【巻頭言】
リスク学事典編纂の現代的意義を振り返る*
The Contemporary Impacts of SRAJ Encyclopedia of Risk Research 2019
藤井 健吉**
,***
Kenkichi FUJII
Abstract. The Society for Risk Analysis Japan have compiled the Encyclopedia of Risk Research as our
society s 30th anniversary of foundation.in 2019. Risk Research has confronted various risks in the humanities,
natural sciences, and social sciences. Each academic field have been developed its own risk concept based on their own need. Thus, there are wide variety of definition for risk assessment, art of risk management, and needs of risk communication in each field. Due to the increasing interoperability and interdependence of the global society, there is an essential need to establish a cross-sectional insight of the risks. Our Encyclopedia of Risk Research 2019 contain the comprehensive aspects of the Risk Research based on four parts, 13 chapters, and 195 sections in order to clarify the current needs of risk research and the practical challenges in contemporary society. 13 chapters are here; Social Changes around Risk (Chapter 1), The art of Risk Assessment (Chapter 2), The art of Risk Management (Chapter 3), The art of Risk Communication – dialogue of risks (Chapter 4), Risk Finance – Relocation of risks (Chapter 5), Health and Environmental Risks (Chapter 6), Social Infrastructure Risks (Chapter 7), Climate Change and Natural Disaster Risks (Chapter 8), Food Safety (Chapter 9), Family, Domestic and Social Risks (Chapter 10), Financial and Insurance Risks (Chapter 11), Risk Education and Human Resource Development (Chapter 12), Emerging Risks and Social Responses (Chapter 13). This is frontend of contemporary risk research to re-review the definition of risk across disciplines. This preamble records a belief history of how to establish the Encyclopedia of Risk Research .
Key Words: encyclopedia of risk, risk research, contemporary risk concept, regulatory science
1. リスク学を体系化する試み 私たちが考える「リスク学」とは,人文科学, 社会科学,自然科学の多様な分野を含む学際的な 学問であり,リスクに対する様々なアプローチの 集合体ではないか。リスクの定義の分野差異や多 様性を否定せず,包括的枠組みとして扱うことに より,リスク学の学術的体系化が可能となる。リ スクの取扱いを巡る個人・組織・社会の意思決定 に関わる多様な学問の集合体を「リスク学」と呼 ぶことができよう。 このようなリスク学を学術体系として取り纏め てきたのが,私たち日本リスク学会(旧名 日本 リスク研究学会,2019 年名称変更)である。本 学会では「リスク学事典(初版)」を2000年に編 リスク学研究 30(3): 119–125 (2021)
Japanese Journal of Risk Analysis doi: 10.11447/jjra.SRA-E303
* 2021年1月29日受付,2021年1月29日受理
** 花王株式会社安全性科学研究所レギュラトリーサイエンス戦略室長(RD-Safety Science, Kao
Corporation)
纂し,その後「増補改訂版リスク学事典(第 2 版)」を2006年に発刊,そして,今回2019年6月 に,章立てから全項目までを新たに見直す形で 「リスク学事典(実質第3版)」を編纂刊行するに 至った(日本リスク研究学会,2019)。リスク学 はその対象も分析アプローチも拡大の一途をたど り,近年ではさらなる展開を見せている。時代と ともに変貌するリスク学を体系化するためには, 常に時代の新興リスク事象を組み込まなければな らなかった。リスク学事典編集委員会には,時代 の潮流をくみ取り,章立てに配列化する俯瞰力が 求められた。リスク学事典の初版から3版までの 20年,私たちを取り巻く社会のリスク課題も大 きく変貌を遂げた。編集委員の久保英也,岸本充 生,小野恭子,藤井らが議論した点を挙げると, まず第1に2001年の同時多発テロ以降,リスク学 の対象が悪意をはじめとする意図的な脅威(セ キュリティー問題)に広がった。第2に,ガバナ ンスへの関心の高まりが挙げられる。政府だけな く,事業者や一般の人々などの民間部門が重要な 役割を果たすようになりつつあり,ESG投資など が国際社会を動かす駆動力になっている。3点目 は,グローバル化や情報通信技術(ICT)化により, 物理的にも情報的にも,リスクの相互依存性や相 互連結性が強まったことが挙げられる。4 点目 に,2009年に国際標準化機構(ISO)からリスクマ ネジメント規格「ISO31000」が発行されたこと があげられる。そこでは,リスクは「目的に対す る不確かさの影響」と定義された。第5に,守り たいものが人の健康や安全にとどまらず,プライ バシーや人権,選択の自由,民主主義などへ広が りつつある点が挙げられる。第6に,持続可能な 発展目標(SDGs)への対応が挙げられる。SDGsのグ ローバル17目標は,逆に言うと,国際社会が優先 的に対処すべきグローバルなリスク課題であるとも 言える(藤井,2019; 岸本,2019a, b; 久保,2019)。 この様な社会状況を踏まえ,「リスクの複合 化」,「リスクの市民化」,「残余リスク」と「リス クの移転」など,新たなリスク用語や概念,そし て,リスク対応技法や仕組み,も数多く派生する に至った。リスク学事典を英名The Encyclopedia of Risk Researchと定め,これらの社会的課題,新 たな枠組みにどう応えていくのかを提示したいと 考えた。リスク学事典編集委員会では,リスク学 分野の諸課題を俯瞰的視野で体系化するには,分 野間の異同を認め合う受容性,見落とされがちな 分野のサーベイ,といった「学際化,分野横断 化」が必要不可欠であるとの課題認識があった (久保,2019)。 2. リスク学事典編集委員会 日本リスク学会(旧名日本リスク研究学会) は,1988年に創設以来,リスクに関わる諸分野 を横串で繋ぐ分野横断的な学会構成を有する。 2016 年から始動したリスク学事典の編纂にあ たっては,当学会理事会のもと,新旧理事を中心 とする21名のリスク学専門家からなるリスク学 事典編集委員会が設立された。委員長は学会長の 久保英也先生,事務局は丸善出版,各章を担当す る編集委員,編集アドバイザー(編集顧問)と いった編纂体制が有機的に組みあがり,2017–19 年の主だった編纂体制が機能した。編集委員会で は,まず,リスク学の現代的スコープを見える化 するべく,図1に示した195事項の中項目を選抜 した。各項目の執筆に際しては,学会員を中心に リスク学の観点から諸課題に取り組む国内外の 162名の専門家の知見を集約した。編集委員会に よる全項目査読を経て,195事項を1∼13章に配 置した(図1)。21名からなる編集委員の役割は, 編纂フェーズに応じて機能ユニット化し,特に全 章を通読査読し全体構成とバランスを俯瞰する主 幹(通読)編集委員4名は,大規模な事典を集約 させていく腕力を担うこととなった。これらの編 纂を通して,リスク学という人文科学,社会科 学,自然科学の多様な分野を含む学際的な学問を 体系化した。リスク学事典の発刊は2019年6月, 日本リスク学会第30回総会の1週間前であった。 2019 年 7 月に催された第 49 回安全工学シンポ ジウム(日本学術会議主催,日本リスク学会ほか 48学協会共催)では,リスク学事典編集委員会 を代表して,藤井,岸本,小野,久保の4名が登 壇し「学際的リスク学分野の体系化∼リスク学事 典編纂」をテーマとするオーガナイズドセッショ ンを催した。このシンポジウムはリスク学事典の お披露目の場となり,共催学会(安全・安心に関 わる多彩な国内学協会)の代表者らと「リスク学 の社会的・現代的意義」について討論を深めるこ ととなった。また,2019年度南アフリカで開催 されたWorld Congress of Riskでは,本学会広報委 員長の小野恭子理事によりリスク学事典のコンセ プトについての国際講演があった。分野横断的な リ ス ク 学 の Encyclopedia は 世 界 で も 類 が な く,
World Congress参加者からは英語・中国語等での 翻訳出版の要望が出された。2020 年末時点で, リスク学事典は丸善出版のもと重版がかかってお り,今後10年間のリスク関連事項の主要リファ レンスとして認知が広まっている。 3. リスク学事典の構成と公共性・実用性 リスク学事典編集委員会は,国際比較を含めた 図1 リスク学の体系化する195事項
リスク研究の今日的な到達点とリスク研究を実践 するうえでの課題を明らかにし,現代社会が直面 するリスクに対して問題解決の一助となることを 目指した。リスク学事典の中項目選定は,編纂の 重要事項であった。2017年から選抜がはじまり, 最終的に全195項目の配置が確定したのは,発刊 直前の2019年4月であった。事典は4部構成とな り,第一部がリスク学の射程,第二部がリスク学 の基本,第三部がリスク学を構成する専門分野, そして,第四部がリスク学の今後,とした。第一 部にはリスクを取り巻く環境の変化(第1章)を 置き,第二部では,リスク評価の手法(第 2章), リスク管理の手法(第3章),リスクコミュニケー ション:リスクを対話する(第4章),リスクファ イナンス:リスクを移転する(第5章)など,適 切なリスクガバナンスを考えるうえで必要な構成 要素を解説した。第三部では,健康と環境リスク (第6章),社会インフラのリスク(第7章),気候 変動と自然災害のリスク(第 8章),食品のリス ク(第9章),家庭と社会のリスク(第10章),金 融と保険のリスク(第11章)など,リスク学の 主な対象分野を配した。そして,第四部は,リス ク教育と人材育成(第12章),新しいリスクの台 頭と社会の対応(第 13章)とし,次世代のリス ク学につながる内容とした。執筆は各項目の専門 家に委ね,特にいくつかの項目は,今後分野を担 うことが期待される若手・中堅研究者に執筆に挑 戦いただき,学問継承と分野活性化,分野横断化 の機会醸成を狙った。 4. リスク学事典のエッセンス①リスク学 の基本要素の顕在化 リスク学事典編纂の醍醐味は,多様なリスク分 野を読み解く事により,それらの共通項を見いだ すことにある。そこで,ここからは筆者と岸本編 集委員,小野編集委員,久保編集委員長の4名が 話題提供した第49回安全工学シンポジウム「学 際的リスク分野の体系化∼リスク学事典編纂 (2019年7月3日)」の講演内容から,コアエッセ ンスを紹介したい。この4名による講演は,リス ク学事典の面白さを口頭で説明した貴重な記録と 云える。まずエッセンス①は「リスク学の基本要 素」について。そして,4つのエッセンスに興味 がわいたら,ぜひリスク学事典を手に取って読み 進めてみてほしい。 「すべてリスクは不確実な未来に関わる。そし て,リスクを リスク として認識し,制御して みようという意思が生じて初めてリスク学が生ま れる。リスクは守りたい何か,すなわち価値が あって初めて生ずる(岸本,2019a)」。 その守りたい価値も,それらの価値を脅かすも のも,文化や時代によって変化するため,両者が 掛け合わされるリスクも多様たらざるをえない。 守りたい価値は,生命や健康,財産,生態系,美 しい景観,人としての尊厳,プライバシー,時 間,未来など多様であり,それらを脅かすもの は,自然現象,不注意を含む事故,人為的な脅威 などが挙げられる。リスクとは一般的に,こうし た脅威により守りたいものへの影響が発生する可 能性と,その事象が実際に起きた際の影響の大き さの2つの要素からなる。これがリスク学の基本 要素である。 また,様々な脅威は単にリスクと呼び変えられ ることも多いが,それらがリスク学の対象として 扱われる場合は,ある/ないの二分法ではなく, 定量的あるいは定性的に,その間のどこかとして 示される。そうして初めて,リスクは,他のリス クや同じリスクの過去と比較することが可能とな り,リスクを減らすための費用を加味したうえで どこまでリスクに対処するべきかという議論が可 能になる。この指摘は,今後のリスク学の適応を 理解するうえで重要であろう。 5. リスク学事典のエッセンス②リスク学 の基本的アプローチ 「様々な分野のリスク学に共通する要素からリ スクへの基本的アプローチを抽出することができ る。最初のステップは,何を守りたいかを明確に するとともに,それを脅かす要因を発見すること。 次に,その要因が発生する可能性や,それが発生 した場合の影響の大きさを見積もる。このステッ プはリスク評価と呼ばれる。次に,それらのリス クを様々なアプローチを用いて管理する[4]。保険 や金融もリスク管理の重要な手法である。リスク 管理の仕組みは,リスク評価に基づく基準値など, 様々なレギュラトリーサイエンスの技法により, 現代社会に実装されている。そして,重要なの は,リスク評価から社会実装までのすべてのディ メンジョンにおいて,継続的にステークホルダー との対話を重ねる必要があるということである (藤井ら,2017; 岸本,2019a, b, 2019; 久保,2019; 小野,2019)。」
リスク学を構成する学術分野としては,方法論 での分類(リスク〇〇学)と,対象での分類 (〇〇リスク学)がある。リスク学は,方法論で ある横糸と,対象である縦糸が組み合わさったス コープの広い体系を基盤としている。さらに,科 学技術や社会生活の変化に伴い,守りたい価値も それらを脅かす脅威も次々と変化・拡大し,この ことが逆に方法論にも影響を与えていく。リスク 学は,生きている学問,すなわち対象と方法が共 進化していく学問と言える。それゆえ,その知見 も常に陳腐化のリスクを抱え,定期的な見直しを 迫られる運命にある(岸本,広田,2019)。 6. リスク学事典のエッセンス③リスク学 の歴史的展開とその多様な展開 「リスクを不確実な未来を少しでも確実なもの に近づけたいと考える人間のはかない思いだとす ると,未来が神による定めであると認識されてい る限り,リスクの評価や制御についての動機は生 まれない。リスクを計測する試みは,ロンドンの 商人グラントが人々の多様な死因に関心を持ち 生命表 と呼ばれる形式でまとめ1662年に出版 したことを起点とする。これは現代数学としての 確率がパスカルとフェルマーの往復書簡のなかで 編み出された 1660 年前後と時期を同じくする。 1921年には,英国ではケインズが,米国ではナ イトがそれぞれ不確実性に関する書籍を刊行。ケ インズは 確実性 , 蓋然性(確率) , 不確実性 を区別し, 不確実性 は他の2つの間に来るもの ではなく,両者の領域を超える基礎概念であると した。ナイトは, 先験的確率 と 統計的確率 をともに確率分布で表すことができるものを リ スク と呼び,測定がもはや不可能な 高次元の 漠然とした世界 を,真の意味での 不確実性 と した。第二次世界大戦後,リスク学は様々な分野 で花開いた。放射線防護分野では,国際放射線防 護 委 員 会 が 1950 年 代 に リ ス ク 概 念 を 導 入 し, 1977年には原爆被爆生存者の疫学調査に基づい て発がんリスクの定量化が行われた。1960年代 から英国や米国では原子力発電所を対象として, 確率論的リスク評価(PRA)の手法開発が進められ た。リスク学の先駆者としては,ベネフィット概 念を定量的に導入したスター,リスク比較を提唱 したウィルソン,リスク認知研究を切り開いたス ロービックやフィシュホフ,トランスサイエンス 概念を提示したワインバーグ,リスクホメオスタ シス理論のワイルドなどが挙げられる。1970年 代からは,ヒト健康リスク分野,特に発がん分野 に定量的なリスク評価手法が導入され始めた。そ の後も,リスク行政において, 重大なリスク 概念,比較リスク評価, リスクの耐容性 枠組 み,ALARA や ALARP 概 念,LNT 仮 説,BAT 概 念,事前警戒(予防)原則などが生み出された。 さらに1989年には全米科学アカデミーからリス クコミュニケーションに関する報告書が出版され た(岸本,広田,2019)。」 このようにリスク学は,人類学,社会学,政治 学といった様々な分野において,独自の進化を遂 げた。その際,リスク概念は様々な分野で次々と 社会実装され,独自に発展したため,リスクとい う用語の現時点での使われ方やリスク分析方法 は,分野ごとに共通点とともに差異が存在する。 そのため,リスク学事典では,機械安全,自然災 害,工業化学物質,食品安全,セキュリティ,感 染症,金融・保険,組織,社会学など,多様な分 野でのリスク定義や用語の使い方の特徴を,リス ク学事典1–2項に提示した。各分野の固有のリス ク概念を知っておくことは,分野横断的なリスク 対話を有意義なものにする。また,他の分野のリ スク管理手法を自分の課題解決のために積極的に 取り込むことに繋がる。分野横断化の試みは,各 分野で孤立するリスク学を個別発展の歴史から解 き放つ鍵となる 7. 次期リスク学事典の編纂体制構築にむ けて 筆者は,リスク学事典編纂を通して,リスク学 の存在意義は,基礎的科学研究と現代社会の問題 解決をつなぐ部分を可視化・定量化することにあ ると考えるに至った。リスク学が不確実性を含む 課題への意思決定に関わる以上,リスク学の多く の部分はレギュラトリーサイエンスと呼ばれる分 野に属するといえるだろう(藤井ら,2017; 岸本, 2019a; 久保,2019; 永井ら,2016; 小野,2019)。 諸分野がリスクに対応する仕組みを深め,他分野 のリスク技術の転用・汎用を試みる段階にあって は,リスクの考え方を共有化する人財の協働の場 が社会的に重要となる(村山,2019)。リスクへ の注目度が高まった現代社会において,分野ごと に細分化された知見を,リスク学体系として再構 築することは,リスク学の社会的責務であろう。 少子高齢化,経済低成長の常態化,リスクの複合
化・市民化にともない,対処するべきリスクのス コープは拡大した。リスクの定義を分野横断的に 見つめ直し,現代社会の課題に対応できる実学に 成熟させることは,まさに時宜にかなうと思う。 次期リスク学事典の刊行は,6–8年後となるだ ろう。編集体制の刷新,日本リスク学会員のより 広範な協働体制の構築,テーマの偏りの修正,未 収載分野へのアウトリーチなど,新時代にむけて 手を付けるべき課題は残っている。日本リスク学 会では「リスク学事典次期編集委員会準備タスク グループ」を2020年に立ち上げた。リスクの本 質を解決志向性のある学問として,また社会実装 の両面から深く語り合える Society が望まれる。 事典項目の再編成がきっかけとなり,日本リスク 学会が学際的な連携のゆるやかなプラットフォー ムとなり,それが皆様のリスク学の研究と実践に 活かされればと思う。どうぞ集ってください。そ して皆様の問題意識に沿って,次期リスク学事典 の頁を書き始めてください。お待ちしておりま す。 参考文献
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