千葉県市原市における漢文石碑・資料の翻刻(一)
著者
辻井 義輝
著者別名
TSUJII Yoshiteru
雑誌名
東洋学研究
巻
57
ページ
55-71
発行年
2020-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00012031/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja千 葉 県 を そ の 漢 学 活 動 を 基 準 に 区 分 け し た 場 合、 ① 上 総・ 下 総 西 部、②上総・下総東部、③東葛、④安房の四区域に分けることができ るだろう。このうち上総・下総西部(千葉郡・君津郡・市原郡)にお いては、従来の研究では、一見して、君津郡においてのみ活発な漢学 活動がなされていたように思われていた。千葉郡は一般の寺子屋教師 を別として、それを越える学識があったと思しい学者に、五田保村の 君塚玄圃、落井村の長谷川修竹、村田村の天羽南翁、千葉町の安井敏 雄 ら が い る の み で、 し か も、 彼 ら の 遺 稿 も ほ と ん ど 残 っ て い な い ( 1 ) 。 も っ と も 千 葉 町 の 都 川、 猪 鼻 山 な ど は 景 勝 地 と し て 知 ら れ て い た た め、多くの文人が景勝地を歌う漢詩を残してい る ( 2 ) が、それは、厳密に は郷土に根差した活動とは言い難い。 君津郡は、まず飯富村飽富神社の社家深河(深川)氏から元携、光 彦、猷栄など多くの学者が生まれてお り ( 3 ) 、さらに高柳村(現木更津市 北部)にあった至徳堂では、鈴木元朋、時田佑のほか、松下葵岡、朝 川善庵、正木幽谷、嶺田楓江、佐久間永世などが教え、その門下生と して重城保、その縁者として織本東岳、佐久間鼎・省三、森長守らが 輩出した。また、それらと別の系統に、伊藤誠斎、木村利右衛門らも 輩出した。彼らの遺稿も多く残されており、その漢学活動が極めて盛 んだったことを窺え る ( 4 ) 。 市原郡(現市原市)については、本稿との関わりから、やや詳細に 説 明 す る。 ま ず『 千 葉 県 市 原 郡 誌 』( 千 葉 県 市 原 郡 役 所、 一 九 一 六。 以下『郡誌』と略す)では、漢文碑が三十、漢文資料が十二、漢詩が 十八首、漢学者の伝記が十三件紹介されている。そのなかで目ぼしい 者には、鶴牧藩修来館館長田中篤実、同次長豊田一貫のほか、鴇矢鹿 門、日高誠実、鶴岡安宅がいる。さらに『市原市史』中巻、下巻、別 巻、 資 料 集( 近 世 編 3 上 )( 市 原 市、 一 九 八 六、 一 九 八 二、 一 九 七 九、 二 〇 一 八 ) で は、 新 た に 漢 文 資 料 が 十 一、 門 人 帳 が 二、 漢 学 者 の 伝 記 が 九、 九 人 の 漢 詩 が 紹 介 さ れ、 鶴 牧 藩・ 菊 間 藩・ 鶴 舞 藩 の 藩校が概説されている。そのなかで、目ぼしい者には、西賀文仲、小 貫 庸 徳、 桐 谷 伝 作、 石 橋 奎、 真 板 頑 石 が い る。 ま た、 川 崎 喜 久 男 氏 『 筆 子 塚 研 究 』( 多 賀 出 版、 一 九 九 二、 以 下『 筆 子 塚 』 と 略 す ) で は、 新たに十九の漢文碑が紹介されている。そのなかでは、石川逸郎が目
千葉県市原市における漢文石碑・資料の翻刻(一)
辻
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を 惹 く。 『 市 原 市 八 幡 の 石 造 物 研 究 』( 八 幡 史 学 館 名 所 一 〇 〇 選 チ ー ム・八幡の石造物研究会、二〇一三)では、八幡地域の十一の漢文碑 が紹介されてい る ( 5 ) 。このほか、新たに十六の漢文碑が個別に紹介され て い る が、 こ れ に つ い て は 各 所 で 触 れ る。 先 行 調 査 研 究 に 基 づ く 限 り、一見すると、市原郡には学者・文人がわりあい多くいたことが窺 えるが、現況において、その遺稿の残存はほとんど認められ ず ( 6 ) 、市原 郡で展開した漢学活動は、千葉郡よりは活発だったものの、君津郡に 比べると、さして盛んではなかったように見える。 しかしながら、筆者はこのほど、市原郡における漢文石碑・資料の 調査活動を始めるようになり、その活動を通じて、市原郡で行われた 漢学活動は、君津郡におけるそれに比べて、質量ともに、決して劣ら ないものだったと思うに至った。ふりかえると、市原郡における漢学 活動の調査研究は決して周到に行われたものではない。学者・文人の 紹介はほとんどが簡略になされるにとどまり、また、その資料の翻刻 も誤字・脱字が目立ち、ほとんどが読むに堪え得ない現状にある。翻 刻 ど こ ろ か 紹 介 さ え さ れ て い な い ケ ー ス も 極 め て 多 い ( 7 ) 。 言 い 換 え れ ば、これまで市原郡の漢学活動が盛況にみえなかったのは、市原郡に おける漢学活動が不活発だったからではなく、その調査研究自体が本 格的には行われなかったからなのである。このような郷学研究の出発 点として、先ず必要とされることは、何よりも、原典を翻刻すること であろうと思われる。そこで、筆者は、本稿を手始めに、これから市 原郡内にける漢文石碑・資料の翻刻を、次々と行ってゆきたいと思う のである。 なお、本調査研究は、各石碑・資料をお持ちの方々、地域の方々の 寛大なご厚意・ご助力のおかげで成り立っております。皆様に改めて 深甚の感謝を申し上げる次第です。 凡例 一 、本稿でいう漢学活動とは、往来物などにより「かな」を教え るに止まらず、 四書五経などを通じ漢文を教える活動や、 漢文 ・ 漢詩をオリジナルに創作する活動を指す。 一 、本稿で取り扱う漢文碑・資料は、各時代の価値観や生活誌が 窺えるものや、歴史的事件を表記したものなど、文化的・歴史 的価値を有するものに限る。 一 、単に物故者の俗名や戒名、係累、没年月日などを記したもの は基本的に省く。また、宝塔の類も、通常、陀羅尼経の文言を 連ねたにとどまるため、基本的に対象から外す。但し、高名な 漢学者による文は、それ自体、文化的価値を有するものである ため、全て翻刻の対象に入れる。さらに、代官名主、名主家の 資料については、地域で長期間にわたり名望家と目されてきた と同時に、地域の歴史に深く関わってきた存在であったという 歴史的意味に基づき、特記する場合がある。
一 、翻刻にあたっては、異体字・隷書・篆書・草書は、できる限 り正字体に直す。繰り返し記号は全て「々」で統一する。 一 、原文は基本的に全て白文であるが、それぞれ句点を施すこと と す る。 ( 但 し、 一 部 の も の に は、 も と も と 句 点 が 付 さ れ て い たため、 それはそのまま反映させる。 その際はその旨特記する。 ) 一 、判読不能の箇所には□を附し、脈絡や残存字形から類推して 読み取った文字は( )で覆って表記する。連続した文中に空 白箇所が認められる場合には(空)を付する。 一 、原文は追込みで表記することとし、改行は 」 で表す。 一 、 行 政 区 画 に つ い て は、 便 宜 上、 明 治 三 十 年 四 月 施 行 の「 郡 」 表記、明治初期における「村」表記を用い、さらに村内の集落 については「〇〇地区」と表記する。 資料一 吉野常利墓碣と由緒書 当該資料は、旧松ヶ島村在住永井泰子氏所蔵の巻物を翻刻したもの である。新発見資料である。この資料の存在は、永井家の古文書の整 理に与かる鎌倉街道を歩く会・鎗田誠氏のおかげで知り得た。紙面を 借 り て 感 謝 申 し 上 げ た い。 当 該 巻 物 は、 ① 成 島 司 直( 一 七 七 八 〜 一 八 六 二 ) に よ り 和 文 で 書 か れ た「 奉 先 報 徳 偈 」、 ② 筒 井 政 憲 (一七七八 〜 一八五九 ) ( 8 ) により漢文で書かれた「吉野常利墓碣」 、③旧 五井村・守永寺の住職闡譽上人により漢文で書かれた由緒書、④大江 堂よし彦による俳句の四部分から成る。本稿は、そのうち漢文部分の みを翻刻した。 永井家は、三河国吉野郷の出身で、松ヶ島村における草分け六家の 一つといわれ、天正八年以前にすでに該地に定住してい た ( 9 ) 。この巻物 で取り上げられている吉野常利(寛永六年没)は、当家の始祖にあた り、当該資料において、松ヶ島の地を開発した人物として、その活躍 が讃えられている。当家はこの人物から「吉野」を称し、代々にわた り、当主は「宇右衛門」を称し、名主・組頭を歴任した。松ヶ島村が 天 明 五 年( 一 七 八 五 )、 ① 榊 原 領 と ② 天 領 → 佐 貫 藩 領 な ど → 中 野 領 に 分かれて以後 は )10 ( 、後者の名主・組頭を歴任した。六代目宇右衛門の代 になると、宇右衛門が三男・銀蔵を伴って隠居分家を成し、吉野家は 二つに分かれ た )11 ( 。本家は屋号を「本郷」もしくは「七郎左衛門」とい い、 隠 居 分 家 は、 屋 号 を「 に い え 」 も し く は「 養 右 衛 門 」 と い っ た。 明治になると、両家共に「永井」姓に復した。守永寺の住職闡譽上 人 )12 ( による由緒書に明らかなように、当該巻物は本家「七郎左衛門」家と 分家「養右衛門」家に分有されたものである。当該の巻物の所蔵者永 井 泰 子 氏 は、 そ の う ち「 養 右 衛 門 」 家 の 継 承 者 で あ る。 「 吉 野 常 利 墓 碣 」 に 出 て く る 吉 野 常 房 は、 本 家 十 二 代 宇 右 衛 門 常 房 の こ と で、 「 大 江堂」もしくは「よし彦」と称し た )13 ( 。 吉野常利墓碣 吉野常房者、 上總州市原郡松島」之邑長也、 蓋其先永井平馬常利、 」
嘗捐三州之舊業而到此地、披榛」攘莽、及其室家、聿來胥宇、而 故 地 」 慕 賢 之 徒、 比 々 陸 續、 尾 蹤 而 來 歸、 」 于 茲 闢 田 起 廬、 乃 疆 理宣畝、 遂成」一邑矣、 常利嘗寓于同州吉野鄕、 」因以吉野爲族稱、 子 孫 冒 之、 寛 永 」 六 年 十 月 十 二 日、 常 利 終 于 家、 年 」 八 十 有 五、 常房其十一世孫也、 蓋」累世爲邑長、 上奉職下惠衆、 勉業」恤窮、 無所不至、是以闔邨信戴其敎」誨矣、今茲常房、樹石勒祖勲、欲 以」永貽于世、使子孫不隕祖業、不捐」家聲、乃謁成島司直、以 國語記其」事歴、今復請余以漢文銘之、其篤志」實可嘉尚也、依 銘之曰 遠去故園 到茲蠖蟄 薙荊披榛」爰肇安集 仰慕之徒 來歸成 邑」職業愈勤 家聲益熾 累世奉謨」孝子不匱 祖勲永傳 受天 錫類 時嘉永五壬子冬 七十五翁筒井憲撰 幷 書 二 公 賜 佳 藻 而 既 銘 之 碣、 更 寫 二 軸、 留 一 軸、 」 用 一 軸、 別 置 養 右 衛門道賢之家、 七朗」左衛門常房之先、 次門有三家、 七郎兵」衛、 七 郎 右 衛 門、 所 謂 養 右 衛 門 道 賢 也、 」 欲 以 籍 貫 之 功 勲、 與 成 邑 之 縁故、使永」四家之孫裔知之也、常房與余善友、筆」請余、々也 短毫愚蒙、辭不可、敢賦一絶」酬篤志云 來此肇披蓬 安居依祖功」芳蹤人所記 勒碑傳無窮 元治元年甲子十月十二日 守永蘭若十四住 闡譽順昇書 資料二 吉野常廣墓碣 「 吉 野 常 廣 墓 碣 」 は、 旧 松 ヶ 島 村 永 井 家 墓 地 に 現 存 し て い る。 筆 者 が調査するまで、厚く石灰化したコケの層に蔽われ、長く読解不能の 状態にあった。新発見資料である。この碑は、資料一に出てきた吉野 常房の父・十一代常広のことを語っており、常広が当地で医者として 活躍 し )14 ( 、さらに一時、江戸に出て松本養民と名のって開業をしていた ことを記している。また、常広は俳句でも著名だったらしく、半場里 丸 の『 杉 間 集 』( 一 八 二 六 ) の 配 本 控 え に「 松 ヶ 嶋、 吉 野 宇 右 衛 門 月 人 」 と 載 り、 そ の 俳 句 は 同 編『 雪 の か づ ら 』( 一 八 二 一 ) に 収 載 さ れてい る )15 ( 。書は(恐らく撰文も) 、次資料にでてくる岸光広である。 [表・題額] 吉野常廣墓碣 [表・本文] 吉野宇右衛門常廣、號鶴齋、月人、上總州市」原郡松ヶ嶋邨之人 也、 祖先永井常利長子」七郎左衛門平道丹九世之孫也、 家世爲里」 長、 幼 好 學 而 披 百 家 之 編、 紀 事 者 必 提 其 要、 」 纂 言 者 必 鈞 其 玄、 工 詩 歌、 能 書 數、 識 量 清 遠、 」 與 俗 不 同、 而 醫 術 亦 巧、 三 十 有 餘 而寓于東」都、號松本養民、數年後復歸于鄕焉、年四十」有三而 率、 于 時 天 保 九 戊 戌 年 仲 春 十 日 也、 」 不 肖 男 常 房、 不 勝 追 慕、 少
誌來歴、聊以述罔」極之念(空) (空)卽繋以銘、々曰 親族稱恩 鄕黨傳徳 奄忽而没」曷勝悽惻 述此數言 少報罔極 次男貞吉郎光廣書 資料三 岸氏壽藏碑 岸氏壽藏碑は、旧松ヶ島村永井家墓地に現存している。この碑も筆 者が調査するまで、厚く石灰化したコケの層に蔽われ、長く読解不能 の状態にあった。新発見資料である。この碑には、資料二に出てきた 吉野常広の弟・光広が、親戚である神谷文右衛 門 )16 ( を伝って西大平藩の 世話を受け、梅沢台陽(一八五九没)や大澤赤城(一八六五没)らに 教わったのち、岸素舩の養子となり、京橋五郎兵衛町に書家として自 立したことが書かれている。なお、ここには早稻田の正法寺に岸家の 墓地がある旨が書かれているが、同寺に現存していない。 以上、資料一 〜 三から、永井家が学徳豊かな家であったことを窺う ことができるわけだが、永井家は、かつて、旧君津郡高柳村にあった 至 徳 堂 の 教 授・ 正 木 幽 谷( 一 七 六 一 〜 一 八 四 六 ) に も 嫁 を 出 し て お り )17 ( 、これにより、永井家と至徳堂の漢学コミュニティとの関わりも想 定することができる。この岸氏壽藏碑を撰じた深川元携(一八一〇 〜 一八五六)が旧高柳村に近い旧君津郡飯富村の出身であることも同様 の意味で注目される。 [表・題額] 岸氏壽藏 [表・本文] 深川元携撰 䑓陽梅澤典題額 岸光廣、號一陽、稱貞吉、上總國市原郡松島邑長吉」野宇右衛門 常廣二子也、幼而學書、遍叩名家、以郷」里之師、寓於神谷善臣 之 家、 善 臣 稱 文 右 衛 門、 三 州 」 西 大 平 之 藩 臣 也、 居 外 櫻 田 之 邸、 以其親族、善資其」志、乃受業於䑓陽梅澤先生、又受韻學於赤城 大澤」先生、學業益進、終贅於岸素舩之家、爲書學之師、家」居 京橋五郎兵衛町、皆期其壽考有成、詎知天奪其」年、以嘉永六年 癸 丑 四 月 十 七 日 而 終、 春 秋 廿 有 八 」 兮、 葬 諸 岸 氏 吉 野 氏 之 先 塋、 卽 牛 込 早 稻 田 町 長 遠 」 山 正 法 寺、 與 上 總 國 市 原 郡 松 島 之 祖 墳 也、 有一女、 」名愛、年甫三歳、希紹其書學、余既與之同國、且有一」 面 之 識、 因 題 其 碑、 繋 以 銘 曰 弱 冠 有 名、 勤 學 不 息 」 天 奪 其 年、 千歳遺愛 友人巽齋梅澤敬之書 門人神谷俤藏善功 同 宇三郎 嘉永六年癸丑四月 岸氏民女 吉野相輔 資料四 阿闍梨憲英墓碑 当 該 資 料 は、 旧 白 塚 村 寺 町 地 区 の 徳 蔵 院 跡 に 現 存 す る 石 碑 で あ る。
算術に秀でた阿闍梨憲英の事績を綴っている。しかし、昭和初期の失 火により、石碑の欠け字・摩耗が目立ち、読み取れる文字に限界があ る。左面は右端も崩落し、表面と右側も損傷が激しく、暗がりに明か りを照らして読まなければ、ほとんど読み取れない。昭和初頭に数学 史家・三上義雄(一八七五 〜 一九五〇)が千葉県における算家を調査 した際、該寺跡に立ち寄り調査しているが、その際も、すでに失火し た後で、ほとんど現況と変わらない状態であった( 「西上総の諸算家」 『 新 訂・ 房 総 郷 土 研 究 』 青 史 社、 一 九 八 二、 九 一 一 〜 九 一 三、 九 二 二 〜 九 三 九 頁 )。 と こ ろ が、 筆 者 の 調 査 に よ り、 こ の 程、 石 碑 の 執 筆 者・ 谷鹿門(鴇矢鹿門 ) )18 ( の遺著複写が奇跡的に発見され、判読不能な部分 を補えることとなった。当該遺著は子孫宅で現在行方不明となってい るもので、再発見の可能性が絶望的な状況にある。しかし、万が一と 思い、 『上総の人・海保漁村』 (千葉日報社、一九七七)の著者・滝口 房州氏のもとを探り当てて訪れた際、氏が現在も遺著の一部分の複写 を所持していることがわかっ た )19 ( 。そこで今回、この氏のおかげで当該 碑文の全文回復が叶った。滝口氏には紙面を借りて、衷心から感謝申 し上げたい。なお、この石碑は墓石ではなく、墓石は同寺院跡奥に別 個に現存する。 以下の文は、現存石碑から直接採録したものに基づいた。三上氏は 石碑の採録を行い、上掲論文でそれを公表しているが、その採録には 誤字・脱字が散見されるため、拠ることはできなかった。鴇矢鹿門遺 著との校合は校注に示した。 [表] 阿闍梨憲英墓碑 [左] □□□□□□□□□□□□□□□□□□□(校1)岡氏」之二子 也、少□□□□□□□□(校2)有凌雲之志矣、已過」弱冠、而 翻然改曰、人生豈效尺寸之功、以垂名於竹帛」乎、年二十三、澹 然入佛門、 在大和(校3)豐山長谷寺、 勤學十」五年、 潜心篤志、 學於是乎進矣、出住于下總稻野山千」手院、而兼京師無量院持職 焉、年已七十、棲遅於南總」白塚村矣、君好算數、莵裘之地、門 無雜客、無事靜坐、潭」思於數學、至于天元勾肱(校4)圓截演 叚之諸術、無不盡其」精微矣、常曰、算數者、古聖王之所立、 隂 陽之流行、日月 [裏] 之光明、無些錯行、而天下之民、安其生者也、豈小々乎」哉、故 臨算珠盤、 正己閉邪、 無繊毫之私、 而後施乘除之」方、 則天之髙、 星辰之遠、可坐而知焉、況卑近易爲之事」乎、故土地之廣狭、經 界之□□(校5) 、井田之制、 □(校6)税之平、 無」不由算數(校 7) 而 均 焉、 然 則 上 經 濟 國 家、 下 至 脩 身 正 心、 而 」 不 可 缺 者 也、 君入佛門、夙有見于是、所謂以智剱敗煩」腦賊、六度八正、到於 彼 岸、 能 知 算 數 者、 具 修 百 千 苦 行、 」 功 徳 圓 滿、 爲 阿 僧 祇 者、 亦
在于此乎、天保十三年八月」六日以疾歿、享年八十一、葬於其所 居徳藏院境内精 [右] 舎之傍矣(校8) 、鮎川得源、慕君之行義、而學數術者有年、而」 又能上其堂、乃爲相謀立碑、使予銘、々曰 依 乘 寶 筏 渡 煩 腦 河 善 根 裁 植 □ □( 校 9) 棲 遅 」 深 好 算 數 極其奥義 世榮不慕 恬澹守厚」玄珉雖朽 餘響何滅 天保十五年歳在甲辰八月 鹿門谷元鼎撰 (校1) □□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 鴇矢鹿門 『致 一斎集』に拠れば、 「阿闍梨憲英、 幼名民之助、 下總國匝瑳郡椿村、 吉」 (句点は原文のとおり。以下同じ。 ) (校2)□□□□□□□□ 鴇矢鹿門『致一斎集』に拠れば、 「而 清 志 寡 欲、 頗 好 武 術 」。 石 碑 の 欠 け 字 部 分 に 残 存 す る 字 の 断 片 を 踏まえると、同碑には「清志寡欲、頗好武術」と書かれていたこ とがわかる。 (校3)大和 鴇矢鹿門『致一斎集』に拠れば、 「大和國」 ( 校 4) 肱 鴇 矢 鹿 門『 致 一 斎 集 』 に 拠 れ ば、 「 股 」。 石 碑 は 誤 刻 と思しい。 (校5)□□ 鴇矢鹿門『致一斎集』に拠れば、 「窪汚」 (校6)□ 鴇矢鹿門『致一斎集』に拠れば、 「賦」 (校7)算數 鴇矢鹿門『致一斎集』に拠れば、 「數術」 (校8)傍矣 鴇矢鹿門『致一斎集』に拠れば、 「傍」 (校9)□□ 鴇矢鹿門『致一斎集』に拠れば、 「至老」 資料五 梧桐園如圭道人墓碑 当該石碑は旧白塚村寺町地区の徳蔵院跡に現存する。すでに『市原 市 史 』 中 巻、 八 三 九 頁 に 概 略 と 抜 粋 が 紹 介 さ れ、 『 筆 子 塚 』、 『 市 原 市 史』資料集(近世編3上)に全文が採録されているが、誤字・脱字が 著 し く、 拠 る こ と は で き な い。 碑 文 は 全 て 現 物 か ら 採 録 し た。 な お、 撰 者 の 牛 眠 老 人 藤 龍 に つ い て は、 す で に、 市 原 ふ る 里 文 化 研 究 会 会 長・ 青 柳 至 彦 氏 著『 い ち は ら 歴 史 の 散 歩 道 』 第 百 五 十 九 話( 『 J A だ よ り 』 二 〇 一 二 ・ 七 ) に よ り、 柏 原 村 名 主 小 出 家 の 先 祖 に あ た る こ と が 指 摘 さ れ て い る が、 筆 者 の 調 査 で、 そ れ は 小 出 為 光( 天 保 十 一 年 没、 享 年 七 十 七 歳 ) と い う 人 物 に あ た り、 し か も こ の 人 物 は、 当 時、 柏 原 附 近 に 広 く 文 化 的 影 響 を 残 し た 人 物 で あ っ た こ と が わ か っ て き た。 この碑文は、武術と漢詩文に秀でた梧桐園如圭(広田高秀)が、放 浪の後、江戸で二徳亭収月に師事し、俳句を会得したのち、再び寛政 末年に放浪の旅をはじめ、市原郡能満村の日吉山神王院住職・秀 元 (72 ( の もとに滞在して寺子屋教授をしたのち、文政年間に該地白塚村にやっ てきて、寺子屋教授をしたことを記している。そもそも、収月は、雑 俳点者として知られ、これまでの研究で、竹堂、十竹堂、二徳亭、守
菊 亭 の 四 代 に 渡 っ て 存 在 し、 初 代 が 元 文 五 年( 一 七 四 〇 ) に 死 亡 し、 二代が宝暦七年(一七五七)に没し、三代は生没年不明で、 『福寿草』 『師恩月花集』 『百鵆』の撰集があり、四代も生没年不明で、一万余句 の万句合(文化十二)があるとされてい る )21 ( 。左記碑文によると、梧桐 園如圭は二徳亭収月に師事し、師匠の死後、その後を継ぎ「松閒舎収 月」と名乗り、やがて寛政末頃、弟子「守菊亭収月」に跡目を継がせ たとあり、この研究の空白を埋める可能性が期待できる。 [表] 梧桐園如圭道人墓碑 [右] 道人姓藤、名髙秀、字貞幹、號梧桐園如圭、邦畿殿城之人也、父 廣 田 髙 虎、 母 」 諏 訪 氏、 其 先 武 蔵 守 藤 秀 鄕 之 族 也、 受 邑 於( 淡 ) 海之廣田、遂以廣田爲氏、世稱」鄕右衛門、五世之祖髙鄕、慶元 中 當 於( 空 ) 本 邦 龍 興 之 時、 爲 散 騎 郎、 數 有 戰 」 功、 住 於 東 都、 三世以武見稱、 延寶年間有故而邑除、 於是萍遊入殿藩、 至道人五」 世、皆有名譽、道人溫和而滑稽、自爲兒、常好誹諧詞章、思念無 邪、頗有古人之」風、人以奇之、幼而喪父、累年又喪母、爲祖父 髙國被養、髙國固善於兵法、英氣」卓絶、年已過七十、猶有壮士 之姿、常試刀釼、是以道人亦朝暮勉勵、夙受十八般」之兵法、未 弱 冠 而 妙 得 其 術 矣、 最 善 於 騎 射、 長 而 讀 諸 子 百 家 之 書、 事 詩 賦 」 文章、 頗嗜老荘、 又有四方之志也、 天明之初、 遂辭禄、 躡 蹻 擔簦、 而遊於名山舊」墟、每風景必吟咏、移時讀其遺稿者、勝景如示掌 也、 終 踰 函 嶺 而 至 東 都、 」 主 於 二 徳 亭 収 月、 於 是 都 下 之 説 兵 法 者 與誹諧詞章之徒、皆聞道人衆技 [裏] 之富而望風、結交者衆矣、一日、収月謂道人曰、予是國風聯歌之 支流、而」瑣々技藝固不足論、然至予三世未廢其業也、今老耄無 子、幸養季」父澤田氏之女、有年願以配先生、先生能爲予贅以嗣 先人之業乎、否」請再三、辭氣愿款也、道人觀其言之切、而終許 諾之、 以妻澤田氏、 歳餘」収月病而没矣、 於是道人號松閒舎収月、 然道人固好山水故居、都下塵」土之鄕、非其志也、於是擇門人有 可以嗣業之才而譲焉、今稱守菊亭収」月者其人也、寛政之末、又 携妻遊歴二總之閒、南總府之釋秀元、聞道人之風」厚聘之、於是 留杖於秀元、有年鄕黨閭巷受業者數百人也、道人始讀佛」經以爲 其説過老荘矣、 文政中應招、 又移於白塚里、 而弟子彌衆矣、 文政」 中、妻澤田氏没、道人獨居自若矣、今茲丙戌冬自封墳墓曰、衰老 無 子、 不 可 」 不 備 不 虞 也、 門 人 相 議 曰、 如 先 生 者、 徳 行 君 子 也、 須記其言行、以傳不朽、道 [左] 人曰、噫小子、此何言乎、夫孝者、徳之本也、始於事親、中於事 君、 終於立身、 吾」在家而不能事親、 其罪一矣、 在國而不能事君、 其罪二矣、嗣業而不能立」身、其罪三矣、何有我之言行可以傳來
世者乎、門人退又議曰、不幸而去父母」之國者、何啻先生乎、古 人皆然也、辭禄周流四方、豈其私乎、果不可謂三罪」也、強營墓 碑、使予記其言行、乃爲之銘、々曰 巖々之石 其形依然 粼々之水 其流不盡」箕山之風 蓬戸之 心 長松獨立 自有徳音 文政九年歳在丙戌十一月 南總 牛眠老人藤龍撰 資料六 進藤正家廟由緒書 当該資料は、旧町田村在住の佐々木伸明氏所蔵「街田邨内系図 」 )22( に お い て、 「 正 家 」 の 条 に 付 さ れ た 廟 に つ い て の 記 述 を 採 録 し た も の で ある。この資料も新発見資料である。進藤正家の開発地主としての活 躍ぶりを讃えている。進藤正家廟は現在残っておらず、これについて は全く不明であるが、その廟に記されていた由緒書を採録したものだ ろ う。 な お、 資 料 六、 八 〜 十、 注 二 十 六「 月 瀨 荻 野 先 生 之 碑 」 の 発 見 は、 旧 町 田 村 在 住「 に い や 」( 後 出 ) の 当 主 佐 々 木 規 夫 氏 の ご 助 力 な しにはあり得なかった。紙面を借りて、衷心からお礼申し上げたい。 旧 町 田 村 の 進 藤 氏 は、 近 江 の 佐 々 木 氏 に 由 来 す る と 伝 え ら れ る。 『 郡 誌 』 所 載 の 従 来 の 説 )23 ( に よ れ ば、 天 正 七 年( 一 五 七 九 ) に、 近 江 の 佐 々 木 照 長 の 子 孫 で、 旧 海 保 村 切 生 地 区 在 住 の 進 藤 加 賀 介 の 弟・ 玄 蕃、図書が町田村に移り、農に帰したことに始まるとされ る )24 ( 。これに 対し、同系図では、長享年間(一四八七 〜 一四八九)以降(時期は左 記 由 緒 書 に よ る )、 佐 々 木 秀 長 の 長 男・ 照 長 が 海 保 村 切 生 地 区 に 居 を 構え、その弟玄蕃正家(一五四八没、享年八十四歳)が初めて町田に 居 を 構 え た も の と 語 ら れ て い る。 そ し て、 玄 蕃 正 家 の 子 に 玄 蕃 正 延 (一五九〇没) ・図書の兄弟があり、図書は分家し、玄蕃正延が本家を 継いだのだという。本資料は、進藤氏(佐々木)が町田にやって来た 時節・いきさつについて、従来説と食い違う主張がなされており、興 味 深 い。 同 系 図 に よ れ ば、 本 家( 屋 号「 上 」) は、 そ の 後、 源 左 衛 門 元 知、 宗 左 衛 門 元 政、 惣 左 衛 門 正 勝、 惣 左 衛 門 正 能、 惣 左 衛 門 正 次、 惣左衛門正意、惣左衛門元寛、惣左衛門弥平次、惣左衛門元重、惣左 衛門元康、惣左衛門元長、玄蕃正長、正路と続き、正路の代で「佐々 木 」 姓 に 復 し、 そ の 後、 三 代 を 経 て、 現 当 主・ 信 明 氏 に 至 っ て い る。 当 家 は、 代 々 名 主 を 務 め、 寛 永 十 六 年( 一 六 三 九 )、 町 田 の 知 行 が 中 島 組、 川 瀬 組 に 分 か れ た )25 ( 後 は、 中 島 組 の 名 主 も し く は 組 頭 を 歴 任 し た。当家からは、さらに、源左衛門元知の弟・市左衛門、同弟・源兵 衛 を 始 祖 と し て、 そ れ ぞ れ「 む こ う が ら 」「 か ど 」 が 分 家 し、 宗 左 衛 門 元 政 の 弟・ 庄 九 郎 を 始 祖 と し て「 に い や 」 が 分 家 し、 さ ら に「 に え」 「勇右衛門」など(後述)が分家した。 正家 玄番 將略有餘、無由展其用、退而隱、處」則其地恃之爲長城、没則百 世廟」食香火不匱、 中嶋進藤氏之先曰、 」佐々木秀義、 近江鉅族也、 世 稱 之 」 近 江 源 氏、 秀 義 之 後 曰、 太 郎 秀 長、 」 其 第 二 子 諱 正 家、
以名家之子、少」居將師之任、文才將略、固其天挺、 」豐功偉績、 炫赫史牒、 長享中、 遭内」難、 避讒、 東奔上總、 居中嶋、 因易今」 姓、 闢荒鉏廢、 築室居焉、 時海内兵」革、 流寇方煽、 民不得安息、 正家著」戎衣、執兵器、親禁其暴、旁勸課」農桑、惠恤孤寡、於 是 衆 皆 悦 服、 」 相 議 推 君 爲 里 正、 世 襲 其 職、 君 」 年 八 十 四、 天 文 十七年戊申春」三月十三日、 罹疾而没、 法諡曰、 」江源院正壽善應、 土人沐浴遺惠已」久矣、乃建廟祀之 資料七 進藤家遠祖碑 この資料は、旧町田村不動院跡に現存している。碑文に拠れば、こ の石碑は、江戸後期における進藤(現佐々木)本家の当主正長が、寛 政期に消失した進藤玄蕃正家、同玄蕃正延の碑を再建したものなのだ という。撰者の鹿門老人鴇元鼎は、上掲鴇矢鹿門のことで、当時、こ の地方を代表する学者であった。書を書いたのは、当時能筆家として 知れていた進藤勇右衛門知 英 )26 ( である。当該碑文については、すでに滝 口房州氏が滝口光之名義で、ほぼ全文を正確な書き下し文で紹介して い る )27 ( 。 [表] 江源院正壽善應禪定門 慈雲院無量觀海禪定門 [左] 古之君子、 祭之日、 僾 然有見、 其追遠也、 愨々敬享、 如今」日者、 厚 之 至 也、 進 藤 英 次 正 長 之 遠 祖、 進 藤 玄 蕃 正 家、 」 同 玄 蕃 正 延、 在 天 文 天 正 之 閒、 方 今 經 三 百 有 餘 年 矣、 」 遺 碑 在 郷 里 海 保 邨 遍 照 院境内、寛政中、嬰於回録之」災、遂失二碑之所在矣、正長乃以 謂已失先古之碑、豈」謂子孫永不廃祭乎、於是新刻二祖之諡、與 父 元 長 之 」 諡 於 石、 以 建 于 町 田 邨 不 動 院 境 内、 嗚 呼 正 長 亦 淳 厚 」 追遠之孝子哉 弘化四年歳次丁未二月 鹿門老人鴇元鼎識 藤知英書 [裏] 江 天文十七 申 年三月十三日 玄蕃 慈 天正十八 寅 年八月三日 玄蕃 安 天保九 戌 年正月廿四日 惣左衛門 [右] 安養院觀阿道春居士 資料八 街田保食祠碑 当 該 資 料 は、 旧 町 田 村 在 住 の 佐 々 木 伸 明 氏( 屋 号「 上 」) 邸 内 に 現 存している。新発見資料である。この石碑は、町田村中島地区の後園 に稲荷祠を建設した由来を記すと同時に、進藤(現佐々木)氏が町田 村を開拓したいきさつも記している。本資料は、進藤氏が町田にやっ て 来 た い き さ つ に つ い て、 資 料 六 と と も に、 従 来 説 と 食 い 違 う 時 節・
いきさつを述べており、興味深い。 [表・題額] 街田保食祠碑 [表・本文] 街田保食祠碑 芹塘久野庸善撰 鼎齋生方寛書 幷 篆額 總州街田里正進藤正長、攜其家譜來、謂予曰、此所以吾家建稻 荷神」祠、將勒之石、願子之潤色之也、予謂正長不惟能績祖先 之緒、又能欽」其所奉崇、將以令後昆有所敬焉、甚可嘉也。乃 約其譜曰、正長之先正」家、稱玄蕃、實江原秀義之裔太郎秀長 之第二子、始詣京師、冒進藤氏、 」爲 天朝北面青侍、家舊藏稻荷神像、而正家居恒祈念護持、長享二辭 職、來」南總街田、闢草莱、 填 漸 洳、 墾 土 田 家 焉、 其 所 居 曰 中 島、於是乎、細民編」伍、成村落、乃相謀創神祠於後園、以爲 土之主、爾來進藤氏之家、春秋」奉祀之、爲中島之地也、延袤 數十里、丘林有焉、川澤有焉、稻田萬頃、最」爲總中膏腴、而 正家子孫多有之、 世襲里正、 傳至正長、 蓋十九世云、 銘」曰 偉 彼遠祖、斯創茲里、續舊傳新、綿綿祭祀、孝子不匱、神之所祉 天保十四歳次癸卯仲春初午日 後孫進藤正長謹建 資料九 勇右衛門家先祖代々墓 当該資料は、旧町田村の勇右衛門家墓地に現存する墓碑である。新 発 見 資 料 で あ る。 こ れ ま で 代 官 名 主・ 進 藤 勇 右 衛 門 家 に つ い て は、 『郡誌』町村篇、 『市原市史』中巻、五〇九頁で取り扱われたほか、研 究上、何らの進展も遂げていなかったが、本資料 〜 資料十一により多 く の 新 事 実 が 明 ら か と な っ た。 「 勇 右 衛 門 」 家 は、 貞 享 四 年( 一 六 八 七 ) )28( 、 進 藤( 現 在 は 佐 々 木 ) 本 家( 「 上 」) の 当 主・ 正 意 が、 二 男 宗 ( 惣 ) 右 衛 門 を つ れ て 隠 居 分 家 し た こ と に 始 ま る。 そ の 後、 惣 右 衛 門 又七郎、惣右衛門実延(平蔵) 、実敏(弁蔵)を経て、さらにその子 ・ 知意のとき、初めて勇右衛門を称した。この勇右衛門知意の子が注二 十 六 に 記 し た 勇 右 衛 門 知 英 で あ る。 こ の の ち、 当 家 は 勇 右 衛 門 千 濤 )29 ( 、 勇 太 郎 と 続 き、 現 当 主 の 惣 一 氏 は、 そ れ か ら さ ら に 三 代 目 に あ た る )30 ( 。 また、惣右衛門又七郎の弟・九兵衛が江戸橋町三丁目「花屋」の祖と な り、 そ の 孫 が 町 田 村 中 島 地 区 在 住 の 鈴 木 氏 に 婿 入 り し、 分 家「 に え 」 が 創 始 さ れ る。 さ ら に、 惣 右 衛 門 又 七 郎 の 弟・ 五 良 七 も 分 家 し、 「かんこう」の祖となる。 「勇右衛門」家は江戸期、中島組の名主や代 官名主(触元)を務めると同時に、この地域では指折りの素封家とし て 知 ら れ、 例 え ば、 明 和 三 年( 一 七 六 六 )、 海 保 村 の 遍 照 院 が 石 段 を 作った際の寄進者を記した石 碑 )31 ( には、当時旧海保村中郷地区で一番裕 福だった鴇矢虎右衛 門 )32 ( が一両二分出しているのに対し、宗(惣)右衛 門(当時の当主は惣右衛門実延)は五両出してい る )33 ( 。 当該墓碑は、勇右衛門知意が寛政八年(一七九六)春の洪水を受け て、大祖進藤正家以来の墓を現地に移した旨を書いたものである。そ
もそも、それは大父・実延(一七一三頃 〜 一七七 二 )34 ( )が、村北にあっ た玄番(天正年間(一五七三 〜 一五九二)没)の墓がしばしば浸水す るようになっているのを煩い、 川北に設けていた実延の祖母 (一七五〇 没 )35 ( )の墓域に移したものの、寛政八年(一七九六)春の洪水でそれら が 壊 滅 せ ん と し た か ら な の だ と い う。 樋 口 義 幸 氏 に よ る と、 養 老 川 は、従来、町田を基点に西南に流れていた流路を、寛政前 後 )36 ( に大きく 西北に変更したことが指摘されている。当該墓碑に書かれている「今 茲春復水出、川流轉易」は、まさにこの頃に起きたことを語っている ものであり、この碑文は、今後、この研究のために有益な資料となる だろう。書を書いた「萬松齋芳古道人」は、旧五井村上宿地区在住の 中 島 家( 屋 号「 松 本 」) が か つ て 寺 子 屋 を し て お り、 幕 末 に 死 亡 し た と思しい二世万松 齋 )37 ( を輩出していることから、一世万松齋に当たる人 物と思われる。 [表] 先祖代々墓 [左] 寛政八年丙辰歳三月、謹移大」祖正家以迠先人實敏・繼父敏」泰 歴 世 之 墳 墓 矣、 往 昔 天 正 中、 」 玄 番 没、 葬 邑 北、 後 是 卜 兆 於 其 」 側面、地近川水、氾濫數噛兆域、 [裏] 大 父 名 實 延 憂 之、 先 是 葬 其 祖 」 母 於 川 北、 於 是 幷 移 墓 於 其 地、 」 今茲春復水出、 川流轉易、 墓將」爲之壞、 知意乃盡移之今地、 烏」 虖 、我閒此衆生必死、死必歸土、 [右] 此謂鬼、魂氣歸天、此謂神、合鬼」與神而享之、敎之至也、爲人 子 」 者、 不 可 不 享 此 也、 聊 立 墓 石、 以 」 報 祖 先 罔 極 之 恩、 後 嗣 」 之者、勿敢怠祭祀焉矣 進藤知意謹識 萬松齋芳古道人、因古法書 資料十 進藤仲寧墓誌銘 この石碑は、旧町田村の勇右衛門家墓地に現存する。この資料も新 発見資料である。この碑文からは、勇右衛門家の当主・進藤実敏(弁 蔵)の子・知意に、男子がなかなか生まれず、やむを得ず弟・懋德を 跡目にして、家を継がせたものの、その懋德も短命で死亡してしまっ たことが書かれている。撰者の菊間直とは、旧島野村の菊間士直(後 出)のことであろう。だとするならば、この撰者もこれを撰した直後 に、死亡したことになる。書をかいた中嶋德齋は、資料九が旧五井村 上 宿 地 区 在 住 の 中 島 家( 屋 号「 松 本 」) の 先 祖 が 書 い た と 思 し い こ と から、同じ一族であることを予想できるが、不明である。 [表] 文孝院實相了吽居士 [左]
進藤仲寧墓誌銘 君名懋德、字仲寧、父實敏、母山腰氏、伯兄曰」知意、仲寧三歳 喪父、其母操行甚高、恤養幼」孤、仲寧成長、能事母與兄、伯兄 娶根本氏之」女、無子、故以仲寧爲嗣、仲寧幹事、家政善治、 [裏] 既 而 罹 病、 以 寛 政 九 年 閏 七 月 二 十 三 日 没、 」 年 二 十 八、 親 戚 朋 友 慟哭、不堪哀、嗚呼、仲寧」叡悟聰明、自幼好學、不愧下問、又 善草隷、其」業有進、不幸短命没、余嘗友善、故記其生平」以不 朽之於石、 幷 銘(空)銘曰 [左] 克敏伊子、維秀維棼、耽心儒術、游目」典墳、兼又善書、云與斯 文、如何昊天、 」降 菑 於君、嗚呼命哉(空) (空)菊間直誌 德齋書 德齋者、仲寧之妻中嶋氏之從兄也、因爲書之 資料十一 山子旭之墓 当 該 資 料 は、 旧 二 十 五 里 村 下 河 原 地 区 の 山 越 家( 屋 号「 本 郷 」「 三 郎 兵 衛 」) の 墓 地 に 現 存 す る。 こ の 資 料 も 新 発 見 資 料 で あ る。 こ の 墓 碑は、資料十で述べられている進藤懋德が撰し、かつ建設したもので ある。資料九にでてきた知意はその兄にあたる。資料十では、進藤実 敏(弁蔵)の子・知意に男子が生まれず、やむを得ず弟・懋德を跡目 にして、家を継がせたものの、その懋德が短命で死亡してしまったこ とが書かれていたが、この碑文では、その少し前の勇右衛門家の事情 を記している。該碑によれば、進藤実敏(弁蔵)が死亡した際、跡取 りの知意はまだ赤子であった。そのため、実敏の弟・敏泰が跡を継い だのだが、敏泰もしばらくして死亡してしまったのだという。知意は 恐らく、この後暫くして相続したと思われる。また該碑によれば、進 藤敏泰の妻・山腰(越)氏の実家にも、同様のことが起きていた。山 越 家 で は、 当 主・ 三 郎 兵 衛 が 死 亡 す る と、 跡 継 ぎ が い な か っ た た め、 やむなく、その弟・利兵衛に嗣がせた。しかし、その利兵衛も後継ぎ がないままに死亡してしまい、そこで、進藤敏泰と山越氏の間に生ま れた知信を山越家に養子に出した。しかし、その知信も二十二歳で夭 折してしまったというのである。 [表] 山子旭之墓 [左] 是 廿 五 里 邑 山 腰 利 兵 衛 之 義 子 知 信 之 墓 也、 」 知 信 字 子 旭、 幼 名 八十六、實懋德之同母弟、而」母則山腰三郎兵衛之長女也、三郎 兵衛有女、 」無男、 弟利兵衛爲嗣、 利兵衛又無嗣、 故知信爲」義子、 明和壬辰、 先人没之日、 以家兄知意之在」襁褓、 而叔父敏泰爲繼、 安永丙申五月繼父、又 [裏]
没、 時 年 二 十 二、 乃 有 遺 腹、 以 同 季 十 月 廿 一 日 」 生、 卽 知 信 也、 幼而穎悟、孝弟溫文、及其長、則將」爲偉器可知也矣、而寛政癸 丑九月廿二日、 俄」然罹病卒、 享年僅十八、 親戚慟哭、 朋友悲悼、 不」可言也、父子不相見、而相與短折、何爲其不幸、 」抑亦天乎、 命乎、且人生而立身、則顯其親、没而 [右] 有嗣、則濟其美、知信無一於茲、家母甚太痛惜、 」於是樹碑表墓、 大峯先生銘之、銘曰 梨花先晩風飛、梨實遭寒雨落、父子不及相見、 」嗟乎、奈命之薄 寛政七季乙卯九月 町田 藤懋德序 幷 建 東峨源彭書 資料十二 征矢正壽翁墓表 当該資料は、旧海保村上郷地区・公家之台に現存する征矢家(屋号 「 つ か ご し 」) の 墓 碑 で あ る。 「 つ か ご し 」 は、 こ の 付 近 の 古 老 に よ っ て、爾来、伝説的な存在として語られてきたが、明治末年に磊落して 以 降、 行 方 不 明 と な り )38 ( 、 県 会 議 員 を 務 め た 征 矢 善 四 郎 )39 ( に 関 す る ほ か、 そ の 実 態 は 全 く 分 か っ て い な か っ た。 今 回 発 見 し た 資 料 十 二 ・ 十 三 か らは多くの新事実が窺える。この碑は、征矢正寿(一八六五没)が勤 勉に努力を重ね、数年後に、地域における富豪となったことや、さら に文化末年から文政元年(一八一八)まで、領主筒井政憲に士分に取 り 立 て ら れ 崎 陽( 長 崎 ) ま で 随 行 し た 後、 文 政 八 年( 一 八 二 五 )、 父 の 跡 を 継 い で 名 主 と な っ た こ と、 ま た、 嘉 永 三 年( 一 八 五 〇 )、 筒 井 政憲が近海岸見聞御用に任じられ、房総諸州を巡視した時に征矢家に 立ち寄り、この際、屋根をふき替え、新たに屋敷を建てて出迎えたと ころ、その褒美として書を賜り、名字帯刀を許されたこと、嘉永七年 (一八六〇) 、再び江戸に召し出され、中小姓に取り立てられたことが 記されている。撰文は、旧海保村中郷地区の鴇矢元 彰 )40 ( による。 [表] 玄了院大法演義居士 [左] 征矢正壽翁墓表 翁諱正壽、 征矢氏、 通稱市郎右衛門、 上總海保」村人也、 祖諱某、 父諱某、皆有善名、翁夙有興家」之志、勤儉自率、夙夜不怠、於 是乎貨財大殖、數」年之閒、富冠一郷云、征矢氏之家、世爲」和 泉 守 筒 井 君 采 地、 文 化 之 末、 ( 空 ) 筒 井 君 任 崎 」 陽 鎮 䑓、 翁 列 士 從行、文政紀元戊寅之年、辭而」歸省于家、八年、繼父之跡爲里 正、嘉永三年秋 [裏] 七 月、 ( 空 ) 筒 井 君 遷 任 紀 伊 守、 巡 視 房 總 諸 州 之 」 邊 海、 歸 途 枉 駕於征矢氏之家、 翁新葺屋構亭、 」尊崇備至焉、 (空)君嘉賞之餘、 有自書之賜、又許」稱姓佩刀、七年春二月、再召入江都、進班中
小」性、託以小梅別墅、居數年、致仕歸、慶應紀元歳」次乙丑冬 十 一 月 十 七 日、 以 病 歿 于 家、 享 年 七 」 十 有 六、 葬 於 先 人 之 墓 側、 配鴇矢氏、生一男三」女、男正般嗣家、三女皆嫁焉、翁爲人、溫 厚沈實、 [右] 其實足於中而其華不見於外、 (空) 筒井君擢翁」 於耒 耟 之閒、 如眷々 不 能 遺 者、 固 非 偶 然 也、 嗚 」 呼、 翁 之 徳、 其 可 不 以 表 於 後 世 哉、 翁没之明年、 」正般使余表其墓、余於翁爲父執、又有通家之」義、 不得辭以不文也 慶應二年丙寅冬十一月 鴇矢 元彰表 孝子 正般建 資料十三 征矢君墓碑銘 こ の 資 料 は、 海 保 村 上 郷 地 区・ 公 家 之 台 に 現 存 す る 征 矢 家( 屋 号 「つかごし」 )の墓碑である。資料十二と同様に、これも新発見資料で あ る。 当 該 資 料 は、 資 料 十 二 に 出 て き た 征 矢 正 寿 の 長 男・ 征 矢 正 般 が、 十 八 歳 に な っ て 家 政 を 担 い、 弘 化 三 年( 一 八 四 六 )、 名 主 見 習 と な り、 嘉 永 五 年( 一 八 五 八 ) 頃、 正 式 な 名 主 と な っ た 後、 文 久 二 年 (一八六二) 、苗字帯刀を許され、その後、士分に取り立てられ、明治 元 年( 一 八 六 七 ) 〜 七 年( 一 八 七 四 )、 再 び 名 主 を 務 め た こ と が 記 さ れている。また、筒井政憲の第三子・検校福住順賀の娘を養女とした ことも記されている。この正般のもとに、旧青柳村北青柳地区・山下 家( 屋 号「 は し む か い 」) か ら 養 子 に 入 っ た の が、 資 料 十 二 に 記 し た 善 四 郎 で あ る。 撰 文 は、 漢 学 者・ 小 貫 庸 徳 )41 ( に よ る。 小 貫 庸 徳 の 妻 が、 筒井氏であることはその墓碑によって知られていたが、それが筒井政 憲の孫娘にあたることは、この資料で初めてわかった。 [表] 明徳院健公惠長居士 [裏・題額] 征矢君墓碑銘 [裏・本文] 陸軍少佐勲四等從六位筒井義信篆額 君諱正般、 稱健藏、 別號竹里、 征矢氏、 上總市原郡東海村海保人、 家世業」農、 考諱正壽、 稱市郎右衛門、 妣鴇矢氏、 君十八歳當家、 勤 儉 從 事、 家 道 漸 」 裕、 海 保 本 屬 幕 府 奉 行 筒 井 肥 前 守 政 憲 采 地、 弘化丙午春、君試里正、越」六年、進爲眞、文久壬戌秋、許姓氏 佩刀、蓋異數也、後又進班士爲委吏、明」治元年、本村始屬宮谷 縣、後歴菊閒、木更津、更轉千葉、君以里正鞅掌、其」閒廉名四 聞、 七年九月辭職、 廿二年夏、 俄獲病、 沈綿累月、 遂以七月廿二」 日 歿、 葬 於 本 村 南 郊 先 塋 之 次、 法 諡 曰 明 徳、 原 配 手 島 氏、 先 歿、 生一男曰」市藏、夭、一女曰久、繼配日吉氏、無子、養姪山下氏 子 善 四 郎、 配 以 女、 爲 本 」 村 村 長、 君 爲 人 恭 遜、 少 學 鴇 矢 鹿 門、
略有所得、持己儉素、好酒不多飲、接」人和易、不加以聲色、最 長理財、家致累巨萬、房總二州不乏素封、而未有」速致富饒如君 者、君好爲善視佃戸如子、饑寒困窮、必賑恤之、是以人莫」不敬 愛焉、撿校福住順賀、肥前守第三子也、戊辰冬、有故來倚君、君 以其」爲故主子、厚遇之、順賀無子、有一女、君養爲子、遂歸於 余、 君 之 歿、 嗣 子 經 」 紀 後 事、 嘱 銘 余、 余 已 爲 姻 屬、 義 何 得 辭、 乃銘曰 儉素自率 終始克勤 富能潤屋 徳能潤身 芝玉爲嗣」根蒂益 堅 綽綽餘裕 以垂後昆 君之不朽 豈止斯文 明治二十四年龍集辛卯七月 小貫庸徳撰 中根聞書 伊藤米年鐫 資料十四 菊間家念祖碑 当 該 資 料 は、 旧 島 野 村 谷 島 野 地 区 在 住 の 菊 間 敬 治 家( 屋 号「 上 」) に 現 存 す る 石 碑 で あ る。 新 発 見 資 料 で あ る。 こ の 碑 に は、 開 発 地 主・ 菊間氏の往古からの歴史が概略されている。これは菊間藤左衛門文彬 ( 一 八 〇 五 〜 一 八 七 七 ) が、 子 弟 の 縁 を 頼 り に、 大 澤 赤 城( 一 八 六 五 没 ) に 執 筆 を 依 頼 し た も の だ が、 ほ ぼ 同 内 容 の 和 文 が「 祖 先 旧 記 覚 」 (『 市 原 市 史 』 資 料 集( 近 世 編 2) 一 五 〇 〜 一 五 一 頁 ) に 記 さ れ て い る。 該 碑 に よ れ ば、 景 行 天 皇 の と き、 宇 馬 野 郷 に 住 ん で い た も の は 十二人に過ぎなかったが、祖先・宇馬野藤内は、その際、その首長を 務 め て い た。 陽 成 天 皇 の と き、 島 穴 神 社 に 奉 幣 使 が や っ て 来 た 際 は、 藤内某がその先導をし、この際、地名を「島野」と改めた。文明年中 (一四六九 〜 一四八七) 、藤内信文のときに、養老川が氾濫し、字・古 屋 敷 か ら 現 宅 地 に 移 っ た。 ま た、 藤 内 信 文 は、 菊 を 大 変 好 ん だ た め、 姓を「菊麻」に改めた。数代して、五良作教文は、長男・政文に跡目 を 継 が せ る 一 方、 弘 治 二 年( 一 五 五 六 )、 次 子 に 別 家 を 建 て さ せ た (九郎右衛門家の 祖 )42 ( )。三代後、 藤左衛忠文は、 慶長二十年(一六一五) 、 検 地 の 際、 そ の 案 内 役 を 担 っ た。 そ れ か ら 七 代 目 藤 左 衛 門 義 文 の と き、 宝 暦 八 年( 一 七 五 八 )、 そ の 弟・ 義 房 )43 ( が 別 家 を 建 て た。 し か し、 その義房は眼病を患っており、家政が執れないので、兄の次男・万五 郎某がその後継ぎとなり、与平次家の祖となったという。そして、自 分(藤左衛門文彬)が、現在、無事に村政を担えているのも、祖先の 遺徳のおかげなのであり、子孫に向けて、決して先祖の築いた事績を 貶めないようにと戒めている。 [表・題額] 念祖碑 [表・本文] 東都 赤城大澤賚撰 上 總 國 宇 馬 野、 今 市 原 郡 屬 邑 也、 其 里 長 曰 菊 麻 」 藤 左 衛 門 文 彬、 嘗學韻學於我、是歳癸丑春、出都訪」我、乃謂曰、在昔景行天皇 時、 住焉者十又二人、 而吾遠」祖宇馬野藤内、 爲之首長、 數世後、
亦稱藤内某、陽成天皇」之朝、有奉幣使于土神島穴明神、藤内爲 之郷導、 是時改邑曰島野、 蓋」因神號也、 其後數世、 藤内信文時、 文明年中、 養老川溢、 田畝紊亂、 故自」今呼古屋敷所、 遷今宅地、 信文性甚好菊、愛養備至、乃改氏曰菊麻、菊」取其芳、麻取其直 也、又數世稱五良作教文、生二子、教文老而嫡政文」爲之後、弘 治二年、教文將次子某別建家、今九良右衛門祖也、其三世」稱藤 左衛忠文、當慶長二十年、 (空)縣官新正經界也、忠文爲之郷導、 忠」文七世亦曰藤左衛門義文、寶暦八年、其弟義房、別建家、不 幸 有 眼 疾、 」 不 能 爲 家、 養 兄 次 子 萬 五 良 某 爲 嗣、 今 與 平 治 祖 也、 嗟乎、 自藤内爲里」長、 世々皆公廉儉恭、 能不廢其職、 經年數百、 歴 世 數 十、 到 乎 今、 如 愚 不 」 肖 文 彬 者、 所 以 管 轄 闔 邑 賦 税 之 事、 不爲衆人所卑視者、皆是祖先餘」徳所致、而文彬不肖之力、毫無 有也、可不畏哉、可不敬哉、於是乎略記」其所由、而勒諸石、庶 幾欲使爲吾孫子者視之、而夙夜勉勵、無墜其舊」業焉、先生以爲 何如、我聞之曰、於戯孝哉、文彬勿念爾祖、聿脩其徳、其」吾子 之謂邪、速襄其事銘曰 綿聯菊麻 總之舊家 世々勒職」無可殄瑕 今茲堅珉 不磷雖 磨」孫兮子兮 仰止嗣嘉 資料十五 菊間家念祖碑移転の碑 資料十四は、もともと、かつて存在した菊間家の裏口に通じていた 道路沿いに建てられていたらしい。当該碑は、その跡地に建てられて いる。南摩綱紀(一八二三 〜 一九〇九)に撰文を頼んでいる。新発見 資料である。該碑に出ている菊間栄三郎は、明治四十四年、四十九歳 で没している。 [表] ( 菊 ) 間 氏 念 祖 碑、 ( 本 ) 在 此 處、 數 十 世 孫 榮 」( 三 ) 郎、 恐 塵 土 浼 之、移之庭内、更建此碑、 」請余(記)其由、因識之云 明治□□年三月 從六位南摩綱紀 資料十六 菊溫夫墓碑銘 当該資料は、旧島野村谷島野地区の三光院跡に現存する菊間士直の 墓碑である。新発見資料である。該碑は、裏側・右側の摩耗・欠損が 著しく、暗がりに明かりを灯して、長時間観察することで、はじめて 判 読 し 得 た。 該 碑 に よ る と、 若 き 士 直 は 漢 詩 に 秀 で、 そ の 向 学 心 か ら、置手紙をして勝手に家を飛び出し、江戸で塾を開いていた池田貞 のもとに学びにいってしまった。そして、そこで三年学んだのち、母 親( 征 矢 氏 ) の こ と が ど う し て も 心 配 に な り、 や む な く 帰 宅 す る と、 母親は果たしてすでに病褥にあり、間もなく死んでしまった。そのこ とにショックを受けた士直自身も、摂食に障害を来し、急死をしてし まったのだという。 資料十四では、藤左衛門義文(茂文)までの菊間氏の来歴が記され
ていたが、これ以降については、西脇康氏の研 究 )44 ( に詳しい。同氏によ る と、 藤 左 衛 門 茂 文 は、 そ の 父・ 藤 左 衛 門( 法 寿 ) の 跡 を 継 い だ あ と、名主、割元兼帯を担い、宝暦十三年(一七六三)に没した。その 次 の 代・ 藤 左 衛 門 光 照 は、 名 主 に 就 任 し な い ま ま、 天 明 元 年 ( 一 七 八 一 ) に 没 し た が、 そ の 次・ 藤 左 衛 門 秀 信 は、 割 元、 徒 士 格 と なり、寛政六年(一七九四)致仕した。その次・藤左衛門秀寿は、名 主、 割 元 徒 士 格 と な り、 天 保 七 年( 一 八 三 六 )、 六 十 五 歳 で 没 し た。 そ の 次・ 藤 左 衛 門 文 彬 が 落 合 宇 右 衛 門 家 か ら 養 子 に 入 り、 名 主、 割 元・徒士格、名主となり、明治十年に没したという。この文彬が、資 料十四で大澤赤城に撰文を依頼した人物である。菊間士直は、寛政九 年( 一 七 九 七 )、 二 十 歳 で 没 し て い る。 こ の こ と か ら、 そ の 父 藤 左 衛 門某とは、右記・藤左衛門秀信にあたることがわかる。士直の学業が 十 三 歳 で 成 っ て か ら、 父 親 が 常 に 病 褥 に 臥 せ る よ う に な っ た こ と も、 秀信致仕の時に重なる。この墓碑には、さらに士直は未婚で、子供が いなかったため、国吉氏から藤兵衛をもらって士直の養子としたと書 か れ て い る。 上 掲「 祖 先 旧 記 覚 」( 『 市 原 市 史 』 資 料 集( 近 世 編 2) 一五二頁)には、士直について「半蔵病死、文学ニ長シ孝心厚、宝珠 院是也」と記されているほか、士直は相続したものの、まもなく死ん でしまったので、やむなく寛政元年(一七八九)に別宅した藤左衛門 弟の藤助が本家に戻り、その娘に旧松ヶ島村・国吉氏からの養子を娶 せ て 相 続 さ せ た と あ り、 こ の 記 事 を 裏 付 け て い る。 こ の 藤 兵 衛 と は、 右記・藤左衛門秀寿にあたるだろう。 [表] 瑞法院和雲光照居士 天明元年辛」丑九月廿日 一實院阿閣妙詮大姉 寛政三辛亥」六月廿一日 實相院法譽妙喜大姉 寛政十一己未」六月廿六日 白蓮院炳現道阿居士 [左] 寶珠院凌歸溫卿居士 菊溫夫墓碑銘 君名士直、 字溫夫、 稱半藏、 自其先、 氏菊麻、 蓋」莫詳出自、 世々 邑大姓也、 父藤左衛門某、 母」征矢氏、 生二女一男、 男乃溫夫也、 自 幼 好 學、 」 遊 高 僧 碩 學 之 閒、 十 三 業 已、 以 善 詩 聳 動 其 」 郷 家、 翁常以在病褥、阿母圖家計、以助其費」云、先是因姻家山口氏轉 贈贄于余、請益、遂 [裏] 請 游 于 東 都、 父 母 不 許 之、 投 書 辭 膝 下、 優 游 」( 于 ) 余 塾 三 春、 既 自 經 史、 曁 諸 雜 家、 通 渉 殆 遍、 」 常 口 實、 閉 戸 鑿 壁 之 風、 年 及 弱冠、 無聲色之」好、 其爲人也、 輕財踐言、 與人接遇之閒、 不及」 一言半舌貨利之言、 聞人艱難、 則來往就勤、 」性至孝、 常恐闕定省、 不果其志而歸、 阿母亦」在病褥、 而疾大漸、 溘然逝矣、 哭踊之餘、 失 飲 」 食 之 節、 終 不 勝 喪 而 卒、 實 寛 政 九 年 十 月 十 」 日 也、 嗚 呼、 哀哉傷哉、享年僅二十歳、乃卜宅
[右] 兆、葬先塋側、既襄事矣、君未有伉儷、故無嗣」家、翁乞國吉氏 之子爲嗣、乃當士直之子行」也、養子藤兵衛、相卜別建一碑于邑 三光院」境内、蓋碑面于法題焉、哀其志不果、乃屬一」辭、勒碑 隂 、銘之曰 斯爲溫夫之移兆 形于彼乎消」名于是不朽 同國櫃川 文化二年乙丑冬十月日 池田貞撰 注 (1) 千 葉 郡、 君 津 郡、 市 原 郡 に お け る 寺 子 屋 活 動 に つ い て は、 『 千 葉 県 教 育 史 』( 千 葉 県 教 育 会 編、 一 九 三 八 〜 一 九 四 一 ) が 触 れ て い る ほ か、 川 崎 喜 久 男 氏『 筆 子 塚 研 究 』( 多 賀 出 版、 一 九 九 二 )、 国 立 歴 史 民 俗 博 物 館『 筆 子 塚 資 料 集 成 ─ 千 葉 県・ 群 馬 県・ 神 奈 川 県 ─ 』( 「 非 文 献 資 料 の 基 礎 的 研 究( 筆 子 塚 )」 二 〇 〇 一 ) が 包 括 的 な 調 査 研 究 を し て いる。 そ の 他、 千 葉 郡 に お け る 文 教 活 動 に つ い て は、 以 下 の も の が あ る。 『 千 葉 県 千 葉 郡 誌 』 千 葉 県 千 葉 郡 教 育 会、 一 九 二 五、 二 六 九 〜 二 六 七 頁、 八 二 二 〜 八 二 七 頁。 『 千 葉 市 誌 』 千 葉 市、 一 九 五 三、 五 〇 六 〜 五 〇 七 頁。 『 千 葉 市 教 育 史 』 通 史 編 上、 五 〜 五 二 頁( 千 葉 市 教 育 委 員 会、 二 〇 〇 〇 )、 同 史 料 編 一、 三 〜 九 十 一 頁( 同、 一 九 九 七 )。 君 塚 玄 圃 に つ い て は、 川 名 登 氏『 評 伝・ 赤 松 宗 旦 』( 彩 流 社、 二 〇 一 〇 ) が ある。 (2) 上掲『千葉県千葉郡誌』九六三 〜 九六六頁。 (3) 深 河( 川 ) 元 携 を は じ め、 深 河( 川 ) 一 族 に つ い て は、 『 袖 ヶ 浦 町 史 』 通 史 編 下( 袖 ヶ 浦 町 史 編 纂 委 員 会、 一 九 八 三 ) 四 九 三 〜 四 九 六、 七 三 二 〜 七 三 六 頁、 大 室 晃 氏『 い ち は ら 人 物 譚 』 海 潮 社、 一九八三、 一六三 〜 一六五頁に詳しい。 (4) 君 津 郡 に お け る 文 教 活 動 に つ い て は、 以 下 の も の が あ る。 『 君 津 郡 誌 』 下 巻( 千 葉 県 君 津 郡 教 育 会、 一 九 二 七 ) 第 二 編 第 二 章 人 物、 『 袖 ヶ 浦 町 史 』 通 史 編 下( 袖 ヶ 浦 町 史 編 纂 委 員 会、 一 九 八 三 ) 第 五 編 第 八 章 文 化、 第 六 編 人 物。 『 袖 ヶ 浦 奈 良 輪・ 鳥 飼 家 文 書 目 録 』 下( 千 葉 県 文 書 館、 二 〇 〇 九 ) 八 〜 十 頁。 ま た、 玉 川 和 彦 氏 編『 い し ぶ み を 訪 ね て 』( 私 家 版、 二 〇 〇 二 ) に は、 君 津 郡 に お け る 漢 文 碑 が 三 十 一 基、 同 編『 い し ぶ み を 訪 ね て・ 第 二 輯 』( 二 〇 〇 六 ) に は、 同 郡 に お け る 漢 文 碑 が 二 十 三 基 翻 刻 さ れ て い る。 さ ら に、 嶺 田 楓 江 に つ い て は、 明 石 吉 五 郎『 嶺 田 楓 江 』( 博 文 館、 一 九 一 九 )、 至 徳 堂 に つ い て は、 三 浦 茂 一 氏『 近 世 教 育 の 一 断 面 ─ 上 総 の 郷 学「 至 徳 堂 」 の 歴 史 ─ 』( 崙 書 房 出 版、 二 〇 一 四 ) な ど が あ る。 重 城 保 に つ い て は、 菱 田 忠 義・ 重 城 良 造 氏 編『 重 城 保 日 記 』 第 一 〜 第 十 巻( う ら べ 書 房、 一 九 九 〇 〜 一 九 九 七 ) が あ り、 同 書 九 巻 に は 重 城 保 撰 に よ る 五 十 四 の 漢 文 碑 の 翻 刻 と 書 き 下 し 文、 さ ら に そ の 漢 文 で 書 か れ た 著 書『 青 崖 詩 鈔 』『 青 崖 詩 稿 』『 青 崖 遊 浜 日 誌 』 の 影 印 が 収 載 さ れ て い る。 (5) 筆者はそれら全ての翻刻、書き下し文の添削・助言をしている。 (6) 但 し、 鶴 牧 藩 修 来 館 の 刊 行 物 と し て 鶴 牧 版『 史 記 評 林 』 が あ る ほ か、 日 高 誠 実・ 鶴 岡 安 宅 に つ い て は 伝 記・ 翻 訳 研 究 が 進 ん で い る。 日 高 に つ い て は、 近 著 に 渡 邉 茂 男 氏『 房 総 の 仙 客 ─ 日 高 誠 実 ─ 』 創 英 社、 二 〇 一 七 が あ り、 鶴 岡 に つ い て は、 小 幡 重 康 氏「 口 語 訳・ 鶴 岡 安 宅 「 松 陰 山 房 日 誌 」 抄「 東 金 郷 校 記 」」 (『 南 総 郷 土 文 化 研 究 会 誌 』 十 三、 一 九 八 二 )、 同「 口 語 訳・ 松 陰 山 房 日 誌 抄・ 苅 谷 僑 居 記 」( 『 市 原 地 方 史 研 究 』 十 二、 一 九 八 二 ) が あ り、 さ ら に『 東 金 市 史 』 総 集 編 ( 東 金 市 役 所、 一 九 八 七 ) 一 〇 〇 〜 一 〇 九 頁 に、 そ の 著 書 の 翻 訳 や 伝 記 が な さ れ、 ま た 上 掲『 千 葉 県 教 育 史 』 巻 一、 一 九 三 八、 八 五 八 〜 八 六 一 頁、 『 夷 隅 町 史 』 資 料 集、 ( 夷 隅 町 史 編 さ ん 委 員 会、 二 〇 〇 二 )
一〇三七 〜 一〇五八頁に、その基礎資料の翻刻がなされている。 (7) 筆 者 は、 令 和 元 年 十 二 月 三 日 現 在、 市 原 郡 に お け る 漢 文 で 記 載 さ れ た 石 碑 を 百 二 十 三 基( 注 五 に 記 し た も の は 除 く ) 採 録 し て い る。 そ の う ち、 既 に 発 見 さ れ、 そ の 原 文 が 何 ら か の 書 物 に 掲 載 さ れ て い る が、 誤 植 や 脱 字 が 多 か っ た り、 抜 粋 に よ る 紹 介 に と ど ま る も の だ っ た り、 書 き 下 し 文 の み の 紹 介 だ っ た り し て、 き ち っ と し た 形 で 紹 介 さ れ て い な い 漢 文 碑 が 二 十 二 基 あ り、 既 に 発 見 さ れ、 原 文 も ほ ぼ 間 違 い な く 発 表 さ れ て い る も の の、 訳 注 や そ れ に つ い て の 分 析・ 考 証 が な さ れ て い な い 漢 文 碑 が 五 基 あ り、 正 確 な 原 文 を 掲 載 し、 そ れ に つ い て の 分 析・ 考 証 を な し て い る も の の、 書 き 下 し 文 に 問 題 が あ る 漢 文 碑 が 一 基 あ る。 そ れ 以 外 は 全 て 新 発 見 で あ る。 ま た、 明 治 期 の 地 方 新 聞( 東 海 新 聞、 東 海 新 報、 新 総 房、 千 葉 毎 日 新 聞 ) の 漢 詩 欄 や 千 葉 県 文 書 館 蔵 岡 田 利 政 家 文 書、 同 露 崎 家 文 書 な ど か ら、 数 百 首 の 漢 詩 や 三 部 の 漢 文 資 料 を 採 録 し、 ま た 各 所 で 十 六 冊 の 漢 文 資 料、 一 冊 の 寺 子 屋 門 人 名 簿 を 発 見 し て い る。 こ れ ら の 漢 詩・ 漢 文 資 料 も 九割以上が紹介さえもされていない。 (8) 筒井政憲は、 嘉永三年(一八五〇) 、 近海岸見聞御用を命じられ( 『寛 政 譜 以 降・ 旗 本 家 百 科 事 典 』 第 3 巻、 東 洋 書 林、 一 九 九 七、 一 七 六 一 頁 )、 房 総 諸 州 を 巡 視 し て い る。 こ の 際、 人 足 や 馬、 宿 泊 先 の 手 配 な ど の 負 担 が、 馬 加 村、 検 見 川 村、 曽 我 野 村、 八 幡 村、 北 五 井 村、 松 ヶ 島 村、 奈 良 輪 村 な ど に 割 り 当 て ら れ、 各 村 の 名 主 が そ の 任 に 当 た っ た( 『 通 航 一 覧 続 輯 』 第 五 巻、 清 文 堂 出 版、 一 九 七 三、 三 二 五 〜 三 二 六 頁 )。 松 ヶ 島 村 で 天 領 の 名 主 を 務 め て い た 吉 野 宇 右 衛 門 は、 松 ヶ 島 村、 島 野 村、 青 柳 村、 飯 沼 村、 出 津 村、 玉 崎 新 田 五 ケ 村 の 惣 代 を 言 い 渡 さ れ、 そ の 任 に 当 た っ て い る( 『 市 原 市 史 』 資 料 編( 近 世 編 3 上 ) 七 六 頁 )。 本 資 料 は、 そ の 際、 吉 野 家 が 払 っ た 労 苦 に 対 す る 報 酬 と し て、 筒 井 政 憲 に 執 筆 を 願 っ た も の だ ろ う。 奈 良 輪 村 名 主 鳥 飼家は、同年、筒井政憲から書を賜わっており(千葉県文書館所蔵 ・ 鳥 飼 家 文 書「 し 三 十 七 」) 、 ま た こ の 際、 筒 井 政 憲 を 自 宅 に 滞 在 さ せ た 海 保 村 の 名 主 征 矢 家 も 書 を 賜 わ っ て い る( 資 料 十 二 )。 ま た、 時 期 を 異 に す る が、 市 原 郡 下 野 村、 同 押 沼 村、 同 中 野 村 に も、 多 く の 筒 井 政 憲 の 書 が 残 さ れ て い る( 塙 節 子 氏「 筒 井 伊 賀 守 政 憲 の 書 と 領 主 筒 井 氏 」『 上 総 市 原 』 市 原 市 文 化 財 研 究 会、 二 〇 一 七、 九 四 頁 )。 こ の よ う に 見 て み る と、 筒 井 政 憲 は、 褒 賞 の 一 つ と し て 書 を 授 け る こ と を常習としていたことがわかる。 (9) 落 合 忠 一 氏『 松 ヶ 島 漁 業 史 』( 私 家 本、 一 九 七 二 ) 十 八 〜 二 十 三 頁。 な お、 同 書 同 頁 に よ れ ば、 草 分 け 六 家 は 元 来 九 家 だ っ た が、 し ば ら くして三家がなくなり、六家となった。 ( 10) 『市原市史』中巻、二二七頁 ( 11) 永井泰子氏所蔵の栗位牌背部の書き付けに拠る。 ( 12) 大 正 六 年( 一 九 一 七 ) の 高 潮 で、 東 京 湾 沿 岸 部 は 大 き な 被 害 を 蒙 り、 五 井 附 近 で は、 墓 石 も 流 れ て し ま っ た。 こ の た め、 旧 五 井 村 上 宿 地 区 の 守 永 寺 に は、 当 該 住 職 の 墓 石・ 位 牌 が 残 っ て お ら ず、 こ の 住 職 の 没 年 な ど は 一 切 わ か ら な か っ た。 し か し、 後 に 作 り 直 し た 位 牌 の な か に、 「 十 四 世 廣 蓮 社 闡 譽 上 人 法 阿 一 道 順 昇 和 尚 」 と 書 か れ た 位 牌があり、その存在が確認できた。 ( 13) 永 井 家 墓 地 に あ る 成 島 司 直 筆 の 歌 碑 の 裏 に、 「 大 江 堂 吉 野 宇 右 衛 門 常 房 」 と 掘 ら れ て あ る。 吉 野 常 房 の 俳 句 は、 「 松 ヶ 島 村 養 老 神 社 奉 納 俳 諧 額 手 向 の ふ し き 」( 『 市 原 市 史 』 資 料 編( 近 世 編 3 上 ) 九 七 二 頁 ) のなかに収載されている。 ( 14) 千 葉 県 立 中 央 図 書 館 蔵・ 河 崎 英 斎『 房 総 医 家 人 名 録 』( 一 八 二 五 年 ) に は、 「 同 有 帯 下 淋 瀝 之 妙 法 松 ヶ 島 吉 野 七 郎 左 衛 門 」 と 記 載 さ れ て お り、 こ れ は こ の 吉 野 常 広 の こ と を 指 し て い る。 こ こ に で て く る「 同 」 は、 「 本 科 」( 眼 科 な ど で は な い ) の 意 で あ る。 「 有 帯 下 淋 瀝 之妙法」とあり、泌尿器科、婦人科治療で評判だったことが知れる。 ( 15) 加 藤 定 彦 氏『 関 東 俳 壇 史 叢 稿 ─ 庶 民 文 化 の ネ ッ ト ワ ー ク ─ 』( 若 草 書 房、 二 〇 一 三 ) 四 四 一、 四 五 三 頁。 同 書 に よ る と、 半 場 里 丸 は、 上 総 国 夷 隅 郡 行 川 の 出 身 で、 化 政 期 に 活 躍 し た 俳 人。 な お、 そ の 翻 刻 は