カナダ首相は、なぜ関西学院大学と上智大学を訪問
したのか? : ディーフェンベーカーの初来日につ
いて
著者
櫻田 大造
雑誌名
関西学院史紀要
号
26
ページ
7-41
発行年
2020-03-15
URL
http://hdl.handle.net/10236/00028590
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ディーフェンベーカーの初来日について
櫻田
大造
Ⅰ はじめに 二 〇 一 八 年 に は、 第 四 位 の 貿 易 相 手 国 だ っ た に も か か わ ら ず、 カ ナ ダ に と っ て の 日 本 に 関 す る 先 行 研 究 は 極 め て 限 ら れ て い る。 と く に 英 語 文 献 で も 邦 語 文 献 で も 圧 倒 的 に 足 り な い の は、 カ ナ ダ に と っ て 最 重 要 な 対 米 関 係 で 蓄 積 さ れ て い る よ う な、 首 脳 会 談 な ど の 研 究 で あ る 。 あ る い は、 首 脳 会 談 か ら 派 生 す る、 象 徴 的 に 重 要 な 相 手 国 訪 問 に 関 す る 研 究 で あ る。 本 論 で は、 そ の 先 行研究の欠如を埋めるためにも、史上ふたりめのカナダ首相として、日本を訪問したジョン ・ G ・ デ ィ ー フ ェ ン ベ ー カ ー( John Diefenbaker ) の 関 西 学 院 大 学 訪 問( 一 〇 月 二 九 日 ) に 焦 点 を あ て る 。 一 九 六 一 年 一 〇 月 に 五 日 間 に わ た る、 国 こ く ひ ん 賓 と し て の 公 式 訪 日 を 実 施 し た デ ィ ー フ ェ ン ベ ー カ ー は、 数 多 く あ る 日 本 の 大 学 の 中 で、 わ ざ わ ざ 関 西 学 院 大 学 を 選 び、 ラ ン バ ス 記 念 礼 拝 堂 の 日 曜 礼 拝 式 に 参 加 し、 大 学 に、 カ ナ ダ 大 百 科 事 典( Canadian Encyclopedia ) 全 十 巻 の 寄 贈 を 約 したのであった 。関西学院の他には、上智大学にカナダセンターや学生有志によるカナダ研究会が できていたために、一〇月三一日に訪問したことを除くと、東京大学や京都大学などの日本を代 表する大学を訪れていない。 本論では、最近ディーフェンベーカー外交が再評価されている、学術的文脈も加味しつつ 、国 賓として訪日したこのカナダ首相が、なぜ関西学院大学を選んで訪問し、特別礼拝式の「日課を 読 ん だ( read the lesson )」 の か を、 解 明 す る。 ま た、 同 じ く キ リ ス ト 教 系 と は い え、 カ ト リ ッ ク系であり、自らのプロテスタント系とは宗派の異なる、上智大学への訪問も 俎 そじょう 上 に載せ、両訪 問の比較も試みる。さらに、訪日の最大目的だった日加首脳会談の結果も加味する。三回の日加 首脳会談などでは、友好関係強化と国際情勢への認識をかなり共有でき、その意味ではある程度 の高評価が可能となる。ただし、全ての二国間争点を一気に解決したわけでもなく、日本の一部 では『日本経済新聞』にみられるように、日加閣僚委員会設置の日時が決まらないことを疑問視 し、なお一層の「親近感」を求める動きもあった。 政 府 レ ベ ル で の 会 談 や 交 渉 の み が、 訪 日 目 的 だ っ た の な ら ば、 よ り 短 期 間 の 滞 在 に 留 め た り、 あるいは逆に、会談回数を増やすこともできたであろう。外訪は、ディーフェンベーカーにとっ て、外交政策をカナダ国民に誇示することも意味する。とくに、元外相であり、ノーベル平和賞 受 賞 な ど で 外 交 手 腕 を 評 価 さ れ て い た レ ス タ ー・ ピ ア ソ ン( Lester Pearson ) 自 由 党 党 首( 野 党 第一党)への対抗策として、有効な面もあるからだ。そうしなかったことからは、政治的な野心 からの訪問というよりも、純粋な宗教心から、関西学院をカナダ首相は訪れたと理解できる。つ まり、学内外のキリスト教徒との懇親を深めたかったための来学と言うことになる。一方で上智
大学への訪問は、日本国内で最初にできた、カナダセンターへの謝意を表しつつ、カナダ国内の カトリック教徒へのアピール面もあった。 Ⅱ ディーフェンベーカー政権と政治概要 これまでの主要な英語先行研究によると、進歩保守党党首ディーフェンベーカーの外交政策全 般は、あまり高く評価されてこなかった。外交(対米関係)が争点となった総選挙敗北を受けて の 退 陣 で、 彼 の 統 治 が 終 了 し た こ と が、 そ の 主 要 因 で あ る。 そ も そ も デ ィ ー フ ェ ン ベ ー カ ー が カ ナ ダ 下 院 総 選 挙 で 勝 利 し た の は、 「 大 番 く る わ せ 」 の 感 が あ っ た。 選 挙 戦 で 十 分 な 人 数 の 候 補 者をたてなかったなど、油断していた自由党のルイ・サンローラン( Louis Saint Laurent )政権 に対し、進歩保守党のディーフェンベーカーは、一九五七年六月一〇日の総選挙で、二六五議席 中一一二議席を得て、自由党の一〇五議席を上回り、組閣を開始。ただし、この政権交代は少数 与党政権だったために、翌五八年三月三一日にディーフェンベーカー首相は、解散総選挙に打っ て出る。ディーフェンベーカー率いる進歩保守党は、ケベック州レベルでモーリス・デュプレシ ( Maurice Duplessis ) 州 首 相( 保 守 的 な ユ ニ オ ン・ ナ シ オ ナ ル 党 党 首 ) の 支 持 を 得 た り、 野 党 第 一党のピアソン自由党党首への攻撃に成功するなどして、二六五議席中二〇八議席もの、憲政史 上最大の大勝利をおさめたのであった 。その立役者のディーフェンベーカーは、四年後の総選挙 ( 一 九 六 二 年 六 月 一 八 日 ) で は 経 済 不 況 な ど も あ り、 少 数 与 党 政 権 し か 樹 立 で き ず、 政 局 が 流 動 化。最終的には一九六三年四月八日の総選挙で、 自由党のピアソン党首に敗北し、 下野してしまう。
元外交官で、外相として一九五六年のスエズ危機時に、国連平和維持軍を組織して、英仏イスラ エル軍をエジプトから撤去させるのに寄与したピアソンは、当該総選挙で、二六五議席中一二五 議席を獲得。九五議席のみに留まった進歩保守党のディーフェンベーカーを破り、自由党少数与 党政権へと、政権奪取したのである 。 ディーフェンベーカー政権崩壊の引き金となったのが、少数与党政権下での下院不信任決議案 可決である 。当時米国のジョン ・ F ・ ケネディ( John Kennedy )政権との間で議論となっていた、 核弾頭のカナダ国内持ち込みやカナダ軍への配備問題が、 具体的な争点となっていた。 ディーフェ ンベーカーは、北米防空司令部( North American Air Defence Command= N ノ ー ラ ッ ド ORAD )および 北 大 西 洋 条 約 機 構( North Atlantic Treaty Organization= N ナ ト ー A T O ) 分 属 カ ナ ダ 軍 へ の 核 弾 頭 配備に対して、 対米文書の形で約束しつつも、 その実行を 遅 ち 延 えん させていた。そのようなディーフェ ンベーカー政権に対し、自由党やその他の野党がしびれを切らしたことが、内閣不信任案可決の 要因である。ディーフェンベーカーの反米・反核的言動に対して、 N ナ ト ー ATO および N ノ ー ラ ッ ド ORAD で コミットしていた集団的自衛権に基づき、カナダ軍への核弾頭装備に賛成したピアソン自由党党 首が、総選挙に勝利したのであった。 Ⅲ 訪日に関する先行研究の不足 これまでの主要邦語文献のみならず、英語文献でも、ディーフェンベーカーによる訪日は、主 要テーマとなってない。まずディーフェンベーカー自身の回顧録がその代表となろう。前任者の
サンローランと違って、ディーフェンベーカー自身は、三巻にのぼる回顧録を執筆している。回 顧 録 に あ り が ち な、 自 分 の 政 策 に 対 し て は、 「 事 実 関 係 を 超 え た 自 己 弁 護 」 も 見 ら れ る が、 日 本 に関しては記述が少ない。その数少ない記述の中でも、敢えて掲載されているのが、一九六一年 六月の池田隼人首相によるカナダ訪問時の様子である 。そこでは、ディナーをとりつつ、両首脳 が会談した様子が描かれている。そして結果的にディーフェンベーカーは、日本国内におけるカ ナダ産小麦市場拡大に、池田が熱意を示すような説得ができたと記している。なお本論対象にあ たる、その後の、カナダ首相自身の訪日については、全く触れられていない。 ディーフェンベーカー外交を語る際に必ず出てくる、政策決定者の文献として挙げられるのは、 H・ バ ジ ル・ ロ ビ ン ソ ン( Basil Robinson ) 首 相 特 別 補 佐 官 の 回 顧 録 で あ る 。 二 二 年 ぶ り の 政 権 交代を受け、時にはギクシャクする首相官邸と省との調整役として、外務省から出向し、カナダ 首相の事実上のアドバイザー役を、ロビンソンは務めて来た。そのロビンソンの回顧録でも、自 らも随行した訪日そのものは、 「紙幅の関係で」主要な記述がない。その代わりに、 「とりわけメ キシコ、 アイルランド、 北アイルランド、 そして日本」への加首相訪問は、 ディーフェンベーカー と「いつも内助の功があった彼の妻、オリバーが、カナダにとって多くの友人をつくり、その後 来る試練に備えてリフレッシュできた」とのみ記している。 よ り 客 観 的 に 書 か れ た 英 語 文 献 も、 似 た よ う な 感 じ で あ る。 カ ナ ダ の 政 治 経 済 情 勢 を ほ ぼ 同 時 代 的 に 分 析 し た、 最 も 権 威 あ る『 カ ナ ダ 年 鑑( Canadian Annual Review )』 シ リ ー ズ は、 日 本 に ついて貿易関係のみに、主要焦点を当てている。香港と並んで日本からカナダへの電化や繊維製 品 に 対 す る 保 護 主 義 的 政 策 が、 デ ィ ー フ ェ ン ベ ー カ ー 政 権 に よ っ て 提 示 さ れ た こ と が 述 べ ら れ
た。その結果、一九六一年五月一九日には、ドナルド ・ フレミング( Donald Flemming )蔵相が、 自国への割当枠を厳格化することで、日本による対加輸出自主規制が締結されたことを発表した。 前述したように、一〇月のディーフェンベーカー訪日は、同年六月に日本国首相が訪加したこと への返礼であったが、東京では池田が、この輸出自主規制への不満を漏らしたとも指摘。にもか かわらず、長期的に見て、カナダの保護主義は日本にとっても利益になると、カナダ首相は主張 し、カナダの政策を正当化したことが述べられている 。 主にカナダの新聞や週刊雑誌などを素材にした、この時代のカナダ外交について最も包括的な 研 究 と い え る、 リ チ ャ ー ド・ プ レ ス ト ン( Richard Preston ) に よ る 先 駆 的 研 究 で は、 二 八 九 頁 の本文中、日本は九頁しか出てこない。そこでは、一度もディーフェンベーカー首相の訪日は取 り上げられておらず、なおかつ日本に対する最も長い言及は、一九五〇年代後半からカナダの繊 維産業の国際競争力が、日本と比較して、劣ってきたという事実の列記だけに留まっている 。 さらに、ディーフェンベーカーの伝記としては、最も包括的に資料を 渉 しょうりょう 猟 して書かれた、デ ニ ス・ ス ミ ス( Denis Smith ) に よ る『 な ら ず 者 の 保 守 党 員( The Rogue Tory )』 が あ る。 こ の 傑 作 で も、 日 本 に 関 す る 言 及 そ の も の を、 一 九 四 一 年 の 真 珠 湾 攻 撃 の み に 絞 っ て い る。 対 米 関 係、 経済運営、 あるいは英連邦における南アフリカ共和国への態度のような、 より重要な案件がディー フェンベーカー時代には、山積していたとの印象を、この研究は与えている 。 日加関係に焦点を絞った先行文献も、似たような結果である 。一九八〇年に発刊された日加関 係 に つ い て の 国 際 会 議 の 報 告 集 は、 キ ー ス・ A・ J・ ヘ イ( Keith Hay ) 編 集 の 先 駆 け 的 な 刊 行 物であったが、 一九六一年の両国首脳相互訪問については、 議論の対象としていない。フランク ・
ラングドン( Frank Langdon )の古典的研究も、この時代の多国間制度において、日加関係を位 置づけようとしているが、ディーフェンベーカー首相の来日には触れていない。 反面、これらと比べて若干詳しい取り扱いもないわけではない。たとえば、クラウス・プリン グスハイム( Klaus Pringsheim )の研究は一八七〇年から一九八二年までの日加関係を取り扱い、 包括的に描写している。その研究でも、一九六一年のディーフェンベーカー訪日に関しては、後 述 す る フ ラ ン ク・ ブ ル( Frank Bull ) 駐 日 カ ナ ダ 大 使 の 証 言 を、 記 録 し て い る こ と が 目 立 つ の み で、 一 九 五 〇 年 代 後 半 か ら 六 〇 年 代 前 半 の 二 国 間 関 係 を「 一 連 の 前 向 き か つ 相 互 互 恵 的 な 発 展 」 があったと、みなしているだけだ。さらに、二〇〇八年に発刊された、日加関係史の英文論文集 でも、大きなトピックとはなっていない。パトリシア ・ E ・ ロイ( Patricia Roy )が、ディーフェ ンベーカー首相は一九六一年来日時に、カナダ国内で企業経営や技術供与を望む日本人およびそ の親族への永住権を、一五〇名まで認めると発表したと特筆。その結果、この永住権拡大が日本 のマスメディアで評判になったと、書いているのみである。 唯一の例外として、ディーフェンベーカー訪日時の関西学院大学訪問に言及しているのは、ジ ム・キャンベル―ミラー( Jim Campbell-Miller )、マイケル・キャロル( Michael Carroll )、そし て グ レ ッ グ・ ド ナ ヒ ー( Greg Donaghy ) に よ る、 デ ィ ー フ ェ ン ベ ー カ ー の ア ジ ア 外 交 再 評 価 論 である。論文集の中でのこの一章は、日加閣僚会議への賛同とともに、日本人がカナダに入国す る際の規制緩和を、カナダ首相が発表したと述べた。その上で、関西学院大学での日曜礼拝式に、 ディーフェンベーカーが参加した事実も、彼らは付け加えている 。 なお、邦語文献も似たように、研究発展の余地を残している。最も包括的にこの時代の日加関
係を取り扱った、大熊忠之による学術論文では、多国間争点において、当時の池田首相とディー フェンベーカー首相が合意したことを記し、この時代のカナダ外交を「普遍主義」を特色とする と い う、 ユ ニ ー ク な 結 論 を 提 示 し て い る。 「 普 遍 主 義 」 の 枠 組 み で、 二 国 間 関 係 を 発 展 さ せ る 試 みは、実際この訪問時にも存在し、まさに共同コミュニケや記者会見でそれらは明らかになって いる。その一方で、ディーフェンベーカー首相来訪時の行事などは詳述されていない 。 Ⅳ 池田隼人首相との三回の会談 この時のカナダ首相国賓訪日の最大目的は、昭和天皇皇后両陛下との会見や 午 ご 餐 さん を除くと、日 本国首相との会談であったことは間違いない 。日程中、一〇月二七日、二八日、三一日の三日間 を池田首相との会談にあてている。日加友好促進と国際情勢の意見交換が主な議題となった。具 体 的 に は、 両 国 の 貿 易 拡 大、 す で に 約 し あ っ て い た 日 加 閣 僚 委 員 会 の 発 足、 日 本 の 経 済 協 力 開 発機構( Organization for Economic Co-operation and Development= OECD)への加盟問題、 国際連合などでの日加協力の推進および核軍縮の追求などであった。加首相の離日前に発表され た 共 同 コ ミ ュ ニ ケ な ど に よ る と、 東 西 ド イ ツ の ベ ル リ ン 封 鎖 問 題 や 中 国 や 南 北 ベ ト ナ ム を 含 む 東南アジア情勢に関して、相互分析を確認しあったことがわかる。さらに、ソ連が計画した大規 模核実験には、断固として反対し、国連などの機関で、 「すべての核爆発実験が直ちに停止され、 かかる実験が実効的な国際的な査察の制度によって永久に禁止されるような条約締結の話し合い が早急に再開されること」が必須だと、両首脳は共同で述べている。国連総会における日加協力
強化で軍縮を推進することにも、首脳レベルで合意を得た。 このように、ケネディ米政権との間に抱えていたような、深刻な加米摩擦は、日加間ではほと んど見られない。一方で特に日本側の政策目的が完全に達成されないような、二国間争点も存在 していた 。その一つは、日本のOECD加盟問題であった。加盟に対してカナダの支持を求めた 池田に対して、ディーフェンベーカーは、加盟国の中には、日本を正式に認めることに反対して いる勢力がいると指摘しつつも、加首相自身は日本の「加盟申請に好意的な」立場をとると発言。 日本の加盟によりOECD自体が強化されると、カナダはみなしていたからである。ただし会談 の最後で、日本加盟に関してカナダは好意的に考慮してくれている事実を、内閣官房長官声明と して出してよいか、小坂善太郎外相がディーフェンベーカーに尋ねたところ、やんわりと断られ た。カナダ首相によると、公式発表は「時期尚早」であり、カナダが「世間の注目なしに」秘密 裡に行動した方が、関係者全員にとってよいと応じている。日本側もこの戦術に同意したようで ある。 また、日加貿易がカナダ側の輸出超過になっていたことも日本側は問題視していた。会談では、 日本は北米との間に五億ドルの貿易赤字を抱え、それが東南アジア諸国との間の二億ドルの貿易 黒字につながっていると、小坂外相が伝えた。そのために、東南アジア諸国から多くのクレーム が来ており、それが政治的にも経済的にも望ましくないこと、さらに、カナダとの貿易赤字削減 のために、既存の日本側の対加輸出自主規制、すなわち、対加輸出枠の削減を望んだ。カナダ側 の答えは、 両国が加盟している協定の枠内で、 「相互に利益のある貿易を秩序ある基礎の上にいっ そう拡大する」との「再確認」を、コミュニケで謳いつつも、個々の争点に関しては、閣議で議
論することを約したのみであった。さらに、東京滞在中に、カナダが日本に貿易面で「最恵国待 遇」を与えている数少ない国家であることも、ディーフェンベーカーは池田に、思い起こさせて いる。なお、この日加貿易不均衡の解決策として、池田は日加閣僚委員会の設置日時を、ディー フ ェ ン ベ ー カ ー 来 日 中 に 発 表 す る こ と も 求 め た が、 そ の 点 も 期 待 外 れ に お わ っ た。 一 九 六 一 年 一一月一日付の『日本経済新聞』は、カナダが総選挙前の政治状況にあることと、米加関係と異 な り 日 本 と の 関 係 は「 親 近 感 が 薄 か っ た 」 た め に、 具 体 的 日 程 が 決 め ら れ な か っ た と、 解 説 し た。 そ れ に 対 し て、 日 本 財 界 は、 閣 僚 委 員 会 開 催 が 決 ま っ た こ と 自 体 を、 対 加 関 係 強 化 と カ ナ ダ 国 内 へ の 日 系 企 業 進 出 の 足 場 に な る と み て、 歓 迎 し て い る。 実 際、 一 九 六 三 年 一 月 に は 日 加 閣 僚 委 員 会 が 発 足 し、 東 京 で 会 合 を 開 催 し、 当 時 の ブ ル 駐 日 加 大 使 は、 「 と て も う ま く い っ た 」 と、評価した 。カナダとの貿易関係もその後拡大し、一九六〇年の二億八千九百万ドル(日本に と っ て 六 千 九 百 万 ド ル の 対 加 輸 入 超 過 ) か ら デ ィ ー フ ェ ン ベ ー カ ー 政 権 末 期 の 一 九 六 三 年 に は、 四億二千六百万ドル(一億六千六百万ドルの対加輸入超過)まで、順調に伸びて行った 。 Ⅴ 関西学院大学訪問を決定した過程 このような旅程で、最重要公務である会談を実施しつつ、ディーフェンベーカー首相は関西学 院大学を訪問した。なぜ敢えて関西学院にしたのか、当時の状況からはいくつかの要因が考えら れる。まずディーフェンベーカー自身が、 敬 けいけん 虔 なプロテスタントのバプティスト派キリスト教徒 だったことが大きい。日曜礼拝式出席も欠かさなかったために、関西学院大学側では、フランシ
ス・ ミ ュ ア( Francis H. Muir ) 師 と イ ア ン・ マ ク ロ ー ド( Ian MacLeod ) 師 が 出 迎 え、 首 相 自 身が 「日課を読み上げることを行った」 記録が残っている 。その後一〇月三〇日にも、 ディーフェ ンベーカー夫妻は、横浜にある英連邦戦死者墓地で祈りをささげた後に、バプティスト教会によ る特別礼拝式にも参加している。これらのことからも、当時の社会情勢における宗教や信仰の重 みや、ディーフェンベーカー首相夫妻にとってのキリスト教の重要性が、理解できよう。 具体的な決定過程をみていこう。今回の訪日は、そもそも六月に実行された池田日本国首相の 訪加への返礼、すなわち、相互訪問の一つとして計画された 。カナダ側の資料によると、八月九 日付のブル駐日カナダ大使からのカナダ外務省宛て通達で、一〇月下旬に加首相が訪日すること を池田首相も望んでいること、そして「日本が継続して西側諸国の政策に同調することが極めて 重要な時期」であり、日加関係強化に役立つと述べている。さらに、加首相訪日が少なくとも五 日間以上になることで、東京以外の場所を訪問し、地方の発展や歴史的建造物も見学されること を、ブル大使は意見具申した。八月三〇日付けの日本からの通達によると、当時の小坂外務大臣 が、具体的に京阪神への訪問も含め、少なくとも六日間の対日滞在を望む招聘を行っている。た だし、在日期間を決めるのは、あくまでもディーフェンベーカー本人であることも、日本側は理 解していた。実際、訪日を受諾する九月六日付けの打電文書では、スケジュールの関係で六日間 の滞在は不可能であるし、ほかの閣僚は訪日一行には含まれないが、カナダのマスメディア関係 者は同行することが、明らかにされていた。 訪日期間が、一〇月二六日羽田空港着で、三一日に羽田発と決まると、日曜日をどう過ごすか も課題となる。ディーフェンベーカーが望んだのは、二九日日曜日の礼拝式への参加であり、関
西地方で検討することとなった。当初は京都付近にディーフェンベーカー所属のバプティスト教 会 が な い か、 探 し た が、 九 月 一 八 日 付 の 本 省 資 料 に は、 そ れ が な か な か 難 し い と 書 か れ て い る。 さらに、訪日旅程がほぼ決まった、九月二八日付けカナダ外務省資料にも、カナダ系のバプティ スト教会などの京都地域における所在調査の必要性も、付け加えられている。適切な教会が準備 できるかどうかということと、関西でカナダ人宣教師等と会う予定を組むことも、駐日カナダ大 使館の役割とされていたのである。 結果的には、ブル大使などの推薦が効いたようで、一〇月一〇日付けのカナダ外務省から駐日 カナダ大使館に宛てた打電文書で、ディーフェンベーカーが関西学院で開催される特別礼拝式に、 喜んで参加する意向が示されている。また、ディーフェンベーカー首相に送られた一〇月一六日 付の関西学院からの書簡では、首相参加への謝意と今回の礼拝式があくまでも非公式的な性格で あ る と さ れ た。 こ の 書 簡 を 送 っ た の は、 後 述 す る ロ イ ド・ B・ グ レ ア ム( Lloyd Graham ) 教 授 を長とし、ミュアとマクロードが名を連ねた招聘委員会であった。興味深いことには、この書簡 で、わざわざディーフェンベーカー首相に対して、礼拝式中に、新約聖書の「使徒言行録」十六 行から三一行の「日課を読む」ことを依頼しており、実際、彼はそれに応えたのであった。 この宗派を超えたプロテスタント礼拝式に、現役の内閣総理大臣を参加させるにあたり、かな りの下準備も行ったようなカナダ側の形跡もある。まず、一〇月二〇日付けの打電文書で、ブル 大 使 は、 自 ら 関 西 学 院 の キ ャ ン パ ス を 訪 問 し、 「 大 学 当 局 や カ ナ ダ 人 ス タ ッ フ メ ン バ ー が、 首 相 とその一行に対して、適切な礼拝行事を供するための努力をしていることに感銘した」と記して いる。招聘委員会のカナダ人教員などに対する調査も、 カナダ外務省は怠ることはなかった。C ・
J ・ L ・ ベーツ( Bates )博士やH ・ W ・ アウターブリッジ( Outerbridge )博士が、関西学院の 発展に寄与したことや彼らなどを通じて、 カナダとの縁が深いこと、 そして当時五名ものカナダ 人専任教員がいたことと、その履歴などもまとめられている 。 Ⅵ 関西学院大学への訪問、礼拝とその後 デ ィ ー フ ェ ン ベ ー カ ー 首 相 の 来 学 に つ い て、 当 時 の 学 生 新 聞 で あ る、 『 関 西 学 院 新 聞( 現 在 の 関 西 学 院 大 学 新 聞 )』 な ど は、 以 下 の よ う に 伝 え て い る 。 一 行 二 〇 名 を 伴 い、 デ ィ ー フ ェ ン ベ ー カ ー 首 相 は、 関 西 学 院 大 学 上 ヶ 原 キ ャ ン パ ス の ラ ン バ ス 記 念 礼 拝 堂 に、 朝 八 時 半 に 到 着。 一 五 分 間、 関 西 在 住 の カ ナ ダ 人 な ど と 歓 談 し た 後 に、 小 宮 孝 院 長 お よ び 堀 経 夫 学 長 を は じ め と す る、 関西学院関係者約百名とともに、礼拝式を実施した。 礼 拝 式 そ の も の は、 ミ ュ ア 師 に よ っ て 実 施 さ れ、 説 教 を し た の は、 マ ク ロ ー ド 師 だ っ た。 両 者 と も カ ナ ダ 合 同 教 会 の 牧 師 で あ っ た。 さ ら に、 特 別 礼 拝 式 の 招 聘 委 員 会 に は、 一 九 五 八 年 に 同 教 会 か ら 赴 任 し た 宣 教 師 兼 専 任 教 授 と し て、 グ レ ア ム も 参 加 し て い た 。 グ レ ア ディーフェンベーカー加首相と小宮孝関西学院院長 (学院史編纂室所蔵)
ムは、一九二二年にアルバータ州カルガリーで生まれ、第二次世界大戦前の約二年間、カナダ政 府の日本語教育プログラムを受講し、日本語を学び、終戦後には、連合国軍最高司令官総司令部 ( General Headquarters= GHQ)の通訳・翻訳官などを務めた。 一旦、カナダに帰省したグレアムは、一九五〇年にトロント大学大学院修士課程で社会事業学 ( social work ) の 修 士 号 を 取 得 後、 一 九 五 一 年 に カ ナ ダ 合 同 教 会 の 宣 教 師 と し て 再 来 日。 横 須 賀 キ リ ス ト 教 社 会 館 や 日 米 孤 児 救 済 合 同 委 員 会 な ど で、 牧 師 と し て 社 会 福 祉 の 実 践 活 動 に 従 事 し、 日本語にも極めて堪能だった。その後の一九五六年から二年間、カナダに帰国し、トロント大学 大学院博士課程で学び、同大における社会事業学博士( Doctor of Social Work= DSW)第一号 を取得し、関西学院大学助教授として赴任していた。グレアムは、一九六〇年の開設時に、社会 学部教授にもなり、一九六六年三月にトロント大学教授として帰国するまで、 「社会福祉組織論」 などを教えた。そして、今回のディーフェンベーカー訪問の発起人的役割をもおっていた。実際、 グレアム教授がディーフェンベーカー首相のための特別礼拝式の長として、駐日カナダ大使館を 通じて、いろいろな手配を実行した記録が、一部残っている 。ディーフェンベーカー首相自身も、 出身や選挙地盤がアルバータ州であり、グレアムと同郷だったということも、招聘には有利に働 いたのかもしれない。 実 際 の 特 別 礼 拝 式 は、 祈 り や 讃 美 歌『 聖 な る、 聖 な る、 聖 な る か な (“ Holy, Holy, Holy ”) 』 の 合 唱 な ど か ら 始 ま っ た。 そ の 後 デ ィ ー フ ェ ン ベ ー カ ー 首 相 は 自 ら、 聖 書 の 日 課 と し て、 「 使 徒 言 行録」の第一七章の一部を引用した。現存する当時の礼拝案内によると、 具体的には、 ディーフェ ンベーカーは、以下の内容を英語で朗読したことになっている 。
「 16 さ て、 パ ウ ロ は ア テ ネ で 彼 ら を 待 っ て い る 間 に、 市 内 に 偶 像 が お び た だ し く あ る の を 見 て、 心に憤りを感じた。 17 そ こ で 彼 は、 会 堂 で は ユ ダ ヤ 人 や 信 心 深 い 人 た ち と 論 じ、 広 場 で は 毎 日 そ こ で 出 会 う 人 々 を 相手に論じた。 18 ま た、 エ ピ ク ロ ス 派 や ス ト ア 派 の 哲 学 者 数 人 も、 パ ウ ロ と 議 論 を 戦 わ せ て い た が、 そ の 中 の ある者たちが言った、 「このおしゃべりは、いったい、何を言おうとしているのか」 。また、ほか の 者 た ち は、 「 あ れ は、 異 国 の 神 々 を 伝 え よ う と し て い る ら し い 」 と 言 っ た。 パ ウ ロ が、 イ エ ス と復活とを、宣べ伝えていたからであった。 19 そ こ で、 彼 ら は パ ウ ロ を ア レ オ パ ゴ ス の 評 議 所 に 連 れ て 行 っ て、 「 君 の 語 っ て い る 新 し い 教 が どんなものか、知らせてもらえまいか。 20 君 が な ん だ か 珍 ら し い こ と を わ れ わ れ に 聞 か せ て い る の で、 そ れ が な ん の 事 な の か 知 り た い と思うのだ」と言った。 21 い っ た い、 ア テ ネ 人 も そ こ に 滞 在 し て い る 外 国 人 も み な、 何 か 耳 新 し い こ と を 話 し た り 聞 い たりすることのみに、時を過ごしていたのである。 22 そ こ で パ ウ ロ は、 ア レ オ パ ゴ ス の 評 議 所 の ま ん 中 に 立 っ て 言 っ た。 「 ア テ ネ の 人 た ち よ、 あ な たがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。 23 実は、 わたしが道を通りながら、 あなたがたの拝むいろいろなものを、 よく見ているうちに、 『知 られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでい るものを、いま知らせてあげよう。
24 こ の 世 界 と、 そ の 中 に あ る 万 物 と を 造 っ た 神 は、 天 地 の 主 で あ る の だ か ら、 手 で 造 っ た 宮 な どにはお住みにならない。 25 ま た、 何 か 不 足 で も し て お る か の よ う に、 人 の 手 に よ っ て 仕 え ら れ る 必 要 も な い。 神 は、 す べての人々に命と息と万物とを与え、 26 ま た、 ひ と り の 人 か ら、 あ ら ゆ る 民 族 を 造 り 出 し て、 地 の 全 面 に 住 ま わ せ、 そ れ ぞ れ に 時 代 を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。 27 こ う し て、 人 々 が 熱 心 に 追 い 求 め て 捜 し さ え す れ ば、 神 を 見 い だ せ る よ う に し て 下 さ っ た。 事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。 28 われわれは神のうちに生き、 動き、 存在しているからである。 あなたがたのある詩人たちも言っ たように、 『われわれも、確かにその子孫である』 。 29 こ の よ う に、 わ れ わ れ は 神 の 子 孫 な の で あ る か ら、 神 た る 者 を、 人 間 の 技 巧 や 空 想 で 金 や 銀 や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。 30 神は、 このような無知の時代を、 これまでは見過ごしにされていたが、 今はどこにおる人でも、 みな悔い改めなければならないことを命じておられる。 31 神 は、 義 を も っ て こ の 世 界 を さ ば く た め そ の 日 を 定 め、 お 選 び に な っ た か た に よ っ て そ れ を なし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべ ての人に示されたのである」 。 なお、 祝 き 祷 とう は今田恵関西学院元院長 (当時理事長) によって行われ、 記念品贈呈 ( presentation ) は 小 宮 院 長 に よ っ て な さ れ た。 ほ か に、 『 イ エ ス、 汝 は 愛 す る 心 の よ ろ こ び(“ Jesus, Thou Joy
of Loving Hearts ”) 』 や 『東や西でも (“
In Christ There Is No East or West
”) 』 の二曲の讃美歌 も歌われたのであった。以上のおぜん立ては、主に関西学院側が実施したが、それを受諾した事 実からは、人権を重んじ、カナダの一体化を目指した、ディーフェンベーカーのキリスト教徒と しての選好も見て取れる。実際、ディーフェンベーカーの回顧録は、首相になる前の第二次世界 大戦中のマッケンジー ・ キング( Mackenzie King )自由党政権の政策を、批判の対象としている。 とりわけ問題視されたのが、キング首相による日系カナダ人の財産没収と抑留(強制収容)策で あった。 ディーフェンベーカーは一九七五年という、まだ日系カナダ人に対する損害賠償や名誉回復な ど の リ ド レ ス( redress ) 運 動 が 本 格 化 す る 前 に、 以 下 の よ う に 回 顧 録 に わ ざ わ ざ 記 し た。 「 戦 時 において、 安全保障と生存が重要だという原則を私は疑うことはなかった」ものの、 ある集団「全 部 の 人 々 を 対 象 に し て、 人 種 を 理 由 に か れ ら を 悪 人 と し て 誹 ひ ぼ う ち ゅ う し ょ う 謗 中 傷 す る こ と を、 私 は 受 け 入 れ ることができなかった」と。むろん、政敵である自由党のキングやサンローラン政権への対抗策 として、このようなディーフェンベーカーの日系カナダ人擁護を捉えることが、出来るかもしれ な い。 さ ら に は、 自 分( の 父 方 先 祖 ) が ド イ ツ 系 移 民 で あ り、 自 ら 出 し ゅ っ せ い 征 し た 第 一 次 世 界 大 戦 中 のドイツ系カナダ人に対する加国内での憎悪を、日系カナダ人の辛苦と重ね合わせた面もあるよ うだ。いずれにせよ、回顧録では、日系カナダ人に対する抑留政策を「間違いだった」と、言い 切っていることからは、人権重視、東西の一体化、弱者保護などのディーフェンベーカーらしさ も、今回の訪問では垣間見られる 。 九時半頃終了した礼拝後、記念品の贈呈式が行われた。小宮院長はカナダ首相に学院のスプー
ンと花瓶を記念品として贈り、カナダ首相はカナダ大百科事典全一〇巻の 謹 きんてい 呈 を約した。その際、 小宮院長は次のような祝意をカナダ首相に対して伝えている。 「 関 西 学 院 を 代 表 し て、 院 長 で あ る 私 は、 関 西 学 院 に お 越 し い た だ い た こ と に 対 す る 栄 誉 へ の 謝意と首相ご一行皆様が、礼拝式にご参加されたことへのよろこびを表したい。 七二年前の創立直後から、関西学院はカナダのキリスト教徒から物質面および信仰面でも多大 な恵みを受けてまいりました。過去には、私たちの院長であった、ベーツ博士とアウターブリッ ジ博士は、カナダのご出身でした。そして私たちは、これらおふたかたや現在幣学に勤務されて いる、ほかの多くの宣教師の方々を派遣してくださった、カナダにおられるキリスト教徒に感謝 しております。 教 職 員 や 学 生 団 体 な ど の メ ン バ ー 全 員 を 代 表 し て、 私 は 今 や、 デ ィ ー フ ェ ン ベ ー カ ー 首 相 お よび令夫人に対して、この機会に対する、私たちのよろこびとわが大学への歓迎の意を示します。 感謝の意を込めたこの友好の証を、どうぞお受け取りください。 カナダのキリスト教徒の皆様に対して、私たちは、今後続く友好関係をお祈り申し上げ、さら にディーフェンベーカー首相と令夫人、それにご一行皆様におかれましては、これからの快適な ご旅行と安全なご帰国をもたれることを、お祈り申し上げます。 」 この挨拶後、加首相と一行二〇名は、関西学院グリークラブが校歌『空の翼』などを歌唱する 中、時計台から本部前と中央芝生をゆっくりと回り、約一時間の来訪を終えた。その後、奈良と 京都への観光に出かけている。なお、カナダ首相の日本着が、飛行機の都合で、一五時間遅れた にもかかわらず、来学が実施されたことも『関西学院新聞』は特筆している 。
一 一 月 に は、 カ ナ ダ 大 百 科 事 典 が 関 西 学 院 大 学 の 図 書 館 に 納 入 さ れ た 。 同 年 一 一 月 二 四 日 付 で、 小 宮 院 長 は デ ィ ー フ ェ ン ベ ー カ ー 首 相 夫 妻 に 対 し て、 訪 問 と 礼 拝 参 加 へ の 再 度 の 謝 辞 を 書 簡 に し た た め て い る。 そ の 中 で、 カ ナ ダ 大 百 科 事 典 が「 大 学 図 書 館 に と っ て、 貴 重 な 入 手 図 書 」 で あ り、 カ ナ ダ と い う「 偉 大 な 国 家 に 関 す る き わ め て 素 晴 ら しい参照文献」 となるのみならず、 訪問を刻む 「永 久 的 な 記 念 品 」 に な る こ と も、 感 謝 し て い る。 書 簡 文 末 に て、 デ ィ ー フ ェ ン ベ ー カ ー 首 相、 そ の ご 家 族、 そ し て カ ナ ダ の 人 々、 さ ら に は 加 首 相 に よ る 平 和 へ の ご 努 力 が 実 る こ と に、 神 の ご 加 護 が あ るよう、再度お祈りをささげていた。 ディーフェンベーカー自身も、 関西学院訪問はいたく気に入ったようだ 。礼拝式において重要 な 役 割 を 果 た し た、 ミ ュ ア と マ ク ロ ー ド 宛 て に、 各 々 別 々 に、 一 〇 月 三 〇 日 付 御 礼 書 簡 を 送 っ ている。両書簡では、グリークラブが送別時に歌った、 『神共にいまして( God Be with You till We Meet Again )』 を 特 に 素 晴 ら し か っ た と、 べ た 褒 め し て い る。 関 西 学 院 大 学 の 所 在 地 を「 大 阪」 !と誤記していることを除くと、 ミュアに対しては、 礼拝式を 「深く感動的な体験」 であり、 「あ らゆる面で素晴らしかった」と述べ、 マクロードの説教を、 「極めて印象的」で、 「東洋における ディーフェンベーカー加首相と在日カナダ人 (学院史編纂室所蔵)
福音伝道的作業の問題について新しい視座」をもたらしてくれたと、高く評価した。 後述する上智大学との対比も、本章で明確にしておかねばならない。上智ではすでに学生有志 とイエズス会司祭(神父)兼専任教員によるカナダ研究会とカナダセンターもできていたことも あり、ディーフェンベーカー来訪は、ある意味、さらに大きな種を撒いた。現役カナダ首相との 懇談に、おおいなる刺激を受けた学生の中には、留学したり、情熱をもって研究を推進するもの が出てきた。対する関西学院では、カナダへの留学などは実施されたものの、本格的な地域研究 はやはり一九七〇年代以降であろう。一九八一年度後期から、カナダ政府との協定に基づくカナ ダ研究プログラムが、スタートし、カナダの大学から客員教授を招聘している 。 Ⅶ 上智大学への訪問 上 智 大 学 は、 そ も そ も 日 本 に 初 め て キ リ ス ト 教 を も た ら し た、 フ ラ ン シ ス コ・ ザ ビ エ ル ( Francisco Xavier ) が 構 想 し、 イ エ ズ ス 会 が 一 九 一 三 年 に 開 設 し た、 カ ト リ ッ ク 系 大 学 で あ る。 そのイエズス会系姉妹校としては、各種の全世界大学ランキングで上位にあがる、米国首都ワシ ントンD・Cにあるジョージタウン大学やニューヨーク市にあるフォーダム大学などが有名であ る 。カナダではケベック州を中心に、オンタリオ州の一部でも、カトリック教徒や修道会が多く、 アメリカ合衆国と異なり、プロテスタント教徒よりも人数面で 凌 りょうが 駕 していた。 カナダのカトリック教徒と日本のカトリック教徒もつながりがあり、上智大学は神学部を持ち、 日本人カトリック司祭育成機関としての役割も、果たしていた。その上智大学では、一九五七年
にカナダセンター設置準備委員会ができ、駐日カナダ大使館から、一五〇冊のカナダ関係文献の 寄贈を受けることになった。翌一九五八年には、日本国内唯一のカナダセンターを設置。その後 一九六〇年にも、駐日カナダ大使館から、カナダ関連図書や定期刊行物を寄贈されている。この ように、カナダ大使館(カナダ外務省)の協力の下で、現在の日本カナダ学会などの学術研究団 体が発足する前から、カナダ研究を重視し、カナダ研究の 嚆 こう 矢 し となっていたのが、上智大学カナ ダセンターだったと言えよう 。 当 時、 上 智 大 学 に は、 カ ナ ダ の オ ン タ リ オ 州 出 身 イ エ ズ ス 会 神 父 で、 専 任 教 員 の コ ン ラ ッ ド・ フォルテン ( Conrad Fortin ) がいた。まさに彼が、 日加の 「友好促進を目的」 とした当該センター を発足させたのである。カナダセンターでは、カナダに関するセミナーやカナダ情報の提供のみ ならず、学生に対してカナダへの留学奨学金授与まで実施していた。なお、その後、一九八七年 にはこのカナダセンターを発展解消する形で、アメリカ・カナダ研究所が設置され、北米関連の 研究セミナーや紀要発行など、各種の活動を積極的に実施して、現在に至っている 。 な お 上 智 大 学 で は、 カ ナ ダ セ ン タ ー の 一 部 門、 か つ 学 内 文 化 関 連 組 織 の 同 好 会 と し て、 一九六〇年二月には「カナダ研究会」が、有志学生により発足していた。この研究会はカナダ大 使館からの協力も仰ぎ、一九六一年には十五名のメンバーも属し、一九六〇年の年末から機関誌 にあたる『かえで』も発刊するに至った。その上、この研究会からふたりの学生が、一九六二年 夏にはカナダに留学する予定でもいた 。 おそらく当時の日本の大学で、最もカナダ研究に熱心だったのが、この上智大学のカナダ研究 会であっただろう。そのために、カナダ大使館などを通じて、いろいろと働きかけを実施してい
たのである。その結果、ディーフェンベーカー首相訪日時には、その努力が実り、一〇月三一日 の首相来訪とともに、研究会メンバーとの懇談も実現する。その上に、一一月一日にはカナダ放 送協会( Canadian Broadcasting Corporation= CBC)のテレビで、当該研究会の活躍が、カナ ダ全土で放映された。その放送をみて、 慶應義塾大学への交換留学をおえたばかりの、 ブリティッ シュ ・ コロンビア大学の女子学生からは、 当該研究会に対し、 書簡にて「協力の申し出」すらあっ た 。 当日の様子をみてみよう。四谷キャンパス内の上智会館に、ディーフェンベーカー首相夫妻が 到着したところ、 大泉孝上智大学学長、 ニコラス ・ ルーメル( Nicholas Luhmer )上智学院理事長、 フォルテン神父のみならず、これらカナダ研究会メンバー全員が出迎えた。訪問の目的は当時の 『上智大學新聞』によると、カナダセンター業務の「視察」であり、 「日加両国間に果たすカナダ センターの役割に大いに期待している」と、 加首相は発言している。またこのように、 一国のトッ プである、 カナダの内閣総理大臣が上智大学を公式訪問し、 学生メンバーと歓談することは、 「上 智大学創立以来、初めての出来ごと」であり、メンバーには「強い刺激」となったと、当時の機 関誌は記している 。 その直後の一一月二日から五日までは大学祭である、ソフィア祭開催期間になっていた。その ために、このカナダ研究会は「目で見るカナダ」と題した展示も行った。特にカナダ観光と世界 主要国の比較から見た日加両国の生活部門を設けて、学内外のカナダに関する知識普及に努めて いた。展示の趣旨は「カナダの国民の生活の態度がアメリカに次いで高いこと、又カナダは新し い 国 で、 現 在 急 速 に そ の 国 力 を 増 し つ つ あ り、 そ の 将 来 が 如 い か 何 に 期 待 さ れ て い る か と い う こ と 」
にあった 。 これら開催の成功も、駐日カナダ大使館と在日カナダ人による絶大なる支援のたまものであり、 カナダ研究会の学生は感謝とともに、カナダに関する知識欲のさらなる向上を目指していた。ま た、ディーフェンベーカー首相は、上智大学に対しても、歓迎に対する謝意とカナダ研究促進の ために、カナダ大百科事典全一〇巻を寄贈する意向を示している 。 このように、学生メンバーを巻き込む形で大きな影響を及ぼした、ディーフェンベーカーによ る訪問だったが、直後に執筆された『上智大学五十年史』では、特筆されるべき項目となってい ない。別の現役首脳の訪問があったことが、その欠落要因のひとつかと想定できる 。実は、上智 大 学 の 初 代 学 長 ヘ ル マ ン・ ホ フ マ ン( Hermann Hoffmann ) 神 父 が、 ド イ ツ 人 で あ り、 「 ド イ ツ 人教授が圧倒的に多く、 ドイツ語の上智などといわれた」 こともあり、 現役のドイツ連邦共和国 (西 ドイツ) 首相が、 すでに上智大学を訪問していたのであった。 西ドイツのコンラート ・ アデナウアー ( Konrad Adenauer )連邦首相が、 一九六〇年三月三一日に上智大学を訪問。 上智は、 アデナウアー に対して、最高の栄誉たる「名誉校友」の称号を贈ったのに対して、アデナウアーは、日独関係 を踏まえた講演をしつつ、理工学部予定地の 地 じ 鎮 ちんさいくわ 祭鍬 入 い れなどにも参加している。やはりアデナ ウアー首相がカトリック教徒だったことも、関連しているだろうが、カナダ首相来学は上智大学 による正式の歴史叙述では、西ドイツの陰に隠れていたようだ。
Ⅷ おわりに―ディーフェンベーカーにとってのキリスト教と大学 当時、二四五校にのぼる日本の大学から 、プロテスタント系とカトリック系の二大学を選んだ ことの要因としては、やはりカナダ首相の宗教心が、一番大きいだろう。一八九五年にオンタリ オ州で生まれたディーフェンベーカーは、教師の父親のもとに長男として生まれ、八才でサスカ チュワン州に移り住んだ。父はメソジスト派のキリスト教徒で、母はバプティスト派のキリスト 教徒だったが、信仰心がより強かった母の説得により、父がバプティスト派に改宗。日曜日の礼 拝式に必ず参加する、両者とも敬虔な信徒だったために、ディーフェンベーカーも、敬虔なバプ ティスト派キリスト教徒として生まれ育ってきた 。 その上、二一世紀の視点から見逃しがちな要因として、本論は関西学院の日本における相対的 な重要性も、当時の文脈から指摘したい。一九五〇年代後半や六〇年代の関西学院は、二一世紀 現在よりも、ある意味メジャーな地位を占めていた。東京圏に比べて関西圏の商業都市としての、 相対的地盤沈下はまだ起きていないし、入試難易度でも、関西学院大学はかなり上位に位置して いた。たとえば、大学受験難易度では、一九六一年の全国商経学部ランキングで、関西学院大学 経済学部は、全国で第二八位(私学で第四位)にランクインされている 。 さらに、ほかのプロテスタント系大学の中での関西学院大学の地位も、勘案すべき要因となる。 た と え ば、 昨 今 皇 族 の 卒 業 生 を 生 む こ と で も、 大 学 業 界 で は 有 名 に な っ た 名 門、 国 際 基 督 教 大 学( International Christian University= I C U ) 創 立 に は、 関 西 学 院 大 学 も 多 々 協 力 し て い る 。 一九五三年の創立には、当時、産業心理学と英語を教えていたアーサー ・ マッケンジー( Arthur
McKenzie ) を は じ め と す る、 関 西 学 院 大 学 の 教 員 が 参 加 し た 事 実 が あ る か ら だ。 し か し こ の こ ともよく知られているとは、言い難いかもしれない。そのプロテスタント系のICUは、まだ創 立九年目でもあり、今回のディーフェンベーカー来日において、訪問大学には選ばれていない。 上智大学にしても、一九五七年四月までは女子学生の入学を許可しない、男子大学であり、知名 度、人気度、卒業生の評価などの面では、それほど高いものを持っていなかったと、推察できる。 ただし、今回、関西学院にしたように、わざわざディーフェンベーカー夫妻が訪れ、カナダ大百 科事典の上智大学への寄贈を約したことも、重要である。これはやはりオンタリオ州出身の英仏 語バイリンガル教授のフォルテン神父が、日本で最初のカナダ研究センターを樹立したことへの 謝意であったろう。そのほかに、ディーフェンベーカー首相の政治的立場を考慮すると、仏語系 カナダやカトリック教徒への政治的アピールも、要因として挙げられる 。 いずれにせよ、ディーフェンベーカー首相夫妻の公式訪日は、日本でほとんど知られていない カナダという国の知識普及には、当時の基準でかなり貢献したと判断できる。とりわけ、限られ た日程と時間内に、関西学院大学と上智大学を公式訪問したことは、その後のカナダ研究発展の 礎を築いたとの評価も可能である。カナダ大百科事典が二校に贈られたが、それらを参照するこ と だ け で も、 カ ナ ダ に 関 す る 知 識 獲 得 に 有 用 だ か ら で あ る。 た だ し、 最 近 の デ ィ ー フ ェ ン ベ ー カ ー 外 交 再 評 価 の 文 脈 で は、 日 加 関 係 や デ ィ ー フ ェ ン ベ ー カ ー の 対 日 政 策 は、 「 カ ナ ダ に と っ て の伝統的な英連邦のパートナーであるインドおよびパキスタン」ほどのアジアにおける「主要接 点( principal contacts )」とはならなかったと、指摘されている 。確かにそのような面はあろう。 吉田健正が指摘しているように、一九六〇年代はカナダ研究の「萌芽期」であり、一九七四年の
田中角栄首相とピエール・トルドー首相との会談も、ひとつの「機運」となり、日加の民間交流、 相互理解、そして相手国研究は急速に進展した 。それまでは、あくまでも萌芽的であったものの、 カナダ首相訪日が、いわばカナダ研究の種を撒いたとも捉えうる。上智大学のカナダ研究会の学 生が指摘しているように、そもそも一九六一年当時では、カナダの存在自体が、日本ではあまり 認識されておらず、なおかつ日本のこともカナダでは知られていなかったことにも、注意を払わ なくてはならない。 カナダについての知識が、ほとんど普及していなかったのが、当時の国内状況だった。それに 対して、本論で吟味したように、たとえば、上智大学の学生有志によるカナダ研究会は、かなり の熱意と資源をかけて、機関誌すら発刊していた。さらにその主要メンバーだった、金子操にい た っ て は、 ま だ ま だ 珍 し か っ た、 カ ナ ダ の 大 学 院 留 学 を も 成 し 遂 げ、 『 留 学 と 私 』 と い う タ イ ト ルでの出版活動まで行っている 。また、関西学院大学でも、ディーフェンベーカー首相の日曜礼 拝式参加は、キリスト教徒教職員を中心に、きわめて好意的に受け止められた。最後に、カナダ 首相の訪日に関する、否定的な日本国内の主要マスメディア報道がほとんどなかったことからも、 訪日はそれなりの貢献をしたと解釈できよう 。 *本論執筆にあたり資料提供などで、グレッグ・ドナヒー教授、鈴木直子氏、寺内美佐子氏、故 ゴ ー ド ン 門 田 氏、 井 口 貞 三 氏、 神 崎 高 明 教 授、 池 田 裕 子 氏、 魚 住 英 子 氏、 石 野 利 香 氏 か ら 多 大 なご支援を頂戴した。ここに記して深く感謝したい。
【注】 ( 1 ) 対 照 的 に 戦 後 の カ ナ ダ 外 交 に と っ て 最 も 重 要 な 対 米 関 係 に つ い て は 、 い ろ い ろ な 研 究 蓄 積 が あ る 。 た と え ば 、 拙 著 『 カ ナ ダ ・ ア メ リ カ 関 係 史 ― 加 米 首 脳 会 談 、 1 9 4 8 ~ 2 0 0 5 』( 彩 流 社 、 二 〇 〇 六 年 ) や Lawrence Martin, The Pr esidents and the Prime Ministers: W ashington and Ottawa Face to Face, The Myth of Bilateral Bliss, 1867-1982 ( Toronto: Doubleday Canada, 1982); Edelgard Mahant and Graeme S. Mount,
Invisible and Inaudible in W
ashington:
American Policies
towar
d Canada
(
East Lansing: Michigan State University Press, 2000).
な ど を 参 照 せ よ 。 最 近 の 理 論 的 加 米 関 係 の 研 究 と し て は 、 Greg Anderson, “David and Goliath in Canada-US Relations: Who ’s Really Who? ” Canadian For
eign Policy Journal
Vol.25, No.2, ( 2019): 115-136. が 示 唆 に 富 む 。 ( 2 ) 当 時 の 新 聞 に よ る と 、 カ ナ ダ 首 相 名 を 「 ジ ー フ ェ ン ベ ー カ ー 」 と 記 す 『 朝 日 新 聞 』 の よ う な 例 も あ る が 、日 本 カ ナ ダ 学 会 な ど で 通 例 化 し て い る よ う に 、本 論 で は「 デ ィ ー フ ェ ン ベ ー カ ー 」を 用 い る 。 ( 3 )こ の 点 を 最 初 に 指 摘 し た 文 献 と し て 、池 田 裕 子「 関 西 学 院 と カ ナ ダ 」『 KG Today 』vol.258 ( 二 〇 一 〇 年 六 月 )、 https://www.kwansei.ac.jp/yoshioka/yoshioka_002921_2.html ( 二 〇 一 九 年 四 月 三 〇 日 ア ク セ ス ) が あ る 。 (4)この点はとくに、 Janice Cavell, “Introduction, ” and Ryan M. Touhey, “Conclusion, ” in Reassessing the Rogue T
ory: Canadian For
eign Relations in the Diefenbaker Era,
ed, Janice Cavell and Ryan M. Touhey ( Vancouver and Toronto: UBC Press, 2019): 3-22, 279-286. を 参 照 せ よ 。 こ の 論 文 集 は 、 後 述 す る デ ニ ス ・ ス ミ ス ( Denis Smith ) の 研 究 に 対 す る 建 設 的 反 論 ( 再 評 価 ) も 兼 ね て い る が 、 時 系 列 に そ っ た 包 括 的 な 伝 記 で は な く 、 ト ピ ッ ク ご と に ま と ま っ た 研 究 と な っ て い る 。 ( 5 ) 外 交 政 策 に 関 連 し て 一 九 五 七 年 と 一 九 五 八 年 総 選 挙 争 点 を 取 り 上 げ た 最 近 の 研 究 と し て は 、 Janice Cavell, “The Spirit of 56: The Suez Crisis, Anti-Americanism, and Diefenbaker ,s 1957
and 1958 Election Victories,
” in
Reassessing the Rogue T
ory , 67-84. を み よ 。
( 6 ) 以 上 の 状 況 は 、 拙 著 、『 カ ナ ダ ・ ア メ リ カ 関 係 史 』、 第 三 章 に よ る 。 ス エ ズ 危 機 時 の 国 連 平 和 維 持 軍 は 正 式 に は 、 国 際 連 合 緊 急 軍 ( United Nations Emergency Force= U N E F ) で あ り 、 こ れ に よ り 、 翌 年 ピ ア ソ ン は ノ ー ベ ル 平 和 賞 を 受 賞 し て い る 。 な お 、 カ ナ ダ は 二 院 制 を と っ て い る が 、 上 院 議 員 の 任 命 権 を 首 相 が 持 つ た め に 、 政 策 は 下 院 議 会 を 中 心 に 実 施 さ れ る し 、 外 交 ・ 防 衛 の 権 限 は カ ナ ダ 首 相 に 集 中 し て い る 。 ( 7 ) 以 下 の 核 弾 頭 装 備 事 件 や 不 信 任 案 可 決 な ど に つ い て は 、 拙 著 『 カ ナ ダ 外 交 政 策 論 の 研 究 ― ト ル ド ー 期 を 中 心 に 』( 彩 流 社 、 一 九 九 九 年 ) 二 〇 八 ~ 二 一 三 頁 と 最 近 の 研 究 と し て は 、 Patricia I. McMahon,
Essence of Indecision: Diefenbaker
,s Nuclear Policy , 1957-1963 ( Montreal & Kingston: McGill-Queen , s University Press, 2009), esp. Introduction, chap. 6, Conclusion; Asa Mckercher, Camelot and Canada: Canadian-American Relations in the Kennedy Era ( New York: Oxford University Press, 2016), esp. Introduction, chap. 6, Epilogue. を 参 照 せ よ 。 な お 、 核 弾 頭 装 備 に つ い て は 、 ケ ネ デ ィ 政 権 前 の ド ワ イ ト ・ ア イ ゼ ン ハ ワ ー ( Dwight Eisenhower ) 政 権 時 代 か ら 、 米 国 は カ ナ ダ に 対 し て 望 ん で き て お り 、 一 九 五 〇 年 代 後 半 に デ ィ ー フ ェ ン ベ ー カ ー も 受 け 入 れ る こ と を 、 原 則 的 に 約 し て い た が 、 実 現 せ ず 、 キ ュ ー バ ミ サ イ ル 危 機 な ど で 、 北 米 防 衛 の 齟 そ ご 齬 が 露 呈 し た 。 そ の 後 、 一 九 六 三 年 総 選 挙 で 勝 利 し た ピ ア ソ ン は 、 自 国 内 の 米 軍 兵 力 の 核 武 装 に 正 式 な 許 可 を 出 し 、 カ ナ ダ 供 出 N ナ ト ー A T O 軍 と N ノ ー ラ ッ ド O R A D 軍 に も 核 弾 頭 装 備 す る 協 定 を 、 ケ ネ デ ィ 政 権 と 締 結 し 、実 行 し て い く 。 拙 著 『 N ノ ー ラ ッ ド O R A D 北 米 航 空 宇 宙 防 衛 司 令 部 』( 中 央 公 論 新 社 、二 〇 一 五 年 ) 第 一 章 及 び 第 二 章 も 参 照 せ よ 。 ( 8 ) 以 下 の 様 子 は 、 John G. Diefenbaker, One Canada: Memoirs of the Right Honourable John G. Diefenbaker: The Y ears of Achievement, 1957-1962 ( Toronto: Macmillan of Canada, 1976), 116-117. に よ る 。 後 述 す る よ う に 、 こ の 回 顧 録 に お け る 日 本 に 関 す る 話 題 は 、 ほ か に は 日 系 カ ナ ダ 人 に 関 す る 事 項 の み で あ る 。
( 9 ) ロ ビ ン ソ ン の 生 涯 と 回 顧 録 に つ い て は 、 https://www.theglobeandmail.com/news/politics/basil-robinson-was-an-effective-aide-to-diefenbaker/article8434915/ ( 二 〇 一 九 年 五 月 一 五 日 ア ク セ ス ) と H. Basil Robinson, Diefenbaker ,s W orld: A Populist in For eign Affairs ( Toronto, Buffalo and London: University of Toronto Press, 1989), xiii, 281, 346. に よ る 。 こ の よ う に 、 ロ ビ ン ソ ン に よ る と 、 当 時 の 日 本 は メ キ シ コ 、 ア イ ル ラ ン ド 、 北 ア イ ル ラ ン ド 並 み の 重 要 性 が あ っ た と も 判 断 で き よ う 。 ( 10) 以 上 は、 Robert Spencer, “External Affairs and Defence, ” and Donald Forster, “T he Economy, ” in Canadian
Annual Review for 1961,
ed, John T. Saywell ( Toronto: University of Toronto Press, 1962), 115, 214-215, 466. に よ る 。 ( 11) こ の 点 に つ い て は 、 Richard A. Preston, Canada in W orld Affairs 1959 to 1961 ( Toronto: Oxford
University Press, 1965), esp. 78, 89-90, 103, 219, 227, 250, 26
2, 295. を み よ 。 ( 12) Denis Smith, Rogue T
ory: The Life and Legend of John G. Diefenbaker
(
Toronto: McClelland & Stewart,
1995), esp. chaps. 10, 11. なお、 戦後のカナダ首相の伝記としては、 この本は最高レベルで「決定版」 と も み な し う る 、 出 来 具 合 と な っ て い る 。 し か し 、 一 九 五 七 年 総 選 挙 で 、 デ ィ ー フ ェ ン ベ ー カ ー が 打 ち 破 っ た サ ン ロ ー ラ ン 首 相 の 「 決 定 版 」 と 言 え る よ う な 伝 記 は 、 二 〇 一 九 年 九 月 現 在 で 発 刊 さ れ て い な い 。 ( 13) 以 下 の 記 述 の 出 典 は そ れ ぞ れ 、 Keith A. J. Hay, ed, Canadian Perspectives on Economic Relations with Japan ( Montreal: The Institute for Research on Public Policy, 1980 ) ; Frank Langdon, The
Politics of Canadian-Japanese Economic Relations, 1952-1983
( Vancouver: University of British Columbia Press, 1983); Klaus H. Pringsheim, Neighbours Acr
oss the Pacific: Canadian-Japanese
Relations, 1870-1982 ( Oakville: Mosaic Press, 1983), esp. 126-129; Patricia E. Roy, “Reopening the Door: Japanese Remigration and Immigration, 1945-68, ” in
and Japan i n t he T wenti et h Century , ed, Greg Donaghy and Patricia E. Roy ( Vancouver and
Toronto: UBC Press), esp. 166.
を 参 照 せ よ 。 ( 14) Jim Campbell-Miller, Michael Carroll, and Greg Donaghy, “Tilting the Balance: Diefenbaker and Asia, 1957-63, ” in
Reassessing the Rogue T
ory , esp. 214. を 参 照 せ よ 。 ち な み に 、 こ の 章 で 上 智 大 学 訪 問 は 割 愛 さ れ て い る 。 な お 、 共 著 者 の 一 人 で あ る 、 カ ナ ダ 外 務 省 外 交 文 書 館 館 長 ( 当 時 ) の ド ナ ヒ ー は 、 二 〇 一 五 年 度 秋 学 期 ( 二 〇 一 五 年 九 月 ~ 二 〇 一 六 年 一 月 ) に 、 関 西 学 院 大 学 カ ナ ダ 研 究 客 員 教 授 を 務 め た 経 歴 も あ り 、 そ の 点 で も 、 デ ィ ー フ ェ ン ベ ー カ ー 首 相 の 関 西 学 院 大 学 訪 問 を 特 筆 し た よ う だ 。 ( 15) こ れ ら の 事 柄 は 、 大 熊 忠 之 「 戦 後 カ ナ ダ 外 交 に お け る 普 遍 主 義 と 対 日 関 係 ― 日 加 関 係 、 一 九 四 六 ~ 六 八 年 」『 国 際 政 治 』 第 七 九 号 ( 一 九 八 五 年 )、 特 に 一 〇 〇 ~ 一 〇 二 頁 を 参 照 。 な お 、 こ の 論 文 の 改 訂 版 は 、 馬 場 伸 也 、 大 熊 忠 之 「 戦 後 日 本 ・ カ ナ ダ 関 係 の 展 開 」、 ジ ョ ン ・ シ ュ ル ツ 、 三 輪 公 忠 編 『 日 本 と カ ナ ダ ― 21世 紀 へ の 架 け 橋 』( 彩 流 社 、 一 九 九 一 年 )、 特 に 二 五 六 ~ 二 五 七 頁 と し て 所 収 さ れ て い る 。 ( 16) 以 下 の 首 脳 会 談 な ど の 様 子 は 、『 朝 日 新 聞 』 一 九 六 一 年 一 〇 月 二 三 日 、 一 頁 、 二 七 日 夕 刊 、 一 頁 、 『 讀 賣 新 聞 』 一 九 六 一 年 一 〇 月 二 六 日 、 一 頁 、 一 〇 月 二 九 日 夕 刊 、 一 頁 、 一 〇 月 三 一 日 夕 刊 、 五 頁 、 一 一 月 一 日 、 一 二 頁 、『 毎 日 新 聞 』 一 九 六 一 年 一 〇 月 二 八 日 夕 刊 、 一 頁 、 一 〇 月 二 九 日 、 一 頁 、『 日 本 経 済 新 聞 』 一 九 六 一 年 一 〇 月 四 日 、 一 頁 、 一 〇 月 二 七 日 夕 刊 、 一 頁 、 一 〇 月 二 八 日 夕 刊 、 一 頁 、 一 〇 月 二 九 日 、 一 頁 、 一 〇 月 三 一 日 夕 刊 、 二 頁 、 十 一 月 一 日 、 一 頁 、 三 頁 を 参 照 し た 。 ( 17) 以 下 の 日 加 会 談 や 争 点 に つ い て は 、 脚 注 の ( 16) に 加 え て 、 “Mr. Diefenbaker Visits Japan, ” Ex ternal A ffai rs, Vol.13, No.12, ( December 1961): 407-411; Doc ume nt s on Canadi an E xte rnal Relations, 1961,V ol. 28, ed, Janice Cavell ( Ottawa: Foreign Affairs and International Trade Canada, 2009):1305-1309. を 参 照 せ よ 。 特 に ス テ ン レ ス 製 食 器 や ポ リ ビ ニ ー ル ボ タ ン の 対 加 輸 出
枠 削 減 を 、 日 本 側 は 望 ん で い た 。 な お 、 一 九 六 四 年 四 月 に は 、 日 本 の O E C D 加 盟 が 、 正 式 に 認 め ら れ た が 、 池 田 は 首 相 だ っ た も の の 、 カ ナ ダ の 首 相 は ピ ア ソ ン に 交 代 し て い た 。 ( 18) こ れ ら の 点 と ブ ル 大 使 に よ る と 、 デ ィ ー フ ェ ン ベ ー カ ー と 池 田 の 個 人 的 関 係 は 極 め て 良 好 だ っ た と の 回 顧 は 、 Pringsheim, Neighbours Acr
oss the Pacific,
esp. 126-129, 132-137. を 参 照 せ よ 。 ( 19) こ の 点 は 、 大 熊 、「 戦 後 カ ナ ダ 外 交 に お け る 普 遍 主 義 と 対 日 関 係 」、 九 五 頁 に よ る 。 ( 20) こ の 点 は 、 “Mr. Diefenbaker Visits Japan, ” 407. を み よ 。 な お 、「 日 課 を 読 み 上 げ る 」 と は 、 聖 書 の 一 節 を 引 用 す る 形 で 説 明 す る こ と を 指 す 。 ( 21) 以 下 、 本 章 の 情 報 の 出 典 は 、 す べ て 、 Canada, Department of External Affairs, Confidential Files, Visit of the Canadian Prime Minister to Japan, 1961, April 11, 1960 to Oct., 14, 1961, File No.4606-C-21-1-40, Vol. 1; Canada, Department of External Affairs, Confidential Files, V isi t of th e C an ad ian P rim e M in ist er to J ap an , 19 61 , O ct ., 11 , 1 96 1 to N ov ., 10 , 1 96 1, F ile No.4606-C-21-1-40, Vol. 2. Provided by Greg Donaghy to the author by an email dated June 4, 2019. に よ る 。 ( 22)五 人 と は 、 グ レ ア ム 、マ ク ロ ー ド と ミ ュ ア 以 外 に は 、経 済 学 部 専 任 講 師 の ジ ェ イ ム ズ ・ サ ロ ー( Ja m es Thurlow ) と ヘ ン リ ー ・ ウ ォ ー ケ ン タ イ ン ( Henry Warkentyne ) で あ っ た 。 ( 23)『 関 西 学 院 新 聞 』 一 九 六 一 年 一 一 月 三 日 、 三 頁 を 参 照 せ よ 。 ( 24) 以 下 の グ レ ア ム に つ い て は 、 教 え 子 だ っ た 井 口 貞 三 「 ベ ー ツ 先 生 に 寄 せ て 」『 学 院 史 編 纂 室 便 り 』 第 四 六 号 ( 二 〇 一 七 年 一 二 月 一 日 ) 六 ~ 八 頁 、 http://museum.kwansei.ac.jp/archives/ gakuinshi/upload/2017/11/46TI.pdf ( 二 〇 一 九 年 五 月 二 三 日 ア ク セ ス ) と 倉 田 和 四 生 「 第 三 部 教 師 紹 介 、 三 定 年 退 職 さ れ た 方 々 、 L ・ B ・ グ レ ア ム ( 途 中 退 職 )」 関 西 学 院 大 学 社 会 学 部 三 十 年 史 編 集 委 員 会 編 『 関 西 学 院 大 学 社 会 学 部 三 十 年 史 』( 関 西 学 院 大 学 社 会 学 部 、 一 九 九 五 年 ) 六 三 〇 ~ 六 三 一 頁 を 参 照 。