栃内曾次郎研究
33
0
0
全文
(2) 一. 栃 内 曾 次 郎 研究. はじ めに. 本 稿 は 、明 治 期 か ら 昭 和 前 期 に か け て の 日 本 海 軍 軍 人 で あ り 、 海 軍 大 将 、貴 族 院 議 員 ま で つと め た 栃 内 曾 次 郎 に ついて、そ の年 譜 を 作 成 し 、そ の人 と な り を 考 察 し よ う と す る も のであ る 。 稿 者 は 、以 前 、曾 次 郎 の子 であ る 吉 彦 の随 筆 に ついて教 材 と し て分 析 ・考 察 を 加 え た こ と が あ る 。そ の中 で、稿 者 は 、吉 彦 に つい て、次 のよ う に 記 して いる 。. . 栃 内 が 札 幌 を 遊 学 の地 に 選 択 し た 理 由 は 、栃 内 の父 の宮. 比呂 己. 北海 道 教育 大学 釧 路校 准 教授. 佐野. 曾 次 郎 は 、や が て 植 物 学 者 と な る 吉 彦 に 大 き な 影 響 を 与 え. た 人 物 で あ る こと は いう ま でも な い。. . 曾 次 郎 に ついて の研 究 は 非 常 に 少 な く 、曾 次 郎 の伝 記 を ま と. 講談 社. 平成十三年. め た も のは 野 村 実 氏 、及 び ﹃日 本 人 名 大 辞 典 ﹄ ( 上 田 正 昭 ・西. 澤 潤 一 ・平 山 郁 夫 ・三 浦 朱 門 監 修. (二 〇 〇 一) 十 二 月 ) が 見 ら れ る 程 度 であ る 。. ﹃日 本 人 名 大 辞 典 ﹄ の ﹁栃 内 曾 次 郎 ﹂ の 項 目 に は 次 の よ う な 記 述 が 見 ら れ る。. 1⊥. -⊥. と ち な いそ う じ ろ う. バ リ 86 1 93. 部 金 吾 への敬 慕 が 一つの機 縁 であ った と いう 。栃 内 の 父 曽 次. 明 治 - 大 正 時 代 の軍 人。. 栃内 曾次郎. 郎 が 幼 小 のこ ろ 、札 幌 農 学 校 の学 生 であ った 新 渡 戸 稲 造 を. 慶 応 2年 6 月 8 日生 ま れ 。 陸 奥 盛 岡 藩 士 栃 内 理 平 の次. (現 北 大 )予 科 か ら 海 軍 兵 学 校 に は い る 。. つ. 同 郷 の先 輩 と し て 、し ば しば 学 校 の寮 を 訪 ね た 。そ の際 、た. 男。 札幌農学 校. む. ま た ま 同 室 で あ った 宮 部 の人 と な り に 傾 倒 し 、植 物 学 を 志. 明 治 24 年 海 軍 大 学 校 卒 業 。 イ ギ リ ス 大 使 館 付 武 官 、 海. ヨ. す な ら そ の指 導 を と 父 か ら す す め ら れ た か ら だ と いう 。. ω④ 包包.
(3) 軍 省 軍 務 局 長 、 海 軍 次 官 を つと め 、 大 正 9 年 海 軍 大 将 、. 合 艦 隊 司 令 長 官 と な る 。 佐 世 保 鎮 守 府 司 令 長 官 ・軍 事. て は 海 軍 次 官 で あ った 。 大 正 九 年 八 月 、 大 将 に 進 み 連. (一九 三 二 ) 三 月 、 貴 族 院 議 員 に 勅 選 さ れ た が 、 同. 参 議 官 を 経 て大 正 十 三 年 二 月 、 予 備 役 に 入 る 。 昭 和 七 年. 年 七 月八 日盛 岡市 で講演 中 に倒 れ、 同月 十 二日同 地 で. 平 成 元 年 (一九 八. 連 合 艦 隊 司 令 長 官 と な る。 貴 族 院 議 員 。 昭 和 7 年 7月 12 日 死 去 。 67歳 。. 九 )九 月 )、及 び ﹃日 本 近 現 代 人 名 辞 典 ﹄(臼 井 勝 美 ・高 村 直 助 ・. 死 去 、 六 十 七 歳 。 [参 考 文 献 ﹂ 海 軍 有 終 会 編 ﹃近 世 帝 国. 野 村 氏 は 、﹃国 史 大 辞 典 ﹄(吉 川 弘 文 館. 平 成 十 三 年 (二 〇 〇 一) 一. 吉 川 弘文館. 鳥 海 靖 ・由 井 正 臣 編. 海軍史 要﹄. れ て いる 。. ま た 、 ﹃日 本 近 現 代 人 名 辞 典 ﹄に は 、次 のよ う な 記 述 が な さ. 月 )に お いて 、﹁ 栃 内 曾 次 郎 ﹂に ついて 項 目 執 筆 を 担 当 し て いる 。い ず れ も ﹃日 本 人 名 大 辞 典 ﹄よ り 詳 細 な 記 述 と な って いる 。 ﹃国 史 大 辞 典 ﹄に は 、次 のよ う な 記 述 が な さ れ ている。. 一九 三 二. 明 治 か ら 昭 和 時 代 前 期 に か け て の海 軍 軍 人 。陸 奥 国 南 部. 一八 六 六. 藩 士 栃 内 理 平 の次 男 と し て慶 応 二 年 (一八 六 六 )六 月 八 日. 栃内 曾次郎. 出 生 。札 幌 農 学 校 予 科 を 経 て 海 軍 兵 学 校 に 進 み 、明 治 十. と ち な いそ う じ ろ う. 九 年 (一八 八 六 )十 二 月 卒 業 。巡 洋 艦 ﹁ 金 剛 ﹂、旅 順 口 水 雷. 栃内曾 次郎. 敷 設 隊 の各 分 隊 長 な ど で 日 清 戦 争 に 、砲 艦 ﹁武 蔵 ﹂、巡 洋 艦. と ち な いそ う じ ろ う. 明 治 か ら 昭 和 時 代 前 期 に か け て の海 軍 軍 人 。 陸 奥 国 南. 一八 六 六. (一八 六 六 ) 六. ﹁須 磨 ﹂の各 艦 長 な ど で 日 露 戦 争 に 参 加 す る 。戦 後 、大 使 館. 一九 三 二. 月 八 日 出生 。 札 幌 農 学 校 予科 を 経 て海 軍 兵 学 校 に進 み 、. 部 藩 士 栃 内 理 平 の次 男 と し て 慶 応 二年. ﹁金 剛 ﹂、. 付 武 官 と し て 三 年 半 在 英 し 、装 甲 巡 洋 艦 ﹁吾 妻 ﹂艦 長 を 経. (一八 八 六 ) 十 二 月 卒 業 。 巡 洋 艦. 旅 順 口水 雷 敷 設 隊 の各 分 隊 長 な ど で 日 清 戦 争 に 、 砲 艦. 明治 十九年. ﹁ 須 磨 ﹂ の各 艦 長 な ど で 日 露 戦 争 に 参. 四 ) 五 月 、 中 将 。 第 一次 世 界 大 戦 で は 艦 隊 の 各 司 令 官. 港 部 司 令 官 ・横 須 賀 工 廠 長 を 歴 任 し 大 正 三 年. 将 に 進 む 。 海 軍 省 軍 務 局 長 ・練 習 艦 隊 司 令 官 ・大 湊 要. 甲巡洋 艦. (一九 一. ﹁吾 妻 ﹂ 艦 長 を 経 て 明 治 四 十 二 年 十 二 月 、 少. 加 す る。 戦 後 、 大 使 館 付 武 官 と し て 三 年 半 在 英 し 、 装. に 進 み 連 合 艦 隊 司 令 長 官 と な る 。佐 世 保 鎮 守 府 司 令 長 官 ・. ら 終 結 に か け て は 海 軍 次 官 であ った 。大 正 九 年 八 月 、大 将. 艦 隊 の各 司 令 官 や 海 軍 技 術 本 部 長 を 務 め た あ と 、後 期 か. し 大 正 三 年 (一九 一四 )五 月 、中 将 。第 一次 世 界 大 戦 で は. 習 艦 隊 司 令 官 、大 湊 要 港 部 司 令 官 、横 須 賀 工 廠 長 を 歴 任. て 明 治 四 十 二 年 十 二 月 、少 将 に 進 む 。海 軍 省 軍 務 局 長 ・練. ﹁武 蔵 ﹂、 巡 洋 艦. や海 軍 技術 本部 長を務 めたあ と、 後期 から 終結 に かけ. のの 包包.
(4) 軍 事 参 議 官 を 経 て 大 正 十 三 年 二 月 、予 備 役 に 入 る 。昭 和 七 年 (一九 三 二 )三 月 、貴 族 院 議 員 に 勅 選 さ れ た が 、同 年 七 月 八 日 に 盛 岡 市 で 講 演 中 に 倒 れ 、同 月 十 二 日 同 地 で 死 ら. 去 、六 十 七 歳 。 野 村 氏 の記 述 は いず れ も 正 確 で あ り 、過 不 足 な く 整 理 さ れ て いる 。し かし 、紙 幅 の関 係 も あ り 割 愛 さ れ た 部 分 も 少 な く な く 、 曾 次 郎 の生 涯 に ついて知 る 上 で は 十 分 な も のと は いえ な い。. 一一 栃 内 曾 次 郎 ・ 年譜 曾 次 郎 を 知 る 上 で 、﹃日 本 人 名 大 辞 典 ﹄、及 び 野 村 氏 の記 述 の. 明 治 四 十 四 年 (一. 他 に 次 の資 料 を 参 照 し 、年 譜 の作 成 を 試 み る 次 第 であ る 。 ● 鵜 崎 鷺 城 ﹃薩 の海 軍 ・長 の陸 軍 ﹄政 教 社. 筑摩 書 房. 0. 歳. 事. 項. 昭 和 四 十 五 年 (一九 七 〇 )五 月. 一〇 一1. 九 一 一) 一月 ( 鳥 谷 部 春 汀 ﹃明 治 人 物 論 集 ﹄明 治 文 学 全 集 92. ●栃 内 曾 次 郎 年 譜 西. 暦. 元 一 八六六. 号. 慶応 2. 一七 七 頁 ). ● 八 瀬 不 泥﹃郷 關 を 出 でし岩 手 の人 々﹄吉 野 山 荘 昭 和 四 年 (一九 二九 )五 月. ● 財 団 法 人 海 軍 有 終 会 編 ﹃近 世 帝 国 海 軍 史 要 ﹄昭 和 十 三 年. (一九 三 八 )( ﹃近 世 帝 国 海 軍 史 要 ( 増 補 )﹄明 治 百年 史 叢 書. 原 書 房 昭 和 四 十 九 年 (一九 七 四 )). ● 前 沢 隆 重 ﹃盛 岡 藩 家 老 栃 内 与 兵 衛 と そ の統 家 系 譜 伝 ﹄アポ. ロン社 昭 和 四 十 六 年 (一九 七 一)四 月. ●遠 山 崇 ﹁ 海 雷 水 雷 戦 術 の第 一人者 栃 内 曾 次 郎 ﹂( 岩手 日. 一三 六- 一三 八 頁 ). 報 社 ﹃岩 手 の先 人 ㎜人 ﹄岩 手 日 報 社 昭 和 六 十 二 年 (一九 八 七)十 二 月. 平 成 十 五 年 (二. ● 椎 野 八束 ﹃連 合 艦 隊 司令 長 官 ﹄( 戦 記シリ ー ズ第 六 十 一号 ・. 別 冊歴 史読 本 三 十 五号 新 人物往 来社 〇 〇 三 )二月 ). 6 月8 日 陸 奥 国 南 部 藩 士・ 栃 内 吉 之 の 次 男 と し て 岩 手 県 上 田 村 ( 現・ 岩 手 県 盛 岡 市 玉 山 区 。 上田 ) に生まれる 。 。 、 兄は 元吉 嘉 永 四 年 (一 八 五一) 六 月 八 日 生 ま れ 西 南の 役に 参 加 し 熊本で 准陸軍 少. き よ は 原 敬 の 友 人 で あ り 警 察 署 長 な ど を 務 め た 八 角 彪一. 、 。 、 尉心 得 と な り 屯 田 兵 事 務 局 に 勤 務 その 後 永 山 屯 田 兵 本 部 長に 随 行し 各 国 を 視 察 し 屯 。 田 兵 村の 建 設に 尽 くし た 。 、 姉は四 人 つ なは上 田重 行. 剖剖 包包.
(5) 、 郎 ・ きえ は小 樽孤 児院 王. 、 で あっ た 赤 塚 治 徳. 一 八七九 15. 13. 。 海 軍 を 志 願 す る 者の た め に 海 軍 予 備 科が 設 置 さ れ る 攻玉 社に 入 学 。 海軍兵学校に入 学. 。 長 男・ 吉 彦 誕 生. 受 領の た め 回 航 委 員 と し. 。 ト し と ン)水雷 て従軍 た 長 。 日 と なる は 水雷術練習所教官 清戦争後. イ ギ リス か ら 購 入 し た ﹁ 扶 桑 ﹂ ( 二 七一 七. に 、 り し 日 をめぐる と に る 込み 雷 て 朝 清国 の関 が険 の す い 分隊 乗 水 長 鮮 本 係 悪化 伴 、 。 とし の て める 訓 に 特 長 指揮 兵員 努 練 水雷. 鵡﹂. きの は 北 海 道士 族の 佐 多 忠 庸に そ れ ぞ れ 嫁い 。 でいる 、 ると さ 白 っ ととも れ れて が官軍 た南部 わ に 同明 奥羽 に同 父 転封 石 敗 側 藩 加 皿 越 行 。 っ る て 岡に に の こで 入 小学校 戻 遭い盛 死 父 そ ⋮ ﹁ \ 注 次 と る 丈けあつて 将軍(稿者 曾 堂は賢夫人 郎)の 云は に子女を育て 々立 母 派 却. 明 治 12 一 八 八一 17. 。 札 幌 農 学 校 予 備 科に 進 む. 14. 一 八八三 12 月 10 日. 、 北 海 道 の 屯 田 頭 に なっ て い た 兄・ 元 吉 に 伴 わ れ 札 幌 に 移 り. 16 21. 。 を少 尉候補生として 卒業. 一 八八七. 12 月 1 日. 日 口 では 水 清戦争 旅順. 、 。 11 月 長 女・ 京 子 誕 生 ( 後 に 子 爵 山 内 豊 健 兄 豊 陽 と 結 婚 ) 、 。 11 月 二 女・ 富士 子 誕 生. 、 雷敷設隊 分隊に加わ り. 。9月26日 隊 に 分 筑波艦 9 日 月 に 官 24 少 尉 任 。 士 として乗 船 。 夏 海 軍 大 学 校 ( 丙 号 学 生) 卒 業 、 ト り し て い た 新 鋭 の 鉄 骨 板 艦 の 巡 洋 艦 ﹁ 金 剛﹂ ( 二 二 四 八 ン と リ な スに ギ イ 大尉 注文 ). 海 軍 兵 学 校 ( 13 期 生 ). 19 23. 25. 一 八八九. 一 八 九一. 21. 24. 30. 27. 一 八九六. 31. 一 八九三. 29. 一 八九七. 26. 30. ( 後に 奈 良 帝 室 博物 館 長の 内 藤三 郎 と 結 婚 ) 、 じ リ ﹁ っ 中 を 軍 局に転 スで イギ た一等巡洋 だ 造 浅間﹂ 艦 務 建. ω劔 包包.
(6) 。 て イ ギ リス に 出 張 、 水 雷 長と し て 回 航 中 も 訓 練 を 重 ね な が ら. 35. 33. 31. 一 九 〇三. 一 九 〇二. 一 九 〇〇. 一 八九九. 38. 37. 36. 34. 33. 1 月 26 日. 5月. 。 る と え な 隊副官 常 。6月対露戦に 備艦 備 無 事回航を果たす. と の 中 に 、 結婚) 安場保雄 将 海軍 。(後 ・ 。12月 三女 三女子誕生 7 に昇 。9月中 進 佐 海 軍 省 副 官 兼 海 相 秘 書 官と し て 山 本 権 兵 衛 に 仕え る. ﹁ 浅 間﹂. 36. 一 九 〇四. 40. 。 海軍大 佐に 昇進. 功 四 級金 鶉 勲 章 12 月 1 日 海 戦 法 会 議 専 門 委 員 、 、 8 月3 日 帰 一等 国10月1日. 4 月1 日. 1 月 21 日. 日 険 四 附 ( ∼ 明 治 45 年 4 月 20 日 録謄写版洋人 )12月﹃洋人 本探 年表﹄(水交社記事第六巻第 號. ﹁ ッ ク と を ち バルチ 隊第六戦隊 三 磨﹂ 隊 対 旗艦)(∼12月12日)。 艦長(第 須 艦 接触 保 馬 、 。 、 。12月12日 官(∼ 大 使館付武 在英 リ ギ に と さ くっ 日 明治42年5月3日)イ ス 半勤 三 世界一 称 き に た の因を の 務 年 導 水道 つ 勝利 本海海戦. 横 須 賀 鎮 守 府 造 船 部工 廠 製で 国 産 初の 快 速 艦で あ る 三 等 巡 洋 艦. ト 。 ﹁ さ た イ ギ リス で 三六五 〇ン 副 建 造 れ 新 鋭 巡 洋 艦 浪 速 ﹂ ( ) 長 。 リ ﹁ ギ で ス の 同 出 イ 製 型 浪速﹂ 雲﹂副長 、 ト 。 9 月 日 露 戦 争 直 前 呉 鎮 守 府工 廠で 建 造 さ れ た三 等巡 洋 艦 ﹁ 宮 古 ) 艦長 ﹂ (一 七 七 ニ ン , 、 日 ﹁ ﹁ 開 とと もに の 四 ン 露 戦 争 戦 横 須 賀 鎮 守 府 工 廠 建 造 砲 艦 武 蔵 ﹂ ( 一 八 〇 ) 艦 長 八 幡 。 し と る て 丸 軍す ﹂艦長 従. 37. 一 九 〇六 42. 39. 39 一 九 〇八. 43. 一 九 〇五. 41. 一 九 〇九. 38. 42. 巡 洋艦﹁吾妻 ﹂. 。 、 。 艦 長 ( ∼ 12 月 1 日海 )12月1日 る と む 軍少将に な 軍務局長 軍 進 省 。. れ 。 リ ス ギ た を イ 研究 海軍事情. 日本探 瞼書籍目 録巻 。 末)発行. ㎝⑳.
(7) 43. 一 九一 〇 46. 44. 47. 一 九一 二. 一 九 =二. 45. 大正2. 49. 48. 一 九一 五 50. 四. 4 一 九一 六 51. 一 九一. 5 一 九一 七. 3. 6. 、 、 、 、 。 6 月1 日 呉 鎮 守 府 竹 敷 馬 公 要 港 部 第三 隊 特 命 検 閲 使 に 東 郷 平 八 郎 と と も に 任 ぜ ら れ る 、 。 、 4 月 20 日 練 習 艦 隊 司 令 官 を 務 め る ( ∼ 大 正 2 年 4 月 30 日 ) ﹁ 出雲 ﹂ に 座乗. 士 官 候補生を 乗 。 る め に 訓 せ艦務 努 練. 日 と日 露 戦 の 体 の 造 争 験 本 、 。 ・ し く で 巨 る を の な に 王義 発展 船技術 砲 大鑑 監理す 建艦計画 二万,ン級 い 一万,ン 基づ. 日 らド 同 の 関 か ツ 国 の 英 盟 係 イ 帝 租 借 地 青 。 と を 島 封鎖 膠州湾 、 。 四 隊司 を 歴任 第一艦 第 戦 第三戦 令官. ( ∼ 大 正 3 年 8 月 18 日 ). 、 第一 次 世 界 大 戦 で は. 。 、 。 大 湊 要 港 部 司 令 官 ( ∼ 12 月 1 日 )12月1日 軍中将に 工 昇進 海 廠長 横須賀. 。 隊司令 官. 。 海 軍 技 術 本 部 長 ( ∼ 大 正 6 年 9 月 1 日). 、 。8月18日 第二艦 海軍 中将. 5 月 24 日. 、 5月. 、 12 月 13 日. 、 、 。 1月 周 波 数 変 更 器 周 波 変 更 装 置 と いっ た 高 周 波 電 気 通 信 を 発 明 、 。 。 9 月1 日 加 藤 友三 郎 外 相の 下 で 海 軍 次 官 と な る 八八 艦隊基本計画を構想 、 ﹁ し く る を 町の の 内中 た 内 に 訪れ 邸宅 麻布永坂 将 栃 定 栄転すべ 海軍次官 近. 折節 中将 は 海軍 省 、 し レ さ る と を メ に げ子夫人が代つて た後で 出勤 れた 幾度か 思はれ 通つた 地味な 応接 水 浴衣 、 う と しく さ しさ ンスの な た▲ 云 えた は がに る に そ 昼夜帯 先づ床 服 素 つ 見 夫人 嬉 す 語 装 質 、 う り し も 尤 か 実なのでせ れは ません あ そんな話 だ宅では少 主人は先年青島戦に出か 真 未. ら く も し り てそ けま 引 か ぎを て な たが間 ま の め 方へ勤 れ 継 南洋 方へ行つ 居 海軍省 技術本部. 。 日 し ることに こと に ウ も なつたので たが二三 で 前の た の モ で﹃俺 一同が晩餐の 家 就 職 今 席 族 、 ら り し く 此の になるが 二 てか なるまいが なけ か かなあ は 年 満 や へ転任 何処 ﹄ 一 ▲何処へ行 次. う し と申 こ に く と よ ま たので夫 関 卓が賑ひま た雑談で たが んな 早 来 は思ひませんで 食 、 。 為 ﹂10月1日 船 管理局 評議員 舶. DD ω鰺.
(8) 7 一 九一 八 52. 1 月 12 日. 。 交 通 事 故で 右 目 を 失 う. ﹁ 海 軍 次 官 栃内 中 将は 十二 日 夜 十 時 頃 築地 瓢 家よ り 赤 坂 霊 南坂二 三 車 宿 佐 藤権 之丞 方の 車 夫上. 原 千 松の 車 に 乗 り 霊 南 坂 の 官 邸へ の 帰 途 麹 町 霞 ヶ 関 貴 族 院 脇 を 電 車 通 り に 出 で ん と す る 曲 角 に 差. か か る や 虎の 門 の 方 よ り一 台の 自 動 車 疾 走 し 来つ て 衝 突 し 車 上 の 中 将 を 膝 掛 ぐ る み 跳 出 さ れ 重 傷. に辻車 一. を 命 じ て 南 佐 久 間 町二 の 岩 島 外 科 病 院 に 連 れ 込 み た り一 方 自 動 車 は 其 の 儘 日 比 谷 公. を 負ひ 血 塗れ となつ て 打 ち 倒れた る を 車夫 千 松が 抱き 起し ▲ 直 一. 園 方 面 に 逸 走 し た る が 日 比 谷 署 に て 取 調の 結 果 該 自 動 車 は 赤 坂 溜 池 日 本 自 動 車 会 社 の 貸 自 動 車一. 三 三 三 号に て 同 会 社 の 職 工 小 石 川 小 日 向 町 三 九 吉 田 八 十 吉 ( 二 三) が 練 習の 為 め 山 口 平一 及 齋 藤. 某 二 名 を 乗 せ 運 転 し 居 り し もの と 判 明 し 日 比 谷 署 に 引 致 さ れ 目 下 取 調 を 受 け つ\ あ り 尚 車 夫 千 松. 右眉 に八 仙 米 突の 裂傷を 受けた る 外 顔 面に五 箇 所左 下 腿 部に一 箇 所都 合七 箇 所. も 両 肘 其他に 打 撲傷 を 負ひ 治療 中な り ▲中将の 傷は 一. の 裂 傷及 擦過 傷に て 右 肩の 裂 傷を五 針 他三 箇 所も 縫合 手 術を 行ひ たる が 経過 良 好にし て 意 識も 明. 確 な れ ば 発 熱 等 よ り 余 病 の 併 発 な き 限 り は 約二 週 間 に し て 全 治の 見 込 な る も 右 眉の 裂 傷 は 意 外 の. 医を 特 一 派. し 診 断 す る な ど 頗 る 憂 慮 し 面 会 を 謝 絶し て 治 療 中 な り 中 将 夫 人 し げ 子 も 目 下 病 気. 重 く 視力に 減退を 来し た れば 其 経過 によ りて は 或は 失 明の 虞あ らん か と 海軍 省に ては 軍 ▲. に て 順天 堂 赤坂 分 院に入 院 加療 中な るよ り 令息 吉 彦(二 四 ) 氏 を 初 め 長 女 京 (二一) 二 女 富士. (二 十 ) 三 女さめ ( 十七 ) の 令 嬢 等 は一 同 病 院 に 詰 切 り 看 護 し つ㌧ あ り 十三 日 朝 来 報 に 接 し 親 戚. 大 島 陸 将 等 岩 島 病 院 に 見 舞ひ た り. 、 、 、 な る 東北 帝 国大 学農 科大 学 長佐 藤 昌介氏 を 初め 井上 元 帥 島 村海 軍大 将 加 藤 海将 山 本 権兵 衛 、 伯. 彦 翁の 狼狽一. 9. 尚 大 倉喜七 郎 氏が 自 動車 会 社の 社 長たる 関 係よ り 喜八 郎男は 此の 失態 を 聞きて ▲鶴. 。 軍需 次官. 大 に 狼 狽 し 直 に 会 社へ 駈 付 け 社 員 を 集 め て 大 叱 言 を 浴 せ た り と﹂ 。 国勢 調査 評議 会 副会 長 5 月 18 日. 6 月1 日. 幻勿 ω鰺.
(9) 9 一 九二 〇. 九一 =一. 54. 56. 58. 一. 一 九二 四. 11. 13 63. 66. 一 九二 九. 一 九三二. 昭 和4. 7. 8 月 16 日、. 、 5 月1 日. 。 海軍大 将 第一. 1日 ). 艦 隊 司 令 長 官 ( ∼ 大 正 11 年 7 月 27 日). 。 発行. 。 。(∼ 大正12年6月 )6月1日 連 合 艦 隊 司 令 長 官 再 就 任 ( ∼ 10 月 31 日佐世保鎮守府 司 令長官. 。 軍事参 議官 日 。2月 ﹃増修洋人 予 備 役 に 編入 本 探 検 年 表﹄ ( 岩 波 書 店 ). 兼 連 合 艦 隊 指 令 長 官 ( ∼ 10 月 31. 日)。. 、 。 3 月15 日 貴 族 院 議 員に 勅 選 さ れ る 、 り ﹁ 達であ 軍の 軍 に 出 身の 実 吉 安 純 子 を 失つ た 後 を 補 充 す る 意 味か ら 海 軍 方 面 海 先 、 ら り も し と か のであ た 岡出 は の関 があ て 推薦 盛 身政友会 原敬以来特殊 係 つ 新代議士八角 し も る と 中 た のために つて八角 手県まで 挙に の になつてゐ は 将 三郎 応援 君 行 岩 選 先般 親戚 11. 。 程で あ る ﹂ 、 。7月8日 に 中 で 教職員 生徒 告辞 中 校 名 誉 校 長 に 就 任 する壇上 学 手 私立 岩. ら し さ けてゐ 睡 に 内 を 中 あい 続 状態 れ昏 見護 入院家族近親 岩手病院 卒倒市 起 脳溢血 つ. 岩 手 中 学 校の 名 誉 校 長 と し て 全 生 徒に. し り と 当を ぎ へたが午後五時昏睡状態に陥 院長等手 め 院 手病院に な 大騒 危 加 佐藤 せ 入 岩 、 と 日 し な た げ の 中 が 時 で 北大教授嗣 篤 つ 子夫人 甥 八角海軍 将 八 午後十 半上野発 急行. ﹁の 誉 中 を 受 し 八 日 午 前 十一 時 軍大将貴 院 内 次郎氏は私立 学 手 海 族 議員栃 曾 岩 校 名 校 長 諾 、 り し たので 頃 四 の て に 訓 る頃に を そ 対 全生徒 十分 挨拶 就任 移つ 示 突然卒倒 終 れ. 。 脳 溢血 で 倒 れ る. 12. 。 。67歳 子 吉 彦 ( 四 〇) も 札 幌 を立 ち 九 日 夕 刻 盛 岡 着の は ず し ﹂7月12日 た 岡で 死去 盛 ﹁ 日 る 八 員栃内曾次郎氏は去 軍大将貴族院 私立 議 海. 13. た が 十 二 日 午 前一 時 四 十 分 遂 に 逝 去 し た﹂. 魍.
(10) 栃 内 曾 次 郎 の人 と な り. 八 月 一日に投 宿 後 開 拓 使 に赴 き 開 拓 使 御 用掛 の職 にあ り. 谷 部 書 記 官 を 訪 ふ、在 ら ず 、又 馬 島 醸 君 を 訪 ふ、晩 食 の. 三. 曾 次 郎 に と って 、兄 ・ 栃 内 元 吉 は 親 以 上 の存 在 であ った 。元 吉. 饗 あ り 。佐 藤 昌 介 君 を 訪 ふ、在 ら ず 。去 り て栃 内 元吉 君. 義 兄 にあ たる 佐藤 昌 介 を 訪 ねる。﹁旅 寓 を 京華 楼 に定 め長. は 曾 次 郎 よ り 十 五 歳 年 長 であ り 、父 ・吉 之 は 曾 次 郎 の幼 いこ ろ に. を 訪 ふ。佐 藤 君 も 亦 至 り相 伴 ふ て蒼 海 楼 に 小 酌 す 。遂 に. 兄 ・栃 内 元 吉. 亡 く な って いる 。兄 ・元 吉 が 栃 内 家 の家 督 を 引 き 継 ぎ 、盛 岡 、東. 栃 内 君 の邸 に 宿 す ﹂と あ る 。原 は 、宿 を 取 り 消 し 元 吉 の家. 1. 京 、札 幌 と 居 を 移 す が 、曾 次 郎 も そ れ に ついて いく こと に な る 。. に 泊 ま る ほど の仲 であ った こと が わ か る。. 学 博 士 と し て 北 海 道 の地 で 研 究 生 活 を 送 る が 、そ こ に は 元 吉 の. と し て 北 海 道 に 渡 る 。札 幌 本 道 開 削 工 事 の 監 督 と し て 、. 明 治 四 年 (一八 七 一)二 十 歳 。開 拓 使 に 採 用 さ れ 、等 外 一等. ぬ. 後 年 、曾 次 郎 の長 男 ・吉 彦 が 北 海 道 帝 国 大 学 農 学 部 に 進 み 、農. 存 在 が 大 き いこ と に 想 像 す る に 難 く は な い。以 下 、元 吉 の生 涯 に. ﹁ 年 上 の荒 く れ 男 達 を 督 励 し て ﹂、函 館 か ら 大 沼 公 園 、室. 蘭 から 鷲 別 ま で の道 路 工 事 を 完 成 さ せ る 。. 利 恭 公 白 石 藩 知 事 任 命 に 従 い、 一家 を あ げ て 、盛 岡 よ り 任. 慶 応 元 年 (一八 六 五 )十 四 歳 。元 服 。戊 辰 戦 争 後 第 四 十 一世. が 許 さ れ ず 、た だ 黙 認 さ れ て 乗 船 し 、ついに 陸 軍 少 尉 心 得. が 屯 田 兵 を 率 いて 出 征 す る に 当 た り 、頻 り に 従 軍 を 請 う た. 折 か ら 西 南 の役 が 勃 発 。以 前 か ら 面 識 のあ る 堀 基 准 大 佐. 盛 岡 藩 士 栃 内 吉 之 の嫡 子. ついて 、左 に 摘 記 す る 。 嘉 永 四 年 (一八 五 一)六 月 八 日. 地 白 石 藩 白 石 城 地 へ赴 任 。父 吉 之 を 白 石 に 於 いて 亡 く し 、. に 採 用 さ れ 小 隊 長 と し て 従 軍 。凱 旋 後 、山 鼻 兵 村 付 と な. め. 明 治 十 年 (一八 七 七 )二 十 六 歳 。札 幌 警 察 署 事 務 職 員 と な る 。. 一家 の責 任 を 背 負 い、藩 主 利 恭 公 の盛 岡 藩 知 事 復 帰 す る に. る。. として誕 生 す る。. 及 び ま た 盛 岡 に 帰 る 。明 治 維 新 のあ わ た だ し い日 の中 に 少. る と 、そ の出 張 所 長 に 任 命 さ れ 、教 師 エド ウ ィン ・ダ ンの指. め. 明 治 十 一年 (一八 七 八 )二 十 七 歳 。江 別 に 洋 式 屯 田 が 置 か れ. 明 治 三 年 (一八 七 〇 )十 九 歳 。藩 校 作 人 館 入 学 。そ の後 、上. 導 を 受 け る 。北 海 道 帝 国 大 学 総 長 佐 藤 昌 介 の妹 直 子 と 結. 年 の日 を 送 った 。. 京 す る 。後 に 首 相 と な る 原 敬 と は 藩 校 作 人 館 に お いて 同. 婚 し ている 。. 所 を 襲 い、か ね て 不 和 だ った 屯 田 兵 と 警 察 は 、犯 人 の捕 縛. 明 治 十 三 年 (一八 八 一)三 十 歳 。樺 戸 集 治 館 の脱 獄 囚 が 出 張. 室 と な り 、上 京 後 も 親 交 が あ った 。原 敬 が 郵 便 報 知 新 聞 社 員 と し て 渡 邊 洪 基 に 従 って東 北 ・北 海 道 を 旅 行 し た 際 に 、 明 治 十 四 年 (一八 八 一)八 月 一∼ 九 日 ま で 札 幌 に 滞 在 し 、. 蟹.
(11) を め ぐ って 対 立 激 突 、負 傷 者 を 出 す 。元 吉 は こ の間 に あ って. 曾 次郎 は、札 幌農学 校 予科を 卒業後 に海 軍兵学 校 に入 っ た と いう 異 色 の 経 歴 を 持 つ。. 海 軍 兵 学 校 に 進 む いき さ つに つい て 、 前 澤 隆 重 氏 は 日 本. 事 態 処 理 に尽 力 す る。 明 治 十 六 年 (一八 八 三 )三 十 二 歳 。五 月 、陸 軍 大 尉 に 任 官 。. の勃 興 期 に 成 長 し た 時 代 的 北 且 凧に 言 及 し 、 次 の よ う に 述 べ. . 21. 海 軍 軍 人 と し て の曾 次 郎. 20. 明治四十. 鵜 崎 の筆 致 に ついて 、木 村 毅 氏 は 次 のよ う に 述 べている 。. 四 年 (一九 一 一) 一月 )の記 述 を 確 認 して いく 。. あ ろ う か 。鵜 崎 鷺 城 の﹃薩 の海 軍 ・長 の陸 軍 ﹄( 政 教社. 軍 人 と し てど のよ う な 功 績 を 持 ち 、ど のよ う な 評 価 を 得 た ので. 最 終 的 に は 海 軍 大 将 ま で のぼ り つめ る 曾 次 郎 であ る が 、海 軍. (1 ) 鵜 崎 鷺 城 ﹃薩 の 海 軍 ・長 の 陸 軍 ﹄. 3. る こと は推 測 でき ると こ ろ で あ る。. い ず れ に せ よ 、 兄 ・元 吉 の 影 響 を か な り の 部 分 で 受 け て い. 遠 山 氏 は 兄 ・元 吉 の 労 苦 を 考 え て の 決 断 で あ る と し て い る 。. 前 澤 氏 は 屯 田 兵 少 尉 と し て の 兄 ・元 吉 の姿 が 影 響 を 与 え 、. の念 に 燃 え 、. 長 兄 の 労 苦 を 見 か ね 学 費 一切 を 削 除 さ れ る 海 軍 志 願. ま た、 遠 山 崇 氏 は次 のよ う に 述 べ て い る。. 軍 に 入 る 決 心 を かた め、. し て いる 姿 を み て、 兄 が 陸 軍 な ら 自 分 は 海 軍 で と 、 海. 一方 で は 、 兄 元 吉 の 屯 田 兵 少 尉 と し て の 日 常 の 活 躍. て い る。. 明 治 一一 十 年 (一八 八 七 )三 十 六 歳 。陸 軍 少 将 永 山 武 四 郎 のロ シア ・アメ リ カ 及 び 清 への派 遣 に 随 行 し 、ロシ ア のド ン・コサ ッ ゆ. ク 兵 の制 度 を 研 究 し て 帰 国 す る 。こ れ に よ って 村 落 体 と し て の兵 村 は 大 いに 改 良 さ れ る 。 明 治 一一十 五 年 (一八 九 一一)四 十 一歳 。陸 軍 屯 田 兵 少 佐 を 拝 命。 明 治 一一十 八 年 (一八 九 五 )四 十 四 歳 。日 進 戦 争 に 従 軍 。東 京 に て待 機 中 終 戦 を 迎 え る 。 明 治 三 十 一一 年 (一八 九 九 )四 十 八 歳 。旭 川 連 隊 区 司 令 官 と な る。 明 治 三 十 七 年 (一九 〇 四 )五 十 三 歳 。 二 月 、 召 集 さ れ て 日. 札幌農学校 予科から海軍兵学校 へ. に お いてで 没 す る 。. 昭 和 十 八 年 (一九 四 三 )九 十 三 歳 。十 一月 八 日 、藤 沢 市 鵠 沼. 業・ 牧 畜 業 な ど を 営 み 、競 馬 会 社 な ど に も 関 係 す る 。. そ の後 実 業 界 に 転 じ 、北 海 道 に お いて 石 炭 業 ・製 糸. 進み退役。. 明 治 三 十 八 年 (一九 〇 五 )五 十 四 歳 。凱 旋 、陸 軍 歩 兵 中 佐 に. 露 戦 争 に従 軍 。. 2. ω紛 ω鰺.
(12) ・. 一種 の辛 辣 味 を 有 し 、ま ま 骨 を え ぐ り 、肝 を ひ し ぐ よ う な び. 彼 (稿 者 注 ⋮ 鵜 崎 )は 身 み ず か ら 政 界 の表 裏 に 出 入 し て. 筆 鋒 を 弄 す る。 ・ 実 際 知 識 を も って いる こと を 誇 り と し 、他 の新 聞 記 事 や 、伝 聞 に 基 づ いて 評 論 を も のし て いる 人 を ﹁ 卓 上 評 論 家 ﹂と あ ざ お. 薩 閥 の出 にあ ら ざ る も 隠 然 海 軍 部 内 に勢 力 を 有 し、又. 権 兵 衛 と 何 等 親 族 関 係 な く し て極 めて権 兵 衛 に 好 く 、居. 然 本 省 中 枢 部 の働 役 者 たる者 、 一は艦 政 部 長 中 将松 本 和 、. 一は軍 務 局長 少 将 栃 内 曽 次 郎 と す 。. 鵜 崎 の書 名 が 示 す と おり 、明 治 時 代 以降 、 一般 に ﹁ 薩 の海 軍 、. 明 治 四 十 四 年 (一九 一 一)五 月 )と 並 ぶ 鵜 崎 の. 木 村 氏 は 評 価 し て いる 。こ の﹃薩 の海 軍 ・長 の陸 軍 ﹄は ﹃朝 野 の五. 鵜 崎 の書 く 文 章 は 事 実 を 基 に し て 、切 れ 味 鋭 いも ので あ る と. 薩 摩 藩 出 身 であ り、山 本 権 兵 衛 と の親 族 関 係 も な い中 で、頭 角. 代 表 さ れ る長 州 閥 が勢 力 を握 っていた。海 軍 の幹 部 のほとんど が. 郎 に代 表 さ れる薩 摩 閥 が、陸 軍 にお いては山 県 有 朋や 桂 太 郎 に. 長 の陸 軍 ﹂と いう よう に 海 軍 に おいては 山 本 権 兵 衛 や 東 郷 平 八. 大 閥 ﹄(東 亜 堂. を 表 し た 人 物 と し て静 岡 藩 出 身 の松 本 和 と 南 部 藩 出 身 の 曾 次. け って 、ひ そ か に 高 しと す る 風 が あ った 。. 好 著 で あ る 。木 村 氏 は ﹃薩 の海 軍 ・長 の陸 軍 ﹄に ついて 次 のよ う に. 郎 が並 び 称 さ れる。. 光 を 思 う て、ま だ 軍 閥 を 信 頼 、尊 敬 し て いる 時 、早 く も 病. 軍 閥 の横 暴 が ま だ 目 立 た ず 、国 民 は 日 露 戦 争 勝 利 の栄. る 深 く 怪 む を 用 ゐ ず 。彼 は 海 軍 大 学 教 授 故 荒 川 某 の女 婿. 否 や は 疑 問 な る も 、系 統 既 に 斯 く の如 し と せ ば 、其 今 日 あ. 栃 内 も 財 部 一派 の人 な り 。果 して 軍 務 局 長 の貫 目 あ る や. . 評 価 し ている 。. 毒 が そ の全 組 織 にま わ っている のを 洞 観 し て 、憧 り な く な く. に し て 常 に 俊 秀 の中 に 数 へら れ る 。戦 歴 と し て は 赫 々伝 ふ べ. き 程 のも のな く 、日 露 戦 争 の時 僅 二 千 噸 以 内 の小 艦 長 た る. ぬ. 筆 珠 を 加 え た のも 実 に この書 で あ る 。 言 い換 え れ ば 、﹁軍 閥 が 日 本 を 亡 国 に み ち び く のを 予 見 し た. に 過 ぎ ざ り しが 、通 報 、偵 察 、掩 護 の功 亦 没 す べか ら ざ る な. お. め. 書 ﹂で あ る 。も と も と 明 治 四 十 三 年 (一九 一〇 )十 月 か ら 明 治 四. り。. でが や っと であ った が 、曾 次 郎 は 小 型 艦 を よ く 御 し た 。三 等 巡 洋. る 。当 時 、日 本 の造 艦 能 力 は 技 術 的 に 未 熟 で あ り 、二 千 トン級 ま. いる が 、曾 次 郎 の妻 ・ し げ 子 は ﹁栃 木 県 人 阿 部 久 次 郎 次 女 ﹂で あ. 鵜 崎 は 曾 次 郎 を ﹁海 軍 大 学 教 授 故 荒 川 某 の女 婿 ﹂であ る と して. ここ で いう 財 部 と は 、当 時 の海 軍 次 官 ・ 財 部 彪 のこ と で あ る。. の. 十 四 年 (一九 一 一)十 月 ま で ﹃日 本 及 日 本 人 ﹄に 連 載 さ れ た も の であ る 。当 時 、曾 次 郎 は 海 軍 の軍 務 局 長 の職 に あ った 。. (2 ) 鵜 崎 鷺 城 の 曾 次 郎 評 ﹃薩 の海 軍 ・長 の陸 軍 ﹄の中 で の鵜 崎 鷺 城 の曾 次 郎 への評 価 は き わ め て高 いも のが あ った 。. ω④ ω鰺.
(13) 艦﹁ 宮 古 ﹂(一七 七 ニ トン)艦 長 と しての活 躍 を 鵜 崎 は 次 のよ う に. む れ ば 其 事 必 ず 成 ら ん と は海 軍 部 内 に 於 け る批 評 な り。. 彼 は 縦 令 閲 歴 の足 ら ざ る も 軍 務 局 長 と し て 必 ず し も 不 適. 乃 ち 栃 内 の円 満 に し て 建 設 の才 あ る を 知 る べし 。要 す る に. 当 時 我 海 軍は 敵 を 旅 順 に封 鎖 して完 全 な る海 上 権 を 獲. 任 に あ ら ず 。其 権 兵 衛 に 親 愛 せ ら る yは 松 本 の如 く 夫 妻 倶. 記 している。 得 したるも 、更 に 一歩 を 進 めて大 連湾 付 近 海 面 の掃 海 を 行. 曾 次 郎 は 学 問 に 明 る く 、﹃明 治 三 十 三 年 清 国 事 変 海 軍 戦. に 私 邸 に 日 参 して 握 睾 術 を 実 行 す る が 為 め に あ ら ず し て 、. して威 嚇 砲 撃 を 加 へ、或 時 は 随 所 に敵 の沈 没 せる 機 械 水 雷. 史 ﹄抄 巻 一- 五 ( 海 軍 大 臣 官 房 )な ど の著 書 が 見 ら れ る 。﹁ 実務. ひて 一層 安 全 を 保 持 せざ るべか ら ず 。是 に 於 て宮 古 は 他 の. の危 険 を 冒 し、或 ひは敵 状を 偵 察 し或 ひは艇 隊 を 収 容 す る. の 才 ﹂も あ り 、将 来 を 見 通 す カ も あ り 、﹁円 満 に し て建 設 の才 ﹂. 真 に 海 軍 の為 め に 必 要 の人 物 な れ ば な り 。. 等 連 日に 亘 りて能 く 任 務 を 遂 行 したり 。適 々我 海 軍 に取 つ. も あ る と し て曾 次 郎 を 鵜 崎 は 高 く 評 価 す る のであ る 。. 二 艦 と 土ハに掃 海 艦 隊 掩 護 の任 に当 り 、或 時 は陸 地 に接 近. て不 幸 な る椿 事 を 見 る に至 れ り。日 は三 十 七 年 五 月 十 四 日、時 は四 時 三 十 分 夕 陽 漸 く 西 に落 ち て渤 海 の波 を 彩 るの. ら ず 。是 れ宮 古 が敵 の機 械 水 雷 に触 れ たるに て艦 は繰 に 二. 潮 は幾 十丈 の天 に直 上 し 水 煙 四 辺を 籠 めて艦 影 を 認 むべか. ち 轟 然 たる 爆 声 宮 古 の艦 尾 に起 ると 思 ふ 間も な く 、怒 れ る. て の出 張 で あ る 。二度 目 は 、明 治 三 十 八 年 (一九 〇 五 )十 二 月 十. スで建 造 中 だ った 一等 巡 洋 艦 ﹁ 浅 間 ﹂を 受 領 のた め 回 航 委 員 と し. (一八 九 七 )、曾 次 郎 が 水 雷 術 練 習 所 か ら 軍 務 局 に 転 じ 、イ ギ リ. 曾 次 郎 に は 二 度 の渡 英 体 験 が あ る 。 一度 目 は 、明 治 三 十 年. 曾 次 郎 と イギ リ ス. 十 分 余 に して沈 没 したるも 二 十余 名 の死 傷 者 は僚 艦 の救 ふ. 二 日 か ら 明 治 四 十 二 年 (一九 〇 九 )五 月 三 日 ま で の在 英 大 使 館. 4. 処 と な りぬ。栃 内 は此 名 誉 あ る宮 古 艦 長な り しな り。後 ち. 付 武 官 と し て の約 三 年 半 の勤 務 で あ る 。当 時 の 日 本 の艦 船 で 大. 時 、其 日 の作 業 を 終 へて将 に掃 海 艇 隊 を 収 容 せんと す 。忽. 彼 は 須 磨 艦 長 に転 じ 片 岡 の摩 下 に 属 して 日本 海 海 戦 に 参. 的 に は イ ギ リ スか ら か な り 遅 れ を と り 、二 千 トン級 ま でが 限 界 で. 型 のも のの大 部 分 は イ ギ リ ス製 で あ った 。日 本 の造 艦 能 力 は 技 術. 彼 は海 軍 内 部 有 数 の学 者 にして今 日に 至る まで海 軍 に関. あ った 。渡 英 の中 で 、曾 次 郎 は 、当 時 、世 界 一と 称 さ れ る イ ギ リ. 加 せり。 す る著 書 少 から ず 。且実 務 の才 も あ り 、目先 も 見え ざ るに. ス海 軍 事 情 を 研 究 し ている 。. ま た 、曾 次 郎 は 、こ の間 に イ ギ リ ス流 の生 活 に も 傾 倒 し ている 。. あ ら ず 。大 佐 太 田 三 次 郎 を して立 論 せ しめ大 佐 佐 藤 鉄 太 郎 を 先 鋒 に立 て㌧縦 論 横 議 せしめ 、栃 内 を して之 を 纏 めし. のの ω鰺.
(14) 帰 国 後 、私 服 は も ち ろ ん 、背 広 は ロンド ンに 直 接 注 文 し 、下 着 も イ ギ リ ス製 で、リ ンネ ル のハンカ チ に は ナ ンバー が ふ って あ った ほ ど であ る 。当 時 、﹁海 軍 一のジ ェント ルマン﹂の賞 賛 と ﹁ イ ギ リ スかぶ. 人柄. れ ﹂の批 判 を 同 時 に 受 け て いる 。. 5 ﹃朝 日 新 聞 ﹄によ れば 、幼 少 期 の曾 次 郎 は かな り 元気 な 子 ど. 昭 和 七 年 (一九 三 二 )三 月 、曾 次 郎 は 貴 族 院 議 員 に 勅 撰 さ れ. る が 、八 瀬 は 政 界 に 曾 次 郎 が 進 出 す る こと を 予 言 す る 。. 栃 内 大 将 は 曽 つて は 海 軍 大 将 と し て令 腕 を 揮 ひ 、海 軍 部. 内 の 一名 物 で あ つた 、か つて は 英 国 大 使 館 附 武 官 も や つた が 、. 海 軍 技 術 本 部 長 、海 軍 工 廠 長 な ど の技 術 方 面 に 功 が 多 い、. 想 像 す る に 彼 は 純 軍 人 と いふ よ り も 政 治 家 肌 を 多 分 に も つ. て る 男 で、か れ も 恐 ら く こ のま yに 晩 年 を 楽 隠 居 の身 と して. と や つた のであ る、併 し学 校 の成 績 は大 分 良. 名 を 曾 次 郎 と 云 ふ のを 南 部 詑 曾 々と 云ふ 。夫 を 更 に 言 ひ. 吹 つ掛 け る ので友 達 は ﹁ 糞 々﹂と緯 だ名 にして居 た △将 軍 の. 少 年 時 代 には 非 常 に腕 白 で何 時 も 餓 鬼 大 将 と な り喧 嘩 を. 将 軍 と 同 じ く か れ の 一眼 か へつて よ く 世 界 を 透 視 し 得 る で. のも 気 の毒 で あ つた 。男 振 り は 落 ち た が 有 名 な 山 地 独 眼 龍. の乗 用 車 が 電 車 に 刎 ね 飛 ば さ れ 、あ た ら 一眼 を 失 明 さ せ た. 機 会 を 覗 つて 居 る のであ る ま いか 。数 年 前 虎 の門 に 於 てか れ. 晩 酌 の 盃 ば か り な め て終 る と 思 は ぬ が 、恐 ら く 政 界 進 出 の. 替 へてく そ く. もであ ったよう であ る。. く 始 終 ク ラ スの首 位 を 占 め て ゐ た. あ ら う か も 知 れ ぬ。 ( 砺 内 は 海 軍 部 内 に 聞 え た 酒 遂で 、飲 め 慨 が あ り 、 一種 の豪 傑 で あ る 、. 曾 次 郎 は 相 当 な 酒 豪 で あ った 。無 類 の愛 酒 家 と し て 知 ら れ る. ば 又 談 論 風 発 の気. か な り 活 発 な 子 ど も で あ った こ と が う か が え る 。 さ ら に 、. 首 相 で 先 輩 で あ った 斎 藤 実 と は 、斎 藤 の自 宅 を 訪 ね 、夜 半 ま で. ﹁ 腕 白 ﹂、 ﹁ 餓 鬼 大 将 ﹂、 ﹁ 喧 嘩 を 吹 つ掛 け る ﹂ と あ る か ら 、. 成 績 も 優 秀 で あ る と い う か ら 、 目 立 つ存 在 で あ っ た こ と で. 酒 を 酌 み 交 わ す こ と が 再 三 あ り 、次 のよ う な 二 日 酔 いに 関 す る. そ の当 時 の 子 爵 ( 稿 者 注 ⋮ 斎 藤 実 )は 、海 軍 切 つて の酒 豪. 逸 話 が 残 って いる 。. あろう。 八 瀬 不 泥 氏 は ﹃郷 關 を 出 でし 岩 手 の人 々 ﹄の ﹁海 軍 の巻 ﹂の中 れ. で曾 次 郎 の人 柄 を 同 郷 の先 輩 であ り 海 軍 大 将 で あ った 山 屋 他 人. に 酒 豪 と いはれ た のだ か ら 、そ の酒 量 は 蓋 し驚 く 可 き も のが. であ ら れ た 。概 し て 酒 を よ く 飲 ん だ 昔 の海 軍 士 官 の中 で、特. 栃 内 (稿 者 注 ⋮ 曾 次 郎 )は いつ れ か と いへば 豪 放 篇 落 、よ. あ つた こ と だ ら う 。殊 に 次 官 と いふ 最 も 忙 し い激 職 に 居 ら. のそ れ と 対 照 す る 形 で 、次 のよ う に 記 述 して いる 。. く 飲 み よ く 談 ず る と いふ 方 で あ る が 、( 中 略 )栃 内 の性 格 の. れ 、酒 盃 に 親 ま れ る 機 会 が 多 か つた ので 、さ す が 豪 酒 家 の子. . あ くまで軍 人ら しい( 後略). 剖剖 ω鰺.
(15) 恐 ら く 宿 酔 の経 験 が あ り 、そ の対 症 療 法 ﹁迎 へ酒 ﹂の秘 訣 を. ( 稿 者 注 ⋮ 曾 次 郎 )も 、相 当 な 酒 豪 で あ つた か ら 、若 い時 は. 爵 も 、時 に 宿 酔 に 悩 ま さ れ る こ と が あ つた と いふ 。私 の父. 常 の子 煩 悩 でして今 では末 子 の三 女 子 ( 十 八)が主 人 の秘 蔵. と 書 斎 に入 り 込 んで読 書 を して居 り ます 、若 い時 代 から 非. 棋 謡 曲 玉 突 等 の方 には 全 然 手 出 し致 しま せん 、暇 さ へあ る. こと はあ りま せん 、全 く の武 骨者 でして他 人 様 や う に碁 将. け れど 、三 女. 心 得 て ゐた も のと み え て、之 を 子 爵 に レコメ ンド し た さ う で. 団. つ子 とな つて居 りま す 大 変 な ▲田 圏. だ け に は 、二 月 に 一度 位 は 銀 座 辺 ま で引 つ張 り 出 さ れ て 色. 34. あ る。 ま た 、長 男 ・吉 彦 は 曾 次 郎 と の ﹁ 親 子 酒 ﹂の思 い出 を 次 のよ う. 農 大 の三 年 又 長 女 京 子 (二 二 )は 他 家 に 嫁 いで 居 り ま す ので. ﹃洋 人 日 本 探 険 年 表 ﹄. 前 項 で 鵜 崎 が 曾 次 郎 に ついて ﹁ 海 軍 内 部 有 数 の学 者 ﹂であ る と. 鹿 の樽 がはいつた から親 子 酒 を や り に出 て来 いな どンいふ葉. 著 し た 探 検 誌 、航 海 記 、見 聞 録 、風 土 志 、研 究 資 料 等 を 鋭 意 収. いう 労 作 を 著 書 に 持 つ。曾 次 郎 の在 英 時 、欧 米 人 が 日 本 に ついて. 評 し て いる こ と を 引 用 し た が 、曾 次 郎 は ﹃洋 人 日 本 探 険 年 表 ﹄と. 6. が え る。. 無 口 で は あ る が 、子 煩 悩 であ り 、読 書 家 で も あ る こ と が う か. 宅 に お る のは 次 女 富 士 了 、三 女 三 女 子 の二 人 丈 け です. ん な 買 物 を 背 負 は さ れ て 来 ま す 、長 男 の吉 彦 (二 五 )は 札 幌. に 記 し ている は な し、。 カ 落 語 家 の先 代 小 さ ん が よ く 親 了 酒 と いふ 話 を した 。親 子 で 仲 よ く 酒 を のん でいる う ち に 、二 人 と も し た \か 酔 払 つて し ま つて 、親 父 が 、こ ん な 顔 の三 つも 四 つも あ る 化 け も のに は こ の身 代 は 譲 れ な い、と 管 を ま く と 、停 も 負 け て ゐ ず 、こ ん な ぐ る く ま は る や う な 家 を 誰 が も ら つて や る も のか と い ふ 。私 は 、父 の晩 年 、あ る 宴 席 の余 興 で 、こ の先 代 小 さ ん の 親 子 酒 を 、親 子 そ ろ つてに や に や し な が ら き いた こと が あ る 。 はく. そ れ 以 来 父 は 私 と 二 人 で楽 しむ 晩 酌 を 親 子 酒 と 称 し、白 東 京 から 札 幌 によこした りした .親 子 酒 は対. しカ. 書 を はる ぐ. 集 し 、整 理 し た も のが 、こ の﹃洋 人 日 本 探 険 年 表 ﹄であ る 。. あ. ト シ テ 面 白 ク 感 シ タ ル所 ヲ 拾 ヒテ 綴 リ タ ルモノ ナ リ 而 シ テ 之. 此 ノ 年 表 ハ明 治 四 十 一二 年 中 英 文 ノ 書 籍 二依 リ 余 力 船 乗. す る 。そ の ﹁ 緒 言 ﹂に 発 行 に 至 った 経 緯 が 記 さ れ ている。. 號 附 録 と し て、謄 写 版 洋 人 日 本 探 険 書 籍 目 録 巻 末 に 附 し 発 行. 明 治 四 十 二 年 (一九 〇 九 )十 二 月 、水 交 社 記 事 第 六 巻 第 四. 酌 が親 子な るが故 に酒 は雅 趣 を 生 ず る。. ﹁白 鹿 の樽 ﹂を 親 子 二 人 で 飲 も う と いう のだ か ら 、親 子 そ ろ つ ての酒 豪 ぶ りが う か が え る と ころ で あ る。 ﹃朝 日 新 聞 ﹄は 妻 ・ し げ 子 に 曾 次 郎 の家 庭 で の様 子 を 取 材 し 、 次 のよ う に 記 し ている 。 主 人 は 食 事 の時 を 除 く 外 は 滅 多 に 私 共 と 口を 聞 く や う な. ω劔 ω鰺.
(16) 二日 本 書 ヨリ 得 タ ル少 許 ノ 記 事 ヲ 対 照 ノ為 メ加 ヘタ ルモ素 日. 曾 次 郎 は、昭 和 七 年 (一九 二 七)二 月 、﹃洋 人 日本 探 険 年 表 ﹄. 其 ノ後 読 ムニ連 レ聞 クニ連 レ年 表 ノ紙 面 雑 然 タル加 筆 二満. を 増 訂 し、十 数 年 の歳 月 を 経 て岩 波 書 店 から ﹃増 修 洋 人 日 本 探. 年 表 中 ノ 記 事 西 暦 側 ノ ニ 面 ハ総 テ 洋 書 二依 リ 日 本 年 号 側. チ 一大 整 理 を 要 す ること と な り 同 時 に 近 年 南 蛮 吉 利 支 丹. 本 書 乏 シキ 国 二在 リ タ ル間 ノ漫 筆 ナ レハ日 本 書 側 ノ 記 事 ハ比. ノ ニ 面 ハ日 本 書 二依 ル年 月 日 乃 至 普 通 数 ヲ田 里 一 洋 数 字 ノミニ. 本 の出 顕 数 多 く 夫 等 を 読 んで簡 単 にど の時 代 ど う 云ふ 事. 検 年 表 ﹄を 発 行 している。そ の自 序 に改 訂 の経 緯 が 記 さ れ ている。. テ 顕 シタ ル所 多 キ ハ書 写 ノ 便 二従 ヘルノ ミ冊 尾 ノ書 目 ノ多 数 ハ. に関 連 す るか の前 後 の対 照 には貧 弱 な る余 の年 表 が 座 右 に. 較 的 雑 駁 杜 撰 ナ ルヲ 免 レサ ルヘシ. 余 ノ 眼 二触 レタ リ ト 云 ハンヨリ ハ余 ノ 手 二触 レタ リ ト 云 フニ止 マ. 欠 くべから ざ る 役 目 を為 せるより 思 立 ち たる儘 整 理 に取 掛. 寄 せている。. れ. が あ り 、 ﹃増 修 洋 人 日 本 探 検 年 表 ﹄の巻 末 には新 村 が ﹁ 践 文 ﹂を. 同時 期 にヨー ロッパに留 学 していた国 語 学 者 ・ 新村 出とも交流. 献 資 料 を 参 照 し、加 筆 ・ 修 正に取 り組 んだ のであ る。. 曾 次 郎 は、日 本 の書 籍 にあ る 記事 や 南 蛮 資 料 や キリシタン文. り単 行 本 として同 好 家 及専 門 家 の叱 正 を請 ふこと とな せり. ルモノ多 シ 余 ノ此 年 表 篇 綴 中 二文 明 協 会 ノ 欧 米 人 ノ 日 本 看 出 テ タ ル ハ余 ノ歓 迎 スル所 ナ リ 此 ノ 機 会 二於 テ 余 ハ此 ノ 年 表 篇 綴 中 余 二与 ヘラ レタ ル内 外 諸 氏 ノ好 意 ヲ謝 ス 明 治 三 十 八 年 (一九 〇 五 )十 二 月 十 二 日 、曾 次 郎 は 在 英 大 使 館 付 武 官 と な る 。イ ギ リ スで 曾 次 郎 は 、世 界 一と 称 さ れ る イ ギ. 欧 米 人が 日本 に関 して著 はし\探 検 誌 航 海 記はた 見 聞 録 風. 二十 年 前 著 者 の英 京 に駐 在 せられ しや 、公 暇 を利 用 して、. 一年 (一九 〇 八 )か ら 日 本 に 帰 国 す る 明 治 四 十 二 年 (一九 〇 九 ). 土 志 及 び其 の他 諸 種 の研 究 資 料 を 鋭 意 蒐 集 せら れ き 。是. リ ス海 軍 事 情 を 研 究 す る 。イ ギ リ スの生 活 に も 慣 れ た 明 治 四 十. ま で の 二 年 の間 に 休 暇 を 利 用 し 、英 文 の書 籍 に 目 を 通 して いる 。. ひし 所 の探 検 航 行 と 通 商 貿 易 と の経 路 如 何 、国 土 観 察 と. れ 固 より 単 に愛 書 好 奇 の情 を 充 た さ んが為 めにあ ら ず 、蓋. こ の年 表 は 、年 次 ご と に 英 文 の記 事 と 日 本 の書 籍 の記 述 を 対. 教 学 伝 播 と の如 何 を 詳 かにす るにあ りしな ら ん。当 時 予 亦. 曾 次 郎 の語 学 力 は 相 当 な も ので、洋 書 を 読 む 際 に は 英 和 辞 典 は. 照 す る 形 と な っている が 、イ ギ リ スの地 に お いて は 、く ま な く 日 本. 倫 敦 に遊 学 し、屡 々古 書 を 大 英 博 物 館 の図 書 室 に探 り しこ. し其 の集 書 の目 的 たる 、彼 等 洋 人 が 我が 海 帝 国 に向 ひて行. の書 籍 に 目 を 通 す こ と は 難 し く 、日 本 の記 事 は ﹁小 許 ﹂で あ り 、. と あ りしが、而 も 時 々著 者 の書 斎 に出 入して其 の旧儲 新 得. 一切 用 いず 、読 み こな し た 。. 英 文 の記 事 に 比 し ﹁ 雑 駁 杜 撰 ﹂と な ってし ま った と 反 省 し て いる 。. ω① qq.
(17) に か \れ る 這 般 近 代 の史 籍 地 誌 の閲 覧 を 縦 ま \に す る を 得 、 . 稗 益 す る 所 少 からざ りき。. 面 目 を 発 揮 し た る も のと 謂 ふ べし 。. 予 平 素 自 ら 史 伝 の要 項 を 体 裁 に 編 す る を 好 み 、私 か に. 表 癖 を 以 て し て 此 の探 検 年 表 の刊 行 に 接 す 、何 ぞ 歓 び 迎 へ. 以 て 簡 捷 に し て 検 索 の便 甚 だ 大 な り と 為 せ り 。藪 に 予 の年. 幾 許 も な く し て 、著 者 は 其 在 英 中 行 余 の業 績 を 要 約 し て 一. ざ る を 得 ん や 。況 ん や 日 本 の海 表 諸 邦 に 対 す る 史 実 に 就 き. 明 治 四 十 二 年 著 者 と 予 と 春 夏 相 前 後 し て帰 朝 せしに、. 冊 と な し 、名 づ け て洋 人 日 本 探 検 年 表 と いひ 、之 を 私 刊 し. ては 予 亦 感 興 極 め て深 き も のあ る に 於 て を や 。. 一、年 表 ( 千 五 百 一年 前 記 ). さ れ て いる 。. ﹃増 修 洋 人 日 本 探 検 年 表 ﹄は 全 百 七 十 九 頁 、次 のよ う に 構 成. 新 村 は 、﹃増 修 洋 人 日 本 探 検 年 表 ﹄を 高 く 評 価 す る ので あ る。. ら ず 蕪 雑 の辞 を 列 ね て 践 文 と な す 。. る yに 及 び 、予 欣 喜 の情 措 く 能 は ざ る も のあ り 、乃 ち 敢 て 悼. 今 此 の新 修 の年 表 、幸 に 岩 波 氏 の好 意 に 依 り て 出 版 せ ら. て 少 数 同 好 の士 に 頒 布 せ ら れ ぬ 。即 ち 今 増 訂 して 新 刊 せ ら る y所 の年 表 の初 版 本 と な す 。予 亦 一本 の恵 与 を 得 て 、参 の. 考 の資 に供 せしこと 頗 る多 かり き。 曾 次 郎 の ロン ド ン で の研 究 の様 子 、 新 村 と の交 流 の様 子 が う かが え る。 ﹃洋 人 日本 探 険 年 表 ﹄は極 めてわ ず かな 部 数 が 発 行 さ れ るに 終 わ り、関 係 者 に頒 布 さ れる のみであ った。新 村 も 曾 次郎 の﹃洋 人 日本 探 険 年 表 ﹄を 参 照 していたと いう のであ る。. 二 、年 表 ( 千 五 百 一年 以 降 ) 三 、冊 尾 付 録. 爾 来 、著 者 退 閑 の後 更 に東 西 新 古 の史 書 を 博 捜 して日 本 探 検 史 に 関 す る造 詣 愈 々深遠 を 加 へ、旧作 の年 表 を増 益 修. 一. して公 刊 将 に 弘 く史 学 家 読 史 者 の座 右 に備 へら れ んと す 。. 本 に 数 倍 し 、且 つ附 録 と 索 引 とを 添 へ、内 容 外 形 全 く 一新. 四 露 人 の千 島 諸 島 来 侵. 三 異 船 打 払 令 の消 長. 二 水 戸 の快 風 丸 到 石狩 川 口記 事. 海 軍 歴 史 の小 笠 原 記 事. 訂 す ること歳 あ り、是 に於 て記 載 補 註 せら れし事 項 は初 版. 量 に慶 す べき にあら ず や 。 領 に 属 す る所 の海 事 の智 識 を 待 つて閲 明 せら れし所 多 々存. 七 濠 州 の発 見. 六 ペルリ 艦 隊 訪 日遠 航 行 動 表. 五 露 領 及 北 米 漂 流 者 一覧. す べき な り。然 ら ば 、則 ち 之 に 由 り て此 の著 書 永 く 学 界 に. 八 洋 人 日 本 探 検 書 籍 目録. 若 し夫 れ 年 表 中 探 検 航 海 等 の考 察 に 至 つては、著 者 の本. 異 彩 を 放 つに 足 り、海 将 にして愛 史 家 た る著 者 亦 能 く 其 の. DD qq.
(18) 九 四 、索 引. 鉄砲 記. 2. み やべき ん ご 昭 和 一一 十六. 宮 部金 吾. 一八 六 〇 1 一九 五 一. 万 延 一-. 閏 三 月 七 日 幕 臣 宮 部 孫 八 郎 式 臣 の五 男 と して 江 戸 下 谷 御 徒 町. 明 治 から 昭 和 時 代 に かけ ての植 物 学 者 。万 延 一年 (一八 六 〇 ). いている 。﹁一、年 表 ( 千 五 百 一年 前 記 )﹂は 極 め て 少 な く 、わ ず か. に 生 ま れ る 。東 京 英 語 学 校 を 経 て札 幌 農 学 校 官 費 生 と な り 、明. ﹃増 修 洋 人 日 本 探 検 年 表 ﹄の記 事 は す べて 横 書 き で 記 載 さ れ. 三 頁 を 割 く のみ であ る 。 一方 、﹁二 、年 表 ( 千 五 百 一年 以 降 )﹂が. 治 十 四 年 (一八 八 一)札 幌 農 学 校 を 卒 業 。新 渡 戸 稲 造 と 内 村 鑑. 三 は 札 幌 農 学 校 の同 期 。そ の年 から 開 拓 御 用 掛 と して東 京 大 学. 大 部 分 を 占 め 、九 十 二 頁 を 割 いている 。 れ. ﹃増 修 洋 人 日本 探 検 年 表 ﹄に ついて、書 評 の中 で今 宮 新 は次 の. も 、 兎 に 角 歴 史 専 門 家 で な い 著 者 の努 力 に 依 て か \る. 不 便 で あ り 且 つそ の 引 用 書 に 於 て も 充 分 で な いと す る. 本 書 は 此 を 使 用 す る 場 合 に他 の も の に 比 し て 少 し く. 物 病 理 学 を 担 当 。同 校 が 東 北 帝 国 大 学 農 科 大 学 、北 海 道 帝 国. 明 治 二 十 二 年 (一八 八 九 )帰 国 し教 授 と な り 、植 物 学 ・ 菌学 ・ 植. 六 )アメ リカ のハー バー ド 大 学 に留 学 し て海 藻 学 と 菌 学 を 学 んだ 。. 治 十 六 (一八 八 三 )年 札 幌 農 学 校 助 教 授 。明 治 十 九 年 (一八 八. で植 物 学 を 学 び 、か つ北 海 道 、千 島 の植 物 の研 究 に 従 事 した 。明. 特 殊 な 年 表 が 作 ら れ た 事 は 実 に 喜 ぶ べ き 事 であ る 。 本. 大 学 にな った 後 も 引 き 続 き 教 授 。明 治 三 十 二 年 (一八 九 九 )理 学. よう な評 価 が 見 られ る。. 書 が か y る方 面 の唯 一の 年 表 と し て当 然 史 学 家 読 史 者. 博 士 。昭 和 二年 (一九 二 七 )停 年 退 官 し名 誉 教 授 。昭 和 五 年 (一. む. の 座 右 に 備 へら る べ き も の で あ ら う 。. 九 三 〇 )帝 国 学 士 院 会 員 。昭 和 二 十 一年 (一九 四 六 )文 化 勲 章. 受 章 。昭 和 二 十 四 年 (一九 四 九 )札 幌 名 誉 市 民 。北 海 道 ・千 島 ・. 使 用 に不便 であり、 引用 が不 十分な 部分 も散 見され るも の の、 欧 米 と の外 交 の史 実 を 知 る 上 で座 右 に 置 く べ き 書 と. 墓 地 にあ る 。. (一九 五 一)三 月 十 六 日 札 幌 で 死 没 。九 十 歳 。墓 所 は、札 幌 円 山. 病 理 学 担 当 の教 授 と な った。熱 心 な ク リ スチ ャン。昭 和 二 十 六 年. を 記 念 し て宮 部 線 と 命 名 さ れ た。そ の後 植 物 病 理 学 に転 じ 植 物. 島 ・得 撫 島 間 )に植 物 分 布 の顕 著 な 境 界 を 発 見 、のち に宮 部 金 吾. を 挙 げ た 。昭 和 七 年 (一九 三 二 )千 島 列 島 中 の得 撫 海 峡 ( 択捉. 樺 太 の植 物 相 を 調 査 研 究 し、植 物 病 害 の調 査 研 究 に多 く の業 績 ﹁ 海 将 に し て愛 史 家 ﹂と 評 す る よ う に 、曾 次. し て評 価 し て いる。 新村 が曾次郎を. 注. 一- 一三 頁 ). ﹁ 教材 ﹁ 浅 春 随 筆 ﹂考 ﹂( ﹃釧 路 論 集 ﹄第 三 十 九 号 平 成 十九 年 ( 二 〇 〇 七 )十 一月. 北 海道 教 育. 郎 の多 様 な 方 面 で の才 能 を 感 じ ず に は いら れ な いと こ ろ であ る 。. 1. 大 学 釧路 校. 幻勿 qq.
(19) 新書. 平 成 十 一年 (一九 九 九 )七 月 )では 、秋 山 真 之 の作 戦 上 で. 宮 部 金 吾 博 士 記 念 出 版 刊 行 会 編 ﹃宮 部 金 吾 ﹄( 岩波書店. 野村実 ﹁ 栃 内 曾 次 郎 ﹂(臼 井 勝 美 ・ 高 村 直 助 ・鳥 海 靖 ・ 由 井正 臣編. の貢 献 に 異 論 を 唱 え ている。 5. 平 成 十 三 年 (二〇 〇 一)一. 学 研 究 科 に 出 向 、専 門 的 な 歴 史 研 究 に ついて清 水 潤 三 に 師 事 。. の編 纂 に 従 事 す る ( こ の作 業 に 前 後 して慶 慮 義 塾 大 学 大 学 院 文. 修所 ( のち 防 衛 研 究 所 )で、戦 史 室 戦 史 編 纂 官 と し て﹃戦 史 叢 書 ﹄. 際 軍 事 裁 判 海 軍 被 告 人 弁 護 事 務 を 担 当 。そ の後 防 衛 庁 防 衛 研. 験 、海 軍 兵 学 校 教 官 で 終 戦 を 迎 え る 。終 戦 後 は 復 員 庁 で極 東 国. ﹁ 武 蔵 ﹂乗 組 、軍 令 部 第 一部 付 ( 作 戦 記 録 係 )で太 平 洋 戦 争 を 経. 四 二 )十 一月 十 四 日 卒 業 時 成 績 順 位 次 席 。空 母 ﹁瑞 鶴 ﹂、戦 艦. 根 中 学 校 を 経 て海 軍 兵 学 校 第 七 十 一期 入 校 。昭 和 十 七 年 (一九. 日 本 の海 軍 軍 人 、軍 事 史 研 究 者 。専 門 は 日 本 海 軍 史 。旧 制 彦. 六 )筑 波 に 乗 り 組 み アメリカ 巡 航 、明 治 十- 十 一年 (一八 七 七 -. 四 )卒 業 、この間 台 湾 出 兵 に従 軍 。明 治 八 - 九 年 (一八 七 五- 七. 韓 論 に 会 し 西 郷 隆 盛 の説 諭 で学 業 に 専 心 し、明 治 七 年 (一八 七. 所 に 学 び 、明 治 三 年 (一八 七 〇 )海 軍 兵 学 寮 に転 じ 、こ の間 、征. 明 治 二 年 (一八 六 九 )藩 よ り 東 京 留 学 を 命 ぜ ら れ 、日日平 讐 ・開 成. 禁 門 の守 衛 に あ た り 、ついで 鳥 羽 ・ 伏 見 の戦 、奥 州 戦 争 に 従 軍 、. 三 年 (一八 六 七 )十 六 歳 で藩 ・ 王島 津 忠 義 に従 い京 都 守 護 に 任 じ 、. 五 年 (一八 五 二)十 月 十 五 日 生 ま れ た 。十 四 歳 で父 を 失 い、慶 応. ﹁ ご ん のひ ょう え ﹂と も いう 。薩 摩 藩 士 山 本 五 百 助 の 三 男 。嘉 永. 明 治 か ら 昭 和 時 代 前 期 に か け ての海 軍 軍 人 、政 治 家 。名 前 は. 一八 五 一一 1 一九 一 一 一一 一 一 嘉. 昭 和 五 十 八 (一九 八 三 )文 学 博 士 の学 位 を 取 得 )。昭 和 五 十 四 年. 七 八 )艦 務 研 究 のた め ド イ ツ 軍 艦 に 乗 り 組 み 世 界 周 航 、以 後 扶. 山本権兵衛. ﹁ 東 人 西 人 ﹂﹃朝 日 新 聞 ﹄大 正 三 年 (一九 一四 )十 二 月 十 四 日. ﹃日 本 近 現 代 人 名 辞 典 ﹄吉 川 弘 文 館 月) 三頁 や ま も と こ ん べえ. (一九 七 九 )防 衛 研 修 所 第 二 戦 史 研 究 室 長 。昭 和 五 十 八 年 (一. 桑 ・乾 行 ・龍 腰 ・ 乾 行 ・浅 間 乗 組 、明 治 十 五 - 十 八 年 (一八 八 ニ. 7. 6. 昭 和 二 十 八 年 (一九 五 三 )六 月 ). 大 正 十 一-. 昭 和 五 十 五 年 (一九 八. 一九 一一一一 1 一一 〇〇 一. 日本 科学 協 会. 平 塚直 秀 ﹁ 植 物 病 理 学 者 宮 部 金 吾 先 生 ﹂( ﹃採 集 と 飼 育 ﹄第. のむ ら み のる. 注1 野 村実. 四 十 二巻 第 十 号 〇 )十 月 ) 3. 三頁. 4 平成 十 三. 九 八 三 )防 衛 大 学 校 教 授 。そ の後 名 古 屋 工 業 大 学 教 授 、愛 知 工. ー 八 五 )浅 間 副 長 、明 治 十 八 年 (一八 八 五 )浪 速 副 長 、明 治 十 九. 永 五- 昭 和 八. 業 大 学 客 員 教 授 、軍 事 史 学 会 会 長 な ど を 務 め 、平 成 十 三 年 (二. 年 (一八 八 六 )天 城 艦 長 を 経 て明 治 二 十 年 (一八 八 七 )海 軍 大 臣. 大 正 十 一年 (一九 二 二 )四 月 十 六 日 、滋 賀 県 彦 根 市 生 。. 〇 〇 一)五 月 十 八 日 没 。著 書 ﹃日 本 海 海 戦 の真 実 ﹄( 講 談 社 現代. 3ー の q q.
(20) せ しめ 、陸 戦 隊 を 急 派 して大 沽 の会 戦 に 参 加 せ しめ 、陸 軍 の厘 門. 明 治 三 十 三 年 (一九 〇 〇 )の北 清 事 変 に は艦 隊 を 派 遣 し て警 戒. 有 朋 、伊 藤 博 文 、桂 太 郎 の三 代 の内 閣 の海 軍 大 臣 を 歴 任 し た 。. 五 月 中 将 、十 一月 よ り 明 治 三 十 九 年 (一九 〇 六 )一月 ま で 山 県. 対 等 と し た 。ついで 台 湾 事 務 局 委 員 、明 治 三 十 一年 (一八 九 八 ). に つき 調 査 研 究 し、実 行 に 移 し た。こ の間 海 軍 を 実 質 的 に陸 軍 と. 相 の内 訓 に より 、戦 後 の海 軍 の充 実 ( 組 織 ・建 艦 ・教 育 機 関 な ど ). 八 年 (一八 九 五 )少 将 ・軍 務 局 長 、軍 令 部 御 用 掛 を 兼 ね 、西 郷 海. 外 の機 務 に 参 画 し 、海 軍 軍 政 の中 心 と して 活 躍 し た 。明 治 二 十. かに 功 臣 を 出 そ う と す る 軍 令 部 長 の提 案 、山 本 反 対 )な ど 、内. 官更 迭問 題 ( 伊 東 祐 亨 が 黄 海 海 戦 で功 を あ げ た ので、更 迭 し てほ. 商 船 テ ー ルス号 臨 検 問 題 、三 国 干 渉 への対 処 、連 合 艦 隊 司 令 長. 計 画 上 、海 軍 の重 要 性 を 認 識 さ せ た。戦 争 間 は高 陞 号 事 件 や 英. 軍 大 臣 副 官 、作 戦 に 関 し 陸 軍 の参 謀 本 部 次 長 川 上 操 六 に 作 戦. 現 、ま た 海 軍 の人 事 の刷 新 を 行 な った 。日 清 戦 争 には 大 本 営 海. 立 を 策 し 、陸 軍 の反 対 を 排 して 翌 明 治 二 十 六 年 (一八 九 三 )実. す べて陸 軍 )の統 轄 下 に あ った 海 軍 の軍 令 機 関 を 軍 令 部 と して独. ち 、明 治 二 十 五 年 (一八 九 二)に は 参 謀 本 部 ( 長 は参 謀 総 長 で、. 上 に 努 め 、そ の手 腕 は ﹁ 権 兵 衛 大 臣 ﹂と ま で 評 せ ら れ た 。す な わ. 郷 従 道 海 相 を 補 佐 して海 軍 の改 革 、陸 軍 に 対 す る 海 軍 の地 位 向. 臣官 房 ・ 王事 (のち 海 軍 省 ・ 王事 )と して 縦 横 に そ の才 を 振 る い、西. 高 雄 ・高 千 穂 艦 長 を 経 て明 治 二 十 四 年 (一八 九 一)六 月 海 軍 大. 伝 令 使 、同 年 よ り 樺 山 資 紀 次 官 の随 員 と して 約 一年 欧 米 派 遣 、. 憲 政 資 料 室 に ﹃山 本 権 兵 衛 関 係 文 書 ﹄が 所 蔵 さ れ る。日 清 戦 争. して ﹁ 海 軍 の父 ﹂と 評 せ ら れ た 。財 部 彪 は 女 婿 。国 立 国 会 図 書 館. 位 。十 二 日 海 軍 葬 。青 山 墓 地 に 葬 ら れ た 。近 代 海 軍 の建 設 者 と. け ら れ た 。昭 和 八 年 (一九 三 三 )十 二 月 八 日 没 。八 十 二 歳 。従 一. た 。昭 和 三 年 (一九 二 八 )の即 位 式 に は大 勲 位 菊 花 大 綬 章 を 授. 後 処 理 に 忙 殺 さ れ るな かで、十 二 月 の虎 の門 事 件 で 引 責 辞 職 し. 実 現 、行 財 政 整 理 、日 ソ国 交 回 復 な ど を 公 約 した が 、震 災 の事. (一九 二 三 )九 月 、関 東 大 震 災 の渦 中 で再 度 内 閣 を 組 織 し 、普 選. 大 御 所 ﹂・ 薩 派 の長 老 と し て隠 然 た る 勢 力 を も ち 、大 正 十 二 年. 総 辞 職 、現 役 を 退 いた 。五 月 予 備 役 編 入 。しか し 以 後 も ﹁ 海軍の. を あ げ た 、翌 大 正 三 年 (一九 一四 )三 月 シー メ ンス事 件 で内 閣 は. 第 一次 山 本 内 閣 を 組 織 し 、現 役 武 官 大 臣 制 の改 革 な ど で業 績. 政 変 で第 三 次 桂 内 閣 が 倒 れ た あ と 、立 憲 政 友 会 と 結 んで、二 月. 三 - 八 月 イ ギ リ ス出 張 、九 月 伯 爵 。大 正 二 年 (一九 一三 )の大 正. 明 治 三 十 九 年 (一九 〇 六 )軍 事 参 議 官 、明 治 四 十 年 (一九 〇 七 ). 九 〇 二 )男 爵 、明 治 三 十 七 年 (一九 〇 四 )大 将 、戦 後 、功 一級 、. 般 に わ た っては 中 心 と な って 画 策 した 。こ の間 、明 治 三 十 五 年 (一. 計 画 に 反 対 し 、開 戦 後 は内 閣 の柱 石 と して 、特 に 海 軍 の作 戦 全. 英 同 盟 実 現 に 協 力 し た 。日 露 開 戦 前 、山 県 有 朋 の韓 国 への派 兵. 本 ・小 村 寿 太 郎 外 相 が協 議 推 進 し、明 治 三 十 五 年 (一九 〇 二 )日. 相 は 重 要 事 項 はま ず 山 本 海 相 に 協 議 す べしと いい、外 交 は 桂 ・山. 明 治 三 十 四 年 (一九 〇 一)六 月 桂 内 閣 が 成 立 す ると 、桂 太 郎 首. 占 領 作 戦 には 断 固 反 対 し た ( 伊 藤 博 文 の尽 力 も あ り 、作 戦 中 止 )。. のの qq.
(21) 8. 9. では 実 質 上 海 軍 機 務 を 切 り 回 して権 兵 衛 大 臣 の異 名 を 得 た 。日. を 撃 滅 し た 。第 一次 世 界 大 戦 に際 し ては連 合 艦 隊 の編 成 はな く 、. 九 〇 四 )六 月 大 将 )東 郷 平 八 郎 。日 本 海 海 戦 で はバルチ ック艦 隊. 二 十 日 以 降 、常 時 、編 成 さ れ る よ う に な った 。連 合 艦 隊 司 令 長. れ る 状 況 が 続 いた が 、満 洲 事 変 のあ と 昭 和 八 年 (一九 三 三 )五 月. そ の後 は 演 習 そ の他 の目 的 のた め 、年 度 の所 要 期 間 だ け 編 成 さ. 露 戦 争 の難 局 も 突 破 し た。. 昭 和 四 十 三 年 (一九 六 八 )) 昭 和 四十. 故 伯 爵 山 本 海 軍 大 将 伝 記 編 纂 会 編 ﹃伯 爵 山 本 権 兵 衛 伝 ﹄ ( 原書 房 海 軍 大 臣 官 房 編 ﹃山 本 権 兵 衛 と 海 軍 ﹄(原 書 房. 官 は 天 皇 に 直 隷 し、軍 政 に 関 し ては 海 軍 大 臣 の指 揮 を 受 け 、作. 戦 計 画 に 関 し ては軍 令 部 総 長 (昭 和 八 年 (一九 三 三 )ま では 海 軍. 一年 (一九 六 六 )) ﹁ 子 煩 悩 で読 書 家 / 海 軍 次 官 に内 定 し た栃 内 中 将 / 食 卓 の無. 十 六 年 (一九 四 一)八 月 十 一日 に な って、は じめ て連 合 艦 隊 司 令. 隊 司 令 長 官 が 第 一艦 隊 司 令 長 官 を 兼 務 す る形 式 と な り 、昭 和. が 連 合 艦 隊 司 令 長 官 を 兼 務 した が 、連 合 艦 隊 の常 設 後 は連 合 艦. 官 が 連 合 艦 隊 司 令 長 官 を 兼 務 し 、そ のあ と は 第 一艦 隊 司 令 長 官. 軍 令 部 長 )の指 示 を 受 け た 。日 清 戦 争 のと き は常 備 艦 隊 司 令 長. 尚 、引 用 の囲 み 文 字. 瓢 家 か ら の帰 途 / 自 動 車 に礫 か れ. 五頁. 駄 話 が 真 物 にな つた / 子 供 に誘 はれ て銀 座 へ買 物 に ﹂﹃朝 日 新 聞 ﹄ 大 正 六 年 (一九 一七 )八 月 三 十 日. 失 明 の虞. は 四 倍 角 と な っている 。以 下 同 様 。 ﹁ 栃 内 次官. 五頁). 長 官 と 第 一艦 隊 司 令 長 官 とが 分 離 さ れ た 。昭 和 期 の連 合 艦 隊 は. 連 合艦 隊. れ んこ う か ん た い. アメリ カ海 軍 を 想 定 敵 と す る 決 戦 艦 隊 であ り 、太 平 洋 戦 争 開 戦. て 重 傷 ﹂( ﹃朝 日新 聞 ﹄大 正 三 年 (一九 一四 ) 一月 十 四 日 10. 戦 略 単 位 と な る 艦 隊 二 個 以 上 で編 成 し 、必 要 に よ り さ ら に艦. で 、明 治 三 十 六 年 (一九 〇 三 )十 二 月 二 十 八 日 日 露 戦 争 に 際 し. ど で清 国 艦 隊 を 連 破 した 。司 令 長 官 は海 軍 中 将 伊 東 祐 亨 。つい. 戦 争 に 際 し てで、常 備 艦 隊 と 西 海 艦 隊 と か ら 成 り 、黄 海 海 戦 な. に 編 成 さ れ た のは 、明 治 二 十 七 年 (一八 九 四 )七 月 十 九 日 日 清. 必 要に応じ艦 船 ・ 部 隊 を 編 入 さ れ る 日 本 海 軍 の中 核 部 隊 。最 初. 主 と し て外 洋 作 戦 を 担 当 す る 二 個 以 上 の艦 隊 で も って編 成 し. ( 潜 水 艦 基 幹 部 隊 )・第 一航 空 艦 隊 ( 空 母 基 幹 部 隊 )・ 第 十 一航. 隊 )・第 四 艦 隊 ( 内 南 洋 部 隊 )・第 五 艦 隊 ( 北 方 部 隊 )・ 第 六艦 隊. ( 戦 艦 基 幹 部 隊 )・第 二艦 隊 ( 重 巡 基 幹 部 隊 )・ 第 三艦 隊 ( 比島 部. 入 す る 方 針 を と り 、太 平 洋 戦 争 開 戦 時 の連 合 艦 隊 は、第 一艦 隊. 軍 は 外 洋 作 戦 に適 す る 艦 艇 と 航 空 機 の大 部 分 を 連 合 艦 隊 に 編. 内 に あ った ﹁ 指 揮 官 先 頭 ﹂と いう 根 強 い伝 統 に よ って いた 。日 本 海. ま たは 第 一艦 隊 を 直 接 指 揮 す る よ う に さ れ た のは 、日 本 海 軍 部. 直 前 ま での問 、なが く 連 合 艦 隊 司 令 長 官 が 主 力 部 隊 の常 備 艦 隊. て編 成 さ れ 、第 一艦 隊 と 第 二艦 隊 と から 成 り 、のち に第 三 艦 隊 ・. 空艦 隊 ( 基 地 航 空 部 隊 )・ 南遣艦隊 ( マレー 部 隊 )の九 個 艦 隊 か ら. 船 部 隊 を 編 入 、付 属 さ せ た も の。. 第 四 艦 隊 も 編 入 さ れ 、司 令 長 官 は 海 軍 中 将 ( 明 治 三 十 七 年 (一. ωゆ qq.
(22) 成 り 、戦 時 中 は さ ら に方 面 艦 隊 な ど も 編 成 さ れ て、艦 隊 数 は十 五 を 越 え た こと も あ る 。開 戦 時 の勢 力 、戦 艦 十 、空 母 十 な ど 二 五 四 隻 、戦 時 建 造 三 八 三 隻 、敗 戦 時 の作 戦 可 能 艦 艇 四 五 隻 。司 令部 ( 旗 艦 )も 開 戦 時 の戦 艦 長 門 から 末 期 には 陸 上 に 移 さ れ た 。 昭 和 二 十 年 (一九 四 五 )四 月 二 十 五 日 、全 海 軍 部 隊 の作 戦 指 揮. 12. 13. 14. 一 一頁 ). ﹁ 栃 内 大 将 危 篤 / 校 長 の挨 拶 中 に昏 倒 し ﹂( ﹃朝 日 新 聞 ﹄昭 和 七 年 (一九 三 二 )七 月 九 日. 一 一頁 ). 原. ﹁ 栃 内 海 軍 大 将 / 今 暁 遂 に 盛 岡 に て﹂(﹃朝 日 新 聞 ﹄大 正 七 年 (一九 四 二)七 月 十 二 日. 昭 和 四 年 (一九 二 九 ) 一二 七 頁 ). 原敬 ﹁ 海 内 周 遊 日 記 第 八 報 ﹂(田 中 朝 吉 編 ﹃原 敬 全 集 ﹄上 敬全集 刊 行会. 明 治 三 十 四 年 (一八 八 一)十 一月 九 日 付 ﹃郵 便 報 知 新 聞 ﹄掲 載. を 行 う 海 軍 総 隊 司 令 部 が 設 置 さ れ 、連 合 艦 隊 司 令 長 官 が 海 軍 総 司 令 長 官 を 兼 務 し、ついで 五 月 一日、海 軍 総 司 令 長 官 が 連 合. 一八 四 四1 一九 一一一 弘 化 一- 明 治 四 十. 分 タ イト ルには ﹁ 海 内 周 遊 日 記 ﹂と のみ あ る ( 覆 刻 版 ﹃郵 便 報 知 新. 堀基. 艦 隊 司 令 長 官 を 兼 務 す る 形 態 と な った 。し た が って連 合 艦 隊 は. ほりもと い. 聞 ﹄二十 八 、五 三 頁 )。 15. 以 後 、山 本 、古 賀 峰 一の 二代 の連 合 艦 隊 司 令 長 官 が 戦 死 す る な. 市 )に 、鹿 児 島 藩 士 堀 権 四 郎 の子 と して 生 ま れ る。元 治 元 年 (一. 弘 化 元 年 (一八 四 四 )六 月 十 五 日 薩 摩 国 鹿 児 島 郡 元 村 ( 鹿 児島. 五. 日 本 海 軍 そ のも のを 体 現 し ていた と いって 過 言 で はな い。太 平 洋 戦 争 開 始 に あ た っては 、山 本 五 十 六 連 合 艦 隊 司 令 長 官 が ・ 王張 し た 真 珠 湾 奇 襲 攻 撃 が 功 を 奏 して緒 戦 の勝 利 を 収 め た が 、昭 和 十. ど 、敗 勢 の恐 回 はな ら な か った 。昭 和 十 九 年 (一九 四 四 )のマリ ア. 八 六 四 )勝 海 舟 の海 軍 操 練 所 に 入 り、慶 応 三 年 (一八 六 七 )対 露. 幕末 ・ 明 治 期 の鹿 児 島 藩 出 身 の官 僚 、野 に 下 って実 業 家 と な る 。. ナ 沖 海 戦 、レイ テ沖 海 戦 以 後 、海 軍 は 主 力 艦 隊 を ほと ん ど 喪 失. 関 係 を 憂 え て箱 館 に 至 る 。明 治 元 年 (一八 六 八 )正 月 鳥 羽 ・伏 見. 七 年 (一九 四 二 )のミッド ウ ェー 海 戦 で連 合 艦 隊 は 敗 北 を 喫 し 、. し 、連 合 艦 隊 司 令 部 は 艦 上 から 横 浜 市 日 吉 台 に 移 り、敗 戦 を 迎. の戦 に 参 加 、四 月 箱 館 裁 判 所 が 置 か れ る と そ の監 察 ・参 事 席 を. 明 治 二 年 (一八 六 九 )七 月 開 拓 使 が 設 置 さ れ ると そ の御 用 掛 と. え た。敗 戦 に より 十 月 十 日 、連 合 艦 隊 は海 軍 総 隊 司 令 部 と と も. 野村 実 ﹁ 連 合 艦 隊 ﹂( ﹃国 史 大 辞 典 ﹄). な り ついで大 ・ 王典 と な った 。以 後 も 樺 太 の事 務 を と る こと が 多 く 、. 命 ぜ ら れ 、五 月 に は 民 政 方 勧 農 掛 を も って樺 太 在 勤 と な った 。翌. 前 田哲男 ( ﹃日本 大 百 科 全 書 ﹄). 一頁 ). 治 十 一年 (一八 七 八 )暮 に 職 を 退 いた 。明 治 十 五 年 (一八 八 二 ). 佐 兼 開 拓 大 書 記 官 と な る 。屯 田 兵 を 率 いて西 南 戦 争 に 従 軍 、明. 開拓 権 判官 ・ 少 判 官 な ど を 経 て、明 治 十 年 (一八 七 七 )准 陸 軍 大. 十六日. ﹁ 栃 内 曾 次 郎 ﹂﹃朝 日 新 聞 ﹄( 夕 刊 )昭 和 七 年 (一九 三 二 )五 月. 粟屋 憲太 郎 ﹁ 連 合 艦 隊 ﹂( ﹃世 界 大 百 科 事 典 ﹄). に 解 隊 さ れた 。. 11. ω④ qq.
関連したドキュメント
専攻の枠を越えて自由な教育と研究を行える よう,教官は自然科学研究科棟に居住して学
金沢大学学際科学実験センター アイソトープ総合研究施設 千葉大学大学院医学研究院
東京大学 大学院情報理工学系研究科 数理情報学専攻. [email protected]
大谷 和子 株式会社日本総合研究所 執行役員 垣内 秀介 東京大学大学院法学政治学研究科 教授 北澤 一樹 英知法律事務所
鈴木 則宏 慶應義塾大学医学部内科(神経) 教授 祖父江 元 名古屋大学大学院神経内科学 教授 高橋 良輔 京都大学大学院臨床神経学 教授 辻 省次 東京大学大学院神経内科学
東北大学大学院医学系研究科の運動学分野門間陽樹講師、早稲田大学の川上
学識経験者 小玉 祐一郎 神戸芸術工科大学 教授 学識経験者 小玉 祐 郎 神戸芸術工科大学 教授. 東京都
る。また、本件は商務部が直接に国有企業に関する経営者集中行為を規制した例でもある