽関巴子梁東、黄葛峡は塗山之足、黄葛渡か。黄草(葛) 峡は江州県束、長寿県東浩州界に入る、明月峡下百余里か。

ω

明月峡。根県西、東至梨郷。広陽州東七里遮婆二埴石東二塁、巴県東北 八十里、重慶府東五十里

ω

鶏鳴峡、根県治活陵水会、済局江十五里 ﹂こで、唐および明代の記録を紹介しておきたい。 唐、李吉甫撰︿元和郡県闘志﹀巻三

0

・江南道、斡州観察使、浩州、総 叙 例武徳元企ハ一八﹀年立震活州、在萄江南、浩江西、故矯名、上元二

'

"

七 そ 〉 の 年 校

雪国

峡 有 猿 賊 結 来 と あ り 、 今按、殿本問、官本李作車、孜詮云、官本作挙誤、水経注江水又東右蓮 黄葛峡、又左運明月峡、江之右岸有根県治、黄草疑即黄葛別名 とあり、黄草峡と黄葛峡を同一と見、浩州(浩陵県)内にあることと言つ ている。同書は続いて同州清陵県の条において 剛難鳴峡山、在県西十五里、先主時、浩陵人反、局将郵芝討君、至鶏鳴 棟、見援母子相抱、芝引努射中援母、(略)芝投努水中、 とあり、前引例の難鳴峡を印象づける。 以上の︿華陽国志﹀の記事に沿って、︿水経注﹀ お よ び ︿ 水 経 注 疏 ﹀ な

(11)

中医長江三峡考 どを合わせみると、︿水経注﹀は︿華陽国志﹀の前引制の寸郡東根有三峡﹂ に基き、巴県(重慶)から根県(浩陵)の範囲で考えられているかのよう で あ る 。 な お 、 東突峡および広徳興が、︿水経注﹀ではどのように考えら れていたのかは明かではない。 次に明代の記録として、︿明史﹀、︿大明一統志﹀をあげてみよう。 ︿明史﹀巻四三・地理志、重慶付の条に 同巴県、東有塗山、大江経城南、又東経明月峡、 至城東、与浩江合、 ( 略 ) 東 有 銅 鐸 関 、 シ 工 め

n

また同浩州について 削 例 措 州 。 大 江 自 長 寿 県 流 入 、 東 運 黄 草 峡 、 ( 略 ) 又 南 有 浩 陵 江 流 合 駕 、 江口有銅柱灘(略)又西有陽関 と あ る 。 こ れ に つ い て 、 ︿ 大 明 一 統 士 山 ﹀ 巻 六 九 ・ 重 慶 府 、 山川の条に峡名 を幾つかあげているが、明月峡、石洞峡がこの地域に該当する。 伺明月峡、在巴県境、梁李庸益州問石壁四十丈、壁有円孔形如明月困名、 華 陽 国 志 広 徳 倫 明 者 是 也 石洞峡、在巴県、震宇記劉備置関之所、華陽国志巴亦有三峡調此 とあるが、明史刷では巴県の城南と城東の聞に明月峡があるとし、 一 統 志 は︿華陽国志﹀前引

ω

に照合して、明月峡と広徳暁が同一とする。以上の 経過は改めてさらに問題が複雑多岐であることを思わせ、同時に新たに石 洞峡がどこにあったのかも問題となる。 各時代の史料は各説各様となり、どれが第一峡で、どれが第二、 三 峡 で あるか、益々混乱するばかりである。 そ こ で 、 ︿ 清 史 稿 ﹀ お よ び ︿ 大 清 一 統 志 ﹀ に 当 り 、 ついで任乃強、劉琳両氏の説を参照して一応の見通しをつ 二 四 け た い と 思 う 。 ︿ 清 史 稿 ﹀ 巻 六 九 ・ 地 理 、 四川・重慶府、巴県の条に 県東有明月峡者、大江運此 と あ る の み で あ る が 、 ︿ 大 清 一 統 士 山 ﹀ 巻 二 九 五 ・ 四 川 省 、 重 慶 府 、 山 )11 の 条によると、全て八峡の名が連なっているが、 その内黄葛峡、石洞峡、明 月峡、銅鍵峡、鶏鳴峡の五峡が巴県の東方にあり、大茅峡、魚鹿峡、温湯 峡の三峡が巴県の西方にある。今、巴県東方の五峡を紹介すると、 凶黄葛峡、在巴県東、郵道元水経注江水右経黄葛峡山高険、全無入居、旧 志塗山足有古黄葛樹下有黄葛渡即黄葛峡也 同石洞峡、在巴県東北、嚢宇記漁州東北二十皇有石洞峡、即劉先主置関之 所、東西約長二里 附明月峡、在巴県東北、華陽国志巴郡東松有明月峡、広徳晩、故巴亦有三 峡、嚢宇記在巴県東八十里、李麿益州記云、広陽州東七里、水南有遮 要三槌石、石東二里至明月峡、峡首西岸壁高四十丈、其接有員孔形若 満月、因以潟名、府志在県五十里 的銅鋸峡、在巴県東二十里、懸崖臨江、下有円石如銅鐸之状 刷鶏鳴峡、一元和志在浩州西十玉里 以上について、前引の

ω

から附までとこの凶から刷までについて重ね合 わ せ て み る と 、

ω

と刷は同一で巴県東八十里とみてよい。ただ、同におい て巴県の城南と城東の間にありとするのが気にかかる。また、仰と仰は記 述内容が若干異るが、巴県東二十里でほぼ同一カ所と見える、 また倒で巴 県の東すぐであるとすると、 ︿華陽国志﹀倒の東突峡が俄かに注目された ものとなり、これが川の如く巴の三峡の一とすれば、石銅峡 H 銅鐸峡日東

(12)

突峡 H 第一峡となる。そして

ω

と側、が全く同一であり、確証はないが、巴 の三峡の一とすれば、これが第三峡となる。残る第二峡は、

ω

の黄草峡か

ω

の 黄 葛 峡 か 、 それとも

ω H

凶 で あ る か 、 そ し て

ω H

紛の明月峡が有力で あるとすれば、や﹄異説のある

ω

或いは凶についてどう位置づけるべきか、 諸説が入り交り結論し難い、別表の関連記事表も参考にしてここで、任乃 強・劉琳両氏の説を加えさらに検討を加えたい。 ︿任氏校補図注﹀二七頁で、任乃強氏は巴に三峡があることを認め、︿華 陽閏志﹀は前引伺の本文広徳興に統けて﹁及鶏鳴挟﹂を補うべきであると し、その理由を次のように説明する(!線筆者)。 制今按、︽水経注︾明白魚黄葛・明月・鶏鳴三峡、 以今地理考之、黄葛 峡即東突峡、今云銅鑓峡、明月峡外有離堆田尖山子、即広穂瞬、鶏鳴峡 在釈県界、応是旧本脱鶏鳴峡耳、弦補四字 と し て 、 ︿ 水 経 注 ﹀ を 基 準 と し て 、 現在地との対応を求めて、 巴郡江州県 (重慶)から根県(浩陵県) までの聞に黄葛峡・明月峡・鶏鳴峡とする。 従って、︿華陽国志﹀との整合性を求めるため、川同日明日黄葛峡日東突峡、 ω 目 的 問 H 明月峡、広徳興 H ω ・ 刷 の 尖 山 子 、 川 W H 仙 W H 鶏鳴峡とされる。そ の 上 、 M W 東突峡、今音読矯銅鑓峡、在重慶市東、自朝天円、水程十里、陸程二 十皇、︽水経注︾謂黄葛峡、︽嚢字記︾謂石洞峡是也、畜温、今広陽場大 洲︿飛機場)是也、上距銅鍵峡ニ十里、在大江中、方広十余里 として、問の石桐峡も凶仰と同所とされ、水程十里、陸程二十里の場所と される。しかし、任乃強氏のこれらの見解は直ちに幾つかの疑問を引き起 す。例えば①東突峡と銅鋸峡の音誰説について、或いは②︿水経注﹀のい 中国長江三峡考 う黄葛峡が

ω

または同の一説のように﹁塗山の足 L にあるとすると、塗山 の 里 程 は い か な る も の か 、 な ど で あ る 。 ① に つ い て 言 え ば 、 ︿ 華 陽 国 志 ﹀ の東突峡が如何にして︿水経注﹀の黄葛峡に変ったか。 ま た そ れ が 、 ︿ 太 平安宇記﹀や︿大清一統志﹀の石洞峡、︿明史・地理志﹀や︿大清一統志﹀ の銅鑓峡となったのであろうか。単に音読とは一言 ないか疑問とするところである。また②について言えば、次の諸家の説も あ る 。 ︿ 太 平 震 宇 記 ﹀ 巻 一 一 ニ 六 ・ 山 南 西 道 、 論 州 ・ 巴 県 の 条 に ( │ 線 筆 者 ﹀ 、 制塗山在県東南八里、眠、江南岸、高七里、周廻二十里、東接石洞峡、華 陽国志、夏高要於塗山、今江州塗山是也、 とあるが、県の東南がどの測定によるものか不明であるが、東接石洞峡は 江水の南岸にあることが伺われる。︿大清一統志﹀巻二九五、 重 慶 府 、 山 川に﹃塗山在巴県東一里﹄とし、さらに﹃水経注江水北岸有劃山﹄を引い ているが、任乃強氏が根拠とする︿水経注﹀に塗山の足、黄葛峡の位置を 合わせることができるであろうか。これに対し、清の呉宗︿遊局日記・後 記﹀は光緒二(一八六九)年四月一日に ﹃ 下 午 泊 重 慶 府 、 ( 略 ) 府 東 一 里 ( 必 ) 名塗山、華陽国志・水経注並言百円要塗山、有廟銘尚存﹄とあり、呉氏の場 合も僅かに一里であると言う。また伊東忠太の重慶における寸老君洞 L に ついての臼記では﹁重慶城より江を距て南方十五里に在り﹂とし、解説に ( 幻 ) ﹁ ( ス ケ ッ チ は ) 塗 山 を 背 景 に し て い る ﹂ と あ る 。 一方、これに対し、銅鐸峡についてであるが、仰で巴県東二十里とある ことに対し、清・洪良品は︿東帰録﹀において同治九(一八七

O

)

年同所 を通過した側、﹃(銅擁峡)去重慶府東二十里﹄とあり、日本、山川早水氏 二 五

(13)

ヰ医長江三峡考 は明治三十九年成都からの帰途、重慶を船で下り、﹁朝天門より下る二十 玉清里、唐家泥に達す。﹂と記している。 二月十二日に重慶を出発した鳥居龍三間は﹁朝早く重慶を出発し、流れに ま た こ れ よ り 先 、 明治三十六年 随って下ること三十里、唐家治に到着した。此処には税関船、が停泊して﹂ いて検査を受けたとある。この唐家浩に対し、もう一例あげると、清未、 光緒十五(明治二二・一八八九﹀年に刊行され、 日本人旅行者も含め、当 時三峡へ上る場合の絶好の教科書として、宜昌において珍重されたという、 江田章︿峡江図孜﹀がある。この書は、宜昌から重慶までの南北両岸の光 の 景 で お あ よ る 〔 び が巴江 、 水 こ の れ 流 に れ よ 図 る を と 隙 、 聞 な く 書 き 入 れ その精巧なことに驚かされる 唐家拾について江水北岸に記し、 ﹃ 距 江 北 城 三十里﹄と注記し、さらにその斜め東、南岸の山に銅鐸峡と書き込んでい る。事実、任乃強氏も︿任氏校補図注﹀において、拝闘を説明する中で、 ﹃陽粁、(略)其故祉今箆江北県之唐家花、在朝天門下三十里、当銅鑓峡西 口、有平地与江州接、故(郵)芝駐此、以拝江州﹄とある。結局は東突峡 すなわち塗山の足にある黄葛峡と銅鑓峡とは距離の差があるようである。 ︿新修支那省別全志﹀(昭和十六年﹀第一巻四川省四九七頁 J 五 一

O

頁 に は 、 ﹁広元堆(江中)島州にして高さ凡百十択、 樹木密生し耕地多く、 その間 に人家が点在している。下端に飛行場がある L として、唐家治まで重慶か ら水路七・玉浬(一三、八九

O

米 、 清 里 約 二 四 ・ 二 ﹀ で 、 そのさらに下流に 大興場、広元堆と続くのである。但し、 われわれは次の諸点に注意する必 要 が あ る 。 そ れ は 、 一つの峡谷の長さに対する、東西の入口または出口を ど う 考 え て お く か 、 その続き具合が他の峡谷とどのように関わるか、 ま た 、 或いは北岸にまたは南岸に片寄って命名されている時、 一方の岸はどうな 一 一 ム ハ っているか、多くの文人墨客、 または高級官僚が任地へ赴任、若くは帰任 に伴ない長江を利用し、旅行記を著しているが、或る者は故事を充分に踏 まえて観察し、感懐を述べるが、或る場合は、灘、堆の危難を目前にして、 専ら通過の為に注意を払い、峡谷名より難所の記述に力点を置くなど様々 である。また、上りは多くの日数もかかり、地元の水先案内人がつく関係 からか、記述が詳細となるが、下りは舟足も足く、兎角記述は粗略になり 勝ちである。特に地元で称名が変っている場合は旅行者が正確にそれを伝 えていたか注意を要する所である。 そうした諸事情を考慮した場合、此ニ細 な誤差をもって事の当否を、挙げつらう事はできない。今、任乃強氏の巴第 一峡、東突峡 H 黄葛峡説も A 寸後の疑問として残しておきたい。 一 方 、 劉 琳 氏 は 、 ︿ 劉 氏 校 注 ﹀ ( 五 八 │ 五 九 頁 ) で 、 ﹁ 広 徳 興 L について 詳細な注を付し、︿輿地紀勝﹀巻一七五、(愛州路・重慶府)、︿芸文類爽﹀ 巻 六 、 および︿太平御覧﹀巻五三(前引

M

参照)の諸説を引き、﹁広徳峡﹂ の 誤 り と 断 じ 、 その上で ∞巴之三峡在巴県与根県之問、(略)査今重慶至浩、峡之著名者亦有三、 即銅鑓峡・明月峡・黄草峡、 ( 略 ) 東 突 峡 当 即 銅 鑓 峡 、 在今重慶市東北 四十里、明月峡亦見子︿水経注、江水﹀、(略)広徳峡応即黄草峡、在今 長寿県東南三十里、在漢・晋根県界 とされ、任乃強氏と東突峡日銅鍵峡説は一致するが、前記したような距離 にさらに十里加わっており両者の距離の差が益々広がっているように思わ れ る 。 次に明月峡であるが、任乃強氏は仰で、明月峡と広徳興が極く近くにあ るとするが、劉琳氏は∞で一峡とし、広徳唄と別とみる、歴代諸史料も明

(14)

月峡は一峡として中間的位置に独立しているようである。ただし、前掲 ︿峡江国孜﹀および︿東帰録﹀ではともに明月把として峡名としていない。 次に黄草峡の問題がある。︿任氏校補図注﹀では次のようにいう、 MW 与黄葛(東突)、明月潟巴郡三峡、今長寿県係巴県分置、別黄草峡(鶏 鳴峡﹀亦当是古江州与根県界、亦即鶏晋時田郡与浩陵分界、此一言"巴亦 有三挟ヘ不能失鶏鳴峡明失、故補四字 とし、更に常時械の﹁其郡東根﹂について、﹁東松 L を一個の地名と見、﹃蓋 謂今之木桐鎮、在明月峡外﹄とし、 広 徳 唄 は 、 ま た 、 ﹃応潟水中州、不当 是峡名﹄としている。ただ、東釈を木洞鎮とすると、明月峡、鶏鳴峡など の位置関係からみて、根県に移動もしくは釈県治を分けるような問題があ ったと言うものであろうか。 何故なら根県は巴の東であり、 ﹁ 東 の 根 L と 方向感覚が会わないかのようである。後世の黄草峡の位置と共に気にかか る問題である。任乃強氏は、﹃庶還常旧﹄とあるが、 そ の 常 藤 が 、 実 際 の 峡名を東突・明月二峡名しか挙げていない所に問題が残っているのであり、 ま た 、

ω

の︿水経注﹀では明らかに﹃又東至根県西﹄と東と釈を分けてい るのである。その点、劉琳氏は前掲∞の中で、任氏と同じく江州県から釈 までの聞に三峡を見ょうとし、東突峡、明月峡、広徳峡をもって、現在の 銅鐸峡、明月峡、黄草峡に合致するとされる。ここでも問題の黄草峡およ び鶏鳴峡について、諸家の説で対比してみよう。 先ず

ω

の楊守敬の挙げる諸説は唐以後の説で専ら︿水経注﹀のいう黄葛 峡は黄草峡であるとする。 し か し 、 ︿水経注﹀の順序から言って明月峡の 前にあるのは問題があり、①黄葛峡と黄草峡は異る。②常藤および都道元 の時代に黄草峡は記録されなかった。③黄草峡は黄葛峡と言われており、 中 国 長 江 三 峡 考 ︿水経注﹀は単に順序を間違えたのではないか、 な ど で あ る 。 その他は任 乃強氏、劉琳氏が結論した過程にある問題である。 今、仮りに、黄葛峡が黄草峡とすれば、木、桐鎮がどこか、先にあげた ︿ 支 那 省 別 全 誌 ﹀ 重慶から木洞まで水路一二・

O

担 す な わ ち 三 八 、 で は 、 八九二米、清里で約七

O

里である。明月峡が木洞にあるとすると、前掲に より﹃明月峡之下百余里(明里)﹄ と あ り 、 仮りにこれが水程とすると、 約五五回下流ということになる。 ︿大清一統志﹀巻ニ九六・重慶府、関の 条に﹃木洞鎮、在巴県東九十里、明置水騨於此﹄とある。前掲︿峡江図孜﹀ も南岸木洞に﹃距稔城九十里﹄として、 その西側手前南岸につ明月把﹂を 描いている。任乃強氏の説から言う、重慶から三八、八九二米約四

O

凶 の 木桐からさらに五五回を加えた約九五回、 一 七

O

清里に当る。前掲︿新修 省別全誌﹀では、長寿県の四・玉浬(約八・一二回)下流の黄草峡まで重慶 か ら 四 五 ・ 五 浬 、 八四、二六六米約八五回、約一五

O

清 里 と な る 。 し か も 前引制・制の通り、鶏鳴峡は︿水経注﹀以降も存在する峡谷であるのに、任 乃強氏は黄草峡は鶏鳴峡と同一とし、劉琳氏は無視されている。前引削お よび刷に有る通り、鶏鳴峡ははっきりした独立峡である。相即ち浩陵県は 引のように巴の東四

OO

里 、 ︿ 大 清 一 統 士 山 ﹀ 巻 二 九 五 ・ 重 慶 府 、 浩 州 の 条 で ﹃在府東少北三百十皇、(略)西至長寿県界六十里﹄とあり、前掲︿新修省別 全誌﹀では水程六五浬、 一 ニ

OM

、二一三清里に当る。︿峡江図孜﹀では、 長寿県の下流、北岸に﹃黄葛峡、今名黄草山、浩州界距城十八里、上属長 寿、下属活州﹄とあり、鶏鳴峡には触れていない。陶樹︿萄輯日記﹀は嘉慶 十 五 ( 一 八 一

O

)

年十月に巴峡に入っているが、江北八十里の明月峡を越 ぇ、三十里下流の木洞、さらに江北二百里の長寿県を越え、浩州境に入って 二 七

(15)

H H, E U E E 古 制 レ 一 -U 即 碧 一 巴三峡諸説(付関連事項)(アノレファベットは本論参照〉 巴東之峡 例 ︿ 江 都 賦 ﹀

<1>

文 一 峡 刷局都賦 ( 晋 ﹀ 選 ( 広 徳 唄 ) 帥①

<2>

陽 巴亦有三政 側① 東突挟 帥① 明月瑛 帥① 其郡東松有││ 国 膏 虫

.

.

"

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'

'

'

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(3) 〆局、 ... 4

塗 山

ω

江之北岸 黄葛峡

ω

江水篇 江北岸塗山陽関巴 子 梁 巴 之 三 関 之 一 江水又東経 1 1 明月峡

ω

江水篇 江水又左遷││ 東至利郷 鶏鳴峡

ω

江水篇 江南岸根県治 経

鶏明狭山 側浩陵県 在県西十五里萄将 郵 芝 至 │ │ 。

(4)

元 和 郡 県 図 志 ( 唐 ) 黄李挟 例江南道浩州 上元二年因││ 有猿賊結束 (5) 太 平 御 ( 宋 ) 明月峡 巻一六八・州郡部 山南道、稔州 ︿ 李 麿 益 州 記 ﹀ 日

l

l

在巴県東壁高 四十丈有円孔形如 満月因以為名 ︿ 華 陽 国 志 ﹀ 郡江州県有

│l

M 開 巻 五 三 、 注 側 ︿ 李 膚 益 州 記 ﹀ 広陽州東七里水南 有遮要二槌石、石 東二塁至││② ︿ 庚 仲 立 搾 荊 州 記 ﹀ 巴陵楚之世有三峡 ---広徳峡・東 突峡即今座峡・務 帰 峡 ・ 帰 郷 峡 。 覧 鶏鳴峡刷 ︿ 四 夷 県 道 記 ﹀ 祈萄江十五星 (6) 太 平 費 宇 記 ︿ 宋 ﹀ 塗山側 在県東南八塁東接 石洞峡 陽関岡帥 浩州界 石洞峡例制 理州東二十里劉備 置関東西約長二塁 ③ 明月峡側帥 在(巴﹀県東八十 呈︿華陽国志﹀郡 江州県有明月峡即 是④ ︿ 李 膚 益 州 記 ﹀ ゆ②に同じ⑤ 二 八 奥 地 広 ︿ 宋 )

<7>

明 月 峡 巻 三 三 ・ 菱 州 路 、 巴 県 有 絹 雲 山 、

l

l

、 大江 有 浩 巻 議 │ 陵 三 峡 県 三 山 -裳 州 路 記

(16)

地 紀

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8

>

三 峡 洛於││為要郡 巻一七四・要州路 浩州(風俗形勝) 巴亦有││ 巻一七五・菱州路 重 慶 府 ( 風 俗 形 勝 ) ①と同じ、但し広 徳峡とする ︿ 景 物 ) ︿ 華 陽 国 志 ﹀ 巴亦有││ 明月峡 ( 景 物 ) ︿ 輿 地 広 記 ﹀ 在 巴 県、⑤に同じ 石 洞 峡 ( 景 物 ) ③に同じ。ただし ﹁ 有 法 華 院 ﹂ を 加 ﹄F 円 ノ 広徳峡 ︿ 華 揚 国 志 ﹀ 帥と同じとする 鶏鳴峡 巻一七四・菱州路 浩州(景物) ︿ 元 和 郡 県 志 ﹀ 川 w a に 同 じ 中国長江三峡考

<

9

>

明 史 地 理 志 ( 明 ) 塗 山 側巴県東有 1 1 0 陽 関 同 刊 ( 浩 州 ) 又 西 有 明月峡 同大江経城南、又 東経 1 l k 至 城 東 、 与清江合 東有銅鍵関 ︿ 華 陽 国 志 ﹀ 広 徳 倫 明 者 是 也 黄草峡 附大江自長寿県流 入 、 東 淫 丁 │ 。 <10> 大 明 一 統 志 ( 明 ) 石 、 洞 峡 帥在巴県 ︿ 華 陽 国 志 ﹀ 巴亦有三峡謂此 明 月 峡 間巴県境 く

1

1

>

大 清 一 統 志 ( 清 ﹀ 陽 関 州 制 黄葛峡

ω

巴 県 東 同 凶 ︿ 水 経 注 ﹀ 黄葛渡即黄葛峡 石 洞 峡 同在巴県東北二十 里 ③ と 同 じ 。 明 月 峡 M 剛 在 県 東 五 十 皇 附 巴 県 東 北 ︿ 華 陽 国 志 ﹀ 帥 ① と 同 じ ︿ 李 腐 益 州 記 ﹀ m w M 問 ② ・ ⑤ と 同 じ 広陽州東七里 銅鐸峡 間巴県東二十里 鶏鳴峡

ω

元和志 浩州西十五里 く12> 任 乃 強 黄葛峡 ︿ 即 ﹀ 東 突 峡 ( 今 ) 銅 羅 峡 ・ 石 洞 峡 ( 是 山 也 ) 明月峡 広徳嘆 ( 及 鶏 鳴 侠 ) ( 峡 ) ( 補 四 字 ) 黄 草 峡 ( 鶏 鳴 峡 ﹀ 氏 広徳峡 ( 応 即 ﹀ 黄 草 峡 長 寿県東南三十皇 <13> 劉 琳 東突峡 ( 当 即 ﹀ 銅 鐸 峡 、 重慶市東北四十皇 明月峡 氏 二 九

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巴三峡示意図

@ 楽 温 県 平都山

中園長江三峡考 (根県) (i苦州)

長江三峡示意図

四 一 関 大寧河寛谷 香渓寛谷

44.5krn ←一-AZ;峡一一→

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三十里にして﹃黄草峡、過凡三十里、蘭市、(略)過火燦灘、南岸古難鳴峡、 又十五里、治浩州﹄と両峡の位置を示して明らかに両者の差を示している。 以上のような諸々の条件は、さらに各種の史料を正確に照合しなれけば ならないが、本稿では、止むを得ず、これまでの諸記録から見て次のよう に私見を加えておきたい。 常藤が岡で﹃故巴亦有三峡﹄とした際の﹁亦 L とは何を意味したのか、 後述する巴東三峡の知識が既に常藤に把握され、 巴にも亦有るとしたのか、 或いは前掲︿三都賦﹀ E に対し﹁亦﹂としたものか、 いずれにせよ、三国 時代、萄と呉の同盟と抗戦は、巴・萄の地に、長江流域の豊かな知識をも たらしたものと思われる。 そうした上でもう一度、常藤制の本文について 言えば、﹃其郡東根有・:﹄は、﹃其の郡の東の釈に﹄か或いは﹃其の郡の東 の釈までに﹄と読むべきではないか。 そ れ に よ っ て 、 巴の三峡は、明月峡 より釈までの開に有るものとして、他の二峡が省かれていたか、或いは広 徳畷以下に何らかの記事があって、 それが後世欠落していったものではな かろうか。︿華陽国志﹀・︿水経注﹀そして現代を一直線につなげて現在地に 比定するのは実は大変困難なことではないのか、 それは次節でも取り扱う いわゆる巴束三峡の名が時代により種々異ってきたこととも無関係ではな ぃ。結論を出さず甚だ無責任の議りは免かれないが、今は巴峡三峡が、重 慶 市 と 浩 陵 県 の 問 、 むしろ清陵県寄りにあったのではないか。 そしてこの 一二峡こそ古代巴萄の民の峡谷として認識されていたのではないか、 と言う に止めたい。因みに、竹添弁々は明治九(一八七六)年七月二十二日に唐 家 出 に 一 泊 し た 後 、 ﹁ 二 十 三 日 、 船初めて巴峡に入る。 ( 日 ) 土の山あり。(略)草峡を過ぐ。﹂と記している。 沿岸に石の山あり 中園長江三峡考 六、三峡諸説をめぐって│現三峡の構成と歴史的役割 ︿ 華 陽 国 志 ﹀ を 中 心 に 長 江 一 一 一 峡 の 原 初 的 あ り 方 を 探 っ て き た が 、 い わ ゆ る 巴の三峡には他にも三峡の存在を伺わせるかのようであったが、常藤はそ れ以上には言及しなかった。巴・萄史を中心とした地理的限界のためと、 東方への行路は漢水流域を通じての交通路に頼っていたとも言えるからで あ ろ う 。 た だ し 、 その前後を通じ、特に三国時代、貌・萄・呉の対抗上、 特に、萄と呉の交通上、長江峡谷は重要な交通ル

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ト に な っ て き た 。 そ の 結 果 、 に現れる様に三峡についてのはっきりした概念が形成さ ︿ 水 経 注 ﹀ れ る と と も に 、 巴 の 三 峡 よ り 、 より険狭な﹁巴東三峡﹂が、 一 方 で 関 所 と な り 、 一方で軍事戦略ル

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トとして活用されることになった。︿水経注﹀ 前引 A で示すように、広渓峡(現屋塘峡)を﹁三峡之首 L とするのは、上 流からの記述上当然であるが、三国時代、特に下流の呉の側からみると、 未だ三峡全体を捉えるより、大峡谷への入口としていかに萄の南下を防ぐ かが大きな課題になっていた。それと同時に浮上するのは山谷深くこの三 峡地区に入り住む蛮夷の存在である。特に萄はこの少数民族を配下に組み 入れ南化策を計っていた。 一つの例を示すと、剤州を領した関羽が呉将陸 遜 に 攻 陥 さ れ 、 その復讐として萄主劉備が呉への進攻を計った有名な夷陵 の戦いにおいてである。 ︿ 一 二 国 志 ・ 萄 志 ﹀ 巻 三 ニ ・ 先 主 伝 に 章武(山一三一)元年、 ( 略 ) 秋 七 月 、 遂 帥 諸 軍 伐 呉 、 孫 権 遺 書 請 和 、 先主盛怒不許、呉将陸議・李異・劉阿等屯亙・姉帰、将軍呉班・潟習自 一必攻破異等、軍次椀帰、武陵五難蛮夷遣使請兵、(略)(二年二月)先主

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叶 守 問 団 戸 巨 宮 、 河 μ = 一 耐 町 V 車 有 自姉帰率諸将進軍、縁山裁嶺、於夷道旗亭、駐営、自但山、通武陵、遺 侍中馬良安慰五難蛮夷、成相率響応、(略﹀先主自漉亭還梯帰、(略)由 歩道還魚復、改魚復県日永安 とあり、これを呉側からみると、同呉志巻四七・呉主伝に、 ( 建 安 ) 二 十 四 年 、 ( 略 ) 陸 遜 別 取 宜 都 、 獲柿帰・枝江・夷道、 還屯夷 陵、守峡口以備局、(略)十二月嘩司馬馬忠獲羽及其子平、(略)(二十五 年)是歳、劉備帥軍来伐、至一必山・姉帰、使使誘導武陵蛮夷、仮与印停、 許之封賞、於是諸県及五難民皆反矯萄、 (略)黄武元年春正月、陸遜部 将軍宋謙等攻萄五屯、 皆破之、斬其将、三月ハ略)、萄軍分拠険地、 後五十余営、遜随軽重以兵応拒、自正月至閏月、大破之、臨陳所斬及投 兵降首数万人、(略)是歳改夷陵矯西陵 とあり、同巻五八・陸遜伝に 備従亙峡・建平連囲至夷陵界、 立 数 十 屯 、 以金錦爵賞誘動諸夷、(略) 先遣呉班将数千人於平地立営、(略)遜目、吾巳暁破之術、(略)斬張南 -漏習及胡王沙摩柿等首、破其四十余営、 とあって、後世に通ずる座峡が萄・呉の争界地であり、上流を制すれば、 西陵峡口が攻守の争界地となることを示している。それと同時に、漢側に よる武陵蛮夷への金烏および官爵による誘導は、後の三峡地域の交通にも 大きな影響を残すのである。 三国呉の滅亡もまた普側による長江上流からの舟艦による脅威が現実の ものであった。三国時代以後も歴代王朝による内乱、王朝交替ごとに、長 江の上・下流域における軍事的価値は益々強められて行った。しかも、南 北朝対立の時代、両者対立の前線において、部族集団毎に軍事的に利用さ れた蛮夷の動向が、三峡地域にも大きく影響を与えずにはおかなかった。 例えば、︿宋書﹀巻八・明帝紀、泰始五(四六九﹀年十二月に 庚申、分荊・益州五郡置三巴校尉 とあり、︿太平安宇記﹀巻一四八・山南道、要州の条に 宋泰始三年、三峡険陸多山、蛮拠峠以矯冠賊、立三巴校尉以鎮之、宋末 廃三巴校尉 と、年代に問題があるが、三峡の状況を記す。さらにそのことを︿資治通 鑑﹀巻一三五・宋紀、明帝泰始五年十二月の条に 前 分荊州之巴東・建平、益州之巴西・梓醤郡、置三巴校尉、治白帝、先是 三峡蛮・猿歳震抄暴、故立府以鎮之、 と具体的に記す。こうした状況をまとめ︿宋書﹀巻九七・夷蛮伝に 世祖大明(四五七

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四六四)中、建平蛮向光侯冠暴峡川、巴東太守王済 -荊州刺史朱修之遣軍討之、光侯走清江、清江去巴東千余里、時巴東・ 建平・宜都・天円四郡蛮矯題、諸郡民戸流散、百不存一、太宗順帝世 (四七七│四七八)尤甚、雄遣攻伐、終不能禁、剤州箆之虚散 とあり、同伝には﹃荊・薙州蛮、繋瓢之後也、(略)所在多深険、居武陵、 (略)而宜都・天門・巴東・建平・江北諸郡蛮、 所 居 皆 深 山 重 阻 、 人跡竿 至葉、前世以来、屡馬民患﹄とあり、蛮名は所在地域により名がついたと すれば、巴東(今の巴東県)や建平(今の星山県﹀蛮はさしづめ︿資治通 鑑﹀の三峡蛮とも言い得るのであろう。南北両朝の対立の聞に漢側の恩賞 による利益誘導が一方で蛮の諺張をもたらすと共に重圧に対しては逃亡し て勢力の温存をはかる、 そうした後背地の一つに三峡があり、舟船を利用 して峡路を制圧する姿が浮かび上るのである。

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︿ 周 全 日 ﹀ 巻 四 九 ・ 異 城 伝 に 、 蛮者盤瓢之後、族類蕃街、散処江、准之問、汝、頭之郡、患険作梗、世 震窟乱、逮鶏人失駅、其暴滋甚、有舟氏・向氏・同氏者、限落尤盛、余 則大者万家、小者千戸、吏相崇樹、借称王侯、屯拠三峡、断温水路、剤 萄行人、至有仮道者、 とあり、当時の状況を漢側からの眼として記録している。 歴 代 正 史 に は 、 いわゆる巴東三峡についての相当の記述があるが、多く は西陵峡口を意味する﹁峡口﹂または﹁峡川﹂或いは単に﹁峡﹂といい、 時に﹁亙峡﹂、﹁西峡口﹂があるが、この︿周書﹀に至るまでついに﹁三 峡﹂なる用語は使われていなかった。この少い用例で一つの破天慌な三峡 利用計画が惰代に起きたことを見ておきたい。︿惰書﹀巻四八・楊素伝に、 素居永安、造大艦、名目玉牙、上起棲五層、高百余尺、左右前後置六拍 竿、並高五十尺、容戦士八百人、旗職加於上、次臼黄竜、置兵百人、自 余平乗・俳艦等各有差、及大挙伐陳、以素局行軍元帥、引舟師趣三棟、 箪歪流頭灘、陳将戚欣、以青竜百余娘、屯兵数千人守狼尾灘、以温軍路、 其地険哨、諸将患之、素目、 勝 負 大 計 、 在此一挙、(略)乃以夜掩之、 素親率黄竜数千娘、衝枚而下、(略)遅明市至撃之、欣敗走、(略)素率 水軍東下、舟艦被江、 旋 甲 曜 日 、 素坐平乗大船、(略)陳南康内史呂仲 粛屯岐亭、正拠江峡、於北岸撃山石、綴鉄鎖三条、横裁上流、以逼戦船、 素与仁恩登陸倶発、先攻其柵、仲粛軍夜潰、素徐去其鎖、仲粛復拠剤門 之延洲、素遣巴彊卒千人、乗五牙四娘、以柏橋砕賊十余艦、遂大破之、 停甲士二千余人、仲粛僅以身免巴陵以東、無敢守者 以上長く引用した記事は、歴史的三峡利用のあらゆる情況を如実に示す 中 園 長 江 三 峡 考 も の で あ る 。 一つは、長江を利用した軍事的意義、特に境界を制圧する各 種 の 作 戦 、 その①は、夜航は特に危険で、現代においても小船は港に停泊 するのであるが、多くの舟師を引き入れそれを敢行したこと、 その②は小 船にしろ大船にしろ、航行は危険極まりないのに、高棲の巨船を四般の他 驚くべき多くの舟を作り動かすこと、③峡谷の狭所を利用し鎖をかけ、航 行を妨げること、その④峡谷の少数民族、特に古くから長江流域に住む彊 蹴)を多数発卒していることなど、これらは水路を知り、また多くの曳夫に 当る人員、が必要であることも見抜いた上での作戦であった。特に水夫につ いては、塩運搬船に乗り込んだ前掲竹添井々は、 船に艦一、柴(櫓の短小なる者﹀四あった。何れも七八人の力を以て之 年 長

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け る と れて黒紫色を為し、しばらくにしてその創痕が層々と背中に盛り上る。 酸鼻の極で観るに堪えなかった。 これは重慶を出て巴峡に入る直前の日記の一部である。下流に向ってこ のようであると、上流に・向かう時の舟子、或いは曳夫などは大変な負担を 荷ったに違いない。 以上の各種の事例からみて、歴代正史の各々の記事を通覧して J ニ 峡 ﹂ の統名が初出するのは、︿周書﹀(唐・令狐徳菜、貞観中撰﹀であり、 ま た 、 ︿ 情 書 ﹀ ( 唐 ・ 魂 徴 等 、 などで、︿文選﹀の郭瑛 貞 観 一

O

全 公 三 ハ ﹀ 年 撰 ﹀ ︿江賦﹀における、﹁巴東峡﹂からは、遥かに後世のことである。 しかし、この三峡が唐代に入ると、経済的な意味をもつものとなってき た。詳細は尽せないが、前引例の︿元和郡県図志﹀は、記事を続けて次の

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中 国 長 江 三 峡 考 よ う に 記 す 。 元和三(八

O

八﹀年、中書侍郎平章事李吉甫奏目、浩州去斡府三百里、 輸納往返、不聡一旬、去江陵一千七百余里、途経三峡、風波没溺、頗極 難危、自隷江陵近四十年、衆知非使、彊理之制、遠近未均、望依旧属斡府 とあり、江陵は︿旧唐書﹀巻三九・地理志、 山 南 東 道 に 、 ﹃ 剤 州 江 陵 府 、 陪 矯 南 郡 、 ( 略 ) 上 一 元 元 ( 七 六

O

)

年 、 九 月 、 置 南 郡 、 以 荊 州 魚 江 陵 府 、 (略)又割斡中之浩、湖南之岳、(略)八州、増置万人郡、以永平矯名﹄と あるように、今の湖北省江陵県であり、三峡の険を冒してまで貢納の便に 長江が利用されたのである。 こうした交通上、次第に重要になってくると、この三峡の内容を具体的 に列記した当時の地理書も各種あったに違いない。現在はそれらの多くは 伝わっていないが唐・欧陽詞の︿芸文類来﹀巻六・地部・峡によると 庚 仲 苑 荊 州 記 目 、 巴楚有明月峡、康徳峡、東突峡、今謂之一坐峡、柿峡、 帰郷峡 とあり、︿太平御覧﹀巻五三・地部、 峡では同一記事であるがただ ﹃ 巴 陵 楚之世有三峡、明月峡、広徳峡・東突峡、即今之亙峡・柿帰峡・帰郷峡﹄ とあり、明かに︿華陽国志﹀を式台にしていると思われるが、両者とも地 理的に誤解がある様であり、三峡の個々の名称に相当の違いがある証左で ある。また、例えば、宋代の︿大平震宇記﹀は、巻八八・剣南東道・合江 県の条で︿峡城(程 H 太平御覧)巻五三・地部﹀記) を 引 き 、 ﹃ 三 峡 者 即 明月峡・亙山峡・広沢峡・其有塵唐・湖顕・寵子・扉風之類皆不預三峡之 数﹄とあり、同巻一三五・山南西道、利州・綿谷県の条に﹃三峡謂、度峡 -巴峡・明月峡、唯、明月峡在比郡界﹄と、全く方角違いの解釈があり、 四 さらに、同書巻一四八・山南道、菱州・奉節県の条では﹃三峡山謂西峡・ 度峡・帰峡﹄とあるとともに、 ﹃ 灘 瀬 堆 、 ( 略 ) 浬 唐 峡 口 、 ( 略 ) 塵 唐 峡 在 州東一里古西陵峡也﹄とする。こうした三峡の異名が多出するのは、特に 唐・宋時代、多くの文人官僚が長江を中心に任地への行き帰りに記す、 そ れぞれの峡名が言われ、景観がより豊かに印象深くなった為でもあろう。 本稿では当初それらを整理して、 その一つ一つの淵源にまで遡る予定であ っ た が 、 紙 数 の 関 係 で 、 それを省き、既に引用した︿水経注﹀凶以下の記 事がほメ諸峡を紹介しているものとし、ただ︿大清一統志﹀巻二七三・宜 昌府、巻三

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三 ・ 憂 州 府 に 掲 げ る 小 峡 名 の み 、 挙 げ て み る 。 明月峡(東湖県西二十里、 一 名 扇 子 峡 ) 、 松 門 峡 、 西 陵 峡 、 馬肝峡、自 狗峡、空船峡、兵書峡(又名鉄棺峡)、棺木峡、 破 石 峡 、 建陽峡、竜口 峡、東奔峡、巴峡、門扇峡、一坐峡(以上巻二七三)、樫唐峡(巻三

O

三 ) このほかに、現代でも、宝剣峡・牛肝馬肺峡・黄牛峡・灯影峡などが西 陵峡内にまた金盈銀甲・錯開峡などがある。こうした多数の峡内峡からど れをもって三峡というか、諸説あって実は二十世紀初頭まで、定まること はなかった。現に前掲︿支那省別全士山﹀(大正七日一九一八年刊)は第三章 水路において﹁普通塵唐峡、亙山峡、及宜昌峡を以て三峡と称することを 普通とする。﹂と言っている。また、︿申報六十周年記念中国分省新図﹀(上 海申報館一九三六年﹀の地図上においても、上流から、屋唐峡、亙峡とし、 ついで三斗坪を境に上に黄牛峡、下に西陵峡、と記入されている。 同巻三三の﹃斯乃三峡 之首也﹄において諸家諸説を注記した上で、清、陶樹︿萄輪日記﹀を引き こうした様々な峡名について、︿水経注疏﹀は、 諸説紛紛、断以褒峡・亙峡・西陵峡、因親歴其境目撃其阻日長者、有此

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