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交通機関の変貌と交通労働者 -- 「人力車」から「円タク」への移行 --

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(1)交通機関の変貌と交通労働者 -「人力車」から「円タク」への移行 ――. 武 知 京 目 次 はじめに 1. 人力車の発達と人力車交通従事者 2. 人力車と巡航船•市電との対抗 3. 人力車の衰退と「円タク」の出現 4. タクシ ー 経営とその雇用状態 おわりに. は. じ. め. に. 柳田国男は,「明治大正史•世相篇」の中で,「 新交通と文化輸送者」なる 1章を設けて, 交通機関の発達とその従事者の姿を興味深いタッチで綴って いる (1) 。 人力車がわが国の 路上から消えて久しいが, 以下では, 大阪におけ る動向を中心に, 維新期に登場した「 人力車」 がその後新しい交通機関の圧 迫をうけ, 最終的には「 円クク」にとって代 わられるまでの 諸過程を多少そ れらをとりまく 労働力の 面にも視点をおきながらふりかえってみようとおも う。. 一 市電の 労働問題は,. 別の機会に譲るが―。. ただし, このような視点に立つとき, この部門の 1次資料はほとんど見当 (1)柳田国男「明治大正史 • 世相篇」 (上)(講談社学術文庫, 昭和51年) 197頁以 下。. -241 (553)-.

(2) らず, 既存の成果 (2) に加えて, 主として当時の新聞記事に負うところが多く なった。. 1.. 人力車の発達と人力車交通従事者. 明治 2 年ごろ東京で 発明されたといわれる人力車は, やがてその 便利さが わかってくると駕籠に代 って全国に流行し. 文明開化の象徴とまでみなされ るようになった。 大阪への 移入については数説あるが, それはともあれ, 3 年12月に人力車営業規則が定められているところからみて, 同 年にはすで に 相当流行していたようである。 大阪で, はじめて人力車を東京から取寄せ て 販売したの は飛久こと田井久治で, かれは高麗橋 1 丁目に東京の人力車改良 家秋葉大助の支店と称して, 便船ごとに80台ないし100台の車を受取ったが, それでも全部の 注文に応じきれなかった。 8 年に同店に送付された人力車数 は, 2,000台に達したという (3) 。 一般に, 都市の膨脹に伴って人力車は伸び, 早くも明治14,. 5 年に隆盛を. きわめた。「宿屋の主人と為り, 金貸業と為り, 或は貸車営業者と為りて数 万の産を稼み車夫社会の成功者を以て目せらるヽ者」は, この段階でその基 礎を築いたといわれる (4) 。 ただ人力車は袈籠に代 って登場したもの の, 今度 は安い運賃の 乗合馬車に 乗客 を奪われる運命が待っていた。 烈籠から人力 車, さらに乗合馬車へと交通機関が移行するに伴い. それぞれの 交通従事者 間で相当な軋礫が起こったの であるが, 斎藤俊彦氏は, 明治9 年夏の 一事件 を報じた, r大阪日報Jの記事などを紹介しながら,「 人力車夫」 と乗合馬車 (2)石井研堂(「明治事物起源J), 宮本又次 <r 明治大正大阪市史」第3巻など)氏の ほか, 最近では, 斎藤俊彦(「人力車」)氏のすぐれた業績がある。小稿作成にあた っても, 後二者から多大の示峻をえた。付記して, 謝意を表する。 (3)大阪市「明治大正大阪市史」第3巻経済篇中 (昭和8年) 864-866頁。 (4)労働運動史料委員会編「日本労働運動史料」第2巻(昭和38年) 311頁(「友愛」 第6号社会雑姐, 明治36年12月20日付)。. --242 (554)-.

(3) 第1表 年次 I 明治15. 人. 人力車数および人力車営業者などの推移. 力 車 数. 1 人乗 ム. 6,327 ロ. I. 人力 車 営業者数. 合 計. 2 人乗 ム. 4,065 ロ. ム. 20. 6,002. 2,372. 8,374. 25. 8,427. 1,984. 10,411. ''. 30. _人. 10,392 ロ. 608. 人 力 車 挽子数. 一人 7,569. 17,104. 1,792 * 3,201. 10,573 * 10,705. 35. 18,371. 1,927. 20,298. 5,207. 20,007. 40. 14,487. 1,091. 15,578. 4,159. 13,079. 大正元. 7,418. 257. 7,675. 2,199. 6,969. 注) 大阪市「明治大正大阪市史」第3巻経済篇中, 868-869. 871-872頁。なお*印 は,明治29年の数値である。 の「取者」や「馬丁」との 対抗を生々しく伝えている5) 0 追った者が追われるという, こうした出来事は, 早くも人力車の 前 途を暗 示するものといえるが, それはともかく, 第1表に示すように, 人力車は 1 人乗りのもの と 2 人乗りのものがあり, 大阪市内だけで15年には 1 万392台 を数えるにいたった。同 年 9月の人力車営業取締規則などによると, 人力車 交通従事者には, 人力車営業者と 「挽子」とがあり, その数は20年現在でそれ ぞれ6 08名, 7, 569名となっている。前 者には, 多数の 車を所有してそれを賃 貸する賃貸業者と, 自己の所有する車を「挽子」 にひかせる帳場営業者のい わゆる「親 方」と, 自己の 所有する車あるいは賃借りした車を自己の計算に 基づき通常公設駐車場で営業する, いわゆる「辻待ちの 車夫」とがあった。 かれらは所轄警察署の 区画にしたがい組合を設置することや, 所轄警察署に 届け出て鑑札をうけることが義務づけられていた。人力車の料金も, 組合で 決定し, 所轄警察署の認可をうけることになっていたが, いま19年における 梅田を起点とする料金をみれば, 堂島まで 2 銭, 心斎楢まで4 銭,難波まで (5) 斎藤俊彦「人力車」(クオリ, 昭和54年)271頁以下。 -243 (555)-.

(4) 5 銭, 天王寺西門まで 9 銭という具合であった。 しかし, 「 車夫」の中には 規定の料金以上の額を強要するものもおり, 料金をめぐる「 車夫」と乗客 の いざ こざが絶えなかった (6) 。 人力車は, 鉄 道の発達しない間は遠距離 交通にも利用 され, 奈良 ・京都・ 兵庫間の旅客輸送はもちろんの こと, 東海 道でさえ, 明治16年ごろには客 車 商会とよぶ 人力車組合や梅田駅の遠藤大助らが各駅継立の方法で旅客輸送を 行っていたと伝えられる。 しかし, その後は主として近距離 交通, とくに市 内の交通機関としての役割を担う ことになる。 明治20年代後半の「 人力車夫」 の状況をみると,平均 1 日10 哩以上走り, 30銭から 5, 60銭をえたという。. 20 哩以上走る ことは, きわめて稀れだったようであるC7\ さて「 人力車夫」の出自はどうであろうか。 さまざまな階層からの出身者 で成り立っていたと おもわれるが, 前掲「明治大正大阪市史」によれば, 「 その初期に於ては 没落した駕昇より転職せるもの が多かったが, その数の 増加 するにつれ次第に無頼の徒を加へ」(8) たという。 また明治27年初頭の. r大阪毎日新聞」は, 大阪府下の「 人力車夫」(「挽子」)の出自について,「平 民七分 半士族一 分僧侶二分」程度と記し, とくに「僧侶の車夫となる者多き は当府下の特有」と報じている。 士族云々は没落士族の姿を象徴 するもので あり, 僧侶云々は, 「寺院多き割合に書生僧侶の数多く 中には色慾戒飲酒戒 (道). を侵し放蕩□楽に其身を持崩したる揚旬」の結果であったといわれる (9\ しかし, 当初は容易であった 「 人力車夫」への道も, 19年の 取締規則以 後, 「挽子」は満18歳以上, 身体強壮かつ土地路程に明るい こと, などかな り厳重な関門が課せられるようになった。 明治20年代後半の状況を新聞記事. によってみると, 第 1 に体格および眼力, 第 2 に前科の有無, 第 3 に町村 名 橋梁官街の名, 第 4 に「 車夫」となる心得,など 4科目に合格しなければな (6) 北崎豊二編「大阪の産業と社会」(毎日放送, 昭和48年)84-85 頁。. (7) 「大阪毎日新聞」明治27年 2 月 5 日付。 (8) 前掲「明治大正大阪市史」 874 頁。 (9) 前掲「大阪毎日新聞J。. -244 (556)-.

(5) らなかったのである。 さらにこの「人力車夫」登用試験に先だち, 股引・半 羅・足袋•草鮭•笠等は必ず自弁とされ. また車の賃借敷金もいく分かは出 さなければならず, かれこれ 2,. 3 円は必要だった。 労働の激しさゆえ, こ. の職業に従事する者は痔を患うものが多かったという {I Q) 。 「人力車夫」の出自やくらしなどについては, 斎藤俊彦氏の前掲書にも詳 しくまとめられているが, 伴う賃労働の. 一. 般的な見方をすれば. 資本主義の形成・展開に. 一. 形態をそこに認めることができるであろう (11) 。. 横山源之助. 「日本之下層社会」(明治32年刊) などに収録されている)レポルタージュは . その状態を活写して余すところがないのである。. 2.. 人力車と巡航船 • 市電との対抗. 大阪市内の営業人力車等 は, 明治 33年の市税賦課に対し, 車税軽減運動を 展開するなどの動きをみせたが, 35, 6 年の人力車の黄金時代というべき時 期以後, 巡航船•市電の出現によって苦しい局面に立たされることになる。 以下, 緊張の高まった巡航船との関係を中心にみていく。 まず35年末の人力 車数をみると, 大阪は東京の 3 万4 ,559 名についで'. 2 万351 名を数え, 第 2. 位である (12) 。「車夫」の年齢は, 20歳未満449名 (2.2 彩), 30歳未満6,626 名 UOl. un. 「大阪毎日新聞」明治 27年 2 月8日付。. 斎藤俊彦, 前掲書235頁以下。 なお賃労働史の分析は, 小稿の課題をこえるもの であるが, その研究史をふまえ 一定の展望を与えたものとして, 石井寛治• 海野. 福寿・中村政則編「近代日本経済史を学ぶ」(上)明治(有斐閣, 昭和52 年) をあ げておく。 その中で , 海野福寿氏は,「原蓄論」において,「人力車夫」その他についても関 説し, その位置づけを行っており(15頁以下),また西成田豊氏は,「日本型賃労働 の成立」において,日本資本主義確立期の賃労働者は量的にみて, ①製糸・紡績業 を中心とする繊維工場労働者, ②官営工場労働者を中心とする機械工場労働者, ③ 鉱山労働者, ④交通労働者, ⑥問屋制家内工業労働者の五群を中心に構成されてい る」(110頁) と, 賃労働者の構成的特徴をとらえている。 1( 2) こ の数値は, 前掲第1表の それと若干誤差がある。. -245 ( 557)-.

(6) (32.6;;Jる), 40歳未満8,4 34名(41 .496), 50歳未満 4,248名(20.9;;Jる), 60歳 未満587名(2.9%), 60歳以上 7 名(0.03%)であり (13),. 壮年層が多いが,. 「老齢車夫」の存在も無視できないもの があった。 明治36年は, 大阪で第 5回内国勧業博覧会が開催された年であり, 人力車 にとっては, まさにかき入れ時であったといえるが, この年 1 月水連を利用 する大阪巡航合資会社が設立され, 3月からその 事業を開始したの である。 ほかに関西鉄道天王寺・ 博覧会鉄道(3.21 )および大阪市電(9.21 )の開業 などがあり, 交通機関も大いに整備された。巡航船や市電は, 速度の点でも 運賃の 点でも人力 車より優越しており, 大衆の人気を集めることになる。い ずれにせよ, 当時唯一の 市内交通機関である人力 車にとっては大変な強敵が 出現したわけであり,. 「人力車夫」の不満は爆発したのであった。. 巡航船は, 大阪市内道路の 狭隣から生ずる路面交通の いき詰まりを緩和す る目的で企図されたもの である。当初の市営計画は実現せず, 主として東京 0)川蒸気会社の 関係者をもって資本 金1 3万円の私営事業として実現し, 市と 報償契約がむすばれた。水都大阪の 利を生かしたこの 試みは, 一般の「人力 車夫」にとって生活上の大迫害であったから, 大阪市内「人力車夫」のほと んど全員が一 致結束して闘うことになる。世にいう巡航船事件は, まさにそ の有様を集中的に表現したものである。すなわち, 36年6月12日「営業車夫 信用 組合創立会」の名目の もとに「人力車夫」3,500-600名が警官の笞戒裡 に土佐堀青年会館に大集合し, そこで発起人は, 将来のために自助心を養い 信用 組合を設立しようと訴え, 1 6カ条にわたる設立趣旨を述べるとともに, 「本組合は 巡航船に対する同業者の利害を調査し自助の方法を講ずる事」と いう決議案を提出するにいたった。「車夫」たちは, 決議案の 内容は難しく てわかりにくかったようであるが, 案文の中に, うらみ重なる「巡航船」と いう言葉が出てきたの で 一同拍手のうちに賛意を表したという。この間発起 人の 演説に対して,「しっかり頼みますぜ」「四十銭の儲を拗って出掛けたの U3l 斎藤俊彦, 前掲書258頁。 -24 6 ( 558 )-.

(7) は其が為だっせ」などと叫ぶ者があり, 場内は騒然とし, 警官の命令で解散 を余儀なくされた。. 一. 方, 難波桜川町付近に集まった, 別動隊の「車夫」 集. 団は, その後やじ馬を加えて3,000余名にふくれあがり, さらに青年会館か ら流れてきた「車夫」たちと合流し, 警官の 必死の 制止を振りきり, 巡航船 に投石するなど妨害を加え暴動化した (14)。 2 つの集会のうち, 前 者の グル ー プは, 「彼の巡航船を打潰す計画にて集 りし者」であり, 後者のグ)レ ー プは, 「巡航船に対する善後策として第一人 力車をして巡航船と競争せしむる事(・・・巡航船乗船賃と車賃とを同一にし其 埋合としては一車に付営業主五厘営業者五厘都合一銭宛毎日貯蓄し一 箇月市 内にて二百七十余円の貯蓄を得る予算なれば其貯金を以て不足の賃金額に充 つる事), 第二巡航船の 既定賃金を直上げせしむる若くは市に対する巡航船 報償の額を今より二倍とする事左すれば自然船貨を直上するに至るべしと の 説」を掲げており (15),. それぞれ目的・ 路線に若干の相違がみられた。 さき. の暴動のあと,「人力車夫」はいっせいに休業に入った。 この 事件は,「大阪 朝日新聞Jが克明に報じているが,博覧会開催時における「人力車夫」の 乗 車賃吊り上げを経験していた世論は, 同盟罷業に著しく批判的であり, ま た生 活難などで罷業団内部の 結束も弱く, 解散命令で罷工は3日で終わっ た (16) 。 この 結果, かれらの 敵視している巡航船はかえって思わぬ乗客 を見, 意外の 収入をえたといわれる。 なお, この 同盟休業によって多大の利益をえ たもの に質屋があった。 とくに12日の夕方から13日にかけて, 難波その他場 末の 質屋に,「専用 の 蒲団, 膝掛け, 提燈, 法被等を持込で 一時の融通をし たものは数へきれない程であった」(17) ということである。 ところで平常回復にあたって,. 一. 種の賃金協定がみられた。 「人力車夫」. の中には, 生 活上の必要 から勉強組と称する一団体を設け, 巡航船に対抗し (14) 前掲「明治大正大阪市史」 883-884 頁。 前掲 「日本労働運動史料」 317-319 頁 er 大阪朝日新聞」明治36 年 6 月13日付) 。 (1� 同上, 320頁(同上) 。 (16) 同上, 309 頁。 (17) 同上, 329 頁 er 大阪朝日新聞」明治36年 6 月14日付)。 -247 C 559)-.

(8) て運賃を値下げし, その賃金表を駐車場に掲示して営業するものが出てきた のである。 「自分等の企は巡航船に対する競争運動であらで巡航船に促され て已むなく賃金を低めしまでなり」 とその発起人は語っている。 これに同意 した者は, 「既に六百人以上あり 一 昨日(明治36年 6月25日ー 武知注)の如 きは少きも 一人前四十銭多きは七八十銭の収入ありたり」 といわれたが (18), こうした動きに対し,警察では, つぎのように諭示している。「(1)勉強組即ち 競争車夫と他の車夫と衝突の憂ひなからしむる事, (2)賃金表掲示は追て協議 の上許可する事, (3)競争車夫希望の者に対しては各注意をなさしむる事」 (19) と。 ともあれ,「勉強組車夫」は赤旗を徴章として巡航船に対抗し, 乗客を陸 上に奪い返そうと意図したのであるが, これは「車夫」改良の元祖となり, 「 一般車夫」の状態を一変するほどであったという。 もっとも, この頃を契機 として人力車は衰退に向うわけであり, 当時の新聞には「人力車夫」の困難 についての報道が多くみられる。 新しい交通機関の圧迫と同業者間の競争に 堪えずして転業した者も少なくなかったのである。 一方, 巡航船の歩みも平坦なものではなかった。 同社は4隻の石油発動機 船をもって, 新町橋・湊町・戎橋・日本橋間の航行を開始し, その後. しだ いに規模・区域を拡張して人気を集め, 開業した年のIO月には. 「目下四十 一. 艘の巡航船あり。. 一. 般に船長, 機関手, 水夫等各ー名のりくみ居り, 中に. は見習生を含めて四名のもあり, 総員は見習生を合せて百五六十名あり。 日 の長短に由りて相違あれど, 現今は午前七時に始航し, 午後七時に終航のこ ととなり居れり」 (20) という状態に達したが, この時待遇改善を要求する巡航 船々員の同盟罷工が起こったのである。 同盟側は, つぎの5要求を掲げんと したらしいが,交渉条件もまとまらず, また会社側が強硬な態度をとったた め, ついに要領をうることなく落着した (21) 0 U8l. 同上,326-3切頁。(同上,明治36 年6月27日付)。. U9l. 「大阪毎日新聞」明治36 年6月28日付。. ⑳ 前掲 「日本労働運動史料」303頁 (21) 同上,302-304頁(同上)。. er大阪朝日新聞j明治36 年10月10日付)。. -248 (560)-.

(9) (1) 会社は服務規則の改正を名と し て, 功労ある船員を突然解屈せ しは将来 我々の 一 身上に大関係あれば, 是に対する会社の 意向を訊ぬる事。 (2). 給料の 増額は会社と我々との 間に約束ありしに今度の通知に由れば真の 申 訳にすぎず. 却って収額を減じたる事。. (3) 博魏会々期中手当として出 し居たる金額 (毎月 3 円ー 武知注) を廃し, 事業の発達したるに拘はらず右に替るべき処置をなさ ゞ る事。 (4). 就業時間は午前 六時五十 分 より午後六時五十 分 を運転時間とする も, 時 として午後八時若くは八時半になることあり, 是等の時間には相応の手当 を支給されたき事。. (5). 各汽船には各特性あり。特 質あり。 舵手となり, 発動機方となる も の は, 船の 特 質を知るを要 す。然るに日々船の区別なく乗込ましむる為, 自然衝 突の憂あり。然 もその 損害は各自の 日給より弁償するが故に, 到底堪ふる 能は ざる事。 巡航船は人力車を圧 倒して伸びたが, それを支えた船員労働が如何なる問. 題点を内包していたかを如実に示す出来事であ っ たといえる。 明治39年 8 月 大阪巡航合資会社は解散 し, 新たに 資本 金 20 万円の 大阪巡航株式会社とな り, 引 続き営業を行う。 新会社は, 41年にいたるまでや > 順調に発展する が, 同年 5 月には会社の待遇に不満を も つ従業員が 5 日間の サ ボ タ ー ジ ュ を 行ったため,平日出船数の半数が停船した (22) 。 末期の 巡航船々員の生 活を, 当 時の新聞は.. 時期は少 しずれるが. 明治. 「涼 しさうで 熱い人」として,. こう伝えている。 すなわち,「 水の都の 大阪で朝から晩まで水の上で暮して ゐる巡航船の船夫や運転手等は他所 から見ると如何に も 暢気さうで 夏などは 別 して涼しげに思はれ陸の 上で働 く 人から見れば羨しく も 面 白さうに も 見え るであらうが中々以て暢気所 の 沙汰で ない• • • … 疎 々食事をする暇さへなく舵 手などは足で 舵を取りながら食事をするといふ始末, 汽車や電車の 如に交代 時間など更になく一 日中働き通 しであるのは堪らない• • • … 運転手など平均二 四 前掲 「明治大正大阪市史」 1 ,060-1 ,061頁。 -249 C 561 ) -.

(10) 十円から二十五円の月給で妻子を養 っ て行かねばならぬ」(25) と。 それはともかく, 巡航船は, 市電網の 拡充に伴い, 漸次市電に乗客 を奪わ れ る 。大阪市電は, 明治3 6年 9月西区九条花園 橋か ら 築港埠頭にいたる 5 キ ロ 余を開設したの が最初である。同 年の 第 5回内国勧業博覧会を機会として 市街地と築港をむすびつけ る ことを目的としたもの であ っ た。当初はその 採 算性について自信がなか っ たが, 築港線完成後の 同 年11月, 時の市長鶴原定 吉は市会に「 市街鉄 道二対 ス ル方 針確定 ノ 件」を提案して, 「大阪市二於テ 将来布設 ス ベ キ市街鉄 道ハ 総テ大阪市直接二 之 ヲ 経営 ス ル モ ノ ト ス 」 ,「 個人 若クハ私営会社ニ シ テ 市街 二電鉄 ヲ 敷設 セ ン ト ス ル者ア ラ バ断 ジ テ 之 ヲ 除去 ス ベ シ 」と市 内電車の 市有市営の方 針を打ち出 した (24) 。 市営方 針が確立す る までにはなお曲 折があるが, 市長は, 「電鉄 経営が収益の 多いもの であるこ とを指摘すると同 時に, 都市膨脹に と もなう新市街地を整備す る ため の 財源 と して好適である」 (25) と説いたの であ っ た。 こう し て大阪市は, 最初から市内交通機関について市営主義をとり, 上述 の 第 1 期線に続いて,明治3 8年には 2 期線, その 翌年に3 期線の 特 許をとり, 大正 5年には全部完成させて, 当時の 市街の 大系をつくると同 時に, 沿線道 路の 拡 幅工事を推進した。ただ, 市電は, 幅員の狭い市の 中心部を貫通す る ため, 土地収用 などに関して沿線住民から強い反対が出され, 用 地買収から 竣工にい たるまでかなりの年月を要 し て いる。このため, 2 期線は, 市会で 一部修正の うえ 可決されたの である。 さらに 第4 期線を 大正 6 年から着工 し, また各期線を補充す る 目的で期外線も敷設された。このように, 矢つ ぎ 早やに計画が市会で 可決されたのは, 「 いちはやく市内 の 主要 幹線の路線免 許をとり, 民間資本 による市 内車線の 建設を封ず る の が目的であ っ た」(26) と いう。大正末期におけ る 市電の 営業キ ロ数は88 キ ロ 余に達 し, 市電の 黄金時 ⑳ 「 大阪毎日新聞」 明治44年 8 月 6 日付 。 ⑳ 大阪市電気局「 大阪市電電気軌道沿革誌」 ( 大正12年) 5 頁以下。 凶 日本科学史学会編「日本科学技術 史 大系」第16巻 • 土木技術 (第一法規, 昭和45 年)174 頁。 ー250 (56 2 )-.

(11) 代 をむかえるが, そ の 路線を, 第 2 表に掲 げてお く 。 一方で, 郊外電鉄の市電乗入れ が 問 図となったが, 市側は専 らその 阻止に つとめ, 実現するの は南海 軌道線の み で あ った。 これは, 明治40年11月 , 当 時馬車鉄道か ら 軍気鉄道へ の転換を計画 中 で あ った大阪電車軌道と天王寺西 門前 ・ 天満楢南詰間 の 軌道共用 の 契約に端を 発し, のち同 社が改築 工事 中 に 南悔鉄道に合併 さ れたことに基づ く 。 43年10 月 , 天 王寺西門前 ・住吉間 を 開 業するや, 翌年 1 月 に谷町6 丁 目 ま で, 8 月 には天満橋南詰 ま で の乗入れを 実現した。 しかし, 乗入れは長続 き しなかった。 のちに市側は, 南海 鉄道と 交 渉して, 大正10年12月 天王寺西門 ・ 天 王寺駅前 間 の 譲渡を う け, 市電路線 網 に編 入しして ま った (27) 0 いずれにせよ,. 市電は名 実 と も に市民の 日 常的交通機関 として定石した. が, 反而それ ま で 過渡的に市 内 交通を担 当 していた巡航船と人力車とは大 き な打撃を う け, 退潮の 一途をた どることになる。 巡航船についてみると, 市 電第 2 期 線の 開通によって, 「大阪巡航株式会社西横堀線大打撃を蒙 り 一 日 百五十 円 の 収入減少を来せ り , 数年前人力車夫の業を奪ひしとて車夫0)襲撃 を 受けたる同 社は此回電車の為め業を奪はるる姿となれ り , 市電は益 々 其線 路を延長せし為め石油発動機船八十二隻 を有して営業せし巡航会社は後年遂 に廃業するの 已 む を 得 ざるに至 れ り 」(28) と伝え ら れる。 とくに第 3 期 線の計 画は, 巡航船の衰退を決定づ け る も のとなった。 明治末期には航路の縮小を 余儀な く さ れる一方で, 45年 1 月 市電が均 一料金制 ( 区 間 制 を 均 ー制 4 銭に 改正) を実施したのに伴い, 全航路を片追 3 銭, 往復 5 銭の 均 ー制にするな ど の対抗策を講 じた り も した。 しかし, 種 々 の 対策 も 及ば ず, 大正 2 年 7 月 その事業を 休止し, 9 月 末ついに解散となった 。 以上, 人力車と新しい交通 機関の 動 き を みて き た が, 巡航船や市電は特定の 路線によって成 り 立つ も の (26) 青木栄一 「 日 本の鉄道 ・ 京阪神匿 ( 大阪近郊) の鉄道網のあゆみ」 町 大阪都心部 (『鉄道 ジ ャ ー ナ ル」 171号, 昭和56年) 60頁 。 切) 同J.:., 62-63 頁。 (28) 宇田正 「近代 大阪の都市化 と 市営電気軌道事 業の一寄与」 ( 大阪歴史学会編 「近 代 大阪の歴史的展開J 吉川 弘文館, 昭和51 年) 310 頁。 -251 C 56 3 ) -.

(12) 第 2 表 大阪市電開通路線の概要 線. 路. 名. 築 港 線 東 西 線 北 南 線 九 条 中 之 島線 上 本 町 線 凶根崎天満栢筋線 谷 線 町 北 浜 線 今 梃 天満筋線 玉 造 線 筋 線 堺 福 島 曽根崎線 fo>< 'l"1 線 町 靭 本 町 線 西道頓堀天王寺線 天 神 橋西筋線 松 島 安治川 線 九 条 高 津 線 難 波 木 津 線 西 野 田 線 西 野 田 福 島線 桜 川 中 之 島線 霞 町 玉 造 線 安 治 )i i 築 港 線 松 島 南 恩 加 島線 梅 田 善 源 寺町線 線 田 野. 開業年月 明治 36 . 9 41 . 11 43 . 12 42.12 44 . 1 44 . 7 44 . 8 44 . 10 同 45 . 45. 大正 元 . 2. 2. 4.. 6 5 9 4 7 1. 同 4. 4 4 . 11 5. 2 5 . 12 同 10. 7 同 11. 6 1 1 . 10. 九 条 高 津 連絡線 築 港 北 海 岸通線 天 王 寺 阿 倍野線 線 町 鶴. 15. 4 7. 4 9 . 12 10. 6 10. 12 11. 5. 谷 町 寝屋 川 線 上 本 町 味 原町線. 12.12 14 . 1 1. I. 起. 終. 点. 築港桟橋 花隣柄 九条中通 1 丁 目 一末吉橋 渡辺栖一 恵美須町 花園橋一渡辺橋 上本町 2 丁 目 一天王寺西門前 梅田新道—天満橋京阪電車前 谷町 6 丁 目 —天満橋京阪電車前 北浜 2 丁目 ー天神橋 天神橋一天満柄京阪電車前 末吉橋一玉造 大江栖一 日 本橋筋 3 丁 目 福島西通—梅田新道 恵美須町—霞町 川 口 町―谷町 3 丁 目 桜川 2 丁 目 ー天王寺西門前 北浜 2 丁 目 天神橋筋 6 丁 目 一. 松島町ー安治川 2 丁 目 渡 安治川 2 丁 目 渡ー上本町 6 丁 目 賑橋一大国町 船津橘ー兼平町 玉川 町 4 丁 目 ー福島西通 桜川 2 丁 目 一堂島大楢 霞町―玉造 王船橋一千船楢 松 島町 2 丁 目 一木津川運河 阪急阪神前一都島本通 玉川 3 丁 目 —野 田阪神電車前 湊町駅前ー(東海岸経由)賑梃 築港桟橋—三条通 4 丁 目 天王寺西門前一阿倍野橋 小林町―大運橋通 谷 町 3 丁 目 一偕行社前 上本町 6 丁 目 一下味原町. 注) 大阪府編 「大阪百年史」 542頁。. で あ っ た か ら , そ の 利 用 は著 し く 制限さ れた面があ り , そ の 限 り に お いて独 自 の 交通需要を も つ 人力車 に は ま だ十 分 に 存在理由 が 残 さ れて い た と い え -252 ( 564 ) -.

(13) よ う。. 3.. つ ぎ に,. 人力車の衰退と 「円 タ ク 」 の 出 現. 「人力車夫」 を 窮境 に 追 い こ ん だ新 し い交通機関 と し て 自 動車 が. あ げ ら れ る (29) 。. わ が 国 に は じ め て 自 動車が輸入 さ れ た の は , 明治33年 ご ろ. の こ と で あ り , 36年に 広 島 ・ 京都な どで乗合 自 動車の企業化が試み ら れ る 。 そ の 後, 明 治末年 に か けて全国各地で バ ス 事業 が計画 さ れた が, い ず れ も 普 通の乗用車に 「乗合」 の表示を し て 運ぶ も の で, 保有車両 も 1 業者 1 台 な い し 数台で あ り , 経営 的 に は 不成功に 終わ る も の が多 か っ た 。 当 時 の悪路 と 相 つ ぐ 自 動車 の 損傷, あ る い は 「沿道車夫」 の妨害. コ ス ト 高 な ど に 悩 ま さ れ た か ら で あ る (30) 。 こ の よ う に 自 動車 の普及 に は 時間がかか る が, つ ぎ に 大阪 に お け る 状況を 瞥見 し て い こ う 。 第 5 回 内 国勧業博覧会は大阪市 の 社会文化全般 に 大 き な影 図 後述す る タ ク シ ー と と も に, 人力車の衰亡に 一役買 っ た, も う 1 つの乗 り 物が 自 転車で あ る 。 自 転車は, 明治20年代ま で は全国各地の都市で貸 自 転車 と して流行を みせてい たが, 30年代に入る と ,. 「人力車の敵」 と い う 声が聞かれたほ ど庶民の 日. 常生活の中へ普及 し は じ め た 。 ち な みに, 自 転車の普及状況を全国数字に よ っ てみ る と , 大正元年130人に 1 台の普及率で あ っ たのが, 5 年後の大正 5 年 には62人 に 1 台の割合と な り , 関東大展災後の大正13年に は367万台を こ え,. 16人に 1 台 と 伸. びてい る (斎藤俊彦, 前掲書304-305頁)。 大衆化 し た 自 転車 は, そ の手軽 さ か ら , しだい に人力車を圧迫 してい っ た。 自 転車産業振興協会編 「 自 転車の一世紀」 ( ラ テ ィ ス , 昭和48年) に よ る と , 「貸 自 転車屋」 と い う 商売は, 明治10年前後から 東京で は じ ま っ た よ う だが, そ の 後流 行 し, 大阪で は 貸 自 転車のふえた, 21年12月 か ら 1 台75銭の 自 転車税を課 し た と い う 。 なお32年 ご ろ , 自 転車の賃貸を開始 し た と み ら れ る 堺市の双輪商会の場合, 3 尺位の長い提燈の表に 「 自 転車賃貸」, 裏に 「修繕は迅速安価」 と 書い た も のを軒 に下げ, 料金は車に よ っ て違 う が, 当時 1 時間30-50銭で あ っ た。 「借 り 手は 相 当 な人ばか り で大変流行 っ た が, よ く 衝突事故で前 リ ム を折っ た(木リ ム)」 と い う 。 修紹は桜之町の近藤嘉助 と い う 「鉄砲鍛冶」 が, こ れに あ た っ たが, 前 リ ム を買 う と , 後 リ ム も 買わ さ れ, 後 リ ム ばか り が残 っ た ら し く , ま た フ レ ー ム が折れ る と , 3 円位かか っ た と 伝え ら れ る (74頁以下) 。 ー253 ( 565 ) -.

(14) 櫻 を 及 ぽしたが. 交通部門では, さ きに述べた巡航船・市電を生み出したに とどまらず, 自動車も外商によ って出品 さ れ, 試験運転が行われた。 これが 機縁となって, 博覧会の開催 さ れたその年に, 中川 辰之助等有志は, ア メ リ 力 から 2 両の蒸気自動車を 購入し. 恵美須町付近から梅 田 にいたる乗合自動 車の営業を開始することになり,. 38年10月には大阪自動車株式会社として事. 業を拡大した。 40年 3月社名を大東自動車株式会社と 改称し, 専ら梅 田. ・. 天. 王寺 • 住吉間の乗合自動車営業を行ったが, 赤旗をもった男が自動車の先駆 をつとめて, 大声でエ イ エ イ と呼 びかけて道を開いていく様子は実に奇観で あったといわれる (31) 。 しかし,. まもな く 同一方面に市電が開通したため,. 同社は解散廃業してしまう。 これは, 蒸気自動車が営業に使 用 さ れた 一鮪と いえ よ うが, ガ ソ リ ン 自動車の方は高価ゆえ, 当初富裕階層の自家 用に供せ られていた。. 第 1 次大戦以後, 「市民所得の増大, 市電乗客過剰, 自動車経. (32) を 背景として, 加速度的に増加していくの 費の低下, 舗装道路の発達等」. である。 大阪市の自動車数は, 大正. 5 年から増加しは じめ , 12年には1000台を こ え. た。 か く て 自 動車営業者は人力車営業者を圧倒してい く のだが, 両者の推移 を統計に ょ う てみると, 第 3表のとお りである。. 一. 見して 明らかなよ うに,. 人力車営業者は減少傾向を示しているのに対し, 自動車営業者は,. 9 年以来. 4 倍に激増している。 自動車の中では. と く に タ ク シ ー の発達が著し く , 一 方, 「人力車挽子」の激減が目立つ。 タ ク シ ー は, 大正 タ. ー. 6 年大阪 タ ク シ ー 自動車株式会社が 5 台の自動車に メ ー. を備え て営業を開始したのがその矯矢である。 こ れ以前は, いわゆるハ. イ ヤ ー のみで, 自動車は常に営業所に駐在し, 乗客の注文に応 じて運転して いた。 新しく出現した タ ク シ ー は. いわゆる 「辻待自動車」であり, 大タ ク ⑳ 村松一郎・天沢不二郎編 「 現代日本産業発達史XX II 陸運・通信」 (交詢社, 昭和 40 年 ) 106 -107頁。 (31) 大阪市 「明治大正大阪市史」 第 1 巻概説篇 (昭和 8 年) 278-279頁。 図 同上, 280頁。. -254 ( 566 ) -.

(15) 第3表 年. 次. 明 治 43 大 正. 4. ,. 14. I I I I. 自 動車営業者 と 人力車営業者な どの増減. 自 動車営業者数. I. 人力車営業者数. 一人 /. 3 , 20 2 1 . 5 25. 94. 1. 36 2. 1 3, 40 1 , 270. I. 付. 人 力 車挽子数. 1. I. 1. 1 1 , 24 1 人 5 6 , 65 5 , 13 5 2 7, 84. 注) 大阪市役所編 「労働調査報告」 復刻版13 . 5 1-5 2頁 。 の場合, 最初の 2 分の 1 哩までを90銭とし, 以後4 分の 1 哩 ごとに10銭を加 えていく方法を採 用している。 大 タ ク の料金は普通のタ ク シ ー に比べ て, さ して低いものではなかっ た が, 業 界 ト ッ プと し て 比較的順調な発展をとげ, 車両数も逐年増加 し た。 しば ら くはハ イ ヤ ー が主流を 占めたが, その後タ ク シ ー 営業者は漸増し, 大正15年5月末現在 257名を数えた 。 とくに14 ,5年に 産ぶ声を あ げたものが圧倒的に多 < , 82 形強は. この両年に集中 し ている。 主要なものを あ げると, 12 年 6月大阪小型タ ク シ ー 自 動車株式会社が, 最初 の 2 分の 1 哩の料金を大タ ク の90銭に対 し70銭に定めて出現し て おり, 同年 11月には中央タ ク シ ー 株式会社が大型90銭, 小型70銭の料金制をもって出現 し , 阪南 タ ク シ ー 株式会社もまた大タ ク と同 様の料金制のもとに事業を開始 している。 さ ら に, 翌13年 6月には大阪乗合 自 動車株式会社と均 ータ ク シ ー 自 動車株式会社が誕生 し た (33) 0 第 1 次大戦後, 大衆的な市内交通機関たる市電の輸送力は需要の増加に追 いつけず飽和状態となっていた ため, 大阪では, 市営乗 合 自 動車の計画がみ ら れ たが, これは実現せず, 突如大阪乗合 自 動車に許可がおり, 私営形態で 区間料金制をもって ス タ ー ト したので ある。 会社の中心人物が市会の大 ボ ス で あ ったところか ら , 市理事者が府の諮 問に対して,. 「市に乗合 自 動車経営. の意思なし」 という答 申 を行っていた 事実が後に発覚 し, 紛糾を よ ん だが, それはともかく, 同社は, 「大正 一三年七月, 堺筋, 東西線, 閲 大阪市役所編 「労働調査報告」 復刻版13 (昭和56 年 ) 12-14頁 。 -255 (567)-. 南北線, 築港.

(16) 線 な ど の 市 内 幹線道路を電車 と 併行 し て, フ ォ ー ド ( 一二人乗) 八〇両を も っ て 開業 し た 。 当 初 の料金は 一 区 一 〇銭で, 最長距離た る 梅 田 一 阿倍野橋間 を 七区 に 分 っ た 。 が, 開業第一 日 に ,. こ れ は 六銭均一の 市電料金に 比 し て 相 当 に 割高で あ っ た 労働者が高野 山 に 籠城 し た 市電の大 ス ト ラ イ キ に 遭遇. す る と い う 好運に め ぐ ま れ, 業 績は 予 想外 に 良 く , い」 (34)'. 漸次市電の 上級客を奪. 昭 和 2 年市営 バ ス 開業後, こ れ と 激 し く 競争 し た 。. 乗合 自 動車は市電 の補助機関 と い う よ り 競争機関 的性格を も っ た が, タ ク シ ー 間 の 競争を も 促進 さ せ た 。 さ ら に , 前掲均 ー タ ク シ ー の 出 現は, こ れ に 拍車をか け る も の で あ っ た 。 均 ー タ ク シ ー と は そ の 名称の示すよ う に , 大阪 市 内 (一定区域を設 く ) に お け る 料金を 1 円 均 ー と す る 制で あ り , 当 初 自 動 車20台 を も っ て営業を開始 し た 。. 一. 時期, 哩制 ・ 均 ー制 タ ク シ ー の混在時代. が み ら れがた, 漸次均 ー 制へ移行 し て い く 。 均 ー タ ク シ ー は , い わ ゆ る 「 円 タ ク 」 と し て人気を 博 し , タ ク シ ー の 大衆化を促す こ と に な る 。 か く て, 雨 後 の 筍 の ご と く 「 円 タ ク 」 業者が続 出 し , 競 争 は 激化す る 。. ハ. イ ヤ ー 営業者. で均ー タ ク シ ー 営業者 に 転 じ た も の も 少 な く な か っ た と い う 。 そ し て, 均. ー. か ら 進んで 3 哩均. ー. タ ク シ ー が 出 て, さ ら に 80銭均. ―. ,. 1 哩50銭均. 1円 ー. が. 生 ま れ, 短距離 の 客を吸収 し て い っ た (35) 0 タ ク シ ー の も つ 迅速性, 高級性, 快適 さ は , 従来人力車を 利用 し て い た 人 び と を 吸収 し て い っ た 。 大部分 の 「人力車夫」 た ち は , こ の よ う に 人力車が 時代に即応で き な く な っ た こ と を 自 覚 し つつ も , な お そ れ に 執着せ ざ る を え ず, 最低生活費を稼 出 すた め に , 大正14年末 に は 時代 に 逆行 し て値上げを意 図 す る 有様で あ っ た 。. 他方, 「之よ り 先, 機を見 る に 敏 に し て資本を有する. 帳場親方等 は 自 動車業 に 転業 し , 特置組合 の 如 き は 自 ら 自 動車を所有 し , 併 せて営業を行い, 心 あ る 娩子 ばt合 も 曽 て輻夫が較子 に 転ぜ し 如 く , 自 動車運 転手 と な っ た」 (36) と い う 。 ⑳ 中西健一 「 日 本私有鉄道史研究 ・ 増補版」 ( ミ ネ ル ヴ ァ 書房, 昭和54年) 412-413 頁。 困 前掲 「労働調査報告」 16-17頁。. -256 C 568)-.

(17) なお, 自動車時代の到来に伴い, 当時 「自動車運転手養成所」 とか 「公認 △△自動車学校」とか, 運転手養成機関が繁盛したらしい。 当時の新聞には, この点についての興味深い記事が載っている。 長文だが, 引用し よ う (37) 。 • • • • • • … 或る餐成所の広告には 「二箇月卒, 学費九十 円二回 分納, 卒業後 免許状獲得まで無料」 と い う よ う なことが書いてあった。(中 略)圏この頃 世の中が不景気になってから, 失業している運転手がどの く らいあるか知 れない。 大阪には千二三百台の自動車があるが, 運転手免許状を持ってい るものの数は, お そら く その三倍はあろ う とい う 。 だから首尾 よ く 運転手 になっても就職は無論容易でない。 ど う にかこ う にか就職の望みがあるの は, まず乗合か タ ク シ 一 方面。 圏乗合自動車の運転手は月五, 六十 円 。 タ ク シ ー の方は二十五 円以上百 円以下で, 普通四十 円 ぐ らいである。 これは俸 給だが, このほかに収入金の歩合とか皆勤 賞与とか或は無事故賞 ・ 営業 哩 賞, ガ ソ リ ン 賞, 祝儀などといふものが七, 八十 円 あるから, 総収入は普通 百二三十 円 になるといふ話。 だが, その勤務時間は乗合が六時間以上八時 間, タ ク シ ー は十二時間以上十六時間で, タ ク シ ー は労働者が要求 し て ゐ る労働時間の二倍である。 収入で高等 官と相撲を取って見ても, 勤務時問 では取組にならぬ。 圏助手は日給で, 一日七, 八十銭。 それで十二時間の 勤務, 時間外勤務には二, 三十銭増給があるさ う だが, 一升のお米が五十 銭以上の今日では ト テ モ 生活の 運転が出来さ う にない。. この助手の中に. は, 運転手としての優秀な手腕をもちながら, 学力のないために免許状が 獲れないで ゐるものが多いので, この連中に免許状を獲ってやる こ とを餌 にして ゐる自動車学校もあるや う だ。 しかし七, 八十銭の日給では, 九十 円 , 百 円といふ高い学費が恨めしから う 。 この運転手の収入は, 前掲 r労働調査報告」の資料に比べると, 少 し高い よ う におもわれるが, ともか く 当時の社会生活の一 断面をいみ じ く も物語って いるのである。 チ ッ プ云々については, 大正 10年 9月の調査によ ると, ー自 閲 前掲 「明治大正大阪市史」 第 3 巻経済篇中, 886頁。 聞 「大阪朝 日 新聞」大正 14年 7 月 14 日 付。. -257 ( 569 ) -.

(18) 動車連転手が,. 「月給制度 も 近頃多くなりましたが御祝儀が多いのでこの商. 売は収入が多 いのです。 活動写真や芝居が最好きで図書館等に入 っ て本を読 む事 も あります。 球突に も 趣味を持 っ て ゐ ます」 (38) と 語 っ ている。 後述する 点で も あるが, 大阪小型タ ク シ ー 自動車では, 開業ま も ない, 12 年 8 月「 チ ッ プ制度廃止に伴ふ収入減少に不満を懐き」 ,. 労働争議が起こ っ て いる。 こ. れは回数切符を売出すこ と に切 替 え たためであるが, 収入減少は会社側 も 認 める と ころであ っ た (39) 0 と ころで, 大正 8 年 2 月施行の自動車取締令は運転手の資格を限定し, 翌 9 年4月の自動車取締令施行規則によ っ て就業中の運転手の遵守事項を規定 したが, 運転手の生活は.. 一般に放縦に流れやすい 傾向があ っ た と いわ れ. る。 この点は, 当時のタ ク シ ー 経営組織 と も 関連する問題である。 当時の大 阪 自動車営業組合書記長は. 「大阪市に於ける自動車運転手には官私大学卒 業生が七八十名に近い」(40) と 述べているほどであり, かれらの教育程度は電 車運転手 ぞの他の交通労働者に比べて, そう低 い も のではなか っ た と お も わ れる。. 4.. タ ク シ ー 経営 と そ の 雇 用 状 態. 大正末期になる と , 普通タ ク シ ー と 均ータ ク シ ー の競争が激化 し て く る が, 要するに, 従来のタ ク シ ー は営業所を豊富に も っ て需要を営業所で吸収 するのに対し, 新興の均ータ ク シ ー は街頭で客を求める方法を と っ ていた。 しかるに, タ ク シ ー の元祖たる大タ ク では均ータ ク シ ー の圧迫で営業不振に 陥り, ついに労働争議が起こ っ た。 当時の大阪市におけるタ ク シ ー 労働争議 の状況を第 4 表に掲げて お く が, 大タ ク の場合, 大正15年3 月重役間で制度 改正の必要を感 じ, 均 ー制への移行を協議していた と ころ, これを聞いた従 閲 前掲 「労働調査報告」 復刻版 4 (昭和5 1 年 ) 15頁。 図 前掲 「 労働調査報告」 復刻版 1 3 , 69頁 。 (紺 同上, 65頁。. -258 ( 570 ) -.

(19) 業員側か ら , 「実施されて も 収入の減 じない方法を講ぜ ら れたい」は) 旨 の 意 向が明 ら かにされ, 同社 の労使は紛糾の度を加えていったのである。 第4 表 団 第 一. 体 自. 名 動. 車 僻. 大阪小型タクシ ー 自 動車僻 中 央 タ ク シ. ー. 陳. 大 阪 乗 合 自 動 車 僻 大 阪 タ ク シ. ー. 僻. 大阪市に お けるタクシ ー 労働争議. I. I. 従 業員数. 12. 8 . 25. 12. 9 . 1. 72. 42. 13 . 7 . 26. 13. 8 . 15. 144. 144. 運転手1 27. 運転手 1 1. 靡弓発胄. l. 悶円i I 終. 大正12. 2 . 3 大正12. 2 . 7. 13 . 10 . 13 15. 3 . 24. !. 参加者数 8人. 25人. 13 . 10 . 15 女車掌140 15 . 4 . 1 685. 283. 注) 前掲 「 労働調査報告J68-73頁よ り 作成 。 会社側は. 「 従来 の固定給と働き高に応じて割増給料を与へてゐた制度及 び九十銭 メ ー タ ー を廃し, 自動車を運転手持 ち とするいわ ゆる相互組織に改 め, 三十銭 メ ー タ ー を使用するといふ案をたて」 (42), 会社所有 の フ ォ ー ド を 月 賦で 運転手に 売却する ことを決定した。 そして, 自動車 1台につき最低 100円ずつの月 賦で, 1台最低 1 , 050円, 最高2 , 000円の譲渡価格を発表した が, この自動車の譲渡価格をめぐって労使は平行線をたど り , 緊張した。 す なわち, 「 運転手側は各車庫より二名 宛の実行委員を選び車体一台につ き 少 く と も 三百宛の値下 げを要 求」 したのであるが, 交渉は進展せず,. 「二十六. 日 朝熟練従業員二八三名は三百台の車を各車庫に納めて一斉に罷業を開始 し 午後野田車庫に集合して気勢を挙 げ」 るにいたった(ゆ。 強硬で交渉は決裂し, 大量 の退 職者を出した。. 一. しかし, 会社側は. 部不平分 子を除き, 4 月 1. 日 か ら 新制度の相互組織の も とに営業を開始する ことになった(44)。 同様に, 大阪乗合自動車 も また 均ー タ クシ ー の 影響を う け,. 従来 1 区間10銭であっ. は 30 銭 均ー制 に 改めるにいたっ た のを 3 区間までを区間制とし, それ以上 (4]) 四 姻 !44). 「 大阪朝 日新聞」 大正15年 3 月 9 日 付 。 同上, 大正15年 3 月 26 日 付 。 前掲 「 労働調査報告」復刻版13 , 73 頁。 「 大阪朝 日新聞」 大正15年 3 月 訂 日 付 。 -259 ( 571 ) -.

(20) た(匈。. な お 同 社では, 13年 10月 「運転手中労働組合の組織を画策するもの. ありて動揺の兆ありし為め」 , 主謀者11名を解雇している。 解雇者は解雇手 当の支給を要求したが, 会社側はとりあわず,. 争議は自然消滅した (46) 0. その他の争議についてもみておくと, 第ー 自 動車の場合は, 料金横領の嫌 疑ある一 運転手の解雇問題に端を発し, いくつかの待遇改善を要求したもの である。 ほ ぼ会社側の回答に満足して 解決した (47) 。. 大阪小型タ ク シ ー につ. いては, さきに少し述べたが, チ ッ プ制度廃止に不満をもつ不穏な グ)レ ー プ 42 名を解雇したことに起因する。 ち なみに 当 時該社の「運転手の固定給は 月 二十五円 なりしも収入歩合奨励 金等を加ふれば月 四十 円 乃 至七十 円の収入 ありたり」 という。 解雇者の復職. 固定給を最低月 額 70円 とすることのほ. か, 注目すべき要求に, 従来運転手72 名を 6 班に分けて各班長を会社側が選 任して いたものを, 運転手側の自選とすることというのがあり, 会社側の回 答は,. 「運転手の互選にても差支なし, 但し仮令右互選に依り選出したる者. と雖も会社側にて不可と認めたる時は許可せざる事有るべし」 であった。 し かし, 解雇者の復職, チ ッ プ制度廃止に伴う固定給 ア ッ プなどについて, 会 社側は譲らず, 争議不参加者30名 の 運転手を フ ルに活用して営業を続けたた め, 運転手側はついに屈服した。 中央タ ク シ ー の場合は, 会社側の発表した 待遇改善の内容が予期に反したため, 全従業員が結束して 7 項目にわたる嘆 願書を提出したことに 基づく。 会社側は 嘆願書に対し,. 妥協的な態度に出. て, 種々交渉の結果, 運転手賞与規 定を発表し, これを 8 月 21 日から実施す る 旨を声 明したため, 争議は解決した。 その規定は, 長文でかなり細部にわ たってい るので引用 をさし ひ かえ る が, 会社規 則を守り, 一定の条件に達し た運転手 ・ 班 • 班長に対し, 精勤賞, 皆勤賞, 料金賞, 空車率賞, ガ ソ リ ン 賞, 無事故賞などの名目で, 賞与金を支給するというものであった。 ただ残 念ながら, この賞与金規定の実態については, 知ることができない。 (却 前掲 「 労働調査報告」 復刻版 1 3 , 20頁。 (船 同上; 73頁 。 (4り 以下, こ の辺の記述は, 同上 68-72頁による。 -2 60 C572)-.

(21) いささか個別の労働争議をみてきたが, いずれにせよ, 大阪市のタ ク シ ー 業界は, 普通タ ク シ ー と均ータ ク シ ー の 2 つの派が対立していたのであり, やがて そ れぞれ組合を結成する こ とになる。 前者はどちらかといえば大規 模 経営に属し, 後者は比較的小規 模のものが多か っ たが, 均ータ ク シ ー 側は, 大正 15年 3月, 組合員124名, 車両数約 500台を擁する大阪自動車同業組合を 設立させた。 かれらの ス ロ. ー. ガ ン は, 従来少数の大経営組織のものに限り許. されていた街路駐車場の利権獲得運動であった。. 一方, こ れに 対して翌4. 月, 主として大経営の普通タ ク シ ー 側は, 組合員132名, 車両数 1 , 373台を擁 する大阪自動車営業組合を設立するにいた っ た。 も っ とも, こ の両者は完全 に色分けできるものではな く , かなり流動的な面があり, ま た大阪自動車営 業組合の中には, ト ラ ッ ク ・ ハ イ ヤ ー ・ バ ス の営業者も含 ま れていた (48) 。 つぎに, 当時の大阪市のタ ク シ ー 営業者257名の内訳をみると,. 会社組織. のもの19 (株式組織16, 合資組織 3 ) , 個人組織のもの 238 であ っ たcヽ9) 。 自 動車総数は1 , 710 台, 雇 用運転手数は2 , 317名であるが, い ま 仮りに運転手 20 名以下を雇 用 しているものを小経営者, 20-50名のものを中経営者, 50名以 上のものを大経営者として分類すれば, 第5表のよ う になるとい う 。. 一. 見し. て 明らかなよ う に, 大阪市のタ ク シ ー 業界は圧倒的に小経営の場合が多 く , 営業者数で92 . 6 彩, 運転手数で44 . 8彩, 自動車数で55 . 2 彩に達している。 他 第5表 規. 模. 別. 大. 経. 営. 中. 経. 営. 小. 経. 営. ^ ロ. 計. I. ク ク シ ー の経営規模. 経 営 者 数. l. 7 人 (2 .7) %. 運 転 手 数. (49). 自. 動 車 数 ム. 943 人 (40 . 7) 劣. 435 口 (25 . 4) 形. (4. 7). 335 (14 . 5). 332 (19 . 4). 238 (92 . 6). 1 , 039 (44 .8). 943 (55 . 2). 257. 2 , 317. 12. (100). 注) 前掲 「労働調査報告」 33頁 よ り 作成。 (48). l. 同上, 20-22頁。 同上, 35頁。. -261 C 573 ) -. (100). 1 , 710. (100).

(22) 方, 営業者数で わ ずか 2 . 7 %の大経営が運転手数で40. 7%. 自 動車数で25.4 彩を 占 め て い る の であ る 。 後述す る ように, こ の段階にお け る タ ク シ ー 経営 の主力は, 営業者と運転者の 「 も たれ合ひ」 形式の相互組織であ っ た。 大 タ ク で, その 一 形態への移行をめ ぐ っ て争議が起 こ っ た こ とは, さきにみ たと ぉ り であ る 。 最後に, 当時の ク ク シ ー の経営形態などをうかが っ て お こ う。 前掲 「労働 調査報告」 によ る と, 単純に律 し きれない面 も あ る が, 当時の経営形態 は お よ そ 7 つに分かれ る とい う (50) 。 一. れ た 中 西健. た だ, 以下で は , も う少 し 単純 ・ 理論化さ. 氏の所説 (51) を引用させて も らうと, 最 初 は , 資本主義の も と. で の生産関係の一 般的な型, 通常の経営組織を採 用 し て い た。 すなわち, 「直 営組織」とい わ れ る も ので, 基本的労働手段であ る タ ク シ ー の所有者が同時 に 経営主である 場合であり, こ れには. (1)営業者が 自 ら運転す る も の, (2)営 業者が 自 ら運転す る とと も に運転者 を雇 用 し て爾余の車両の運転に従事せ し め る も の, (3)営業者 自 ら は 運転に従事せず, 雇 用 連転者を し て行わせ る も の の区別があ っ た。 (1) および(2) が一 般に小規模な個人企業であ る のに対 し て,. (3) は 会社形態を 採 用 す る も のが多か っ た 。 と こ ろが, 均一料金制の普及に伴 ぃ , 直営組織 は 雇 用 運転手 を 使 用す る 企業にとって不合理な も のとなったた め, タ ク シ ー 経営をより 有利な も のにす る 必要から, ア メ リ カ の. Driver­. Rental System になら っ て 案出された「相互組織」 とよばれる 名義貸営業 に移行す る 。 と く に 「 円 ク ク 時代」 により相互組織が発展 し , 直営組織はほ とんど姿 を 消 し たという。 た だ本来の相互組織 は きわ めて少なく, 専ら普及 し た の は 変態相互組織であ っ た。 それは , (1)車両賃貸と(2)車庫賃貸とに大別 され る が, 前者は, 営業者が免許台数の 範 囲 内 で月賦償還の フ ォ ボレ. ー. などの車両を購入 し , 車両償却のための. 一. ー. ド, シ. 定の約定賃借料の納付を条. 件に こ れを貸与 し て, 自 己の名義で運転に従事させ, 契約どおり納付金を完 済すれば, 契約期間(普通10 か月から 1 年) の満了後車両を運転者に譲渡す 田 同上,3 5頁以下。 (.51) 以下, 中西健一, 前掲書421-423頁による。 -262 (574)-.

(23) る も のである。 後者は, 営業者が車庫設備を保有 して自動車を所有す る 運転 者に こ れを利 用 させるが, 営業者は運転者所有の自動車を自 己の営業用車と して, 運転者を自 己の雇 用労働者と し て届出るという も のであった。 大阪で は前者を「償却営業」 , 後者を「持込営業」と称 し,. また東京では後者をと. く に「同居営業」とよんだら し い が, 前者の場合, 首尾よ く 期限内に償却金 を完納 して車両所有者となって も , 運転者は相互組織の支配から離脱する こ とはできず, 単に収奪の形態が若干変わるだけであった。 したがって, こ れ ら変態相互組織では, 単に名義を貸すという行為のみによって直営組織以上 の効果をあげようとする真に巧妙な制度であったといわれる。 こ の制度につ いて, さらに中西健一氏は, 当時の「所謂 タ ク シ ー 会社なる も のは (Driver­ Rental Systemー中西氏) 其実決 し て タ ク シ ー 経営会社ではない。 会社は運 輸業務に従事するのではな く て契約運転者によ り タ ク シ ー と し て 用 い られる. . . . . .. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .. 乗客 用自動車の販売に従事するのである」 , 「相互組織は運転手に経営者の名 義と車庫とを賃貸 し 自 動車 の 月 賦 日賦販売の仲介をす る 営業で あ る 」 ,. ある. いは「営業名義人は も う業者ではな く て金融業である」などの見方を 引 用 さ れながら. その本質は産業資本のそれではな く , 商業資本的・高利貸的 • 寄 生的搾取機構にほかならなかったと指摘する。 そ し て, 名義貸営業者は高い 名義使 用料を使 用 したのみでな く , 車両, 部品. ガ ソ リ ン , オ イ ルなどを不 当 な高価で売 り つけ て暴利をむさぼ り , こ れに不服. 苦情をとなえれば直ち に ナ ン バ ー を取はずすなど し て圧迫 し. 法外な利潤をえたが, 加えて一度賃 貸された車両がさらに他に転貸せられる中間搾取 も 茶飯事化 し . 実質的な個 人営業者である名義借運転者の負担はい っそう重 く なったとい う。 他方. 大正末期には. 自動車を所有する運転手が集まって, その中の 1 人 を代表者と してその名義で タ ク シ ー 営業を行う, 本来の相互組織とみるべき も の も 出現 したが. その例は植 田 藤十郎を代表者とする文化 タ ク シ ー の場合 である(52) 0 (52) 前掲 「労働調査報告」 復刻版13, 48-49頁。 -2 63 (575)-.

(24) 以上, タク シ ーの経営組織は複雑であるが, タク シ ー 経営が本格化するに 伴い, 相互組織によるものが主流を 占 めた。昭和期に入ると, 名義貸経営は い っそう複雑な展開をとげ, いわゆるタク シ ー問題を惹起する ことになる。 この 点は, 小稿の 課題を こえるものであるから, 割愛するとしても, 相互組 織の場合, 運転者は純然たる 雇用 労働者ではなく, 一種の小企 業者に 近 い 地位 にあ り , 階級意識というものは自ら稀薄となら ざるをえなかったの であ る。当初, 大タクや中央タク シ ー のような大規模なタク シ ー 経営, ならびに 大阪乗合自動車などでは, 純然たる雇用 関係下にあったため労働争議も勃発 したが, 前 二 者も漸次相互組織を採用 するに いたった ことは, すで にみたと お り である。したがって, 電車従業員などとは異なり, 積極的な組合運動は みられなかったといえよう (53) 。. ただ, 自動車連輸事業の場合,その 全国的. な監督法規の整備が遅れた ことを認識しておく必要 があろう。. お. わ. り. に. これまで, 近代 大阪に おける交通機関の 変貌をそれをとりまく労働力 の面 に も視点をおきながらみてきたが, 「 人力車」から「 円タク」への移行過程 は, ある意味では 資本主義の 展開に 照応する歩みであったとも 考えられよ う 。 電車を除く, これら交通機関における近代 的雇用 関係の 形成はみるべき ものがないか, あるいは遅れた と いわ ざるをえず, 前近代 的な雇用 形態が支 配的だった。詳しくは, 別の 機会に譲りたいとおもう。 C付記) 小稿作成にあたり, 新聞記事の 閲覧については, 大阪社会運動協 会の各位から, 多大のご高配をえた。 付記して, 心から謝意を表する。. 閲 労働力の形成とい う 視点からの電鉄企業成立史に つ いては, 別 稿で扱 う こ とに し たい 。. -264 ( 576 ) -.

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参照

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