彦根の100年×4
12 しがだい 特集 しがだい 13絹屋半兵衛の挑戦
湖東焼は、江戸時代の末期に彦根藩の城下で作られた「やきもの」 です。工芸品としての美術的価値の高さと希少性の点で、今では「幻 の名窯」と言われています。 湖東焼は、文政12年(1829)に、彦根の商人、絹屋半兵衛と伊万里 の職人によって生み出されました。半兵衛は、古着を扱う商人として 京都へ出向くおり、五条坂で美しいやきものに出会います。彼は、彦 根の地でこのようなやきものを作ってみたいと思い立ち、その実現に 情熱をかたむけます。彼は、やきもの作りという新しい事業を起こし ていく過程で、若い職人を進んで採用し、職人とともに陶土を探した り、新しい窯の建築や窯の温度の研究を行ったり、藩への資金の借用 などに奔走したり、夢に近づくためにあらゆる努力をしました。 それら試行錯誤のなかで、しだいに美しい作品が生まれ、十二代藩 主、井伊直亮の目にとまり彦根藩の召し上げになります。その後、 十三代藩主、井伊直弼の時代になると、窯場の規模の拡大や、各地か ら優れた陶工や絵付師の招聘など、藩の窯としての経営改革や、後継 者の育成などの長期計画がたてられます。直弼の庇護のもと、湖東焼 は、金襴手・赤絵金彩・色絵・染付・青磁など、細やかで美しい逸品が数多く作られ、黄金時代を迎えま す。 けれども、このような時代は長くは続きませんでした。万延元年 (1860)、直弼は江戸の桜田門外で水戸の浪士達に暗殺されます。パト ロンを失った湖東焼は藩の窯の歴史の幕を閉じることとなります。そ の後、山口喜平らにより、民間の窯として維持されたものの、かつて の面影は薄れていきました。美しさの秘密
湖東焼の技術は、もともとは伊万里・瀬戸・九谷から導入されまし たが、それらを超えた洗練さを達成したと言われています。素地の精 巧さ、薄手つくり、釉薬の肌の滑らかさ、発色の鮮やかさ。さらに、 大胆な構図や精緻な筆法は、やきものへの絵付という域を超えて、絵 画的な技巧を感じさせます。 これら名品といわれる湖東焼は、藩の窯であった約20年間に作られ ました。彦根藩は、幕府にあっては大老職となる家柄であり、京都の幻の名窯 湖東焼
江
え竜
りゅう美子
(経済学部助手)
金襴手芦雁図水指 鳴鳳作 彦根城博物館蔵 赤絵金彩花虫図印籠 鳴鳳作 たねや美濠美術館蔵 しがだい25号.indb 12 2007/02/23 16:25:2212 しがだい しがだい 13 朝廷に対しては、守護の内命をうけていたため、大名諸侯や宮家・公 卿との交際がしげく、礼物を授受する機会が多くありました。湖東焼 の用途は、この礼物であったため、彦根藩の格にふさわしい一級品を 生み出すための努力がなされました。天草石・柞灰・唐呉須という最 高級原料を使い、伊万里、瀬戸、京都から一流の職人が雇われ、湖東 焼を作りました。 写真の水指は、彦根藩お抱えの絵付師「鳴鳳」の作品です。もと京 都の寺侍だった彼は、妻子と弟と共に彦根にやって来ました。彦根城 下の東、現在の船町に住んで、北に広がる松原内湖や近くの川で、絵 付の合間に釣りも楽しんだようです。この水指は、その後、井伊家の 江戸屋敷にあったため、大正12年(1923)、関東大震災の火災で蔵の なかで友箱とともに焼けたそうです。友蓋に残る赤い変色は、そのと きのなごり傷です。 また、写真の印籠は、女性のために作られたものです。描かれたカ マキリは、害虫を食べてくれますので、大切な着物に密かに忍ばせ持 ち歩いたようです。どこかの姫君へのプレゼント用に作られたもので しょうか。 湖東焼は、もともと生産の量が少ないうえに、明治28年(1895)に途絶えて以降、関東大震災・太平洋 戦争中の戦災などで失われたものも数多く、結果的に100年後の現代に残るものは、数少ない名品となり ました。このような湖東焼を一度目にすれば、だれもがその美しさに魅了されます。井伊直弼も愛用した 数々の湖東焼は、今でも「彦根城博物館」や「たねや美濠美術館」で私たちは目にすることができます。