阪神大震災の学校現場で体験したこと
著者
中西 敏昭
雑誌名
月刊高校教育
巻
44
号
7
ページ
48-51
発行年
2011
URL
http://hdl.handle.net/10236/12858
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〔短期連載〕
◆阪神・淡路大震災時の学校状況
平成 7 年 1 月 17日︵火︶午前 5 時 46分に発生した阪神・淡路 大震災では約 6 4 3 4 名の人命が失われた。東日本大震災では 死者 1 3 1 3 0 人 、 行方不明者 1 3 7 1 8 人 ︵ 4 月 11日現在 ︶ であり 、 この度の被災が未曽有のものであったとうかがえる 。 地震 、 津 波 、 原発事故と三重苦の厳しい状況である 。 しかし 、 どのような災害であっても、一人でもその命が失われれば、家 族をはじめ関係者の悲しみの深さは同じであろう。当時、第 1 学年主任であった私は生徒 360 名、その保護者も無事であっ たので、東日本大震災でもっと被害を受けた先生方の苦しみを 本当に理解できずに体験を伝えているかもしれない。 学校全体の被災状況は生徒や家族、教職員の死亡はなく、負 傷は 14名、全焼全壊 36棟、半壊 55棟、避難所への移動は 92名で あった。本校は神戸市の避難所ではなかったが、生徒数 12 0 0 人規模の学校へ当日約 2 000 人が避難し、教室、廊下、体 育館などが人でれ返った 。 2 日後には約 2 5 0 0 名に達し 、 その状態が 2 月初めまで続き、 3 月末でも約 12 00 名であっ た。そのため、生徒たちは北区の学校に間借りして学校生活を 8 カ月間過ごし 、 学校へ戻れたのは 9 月 26日 ︵火︶ で あ っ た 。 避難者がいる教室の隣で気を遣いながら授業を行い、避難所が 解消されたのは平成 8 年 2 月 14日︵水︶であった。 地震直後、交通機関が停止したため本校に着いた教職員は 9 東日本大震災で被災された皆 様に心よりお見舞い申し上げま す。皆様の安全と一日も早い復 旧をお祈り申し上げます。 今年の選抜高校野球の選手宣 誓で野山主将が 、﹁ 私たちは 16 年前の阪神・淡路大震災の年に 誕生しました⋮⋮人は仲間に支 えられることで大きな困難を乗 り越えることができると信じて います﹂と告げていました。神 戸の震災当時、行動を共にした 生徒たちは今 32歳、人生の中間 点が震 災 だ っ た こ と に なり ます 。 36歳の教え子は東北へ出向中に 東日本大震災の犠牲になりまし た。ただただ、亡くなられた方 のご冥福を祈るばかりです。 この度、学校再建にご苦労さ れている方々のお役に立てれば と思い、阪神・淡路大震災で体 験したことを以下に記しまし た。 甲子園大学特別講師・元兵庫県立高等学校長中西敏昭
阪神大震災の学校現場で
体験したこと
東日本大震災と学校教育 ②
ĵĺȁۏࣞࢷޗ֗ijıIJIJį ˒ 東日本大震災と学校教育 人程度であった。学校近くの教職員は自らが被災し、遠方の者 は登校するのに交通手段がないという状況であった。防災マニ ュアルがあってもそのように人員を配置できるとは限らない中 で防災組織の立ち上げを想定しておかなければならない。
◆避難所としての学校
本校は当日に 2 000 人あまりの被災者が殺到し、県下でも 最大の避難所となった。運動場は地震波のために波打ち、 1 期 工事校舎と 2 期工事校舎の結合部位に 伱 間ができ建物内部から 青空が眺められた。私たち学年団は生徒の安否確認のために 3 ∼ 4 班に分かれ、倒壊した家屋や燃えている家屋を避けて直進 すればすぐに行ける距離を回し何日も歩き回った。電話は不 通、今日のように携帯電話も普及していない。安否確認は生徒 の自宅や近くの避難所に張り紙などをして行った。 1月 23日︵月︶に職員会議が開かれ教職員 71名が出席し、生 徒の被災状況の確認、 3 年生の進路指導の方法、授業再開の対 策、避難者対応などが協議された。本務である教育活動に加え て、避難所としての日直、交代制で宿直業務が加わった。内容 として避難者名簿の作成、 避難所内の放送、 郵便物の呼び出し、 電話対応、救援物資の仕分け、食事の配膳、トイレ掃除、緊急 時の住民対応、人間関係の調整、運動場や教室などの照明管理 など。これらの仕事には、全国のボランティアや本校生徒、 24 時間体制で避難者の医療を支援くれた関西医大医療ボランティ アチームなどの活躍があった。◆ジプシー生活
∼間借り授業、
仮設校舎∼
平成 7 年 1 月 30日 ︵ 月 ︶ に生徒を本校 ︵ 長田区 ︶ ではなく 、 1 年生は K 高 校 ︵北区︶ 、 2 年生は S 高 校 ︵北区︶ に招集し、各 学校の 3 年生の空き教室を間借りして、 2 月 8 日︵水︶から授 業を再開した。当初、 1 年生は 50分の 4 時間授業、 2 年生は 40 分の 4 時間授業を開始し、週明けには 6 時間授業となった。生 徒はしばらく授業がなかったためか学習意欲は旺盛で、遅刻・ 欠席もほとんどなかった。生徒のアンケートの中に﹁友達と無 駄話をして居眠りしながら受けていた授業がとても重要で、そ して学校へ行けることがありがたいことなんだとわかった﹂と いう一文があった。 生徒が地震から学んだことは、 ﹁助け合うこ との大切さ﹂ ﹁命の尊さ﹂ ﹁ライフラインの大切さ﹂だった。 間借り授業では 1 、 2 年生が別々の学校で授業するため、今 までと同じ教科科目を実施するのは困難であった。芸術系の授 業ができず、理科の授業を増やし、こんな時だからこそという 思いで防災教育の授業も行った。地震後の防災教育に意味がな いという意見もあったが、この体験を今後に生かすためには必 要という思いがあった。内容は地震を科学的に理解するととも に、今後も起こり得る地震に対して、一人一人がその体験を全 国に正しく伝える〝語り部〟になろうというものであった。 授業後の感想の一部を記すと 、﹁ 地震は起こらないと言われĶı ていた神戸に住んでいる私は地震に対しては無知でした。しか し、この 1 カ月半で私はちょっと地震博士になれるほど知識を 身につけることができました。二度とこのような事態にならな いためにも防災教育は絶対に必要と思います﹂ 本校は儀式や行事の時以外は 、 服 装は自由である 。 し かし 、 間借りしている学校には制服があり、上履きがある。生徒は慣 れない学校環境で授業を受けた。当時の日番日誌には、間借り しているので仕方がないが不満もあることが書かれていた。学 年団としては生徒の思いをできるだけ吐き出す手段として、 H R で の K J 法によるクラス討論や近くの公園へ遠足に出かけて 気分転換を図ることで対応した。 平成 7 年 4 月からは北区の SN 高校のグラウンドに仮設校舎 を建て、学校が一時移転することになった。本校の校舎は避難 所になっておりグラウンドも利用できないため、仮設校舎を他 校に建てる初めてのケースであった。仮設校舎は雨の日はぬか るみ、靴が汚れ、傘をさして教室移動もした。それでも、 2 ∼ 3 月頃の分校方式になっていた時よりは、全学年が同じ敷地に いるだけで本校の校風が守られていたように思う。
◆学校再建
平成 7 年 2 月 23日︵木︶発行の学年通信に本校校歌﹃ああ再 建の意気高く 謳ふわれらが青春譜 文化の国のあけぼのは ここより生れんほのぼのと∼♪ ﹄ の 意味と題する文を書いた 。 要旨は﹁避難所となった本校で、早くから多くの生徒が学校に 来て、放送、食事、看護、清掃、物資の搬入などの手伝いを行 い、北区の他校で授業が始まっても、放課後は時間をかけて本 校へ出かけて熱心に続けた。とくにプールから水を運び、人の 嫌がるトイレの清掃を黙々とする姿を見て目頭が熱くなった⋮ ⋮ いままで行事のたびに謳われてきた校歌が本当に素晴らし く、 意味のあるものになったと思った﹂ 。生徒は、 やがて神戸の 兵庫の日本のリーダーとなる資質を備えていると実感し 、﹁ 盤 根 錯 節 に遇 いて利器を知る︵後漢書︶ ﹂︵順境のときは分からな いが逆境のときにその人の真価が分かる︶を再認識した。 なお、学校再建に当たって二つの委員会が設置された。一つ は学校再開準備委員会︵本校復帰へのスケジュールなど各学 年副主任など 10名︶ 、 もう一つは被災生徒援助委員会 ︵各種奨学 金、授業料減免、教科書・制服の無償提供、通学定期の給付な ど各学年主任、同窓会、 PT A な ど 10名︶である。 当時の生徒が次のような話をしてくれた。 ﹁ あの頃は 、 今 と違ってインターネットや携帯電話が普及し ていなかったため、高校でボランティアをする時間というのは 友達と過ごすための時間、そしてお互いの無事を喜びあう時間 でもあったのです。 1 、 2 年生が別々の学校を間借りしての再 開になったとはいえ、どんな形であっても学校に行って普段の 生活に少しでも近づけることが何よりもうれしかったことを覚 えています。あの時の体験が、今の自分にどんな影響を及ぼしĶIJȁۏࣞࢷޗ֗ijıIJIJį ˒ 東日本大震災と学校教育 ているのかを考えるということは、私にとってとても難しいこ とです。あの時にあの場所にいた、それだけで大きな経験をし たとは思っています。でも、今回の東北の震災を経験した子供 たちにも、将来、私のように見つけることの難しい答えを探し ながら大きくなっていく子がいるのではないでしょうか⋮⋮そ んな子供たちの心に寄り添ってくれる大人が彼らの近くにいる といいな、と思います﹂