台湾総督府の南洋調査と英領マラヤのゴム栽培
9
0
0
全文
(2) 島ペナンのゴム園を視察した(6)。. 表1 『台湾時報』掲載視察報告一覧 視察時期 視察者 1911年 総督府技師 川上二三. 行き先. 邊羅,爲来,ボルネオ,. 目 的. 熱帯地方の植物調. Zレベス,牛丼. ク. 1913年(5ヵ月10 総督府技師 金平亮三. 香港,鳥来,ボルネオ,. 林業調査. 冝j. Zレベス,ニューギニア,. 范・賓 1913年. 理学士 小野孝太郎 香港,新嘉妓,セイロ 動植物調査 繩w士 藤田. 刀C緬旬,ジョホール,邊. ?C爪喧i,比律賓 1914年(20日間). 1914年 1916年(2ヵ月). 爪畦の富源・住民 爪畦島内 海事官 保木利吉 総督府技師 金平亮三 南洋群島 新見領地視察 比律賓,ボルネオ,セレ 南洋事情調査 新渡戸稲造 xス,爪畦,新憎憎,. シ土,香港 1917年(160日). 加福豊次. 香港,マニラ,ダバオ,メ. _ン,ペナン,新嘉壊,. 南方邦人の発展状 オ調査. ワ畦 (1918年掲載) (1918年掲載). 総督府事務官 阿部湧 比律賓,ボルネオ,セレ 南洋邦人の発展,財 総督府警視 梅谷光貞. xス,ニューキ’ニア. ュ調査. 比律賓,爪畦i,ホ’ルネ. 南洋華僑調査. I,セレベス,スマトラ,ニュ. [ギニア. (19侶年掲載). 総督府秘書官 鎌田正 比律賓. 1919年 ’. 三井物産 三島増一. (1920年掲載). ミ. 総督府技師. 南洋交通事情調査. 新嘉壊,舌面,ペナ 各地の産業及び工 刀Cカルカッタ,コロンボ. ニの実状. 馬来,比律賓,ホ’ルネ. 南洋の風俗,邦人発. I,戸締. Wの状況. 出典:『台湾時報』掲載記事より作成. このような視察報告が行われる一方で,総督府は,南洋協会や華南銀行がまとめた調査 結果を南支南洋調査報告として出版した・。例えば,1917年に出版された『馬来半島ゴム 栽培事業報告』は,出典は明らかにされていないが,南洋協会がイギリス殖民省の資料を. 活用し,英領マラヤのすべてのゴム栽培事業を網羅した貴重な資料である。1919年出版 の『馬来連邦,附海峡植民地』は,イギリス殖民省通報局の書物の翻訳で,英領マラヤで 事業を開始する者に指針を与える内容であった。. 以上述べてきたように,台湾総督府は,「南洋」視察の成果は講演や報告となって公表 する…一方で,「南洋」への経済的進出の基礎データを蓄積していった。英領マラヤのゴム. 栽培は,「南洋1の有望な産業の1つと位置付けられ,着目された。 ∬ 英領マラヤのゴム栽培と「邦人」企業. 一43一.
(3) マレー半島でゴム栽培に着手したのはイギリスで,1895年のことであった。その後, ヨーロッパの企業がゴム栽培に投資し,大規模なプランテーションが馬来半島各地に誕生 した。マラヤへの移民が日本国内で奨励されたのは「1890年代で,過剰人ロの解消と日本. 製品市場の開拓をねらった政策の1つであった。このマラヤ農業移民に関しては,すで に多くの研究成果が見られるので(7),ここで}ま台湾総督府の調査報告に依拠し,ゴム相 場が急落した後の日本人経営ゴム農園の推移を中心に追っていきたい。・. ブラジル原産のゴム栽培がなぜ馬来半島なのか。総督官房調査課発行の『馬来半島ゴム 栽培事業調査報告』によると,馬来半島のゴム栽培はブラジルのゴム栽培に比較して,気 候,ゴムの生育,労働者の賃金,市場,生産費などの点で有利である。中でも労働条件に その差異が大きく,馬来半島の場合は「労銀四丁ク且ツ労働者ノ供給充分ニシテ労働ノ効 果自ラ秩序的」で,「技工者モ亦不足ナラス」とある。また,ブラジルたとってマイナス. 要因の1つにゴムの加工法が稚拙であること,そして「其積出絹平ル困難ニシテ積出港 タルマナオ又ハパラヨリノ距離大層シテ運賃亦僅少ナラス」と輸送の問題があることが指 摘されている。このように,ゴム栽培においてブラジルより条件の良い馬来半島では, 1900(M33)年に4トンの産出量であったものが,10年後には8,200トン,1915(T4)年に は107,86アトンにもなった(8)。. 日本人のゴム栽培に関しては,馬来半島で1902(M35)年,笠田直吉がスレンバン地方 で小規模ながらゴム栽培を行ったのが最初である。その後,蔦田顯理,中野光三がジョホ ーー. 汲ナゴム栽培に着手し,三五公司の守門澤直哉がベンゲランでゴムの大規模経営を行っ. た(9)。1910(M43)年頃から1917(T6)年頃の好景気時代にかけて,三井・森村などの企業. がゴム栽培事業に多額の投資をしている。しかし周知の通り,1917年に施行された「馬 來:L地払下げ禁止令」(10)と1922年施行のドスティーブンソン生産制限令」(11)によって,. 個人農園はもちろん日本人企業も大きな打撃を受けた。また,ゴム相場の急落も,大きな. マイナス要因であった。このような状況下であったため,1925∼1926年のゴム好況時に おいても,日本人のゴム園は数多く外国人に売却された。その総面積は,大小農園合わせ て45,000エーカーにも達した(ユ2)。しかし,三五公司,馬来公司,南学公司,熱帯産業. 株式会社,南洋護護株式会社などの大農園を始め,資本金30万ドル以下の中小農園でも 残留するものは少なからずあり,その総投資額は3,500万ドル,ゴム園の総面積は93,136. エーカーほどで「南洋」全体の約47%であった。すなわち,馬来半島のゴム栽培は,依 然として「南洋」における日本人事業の中心的地位にあったといえるだろう。 表2は,1925(T14)年から1936(S11)年までの,大小別農園数の推移と植付面積を示し. ている。この表から,1930年代に入って,中小農園数が急速に減少したことがわかる。. 一般的に,小規模ゴム農園であっても,1エーカー当り400ポンド前後の生産量を有する ゴム園であれば,生計の維持は可能であると考えられていた(13)。にもかかわらず,小規. 模ゴム園が廃園または売却に追いこまれた原因は負債にあった。高利の借入れによって買 い入れた新規ゴム園の場合,直ちに収益をあげなければ負債は増す一方である。不幸にし 一44一.
(4) て採集に数年を要.する若木園の場合は,数年間収益がない上,常に手入費の支出を要した。. ゴム価が値下がる中で,ゴム園の経営費を要するという状況は,新規ゴム園の存続に極め て深刻な事態をもたらしたのである。. 表2英領マラヤの大小別農園数の推移 .1930年 1925年1 1928年 7 6 6 1000ha以上 4 4 4 500ha以上 16 16 17 100ha以上 93 112 103 100ha未満 植付面積合計(ha). R0,301 戸. 25,522. 26,886. 1935年. 1936年. 6. 13. 4. 3. 8. 57. 19 61. 29,451. 28,608. 出典:南支那及南洋調査121,168,227,238『南洋各地邦人企業要覧』 『南洋年鑑(第2回版)』(いずれも台湾総督府発行)より作成. 最後に,馬来半島のゴム園経営の状況を主要都市別に見ていきたい。図1の英領マラ ヤの地図で明らかなように,馬来半島の日本人経営ゴム園は,ジョホール州,ネグリ・ス ンビラン州,スランゴール州,ペラ州と,馬来半島の西側に集中していた。1930(S5)年 において,英領マラヤの中で日本人のゴム回数が最も多いのは,ジョホール州であった.. 明治末期か5開園している中小規模(pゴム農園がその中心であるが,経営状態のよい大規 模なゴム農園も存在した。鉄道沿線で交通の便のよいうビスにある中央ジョホールゴム園. はその1つである。このゴム園は,「旧聯合馬回護護株式会社」関係の有志58名の出資 で成り立っており,出資金は30万ドルに達した。‘ 獄ハ積は1,397エーカーで土壌もよく,. 中国系の苦力を70名使用した,将来性のある.ゴム園として総督府な高く評価していた (14)。. ネグリ・スンビラン州の首府スレンバンには,約160名の日本人が生活していた。職 業別に見ると,ゴム栽培業者炉最も多く小農園主が14名,ゴム栽培会社が1社存在した。 スレンバンはジョホールと並んで,日本人栽培業者が活躍した土地であった。1921(T10). 年にこの地に資本金500万円で設立された聯合馬来護護株式会社は,当時の小農園主が 連合した会社で,1927(S2)年に株式会社馬来護護公司に合併した。馬回護護公司は,資. 本金470万円,総面積21,668エーカーで,総督府は「南洋に於ける邦人栽培事業界の一 方の雄」と,絶賛した。しかし合併の結果,所有ゴム園は28ヵ所に分散してその分諸経 費がかさみ,「ゴム不況下においては資金難に悩まされることとなった。一方1合併に参加 せず個人経営を続けた農園は14で,いずれも負債をかかえた状態であった(15)。. ペラ州の首府タイピンは,人口2万余の古くから開けた都市で,都市中心部と郊外に 訳70名の日本人が在留していた。この地方のゴム園は,スレンバンなどと比較して,著 しくゴム樹の発育が悪く,園の売買もままならない状況であった(16)。. ヨーロッパ・アジア航路の寄港地として発展した海峡植民地ビナンには,日本人が178 名在留していた。ここで注目すべきことは,台湾人巫文造,巫三下兄弟がゴム園経営で活 躍したことである。彼らは,ゴム園椰子園経営だけでなく,書店,薬房,貸家業など広範 一45一.
(5) 囲の事業を営んでいた。しかし,ゴム不況下においては,巨額の負債をかかえ1ゴム園と 椰子園は担保として押さえられる結果となった(17)。. 以上述べてきたように,馬来半島における日本人経営ゴム園は,一部の大規模ゴム園を 除いこて・経営困難な状況に置かれていた。とはいえ,ゴム栽培事業は「南洋」では』,1930. 年代に入ってもなお,日本人の事業としては中心的な位置古劫ており,日本人の「南洋」 発展の基礎はゴム産業であったといえるだろう。. 1: 1,1玉α000. ,♂’、. ノ、ん㍉褐 ノ ザ. / 比.、、.ンー. ㌧二. ン. / 労 ノ』,ノへ 1>. ン ケ: 〆. ’. ラ 1. 卜 ン レ: 』}しン’ゴ又. ノ 夕轡. 糖イ. 魏. 》物』…ン ・論、ン.塗 ズ へ. 三ご1;. /」・. ご. 琴晦∴. ク門り. 、. ヤi.画. ,ウブ. Y》\鱒 ハ 瀕1. ぺ》,.シ. .ノ. ‘. 凸. ●.\ジ即 團. 。. し6. 獲. ●はゴム園 ○は椰子園. 図1 英領マラヤの日本人経営ゴム園分布 出典:台湾総督官房調査課『南洋各地邦人栽培企業地図』(1929年)及び台湾総督官房 調査課『南洋事情講演集』(1935年)より作成 一46一.
(6) 皿 日本人のゴム栽培事業に関する台湾総督府の見解 「南洋」視察に出かけた総督府の技師や事務官の報告では,「南洋」各地のゴム栽培に 対する評価は高いものであった。例えば,前述の川上は丁南洋視察談」(18)で次のように 報告している。. 馬来半島は実に理想の護’譲栽培地であると思ひます。気候が非常に温熱で,雨量が適當に配 布されて居り,傾斜地が多くて排水に十分で,それから強い風が無い無風帯であること,,労 働者を得ることが便宜で,詰り支那人や印度の労働者を得るにも便利で,運輸の便も都合が 宜い,斯う云ふやうな色々の点から馬来半島は護譲の栽培に適して居る。. つまり彼は,馬来半島は気候,土地,労働者,交通の便,事業上の都合などすべての点に おいて護護の栽培に適していると絶賛している。. しかし,日本人によるゴム栽培事業に関する評価は,大正初期の段階から決して高いと はいえないものであった。川上は,先の講演記録の中で,次のように述べている。 日本人の経営して居る栽培地は,土壌の分析をして見ると比較的地力の乏しいとのことであ るが,心事は這這の栽培に取っては絵程考へなければならないことと思われます。今日護護 の栽培地を見ますると,成育の状態から見まして,鯨り絶せても居ないやうに思ひます。け れども肥料問題は既に各栽培坤の間に起って居る。一体馬来某他護護栽培上の技術は極はめ て混沌たるも⑱でございます。浸れなら確かであると云ふ学説の下に,確かめられた問題は 割合に少ないと思ひます。. 邦人の護護栽培は地力,技術の点で問題があるという指摘は,川上だけでなく金平,小 谷(19)など他の視察者からの報告にも見られた。、1925(T14)年から翌年にかけて日本人の. 事業調査のため、4ヵ月をかけて「南洋」各地を訪れた総督府拉師色部米作は,その原因 を次のように推測したρ 大膿に於て,馬来半島に於ける日本人め護護園は,土質の上から見ますれば,先づ中の下と 申して良いと思ひます。(略プもう少し良い所を撰んで企業をやったなら有利な仕事ができ るものをと云ふ感じを起させる土地が論うございました。恐らく,欧州戦時から戦後にかけ て,経済界好景気の時に,何でもよいから買ふと云ふ様な訳で,充分調査もせずに掴まされ たのが大分ある様でございますから…(20). 一方,華南銀行副総理の有田勉三郎は, 日本人の馬七半轟で所有して居ります護讃園は大忌良いとζろは非常に少なく経営地信新嘉 披のジョホールバル方面で此処は素より馬来半島の中で比較的地味の良くない所で,若し ジョホールバルの投資金を以て馬来半島縦貫鉄道沿線にでも投資を致しましたら,、恐らく今 日に於て非常に立派なものになり得たであろうと考へるのであります。遺憾乍ら鉄道沿線の 護三園は大腫に於て皆英吉利人の手1こあります。. と,ゴム栽培に最適の地はイギリスに押さえられていると結論した(21)。. このように,」地力や技術面でのハンディキャップを背・負っている地域への投資には悲観 一47一.
(7) 的な見解をもつ者が多かった・それに加えτ「馬来土地払下げ禁止令}や『「スティーブン. ソン生産制限令」が施行され,小規模ゴム農園が打撃を受け,大資本に支えられた栽培企 業だけが事業を継続できたことは,2章で述べた通りである。. やがて講演会や報告会では,馬来半島にかわる投資先として,英領示ルネォや十目東イ ンドが示されるようになった・色部は,視察報告講演会で,「南洋」における日本人の農 企業について,①‡地の選択,②環境,③事業経営方法,④栽培作物の種類,,⑤資金,⑥. 労働条件という6つの観点から地域別の状況を報告した。色部は,これらの観点から英 領マラヤのゴム栽培を検討して,次のタうに述べている。まず,土地の選択については先 に取り上げたように,「其地味癖薄」であって,投じた資金や努力が報われないポ事業経 営方法についても,雑貨商や薬売りなどがゴム園を経営してもゴム栽培事業に無智である ため失敗はやむを得ないとしている。さらに「馬来半島に於て}ま護誤一式のものが多く,. 護護も麻も共に価格の変動の激しいもの工であるので,「小資本は小資本相当に,大資本 は大資本相当に危険が伴う」と,単一栽培がゴム園経営の朱敗の一因であることを指摘し ている。最終的に色部は,「南洋」全体の約50%の「エステ野ト」が存在する馬来半島を 捨て,スマトラに発展するべきである.ことを指摘した(22)。それでは,’総督府は視察者. の指摘を受けて,日本人の新たな進出先を示したのだろうか。. 表3 南洋各地栽培企業可能性及現状一覧 項目. 土地. 比律賓. 仏領インドシ. 英領マラヤ. 英領ボルネオ. 蘭印に次ぐ農. 中部の河川. 地力貧弱. k企業地. 地力貧弱. ャ域は良い 西海岸は良. 便利ではない 爪畦スマトラ. ヌ好な熱帯. 良好. 可罰. 便とは言い. M人の企業. 結栫E交趾支. ?「。農耕. @ 地. 運輸交通. 幽趣. 適当. nダバオは」・ 、. ゚を除き不便 nは牛車. ンばネ便. 大部分輸入. 自由移民の. 束哺泰・交趾. 労働力. ?痩ツ. x那への苦力 オ致には費用. 金融. 皆無に等し. あるが邦人に ヘ・ 欠く. 土地政策. 「. 闡シは ’. 輸出税.. サ糖,煙草. 麻,コブラ,. ノ暑考. 邦人企業数 主用栽培物 投資額(千円). @は台率. 米,とうもろこ. 29,606 15,586. s便. 大部分支那人 爪畦は労働. ワ畦人の契約 メ自給 O領は爪畦 ゥ’ 入. 機関不備. 拓殖銀行で’金融通 邦人には便』 悪し @欠く 確実な事業 確実な事業家 確実な事業. ニに対して土 vこ対して土地 フ払下をする nの払下を. ニに対して土. 5∼15%の輸. 6∼箆%の輸. ゴム,椰子,. コ ラ,林産. コブラ,胡椒. Rブラに課税. ィに課税. ノ課税. キる. 酒,煙草,石. @入税. 福Q外は無. 米に課税. オ,棉花に課. 48. 麻,椰子. フ一部を除き. 齬ヘ. 外国の企業 市街地は外国 外国人事業 ニを歓迎しな lにも土地所 ニを歓迎す 「私有地 L権有。他は 驕@ 外国人 フ売買制限 Fめられない ノ対する土 ネし @ の 米国品は無 仏国品は無税 5∼6096の. 輸入税. 総面積(ha). Dだが東海. 南洋中最も Kしている. 1. 176「. 60. 23. .138.. ゴム,椰子. 米. 椰子,ゴム. 1 40296 35,113. nの払下を キる. 23,657 15,630. 102 ゴム,椰子,. ロF. 114,750. 33046. 出典:『南洋年鑑(第2回版)』(台湾総督府,1932年)より作成. 表3は,台湾総督府が1叩0年までの「南洋」調査・研究報告を.もとにまとめた栽培企 業の可能性を比較レたものである。、総督府はユ930年の段.階で,、:日本人企業の最も多い英 一48一.
(8) 領マラヤについて,農地の地力と資金調達の金融機関に問題があることを指摘している。. しかし,土地政策や運輸交通,労働力の確保に関しては,ほぼ問題なしと捉えているげ金 融機関に関して総督府は,次の’ように述べている。 南洋に於ける邦人の企業は,欧州戦争の好景気時代,各事業家が必ずしも銀行の後援を待たな い』でも事業し得べき事情にあった時,開始されたものであるから企業目当の特殊金融機関とい. ふやうなものは考へてるなかった。財界の大反動に遭遇して始めで其の必要を痛感するに至っ た様な次第である。収益を挙げる迄には相当の手数を必要とする熱帯農企業に就ては,どうし ても長期低利の資金を融通する特殊金融機関の設置が必要である(23)。. 拓殖銀行が存在し拓殖事業に好都合な金融状況の「南洋」の植民地は,・蘭領東インドだ. けであった。他の条件を比べても,総督府は。蘭領東インドが日本人企業の進出先として 最も適していると見ていたと考えてよいだろう。しかし,他の「南洋」植民地への発展を 断念したわけではなかった。というのは,南方地域への経済的発展の方向性が,1935(S10). 年に開催された熱帯産業調査会において示されることからも明らかである∵少なくども 1930年の時期に,総督府はゴム園経営について,「此の上は・個人…会社の利害に私せず,. 全然事業本位に立脚し,最善の方法によってこの危機を脱し,邦人南洋発展の基礎をなし てみるこの護謹産業が,安定する日の近きことを切望して止まない。」(24)と述べ,苦境に. 立たされているゴム園経営の再建を促していることから,馬来半島のゴム栽培事業も依然 として総督府の経済的南進の視野に入うていたといえよう。 おわりに. 台湾総督府は,総督官房内に調査課を設置して以来蓄積した膨大な資料により,1930 年代には,「南洋」各地への日本人企業の進出に関して一定の評価を示すことができた。 この「南洋」調査・研究の成果を基礎資料として,・1935(S10)年,総督府は熱帯産業調査. 会を開催し,総督府が描いた南方進出の構図を具体的に実践しようとしたのであった。. 今後は,台湾総督府が,英領マラヤだけでなく南方地域全体をどのように捉えていたの か,日本人企業の進出に着目して明らかにするとともに,総督府の調査・研究成果が熱帯 産業調査会そしてその後の拓殖事業に,どのように引き継がれてていったのかを検討した いと考えている。. (」) 内田嘉吉1南洋に発展せよ」(『台湾時報(東洋協会)』第55号,1914年). 〈2) 下村宏「大いに旅行すべし」(『台湾時報(東洋協会塑第100号,1918年) (3) 拙稿「日本植民地期台湾における『南洋』調査活動の展開」(『現代台湾研究遍第17号,1999 年). (4) 川上瀧弥「南洋視察談」(『台湾時報(東洋協会)』第34号,1912年) 一49一.
(9) (5) 金平亮三「南洋視察談」(『台湾時報(東洋協会)」第49号,1913年). (6) 加福豊次「南洋視察談1(r台湾時報(東洋協会)』第104号,1918年) (7)清水元ヂ戦前期シンガポール・マラヤにおける邦人経済進出の形態」(『アジア経済』・26−3,. 1985年) 蓑彩菱「マラヤにおける日本のゴム・鉄鉱投資」(杉出伸也編『戦間期東南アジアの経済摩. 擦』同文館,1990年)他 疋田康行編著『南方共栄圏』多賀出版,1995年『 (8) 南洋協会編r馬来半島護謹栽培事業調査報告』南支那及南洋調査12 1917年,pp.2−9 (9)台湾総督官房調査課r南洋年鑑(第二回版)』1932年,p.32 (10)50エーカー以上のゴム園の取得を禁止するというもの。ただし,イギリス人,マラヤ入, 英連邦とマラヤ連邦州で登録されている企業とマラヤに7年以」二居住し,今後も居住の意志が ある者は除外された。 (1D低迷するゴム価格の維持を目的として,ゴム生産を制限したもの。 (12)台湾総督官房調査課r馬来半島に於ける邦人経済事情』南支那及南洋調査190 1930年,pp.2. −3 (13)前掲『馬来半島に於ける邦人経済事情』p.10. (14)前掲r馬来半島に於ける邦人経済事情』pp.18−19 (15)前掲『馬来半島に於ける邦人経済事情』pp.20−26. (16)前掲r馬来半島に於ける邦人経済事情』pp.35−37 (17)前掲『馬来半島に於ける邦人経済事情』pp.37−41 (18)(4)に同じ. (19)小谷淡雲「南洋に於ける邦人の企業」(冒台湾時報』1925年2月号) (20)台湾総督官一房調査課『南洋に於ける邦人の企業』南支那及南洋調査118 1926年,p.16 (21)有田勉三郎「南洋視察談」(『台湾時報』1929年1月号) (22)前掲『南洋に於ける邦人の企業』pp,53−59 (23)前掲『南洋年鑑(第二回版)』「p.35 (24)(23>に同じ. 一50一.
(10)
関連したドキュメント
諸君には,国家の一員として,地球市民として,そして企
オープン後 1 年間で、世界 160 ヵ国以上から約 230 万人のお客様にお越しいただき、訪日外国人割合は約
⑹外国の⼤学その他の外国の学校(その教育研究活動等の総合的な状況について、当該外国の政府又は関
明治初期には、横浜や築地に外国人居留地が でき、そこでは演奏会も開かれ、オペラ歌手の
事 業 名 所 管 事 業 概 要 日本文化交流事業 総務課 ※内容は「国際化担当の事業実績」参照
HW松本の外国 人専門官と社会 保険労務士のA Dが、外国人の 雇用管理の適正 性を確認するた め、事業所を同
当事者間に存在するのは当然に債権関係のみであって、売主は買主に対し
○土地建物売買の制限(都市計画法第67条) ・事業地内の土地建物を売却する際は事前に、予定金額、買い主