五代における後蜀国の成立過程について
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(2) . 第 14 巻. ・ 第 2号. 北海道学芸大学紀要 (第一部B). 昭和38年12月. 五代における後街国の成立過程について 中. 田. 整. 治. 北海道学芸大学旭川分校史学研究室 ion o f f the For Se i TANAKA : on the processes o i lnat i. i ies Pe i 日ou-Shui ) r u ta od (Wr n the Five Dynast. 次. 目. 4. 1 . はしがき 2 . 孟知祥, 後唐の中門便となる 3 . 後唐の前濁征討. 1. は. 孟知祥, 西川節度使となる 孟知祥の後憂国建設 6 あとがき. 6. し. が. き. 本小論においては, 五代の後唐の荘宗のときに, 中門使の職にあった孟知祥が, やがて西川節 度使に任 ぜられ, 前編の滅亡後8ヵ年にして, 934年四川の成都に拠り, 独立して帝位に即き, 後編国を建設するに至るまでの過程を, 後唐軍による前編の征討, 後唐王室と西川節度 使孟知祥 もうちよう との関係などを重点的に考察しながら叙述するものであるが, これは後主孟誕があとを嗣ぎ,965 年に滅びるまでの32年間に, 唐の文化の影響 を受けた前編の文化を受け継いで, 同系統の文化を 発達させた後編の女化を理解するため の序論とするものであると同時に, 唐より西川節度 使に任 ぜられて, 前編国を建てた王建の場合とは建国の事情が対照的に相違することを理解するため の も の で も あ る.. 2. 孟知祥, 後唐の中門使となる. 後編の高祖孟知祥の出身地および生年月 日については, 五代史記注巻六四上後編世家に 引用し あざな しよくのとぅごつ ! ) 邪州龍岡の 人にして郡の街吏たり. 成通十 五年 てある 観梅机 によると 「孟知祥, 字は保允, 甲午の歳四月 二十一日生れしとき, 火光 室を照らすあり. 隣里皆これを異とす, 僧 あり, 見て撫 いそう 」とあって. かれが河北の邪州龍 岡の出身であり, 唐の総宗の威 して日く 『これ五台山の霊なり』 ) の生れであることが知られる. かれの家柄は旧 五代史巻一三六借偽列伝によると. 通1 874 5年( ) は邪綿節度 使で終り, 従父の孟遷は沢 祖父の孟察および父の孟道は郡校であり, 伯父の孟方立2 瀦節度 使に至ったという ので, 孟氏の一族 には 武人で身を立てるも のがいて, 知祥の一家は地方. の武人として地位こそ低 かったが, かれの親戚には地方の高級武人として節度使まで昇進したも のがあったことが知られ る. 唐末になって孟遷は刑・銘・磁3州に拠っていたが, 晋に捕われの 身となり, 後, 晋王李克用より沢瀞節度使に任ぜられた. たまたま梁兵が晋を改めたとき, 遷は 沢滋を以て梁に 降伏した. 然るに知祥の父 の道は単独で踏み留まって晋に忠勤を励んだが, 顕わ 3 ) これによっても孟遷が高 官になりえなかったことが知られ よう. 知祥 れなかったというから, ) に 「幼より温厚にして書を知り, 善を楽 の性格ならびに教 養の程度な どについては, 冊府元亀4 - 43 一.
(3) . 田. 中. 整. 治 しよくのとうごつ. しむ」 とあるのや, 五代史記注巻六四」 二後編世家に引用 してある 濁祷枕 によ ると 「知祥, 学問 を好み, 性寛厚, 民を撫するに仁恵を以てし, 卒を駁するに恩威を以てし, 土大夫に接するには. 礼を以てす」 と見えるのなどによって, 温厚, 寛大な性格をもち, 教養があり, そのために統治 者として優れ た資質をそなえていたことが知られる. 5 ) かれは弱冠 にして太原街内都指揮使6 ) に補せられたというから 頗る重職 編機机によると, , の武官 に任用されたことが知られるが, 果せるかな晋王李克用が河東節度使と して太原に鎮して 7 ) 間もなく新衛軍使に転じた 天 いたとき, その将来を見込まれて克用の弟の克譲の女 を要り, . りそんきよく ) 李克用 が晋陽において5 祐5年( 908 3才で死んで, 長子の李存易が直ち に その地において24才で ) に 改められ ついで地方官に転出して知嵐州になり 間も 晋王の位を嗣ぐと, 馬歩軍教練便8 , , ) となった この頃李存扇は梁の太祖朱全忠と なく召還されて, 軍機 に与かり軍政を掌る中門使9 . 黄河をはさんで反目を続け, 決戦を繰り返していた. こういった戦局のなかにあって, 知祥はそ. の軍参謀として臨機応変の策を め ぐらし, そのために軍務の留滞を見なかったのである. かれは 富官の李紹宏と共にその職にあり, 郭崇鮒が中門副使としてこれを助けたが, 崇輯は智略 があり. 事に臨んで果断なる 処置をとったので, 荘宗の信任が日増しに厚くなった. これよりさき呉 洪・ 張慶厚らが, 中門使 に在職 中, 相次いで, その罪を問われて課せられたが, これはその職掌が軍 事の機密を掌るため に, その責任を問われたものら しく, 知祥は中門使の課せられた先例を知っ. ていたので, 禍がその身にふりか ることを恐れて, 紹宏が幽州に転出するに及び, 病気を理由 に辞任を李存扉 に申し出 た. 存扇は知祥の希望をいれる条件として後任を推薦させたが, 結局郭 崇輯が推挙され, 中門使に昇格し, 知祥に代って専ら軍機を掌ること になり, こんなことから崇 0 )に補 せられた 鞭は知祥に恩義を感ずるようになった. 一方知祥は間もなく太原馬歩軍都虞候T . 晋と後梁との黄河をはさんでの血みどろの決戦は, 最初戦局は晋にとって不利であったが,次第に. 了 ) その勢力をもりかえし,923年李存扉は先代の李克用からの宿望をなしとげて,後梁を滅ぼすと,7 4月 訓州の武徳殿において皇帝の位に即き, 同光と改元し, 国号を唐と称した. これは先代が唐 から李氏を賜わり, 唐室と 同姓だという理由にもとづくものである. 李存易は, 後唐の荘宗と呼. ばれる. かれは後梁の政策を全く改変して, 唐の旧に復し, 後, 都を開封から洛陽に遷した. 後唐では建国と同時に, 行台左丞相の豆庵革を門下侍郎 に, 同右丞相の瞳程を中書侍郎同中書. 門下平章事に, 中門使 の郭崇離と昭義監軍 で寛官の張居翰を枢密使とな し, それ ぞれ国政および 軍政を統轄させることに したが, 唐代にはその権力の低かった枢密使がこのときよ り, 宰相とそ の 宰相・枢密便の任命 に次いで 三京の制 の権力が同等にな ったことは注目すべきこと である7 . , ともいうべきものが布かれたが, 醜州・太原・鎮州をそれぞれ東京(興唐府)・西京(太原府)・北 都(真定府)とな した. これらの都市は後唐にとって政治上な らびに軍事上重要なるものと見倣さ. れたためであろう. この際醜博節度判官の王言正が礼部尚書とな り興唐予を行ない, 太原馬歩軍 都虞候 の孟知祥が太原昇に任 ぜられて西京 副留守 に 充てられ, 滋州観察判官の任圏が工部尚書と げいきゆう. な って, 真定昇を兼ね北都副留守に充てられた. 荘宗には5子があったが, 長子の継笈が北都留 3節度使と50州であっ 守・興聖宮使・判 六軍諸術事に任ぜられた. 時に後唐の支配下にあるのは1 1 3 ) )9月 醜王に封 925 た. 北都留守の継笈はのちに検校大尉同中書門下平章事に転じ, 同光3年 ( ぜられたが, この年に荘宗は前編を征討することにな った. 3. 後 唐 の 前 編 征 討 おうえん. 当時四川省の成都を中心とする地方に国を建てていた前編では, 後主の王街が位にあり, 国内 一 44 一.
(4) . 五代における後編国の成立過程について. 太平を詔歌し, 人民が富盛 であるため, 国事を何等憂えず, 専ら著修遊楽に耽ったの で, 国力が 頗る衰退 していた. 後唐と前編と の関係は荘宗が宿敵の後梁を滅ぼすや, 前編の国都成都に使節を遣わ して, 戦勝. の報告をさせたときより始まるのであるが, このとき前編では後主を始め,人々は皆この使に恐れ をな してこれを厚遇 したのち, 使節の帰国に際 して荘宗に宛てた前 濁の国書に不遜の辞があった ため, 荘宗はこれ を容認することができず,客省使李厳を成都に報珊せ しめた.時に同光3年( ) 925 1 4 ) この時李厳は前編の国内事情を 偵察する任務も帯びていたが また後唐の後宮 4月 で あ っ た. ,. の需要を充たすため, 名馬を代償と して前編宮廷の珍玩物を購求せんと したところ, 前編の法律 では, 編の名産である錦締を始めとする珍奇の物産の輸出が禁ぜられ, ただこの場合粗悪な品質. のもの,いわゆる入草物については, この限りでなかったけれ ども, 結局かれは目的を達 しえずし て, 僅に金2百両, 地衣毛布の類を持ち帰ったにす ぎなかった. しか しその国情を備に偵察 して T 5 )その概要は その模様を荘宗に復命 し, 今こそ前編征討の好機であるとの意見を述べるに至った. おろかなわらべ 新旧 五代史の李厳伝ならび に旧 五代史の借偽列伝などに見えている. それによると王街は 歌 童 へいけん. にすぎません. 宗弼らがその兵柄を総べて, かれらはただ自己のため に財 産の蓄積だけに 汲々と 多を極めることだけを務め, その旧勲故 して, 一般人民 には少 しも憐みをかけず, 君臣はただ著f みなみのばんぞく. くるLみ. 蛋 の人々は療病を痛感 しています. わたしの考では, 後唐の大軍を 以てこれに当れば, 風を望んで, 前編は瓦解 しま しょう」 とある. 李厳の献策 に接 して, 荘宗も漸く前編の征討に意が傾き, その準備工作と して兵士を募集し馬匹を括市するに至 7 6 )このような後唐の動きに対して 前編の方の動きは どうかというと 前編では後唐の後梁 った. , , 征服後間もなく後唐の天下統一策を知り, 後唐に 対 し警戒 し始めた, その一二の例は宣徽北院使 老は見捨 てられ 任用 されません.. 蛮. そうしようほ. 宋光榛の棟兵を行い, 辺部 に も成 し, 糧を積み戦艦を整備することや東川節度 使宋承榛の防禦策 ) の前半のことら しい. かれは後唐が間 らく 同光2年 ( 924 に見られる. これが唱えられたのは恐・. もなく強力な武力にものをいわせて前編を滅ぼすで ,あろうと予見 し, たとえ正々堂々と戦っては 到底勝目はないこに しても, 心理的に敵に脅威 を与える防戦の策をとらんことを 王街 に建言する. に至った. この建言は旧五代史巻一三穴借偽列伝王街伝に見え ているが, その概要は次の如くで ある. 「後唐の兵力は強いので, 早く これ に対する謀を施 しませんと, 後では救いようがなくな. ります. 嘉州の揚子江沿岸地方に戦艦5百醸を建造 し, 水軍5千人を募って, 揚子江より峡に下 します. わたしは東師を率いて裏・都に出て水陸よりともに東北に進みます. そ して沼辺では防. 備 を厳に して険要に拠らせます. 南師は江陵に出て, 形勢が 有利と見れば取り, 不利と思えば退 いて峡口を保ちます. また三局地方の暁壮な兵3万人を選抜 して, 急に岐・薙を 改め, 東方では おおいなるりえき 河・蓮に拠り, 北方では契丹を招き, かれらに 美 利 を 与えて可能であれば進み, 不可能であ ぐんばのそなえ れば即ち散関に拠らせます. こう しますとわが,園 事 を固くするで しょう. たと え後唐に勝て さむからしめる. なくても, 敵兵の心を攻めるに充分で しょう.」 とあるのがそれである. この策は王街のいれると ころとならな かった. 恐らく王街の腹の中は万一の場合には, 後唐との修好を考えていたのであ. ) 8 月 前編では右定遠軍使王宗鍔を招 ろう. しか し宋光榛らの建言に刺戟されて同光2年 ( 924 討馬歩使に任命 し, 21軍を統率 して洋州に駐屯させ, 長直馬軍使林思鍔を昭武節度 使に任 じ, 後 1 7そ の頃後唐の荘宗は使者李彦調を濁に遣わ し 9月 に成都 唐の進攻に備えさせることになった. , おうようひん な ) 入り をさせたが, これは前編との通好を求めたものであろう. 11月 には前編の翰林学士欧陽彬 が後唐に対する前編の通好 使と して洛陽に彦綱を伴い赴いているからである. 前編では後唐と友 好関係に入ったので, 威武城成を廃止 し,関宏業等 の24軍を成都に召還 し,武定武興招討劉潜等の - 45 一.
(5) . 中. 田. 整- 治. けん. 37軍を廃止 し, 天雄軍招討を廃 し, 王承器等の29軍を成都に還 し, 12月 に入って金州の屯或を 廃 1 9 )王宿は後唐と の和 平をたのんで辺境 の防備 し, 王承勲等7軍に成都への帰還を命 じたのである. )6月 荘宗は前濁を征討 925 を撤 去した. 後唐では前編 のか る辺境防備の撤去を見 て, 同光3年( 0 2 ) するため天下に 詔して広く軍馬を括市 するに至り, 9月 になって前編征討に必要な兵員・軍 馬. も確保しえて, 長子の継笈を醜王に封じ, 間もなく宰相の豆瞳革らと前編征討の会議を開い た. その席上その総指揮官ともいうべき行営都統の候補者には威勝節度 使 李紹欽・李嗣源・醜王継笈 が浮び上り, 結局唐の故事に倣っ て荘宗の長子諌王継笈が西川四面行営都統に任命され, 郭崇轄 はその副と ,して東北面行営都招討制置等 使に充てられ,軍事を悉く委任され, 荊南節度使高季興 は がん. 東南面行営都招討使に, 風潮節度使李継暇を都供軍転応接等便に, 同州節度使李令徳は行営副招 りしようちん 討使に, 瑛州節度使李紹環 (廉延孝) は蕃漢馬歩軍都排陣斬析使兼馬歩軍都指揮使に, 西京留守 いん. 張締 は西川管内安撫応接 使に, 華州節 度使毛埠は左廟馬歩都 虞候に, 郡州節度 使董琉を右廟馬歩 都虞候に, 客省使李厳を西川管内招撫使に充て,6万 の兵を率いて前掲を伐たしめる ことになった. き なお別に季興に詔して愛・忠・万 の3州 を占領させてそれを巡属としようと した. そして都統は 中軍に置き, 供奉官李従襲は 中軍馬歩都指揮監押に充て, 高品李廷安・呂知 柔は醜王府通謁に充 て, 工部尚書任圏・翰林学士李 愚は都統の軍機に参与させた. 郭柴稲は出軍に際し, 荘宗に暇乞いをしたが, その時に 「北都留守孟知 祥は信任厚く して, 謀. がある から, 幸にも西川地方を平定して前編を領有し, その地方を統治する 主帥を選任する場合 」 と荘宗に知祥を西川 地方統治の最適任者として推薦した に は, この人の右に 出る者はなかろう. が, これはさきに崇輯が知祥に推され て中門使に任ぜられた恩義に感 じたためであり, また両人 7 2 ) とも後唐の王室とは姻戚関係にあるためであろう. 洛陽より進発し さて後唐の醜 王継笈の率いる6万 の大軍は9月 , 鳳潮 から大散関に入ったが, 征討軍に10日分の糧 食がなかったのに, 到る所の州県ではこれ を歓迎して, 投降したので, 遂に ていほうれん. その糧食調 達についての心配はなくなった. 輿州に至ると, 前編の興州都指揮 便程奉漣が部下の 兵5百騎を率い て来降し, その兵を 使役して閣道を補修させ, 後唐軍の通過に便宜 を与えた. 王 むかえうつ. 街 は1万の兵を率いて利州に駐屯 し, その半を分遣 して, 三泉に征討軍を 逆戦 したが, 後唐軍の 先鋒康廷孝の率いる 部隊のために脆く も大敗を蒙むり, 残余の兵は潰走した. この時征討軍はま たこの地に おいて15万鮎の糧食を得たので, その後軍糧は頗る豊富 になり,調達の必要はなく なっ. ・の敗報に接 して, 利州より急ぎ西走 し, 桔栢 江の浮橋を切断 し た. 王街は防戦に努めた 王宗勲ら て, 後唐軍の進撃を 阻み, 成都に奔り帰 らんと した. 醜王維笈が興州に到 着すると, 前濁の武徳 留後宋光裸は梓・綿・剣・龍・普の5州を以て, 武定節度 使王承肇は洋・蓬・壁の3州を以て, 山南節 度使王宗威は梁・開・通・渠・蟻の5州を以て, 階州刺史王承岳は階州を以て悉く降伏 した. これら. に続いて他の城鎮も皆これに倣ったので, 前濁 軍の勢は益々振わなくなり , 征討軍は女州 の間道 かきつけ より入った. 間もなく継笈 が綿州に至ると, 王街は 戒 を奉って細笈に降伏を乞い , 成都に入っ ふく しやざい ひ ・ て後竹輿に乗り昇仙橋に到着 し, 素衣をまとい, 羊を牽き, 草索を首に 繋ぎ, 肉祖して, 壁を街 い まし 十ぁし もふく くうかん にな み, 槻 を輿い, 群臣は衰鮭・徒脱 して降伏 した. 継笈は下って王街の壁を取り, 崇潮はその縛 めを解いた. かく して後唐の征討軍は行動開始後70余日で前掲を降 したが, この結果後唐は10節 度使・64州・249県を含む 地域を領 有し, 兵員3方および巨額の鎧伏・銭糧・金銀・糟錦を収め た. 醜王継 笈が征討軍の都統 と して全軍 を率いたのであるが, 終始その軍政・号令はすべて郭崇 2 2 )これは継笈が若輩 のためである. 輯によって出され た.. - 46 -.
(6) . 五代における後編国の成立過程について. 4. 孟知祥, 西 川節度使となる. さて前編が滅びその領土が後唐の治下 に入ると, 洛陽の荘宗はかねて郭崇輯が推薦 した通り , その年12月知北都留守事孟知祥を西川節度使・同平章事に任命 したが これは後に孟知祥が成都に , 拠って,後濁国を建てるきっかけをつくるものであった. 知祥は前任地より任地に赴く直 前 荘宗 , に召されたので, 洛陽の宮殿に赴いたが,荘宗は有司に命じて供帳を盛んに し 内府に所蔵する多 , く の珍奇な品物を出させて, かれ のために宴を催 し その労をねぎらった 酒宴が難 になると 話 , . , ちちくさいこ. 題を日常 の事柄に移 して歓談 したが, 荘宗は知祥 に 「余の長子の継 笈はまだ乳臭児にすぎないの で, 君が余のた めに両川を ,平定 してくれ. 余は徒 に年を取りす ぎている ので, 君が行けば成都の 継笈は喜ぶだろう. しかし君がこちらに居なく なると益々人の心を悲しませよう 余は先帝が 世 . を棄てたと き, 彊土が侵削され, 辛うじて一隅を保有したこと を記憶 しているだけで どうして , ことごとくたもつ みちあふれる 今日こ のように天下を 奄 有 して, しかも九州・四海の珍奇な物産が内府 に 充 淑 するのを知り. えようか. 」 と感歎 し,更にこれらの物産を指さ して「余は前濁王 の富はこれと異らないと聞 いてい る. 君は余にとって親賢 であるから, 西川の統治を委任する のだ. 」 と付け加えたが, 荘宗 の知祥 ● 2 3 ) に対する信任の程度が如何なるものであったかが窺われる のである. ここで前濁征討後 の成都に滞在する郭崇朝 の動静を観察 して見よう さきに前編の征討に加わ . った富官の供奉官李従襲は中軍を監 し, 同じく ・高品李廷安・呂知柔は典謁となっていた が, 従襲 らは平素から崇朝 を憎悪 していた. その理由の一 つと して崇輯が軍事を専決するために心中不 平. であったことが挙げられるが, 更に重要な理由と して, 新五代史巻二四郭崇輯伝に見える崇離 が 嘗て継 笈に述べた言葉が挙げられる. それ によると 「醜王は前濁を滅ぼ した功績がある ので 都 , に凱旋の後 には必ず皇太子となるで しょう. 荘宗の死後,王が位を嗣いだら,尽く富官を朝 廷より 斤 け,. きよぜいうま. の. 扇 馬 に して 騎 る こ と がで き な い よ う に した 方 が よ い.」と い う の で あ った これ は 崇轄 が .. 朝廷で自分の権力を振うにはどう しても富官が邪魔 になるので, 洛陽に凱旋後, 朝廷からかれら を追放 しようとする意志のあることを示すものである. 成都において李従襲ら の臣官が郭崇轄を. 憎み, その行為 に対 して憤憾やる方なかった事情 について は新五代史巻一四唐太祖 家 人 伝 二の 腕王継笈伝・同巻二四郭崇離伝などに見 えているが, 今からそれを考察 して見よう. 前濁の滅亡 後, 王宗弼 以下の濁 の文武高官が皆争って濁の宝貨・妓楽を崇輯父子に奉ったた め 醜王継笈の , しゆへい. 得たも のは僅に馬匹・東常・唾壷・虜柄にすぎなかったことや, 崇義が毎日軍務を決するときに 将吏・賓客は趨き走って官邸の庭に満ち 溢れたのに, 醜王継笈の都統府はただ大将が農謁するだ. けで, 牙門が寂莫と していたことなどで, 従襲らは崇輯 に対 して不平不満を抱いていた たまた . ま宗弼が腐人を率いて継笈に謁見 し, 崇期を成都に留めて, この地方に鎮せ しめんことを請うた. 動き もあり,. 従襲らは崇顔が後唐に叛かんとする意志ありと して, 継笈 に勧めてその防備をさ さし ・ しよう. せた ので, 継笈は崇継に 「荘宗が 侍中をたよりにすることは衡華の如く であり, あなたを廟堂の 上に尊んでいる. 帝は天下を統一 し四方を制圧せんと期待している ので, 必ず元老のあなたを蛮. 夷の住む濁の地方に棄てないだろう. このことはあなたも知らぬ筈はない. 」と言って, 継笈は崇 離こそは荘宗が廟堂 にお いてたよりに している重臣であるが故に, 濁地方に 留まることを思 いと. どまらせようと した. しか しそれが成功せず, 洛陽の荘宗は崇輯が燭地方 に留まりたい意向あり. との報せを受けて, 勿論喜ばず, 富官の向延嗣を継笈の許 に遣わ し, 軍 を濁 より撤兵 して都に帰 させることになり, 延嗣が成都に到着 した. その際崇解はかれを出迎えなかった許 りか,会見 して その態度が頼る 倣慢であったので, 延嗣は憤慨 したが, 従襲らは今こそ好機と考えて崇輔には謀 - 47 -.
(7) . 田. 中. 整. 治. 叛の志があ り,,恐らく醜王継笈の命も危 くなるだろうと延嗣に告げた. 間もな く延嗣は帰京 し荘 宗に崇離 の動静について詳細に復命 した. その際劉皇后 は涙を流 してわが子継笈の生命の保障を. 請うたので, 荘宗は富官の馬彦珪を成都に赴かせ崇額 の去就を監視させることに した. この頃両 川地方は新たに後唐によって平定された直後であり, 孟知祥 はまだ赴任していなかったが, 所在 の盗賊は山林に遁走 し, そこに集結 して人心が不安 なる状態にあった. そこで崇顔は任国らを遣. わ し, 手分け してこれ ら盗賊の招集に努めたが, これというのも後に事変の 発生 を 憂慮 しての ことであった. このような事情で後唐 の軍は直ち に洛陽に帰還 しなか ったが, 彦珪が成都に赴く. 直前に劉后に謁し 「わた しは延嗣に会い 『濁の形勢は既に宜 しくない. 禍の発生する機 会は間髪 をいれず至るであろう. どう して3千里の間を往復 して命を受けようか.』と伝えます」 と告げた ので, 劉皇后は彦珪の意向を荘宗に伝えたが, 荘宗は 「伝言はまだ審かにすることができ ない. おもいきりよし. どう して 果 決 しえようか. 」 と勅書を出すのを思い止ま ったので, 皇后は継笈の生命 の保全を L ・ めいれ 請うことができなかった. そこでやむなく 皇后は教令をつく り, これを継笈に与えて崇離 を殺さ. 926) 正月崇輯は任圏を留めて, 衝地方を守らせ, 孟知祥の到着を待っ せようと した. 同光4年 ( と, て, 班師せんと 定めていた. 間もなく彦珪が成都 に到着 し,劉皇后の教令を出 して継笈に示す こころにそむく ・ とぐち あらそいのし の どうしてこの 心 負 端 は開 かれていない. 継笈は 「今 大軍が将に出発せんと し, 未だ 豊 ことをな しえようか.」 と崇輯を殺すに忍びない意 向を述べると,それを開いた従襲らは泣いて「今 崇輯を殺せという密勅が下っているのに, 王がこれを敢行 しない. 崇輯がこれ を知ると, 逆にわ. 」 と訴えたので, 継笈は 「今勅書はない. ただ皇后の教令が れわれが殺され て仲間がなくなろう. あるという理由だけで どう して招討使郭崇顕を殺せよう か. 」 と言って崇顔を殺すのを拒んだので あるが, 従襲らは飽く までも, これを主張 したので, 継笈はやむなくこれ に従う決心を した. 翌. 朝従襲は都統醜王継 笈の命令により崇輯を召 したが, 継笈は楼に登りこれを避けた. 崇掴が入っ うちくだく て階を昇ると継笈の従者李班がその首を樋砕した. その時崇輯に同行したその子廷誠・廷信の二. 人も同時 に殺された. かくて恒官の憎んでいた郭崇離が殺され, 継笈は遂に洛陽に帰還すること 2 4 )継笈は出発に際し 馬歩都指揮 使李仁撃・馬軍都指揮 使播仁嗣・左廟都指揮 便超廷 隠 になった. , ・右廟都指揮便張業・牙内指揮 使武樟・院衛指揮使李延厚を留めて成都の守備に任ぜ しめ, 成都. を発 し, 康延孝に1万2千の兵よりなる殿軍を指揮させ, これと中軍との距離は30里 の間隔を保 2 5 ) たモ 士云 こ・. これよりさき, 荘 宗が崇顔の行動に疑惑を抱き, 将 に任 地に赴かんと する知 祥 に対 し 「郭崇雛 」と 崇綱の処刑を命 じた には異志があるとの噂が立っている. 君が成都に赴いてのち殺 してくれ. が, 知祥は 「郭崇輯は後唐の元勲であり, そんな謀叛心は抱いてお りません. わたしが現地に赴. 」と答えた. この答によっ き, 実情を調べて, 他志がないことが判れば洛陽に帰還させま しょう. 6 ) 知祥は石濠に到 2 て知祥が崇稲を かを い, 都に送還させんとする好意 のあることが祭せられる. 着 して, そこで寛官の馬彦珪 からまた崇轄を殺すべ しという荘宗 の命令を伝えられた ので, 昼夜 2 7 ) 知 祥は既 に崇緩が殺され, 征討軍も成都を離れた 兼 行で成都に向い17日の後任地に到着 した. おそれさわぐ. ことを知 ったが, 成都に残された5千の後唐軍 を率いる諸将は崇義事件 の直後だけに 隅 々 と し 2 8 ) ていた. しか し知 祥は承制宣諭に努めたので人心は漸く安堵 するに至った. 断析等 使であった康 延孝が剣州に至り, 遂にそ 前凝の降伏後, 後唐の西南行営馬歩軍先鋒排陣i の衆を擁 して, 自ら西川節度三州制置等使と称 し, 激を飛ば して, 凋人を招諭 し, 3日間に5万 の衆を傘下に収め兵を挙げた. 康延孝挙兵の理由と 考えられるものは旧五代史巻七四康延孝伝・. 新五代史巻四四同伝に述べられているが, それ らによると次の如く である. - 48 -.
(8) . ・ 、 . r . ● - . r .. 五代における後編国の成立過程について. 前濁平定の論功 行賞ではかれが最右翼にあると思っていたのに, 行営右廟馬歩使董畿・ 行営左 廟馬歩便毛球はその位が, かれよ り下であるのに,郭崇軽 に重んぜられ,崇顔は軍事 のある度 に埠 らを招いて謀 に与らせ延孝を無視 したので, 快く 思っていなかった. それで延孝は董埠に 「自分 には 平岡の功がある. 貴公らは凡庸なのに郭崇輔 に 煽び謬らっている. 自分は都将だから軍法で 貴公を断れないこともない. 」. と言って脅迫 したので, 董蹄は非常に恐れてこの旨を崇轄に訴え. た. 崇議は延孝を憎んだが, 取り敢えず董玲 の軍職を解き 東川節度 使に転ぜ しめた これ を知った . 延孝は怒 り 「自分は難難を嘗めて両川地方を 平定 したのに 戦功もない董瞳を東川節度使に任命 す , るとは何事か, 」 と崇輯に激 しく詰め寄ったが,却てた しなめられて退いた.同光4年( )の初, 926 前述の如く 郭崇轄が殺さ れると, 延孝は董障に「貴公は今回は誰 に姫び詔らう のか 」と嫌味を述べ . かえ たが, このときは董庫は哀れみを乞うてことなきを得た 顔王継笈が荘宗 の命を受けて師を班 す .. と, 延孝は1方5千の殿軍を率いて武連に到着 し, そこで朱友謙が罪なく殺された のを聞いた . 友謙の子の令徳は遂州に お ったが, 荘宗は使者を遣わ し継笈に命じてこれを 殺させた この際継 . 笈は延孝の代りに董蹄を遣わ したため, 延孝は既に 自ら疑い, 董瞳が延孝の軍の傍を通過すると き, また 謁見 しなかった ので, 延孝は大に怒り, その部下に 「南方の粟を平定し 西方 の前編を , た 略取 した謀はすべて郭崇離から出ているが, 城を攻略 し敵 軍を撃破 して戦功 を樹てた者は自分で. ある. さき に謀を立てた郭崇轄が既 に殺されているので 戦功を樹てたわが身と て どう して命を , 全うすることができよう. 友謙はさきに自分とともに後架に背いて後に帰順した者である 友謙 . の禍 は次にわが身にも及ぼう. 」 と既に危険のその身辺に迫った 旨を告げたが, 延孝 の部下は皆嘗 ては友謙の将兵 であり, かれらは友謙の死を知り悲 しみの余り号泣 して軍門に訴え 「朱友謙は罪 を犯さないのに, かれを含めて2百名が殺さ れ, 旧将はかれと共に死んだ われらの死もまた必 . ず訪れ る. 」 と叫んで延孝に挙兵を迫ったので, ここに至って延孝が遂に立ち上ることにな った . 以上が新旧五代史 のかれの伝に見える延孝挙兵の理由であ る. 延孝叛乱 の報に接 して, 魂王継 笈は急遠1 任園に命じ7千騎を率いて これを追撃させ 僕州 , , ばさみうち に迫った. たまたま成都 の孟知祥も任園の軍と爽攻 したので, 延孝の軍は利あ らず, 首魁の延孝 は捕えられ, 鑑車に載せ られて, 鳳捌に送られ, そこで荘宗 の遣わ した富官に殺された 延孝 の . 部下に李隼な る者がおり, 捕えられたが, 知祥にそ の縛めを解いてもらい 街内都指揮便に抜擢 , され, また同じ部下の侯宏実も面 縛されたが, 知祥より叛乱 の罪を赦されその親軍 を指揮するに. 至った. 知祥はこ れら延孝 の都下の降将とその率いる数千 の兵を得て 任地の成都に帰 還 した , . この頃濁地方におい ては群盗が依然と して出没 していたが, 知祥は廉吏を 択んで 諸州県を治め , めんじよ させ, 前編時代の横賦を鱗除させ他地方に 流散 していた人民を安集さ せ 人民に対 し極めて寛大 , なる命令を下 した. また左廟都指揮使超廷隠. ・右腕都指揮使張業を遣わ しそれぞれの部下を率い 9 群盗を手分け して討たせ, 悉くこれ を殺させ治安の維持に努めた 2 ) . 四川地方が後唐 の領有に帰 し, 江北地方が殆ん どその支配下に置かれると 荘宗に漸く嬬恋 の , 行為が多くなり, 政務を富官に委せ て顧みず, 宿将 を疎忌して将士の不安を招き 民田 を跳躍 し , て人民の離叛をひき起 した.. 同光4年 ( )2月, 前年より荘宗の命を受け, 兵を率い瓦橋に成 していた残博指揮便 の楊仁 926 辱が代帰 して見州に駐屯してし、たとき’ 劉皇后が荘 宗を殺したと の流言を聞き, その部下の皇甫. 陣がその徒党と共に乱 を起し, 仁暴を劫やかし, 「荘宗が後粟を滅ぼ して天下を取ったのは雛博 の兵力に負う所が多く, その醜軍は十余年間戦斗に従事 し, 今や後唐の国家は天下を併呑 して安 ’凝つれら兵士の労苦 に報いないのみか 却ってざ 泰となった. 然るに荘宗{ 青忌の念を起 している. , - 49 -. ・ ● ・ e . r ‐ ● ・ ● ● ● ● , . ・ ● ● ● . , ● ● . r -. . r . ● . ● . ●. ● . ● ‐ . ・ ● -.
(9) . 田. 中. 整. 治. まき. われわれは遠成のために年を越 し, 方に代帰を喜んだのも束の間, わが家を 去 る近距離の地点で 家族にも会えな い. 今皇后の績逆があり, そのため 洛陽は既に混乱に陥っている. 将士たちはあ なたと共に帰りたがっている」 と述べ仁暴を誘ったが, 仁曇がその謀の誤っている旨を述べて応. じない ので, 陣はこれを 殺 し, ま た小校を脅か したが従わないためこれも殺 した. この とき数節 指揮使の趨在礼は乱を聞き逃 走せんとしたが, 二 人の首を見せられ恐れてこれに従い, 遂にその 主帥とな り, 見州を焚椋 して部都を陥れたが, 武寧軍節度 使李紹栄 の攻撃を受けた. また邪州左 右歩直軍 の兵士4百人が城に拠って叛 し, 推軍校超太がその主帥とな り, 自ら安国留後と称 した. ので, 荘 ・宗は東北面招討副 使李紹真 に詔して これを討たせた. 一方李紹栄が諸道 の兵を率いて 再び部都を攻め, 碑将の楊重覇は戦 死 したが, 賊は降伏せず, 朝廷では 中便を発 し, 瀕王継笈に 前編征討軍の帰 還を催促したが, これは康延孝の乱に大部分を指 し向けているため, 期 待をかけ. ることは無理であった. 李紹栄が超在礼を討って久 しく戦果があがらず, 超太がまた都州に拠っ て未だ降伏 しないのに, また河朔 の州県において相次いで叛乱が起ったので, 荘宗は灘都の親征 を決意 したが, 宰相・枢密 使の 諌め に遭い, 荘宗とは義兄弟の関係にある李嗣源に命じ, 帝の代 りに親軍を率いて常 都を討たせた. 3月 に入る と超太は漸く課せられたが, 李嗣源が叛徒に推さ れて叛乱を起 し, 龍顧指揮 使嫌彦温が前鋒軍を以て叛 し李嗣源に 降った .かくて李嗣源らは一挙. に開封 に拠らんとしたので, 荘宗親 ら虎牢関の東に赴き, これを招撫せんとして果さず, その帰 3 0 ) 途従馬直指揮使郭従謙 の叛に遭い, 乱兵 の放っ た流矢に当って死んだ. 時に43才であった.. これよりさき, 洛陽への凱 旋の途上にあった雛王継笈が興平に到着 したのは4月 5 日 で あ る が そ の 地 において李嗣源の叛乱とその叛乱軍が洛陽 に侵入 した報せを聞き, 驚き退いて鳳期を保た んと考え武功に至った. すると富官の李従襲が継 笈に対 して急ぎ首都に赴き, 叛徒の鎮圧に当る. ぜん. よう極力勧告したので, 継笈はこれに従い沼 河の岸に到着 した, しか しその時既に西都留守張籍 が浮橋を 切断 していたため, 継笈の軍は渡河できず, やむなく河岸に沿うて東の沼南に辿り着い 々は既に四散 していたので, この様子を見た従襲は継笈 口柔らの人. た.継 笈の左右に 仕えていた呂矢 」と述べた.継笈は緋掴 して涙を 流 に 「大事は既に去り, 幸福は再現不可能であるから,自ら図れ, しながら李環に 自分 の施すべき手段は ここに尽き果てたので, 殺してく れと乞うたが, 環は長い. 間際賭 した後, 継笈の 乳母 に向って, 「自分は王を見るに忍びないのであるが , 王が若し生きる こしかけ ・ をたお かお 」 と告げたので継笈は 橋 に面 して臥し, 環 道がないのなら階面 して待って おられるがよかろう. しめころ 1 8 ) はこれを紐殺 した. 任圏が後から現場に到着 したが,かれは継笈の 遺骸を華州の西南に葬った. ・ 荘宗の死 後, 李嗣源が衆に推されて洛陽に即位 して天成と改元 した.これが明宗である.任圏は 継笈の死後2万6千の軍を率いて漸く洛陽に帰 還 したが, 初, 出兵 の 際は6万を数えたのに, 成 都に留まったもの5 千, 康延孝の叛乱による死亡者を考慮 に入れても人 的損害の甚だ しかったこ とが知 られる. 明宗は任 圏を始めとしてその将 士を慰撫 したが, それに しても明宗に とっては, 1にそ の所在を尋ねたが, 任園が継笈の最後 の模様を詳細 荘宗の長子継笈の存在が気になり, 任臓 3 2 ) 報告したので漸く安堵の胸を撫で おろ した. 5. 孟知祥の後編国建設. 一方成都に帰還 した孟知祥は6月 朝廷 よ り兼 侍中を加えられた. この頃 に至って知祥は後唐の 明宗が荘宗の血族でなく, 叛乱を起 して帝位に即いたことや, その叛乱の謀議 に与った安重誠が. 枢密使として 宮廷で権力を 専らに しているこ とな どで, 任期満ちて後 洛陽に帰るよりは, 寧ろ天 産が豊富で而も要害の 地である濁の成都に 拠り, 主建の前濁に倣って国を建てんとする志を 蔵か -5 0-.
(10) . , . ’ ・ . .. 五代における後編国の成立過程について. ) 7月 の条に 「孟知祥, 926 に抱くに至ったようである. 資治通鑑巻二七 五後唐明宗紀天成元年 ( ・ 陰に濁に拠るの志あり, 庫中を閲し, 鎧二十万を得たり. 左右牙等の兵の十 六営, およそ万六千 ほんじよう 」とあるのは, かれのこの地方に建国せんとする下準備 を示す 人を置き, , 牙城の内外に営せ しむ. ものであろう. 濁地方の兵制については既に 郭崇離 に よって, その軍隊編成が行なわれている. それによると濁の 騎兵を左右暁衛等の6営に分ち, その兵力は合計3千人, 歩兵の方は左右寧遠等 3 3 } 知祥の編成は勿論 郭崇輯のそれ の20営に分けて, その総数は2万4千 人に及ぶ陣容であった. に倣ったものである が, 8月 になると孟知祥は左 右衝山等の6営, 総数6千人を増設 して,・それ かいじよう ぞれ羅域内外に営せしめた. これは成都 域の 防衛 に当らせたものであり, また義 寧等21営, 総数. ひそか. “県の警備 に任ずるものである. ま 1 1県に分成せ しめた. これは管内のり 1万6千人を置き管内のヅ 3 5 ) 9月 4 ) 3 った, これは成都城内に分成するものであ 4千人を設置 したが 4営 た左右牢 城 , , 合計 に入る と知祥は左右飛樟兵の6営を設置したが, この総数は6千人で,これらは 揚子江岸の諸州 に 6 3 ) これらの諸部隊を知 祥は李仁撃・越廷 分成して, 水戦に習熟させ嚢峡方面の敵 に備えさせた. 隠 ・ 張 業 ら の 諸 将 に 命 じ, そ れ ぞ れ訓 練 して 統 率 せ しめ たの で あ っ た.. ぐんをねぎらうかね. さきに前編征討のため成都に赴いた訓王継 笈・郭崇輯が成都地方の富豪に対 して橘 賞 銭5百 7 )を割り当て出させたが, その際に都合の悪い者は 金・銀・糟・畠を以て代 納するこ 万婚の銅銭3 とを許可する配慮を示したとはいえ, その督促が厳 しいため, 納付が思うにまかせず, 自殺者ま 3 8 ) こ で出した次第であった. この幅賞銭は軍に給 付してなおかつ 2 百万絹の剰余金が残った. れを成都に赴いた知祥が征討軍の撤退後保管 していたらしく, 明宗が即位 し中書侍郎同平章事 に. ゆた. けんにん. 任ぜられた任園が三司を 判 する と, かれは嘗て前編の征討に従事 し成都に赴き, その地方の富. かき. 銃を知りつく しているだけに, 早速塩鉄判官太僕卿の超季良を成都に遣 わ した. 季良の使命は, 明宗が即位後知祥に 侍中を兼任させたことを 通告することと, 自らは三川都制置転運 使を兼ねて. 剣南東西および山南西道地方の財賦を掌ることにあった. 10月 季良が成都に到着 したが, 知祥を はじめ濁地方の人々は皆かれに対 して剰余金を渡すことを欲 しなかった. 知祥の言分は 「府庫に し 、 た. あるものは嘗て継笈・崇轄の 徴収したもので, これを輸すことは 差支えないが, 州県より徴収 し 」とい ・兵10万を養うに充分なもので, これは到底後 唐政府に差 し出すことはで きない. た租税は鎮 うことであった. 知祥のこういった発言の 中に既にかれに, 凋地方を専 ら統治 せんとする意志の あることが露呈 しているが, 結局季良は府庫に貯えてある品物を廃棄 し, 以後制置 転運職の所管 9 3 ) 12月 にな って超季良らは凝地方の金宗百万を洛陽に運 事項については決して言及 しなかった. 4 0 ) 搬 したが, これは後唐の財政の窮乏を救うものであった. この頃洛陽にあった枢密使の安重誠は, 西川節度 使の 孟知祥お よび東川節度使の董蹄がそれぞ れ険要を拠点 として お り, 而も強力な軍隊を 擁 し, 特に知祥の場合には敵の襲来に備えて壕を波 え柵を樹てているのを知り, やがては両人とも, 自分の力では制御 しがたくなるであろうと考え ・ また知 祥が荘宗の近親であるため, 心秘かにかれをなきものにしようと図った. この時客省使 潤 州防禦使李厳が重 誘に謀を献じ, 自分を西川監軍に任 じて方略を遂行し, 知祥を制御せん ことを 請うた. か れが荘宗の とき前編に使し, 帰って前編征討の策を建言 しただけあって, 濁地方の事 情に頼る明るいのに乗じ, 再び功績をあ げようと したためであろう. 後唐の朝廷ではこれを許可 し, 厳が監軍 として成都に乗込むことになったが, これに対 して厳の母 は先 に 滅濁の謀を立て濁 の人々から恨まれている ので, 再び行けば生命が危いと警告 したが無 駄であった. 知 祥は李厳の 来任する ことを聞いて 「荘宗のとき, 富官の焦彦賓が西川監軍となったが, 明宗の即位後, 富官 を悉く訣 し諸道の監軍を廃止したのに, 李厳の来任によって西川 のみ監軍が設置されることにな -5 1-. ‐ 1 . . ‐ 1 ・ ● ● ● . ● . ● . ● ● ● ・ 1 . 1 ‐ ● 1 ● . ・ . ● ● ● . 1 , . ・ 1 1. ● ・ ● . ● ● ● . . ..
(11) . 田. 中. 整. 治. る. これは厳が燭 に おし・て再び功名を立てんとする下心を表わすものである. 」 と李厳の 内心を見 かんしようえい 破り, 歓迎の意を示 していないが〆 掌書記母昭蕎および多く の文武官吏も皆厳の入濁を阻止せん T 4 ) 成都では歓迎されないのにもか わらず 天成2年( と奏請 したが効果がなかった. )正月李 927 , 厳は成都 に着任 した. 孟知祥はかれを鄭重 に礼遇 し, 酒宴を催して招待した. その席上, 厳は懐 中より詔書を出 して知祥に示 し, なお易に滞在 している彦賓を訴せよと命じたが, 知祥はこれを. 許さず. 却って 「都監は先に濁に 使 し, 兵を請うて濁を伐ち, 遂 に東西両川地方を共に 破滅させ た. このため三川の人々はあなたを憎むこと深いも のがある. 今再び成都 にやって来たが, 濁の 人々は大 に驚いている. もとよりあなたを奉ずる暇がない. 」と言って客将の王彦鉄に命 じ, 下階 とら. に絹え階前においてこれを斬らせた, 洛陽にあ って李厳の死を聞いた明宗も知祥に詰問すること 4 2 ) 李厳 の遭難に懲りて その後朝廷では剣南の牧守を任命する毎 に それに百 はできなかった. , , 乃至千名の兵を率いて赴任させ たが, これはその 郡域を守ると共に牧守らの保護のためでもあっ 4 3 ) た.. ・ その太原に残 したかれの家族らを迎えにやらせ 孟矢 - 】祥が西川節度使と して成都に赴任 して後, りじゆうがん. たが, その使の 牙内指揮便武樟が風潮 に到着 したとき, 風潮節度使李従暇は知祥が西川監軍の李 厳を殺 したのを聞き, てっきりこれは知祥の後唐朝廷 に対する反 逆 行為であると見倣 し, 使者を 抑留して太原 に 赴かせな かった. 洛陽の明宗は李厳の死に 対 して知祥を問詰せず, 却って恩信を 以てこれを懐柔せんとし, 客省 便李仁矩を 使と して, 知祥が 叛乱を起さないよう に尉留 に努める し け ・. もうちよう. と同時に, その妻の頂華公主およびそ の子 仁賛即ち孟終らを太原から成都に送らせた. 孟知祥は さきに三川都制置転運 使として成都に来任 したことのある塩鉄判官槌季良が, かれと旧知の間柄. でもあるので, 留めて節度副使事 に任命せんことを 明宗に請うたところ, 朝廷ではやむを得ずこ れを許 した. これより季良は知祥の下にあ り, 大小の軍 務 の処理に与かつて, かれを輔佐し, 知 りこう 4 4 ) この頃さきに前編の滅亡と同時に王街に従って東遷 した李臭が成都に 祥 の佐命の臣となった. 4 5 ) 12月 知祥は民丁20万を発 して成都域を修築 し 帰ったので, 知祥はこれを観察判 官に任命 した. 4 6 ) たが, これはこの地に割拠せんが ための準備工作と見倣 すべきものであ ろう. 資治通鑑巻二七 六後唐明宗 紀天成3年( )3月 の条に 「孟矢口祥 しばしば董蹄と塩利を争う. 蹄, 商旅を誘い, 東 928 川 の塩を販 して西川に入る. 知祥はこれを患い, すな わち漢州 に おいて三場を置き, これを重 征 し, 歳 ごとに銭七万絹を得たり. 商旅また東川にゆかず. - 」と見える知祥 の塩矛 i毎年銅銭7方 緑の 獲得もまた独立のため の軍資金護得と見倣すべきものであろう. この頃明宗は 超季 良を果州団練便に転任させ, 節度副使事 の後任には旧知の何端を任命 した. 知祥は明宗より何端の制書を受領 したが, これを匿く して, 上表 し季良を自分の部下として留任. されたい旨を述べた. これはこの頃知祥 に既に二心があり, 季良をかれの腹臣としている ので端 の就任を思 い止ま らせようとするも のであった. しか しこれは許可されなかっ た. そこでやむな. く知祥はそ の将雷廷魯を洛陽に送 り, 明宗に 趨季 良 の節度副 使事留任を奏請させた結果漸く 許可 された. こ のとき何増は細谷に到着 し, 恐 れて敢 えて進まなかったので, 知祥は 端の行軍司馬任 4 7 ) この年後唐 の軍がヲ 4 3 ) 明宗がラ 命を奏請 して許された. 剥南を討つことにな り, 銅祥に命じ部下の 兵を率いて峡を下らせた ので, 知祥は左粛辺指揮便の毛重威に3千の兵を率いて萎州を守備させ た. 荊南では既 に高季興が死に, そ の子の従講が助命を乞う たため, 知祥は守備兵を撤退させ, 明宗に対 しては戦力の消耗を防 ぐため撤兵を請うたが, 許可さ れなかった. そこで知祥は やむを えず, 毛重威に使を送 って, かれを誘うことにした. それ に応じて重威は部下の兵を率い, 鼓 課. して逃 げ帰 った. 明宗は重威が任務を放棄 して逃亡 した罪を罰 しようとしたが, 知祥が免罪を請 一 52 一.
(12) . 五代における後編国の成立過程について. うたため幸にも毛重威は赦された一 毛重威の守備地よりの撤退は後唐の威令が濁地方に行わ れな くな ったことを示すものに外ならないが, この事件後, 後唐の大臣らは知祥が成都 に おいて必ず 4 9 ) 叛乱を起すものとの確信を抱くに至った. 天成4年 ( )5月 明宗は南郊において天を祭らんとする機会 に適当な財源がないため 李仁 929 , 矩を成都 に遣わ して, 知祥に助礼銭百万繕を支出するよう催促 したところ, 知祥はこ の要求こそ 自分を窺地 に陥れようとする明宗 の謀略であると見破り, 支出を拒ばんだものの, 後になって漸 く50万絹を献ぜんこ とを請うた. これは知祥が最初は明宗 の要求を拒絶したも のの, さすが に帝 5 0 ) の英 明 を 禅 っ て 応 じ たも の で あ ろ う.. さきに前編を征討した翻王継 笈が, 成都より洛陽に凱 旋する際に, 精兵5千を留めて 碕地方の 守備に当らせたため, 濁地方の治安が維持さ れたが, 知祥が西川節度使と して成都に赴任後次第 にその態度に朝廷に対 し叛乱を起さんとする様子が見え始めたので, 枢密使の安重誠はそ の異志 のあることを疑い, かれの軍事顧問に聴いて, 自分 の親 信する者を任用 し, 両川管内 の諸州を分 しんえいたい. 守させ, 地方の守将を任命する毎に, 精兵を以てそ の 牙 隊 としたが, その親衛隊の兵力の多い 部隊は2~3千人より ,な り, 少いものでも5百人を下らぬ編成であった. か}る親衛隊の編成 に 1 5 ) この年夏魯奇は武信軍節度使 よって, 後唐では知祥 の叛乱に対する対策を講じたのであった. ぜられ 東川 州を分 に任 の間 って保寧軍とな し, 李仁短がその節度使になった. また武度格が稀 , ー 州索 J史とな った. 保寧軍節度使の李仁矩と東川節度使董碓とは不和 の関係にあ り, 度格が安重講 の外 兄に当るので, 董蹄は知祥ととも に これらの人々を恐 れ, 後唐の軍将から早晩征討を受ける. ことを慮り, 知祥と接近することによって自己 の保全 を図らんと した. 先に述べた如く 董韓は郭 崇醜の計らいによって 東川節度使に任ぜられて以来, 成都の知祥とは何ら交際はなかったが, か. かる事態に立至って, 初めて使を送りそ の子のために知祥の女に求婚 し, 知祥と姻戚関係を結ぶ ことにより, 一致団結して後唐の朝廷 に対抗しよう と図った. 知祥の方では董埠のこういった政 略に対 しては, 内心憎悪の念を抱いてはいたが, 董瞳の申出には応じまいとする考えで, 腹臣の 趨季良 に問うたところ, 季良が目下の形勢をよく洞察 していて, 両者相互 に相携携して後 唐の征. 討を防 ぐことこそは何といっても得策であると進言 したので, 知祥は董碓との間に友好関係を結 ぶことを許 すに至った, ここにおいて知祥は瀕・ りに上表 して, 後唐の派遣 した節度 使・刺史を解. 任し, 洛陽に還さ んことを請うたが, これは, 明宗が優詔を出 して慰諭に努めたので果さなかっ 5 2 ) た.. 天成5年 ( 930) 正月 董瞳は部下の兵を派遣して剣門に7ヵ所の城塞を構築させたが, これは後. 唐軍の来襲に備えるものであった. 次いで知祥は超季良を梓州に赴かせて董障 との間に友好関係 を 結 ば せ ん と した と こ ろ, 2月 に季良が成都 に帰り 「かれは貧残で勝を好み, 志大なるも謀短な. 」 とその修好は西川にとって害を喬らし, 与 すべきでない 旨を復命 す り. 終に西川の患とならん. 5 3 ) 同月 明宗はまた南郊の祭礼を行ない長興と改元 した. 4月に至って知祥は中書令 るに終った. を加えられた. 前述の如く知祥・童蹄はそれぞれ西川・東川節度 使の任にあ り, やがては後唐の朝廷に叛く の. ではないかと洛陽に おいて懸念されていたが, 安重誠は軍事顧問の進言を信じ, 東川の董蹄は後 唐に忠勤を励むだろうが, ただ西川の孟知祥に対 してはその行動を疑うべきであると見倣し, か. れは董傘に依頼 して, その援助により知祥をなき者に しようと図った. この年の9月, 東川節度 使の童蹄が先ず 叛乱を起 し, 間州を攻め破って保寧軍節度使李仁矩を捕 えてこれを殺 した. 知祥 の方は どうかといえば, 9月 9 日の明宗の応聖節の当日, 祝宴を開き, 東北方の洛陽を望み再拝 一 53 一.
(13) . 田. 中. 整. 治 すすりな. 備伏 し鴫咽 して落涙 したが, このときかれの 部下の土卒も皆軟撒いた.その翌日知 樟は遂に兵を 挙 、力 げし げ後唐朝に対 して 反旗を標 した.この秋明宗は墳華 公主を改封 して福慶長公主とした. 有司が前の 時代には公主の受 封者は皆出 降せず, 使を遣わ して藩に就 き冊命の儀式は執り行なわない旨を言 ・ いそぎそなえ つたが, 明宗は有司に詔して新儀を 草 具 させ, 秘書監 劉 岳を冊使として成都に赴かせた. 途中 岳が鳳朔に到着 したとき,.知祥の叛乱を聞き, 使命を達成できずとみて洛陽に 引き返 した.洛陽に あって孟知祥の叛乱を聞いた明 熟ま大に 怒り, 直ちに詔を下 し知祥の官爵一切を剥奪 して,天雄 軍 節 使石敬塘を東川行営都招討 使とな し, 遂州節度 使夏魯奇を東川行営招討副使とな し,兵を徴集 し て征討さ せることになっ た. 知祥は部下の李仁票・張業・超廷 隠に3万の兵を率いて, 董蹄が遂 州の夏魯奇を攻めるのに協力させ, また別に部下の侯宏実 を遣わ し4千の兵を率いて, 董蹄のた めに東 川地方を守らせ, また張武を遣わ し峡を下っ て徐州を取らせた. 後唐の軍は剣門 を攻撃 し 瞳の守備兵3千を 殺 して 遂に剣門に入ったので, 瞳が成都に来て急 を告げたため, 知祥は 大に 驚 き, 超廷隠を遣わ し1万 の兵 を分けて東行さ せたが, まもなく後唐の 軍が剣州に停 止し進撃 しな いのを聞き 「後唐の軍が急に 東川に赴けば, 遂州を包囲 しているわが軍の勢力が阻まれて, これ くみ が両川が動揺を来 たすであろうが, 今敵軍が剣州 よ り進まないため, わが軍としては与 し や す. い. 」 といって敵軍 の剣州停止を大に喜んだ. 12月 石敬塘は剣門 に至り, 超廷隠・李肇らと戦い大 敗を招いた. さきに徐州を占領した張 武が病死すると, その副将の良 彦超が代ってその部下の兵 ) 正月, 李仁竿は遂州を陥れたが, 夏魯 、奇は 931 を率い, また恥州を占拠 した. 越えて長興2年 ( くて知祥は仁撃を 武信軍留後に任じ, のち人を遣わて し臭首 した魯奇の首を敬塘の 自殺 した. か. 軍中にあったその二人の遺子 に見せ, のちこれを 収葬 した. 石敬1掴ま後唐軍の形勢 不利と見て, 利州に班師 したが, 昭武軍節度使李彦珂は後唐軍が敗北のため東帰 したのを聞き, 戦意を喪失し 城を放棄 して遁走した. そこで知祥は超廷隠を 昭武軍留後に任 命 した. 3月 李仁緊が萎州を陥れ 4 ) 新五代史巻 5 たので寧江軍節度使の安 崇玩は鎮を棄てて遁走 し, 超季良が寧江軍留後となった. てんき 六四後編世家に 「この時唐軍険を渉り, 節道を以て難となす.達関より以西の民,転債に苦 しみ, つねに一石を費やして一斗を致 す能わず. 道路嵯怨す.」 と見えているのでも判るように, 後唐軍 の食糧補給 の鞭 難をきわめ, 而も費用をかける割には運搬の実 があがらず, 遂には民の協力が得. られなくなり, 石敬塘軍の撤退, 所在の守将の城を棄てての遁走も成程と思われる. か る事態 を 憂えた明宗は 親ら現地に赴いて戦局の拾収を図 らんとした折 しも, 重誘が敗戦の責任を取り, 行か んことを請い, 許されて 赴いた, 関西の 人民は重誠の来るのを聞いて皆 大に驚いたが, 重誠 が日に数百里を馳 せるの には遠近の 人民は更 に驚骸 した. かれは糧運を督 励して日夜やまなかっ たので, 道路に倒れる者数を知らずという有様であった. たまりかねた鳳期節度使朱弘昭が 「重 」 と上奏したり, 宣徽使孟漢 誠怨望せられ, 行営に至らしむ べ からず. 恐らくはそれ事を生ぜん. 填が行営より使して帰り, また西方の人民の震墜の様相を述べて, 重誠の罪悪を力説 したりした. ので, 重誠はまもなく洛陽に召 し還される ことになったが, 途中でかれは河 中節度使を 拝し,間も 5 ) 5 なく これを辞任 して河中に至り, その地で異志ありとの理由で 河中節度使李従蹄に殺された. この頃 になって漸く明宗は 孟知祥らが四川地方において叛乱を起したのは, 安重誠の失策によ るところ大である ことを覚 り, 重誠が殺される と直ちに西川進奏官蘇原・進奉軍将 杜 紹 本 を西 方の成都に帰さ して, 知祥の甥姪で朝廷に 仕えてし・る者は皆無事であることを 伝 え さ せ, かれ. を招諭させたところ, 知祥は安重誠が罪を受けて 殺されたのにもか わらず, 後 唐 王 室 の孟氏 一族を待遇することの厚いのを深く感謝すると共に, 使を 董蹄の許にやって, 共に洛陽に赴き上 表 して明宗にその叛乱の罪を わびようとしたが, 董蹄の方では, ‐ 成程孟知祥の一族は幸にも洛陽 -5 4-.
(14) . 五代における後編国の成立過程について. で健在であり, そのために王室に帰付するこ ともよかろう. しか しわが家では子の董光業も既に 殺されていることであり, どうして帝に罪をわびる気持になれ ようかと, 知祥の誘いには乗らな かった. そこで知祥は三度使を珠の許 に赴かせて, 説得に努めたが, 蹄の方ではこれに応 じなか った. この ような事情 から知祥と瞳 との関係にまた溝を生ずる よう になった. 観察判官 李臭が更 に剣祥のために瞳に説いたが, 瞳は益々知祥が 自分を欺かんとしていると疑い, 怒って激 しい言 葉で異に迫った. 冥は蹄に対する説 得もこれまでと思い, 帰って知祥に勧めて蹄を攻めさせた. 然るに蝉が先ず知祥の将を漢州に襲って破ったので, 知祥は行営馬歩軍都部署の超廷隠を遣わ し 兵3万を率いてこれを防がせ, また知祥自身8千の兵を率いてこれを撃ち, 鶏距橋 に 陣 をとっ た. 知祥は瞳の降卒を 得て, これに錦泡を着せ, 書を持たせて蹄を招 降させたが, 瞳は 「事既に 日中に ここに及ぶ. 悔いな し, 」 と述べて決戦の意を示 し, 障の軍士も皆騒いで 「徒にわれわれを・ 曝 し, 何故速に戦わないか. 」 と決戦を迫ったので, 蹄は即刻軍を指 揮して戦ったが, その偏将の 張守進が形勢不利と見て知祥の許に来 降したのをきっかけにして, 瞳の軍 は大敗した. 董瞳は驚. 腐橋を過 ぎ, その子 光嗣をさ し招き, 降伏 してその家族の保全を図らしめんとしたが, 光嗣 は 」 と父の言をきかず, 瞳と共に 「古来父を殺 して命を全う した子はいない. 寧ろ倶に死に就こう.. 遁走した. 知祥は趨廷隠を遣わ しこれを追跡させたが, 瞳は逃げて梓州に到着し, 指揮使播調に 殺され, 光嗣も自殺 した. かくて知祥は 東川を併有することになった. 董瞳が既に死んだため, 知 祥は洛陽に赴き明宗に謝罪する障害がなくなったのにも拘らず, 遂 にこれを果さなかった. こ れは恐らく東川併有後, 洛陽に赴けばその留守中に瞳の降将らの再起を図るのを憂えてのことで あろう. 知祥のこの態度を見た枢密使の苑延光は 「かれが既に東川の董蹄を破って全碕に拠るこ とができるに至ったといっても, その部下の土卒は皆東方の人々であり, かれはそれらの人々が おど 郷里に帰らんとして, 事変を起すのを恐れている. また朝廷の威光によってその衆を威さんとし ているので, 陛下は意を屈 して, これを招撫 しなければ, かれもまた洛陽に来て謝罪 しないであ. ろう. 」 と明宗にその入京を促さ したが, 明宗は 「知祥はわが知己で, 安重講のために この ような 」 と明宗は延光の内心 事態に立ち至った. 知己を撫するのに どう して意 を屈することがあろうか. を洞察 しえないでこれに従わなかった. ところで李克用 の末弟に克寧という者がおり,この 人の妻 孟氏は知祥の妹である. 克寧が荘宗と太后を執えて後粟に降らんとする陰謀が露見して殺され, 孟氏は兄の許 に帰った. しか しその子の李存環は留まって後唐に仕え殿頭供奉官となっ ていたが 明宗は即刻存 寝をその母の許に帰省させ, 知祥に詔書を与えてこれを招 諭させんとした.知祥は両 川地方を併 せたので, 超季良を武泰軍 留後とし, 李仁聾を武信軍留後 とし, 超延隠を保寧軍留後 6 5 ) かく とし,張業を寧江軍留後とし,李肇を昭武軍 留後としてそれぞれその管内を統治 せしめた. 7 ン を以て統治を行なわんことを請うたが, その議がまだ決 て季良らは知祥に対 して 王を称し墨制5 定しないうちに存壕が成都に到着した. 知祥は存 裏を見て侶慢な態度を示 したが, 9月存壊は 使. 命を果たして洛陽に帰任 し, その際知祥の上表を携行 した. その上表には超季良らをそれ ぞれ五 鎖の節度 使に任命 し, その他の刺 史以下の地方官は 自らの裁 量により任命できるように請い, ま た自らを濁王に封ぜんことを 請い, その上妻の福慶公主が既に正月死去 した旨を述べてあった. 明宗はこれがために哀を発 し, 閤門使劉政恩を宣諭 使として成都に赴かせたが, 政恩が復命のの )2月 西川進奉 使の朱幌は洛陽の中興殿 933 ち知祥は初めてその将朱幌を来朝させた. 長輿4年 ( において明宗に謁し, 知祥の近況を尋ねられ, 日を改めて知祥に対 して検校大尉兼中書令行成都. ヂ剣南東西両川節度管内観察処置統押近界諸蛮兼西山八国雲南安撫制置等使の官が 与えられた. 4月 になって嘗て工部尚書であった瞳女紀が正街命 使として成都に来り, 西川節度使の孟知祥を - 55 -.
(15) . 田. 中. 整. 治. 濁王に封 じた. また初めて制を下 して超季良ら5人をそれぞれ節度使 に任命させた 知祥が濁王 , に封ぜられた濁地方には, さきに前編 の征討に従事 してこの地に駐屯せ しめられた5 千の兵 安 , 重誠が李厳 の死に懲りて中央より派遣 した 刺史らの親衛隊, 更 に夏魯奇・董埠の将兵 を含めて数 万を数える後 唐の軍人を擁 していたが, 知祥はこれらの将士に 衣食を厚給 し また田宅を与え , , てかれらの苦労に報い, 更にかれらの郷里に残 した家族をこの地に呼び寄せんとして そ の許可 , を明宗 に請うたが許されなかった. 11月明宗が大内 の雅和殿で死んだが, 時に年67才であ った. その在位 した8年間は豊作がうち. 続き, 五代 としては比較的平和な時代 であった. 明宗の第5子従厚 が位を嗣 ぎ これ を慰帝とい , うが英明なる明宗もなくなり, 翌年閏正月, 知祥は濁 の将吏の勧進 により成都 において皇帝の位. に即き ● , 国号を濁 と称 した. 普通王建の前編に対 して知祥の建てた国は後編と呼ばれる. 2月帝 は武泰節度使 適季良を司空とな し,・門下侍郎同平章事を兼 ね しめたが かれは事実上 の宰相の位 , にあり, 後編の左命の臣とな った. 次いで中門便の王処回を枢密使とな し, 李仁撃を衛聖諸軍馬 歩指揮使に任じ,超廷隠・張業をそれぞれ左右匡聖歩軍都指導使に補 し, 李果を翰林学士と した . 3月 に入ると, 明宗の養子で風潮節度使の路王従珂が鳳朔 で叛し, 兵を挙げて洛陽に入 り 帝を , 追い自ら帝位 に即いた. これが末帝である. 感帝は王思同らを遣わ してこれを討たせ たが 思 同 , の兵敗れ, 山南西道節度使張度剣・武定軍節度使孫漢部は共 に欺を孟知祥 に送 ったので 知祥は , これらを 厚遇 し, かれらにもとの如く節度使を授けた. かく して知祥はいながらに して山南の地 5 3 ) 6月 度釣らは成都 に来って知 祥に謁 方を 領有することが できた. 4月知祥は明徳と改元した. 見 したが, 知祥はかれらの ために労苦を福い宴を催 し, その席上で皮剥 が筋を奉じて起ち 帝の , ために寿をな したとき, 知祥の腹をもつ手が緩み, それをもち上げるこ とができなかった 前年 . よ り患っていた風疾 が再発 したのであるが, 遂 に死去 した 時に年61才 在位7 カ月 で あ っ た . , .. ぢよう. .. 間もなく皇 太子仁賛が名を誕と 改め 位を嗣いで皇帝とな った. これが後 濁の後主である 知祥は . 訟 して文武聖徳英烈明孝皇帝といい, 廟号を高 祖と称 し, その陵を和 陵 という . 6. あ. と. が. き. 以上において, 西川節度使の孟知祥が成都 に拠り, 後編国を建てる に至るまでの過程を, 主と して後唐の前編征討および後唐王室と成都の孟知 祥との関係な どに重点を置いて考察 したが, こ. れは筆者の後編文化研究の序説 ともいうべきものであり, 後主孟誕時代における後 濁女化の種々 相乃至 は後編 人の生活 についての究明が次の課題となるのである. (1963. 9. 29). 註. 1) 孟知祥の字は- 日五代史巻一三六倦偽列伝には保蕎とあり, 新五代史巻六四後編世家には保胤とあり, 呉任 臣の十国春秋巻四八後編高祖本紀には保育Lと見えている. 2 ) 孟方立は刑~州平郷の人で軍卒から身を起し, 勇力を買われて隊将となり, 後刑渚節度使に至った人である が, その伝は新唐書巻一八七, 旧五代史巻六二唐書, 新五代史巻四二雑伝に収められている. 3 ) 新五代史巻六四後編世家 4 ) 冊府元亀巻二二0f 替偽部才芸 5) 五代史記注巻六四上後濁世家に引用する注 6) 街内都指揮便は五代における節度使の牙内の軍隊を指揮する武官で頼る重職であったが, これについては 周藤吉之氏 「五代節度使の支配体制上」 (史学雑誌61編4号)15~22頁に説かれている. 7) 五代会要巻二公主の条には後唐武帝の長女填華長公主が孟知祥に降嫁したと見えている, 武帝は李克用で あるから会要では李克用の長女となっている. 8) 教練便は唐代の節度使の管轄下にあって, 兵法を解し, 弓馬を能くするものを選んで充てた軍事を掌る重 職であったが, 五代においても同様であった, 前掲周藤氏論文13~15頁参照 -5 6一.
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