Title
第6回琉球・中国交渉史に関するシンポジウム参加記
Author(s)
田中, 千夏
Citation
史料編集室紀要(27): 79-84
Issue Date
2002-03-26
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/7693
Rights
沖縄県教育委員会
史料 編集 室紀 要 第 27号 (2002)
第
6回琉球 ・中国交渉史に関す るシンポジウム参加記
田中 千夏
去 る10月15・16両 目、 「第六回琉球 ・中国交渉史 に関す るシンポジ ウム」が 中国北京市 内のホテル にて開催 された。沖縄県教育委員会 との学術交流 も今年で11年 目を迎 え、今回 も双方活発 な発表 がな された。 このシンポジ ウムは沖縄県教育委員会 と中国第-歴史梢案 =l 館 との間に交わ され た 「協議書」 に基づ き沖縄 弓 ヒ京 の交互で隔年で行われ てい るもの で、今回で6回 目を数 える, 中国第-歴史桔案館 との学術交流 は、琉球 関係梢案史料のマ イ クロフィル ムの提供や 中国の研究者の招碑な ど、中 ・琉交渉史研究の発展 と琉球 と主に 明清時代 の 中国を中心 とした東アジア との外交文書集 『歴代宝案』の校訂本 ・訳注本の編 集作業の上で非常 に重要であることは周知のことである。 このシンポジ ウムも、 これまで に整理 され た梢案史料やその他の最新 の情報 をもとに、 中国 。沖縄 間の研究交流 を盛んに す る 目的で開催 され ているものである。 本文では報告者 とテーマの紹介、私が特 に注 目した発表 について感想 も交 えなが ら、報 告 としたい とお も う。Ⅰ
シ ンポ ジ ウム発 表 者 と題 名 、簡 単 な 内容 紹 介 今回のシンポジ ウムでは沖縄側か ら3人、中国側 か ら6人の計9人が発表 をお こなった。 ①生 田滋 「明代海禁政策 の撤廃 と琉球、 ヴェ トナム、ポル トガル 」 明時代 の海禁政策の撤廃 によって当時東 アジアの国際貿易の中で中継地点であった 琉球 の役割 が変化 してい く過程 をベ トナ ムを中心 とした東 南アジアそ してポル トガ ル ・日本 。中国 との関わ りの中で明 らかに しよ うと試みた。TANAKAChinatsu・.A ParticIPant'SReportontheSixthSymposium ontheHistoryofSino-Ryukyuan Relations.
(1) 「協議書」の内容については、『沖縄県教育委員会 ・中国第-歴史梢案館 歴代宝案に関する 交流十周年記念誌』(沖縄県教育委員会刊 2000)16頁 「第三回協議書」を参照
-史料 編 集 室 紀 要 第 27号 (2002) ②呉元豊 「南 明時期 中琉関係採算 」 (後述) ③鄭愛蓮 「"台湾事件"輿 "琉球案"」 琉球処分 の発端 となった台湾事件後の交渉で浮上 した 「琉球案」について、その過 程 と結果 を清政府総理衛 門梢案 をよ りどころ として分析。 ④上里賢一 「王登濠 『柔遠騨草』 と琉球」 王登濠 と官生達の詩集 『柔遠騨草』 か ら福州での彼 らの交流の様子 、当時の福州 の 柔遠駅 の状況 について触れた。 ⑤楊永 占 「従晴代楢案看妨封琉球 国王輿姻祖崇拝」 晴代 の楢案資料や冊封使 の使録等 による中琉の冊封関係 と、その中での嫡祖信仰 の 役割 と祭 りの意味について。 ⑥安里嗣淳 「公式交渉以前 の琉球 と中国」 (後述) ⑦胡忠良 「従清宮楢案談清帝御賜 ・額事兼談清宮御 ・政策」 (後述) (参李 国栄 「独 特的歴史現象 :薙正朝減免琉球正貢問題述析」 清 の薙正年 間、琉球国にたい して行 った正貢の減免 を明清の朝貢史上独特 な現象 として分析。 ⑨宋淑媛 「論清政府対琉球貢使等 出入 関境的管理」 琉球貢使や琉球難民にたいす る出入 国審査 と管理 の体制 について。 以上 、 これ まで のシンポジ ウムでは最 も多い九 本 の論文が発表 された。 Ⅲ 今回の発表 の特徴 と発表 の骨子 過 去5回の シ ンポジ ウム と違 う点は、今 まで明 時代
・
清時代 それ ぞれ の時期 に視点が集 中 していたが、今回はそれまで余 りふれ られてい なかった時代や分野か らの発表があった こ とである。例 えば、明清時代の過渡期 に当る南 明時期 の中琉 関係 についての発表 (呉元豊)や考古学資料 に基づいた発表 (安里嗣淳)等 があげ られ る。 呉元豊氏の発表 では、明清 の王朝交替期 のなか、清政府 に対抗 した南明の八つの王朝に史 料 編 集 室 紀 要 第27号 (2002) 対す る琉球王朝の朝貢 の状況が 『歴代宝案』の史料 よ り考察 され ていた。十七世紀半ばの 中国では明晴雨王朝 の交代期 にあた り、首都北京 を追われた明の遺 臣たちは、それぞれ王 族 を擁 立 し、清 王 朝 と対抗 した。 この混 乱 した時代 の 中、琉 球 国 は福 蘇 (弘光帝来 由 掻い 唐藩 (隆武帝床辛鍵)。魯藩 (監国魯王朱以海)の三つの政権 に朝貢使節 を派遣 して お り、『歴代宝案』 では当時の公式文書が収録 され てい る。呉氏 は これ に よって、琉球国 が動乱 の時代 に どう対処 しよ うとしたのかを明 らかに しよ うとした。 かつての論文が明 ・清それぞれ のみ を対象 としてい るのに対 して、 この発表 では過渡期 にあた る南明の時期 を対象 としたのは新 しい ことである、 といった意見が出 された。 また、 『歴代宝案』 の他 に南明時期 の中琉関係 を記載 してい る資料 はあるか、 とい う質 問があっ たが、呉氏 は明時代 の資料その ものが少 な く、その中で も南明時代 の ものは さらに少ない、 民間の資料 もあるが記載の多 さか らも 『歴代宝案』の信頼度 は最 も高い、 とした。改めて 中琉 関係史 における 『歴代宝案』の重要性 を認識す る契機 になった。 安里嗣淳氏 は、1372年の正式交渉の開始以前の琉 ・中関係 は どの よ うな様子 であったの か、 これ までの様 々な発掘調査の成果 を紹介す ることで、考古学の立場 か ら中 。琉関係 に ついて言及 した。 このなかで、公式交渉開始以前に琉球列 島にもた らされた中国産の文物 については、九州 を主 とす る 日本 の動 きによって、間接的にもた らされた ものであるとし た。 これ に対 して、明刀銭や五宋銭 な どは埋葬時の副葬品であることが多 く、中国か ら琉 球へや って来た商人 の埋葬の際に使用 されたのではないか とい う質 問があった。私はこの 他 に、素人 なが らい くつかの疑問を感 じた。 た とえば、公式交渉以後の話 では福州や泉州 に向か う途 中、 もしくは国に帰 る途 中に琉球 に漂着 した 日本人や朝鮮人 の記述が 『歴代宝 案』 に多 く記載 され ている。公式交渉以前の東 アジア諸国の海上貿易 に大 き く貢献 した波 節 (ベル シア)人や大食 (ア ラブ)人な どのよ うな外 国商人 (春繭) といった存在の漂着 の痕跡 は皆無 なのだろ うか。 これ か らの中琉交流史の新 たな視点 となるのではないか と思 った。 また、 このシンポジウムでは、清政府 と藩属国 との関係 を知 る新 しい媒体 として、清皇 帝か ら藩属国に与 え られた産額 について述べた胡忠良氏 の発表があった。 そのなかで胡氏 は、晴皇帝 よ り琉球 国王 に与 えられた遍額 は、他 の藩属 国に比べて時期 的に最 も早 く、ま た数量 も最 も多 く、それは晴政府 と琉球国 との密接 な関係 を説明す るものである、 と述べ た。 <宮 中雑桔 >や <内務府造雛処活計梢 >のよ うな、今 まであま り活用 され ていなかっ た晴代梢案 を用いての非常に徹密 な考察がな されてい ることを感 じたが、今回の発表が清 朝 国内での取 り扱い に絞 られ ていた ことか ら、 これか らは中国国内での取 り扱 いだけでは
-81-史 料 編 集 室 紀 要 第 27号 (2002) (I.:\ な く、家譜 な どの琉球側 の史料 を交 えた全 体 的な研 究が必 要で あ る と感 じた。 この他 に も発表 され た報 告 は、 どれ も非 常 に濃 い 内容 で充実 してお り、それ ぞれ に問題 提 起 が あ り、 この発 表 を契機 に今後新 た な研 究成 果 が生 まれ るこ とを期 待 で きるもので あ った と思 う。 ここです べ て を紹介 す るこ とはできない が、詳 しくは来年度 刊行予定 の論文 集 に譲 る とす る。 Ⅲ シ ンポ ジ ウム後 の 日程 シ ンポ ジ ウム終 了後 の短 い時間で はあ るが、中国第-歴 史桔案館 と紫禁城 を見学 させ て いた だい た。 中国第-歴 史桔案館 では 中琉 関係 の桔案 資料や 、中国皇帝 の家 系図で あ る玉 牒 の現物 を 目にす る こ とが で きたo 玉牒庫 の両脇 には開 き戸 の棚 がず ら りと並び、 中央 に は黄色 の布 に包 まれ た玉膿 が保 管 され てい た。紫禁城 では、かつ て琉球 の使 節 た ちが皇帝 に拝謁 した太 和殿 の壮 大 な姿 に圧倒 され た。 次 の 日は、北京 か らさ らに北- 200kn1ほ ど、マイ ク ロバ スで片道4時 間 半 ほ ど離れ た河 北省 北部 にあ る承徳避 暑 山荘 へ案 内 され た。 そ こは1703年 以 降夏 の離宮 と して宮殿 や 園池 (3) が建設 され 、 周辺 には外 八廟 と称 され る寺廟 が建設 され た。 こ こは 中国近 代 史上転機 とも言 うべ き出来事 の舞 台 ともな った地 で もある。威豊帝 は この 山荘 内 にて北京条約 の調 (4) 印 を指 示 した 。 ま た 、古 くか ら北方 民族 の興 亡 の舞 台 とな った地 で もあ り、清朝皇 帝 (2) た とえば 『察姓家譜』 (安次嶺家)の察応祥 ・太 田親雲上の年譜の中に庵額の額装を仕立て させた とい う記事が見える。外にも遍額の額装を琉球で行った とい う記事が家譜の中に多 くある。 (池宮正治 「中国皇帝の御筆遍額 と首里城」 首里城研究 No. 2 1996) (3) 俗に外八廟 と呼ばれ る寺院は樽仁寺 ・博善寺 (現存せず)・安遠廟 ・普楽寺 。普寧寺 ・普佑 寺 (現存せず)・須弥福寿之廟 ・普陀宗乗之廟 ・殊像寺 ・広安寺 (現存せず)・羅漢堂 (現存せ ず)である。 (甑成維 白育英編著 『承徳名優特』海洋出版社 1990) (4) 威豊皇帝は欽差便宜行事全権大臣に弟恭親王突訴を任命 し、1860年 9月22日 (成豊十年八月 八 日)、后妃を伴い円明園か ら承徳 (熱河)へ逃げた。英仏連合軍は1860年10月24日北京を攻略 し、円明園を焼き払った。それをうけて成豊皇帝は避暑山荘内で、英 ・仏 ・露の三か国と第 2次 ア- ン戦草 (アロー号戦争)の講和条約である北京条約の調印を命 じた。 この条約の中で晴国は イギ リスに対 して香港を含む九龍半島の割譲やフランスに対するキリス ト教の天主堂の返還など を認めた。 (郭廷以編著 『近代中国史事 日誌』中華書局 1987)
史 料編 集 室 紀 要 第 27号 (2002) は蒙古やチベ ッ ト族 の王族 と会談 し、融和 に努 めた。 山荘の湖畔 にはその名残 ともいえる 蒙 古 族 の ゲル (パ オ ) の復 元 物 も展 示 され て い た。 山荘 の近辺 に普 陀宗乗 之廟 と須 弥福 寿廟 を中 心 と した ラマ教 寺院 も多 く建 設 され 、私 た ちは 8 つ の寺院 の 中で も最 も大 きい普 陀宗乗 之廟 を見学 させ ていただい た。 壮 大 な寺廟 は最 上階 まで上 り 詰 め る と、周辺 の風 景 を一望す るこ とが 出来 る。 清朝政府 がい か に他 の少数 民族 の融和策 につ とめ たか を うかがい知 ることができた。 普陀宗乗之廟 18日には会 同館 と国子監 を見学 した。北京滞在 中の外 国使節 の宿泊地 として設置 された 会 同館 は、 どこが管轄 し、各 国の使節 に対 して どのよ うな接待 をお こなったのか、不明な (5) 点が多い。今 回見学 したのは琉球使節 も滞在 した とされ る、5つの会 同館 (四訳会 同館) の うち、唯一 (6) 現存す る宣武 門外南横街会 同館 である。 この建物 は典型 的な四合 院 の作 りになってお り、破損 がかな り進 んでいた。現在 は企業の倉庫 となってお り、ガ ラス越 しに中を覗 くとこわれ た レジス ターや事務用 晶が無造作 に置 かれ てあった。 現在 、取 り壊 しが計 画 され、保存 を求 め る側 との問で議論 がな されてい 会 同館 る とい うことである。保存への道 も残 され てい るものの、修復 の費用や修復後 どのよ うに 活用す るか、な ど様 々な問題 もあ り、まだまだ取 り壊 しの可能性 もあるそ うである。資料 保存 の問題 の難 しさを感 じた。 国子監は晴に始 ま り、晴代では琉球等の藩属国か らの官生 (留学生) をも受 け入れた最 高学府 である。 ラマ教 の雰囲気 を伺 わせ る門を くぐり奥-進む とかつて歴代皇帝が講義 を 行 った蹄薙殿 がある。 中には中国の科挙制度 に係 る展示物が陳列 され、苦 しい科挙試験 を 逃れ よ うと作 られ たカ ンニ ング用 の下着 も展示 され ていた。宮崎市定著 の 『科挙』 (中央 公論社)で も紹介 されていた ものである。び っ しりと細かい字で埋 め尽 くされ た 白い布 に、 (5) 会同館 につ いては 曳斌 「晴代 の琉球館舎 の研究」 (第2回琉球 ・中国に関す るシンポジウ ム論文集 1995) を参照 (6) 今回見学 した会同館 の住所 は北京市宣武 区南横街 131
-83-史料 編 集 室 紀 要 第 27号 (2002) かつての士大夫達 の苦悩がに じみ 出てい るよ うな気 が し た。琉球学館 は清 の康 照二十七年 に最初 に琉球 か らの官 免 生 を受 け入れ たのをきっかけに北京安定門内の国子監内 に建設 され 、琉球 か らの官生 の読書や居住 の場 とされ た (7) 。現在 は建物 は残 っていないが、案 内を していただい た古代教育博物館 寿備処 の高彦氏 によれ ば復元 の話 もあ ると言 うことで ある。 国子監街の門 Ⅳ 最後 に、今回のシンポジウムの全 日程 を終 えて。 初 めて中国で 目にす るものすべてに感動 を覚 えた ことは決 して忘れ ることはないだ ろ う。 かつて命 を賭 して この地 に臨んだ進貢使 たちは、 この門の前 で どの よ うな気持 ちになった のだろ うか、 と彼 らの気持 ちを少 しだけ感 じることができた よ うに思 う。 ち ょうど、今 の季節 は当時の進貢使 たちが福州 か ら北京 をめ ざしてい る頃である。彼 ら がかけた何 ヶ月 とい う時間を私たちは一 日で飛び越 えて しまったが、彼 らの過 ごしたの と 同 じ季節 に同 じ地 にいた とい うことは、資料 の向こ う側 の進貢使 たちの姿 にふれたよ うな 気が した。それ も、 このシンポジウムに参加 した大 きな成果 であった と、私は思っている。 ※本稿 は2001年 11月22日付 の沖縄 タイムスに掲載 した文 に加筆 ・修正 した ものである。 (7) 国子監と琉球学館については 秦国経 「酒代国子監の琉球監学について」 (第1回琉球 ・中 国に関するシンポジウム論文集 1993)を参照