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西田幾多郎の科学哲学:その理論的射程と現代的意義
(課題番号: 08610002)
平成8年度∼平成9年度
科学研究費補助金(基盤研究C- 2)
研究成果報告書
平成10年3月27日
研究代表者 野家啓一
00010173741(東北大学文学部教授)
はしがき この「研究成果報告書」は、科学研究費補助金の交付期間内に学術雑誌等に発 表された、研究課題をめぐる3薫の研究論文から構成されている。本研究に関わ る所用事項は以下の通りである。 [研究組織] 研究代表者:野家啓一(東北大学文学部教授) [研究経費] 平成8年度 1700千円 平成9年度 800千円 計 2500千円 [研究発表] (1)学会誌等 ・野家啓一「歴史的生命の論理:西田幾多郎の生命論」 、 『講座・生命』第一巻 1996年9月 ・野家啓一「<行為的直観>の射程:科学論から見た西田哲学」 、 『思索』第29 号、 1996年9月 ・野家啓一「解説:西田幾多郎の科学哲学」 、 『西田哲学選集』第二巻「科学哲 学」 、 1998年3月
・ Keiichi Nod, --Science in theLife-world:Kitaro Nishida-s Philosophy
of Science1., ⅠIAS Report, 1996 June. (2)口頭発表 ・野家啓一「科学論から見た西田哲学」 、西田・田辺記念会、 1996年6月 ・野家啓一「生命の論理:西田哲学の現代的意義」 、日中哲学交流会(於;北 京) 、 1996年8月 (3)出版物 ・大橋良介・野家啓一(共編) 『西田哲学選集』全7巻、燈影舎、 1998年2月 ・干崇道(主篇) 『東方文化的現代承甥』 、沈用出版社、 1997年7月
第-章 「行為的直観」の射程:科学論から見た西田哲学 1.再評価の座標軸 西田哲学の科学論的意義考論ずるに当たって、いささか唐突だが石川浮 『森鴎外』の冒頭を引用することから始めたい。 「 『抽斎』と『霞亭』といずれを取るかといえば、どうでもよい質問のど とくであろう。だが、わたしは無意味なことはいわないつもりである。こ の二鷺を措いて鴎外にはもっと傑作があると思っているようなひとびと を・わたしは信用しない。 『雁』などは児戯に類する。. F山轍大夫』に .至っては俗臭芥芽たる駄作である。 『青物誇』の妙といえども、これを捨 てて惜しまない。詩歌翻訳の評判ならば、別席の閑談にゆだねよう。 」 室 31E まことに小気味よい断言ぶりだが、西田幾多郎の諸著作を再評価するに 際しても、このような常識におもねらない新たな座標軸の設定が必要不可 欠だというのが私の考えである。西田における『抽斎』と『霞亭』が何で あるかは後に論ずるとして、 F雁』に相当するのはさしずめF善の研究』 であろうか。 「児戯に類する」とは言わないまでも、少なくとも晩年の西 田がこの著作を一顧だにしなかったことは確かである。それゆえ、西田と いえば『善の研究』を代表的著作に挙げ、主客未分の「純粋経験」をもっ て西田哲学の真髄と称するような短見は厳に斥けられねばならない。 『山根大夫』が何に当たるのか、私は審らかにしない。人によっては 『日本文化の問題』を挙げ、・ 「我国の歴史に於て皇室は何処までも無の有 であった、矛盾的自己同一であった」 (12:336)という主張に、その 「俗臭芽芽」たる臭いを喚ぎつけることであろう。しかし、これをもって 西田が天皇制国家に膝を屈し、戦争協力への道を突き進んだと断じること は、余りにも早計に過ぎると言わねばならない。 『日本文化の問題』を読み返してみれば直ちに気がつくことであるが、 その前半部すなわち第二節から第四節においては、イギリスの生物学者 ∫ ・ S ・ホールデーンの有機体論に依拠した西田独自の「生命論」が展開 されている。そのことは、この著作を公刊した西田の意図が奈辺にあった のかを物語っている。すなわち、彼は日本文化を論ずるに当たって、それ を偏狭なナショナリズムの文脈にではなく、むしろ生命の歴史的発展とい うグローバルな視野の中に位置づけようとしているのである。時務情勢の 論に直接コミットした第五節においても、西田は一方で日本文化の象徴と しての天皇制を肯定しながら、他方で天皇制(皇道)の「覇道化」すなわ ち他国の侵略を事とする「帝国主義化」を厳しく批判している(12:
341) 。それをもって「消極的抵抗」と呼ぶことには異論があるにして も、国家を挙げて侵略戦争へと雪崩込んで行った当時の社会状況を考える 三ならば、こうした発言にそれ相当の決意を要したことは想像に難くない。 私は戦時中の西田の政治的立場をすべて肯定する者ではさらさらないが、 この時期の知識人の戦争協力の問題を考える際に、少なくとも西田個人と いわゆる「京都学派」の態度とを慎重に区別して論ずる必要があることだ けは確かである。 さて、問題を元に戻し、西田哲学の頂点をどこに求めるべきかを考える としよう。これまでの西田解釈は、そのほとんどが「場所の論理」の確立 をもって西田哲学の頂点と見なしてきた。すなわち、著作で言えば『働く 者から見るものへ』の後編から F一般者の自覚的体系』を経てr無の自覚 的限定』に至る時期である。それに対して、私は「行為的直観」と「歴史 的身体」という概念の成立をもって、西田哲学の最高の到達点と考える。 著作で言えば『哲学論文集』の第-から第七までがそれに当たる。西田の 生涯に即すならば、京都帝国大学を退官して時間的余裕を得た六〇代半ば から一九四五年の死にいたる最後の十年間である。むろん、これは「場所 の論理」の重要性を低く見積もるものではいささかもない。しかし同時 に、 「場所の論理」と「行為的直観」のいずれを取るかは単なる趣味の間 こ題ではなく、西田哲学の可能性をどの方向に兄いだすのかに関わる西田解 釈における分水嶺なのである。ここでもう一度、石川浮のF森鴎外』の筆 致を借りることとしよう。 「 F抽斎』と『霞亭』と、双方とも結構だとか、撰択は読者の趣味に依る とか、漫然とそう答えるかも知れぬひとびとをわたしはまた信用しない。 この二者撰一に於て、撰ぶ人の文学上のプロフエツシオン・ド・フォアが あらわれるはずである。では、おまえはどうだときかれるであろう。ただ ちに答える、 『抽斎』第-だと。そして附け加える、それはかならずしも 『霞亭』を次位に足すことではないと。 」 (2) 私もまた、西田哲学において「場所の論理」と「行為的直観」のいずれ を選ぶかという二者択一に、その人の哲学上の「プロフエツシオン・ド・ フォア」が懸かっていると考える。敢えて単純化すれば、それは西田哲学 の本質を「宗教論」と見るか「学問論(科学論) 」と見るかの違いに帰着 するであろう。西田哲学にその両面があることは言うまでもないが、その 一どちらに力点を置いて解釈するかに応じて、哲学の世界地図の中に西田を どう位置づけるかは相当に異ならざるをえないのである。前者は西田にお ける日本的あるいは東洋的独自性を強調することにつながるであろうし、 後者は西田をその普遍性、すなわち世界的同時代性において捉えることに つながるであろう。私自身はどうかと問われれば、むろん後者、すなわち
「行為的直観」を基盤にした「学問論(科学論) 」の立場を第-とした上 で、石川浮の口吻に倣って、それは必ずしも「場所の論理」を次位に足す ことではないと付け加えておきたい。 私が「場所の論理」を第-に置かないのは、それがいともたやすく「東 洋の論理」や「東洋的無」の思想と結びつけられてきたからである。確か に、西田が「場所」の概念をもってアリストテレスに始まる西欧哲学の 「主語的基体の論理」に対略し、それと括抗する述語となって主語となら ㌔ない「超越的述語面の論理」を提起したことの重要性は、いくら強調して もしすぎることはない。また、場所の論理の成立を画した『働くものから 見るものへ』の序文において、西田自身が「幾千年来我等の祖先を字み来 った東洋文化の根抵には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くと 云った様なものが潜んで居るのではなからうか。我々ゐ心は此の如きもの を求めて巳まない、私はかかる要求に哲学的根拠を与えてみたいと息ふの である」 (4:6)と自己解説を行っていることもよく知られている。その ことからすれば、西田の哲学的企図が東洋的思惟の論理化にあったことは 疑いを容れない。 しかし、それにも拘わらず、西田の場所の論理を「西洋哲学と東洋管 学」といった安易な二項対立の図式の中に回収してしまうことは、西田哲 学をプロヴィンシャリズムの土俵の中に囲い込み、その土俵の中で長尻の 引き倒しの愚を犯すことになりかねない。そのことは何よりも、地域性を 越えた世界性を内包する西田哲学自身のために惜しまれるのである。西田 の科学哲学の問題系を継承し、わが国の科学哲学の礎石を据えた下村寅太 郎は、西田哲学の歴史的意義を論じた文章の中で「西田哲学は西洋哲学に こ対立するあるいは並立する東洋哲学ではない。哲学は世界性においてあく まで一つであります。その共同の哲学の地盤における性格的な形成なので ある」 (3)と述べているが、.まさに正鵠を射た発言と言うべきであろ う。われわれが今日的視点から西田哲学を読み直すとすれば、この下村の 問題意識をこそ出発点とせねばならないのである。 それでは、西田は「場所の論理」以後いかなる哲学的地平を目指そうと していたのか。それを解明する鍵は、 「行為」という平明この上ない概念 である。彼は論文「弁証法的一般者の世界」の中でフッサールの現象学を 姐上に載せ、 「現象学は尚心理学の立場を脱却しないものである。ザッへ はタ-トザッへからタ-トを除去したものである」 (7:364)と述べて いる。明らかに現象学の格率「事象そのものへ! (ZudenSachen selbstl)」を邦捻し、それが「意識」の立場に留まり、 「行為」の契機を 欠いていることを批判したものであろう。それからすれば、後期の西田哲 学の基本構図は、 「行為そのものへ!」という格率、あるいはゲーテが Fファウスト』の中で提示した「初めに行為ありき(ImAmfangwar dieTat.)」という青葉によって特徴づけることができる(ちなみに、これ
はウィトゲンシュタインが最晩年の遺稿『確実性の問題』の中で、音蘇 ゲーム.の基底を示唆するために引用した言葉であった) 。 ここで思わず「後期」という言葉を使ってしまったが、西田哲学の時期 区分については、さまざまな考え方があって必ずしも一定していない。そ れらのうち最も説得的と思われるのは、上山春平による四期区分説である (4) 。彼は四つの時期をそれぞれ「一般者の自己限定(一九〇七年以 後) 」 「自覚(一九一二年以後) 」 「場所(一九二六年以後) 」 「弁証法 的一般者(一九三四年以後) 」というキーワードによって代表させ、各々 の時期の間に断絶や飛躍があるのではなく、後の時期は前の時期を重層的 に包摂しつつ発展していったという見方をとっている。 私は基本的に上山の区分を受け入れた上で、それぞれの時期を「純粋経 験」 「自覚」 「場所」 「行為的直観」という、よりボピュラリティのある 用語で置き換えたい。さらに、純粋経験から自覚に至る時期をまとめて 「前期」 、場所の論理が確立された時期を「中期」 、最後の行為的直観を 基盤とする時期を「後期」とする三期の区分を提案したい。それによっ て、各時期の連続性よりはむしろ内容的な「転換」のありさまを際立たせ ることができると考えるからである。 以上の時期区分を踏まえた上で繰り返せば、私は西田哲学の頂点は後期 の「行為的直観」の時期にあると考えている。著作で言えば、先にも述べ たように、 『哲学論文集』第一から第七までがそれに当たる。その中から 代表作を選べと言われれば、私は蹄蹄なく「論理と生命」および「行為的 直観」を含む『哲学論文集第二』と、後期の科学哲学関係の論文を収録し た『哲学論文集第六』とに指を屈する。すなわち『西田幾多郎全集』で言 えば第八巻と第十一巻とである。この時期の西田哲学は、私見によれば、 フッサールの『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』にも比すべき 学問論(科学論)上の達成をなしえているのである。むろん、それはフッ サール現象学のように体系的に理論化されたものではなかった。しかし、 そこに萌芽的に現れているさまざまな構想は、今日われわれが継承するに 値する多く示唆を含んでいるのである。 2. 「意識」から「行為」へ 後期の立場を代表する論文「論理と生命」を『思想』誌上に発表した一 九三六年、西田は処女作F善の研究』の新版に序文を寄せ、これまでの研 究の足跡を振り返りながらこう述べている。 「今日から見れば、此書の立場は意識の立場であり、心理主義的とも考へ られるであらう。然非難せられても致方はない。併し此書を書いた時代に 於ても、私の考の奥底に潜むものは単にそれだけのものでなかったと忠 チ
ふ。 (中略)此書に於て直接経験の世界とか純粋経験の世界とか云ったも のは、今は歴史的実在の世界と考へる様になった。行為的直観の世界、 (ポ イエシスの世界こそ真に純粋経験の世界であるのである。 」 (1 : 6-7) ここで西田は、前期から後期への自らの哲学的立場の展開過程を、連続 性と断続性の二つの面に即して簡潔に要約している。すなわち、後期の 「行為的直観の世界」は、前期の「純粋経験の世界」の発展形態であると いう意味で、両者は連続的である。しかし、前期の心理主義的な「意識の 立場」がすでに克服され、純粋経験の世界が「行為の立場」から根本的に 捉え直されているという意味では、両者は断続的と言える。私が注目した いのは、むろん「意識」から「行為」への転換の面である。 この転換が行われるのはほぼ一九三〇年代の前半、すなわち著作では 『無の自覚的限定』 (一九三二) 、 『哲学の根本問題』 (一九三三) 、 F哲学の根本問題・続編』 (一九三四)などが次々と刊行される時期であ る。その翌年(一九三五)からは、いよいよ『哲学論文集』の刊行が始ま ることになる。したがってこの時期は、中期から後期への緩やかな移行期 と言ってよい。前期と後期とを対比してみれば「転換」と見えるものが、 中期と後期を比べれば、むしろ連続性の方が印象づけられるのである。そ れでも、ある種の転換の兆しは見えている。 たとえば西田は『無の自覚的限定』の中で、デカルトの「コギト・エル ゴ・スム」の意義を高く評価しながらも、それが直ちに主語的方向に実体 化されたことを批判し、コギトの自覚は「広義に於ける行為的自己の自己 限定の意義を有っていなければならない」 (6: 172)と論じている。こ の「行為的自己」は、やがて「行為的直観」を結実させる母胎ともなる概 念である。 また別の箇所で、西田はベルグソンの『創造的進化』に言及し、 「ベル グソンの生命といふ如きものは実在的ではない、身体のない生命である」 (6 : 360)と批判した上で、其の生命について「それは内面的持続とい ふ如きものに求むべきではなくして、実践的行為といふ如きものに求むべ きであると息ふ。行為に於ては我々は過去から限定せられるのではなくし て、未来から限定するのである」 (同前)と述べている。このような「行 為」の把握は、すでに後期の思想に属するものと言ってよい。西田は生命 と身体をめぐる考察を通じて、次第に身体的行為によって拓かれる「ポ イ-エシス」の世界を真の実在的世界として捉え直すことになるのであ る。その世界は、学問(科学)的認識の基底という意味で、ほとんど後期 フッサールの「生活世界」の概念と重なり合うものであった。しかも、ク レスゲスらが指摘したフッサールにおける「生活世界」の二義性は、西田 の場合、 「行為的直観」という理論的-実践的概念の中で、いわば発展的 に解消されているのである。 ∫
「行為的直観」という能動的な行為と受動的な直観とを強引に結びつけ た西田独自の造語は、彼自身が「行為的直観といふ如きことは、空虚な概 念か、然らざれば神秘的と考へる外ないであらう」 (8:541)と認めて いる通り、一種の形容矛盾と見られかねない概念である。だが、この概念 の形成過程をたどり直してみれば、それが「行為的自己」という簡明な概 念のゆるやかな変容であり、しかもそこからの必然的帰結であったことが わかる。西田は『哲学の根本問題(行為の世界) 』 (一九三三)に収めら れた「総説」の冒頭を「私には哲学は未だ嘗て一度も真に行為的自己の立 場に立って考へられたことがないのではないかと息はれる」 (7 : 173) という文で始めている。行為的自己に対立するのは「意識的自己」 、すな わち自己完結的な個人主観の立場である。明らかに西田が企図していたの は、西洋近代哲学の基本構図に対する反措定の提出であった。 「従来の哲学がその根底に於て何処までも主知主義的立場を脱して居ない と考へられると共に、我々の自己といふものの考へ方が何処までも個人主 義的であったと思ふ。先づ私と物とが対立する。それから汝といふものが 考へられる、かういふのが従来の考へ方である。汝といふものが私そのも のの存在に欠くべからざる要件として考へられていない。而して斯く自己 といふものが単に個人的に考へられたといふことは、行為する所に真に 我々の自己があると考へなかったのによると思ふ。私が考へる故に私があ るのではなく、私が行為するが故に私があるのである。 」 (7: 174) ここに見られる個人主義的自己に対する批判の中に、人は『善の研究』 序文の「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」 (1 :4)という有名な一節を思い起こされるに違いない。確かに、孤立し た個人主観性の克服というモティーフは、初発からの西田の一貫した問題 意識であった。しかし、前期の西田がその克服の方途を主客未分、自他未 分の「純粋経験」の債域に求めたのに対し、この時期の西田は自他を媒介 こする「行為」の根源性に定位している。すなわち、私と汝とが行為を妹介 とするプラクシスの東城に置いて不可分の共振関係を取り結び、現代なら ば「間主観性」ないしは「共同主観性」とも呼ぶべき次元を拓いているこ とに着目するのである。 この点についての西田の思索が、一九二〇年代未から三〇年代前半にか けて、フッサールの「間主観性論」とほとんど蛙を接して展開されていた ことは記憶に留められておいてよい。また、その射程が「行為的自己と考 へられるものは社会的・歴史的でなければならない。社会的・歴史的限定 として私と汝といふものが考へられるのである」 (7: 174)という形で 社会的・歴史的次元へと伸び広がっていることにも注目すべきであろう。 後期の西田哲学は、この面においても、現象学的社会学を生み出した後期
フッサールの哲学と共通の問題意識を分かちもっているのである。 先の引用の末尾に見える一文は,むろんデカルトのコギト命題に対する 三批判である。 「考える我」ではなく「行為する我」から出発するところに こそ、後期西田哲学の面目は存すると言うべきであろう。それは当然にも 主知主義の立場を放棄し、夕1わゆる「主観一客観図式」を批判的に超克す ることを意味する。主知主義、すなわち理性的認識を目指す知的自己を根 本的と考える限り、主観と客観の分離と対立は自明の前提とされざるをえ ないからである。 それに対して西田は、行為を主観と客観との間に生じる相互媒介的な出 来事、すなわち世界制作をこととする歴史的な形成作用として捉え、 「知 る」ということすら行為の中に含めて考える。彼自身の言葉を引用すれ ‥ば、 「行為的自己の立場といふのは所謂主観客観の対立を越えた立場でな ければならない、所謂主観客観の対立は之に於て成立するのである、知る といふことも一種の行為でなければならない」 (7: 176)ということで ある。ここに見られるのは、もはや純粋経験に収欽する受動的な「主客未 分」の立場ではない。むしろ行為的自己を軸とした能動的な「主客合一」 の立場にはかならない。この行為的自己によって拓かれる世界を、西田は 「物の世界」でも「意識の世界」でもない「人格的生命の世界」と表現す こるのである。 以上の個人主義と主知主義に対する批判からも、西田の行為的自己の立 場が単に西洋近代哲学のみならず、プラトン以来の西洋形而上学全体に対 する挑戦の意味をもっていることは明らかであろう。事実、西田は「ギリ シャ人の世界は行為の世界ではなかった。それは見られたものの世界であ って、働くものの世界でなかった」 (7:177)と述べている。明らかに 彼は、 「テオリア」に優位性を置くギリシア伝来の哲学的伝統に反旗を翻 し、テオリアの自閉性を打ち破って「プラクシス」と「ポイエーシス」の 額域へと越境しようとしているのである。 「見られたもの」とは語源的に も「イデア」を指すものと考えてよい。そのイデアについてすら西田は 「我々は行為によってイデヤ的なるものを見ると考へるのである」 (7 : 197)と主張する。むろん、そこにおけるイデア的なものは、すでに事実 を離れた超越的存在ではありえない。 「個物的限定と考へられる我々の行 為はイデヤを見るといふ意味を有すると共に、何処までもイデヤを否定す る意味を有っていなければならない」 (7: 198)と言われるゆえんであ .る。 「行為」の概念がイデアを見ることにまで拡張されてしまえば、そこ から件の「行為的直観」まではただの一歩であろう。 「行為的自己」が私 と汝の間に成立する「プラクシス」の空間に対応する概念であるとすれ ば、 「行為的直観」の概念はさらに私と汝とが共同して世界を制作する 「ポイエーシス」の空間へと飛期するのである。 『西田幾多郎全集』がデータベース化されていない現在、彼が「行為的
直観」という鍵概念をどの時点で使い始めたかを確定することは難しい が、_管見に触れた限りでは、一九三四年に発表された論文「弁証法的一般 者としての世界」には明確にその用例が認められる。この論文を含んだ 『哲学の根本問題続編(弁証法的世界) 』に加えられた「序」には、 「我々が行為的自己の立場に立つ時、この世界は主観が客観を限定し客観 が主観を限定する行為的直観の世界である」 (7 : 207)という言葉が見 えており、行為的直観が行為的自己の立場の徹底化として腔胎した概念で ∴あることを窺わせている。また一九三五年には、行為的直観という言葉を 初めて表題に冠した論文「行為的直観の立場」が『思想』誌上に発表され ている。以上のことからすれば、西田が「行為的直観」の概念を確立し、 それを自らの哲学の基盤に据えたのは一九三〇年代半ばと見てよいであろ _.う。それ以降の十年間を、われわれが先に「後期」西由哲学として特徴づ けた理由もそこにあるのである。 その形成過程をもう少し詳しくたどっておけば、西田が論文「弁証法的 一般者としての世界」の第三節において「我々の行為と考へるものに於て も、何等かの意味に於て見るといふ意味がなければならない(中略)行為 はポイエシスでなければならない」 (7 : 333)と述べていることに注目 すべきであろう。当の言葉こそ使われていないものの、これはほとんど 「行為的直観」の定義といってもよい文章である。また同じ第三節の「更 に我々の真の自己は行為的と考へられねばならない。我々の意識統一は、 その根底に於て、行為によって基礎附けられると考へられねばならない」 (7:337)という主張は、 「意識」から「行為」への転換を西田自身が 明確に跡づけたものと理解することができる。 こ このような考察を積み重ねた上で、西田は第六節に至ってようやく「行 為的直観」という概念をさりげなく提出する。彼は「知覚の世界に於ては 外部知覚的に物を見、内部知革的に自己を見ると考へられる」 (7 : 382)と述べた上で、その両者が不可分であるゆえんを説き、その連関態 を「内部知覚的・外部知覚的なる行為的直観の世界」 (7: 383)と呼ぶ のである。その具体相は、さらに次のように敷術される。 「我々の歴史は原始民の社会から始まる。原始民の社会といヘビも、それ は全く動物の社会と異なったものでなければならない。それは既に主客合 一的に物を見る世界でなければならない、行為的直観の世界でなければな らない、ポイエシスの世界でなければならない。 」 (7:383) ここで言われている「主客合一的に物を見る世界」は、一見すると『善 の研究』における「純粋経験」や「直接経験」の世界にそのまま連続して いるような印象を与える。しかし、それは西田がかつて「直接経験の上に 於ては唯独立自全の-事実あるのみである、見る主観もなければ見らるる g
客観もない。恰も我々が美妙なる音楽に心を奪われ、物我相忘れ、天地唯 喝噴たる-楽声のみなるが如く、此剃那所謂真実在が現前して居る」 (1 : 59)と描写したような受動的な意識状態ではまったくない。むし ろ・われわれが身体をもって外部世界に能動的に働きかけ、対象を形作る 実践的行為の次元が「主客合一」という言葉で呼ばれているのである。わ れわれは単に「見る」ことによって対象を「知る」のではなく、対象に働 きかけ「行為する」ことによってはじめて、その本質を把握し理解するこ とができる。こうした能動的働きかけによる認識こそ「行為的直観」であ り「ポイエーシス」にはかならない。 この行為的直観は、それによって開示される世界が「歴史的実在の世 界」や「真の実在」と呼ばれる限りにおいて存在論的概念である。だが他 方で、それがあらゆる経験的認識の基盤であることだぉいて認識論的概念 でもある。これら二つの側面が西田の論述の中で微妙に交錯しているとこ ろにこそ、後期西田哲学の捉え難さと同時に測り難い可能性が存している と言えよう。別の観点から言い換えれば、 「行為的直観」が主題概念であ ると同時に操作概念でもあるという二重の役割を果たすことによって、後 期の西田哲学は「歴史的生命の論理」とも言うべき未踏の頼域へと足を踏 み入れるのである。 3.知の基底 「行為的直観」という西田独自の概念がすぐれて今日的意義をもちうる とすれば、それは現代の学問論(科学論)の文脈においてである。西田幾 多郎といえば、われわれはすぐに「只管打座」の標語を掲げてひたすら参 禅に明け暮れていた孤高の哲学者を思い浮かべるであろう。それゆえ西田 哲学と科学論とを並置すれば、水と油のごとく相容れないものと観ぜられ るはずである。しかし戦前の哲学界において、田辺元や下村寅太郎など少 ㌔数の例外を別にすれば、西田はど当時の自然科学の動向に旺盛な関心を抱 き続け、しかもその成果をリアルタイムで摂取していた哲学者はいなかっ たと言ってよい。 疑う人は西田晩年の著作『哲学論文集第六』を播いてみるべきであろ う。そこに収録された諸論文は大半が科学哲学および数理哲学に関するも のであり、しかも取り扱われている主題はいずれも各分野の最前線の問題 なのである。引用あるいは言及されている自然科学者も、数学においては ラッセル、ブラウア-、ヒルベルト、デデキント、ボアンカレ、物理学に おいてはアインシュタイン、ブリッジマン、ド・ブロイ、マクスウェル、 ボーア、ハイゼンベルク、生物学においてはホールデーン、ド・フリー ス、ドリーシュなど十指に余るほどである。つまり、西田は十九世紀後半 から二〇世紀前半に出現した自然科学上の係争点、すなわち数学における 可
・.基礎論論争、物理学における量子力学論争、生物学における生気論論争な どを同時代人の関心をもって凝視し、そこに伏在する哲学的課題を禁くべ き探求心をもって追究し続けたのである。 それゆえ、以上のような科学論的背景を抜きにして、われわれは「行為 的直観」の哲学的射程を計測することはできない。事実、西田もまた行為 的直観を神秘化することを厳しく戒め、それが経験的知識の基盤にはかな らないことを明言している。 「併し私の行為的直観といふのは、プロチノスの直親の如きものを云ふの でもなければ、ベルグソンの純粋持続の如きものを云ふのではない。却っ てその逆である。極めて現実的な知識の立場を云ふのである。すべての軽 _験的知識の基となるものを云ふのである。経験的な、あまりに経験的な知 識の立場を云ふのである」 (8 : 541) この、あまりに経験的な知識の立場を西田は後に「徹底的実証主義」の 立場とも言い換えている。むろん、この場合の「実証主義」は、論理実証 三主義につながるような形で余りに狭く理解されてはならない。西田にとっ て「実証」とは、行為を通じて具体的現実世界に定位することと別の事柄 ではなかった。 「徹底的実証主義は行為的直観的でなければならない」 (ll :7)と言われるゆえんである。ただ、行為的直観の立場が、 「実証 主義」という一つの科学論上の見地と敵齢することなく結びつけられてい ることは注目されてよい。当時の文脈では、たとえばブランクとマツハの 論争に見られるように、実証主義とは科学的実在論に対する一種の「反実 在論」の立場を意味していたからである。そのことは、敢えて「実証主 義」を標摸した西田の企図を推測させるに十分であろう。 また、先の引用文中の「経革」が前期の「純粋経験」や「直接経験」の ような主客未分の状態を意味するものでないことは言うまでもない。後期 の西田哲学においては、経験は「行為」と不可分の概念であり、行為によ る能動的認識の謂いである。そのことは、以下のような行為的直観の説明 からも明らかであろう。 「而して我々は行為によって物を見、物が我を限定すると共に我が物を限 '定する。それが行為的直観である。我々が経験を知識の基本と考へなけれ ばならぬといふのも、経験といふのがかかる意味に於ての行為的直観なる が故である。経験といふのは、唯直接的に我に対するものではない。さう いふものならば、夢と選ぶ所がない。行為を離れて経験といふものはな い。 」 (8:131) ここで行為的直観は「行為によって物を見る」こと、あるいは行為を媒 /∂
介にした我と物との相互限定と定義されている。しかし,この説明は今-っ隔靴掻痔の感を免れない。その内実を解きほぐすためには、 「行為的直 観」が術語として定着する以前の段階に立ち戻ってみなければならない。 たとえば『哲学の根本問題(行為の世界) 』において、西田は「行為的直 観」という術語は用いていないものの、 「行為によって見る」や「働くこ ことによって見る」という表現を頻用している。一例として「芸術的創作の 如きものに於ては、我々は真の個性を客観的に見るといふことができる。 考へられた自己は真の自己ではない。如何なる作品が出来るかは芸術家自 身も知らない。かかる場合、我々は行為によって見ると考へるのである」 (7:136)という箇所を挙げることができる。明らかなように、 「行為 によって見る」ことのモデルとなっているのは芸術的制作にはかならな い。つまり、画家や彫刻家は絵筆や盤をもって物を見、考えているのであ る。このことは、後に行為的直観が「ポイエーシス」と言い換えられてい ることとも符合している。 むろん、行為的直観は芸術家の営みにとどまるものではない。行為的直 観のモデルを芸術的制作からわれわれの日常的行為のレベルにまで引き戻 す場合には、精神医学者の木村敏が挙げている例が参考になるであろう。 彼は「目で見なくても、われわれの行為それ自身が<目>を持っているか のように、肉眼以上に的確にものを見ているということがある」 (4)と 述べて、野球でピッチャーが投げる速球を打ち返すバッターやピアニスト の正確無比なな演奏に言及している。むろん、バッターやピアニストの見 d事な技量は、厳しい習練の賜物であろう。その際、反復された行為のパ ターンは、いわば第二の自然である「習慣」として彼らの身体に沈殿する のである。西田が「行為的に物が見られるといふのは、偶然に物が現れる といふことでなく、そこに習慣といふものがなければならない」 (8: 201)と述べているのもそれと別のことではない。この能動的習慣が歴史 的・社会的に沈殿することによって形成された行為の主体のことを、西田 は端的に「歴史的身体」あるいは「表現作用的身体」と呼ぶのである。 以上の考察を基にするならば、西田の「行為的直観」は決して孤立した 概念ではなく、・現代の科学哲学の系譜の中にその対応物をもつことがわか る。一つはギルバート・ライルが提起した「遂行的知(knowinghow)」と 「事実的知(knowing that)」の区別であり、もう一つはマイケル・ボラ ニーが提出した「暗黙知(tacit knowledge)」の概念である。 ライルは事柄を命題の形で知ることを「事実的知」と呼び、それに対し て事柄を遂行する仕方を知ることを「遂行的知」と名づけている(5) 。 後者はこれまで哲学者が無視してきたものであり、例として挙げられてい …るのは、楽器の演奏方法を習得する、木の刈り込み方がわかる、本結びの 結び方を知る、といった知り方である。これらが行為的盛観の事例とほぼ 重なり合うことは明らかであろう。また、ライルがこの区別を提起した主 ■ ●■l //
目的が主知主義に対する批判にあったことは注目されてよい。西田の行為
的.自己ならびにその発展形態としての行為的直観もまた、主知主義と個人 主義に対する反措定であったからである。
ところで、ボラニーは暗黙知を「われわれは誇ることができるより多く
のことを知ることができる(We can know more than we can ten.)」
(6)と定式化しているが、ゲシュタルト心理学をめぐる以下の議論は、 行為的直観との親近性を端的に示していて興味深い。 「ゲシュタルト心理学によれば、対象の外見的特徴が認知されるのは、網 T.膜や脳に刷り込まれた要素的な緒細目が互いにおのずと均衡のとれた状態 に達することによる、と考えられている。しかし私はそれとは反対に、ゲ ‥シュタルトは、われわれが知識を探求するときに経験を能動的に形成する 活動の結果として成立する、と考えている。人間が知識を発見し、また発 見した知識を真実であると認めるのは、すべて経験をこのように能動的に 形成、あるいは統合することによって可能となるのである。この能動的形 成、あるいは統合こそが、知識の成立にとって欠くことのできぬ偉大な暗 黙的な力である。 」 (7) ここで開陳されているのは、いわゆる「物理的ゲシュタルト」の想定に 対する批判である。それに対しては、経験を能動的に形成あるいは統合す る暗黙の力が対置されている。言うまでもなく、ボラニーの主張する経験 の能動的形成という考えこそ、文脈こそ違え西田をして「行為」と「直 観」という一見矛盾する概念を結びつけさせた当のものであった。行為的 直観と暗黙知との親近性は、ボラニーが知の形成にとっての「身体」の役 割を強調するに至って一層著しいものとなる。 「知的であろうと実践的であろうと、外界についてのわれわれのすべての 知識にとって、その究極的な装置はわれわれの身体である。 (中略)われ われが自分の身体を外界の事物としてではなく、われわれの身体として感 じるのは、このようにわれわれの身体を知的な活動の装置として用いるこ とによるのである。 」 (8) これに続けてポラニーは、道具や探り杖がわれわれの身体の感覚装置を 拡張する働きをもつと述べているが、そのことは「我々が身体を道具とし て有つといふことは、我々が自己に対して立つ物を道具として有つといふ ことであり、それは逆に物が身体的であるといふことである」 (8: 160)という身体を道具の延長として、また道具を身体の延長として捉え る西田の考えと一致する。ボラニーの暗黙知と西田の行為的直観は、非言 語的な身体的認識という点に、その共通の基盤をもっているのである。し /b
l● ● かし、以下で見るように、西田の身体の考察は科学哲学者ボラニーのそれ をはるかに凌駕している。彼の考察はわが国で最初の身体論であったのみ ならず、別の所で論じたように戦後の現象学的身体論の問題関心をも先取 りするものであった(9) 。 西田の行為的直観を支えているのは「身体」とともに「道具」の概念で ある。ここで「道具」はあくまでも行為を通じたポイエーシス(制作)の 装置として肯定的に捉えられていることに注意せねばならない。それゆえ 彼にとっては、身体は世界制作の媒体という意味で、まざれもなく道具な のである。 「我々が我々の身体を何処までも道具と見て行くといふこと は、逆に物が身体的となることである。その極、世界が我々の身体となる と云はざるを得ない」 (8: 161)という一節は、西田の身体概念の射程 を余すところなく示していると言ってよい。世界が身体となるところ、も はや「私の身体」は存在しない。すなわち「自己」がなくなり、 「物の世 界」が立ち現れるのである。しかし、この「物の世界」は、メルロ-ボン ニチイ流に言えば、いわば「身体」という生地で仕立て上げられた世界には かならない。それを西田は「弁証法的物質」と呼ぶのである。 「行為的立 場に於ては、物はプラグマでなければならない」 (8:169)とは、まさ にそのことを指している。 世界が身体と同じ生地で仕立てられているとすれば、自然はもはや単な る物質的自然ではなく「歴史即自然」あるいは「歴史的自然」という性格 を備えざるをえない。これは通常「第二自然」と考えられてきたもので あった。それに対して西田は「私は却ってかかるものを第一自然と考へ、 所謂法則的自然といふものは、その自己否定の方向に考へられるものとす る」 (8:200)と主張する。そこからすれば、 「法則的自然と考へられ るものも、歴史的世界の不変なる習慣と考へることができる」 (8: 202)のである。このようにして西田は、行為的直観によって拓かれる身 体としての世界を「歴史的実在の世界」と呼ぶ。彼にとっては、これこそ が真のリアリティーの世界なのである。 したがって、行為的直観とは、歴史的実在の世界を「歴史的身体」とし てのわれわれが身体的行為を通じて認識し、創造的に自己表現を行うこと 三以外ではない。その意味で、芸術的制作から学問的認識まであらゆる人間 的活動は「ポイエーシス」にはかならないのである。そのことを端的に言 い表した一文を引用することによって、 「行為的直観」の射程を計測する 本稿のとりあえずの締めくくりとしたい。 「芸術家の身体は芸術の機関である如く、学者の身体は学問の機関であ る。芸術家の生命は美にあり、学者の生命は真にある。思惟作用といふも のも、我々の身体を離れてあるのでない。 」 (8:174) /i
[注] 西田幾多郎からの引用は、すべて『西田幾多郎全集』全十九巻(岩波垂 店)を典拠とし、その巻数および真数を引用文末尾に明示した。 (1)石川浮『森鴎外』ちくま学芸文庫、一九九四年、八貢。 (2)同前。 (3)下村寅太郎著作集第十二巻『西田哲学と日本の思想』みすず書房、 一九九〇年、一四七貢。 (4)木村敏『生命のかたち/かたちの生命』青土社、一九九五年、十七 三頁。
(5) Gilbert Ryle, The Concept of Mind, Penguin Books, 1970,
p.28ff.(坂本百大ほか訳F心の概念』みすず書房、一九八七年、二七頁以 下)
(6) Michael Polanyi, ne Tacit Dimension,Ancher Books,
1967,p.4.(佐藤敬三訳『暗黙知の次元』紀伊国屋書店、一九八〇年、十五 貢) (7) Ibid.,p.6.(邦訳、十八頁) (8) Ibid.,pp.15-16.(邦訳、三二頁) (9)拙稿「歴史の中の身体」 、上田閑照(宿) 『西田哲学』創文社、一 九九四年、所収を参照。 [付記]本稿の第二節および第三節は、 「西田・田辺記念講演会」 (一九九 六年六月一日、於・芝蘭会館)における講演「科学論から見た西田哲学」 の一部を加筆訂正のうえ転用したものである。お招きをいただいた京都大 ヱ学文学部宗教学研究室の先生方ならびに当日会場で質問を賜った皆様に は、この場を借りて御礼を申し上げたい。なお、講演の後半部では西田の 数学の哲学、物理学の哲学および生命科学の哲学について各論的な検討を 行ったが、紙数の制約から本稿ではその部分を割愛せざるをえなかった。 /メ
第二章 歴史的生命の論理:西田幾多郎の生命論 生命!此譜の中にいかばかり 深奥なる意味を含むよ。 北村透谷「内部生命論」 1.幾多郎・透谷・百三 明治三五年二月二四日の日記に、西田幾多郎は「学問は畢尭Iifeの為な
I;り、 lifeが第一等の事なり、 lifeなき学問は無用なり。急いで書物よむべ からず」 (17:74)と書き付けている。また、明治三八年七月一九日の _,日記には「余はpsychologist, sociologistにあらずlifeの研究者とな らん」 (17: 148)という記事が見える。三〇代半ばのこの時期、西田は 金沢の第四高等学校教授の職にあった。後に「金沢にいた十年間は私の心 身共に壮な、人生の最もよき時であった」 (12: 170)と回想しているよ うに、日露戦争において弟想次郎を失ったとはいえ、この数年間は西田の 生涯の中では比較的安定した時期であった。 しかし、学問的にはこの時期、西田は哲学者としての自己形成の途上に あり、学者としての迷いを断ち切るために参禅に明け暮れる毎日であっ た。すなわち、やがて『善の研究』として結実する思索を開始し、 「純粋 経験に関する断章」を書き始める直前の時期に当たっている。そうした学 問上の転機に際して、彼が自己の学問的方向を示唆する鍵概念として「真 理」でも「善」でもなく…life"という言葉を選んでいることは、後の西 田哲学の展開を考える上で注目されてよい。 事実、生前の西田が最後に公表した雑誌論文はまさに「生命」と超され こており、これが未完のままに琴わっていることからも、彼の終生の問題関 心が奈辺にあったかを窺うことができる。むろん、最後の完成論文が遺稿 「場所的論理と宗教的世界観」であることはよく知られているが、もとよ り彼にとって宗教的探究と"life"の探究とは不可分のものであり、表裏 一体の事柄であった。 (その意味で、最後の『哲学論文集第七』が「生 命」と「場所的論理と宗教的世界観」の二論文から構成されていることは きわめて興味深い) 。そのことは、 『善の研究』第-編の末尾に次のよう に記されていることからも明らかであろう。 「真の宗教的覚悟とは思惟に基づける抽象的知識でもない、又単に盲目的 感情でもない、知識及意志の根底に横はれる深遠なる統一を自得するので ある、即ち一種の知的直観である、深き生命の捕捉である。故にいかなる 論理の刃も之に向うことはできず、いかなる欲求も之を動かすことはでき ぬ、凡ての真理及満足の根本となるのである。 」 (1 :45) /∫
ここで西田は「宗教的覚悟」を「一種の知的直観」と言い替え、さらは それを「深き生命の捕捉」と表現している。それに続けて彼は「学問道徳 の本には宗教がなければならぬ、学問道徳は之に由りて成立するのであ る」 (同前)と述べているが、これは先の日記に見られる「学問は畢尭 1ifeの為なり、 ・ ・ ・lifeなき学問は無用なり」という一節と呼応するも のであろう。そして西田は、やがて相対立する「論理の刃」と「生命」と を対峠させ、前者を後者によって基礎づけることを後期の代表的論文「論 理と生命」 (一九三六)によって試みるのである。 言うまでもなく、 "life"という語は多義的といって悪ければ、広範な 内包を有する言葉である。日本語に置き直すにしても、 「生」 「人生」 「生活」 「生気」 「命」そして「生命」とさまざまな訳詩が準備されてい る。おそらく西田はこれらのうち一つを選んだのでは言い尽くせない何か を、そしてこれらの意味のすべてを包括するものを"life"の静に託した 上で、自ら「lifeの研究者たらん」と宣言したのであろう。その意味で、 "life"という鍵概念は、西田哲学のその後の展開を貫いている一本の赤 い糸にはかならない。事実、彼は「論理と生命」において、自らの立場を 明確に「歴史的生命の論理」 (8: 355)と呼ぶに至るのである。 処女作『善の研究』においては、いまだ「生命」は主題として明示的に 取り上げられてはいない。しかし、 「純粋経験とは意志の要求と実現との 間に少しの間隙もなく、其最も自由にして、括溌なる状態である」 (1: 14)という純粋経験の規定の中に、当時の読者が「内部生命」の発現を読 み取ったとしても、それはいささかも不思議ではない。たとえば倉田百三 は、 『善の研究』発刊の翌年に早くも「生命の認識的努力[西田幾多郎 論]」を起草し、その中で「私は西田氏の哲学を、氏の内部生活の表現とし て、氏の人格の映像として見ることに興味を感じて読んだのである」 (1)と述べ、さらに次のように続けている。 「氏の哲学には生命の脈拍が波打っている。真面目なる、沈痛なる力がこ もってる。しかもその力はしっとりと落ち着いて深い根を張っている。氏 が内部生命の衝動に駆られて、真剣に自己の問題につきて思索しつつある 痕跡は到る処に残っている。 」 (2) 言うまでもなく、 「内部生命」という言葉は北村透谷に由来するもので ある。西田より二歳年長であった透谷の「内部生命論」は一八九三年、す なわち『善の研究』に二〇年を先んじて発表されており、明治の多感な青 年たちに少なからぬ影響を及ぼしていた。それゆえ、倉田が『善の研究』 で触れた西田の思索の軌跡の中に、余りに文学的な「内部生命」を強靭に 論理化する「認識的努力」を読み取ったことは想像に難くない。実際、西 /∫
田の『善の研究』は、その後倉田の『愛と認識との出発』を経由すること によって、鈴木貞美の言う「大正生命主義」 (3)の潮流の中で読まれて いくことになるのである。 だが、透谷が「人須らく心の奥の秘宮を重んずべし、之を照らかにすべ し、之を直うすべし、 ・ー-然り、永遠の生命の存するもこの奥にあり」 (4)と述べているように、彼の内部生命は各人の「心の奥」に存する生 命の発光源ともいうべきものであった。それゆえ、透谷の内部生命と西田 の純粋経験とは、およそ志向する方向を異にしている。内部生命が「心の 奥」へ向かう求心性の概念であるとすれば、純粋経験は「心の外」へと向 かう遠心性の概念なのである。あるいは、透谷があくまでも近代人として の個我の確立を目指していたとすれば、西田が目指していたのは、むしろ 西欧的意味における個我の解体であったと言ってもよい。その点で、 「純 粋経験は個体の絶対性を否定する脱臼態であるが、内部生命は自己完結を もとめてやまぬ個体の内自態である。西田には内と外の二元論を否定する 弁証法があり、 <内部生命>論は内と外の二元論を前提している」 (5) という加藤尚武の指摘は正鵠を射たものであろう。透谷と西田は、自己確 立の方途をともに「生命」という根本概念に求めながらも、その同じ出発 点におそらくは背中合わせに立っていたのである。 その意味からすれば、確かに倉田百三は、透谷の内部生命と西田の純 こ粋意識とを無媒介に重ね合わせることによって、西田哲学を生命主義の方 向へと通俗化する道を拓いたと言わねばならない。その限りで、西田自身 が子息に宛てた手紙の中で倉田の小説や思想を「甘ったるいいや味の多い もの」 (18: 252)とわざわざ傍点を付して評しているのも無理からぬこ とであろう。しかし他方で、倉田が『善の研究』の「個人あって経験ある にあらず、経験あって個人あるのである」 (1:4)という周知の一節と遭 遇して、 「私は書物を閉じて机の前に擬と坐っていた。涙がひとりでに頬 を伝った」 (6)という決定的な体験をしていたことも忘れてはならな い。この出会いを通じて彼は、 「私は自己の個人的意識を最も根本的なる 絶対の実在として疑わなかった」という独我論的立場から抜け出し、 「個 人意識は生命の根本的なるものではない」という自覚へと到達するのであ る(7) 。 この人口に胎灸した「他者の回復」のエピソードは、しかしながら単な る甘ったれた青春の感傷として片づけられるべきではない。倉田自身が意 識していたかどうかは別として、彼はここで、透谷の内部生命が行き着く はずの近代的自我のアポリアに足をからめ取られ、そこからの脱出路を必 J死の思いで西田の純粋経験の中に求めようとしているのである。それは、 西洋哲学の移入を急務としてきた明治期の知識人が、初めて内発的な意味 で「他者」の問題と逢着した瞬間であったと言ってよい。そうでなけれ ば、彼の流した涙は、それこそ「甘ったるいいや味の多いもの」になるほ /7
かはないであろう。 倉_田がおそらくは直感的に掴み取ったように、西田の自我は「心の奥」 の個人意識へと収束するものではなく、絶えず外部へと関係性を求めて遠 心的に開かれて行く自我にはかならない。そうした自他の関係性が成立す る<場>そのものを、西田は「純粋経験」と呼んだのである。 後に『善の研究』新版に序文を寄せた西田は、その中で「此書に於て直 接経験の世界とか純粋経験の世界とか云ったものは、今は歴史的実在の世 界と考へる様になった。行為的直観の世界、ポイエシスの世界こそ真に純 こ粋経験の世界であるのである」 (1:7)と述べている。そして、この行為 的直観の世界は、ほどなく「歴史的生命」の世界として捉え直されること になる。だとすれば、前期から後期への西田哲学の歩みは、 「純粋経験」 _から出発して「歴史的生命」へと至る行程であったと宮うことができる。 歴史的生命とは、純粋経験が変貌を重ねた未に到達した成熟した姿にはか ならない。その意味でなら、倉田が自身の西田論を「生命の認識的努力」 と名づけたことは、通俗化という代償を払ってのこととはいえ、西田哲学 の急所を過たず捉えていたのである。 2.生命論の過渡的展開 『善の研究』以後の考察の成果をまとめ、みずから「余の思索に於ける 悪戦苦闘のドッキュメント」 (2:ll)と称した『自覚に於ける直観と反 省』においては、いまだ西田の生命論は具体的な形をとって展開されては いない。だが、この事の末尾に付された「政(種々の世界) 」の中で、彼 はベルグソンのエラン・ヴィタールに触れながら、生命について注目すべ き発言を行っている。 「生命といふ語は唆味であると思ふが、要するに我々の意志を対象界に投 射して見たものが生命である。即ち客観化せられた目的論的統一である。 ・ -己自身に依って立つもの、真に独立なものが生きたものであって、 真の生命とは実在の具体的全体の統一であるといふことができる。生命の 発展とは具体的全体に向かって進むことである。此意味に於て単なる抽象 的立場の上に立つ肉体的生命といふ如きものは手段であって、目的共著で はない。 - ・真の生命といふのは文化意識Kulturbewusstseinといふ ものを除いて考ふることはできぬ。 『生への意志』 derWillezum
Lebenは『文化への意志』 derWille zum Kulturlebenでなければなら
ぬ。」 (2:349)
ここには、やがて二〇年後に「論理と生命」として結実をみせる西田の 生命論の基本的結構が、簡にして要を得た形で予示されていると言ってよ
い。まず生命を「意志」の対象界への投影として捉える見方は、先に引い た純粋経験を「意志の要求と実現との間に少しの間隙もない」状態として 叙述した一節と重なり合っている。西田が『善の研究』において「凡て埋 性とか法則とかいって居る者の根本には意志の統一作用が働いて居る」 (1:39)といった言い方をするとき、この「意志」はほとんど「生命」 と置き換えられてよい概念である。実際、彼は後に「真の理性は真の歴史 的生命でなければならない」 (8 : 270)と述べて、理性的認識や科学法 則の把握の根底に行為的直観、すなわち歴史的生命の自己表現の働きを見 ているのである。 次に、真の生命を「実在の具体的全体の統一」として定式化している箇 所に注目すべきであろう。これは、やがて彼が「歴史的実在の世界」と呼 ぶものにほぼ等しい。この歴史的実在の世界が純粋経厳の世界の発展形態 であることについてはすでに述べた通りである。西田の生命概念は、歴史 的実在の世界を媒介にすることによって、単なる「肉体的生命」には留ま らない広がりと深さとを獲得する。つまり、単なる「生物的生命」に対置 される「歴史的生命」の次元が開かれるのである。 歴史的生命という概念は、 「行為的直観」や「歴史的身体」といった後 期西田哲学の鍵概念と密接不離の関わりをもっている。それらは技術や言 語を可能にする根源的働きを指す青葉であり、言い換えれば文化的世界の 基底をなす人間存在のあり方にはかならない。西田が真の生命と「文化意 識」との不可分のつながりを指摘するゆえんであろう。 「生への意志」が 「文化への意志」であるという先の主張は、いわば西田の生命論の根幹を なす基本テーゼなのである。 『自覚における直観と反省』において示唆された以上のような生命論の 構図は、しかしながらその後しばらくの間は具体的な展開をみせていな い。西田はその間いわゆる「場所の論理」の構築に心血を傾けるからであ る。生命論の問題意識が熟成し、明確な形をとり始めるのは、ようやく一 九三〇年代に入ってから、すなわち彼が齢六〇を越してからのことに属す る。その端緒をなす考察は、 『無の自覚的限定』に収められた論文の中に 見ることができる。たとえば「私と汝」の中では、ベルグソンの生命観に 対する明確な批判が次のような形で述べられている。 「真の生命といふべきものは、ベルグソンの創造的進化といふ如き単に連 続的なる内的発展ではなくして、非連続の連続でなければならぬ。死して 生れるといふことでなければならぬ。生命の飛躍は断続的でなければなら ぬ。ベルグソンの生命には真の死といふものはない。故に彼の哲学に於て 空間的限定の根拠が明でない。真の生命といふのは、唯私の所謂死即生な る絶対面の自己限定としてのみ考へ得るものでなければならぬ。 」 (6 : 356) /タ
ミ こ_こで生命を特徴づけるために用いられている「非連続の連続」 「死即 生」 「絶対面の自己限定」といった西田に特有の術帯は、やがて生命のあ り方を「絶対矛盾的自己同一」として捉える彼の後期の立場へとまっすぐ につながっている。確かにこうした独自の表現を見れば、彼の生命論は容 易に人を寄せつけない堅牢な鎧で覆われているかのような印象を与える。 しかし、それは何ら神秘的な生命解釈ではない。ここで西田が「真の生 命」と呼んでいるのは、単なる「生物的生命」ではなく「人格的生命」の ことにはかならない。そう考えれば、 「非連続の連続」や「死即生」と言 われていることの内容も多少は理解可能となるはずである。 西田は先の引用の少し後で「我々の生命は非連続の連続として限定せら _れるのである。そこに我々の生命の社会性といふものがなければならな い、子は親から生れないといふ意味がなければならぬ、親と子の同列的な る意義がなければならない」 (6 :359)と述べている。これは彼の生命 論の要点を凝縮した叙述であるが、それにしてもこの親と子をめぐる説明 は甚だわかりにくい。だが、このわかりにくさは、西田が具体的説明を省 略して結論だけを投げ出していることに由来する。それに対して、次の年 目こ刊行された『哲学の根本問題』においては、同じ事柄が以下のように噛 み砕いて敷術されている。 「社会性といふものなくして私といふものはないとすら考へることができ る。生物的生命に於ては子は唯、親から生れると考へられる。生命は唯、 直線的系統と考へられる。我々の人格的生命に於ても、一面に爾考へられ ねばならぬ。昨日の我は今日の我を生むのである、更にベルグソンの創造 的進化の如きものを考へることができる。而も我々の人格的自己は親から も生れないといふ意味を有っていなければならぬ、人格的自己としての 我々は親と同列的といふ意味を有っていなければならない。加之、かかる 意義を有つことによって我々は人格的自己と考へられるのである。 」 (7:136) いささか拍子抜けするように明快な説明だが、要するに、親から子へ連 続的に受け継がれる生命は単に生物的生命にすぎない、ということであ る。他方、人格的生命にもそのような直線的系統の側面はあるけれども、 '親と子が独立の人格である以上、両者は「同列的」であり、子の人格的生 命は親からは生まれない。これが「非連続の連続」ということであり、 「生命の飛躍は断続的」と言われるゆえんである。 同様に、 「死して生まれる」あるいは「死即生」という言葉も、人格的 生命の継承と断絶の両側面を言い当てたものにはかならない。かつて西田 は「単に物質欲の外、理解しない人に取っては、その人の生命は肉体的生 .ZO
命の外に考へることはできぬであらう。之に反し深い理想的要求に生きる 人臥ボールの青の如く我もはや生きるにあらずキリスト我に於て生きる( といふことができる」 (2:349)と述べたことがある。これは生物的生 命と人格的生命との対比に通じるものであろう。真の生命は「文化意識」 と不可分だという彼のテーゼはそのような意味であり、それがここでは r社会性」と言い表されているのである。 ・l このような観点から見るとき、ベルグソンの創造的進化の説は、西田に とって生命の連続面のみを強調したものと映った。それゆえ、そこには 「真の死」はないと言われるのである。人格的生命は身体的存在という物 質的基盤をもつことによって死に直面し、また他の人格的生命から個体的 に区別される。これが「空間的限定」であり、ベルグソンの哲学に欠けて いるとされたものである。それゆえ西田は「ベルグソシの生命といふ如き ものは実在的ではない、身体のない生命である。ベルグソンに於ては身体 は生命の道具たるに過ぎない」 (6: 360)と断じる。それに続けて彼は こう論じている。 「私は自然科学者の考へる如き意味に於て生命の基礎に物質を置くのでは ないが、非合理的なるものを基礎とするといふ意味に於て、寧ろ実在的生 命は身体的と考へたいと息ふ。身体なくして実在的生命というものはな い。而して我々の真の生命といふものを斯く絶対の死から蘇ることである とするならば、それは内面的持続といふ如きものに求むべきではなくし て、実践的行為といふ如きものに求むべきであると息ふ。行為に於ては 一我々は過去から限定せられるのではなくして、未来から限定するのであ る。」 (6:360) ここで「非合理的なるものJ.とは説明を拒む絶対的な死の世界である物 質界のことである。 「死即生」の統一である実在的生命は、生と死の両側 面を一つのものとして含むという意味において、可死的な物質的身体に基 礎をもたねばならない。また、西田が人格的生命の死からの蘇りを「内面 的持続」ではなく身体を媒介とした「実践的行為」の次元に求めているこ とに注目すべきであろう。 先にわれわれは透谷と西田の対比を試みたが、おそらく透谷ならば、人 格的生命の蘇りを「各人心宮内の秘官」と彼が呼ぶ「内面的持続」の次元 に求めたはずである。それに対して西田は、単なる伝統の継承(過去から の限定)に留まらない世界関与的・社会形成的な投企(未来からの限定) としての実践的行為の中にそれを求めている。透谷の「求心性」に対する 西田の「遠心性」が際だっている点である。 また、ここで強調されている「身体」や「実践的行為」が、ほどなく 「歴史的身体」や「行為的直観」として概念的に洗練されるものであるこ Z/
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の花を咲かせるのだからである。 3.ホールデーンからの触発 昭和十一年(一九三六)一月六日の日記に、西田は「高山ホルデーンを 持ち来」 (17:531)と書き付けている。続く十四日の項には「丸善にゆ く。 Blackwellへrndane注文」との記載が見える。おそらくこれは、弟 子の高山岩男が西田の求めに応じて生物学者J. S.ホールデーンの著作『生物学の哲学的基礎(me philosophicalbasis of biology)A (一九
_≠三一)を携えて訪問し、西田がその重要性を認めてさらそく丸善に注文し たことを指すものであろう。当時、洋書の注文から到着までどの程度の日 数を要したのかは審らかにしないが、同じ年の七月にF思想』に発表され た「論理と生命」にはすでにホールデーンに対する明示的な言及がなされ ていることからすれば、驚くべき吸収の早さと言わねばならない。 ちなみに、このJ. S.ホールデーンは遺伝学者として名高いJ. B. S・ホールデーンの父親であり、呼吸生理の研究で重要な発見をした生理 学者であった。また彼は、機械論的生命観に反対し、環境と生物とを一体 と見る全体論的ないしは有機体論的生命観の提唱者としても知られてい る。もちろん西田が触発されたのは、この後者の側面においてである。 最晩年の論文「生命」の冒頭を、西田は「生命とは如何なるものである か。先ず生理学者の云ふ所を聞いてみよう。ホルデーンの説は専門家の間 にどれだけ認められて居るかは知らねど、私は自分の考に最も近いものと 思ふのである」 (ll :289)と始めている。あるいは「私は私の徹底的実 証主義の立場から、ホルデ一㌢の生命の概念に同意するものである」 (ll:293)という箇所からも明らかなように、 「論理と生命」から「生 .命」に至る後期西田哲学の生命論は、ホールデーンの生物学からの影響を 抜きにしては語ることができない。西田の科学哲学がブリッジマンの操作 主義をバックボーンとして組み立てられているとすれば、彼の生命論は ホールデーンの有機体論を基盤にして成立しているのである。 西田はホールデーンの主著『生物学の哲学的基礎』の中のある一節から よほどインスピレーションを受けたらしく、その箇所を管見に触れる限り 都合三度にわたって(9:268、 ll :292、 12:307)原文の英静のまま 引用を重ねている。その部分の試訳を示せば以下の通りである。 「われわれは有機体の諸部分と環境との関係を、規準的で種に固有の構造 と環境とが能動的に維持されるという本性をもつものと理解する。この能 動的維持の働きこそわれわれが生命と呼ぶものであり、それを把握するこ Zる