トーマス・マンのイタリア体験(II)
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(2) . 北海道教育大学紀要(第一部A). 第 20 巻 第 1 号. トーマス. ◎. 昭和44年7月. 1〕 マ ンのイ タ リア 体験 〔1. 岡. 光. 一. 浩. 北海道教育大学岩見沢分校独語独文学研究室. Kazuhiro OKAM 18U ; Die i l lebnisse ta ieni schen Er Tho as M[anns ] ば l. にJ. 1912年 3月, ス イ ス の 高 地 ダ ヴオ ス に, 胸 を 病 ん で い た 妻 を 残 して き た Mann は同年 5月 半ば. か ら再び約一カ月 間当地に滞在する。 その夏, 彼は芸術的にも, 思想的にも第一次世界大戦前の. Mann 文 学 の ひ と つ の 到 達 点 と も見 られ る “Der Tod in Venedig” を 表 わ し, 1913年 7月 に な ‘Der Zauberberg“ を 書 き 始 め る し か し 一 年 後 に は 第 一 次 世 る と, 後 に 彼を 一 流 作 家に し た ‘ 。. 界大戦が勃発したため, 創作活動を中断され, 19 15年秋には 「最後の勇気をもって貫行された,. i- ロ マ ンチ ッ ク な 市 民 性 の 大 き な 退 去 戦 と し て」 (XI ) の ”B獣rachtungen eines Unpolt .S .129. schen” を書かねばな らぬ破目となる。 デモクラシーを徹底的に抗撃し, 非難する保守的なこの書 は 「発表には最も都合の悪い, むしろ不可能であるとさえ考え られる」 (XI ) ドイ ツ敗北 。S .129 ‘D3 の 年, 1918年 に 発表 さ れ る。 そ して1919年 4月, 再 び ‘ r Zaub3rberg” に 着 手 し た Mann は. 「中立国や, 大戦中は敵であっ た国々への国境が解放され, 戦争によ って幾分ずつ小 さ く な っ た, 圧縮されて緊密にな ったヨーロッ パの全貌が兵火の臭い煙の後に見 られるようになると国外 へ の 講 演 旅 行」 (XI .S .132) を 始 め る よ う に な る。 1924年 秋, 「妻 の 相 手 と し て, こ の ダ ヴ オ ス の 病 的 な 環 境 の も と で 過 し た 3 週 間 の う ち に 何 か. 特 別 な 印 象 を 持 つ よ う に な っ た」 (XI 2年の歳月を費して, その強く心を奪わ .S .604) Mann は1 ” れ た 印 象 に 想 を 得 た, Der Tod in Venedig“ と は ユ ー モ ア に 豊 ん だ 点で も, 嵩 の 点 で も 対 照 的 ‘餌曙 Za楓めerber ” を 世 に 出 す が 彼自 身 の 意 に 反 し て1 ) な‘ g , , こ の ロ マ ー ソは 大変 な セ ンセ ー. ショ ンを巻き起す。 彼がこの膨大な作品において描くのは主人公 Hans Castorp の生長発展で あ るが, この 主人公はよく言われるように 「単純な」 (イ ロニ ッ ツュな意味の) 青年で, 一見、「き )」 人 物 で あ る 我 々 は こ の ロ マ ー ソ の 冒 頭 の 章 の わ め て 広 い 範 囲 に わ た っ て 作 者 と 一 致 す る2 .. を読む場合, 主人公と従兄弟 ioachim Ziemssen との出会いに, 食事風景に, 療養所 の雰囲気に, 主人公の出くわす陰気な事件に, 作者の妻との再会を, 第一次世界大戦前の雰囲気. Ankunf t. を, 作者の当時の印象を思い起すことができる, さ らに作品に目を向けてゆき, 主人公が魔の山 の滞在を3週間と予定していたこと, そこで医者に 「浸潤個所」 を指摘され, 半年間の滞在を勧 められることなどを想起すれば, 全くこのロマーンは私小説であるとも言えるし, 主人公は作者 と 完 全 に 一 致 す る。 しか し な が らこ の ロ マ ー ンを 主 人 公 と作 者 の 一 致 と い う 面 で 見 て ゆ く な ら,. 我々は決してこの芸術作品の核心に近ずくことはできないであろうし, 主 人 公 5 -1 9-. Castorp. も作 者.
(3) . 岡. 光. 一. 浩. Mann もその真の姿を 写し得ないと思う。. 先 に も 言 っ た よ う に, こ の ロ マ ー ソの 筋を 始 め か ら終 り ま で 支 配 して い る の は 主 人 公 の 体 験 で. あり, まぎれもなく作者 が我々に与えているのもそれなのである。 彼に直接働 きかけなし・ような 事件も, 叉彼に影響を与えるという理由なしに取り入れ られているような事件もただのひとつも 見当 らない. 登場する多くの脇役たち, つまり魔の山の患者たちはそれぞれ第一次世界大戦直前. torp に 影 響を 与 え よ う と す る。 そ の な か で 特 に, Settembrini の ヨ ー ロ ッ パ を 象 徴 し, 主 人 公 Cas. と. Naphta は Castorp. を教育しようとして, 弁舌をたくましくす る. 前者は 「正確をモッ トーと. )」, 「雄 弁 な 合 理 主 義 者 で ヒ ュ ー マ ニス ト」 (XI ) で, 西 方 (民 主 主 義), し, 自 信 に 満 ちヲ .S .613. ) 理性, 啓蒙, 未来への奉仕 G進歩) の代弁者である4 . そして彼はイ タリア人なのである。 一方 後者は 「あらゆる人間的な 前進, 文明, 幸福, 平和, 繁栄に対する人間的な憧れを軽蔑 し, 盲目 ) 」 思想家で新しい 反市民的 的な熱狂, 戦争, 殺意と非合理主義か らなる新しい神話 を代弁する5. 世界観の提唱者として, 市民的なヒュ ーマニズムや民主主 義に戦いをい どみ, 東方 (共産主義) , ドグマ, 独裁, 過去への忠誠 (反動) を支持する。 我々はここで, 主人公 Castorp にあまりに熱 中するものは何か大きな部 分を促えそこねたことになる。 そういう人はここに書かれたさま ざま )と言う警告に耳をかして, 作 者 な事件が一体何を表わそ うとしているのかわか らないであろう6 C t tembrini (な ぜ Mann に近い人物である主人公 astorp に対して, この2人の教育者, 特に Se なら. ) で あ る か ら。 そ の う え Naphta は 主 人 公 に 包 括 さ れ る部 分 的 人 物7. ini はこの試 Se t tembr. ini の精神を見て tembr t 論 に 関 係す るイ タ リ ア 人 な の だ か ら) が ど ん な 教 育 を す る か, ま ず は Se ゆ こ う.. 彼は世界の 支配権をめぐるふたつの原理を説明し, 自分の 立場を明白に言う. 「……暴力と正 義, 暴政と自由, 迷信と知識, 停滞の原理と進歩という沸騰的な原理と が相争っているのであっ た. そ の 一 方 を ア ジ ア 的 原 理, 他 方 を ヨ ー ロ ッ パ 的 原 理 と 呼 ぶ こ と が で き る。 ……このふたつの. 力のどちらに最後の勝 利が帰ることになるか, それは少しの疑いもないことで, --啓蒙の力, 1 ) と。 また彼は次のよう}乙信じる。 「… 理性的な完成の力が最後の勝 利を得るのだ」(m.S .22. …他の 民族がまだ迷信と奴隷状態とのなかで惰眠をむさぼっていたあいだに, イタリア人こそは まっ 先に啓蒙と教養と自由との旗を翻したのだか ら, 栄冠は当然自分の祖国に 与え られる べきで. tembrini 的人物は当 t a に 対 抗 す る Se あ る」 (m, S,219)。 こ の よ う に 規 定 で き る 以 上, Napht 8 ) b i i t t em rn の 精 神 を 性 格 か ら見 る と, そ こ に 然イ タ リ ア 人 で あ る は ず である 。 さ らに我々は Se. ることを知る, 祖父を 「ミラノ の弁護士であっ たが, むしろ熱烈な愛国者で 彼の血 が関係してい, 政治的煽動家, 雄弁家, 雑誌寄稿家というべきであっ たろう。 … … しか しイ タ リ ア 愛 国 者 で あ っ 14 ) と言 たばかりでなく, 自由を 渇望するあ らゆる民族の同 胞であり, 戦友であっ た」(皿.S .2 い, 父を 「非常にデリケートな人でした。 身体も魂 も実に敏感だったのです。 ……狭い斜面机に 向 い, 文 学 に 専 心 し て い た の で す。 … … な ん と 立 派 な ラ テ ン文 学 者 だ っ た こ と で しょ う。 … … 当. 代 流 の ひ と り で, イ タ リ ア 語 に 精 通 し て い る 点 で は 指 を 折 っ て 数 え られ る な か に 入り, ラ テ ン語. の 文 学 を 書 か せ る と, も は や 匹 敵 す る も の が な い と い う, ま さ に Boccaccio の理想どおりの文学. ) 「祖 父 の よ う に, 政 治 的 な 煽 動 家, 自 由 の た め の 戦 士 で は な く て 者 だ っ た の で す」 (m, S . ,135f t tembrini は 物 静 か な や さ しい 学者, 机 に つ い て い る 人 文 主 義 者 だ っ た」 (m. S .222) と 言 う Se. 3) した, 「文学者, 自由な著作 「祖父の公民的傾向と 父の人文主義的な傾向 が結合」(m.S .22 「 偉大な詩人で S そして彼自身も自分を m 2 2 3 ) である 家」( . . ,85) , 自由な思想家」 (m.S 。 t i i の 弟 子 だ と 言 っ て い る。 し か し 血 の 関 係 以 上 に 彼 の 精 神 に 重 き を な す の は J rgen G. Carducc -16 0-.
(4) . ト ー マス ・ マ ンのイ タリ ア 体験 〔1 1〕. Chadschwerdt. l Petrarca Dante Boccaccio Vol に よ れ ば, Virgi taire Goethe で あ る , , , , , 。 こ. の ロ マ ー ソに お い て, 第 3 章 の Sat ana と い う 節 に は Virgi 1 と Petearca へ の, 第 4章の Notwendiger Ei f という節には Boccaccio へ の, Aufsteigende Angst Von den bid nkau e en Grossvatern und der Kahnfahrtim Zwi icht と い う 節 に は Dante への 第5章 の Enzyklo- l e , l ) へ の 第 5 章 の Wa o e と第6章の Nochi emand と い う 節 に は Vo padi l t i a re lpurgisnacht と , l l ) へ の傾 斜 がは っ きり と 現わ れ てい る い う 節 に は Goe the 。 以 上 の よ う に, イ タ リ ア 人 Se ini の 精 神 を 規 定 で き ると 思 え る が さ らに 私 は 彼自 身 に t tembr ,. よる自己規定を続 けてみよう。 そしてそこから我々は彼の. Castorp. への教育を, いや自己規定に. はす で に 彼 の 教 育 が 入 っ て い る の だ か ら, Castorp がそれに対してどんな反応をす るかを見るこ と に し よ う。. Castorp と の会話 で Se ini は 「私 は 人 文 主 義者, つま り homo Lumanus で 工 科 方 t emb , t , 面 の こ と はい っ こ う に わ か り ま せ ん」 (m, S .86), 「原 則 的 に は, 抽 象 的 に は … … 私 は ど こ ま で. も人文主義のギムナジウムの支持者です」 (m.S 3) .9 , 「今日まで絶えず勝利の道を進み続けて きたものは, 個人の魂の価値という観念と平等という観念-- ひとことで言えば 個人主義的デ , モ ク ラ シー で あ る」 (皿.S ,403) と 言 い, さ らに, 「理 性 と 啓 蒙 と い う こ の ふ た つ の 力 は, や が. ては人類を完全に解放し, 進歩と文明との道の上をますます明 るい穏やかな清 らかな光明に向 っ て人類を導いてゆくことでしょう」(m.S ) ,140 , 「退歩は, つまりあの暗黒な, 苦悩の時代の考 え方に精 神的に逆戻りすることは病気です。 ……それは何か高 貴なもの 無知とはとても結びつ , いておれないほ ど尊敬すべきものであるどころか, むしろ屈辱を意 味するものだと言 うことを し. 0 ) っかり肝に銘じて下さい」(m。S .14 , 「……雄弁は人間性の勝利である……言葉は人間の名誉 であっ て, 言葉だけが人生を人間にふさわしいものにす るか らである 人文主義だけで はなくて 。 --人間愛一般, つまり, 人間の尊厳, 人間尊重, 人間の自尊というような古くか らの観念は言 葉 及 び 文 学 と 不可 分 な 関係で 結 び つ い て い る」 (m. S t orp に自分の ,224) と, 信 条 告 白 し, Cas 教育者たる立場を暗示させ, 「教育者の任務は正をはっきりと顕現せしめ 現われ出ようとする , 不正を有効適切な働きか けによって決定的 に消し去ってしまうことなのです」 (m S 142 . , ) と説 く. 死と病気と陰気くさい事件のたちこめる魔の山を下りて, 活動的な生へ奉仕するように教育 ini に 対 し て は, Cas tembr す る Set torp 次 の よ う に 言 う。 「君 は 一 定 の名 前 を 持 っ た ひ と り の 人 間 と い う の で な く て, ひ と り の 代 表 者 な ん で す . こ の土 地 の 私 の そ ば に い る ひ と り の 代 表 者 な ん. です」(m.S 58) .4 , 「代弁者--傾聴する価値 はあるが, 唯一絶対のものとは言えない事物や勢 力の代弁者にす ぎない」(m.S )。このような簡明直裁な言葉が示すように, Ca 582 t s or . p に と っ て, このイ タリア人はただ暗示を受けるだけのものにすぎなく, 興味の対象とはなり得たが 絶対的 , な 信 頼 の 対 象 で は な か っ た。 Castorp はこの教育者の話を傾聴する時はいつも朝笑を浮かべ 「先 , 生の説を拝聴した後では, それだけいっそう自由に, 自分の考えや夢想を それとは別の 反対 , , の 方向 へ 走 らせ て か ま わ な い」 (m.S ) と 思 う ので あ る。 い やそ れ ど こ ろ か 彼 は そ の 目 的 の ,225f 。. ためにだけ先生の話 を傾聴したのであっ た。 Set tembr i ni が ひ と り 文 明 を 代 表 し て い る と 妾 信 し て, Caotorp の ドイ ツ 的 色 彩 を 塗 抹 しよ う と す る の に 対 し Caotorp は Set ini の 人 生 観 が tembr . ,. 単に多くの意味のある人生観のひとつに過ぎないことを示 し, 次のように言う 「生に至る道は 。 ふたつある。 ひとつは普通の, まっすぐな, 真面目な道 もうひとつはよくない道 死を乗り越 。 , えてゆく道だが, これこそ天才的な道なんだ」(m.S ) ,827 。 2人の教育者 のどちらにも従わない で, 思索し, 彼らの中間にある自分の道を切り 開いて進んでゆく Castorp だか ら, 充 分 こ の こ と -161-.
(5) . 岡. 光. 一. 浩. i さ れ た Castorp の は 可能であろう。 そしてこの, 彼らの 中間にある道こそ, 高揚化 Stegerung Mann 自 が初めて すなわち Mann の 道 で あ る. こ の 意 味 か ら して。 Castorp の高揚化された姿 難 い。 身の姿となり 得るのであっ て, 厳密な意味では Castorp 即ち Mann と は 言 い 主人公の で は, Castorp の 高 揚, つま り Mann の姿が生ずるのは何にょっであろうか。 それは 生長発展に不可欠な影響を及 ぼす象徴的人物である魔の山の患者たち, 特に 2人の教育者の力に. t s orp にとって, 「洞察や意識 的な解 釈を絶えず供 給 よるものである。 彼らの貢献が, 教育が Ca ) 2 」 (これは作 者自身の洞 察であり, 個性でもある) となる 場合, つまり彼に高揚 している源泉1. のような が生じる場合, 主人公 Castorp は Mann と 一 致 す る。 しか し Castorp に と っ て, こ 高揚は稀にしか 生じない。 なにより も教育とい うものが次のように定義ずけ られ, 2人の教育者 個性に, の教育は完了していない のだか ら。「教育とは 思い どおりの形にすることので きる子供の であっ 教育者たちによ ってあらかじ め決め られた線にそ って, 一定の形を 与えようとするも の パ ターンを充 徳的 て, その教育過程は, 教育を受ける若者が教育者たちの理 想にほかな らない道. 分 信頼 で き る ほ ど 遵 奉 す る よ う に な っ た 時 に,. 4 )」 修 了 さ れ たと い う こ と に な るi .. S tt. brini. ini‐Cas torp-Mann は 次 の よ う に 繋 が る。 「確 か に, 文 学者 e em tembr 要す る に, Set て幾年か は Castorp が文句なしに信頼で きる人物ではなか ったが, この頭脳明断な師から, か っ 前に, つまり青年 が錬金術的人生航 路を踏み始 めた 頃, ある種の世界へ精神 的に復帰することを が得策 戒められたのを 思い出した Castorp はこの戒 めを慎重に, 菩提樹の歌にあては めてみるの torp C t に 解 釈 さ せ, Cas だ と 考 え た」 (m. S .906). そ して Mann は こ の 歌 を 自 己 流 に, asorp く. d を 導 言 葉 のではない 自分の姿を象徴的に描くのである 単的に H. G. Weigan は 適 切 な. 。 , 「作者はきわめて広い範囲にわたって自分と主人 公を一致させているが, それと同時に彼はこの 的な 小説のなかでははっ きりと 主人公のうえに位置をし めている。 作者は Castorp と 洞 察 や 意 識 ー 1 5 ) 解 釈 を 絶 え ず 供 給 して い る 源 泉 と を 加 え た も の, と 言 う こ と が で き る 。」 従 っ て, こ の ロ マ. ソに登 場するイ タリア人は自己批判も, 反省もない無条件の支持者である故, 人間は単に個人と して個々の 生活を営んでいるばかりでなく, 意識的であるに しろないに しろ, その時期, その時. の 代の生活にも関与する, と言う説を支持する Castorp に は 全 く 肯 定 的 存 在 で は な い。 しか しこ イ タ リ ア 人 は Castorp が 高 揚 化 す る 瞬 間 の, こ の ロ マ ー ソに Mann が顔を出す瞬 間の重要なる. 象徴 的人物ではある。 それ故, イ タリア人 Settembrini の な か に は, 彼 即 ち Mann と い う 型 で tembrini の考え方, 態度もまた Mann の姿であり 得る場合 がある, と い う 意 味 で な く, Set. Mann. io tai re l c rgi の 姿 を 見 る こ と が で き る。 Vi , Goethe へ の , Vol , Boccac , Petrarca , Dante. 傾斜を持つ. ini Settembr. は Mann の精神確立に大いに力を与えたと言える.. 註. ‘Der Za rbe rg“ を完成した時の気持ちを次のように言う. 「このロマーソは……7年間ど 1) Mann は ・ ube. 2年も私を把えていた作品であるが,その世評は私の期待を当惑にまで至らすに ころか,大戦前後でたっぷり1 はあまりに悪評であったにちがいない。 私は完成した仕事を, ほ っとした気持ちの諦めのなかで, その仕事 の世界的可能性へのわずかの確心も持 たず, 右から左へ渡すのに慣れきっていた. ……あまりに激烈な支持 ) が与えられるとすれば, 私は雲から落ちるにちがいない」(XI .S . 133 . そ して彼は抜き打ち的に訪れた人 迫され 経済的にも圧 気に対し, 驚き, 次のように言う. 「考えても見給え, , 駆り立てられている大衆がこ 今日このよ 一体信じられようか?…… してくるなんて 思想的作品に喜んで追従 0 0頁にもなる膨大な 2 の1 , , ,3千 うな社会清勢の下で, こんなばかげた長話のために,16マルクないし20マルクの金を支払う人が一体2 足 う気持ちでは手も るロマーソを読むとい きた いわゆ 全くこれはいままで慣れて 人以上もあるだろうか。 , も出ないに違いない作品なのだ. この上下2巻が今後10年のうちには書く人もなければ, 読む人もないこと M 失敗を演じ, いわゆる 「文明 f ) は確かである」(×1 .133 , .S . 第一次世界大戦時, 全く ann らくからぬ大 62- -1.
(6) . トー マス ・ マ ンのイ タ リ ア 体 験 〔亘]. 文士」 からひどい罵倒を受けた彼にとっては当然のことだろう しかしこのロマー ソは4年後には1 00版を . 刷るに至り, 彼自身のこのロマーソは」全く ドイ ツ的」 だから 決して外国語に翻訳されることはないであ , ろう, という言葉に反して, ヨーロッパのほとんどすべての国語に翻訳されたのであ た (X1 S 6 っ 。 , , 10) . igand :“The mag 2) vgl i in” IHi c mount a l I Theuni , Hermann J i , We tyofnor ver s thcaro l i na , Chape s Pres .7 ,1965 S , 3) vg l i d b ,l ,S ,11 , ’ Francke Ver 4) vgl chner:“Thomas Mann’ in l l S . Hans Ei , . Ber ,1953 , ,56 , 5) vg l ’ a a 0 S 157 rsen:”Unt er suchungen zu Thomas Mann’ ,lnge Di ,, , , , . ‘ ‘ H “ l W i 6) vg, ermann J i in ,a c mounta . egand: The mag .a . ○, ,9 ,S ,. 7) 「ヴオルテール主義者」(m.S 9) と Se i t t i を非難し, ことごとに彼に対抗する Naphta は embr n ,51 それ故, 反ヴオルテール主義者と言える, Ca t s rp は Settembrini と Naphta との論争のなかにあって, o 前者への傾斜を強くするが, どうしてもその方へ踏み入れない その事実として Napht a の態度がある。 。 Set ini の 立 論 に対 して, Naphta のそれの方が優れていると考える Ca tembr t s o rp の Napht a 肯定の態度 こ そ, “Bet ines Unpo i racht l i ungen e t schen” に お い て, Mann の取る態度である Na t a の, いや, ph , Mannの西欧文化精神に対決する根本態度は 「合理主義的な西欧精神がのさば ている……18世紀的な進歩 っ 思想, 啓蒙思潮をやっつけなければならない, こういう世界観の表われである Zi i i i l t v s a on , 似非文学者の L i t t e a r , そのテクニ ックの心理主義などを排撃しなければならぬ」 と Mann の言う所にあり, 「 18世紀の 代表的思想家がヴオルテールであることはわかりきっているから マンの提唱するところは 反ヴオルテー , , ル主義であるといってよろしいかと思う」(vg l , 滝沢寿一著, 「古典期 ドイツ文学襟記-余録工 トーマス。 マ ンにおけるヴオルテール」 4年, p ) , 風間書房, 昭和4 ,290 。 ini という名前も彼の肖像を完全なものにするために欠くことのできな 8) Set t embr い一部分であって, 単な るレッテルではない。 この名前は17 9 2年9月に行われたフランス大革命の大虐殺, 過激な行動を象徴する名. 前 で も あ る,こ の時 のス ロ ー ガ ンと してsept i embr ser と い う動 詞 が 作ら れ た。 g 1 igand: ,HermannJ . We . ・The mag ’a a 0 S 164 ) な お 名 前 と 人 ic mounta in’ 格 と の 関連 に つい ては “Einf i ihrungin den , , . , . , ,。 ’ ”Von Goe Zauberberg, , g the zu Thomas Mann’ 1 l d. i i く er se n: ”Von Goethezu Thomas , ・ os ’ Vandenhoeck & Ru r Mann’ ingen l963, S t p echt G6t ) 参 照 , .191 。 , 9) vgl f ’ VV Kohlham- schwerdt:”Thoma s Mann und der deut l dungs ,Jurgen schar s che Bi roman’ , , l S mer Ver 1 2 2 , , , 1967 , , 10) vgl ’ a a ○ S 100 er: ”Thomas Manni l bs t nse zeuguni lddokument . Kraus schrbt s senundBi en’ , , . ,.. . “Thomas Man s S h l ’ ’ H d 1 1) vgl f e r s m r o : R u & L n c e t t m e i B i . en ln oenng S r , , e ,92 ,1968 , , ” ” 1 2) vgl . Hermann J . Weigand: The magic mountain ,a,a. ○. .7 ,S . b 13) vg d l i .l . 14) vg d l i ,lb , ,3 ,S . id l 15) vg ,lb , ,7 ,S ,. 6. 第一 次 世 界 大 戦 後, 多 く の 講 演 旅 行 を した. Mann で あ る が, 不 思 議 に, イ タ リ ア に は 行 て っ. いない。1925年になって, およそ13年ぶ りに ヴェニスを訪れ た彼は当時 の 印 象 を 自 伝 的 作 品 ”Unterwe s” で次 の よ う に 書 い て い る。 「ヴェ ニ ス で 私 は 船 に 乗 っ た … … あ あ, な ん と い う g 。 感 動 で あ っ た ろ う。 こ の13年 間 と い う も の た だ 心 の な か に 抱 き 続 け て き た 後 で , 私 は こ の な つか. しの市 に再会したの である。 …… ゴンドラの船頭たちが呼び声をかわしていた 私は自分の家に 。. い るよ・う に 心 が 安 らぐ の を 覚 え る の で あ っ た」 (XI S 357) 戦 争 が 終 て イ タ リ ア を 訪 れ た . . っ , . Mann はすでにあの若い時の 彼ではなか た 「元来 私は南国というものを好かないので む. っ . , , しろ単純に故郷にはまだ私の椅 子がなかったか らにすぎない」 (前出) と言 た彼が13年あまり っ. の 後 に, こ れ だ け 変 る も の で あ ろ う か ヴ ェ ニ ス が 久 しぶ り に 訪 れ た 場 所 。 , , 彼自 身 の 最 も 好 ん だ 都 市 で あ る こ と を 考 慮 に 入 れ て も, こ の 言 葉 は Mann のイタリアとの 関係に価値ある寄与をす る も の で あ る。 Hans Bt irgin. と. Hans‐otto Mayer の 手 か らな る “Thomas Mann. -1 63一. Eine Chr onik seines.
(7) . 岡. 光. 一. 浩. ’ ’ “ i o und der Zauberer に は 1926年8月末か ら約半月 ばかり Mar る 魔術師と の エ ピ ソ ー ドが 生 ま れ た ピ サ の 近 く の Fort dei Marmi に滞在 している。 当時. ’ によると Lebens’ , Mann. 現われ. .140 .S .) という 夏になると, 必ず海岸へ滞在するのが習慣だ った彼は 「全然無為の休養」 (XI 0 .14 .S .) をしてい ものを嫌い 「午前中はひとつ の逸話を走り書 きすることで埋める決心」 (XI 月 .140 .S た。 こ の よ う に して 文 字 通 り 「空 中 か ら つ か み 取 っ た」 (XI ,) 作 品 が1929年12 に発表 ” さ れ た “ 難ario u楓d der Za醸berer で あ る。. 南方での体験を物語ったこの作品は強く政治的なものに入り 込んでおり, ファシズム の波を感. ) ii ズ ム1 じ さ せ る 雰 囲 気 を 持 っ て い る。 そ の 政 治 的 な も の と して, イ タ リ ア, Mussoln の フ ァ シ T の orre が 作 品 の 目 頭 か ら現 わ れ る の で あ る。 場 所 はイ タ リ ア の 南 海 岸 ボ ル トク レメ ンテ の 近 く の太陽を背に受 di Venere という海水浴場。 そこで浴客はイ タリア・ファ シズムを象 徴する真夏. 乾 けて, 悲鳴をあげたり, 罵 しっ たりする。 海は ぎらぎらと鮮やかな色を し, 空気はカラカラに ざまな不愉 いている。 ここに ドイ ツ人である主人公の 「私」 が妻と2人の子供を連れてき, さま 快な事件に ぶつかる。 ドイ ツ人 がイ タリアにおいて不愉快を感じる-この点ですでに Mann の. 政 イ タリアへの姿勢が negativ と 決 ま っ た 観 が あ る。 しか し後述 す る よ う に, こ の作 品 が 決 して 語. 本質. ) と 同 様, イ タ リ ア 的 な も の へ の 嫌 悪 の 念 も, 物 の 治的なものを中 もと して い る の で な い2 が南 には現われていない。 たとえ次のように鋭く南国を断罪 した文章があるうと。 「確かにこれ 国であり, 古典世界の気候であり, 花と咲いた人類文化の風土, ホメ ロスの太陽, その他……で が ばか げ あ る。 しか し, 私 に して み れ ば, しば らく こ う い う 土 地 に 暮 して い る と, こ う い う 風 土. たものに 思われてくるのを どうすることもで きない。 来る日も来る日も頭上に炎えるよ うな虚空 ない をみている と直きにそ れが重荷になってくる。 色彩のどぎつさ, 途方もなく素直な, 屈折の 光線はなる ほどお祭り 気分をか きたてるし, 天候のむ ら気や急激な変化を心配する必 要 は な い じ め の う ちは し, そ ん な も の は 気 楽 に 忘 れ て お い て さ しつ か え な い の だ が, しか し, こ れ は, は. なぜともは っ きり しないままに, 北方の魂のより深い, より複 雑な欲求に不満を感じさせ, 長い m.S .664 .)。 間 に は, 南 国 とい う も の に 対す る あ る 軽 蔑 を 植 え つ け ず に は お か な い の で あ る」 (\. io が政治的なものに関係していない とは言えない が, こ の 作 品 で la や Mar 催眠術師 Cipol la が演ずる 「抵抗」 であり, 彼らの姿や行 l Mann が 問 題 と して い る の は ロ ー マ 出 の 紳 士 や Cipo t l er を 望 ま な か っ た に も か か わ らず, 10年 以 上 に わ 為 に は 人 間 的 な も の が 象 徴 さ れ て い る。 「Hi. い いだくだく たって惟惟諾諾と彼につき従 ったあの ドイ ツ市 民階級出身の人々の無抵抗さがこのうえもなく 見 ) 」 と G。 Lukacs が 言 う 如 く, Mann は 落 ち 入 っ て ゆ く ドイ ツ 市 民 の 姿 事に描き出されている3. la の 鞭 に 負 け ま い と, ち ょ っ と の 間 抵 抗 す る ロ ー マ 出 の 紳 士 に 託 して い る。 彼 は 「外 l を, Cipo. , 「どこまでも 反抗 しぬくと 部からの暗示に対 しても自己の意志を維 持してみせ」 (皿.S .702 .) ズムを象徴す I あらかじめ決 めた鉄の心と英雄の如き頑強さ」(W .S .702 .) を持ちながら, ファシ く l l a の 「支配力の象徴」 である鞭によ って, もろくも自分の意志をな し, 屈 服 す る人物 Ci po る。 な ぜあれほどまでに頑強に拒否することを 宜言 した彼までが意志をなく し, 屈服せねばなら l l i a は言 う。 「自由があり, 意志もまた存在しても, 意志の な か っ た か と い う 間 に 対 して, C po 自由というものはあり ません。 なぜなら意志が自己の自由を求めるとなれば, これは無につきあ 「私」 は ロ ー マ 出 の 紳 士 の 敗 北 を 「彼の 戦 た っ て しま い ます か らね」 (皿.S .689 .) と。 主 人 公 の 「お そ らく 人 間 は意 志 を 持た ぬ こ と に よ っ て は い の 場 が 否 定 面 に あ っ た か ら だ」 (皿. S .702 .),. 心理的に生き ていられない ので, あることをする意志がないとい うことは, 結局, 生命の内容と 相入れないのだろう。 何事かを 欲しないということと, もはや何らの意志もない, つまり命令し 4- -16.
(8) . ト ー マス e マンのイタリア体験 [1 1〕. だいで動くということとは多分 紙一重であって, その間に自由 の理念が入り込むす ぎはないら し い」 (皿.S n は 「命令と服従は同じひと つの能力である」 .702 .) と 決 め つ け る。 こ う して Man ‐. ) を 作 品 に 折り 込 む と 同 時 に (皿. S .691 .) とす る フ ァ シズム の 心 理4 , 第一 世 界 大 戦 後, 獲 ち 得. た民主主義という姿勢を固執 し, 近ずく ファシズムに対 して , ドイ ツ市民を警 告するのである。. こ の こ と は こ の 作 品 が 発表 と 同 時 に, Musso l ini のイ タ リ ア で 禁 書 に な っ た こ と を述 べ れ ば よ い で あ ろ う.. Mann は1 9 30年読者 otto Hoerth にあてた手 紙において, この作品に ついての明白な解答を 与 え て い る。 「こ の 作 品 に イ タ リ ア やイ タ リ ア 的 と い た も の へ の 悪 意 や 嫌 悪 でな く, 正 義 に 対 っ す る 私 の 意 志 を 認 め て 下 さ っ た の は 特 に 嬉 しい こ と で す も ち ろ ん じ め は 意 味 も な く, た だ は , 。. 個人的 な感情にす ぎなか ったものから, 批判的 観念的 道徳的 政治的なものが話 を進めるに , , , 従 っ て 大 きく な っ て き た の で, そ れ が 読 者 の 目 に は 何 か 嫌 悪 と い た も の に 映 た こ と で しょ う っ っ. し, 最初はいらいらさせるような雰囲気にすぎなかったものに いまにも爆発しそうな無気 味な , 性格を与えたのです。 興味がおありなので申し上げますが 催眠術師はおりました 私の記 した , 。. の と全 く 同 じ ふ る ま い を しま した )」 こ の 作 品 に お い 。 死 に 至 る 終 結 の 場 だ け が 創作 な の で す5 。 て, イ タ リ ア に 対 す る negat iv な姿勢でなく ファシズムに対する嫌悪が全体に流 れ 作 品 の , ,. な姿勢をその緊張した雰囲気 のためにのみ規定する以上 先に引用 した南国に対する辛 , 抹な断罪も程度の問題と考えなければならない .. iv negat. Mann は 1934年 ァ 月, ある 国 際 芸 術 会 議 に 出 席 す る た め ヴ ェ ニ ス に 滞 在 して い る6 ) 後にこ , 。 の時の印象を神学者 KarI Ker enyi に あ て た 手 紙 に お い て 彼 は 次 の よ う に 言 っ てい る . 「こ の 旅. 行で獲得した利点は昔ながらの深く, かつ複雑なる理由で心から好んでいる都市 ヴェニスとの ,. そ してそ の な か に あ る, す で に20年 も 昔 に 物 語 (”Der Todin vel ledig” - 筆 者 注) の 舞 台 と な っ た こ と の ある 海 水 浴 場 の 島リ ドと の 再 会 で あ っ た7 )」 。. 註. ‘Thomas Ma n’ 1) vg l chner:‘ n ’ , Hans Ei ,a , 0. ,64 ,a ,S , ‘ ‘ l i l D 2) vg U h n e r s [ en: ner suc ungenzu Thomas Mann” . g .a . ○. ,3 .180 ,S . ‘ ’ Aufbau Ver 3) vg l s:‘ Thomas Mann’ l l in S . George Lukac , . , Ber ,38 ,1950 , . ” “ l 4) vg er: Thomas Mann ,a . Kraus sChrbt ・a , 0, ,106 ,S , ‘ i ‘ ’ a a ○ S 291 5) Vg 1 f e e 1889-1936’ . Thomas Mann: Br , , . , , . . 1 6) Vg i rgin und Hans -。比。 Mayer 〆‘Thoma5 Mann Bine chron ’ a ik s , 日ans Bi ines Lebens’ e , , o. S , ,111 , ‘ ‘ i l 7) vg ef e 1889-1936” . Thomas Mann: Br ,a .a , 0. ,368 ,S , Thomas Hann‐Kar ’ Rhe I Ker きny i:”Gespr i achin Br f in-Ver l e en’ i i i ch r , .z ,57 ,1960 ,S , ヲ 十. 次に194 3年5月 に書き始められ, 1947年に発表 された. ” 励磁 t 玉 or 冨a甑s顔s” に 入 る が こ こ で ,. はこのロマーソの第24章と主人公が悪魔と対話する第2 5章のみを言及することに留める。 それに. よ っ て は 複 雑 多 岐 な こ の ロ マ ー ソの 片 鱗 さ え も 表 わ す こ と は で きな い の で あ る が , この試 論での 解 決 - Mann とイ タ リ ア と の 関 係 一 は ま ず は 達 成 さ れ る と 思 う の で Das Leben des deuts‐ 。 chen Tonsetzers Adr ian Leverkdhn erzahl t von einem Freund とい う 副 題 を 持 つ こ の ロ マ ー ソの 語 り 手 は Serenus Zei tbl om (1883年 生 ま れ の60才。 メ ル ゼ ブ ル グ 州 ザ ー レ 湖 畔 の ら Kaisersachern を故郷とする Na i の支配を嫌って教職を退いた古典学者) で 彼は驚きなが , z , も, ひたすら讃嘆を捧げ愛していた友人の天才音楽家, 故 Adr i an Leverknhn の生涯の報告を. 5‐ -16.
(9) . 間. 一. 光. 浩. 「子供の時か ら彼を知 って, その成長と運命との立会人 となり, 目立たぬ助力者の役割を受持っ. ぐれ な 作 品 で あ る Shakespeare の 喜 劇 て 彼 の 創 造 に 関 与 した」 (W. S .12 .), 「彼 の 若 き 気 ま ” ” Verlorene L ih の 歌 劇 化 は も と は とい え ば 私 か ら出 て い る し, 怪 奇 な オ ペ ラ 組 曲 iebesmt ‘ ずGesta Romanorum ” と 聖 楽 ”○任enbarung s J ogen” の 台 本作 製 に s des Theol . ohanni. S 12) も私が影響を及ぼした」(W.S .12 , 「遺言として 他の誰にも渡さず, 私にだけ」(晒. . . ,) 貴重な秘 密の手記を遺贈 してくれたな どの使命を持って書くのである。 友人が語る ドイ ツの作曲家のこの伝記を 第24章まで読み進めてゆくと, 我々はこの章にほとん. ど, ”Buddenbrooks” を 書 き 始 め た 頃 の, 1896年 か ら1898年 の 一 年 半を か ら ロ ー マ ・ パ レス ト. リーナに滞在した当時の Mann の生活態度を思わせるものがあるのを感じる。 主人公が 「遠い ) で 選 ぶ 場 所 もイ タリ ア, い や .S . .280 土 地 の 空 気 と あ ま り な じ み のな い 環 境 を 求 め る 気 持」 (VI inri ch を 伴 っ サ ビー ニ 山 の 麓 の パ レス トリ ー ナ で あ り, 時 期 も 夏 で, そ の う え Mann が兄 He. ) この ldknapp を 伴 う の で あ る1 Rddiger schi 。 “ ” パ レス M 第2 の 生 活 4章 の と i パ ー の n an よ う に こ と ご と く Lebensabr ss に あ る レス トリ ナ で ) 少 し長 く な る が そ の 例 を 引 き 出 して みよ う. 「彼 ら トリ ー ナ 章 で の 主 人 公 の 生 活 は 一 致 す る2 。 ビー ニ 山 の は そ の 冬 を ロ ー マ で 過 し, 5月 に な っ て 暖 か さ が 増 して く る と, 山 岳 地 方 と 親 切 な サ. て い る よ う に, Adrian Leverknhn. も英語学者. あ 宿とを再 び訪ねたのだった. 前年3 ヶ月 滞 在 した 時 に 居 心 地 よ く 感 じ る よ う に な っ て い た の で. う な 釣 合 い を 持 ち, 家 の ほ か のす べ て の 部 屋 と 同 様, 床 は 石 な. S る」 (\ .281 .). 「… … 広 間 の よ う 造 り で 木 陰 に な っ て お り, 涼 しく て 少 々 暗 く, 調 度 は わ ら 椅 子 と 馬の 毛 を つ めた た ソ フ ァ とい ). き わ めて 簡 潔 な も の だ っ た が, … …」 (班.S . .282. 「… … 石 造 り の 居 間 の あ い だ で, な お 数 ヵ. 月 の間, 秋に入るまで, 彼らの生活の牧歌的な 平衝を忠実に保 っていた。 も う昨年の一夏を彼 ら. 舎 の 生活と は そ う い う ふ う に して き た の だ っ た. そ して 冬 の 都 会 で の 暮 しぶ り も, こ こ の 田 町で ia t A T 本 質 的 に変 り が な か っ た。 彼 ら は コ ソス タ ソチ 劇 場 と パ ンテ オ ンと に 近 い orre rgen n 街 た て い も ら して っ 。 主な の 家 の 四 階 の 部 屋 を 借 り て い て, 朝 食 と 間 食 と を そ こ の お か み さ ん に 出 .291). 「こ こ で 彼 ら は 暖 か い 春 や秋 食 事 は 近 く の レス トラ ンで 日 々 の っ け に して 食 べ た」(晒.S. の日に, 時々牝牛や放 し飼いの 馬が水を飲みに 来る美しい形の泉のそばで仕事に没頭した ド …・ ピアッ ア。 コロナの市音楽堂で行なわれる午後の演奏会にはほとん ど欠かさずに出かけた. 時に は晩はオペラの時 間にあてられた が, 普通は コーヒー店の静かな片隅で熱い オレンジ・ポ ンチの た - コ ッ プを 前 に ドミ ノ 遊 びを した」 (頃.S .291). 「彼 らは そ れ 以 上 に わ た る 交 際 は しな か っ ,. あるいは全 然交際 しなか ったも同然だっ た。 彼らの隠棲ぶりはローマでも, 田舎の時と同じよう にほとん ど完全だっ た。 彼らは ドイ ツ的な要素を徹頭徹尾避けた。 … … そ れ は 彼 ら の ひ と り ぼ っ. ち とい う か ふ た り ぼ っ ち の 暮 しぶ り は, こ の 土 地 で 知 人 を 作 る 機 会 を ほ と ん ど与 え な か っ た」 て そ れ が マ ナ ル デ イ 荘 で, そ こ の 女 主 人 が (W. S .292). 一 方, 主 人 公 の 泊 る 宿 に お い は, Signora Manardi. そこの女主人は. である点, わずかな違いは生ずる (Mann 兄弟の宿は ベルナル デイ ニ荘で,. ina で あ る) しか し, そ れ は 現 実 と 虚 構 の 違 い で あ っ て, こ の ロ Signora past 。. ー マ ー ンに お い て, 女 主 人 が 次 のよ う に描 か れ て い る 以 上, 全 く 問 題 と は な ら な い。 「… … ロ マ. 型の堂々たる婦 人で上層 が弓形で, 髪はそれほ ど褐色ではなく, 栗褐色だっ た。 眼はやさしく, 銀髪のまじっ た頭をな めらかに しっ かり と引きしめ, 田舎人らしく素朴で働き者に見 え, 均整の ” に ” )。 こ の よ う に, Mann は Doktor Faustus と れ た 豊 か な 体 つ き を して い た」 (W. S . .282. h お い て 自 分 の パ レス トリ ー ナ 体 験 を 非 常 に 精 確 に 模 写 して い る. 従 っ て 主 人 公 Leverkn n は精 4 ) ー )にはい ざ知らず 表面的には Mann 自 身 で あ る と 言 え る . そ して, こ の ロ マ ンの パ レ 神的3. ,. -166-.
(10) . ト ー マス ◎ マンのイタリア体験 〔1 1〕. ス トリ ー ナ 章 は Mann の 描 く パ ロ ディ と 言 う こ と に な る 。 では, 何故 Mann は Leverkt ihn が 悪 魔 と 契 約 を 結 ぶ 場 所 パ レス トリ ー ナ に 昔 の 体 験 を パ ロ ディ 化 す る 必 要 が あ っ た の だ ろ う か Mann は Leverkt ihn が 「ほんとうに世間 から隠れ られ 。 ,. 静かに自分の人生, 運命と対談す ることの できる」(w S 280) 場所を つまり 彼が悪魔と対 .. , , , 話するにふさわしい場所を自分の過去の誰と も交際せず ドイ ツ語を聞くと逃げだす 孤独な生活 ,. を した パ レス トリ ー ナ に見 つけ た の だ っ た Leverkt ihn が 悪 魔 に 対 して 「… … え り に よ て こ . っ , のイ タ リ ア で 私 に 会 い に 来 よ う と い う の だ ね ま っ た く 君 の 縄 張 り の 外 で, 君 も 全 然 人 気 が な い 。. の に デ …・カイ ゼ ル ス ア ッ シ ェ ル ソ で な ら, 君 の 出 現 も 是 認 で き た ろ う ヴイ テ ソベ ル グ か ヴ ァ 。 ル ト ブ ル グ あ るい は ライ プ チ ッ ヒ で さ え も, 私 は 君 の 存 在を 信 じ られ た ろ う しか し こ こ で は 。 ,. 駄 日 だ。 こ の 異 教 と カ ト リ ッ ク の 空 の も と で は ね」 (の.S 301 ) と 言 う の は 全 く の 的 は ずれ で . , , そ こ がイ タ リ ア の パ レス トリ ー ナ だ か ら, 現 実 か ら離 れ 山 奥 に 住 居 を し 孤 独 ドイ で ツ語 に 縁 , , のな い 生 活 を して い る 彼 の 前 だ か ら, 悪 魔 は 良 い ク ソ プ フ 語 で , 古 ドイ ツ 語 の 片 言 で 話 し か け る. こ と が で き る の で あ り, ま た 姿 を も 見 せ る こ と が で き る の で あ る ま た 逆 に パ レス トリ ー ナ で 。 , あ る故 に, Leverk t lhn は 「古 典 主 義 の ヴ ァ ル プ ル ギス の 夜 のメ フィ ス トと 同 じ よ う に 反 キ リ ス , ト教 的 で 南 方 で は と り わ け 好 ま れ て い な い5 )」 ドイ ツ 語 を 話 す 北 方 か ら の デ ‐ モ ソで あ る 悪 魔 ェ を 幻 想 裡に 映 す こ と が で き る の で あ る 。 ま た, 悪 魔 の 出 現 す る パ レス トリ ー ナ で あ る 故 に, た と え Zeitblom がイ タ リ ア の 美 しい 風 土 に つ い て, 「私 た ち が 滞 在 して い た 数 週間 の あい だ 一 片 ,. の雲さえかかることのなかっ た古典的な空と, この土地の上に漂っていて 時折り噴泉の緑や絵 , のような 羊飼の姿やデモーニッ シュな牧羊神の山 羊の頭などに現 わされている古代 的 情 緒 と が Adrian と再び一緒に居 られること で , そうでなくても動かさ れていた私の心 をどんなに幸福に して く れ た か 私 は 言 わ な け れ ば な ら な い」 (班, S ) と 言 お う と も, そ れ は た だイ ロ ニ ツ シュ . 285 , に しか 響 か な い の で あ る 。. 要 す る に, こ の 口 マ ト ンのイ タ リ ア は 悪 魔 の 出 現 す る 意 味 で は negat iv と 言 え る が こ れ は , , “Buddenbrooks” 執 筆 当 時 の 若 き Mann の ひ き お こ す パ ロ ディ で あ り, ”Doktor Faustus” において規定されるそれは Mann のイ タ リ ア に 対 す る 真 の 姿 で は な い の で あ る 。. 註 I Ker 1) vg l i:“Thomas Mann und der Teuf ’ a a 0 S 336 eny lin pa l ina’ e t , Kar e r s , . , . , , . i l 2) vg .lbd , ‘Tho ’ ’ a a 0 S 538 ~ l i i ax Von Br 【 l ck :‘ i ] mas M t ann i a en n1 , , , , , . , 3) B.B1 ume は, Leverki ihn は出生において Luther 的で 死において Ni et zche 的に描かれていると言 , k hn の生地は宗教改革の発詳池で, Lut う。 Le i i ve r he r 地方の心臓部に位置している. g1 . Bernhard ‘Thomas Ma n u d G th ’ B1ume:‘ n n oe e’ l ) , A. Francke Ag , Ver . Bern ,S ,1949 .120 . 。 「ア ドリ ア ン. のライピチッヒ体験と1年後のグラドッでの意識的な雁病とは, ニーチェのケル ンにおける体験とその1年 後に発病した事実に照応し, 更に24年後の発狂とまたその10年後の死とは両者に共通している しかも8月 。 25日という死亡の日附では両者は完全に一致している 1 , 関泰祐, 関補生訳’ 「Th 。 g . マン。ファウスト 博士I D」 岩 波現 代叢 書, 1963, p .288 。 叉 G, Lukacs は次のように言う。 「主人公の像が誰かをかすか ,) に偲ばせるものがあるとすれば, それは, 禁欲的な世にそむき, 慢性の疾患を背負い 厭人的 独裁的で頑 , , 固だった Nietzsche の 姿 であ ろ う。 しか し, もっと重要なのはこの人物が Nietzsche の世界観にあるデカ. ダ ン的, 前 フ ァ シス ト的 核 心 の 多く の も の を所 有 して い る 点 で あ る 」 (vg ‘Thomas l s :‘ , Georg Lukac , Mannな a .a , 0, ,84 ,S .) ‘Thomas Man u d d T fli p 1 Kareny ’ a a 。 S 336 i:‘ 4) Vg1 ina’ n n l t er e t .e n a . Kar es r , . , , , , i d S l 5) vg .lb . ,343 .. 6 7- -1.
(11) . 岡. 一. 光. 浩. 8. 「ドイ ツ 語 圏 以 外 の ど の 国 に お い て も, イ タ リ ア ほ ど 自 分 の 作 品 が 称 賛 を 受 け た と こ ろ は な. いD」 と Mann はなん どもイ タリアの友人にあてた手紙で書い ているように, 彼の作品 は特に評 i らの翻訳者 lani Erwin Pocar io Castel l Lavinia M azzucchetti Emi. , , 判が良く, 1947年には 2 ) M に に よ っ て, 10巻本のイ タリア語全集版として Mondadori 社 か ら出 版 さ れ た 。 そ れ は ann 1日付のこの出版社にあてた手紙には とっ ても非常に気に入っ た全集版だったらしい。 同年3月2 scher が私の作品の全集版を, 叉10巻からなる全集 「ベ ル リ ンに お い て, S 次 の ように ある . Fi. 。 に 現 在, イ を 作 る よ う 企 画 して 以 来, こ う い う こ と は 他 の ど の 国 に お い て も 起 ら な か っ た。 ま さ. タリアにおいて起 っている私の全集版の企画は私にとっ て非常な喜 びとするところです。 私がし ばしば感謝の念を持っ た客と して生活した青年時代以来, イ タリアは私にとっ て大変みじかな も. )」 す3 . の と 感 じ て い ま す し, 私 の作 品 に お い て, そ こ は 大 変 しば し ば 繰り 返 さ れ る 要 素 で も あ り ま i d d M 別 荘 の r に あ る n a o o スイ ス ば り 日 か M 夏には4 n n はその年の 書 た a う に い , こ うい う ふ. ) 10月, 彼 は ロ ー マ 自 然 科 学国 際 ア カ デミ ー の 外 国 会 員 に 任 命 さ を 訪 れ る ほ ど に な っ て い る4 。 ) この i hi Baudine 教 授 の 推 薦 に よ っ て, イ タ リ ア 文 学 賞 を 受 け て い る6 ) 。 れ5 , 1953年 に は B anc が ら しい て た え い 考 , 延び ような名 誉に感謝の意を述 べるた め, 当時から Mann は ロ ー マ 旅 行 を 7 ) . よ うな当時 の手紙 延 び に な り, 実 際 に は こ の 旅 行 は 1953年 4月 に 行 な わ れ た の だ っ た . 次 の ” ” と 会 が あ る. 「私 は か っ て, Buddenbrooks の 初 稿 を 書 き お こ した 寛 大 で, 善 良 な る都 市 再 i に あて た 手 紙 ) 」 こ れ は 全 集 版 翻 訳 者 Lavinia Mazzucchett で き る こ と を 大変 喜 ん で い ま す8 。. で あ る が, こ の 時, Mann は彼女ら関係者 に大変な 歓迎を受けたらしく, 数年来の文通による友 te ” ) ま た こ の ロ ー マ 旅 行 の 時, 関 係 の あ っ た ” Der Erwahl 人 と 深 い 関 係 を 築 い た の で あ っ た9 。 1 は次 の )の著者 Franco Rizzo に あ て た1954年 9月24日 付 の 手 紙 で Man・ o 書i. のすばらしい研究. よ う に 言 っ て い る。. 「す で に か な り 以 前 よ りイ タ リ ア に お い て 私 の 作 品 が ひ き お こ して い る 異 常. ともいえる人 々の興味を聞いて, 私は大変幸福に思います=) 。」. しか しながらこの旅行で特筆す. ロ ー マ の 山 奥 の 田 舎 町 パ レス トリ ー ナ を 訪 ね て い る 点 に あ ろ a Thomas Mann(ト ばにある石段 道がこの世界的な作家を祝っ て Vi. べ き こ と は Mann が 久 しぶ り に,. う。 そ してここでの宿のそ ー マス 。マ ン通り) と名ずけられたこと (前出) も我々は忘れることができない。 彼は 1954年 1 2 ) に も, つ ま り 没 す 前 年 に も 寒 い 2月 を シ シリ ア, ロ ー マ, フ ロ ー レ ンス な どで 過 して い る. 註. ‘Thomas Mann in l i l ta en” i l ,539 ck ;‘ , ○, 1) vg ,a ,S , ,a x von Bri . Ma b i d S 4 0 l 2) vg .l , .5 . b id l 3) vg , ,l ’ a i nes Lebens’ to Mayer:”Thomas Mann Bine chronik se , . in und Hans-0ヒ l 4) vg , 日ans Barg a .211 . ○. ,S . d.S b l l 5) vg ,212 . i . l 6) vg ,S .239 .lbid . id l 7) vg . ,lb l i ta en i i lomas Mann in l l ck:”T1 .540 8) vg , 0り S ,a ,a . MaX von Br. d i l 9) vg . ,lb ’ a a 0 S k Se ines Lebens’ i [ ann Eine Chron L as M in und Hans-ot t , , ayer:”Th。m Hans Bi i , , , , o N[ rg 239 .. ” i en“ .540 . 0. ,a ,S ,a , 1 0) vgl X von Brack : Thomas Mannin ltal , Ma l 11) vg . .lbid. 68- -1.
(12) . ト ーマ ス eマンのイタリア体験 〔□〕 ‘ i 1 2) vgl ef el948一1955 undNachl . Thomas Mann:‘Br ika Mann ese“ sg l scher ver , Her ,Von Er .Fi , ,S , 1965 ,S .326仔, Hans Bi in und Hans-oはo M i rg [ [ ayer:”Thoma ines LebenS「 a k se sM ann Eine chroni .a , 0, ・ ’S 244 ,. 結. 論. 以上は Maan のイ タ リ ア 体 験 を 書 簡, 日 記, 芸 術 作 品 か ら , 特 に 彼 のイ タ リ ア に 対 す る 姿 勢 に力点を置きながら述 べたものである この姿勢から 一見簡単に見えるが 決して そうではな 。 , , い Mann の 内 的 精 神 の 形 成 を 見 よ う と す る の が 私 の 次 の ね らい で も あ る しか し Mann の特性 。 の全貌 が こ れ に つ き る も のでな いこ とは 重 ねて 言 うこ と もあ るまい 。. 本論の展開の如く, 第一次世 界大戦 ( 「大戦」と略す) 以前の書簡, 日記風 な作品 (”Lebens‐. iss”) に は 最 も 簡 潔 に ab iv な 姿 勢 が 現 わ れ , あ り の ま ま に Mann のイ タ リ ア に 対 す る negat て お り, そ れ は 彼 の ドイ ツ 的 内 面 性 の 強 さ を 我 々 に 植 え つけ ずに は い な い 。 同 様, そ の 時 期 ま で. の本論に見られ る芸術作品にも, またそれだけ でなく彼のその時期ま でのす べて の作品のなかに も, 本質と して多くの北方的 ドイ ツ的なものが根 強く拡がっていることに我々は論議の 余地を持 たな い。 Schopenhauer, Niet zsche , Wagner を 体 験 し, 死へ の 親 近 感 を 深 く 抱い て い た 若 い 頃. から, 芸術家はまず芸術家であって政治は決して自分の領域 ではなく , ドイ ツ的人間性は政治 に 対して根本的に反抗 し, また ドイ ツ的教養概念には政治的要 素が欠けてい る と言うほど非政治 , 的な思想を目から突き進んでいっ た大戦以前の Mann.は全く ドイ ツ的であ る 自国に住 むべ き 。 場所がなく, 一種の自 由意志によ る亡命者となって 好きでもないイ タリアに行き そこで書き , , 始めた ”Buddenbrooks” に お い て, 彼 は ま ずそ う であ る ロ マ ー ソの 舞 台 が 最 も ドイ ツ 的 な リ 。 ュ ウ ベ ッ ク だ か ら と い う だ け で な く, こ の ロ マ ー ソの な か に 4代にわたる ドイ ツ市民の魂の 発展. と 没 落, つ ま り い か に (Wie) 人 間 ら しく な る か の 過 程 が 描 か れ て い る 点 に お い て , ま た ロマー ソの 中 心 人 物 Thomas Buddenbrook の 真 塾 な 内 的 態 度 に お い て ドイ ツ 的 であ る 。 Thomas Buddenbook は 活 動 的 に Buddenbrook 家を維持しようと自己の内部 の敏感な感 受性からく る. 市民性の衰退に対 して, じっ とがまんする人間であるが 年を取るに つれ 健康を害し 極度に , , , 感 受 性 を 深 め て い き, あ る 日 ”Die Wel t al l l s wi tel lung” を 読 ん で, 死 に 憧 れ る e und Vors. ようになる。 その彼は若き Mann の頗廃的な態度を最も純粋に表 わし 我. , 々に Mann の ドイ ツ 的な姿をほとんど決定させ るかの観があ る そ してその姿は ” Tonio Kr6ger” に お い て 「私 。 , はふたつの世 界のあいだに立っています そのどちらにも安住 の地を得ません だから多少生活 。 。. が 面 倒 に な る の で す」 (皿. S ) と 最 も 簡 潔 に 若 き Mann の苦悩を表現する こう いう二義 . .337 。 的 な 意 味 で 世 界 に 向 っ て 開 か れ て い る 態 度1 ) , こ れ こ そ, 全 く ドイ ツ 的 であ る。 従 っ て, 彼 は こ う 言 い 得 る の であ る。 「… …イ タ リ ア な ん か どう だ て い い っ , 軽 蔑 した く な る く ら い で す. … … ビ ロ ー ドの よ う な 碧い 空, 熱 い 酒 甘 美 な 能 官 … 要 す … に る そ ん な も の は 願 い 下 げ で す. … … そ , l うい っ た 美 (bel べ ) は す ezza て 私 を 焦 立 た せ る の です」 (前 出) と 事 実 ” Tonio Kr6ger “ を 。 「自 分 が ど の 程 度 に ドイ ツ 的 であ る か のひ と つ の 答 であ る」 (孤 S 92) と Mann 自 身 言 う う よ , 。 . に, こ の 作 品 は 主 人 公 の 外 的風 貌 (Tonio Kr6ger と い う 名 前 そ の も の が 南 欧 と 北 欧 の 混 血 児. で, 中間的名前である点等) , 内的精神, 文体, 言葉, リズム (重々しく, 煩雑であ る点) , そし て 音 楽 性 に お い て, 正 しく ドイ ツ 的 であ る ま た “Der Tod in Venedig “ の Aschenbach は 。 ‐. Thomas Buddenbrook を 思 わ す 点2 )で ドイ ツ 的 であ る こ う 見 て く ると 大 戦 以 前 の Mann は 。 , -1儀 一.
(13) . 岡. 光. 一. 浩. is Fontane, Raabe, Storm な どの よ う に 北 ドイ ツ 的地 方 性 を 感 じさ せ る. デ カ ダ ンス, Noval ,. aten や Wagner な ど の芸 術 上 の 血 病 気, 死 へ の 危 険 な ロ マ ン的 傾 向, ペ ダ ソテイ シ ュ な 点, P1 Mann の ドイ ツ的作家を思 縁 者, ュ ‐ モ ア とイ ロ ニ ー, ロ マ ン主 義 と ル タ ー 主 義 こ れ らす べ て. に向 わしめる. 大戦以前の Mann の世界はまだ外 に向かず, 純粋に 詩人一個の内面の生活のみ に けられ, 従 って, 個人の城を出ない自己の内面を見る芸術家がおのずから精神的, 倫理的領域 こなるのは当然と言 / とどまって, 政治的な領域には踏み得なく, 増々 ドイ ツ的性格を帯びるよ うt え る.. タリ ア に 対 しか し Mann を ドイ ツ 的 と 規 定 で き る の は 大 戦 以 前 で あ ろ う。 こ の こ と は 彼 のイ. タリ する姿勢にも 顕著に現われている。 大戦以前の彼が全く ドイ ツ的で, 南方に嫌悪を感じ, イ は ドイ ツ 的 と ア やイ タ リ ア 的 な も の を, 心 を α““6sg“ す る も の と した の に 対 し, 大 戦 以 後 の 彼. 言うにはほど遠い国 際性を示 し, イ タリアやイ タリア的なものを肯定する立場を取る。 この時期 の書簡, 日記風な作 品で, 我々がイタリアに彼の故郷があるか のような響を耳にするのと同様, ” Der Zauberberg“ の 芸術作品においてもその肯定的な姿勢を見 つけることができる。 そ れは 主. 公 C tr. as o p 瞬間的には 作 者 と 同 一 人 物 と な り 得 るイ タ リ ア 人 Settembrini の 教 育 の な か に, 人 てい の姿勢のなかに, そ して特 にこのロマーソの百科全書的, 辞書編纂的傾向に強い形で現われ ” Mario und der Zauberer“ “ Doktor Fa tus” には一見, 19世紀市民小説技術 us る 一方 .. ,. ものに対 の 流 れ に 属 す る 作 品 か と 我 々 に 感 じさ せ る と こ ろ も あ り, 彼 のイ タ リ ア やイ タ リ ア 的 な M 3 ) こ で ann の が 々 は こ 我 する姿勢も negativ と 規 定 さ せ る 観 も な い こ と は な い 。 しか しな ら bstkommentar) が あ り, パ ロ ディ, イ ロ ニ ー が 独 特 な 方 向 か ら作 品 の テ ー ゼ に 文 学 に 自 註 (Sel 変 形 を も た ら す こ と を 銘 記 した い。 こ の 表 現 方 法 は こ こ で も, つ ま り Mann とイ タ リ ア と の 文. 学的関係にも, また作品におけるイ タリア的な 諸テーマにも重要なものである。 本論 に 見 る 如. ” ” tus“ の パ レス トリ ー ナ 章 は パ ロ ディ で あ り, Der Zauberberg の 文 明 文 く, ”Doktor Faus ” Mario und der Zauberer” の tembrini はイ ロ ニ ッ シ ュ な 人 物 であ る。 そ し て 士 Set ホ negativ な 姿 勢 は, イ タ リ ア か ら ひ と つ の 物 語 を 作 る た め の 誘 因 と な る 要 素 と して 私 は テ ル や. ) 海辺における不気嫌さと共に緊張した雰囲気を必要とした4 , と言う Mann 自身の言葉にも 示さ. れ るよ う に, イ タ リ ャ やイ タ リ ア 的 な も の へ の 悪 意 や 嫌 悪 か ら で な く, フ ァ シ ズ ム の 空 気 に よ る ものであ た 事実と虚構からなるこの作品の雰囲気があまりに negatir な た め, 作 者 のイ タ リ. っ . アに対する姿 勢も制限されたのである。 大 戦 を 境 と して, Mann は精神的 (芸術作品) にも, 行動的 (書簡, 日記) にも世紀の伝統的 ロマー ソの限界を越え, また彼自身が手を加わえて洗練 して きた自然主義の限界をも越え, 歴史 が 的 普 遍 的 な も の, イ ン ド, エ ジ プ トの 神 話, ヨ ー ロ ッ パ 中 世 初 期 の 問 題 へ と 向 き を 変 え る , こ. の傾向が Mann のイ タリアに対する姿勢にも現われていると言える。 大戦以前の彼の北方的性 格に 対し, 大戦以後, 彼は国際性を示し, イ タリアやイ タリア的なも のへも傾斜を持つようにな Mann のイ タリアに対する感情曲線は大戦を境と して こ のようにみてく ると た の であ る っ. 。. ,. tiv に 推 移 して い る と 言 う こ と が で き る。 も ち ろ ん 一 人 の作 家 の な か にあ る特 negativ か ら posi. に全面的に転化することなどあり 得ない。 単純に, 機械的に分析分 i iv な場合であ れ, 単一 t iv な 場 合 で あ れ, pos 類 す る こ と 自 体, 全 く 危 険 な も の であ り, negat の要素から成るものではない であろう。 しか し, 方向を把むとい う意味ではこのような見方も 許 iv へ の推移曲線は大戦によって, Mann が t iv か ら posi さ れ る と 思 う. そ の う え, こ の negat 若い 頃の悲劇性を克 服し, ドイ ツ を代表する作家から世界的作家となり得た曲線でもある. 従っ. 質が. i iv t negativ か ら pos. 0- 7 -1.
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