「民主主義的なポスト古典的国民国家」ドイツと
岐路に立つヨーロッパ
─ ユーロ危機にみるドイツ・ヨーロッパ関係 ─
中 谷 毅
Ⅰ 岐路に立つユーロ危機後のヨーロッパ Ⅱ 「民主主義的なポスト古典的国民国家」という自画像 Ⅲ ドイツ・ヨーロッパ関係 1 西ドイツとヨーロッパ (1)歴代政権のヨーロッパ政策 (2)自己抑制と自己主張 2 統一ドイツとヨーロッパ (1)ヨーロッパ政策の継続と変化 (2)ドイツ外交の変化 Ⅳ ユーロ危機とドイツ 1 ユーロ危機とドイツの対応 2 EU およびユーロ危機をめぐる国内議論 3 国内アクターによる統合の制約 Ⅴ ヨーロッパ化したドイツの「再国民化」Ⅰ 岐路に立つユーロ危機後のヨーロッパ
1990 年の東西ドイツ統一、その後の米ソ冷戦の終結を背景に、ヨーロッパはさらなる統合 の拡大と深化を進めた。しかし、2005 年にはヨーロッパ憲法条約の批准がフランスやオラン ダの国民投票で相次いで否決され、それまでの展開に打撃を与えた。そして、2009 年にはギ リシャに端を発するユーロ危機に見舞われ、ヨーロッパは大きな課題に直面することになり、 この危機への対応をめぐる議論、あるいは制度的収斂や統合過程の最終形態をめぐる議論が政 治、アカデミズム、ジャーナリズムの世界で盛んにおこなわれた。 ドイツでも「危機にあるヨーロッパ」、「岐路に立つヨーロッパ」といったタイトルが新聞・ 雑誌記事、学術論文や書籍の上で踊った。「危機にある(in der Krise)」と並んで「岐路に立 つ(am Scheideweg)」という表現も目立ったが、特に後者においてはユーロ危機によって EU がいくつかの道に分かれた分岐点に達したという認識のもと、今後の展開の可能性、あるいは進むべき道の提唱、換言すれば、制度的収斂や統合過程の最終形態などが含意されてい る1)。「前進する大きな跳躍のチャンスとしての危機」(H. ファンロンパイ)とはブリュッセル でよく聞かれる見解とされるが、将来的にも起こりうるユーロ危機への対応、EU 統合の今後 の道筋などは一筋縄ではいくまい。 本稿の課題は、岐路に立つヨーロッパとそれへのドイツの対応を、ドイツ・ヨーロッパ関係 の歴史的展開を踏まえながら考察することである。まずⅡでは、東西ドイツ分断時代の西ドイ ツで形成された一つのドイツ理解が、両ドイツの統一により別のそれに変遷したとする見解を 紹介する。これは本稿において検討するドイツ・ヨーロッパ関係を理解するうえでの嚮導概念 になる。Ⅲでは、第二次世界大戦後に成立した西ドイツとヨーロッパ(統合)との関係を、さ らに東西ドイツが統一して誕生する統一ドイツとヨーロッパ(統合)との関係を簡潔に振り 返っておく。ここでは、第二次世界大戦後のヨーロッパ統合の推進における二枚看板の一枚 で、非常に自己抑制的に振る舞ってきたドイツが、統一後は少しずつ自己主張を展開する状況 を考える。終戦後のヨーロッパ統合という理念としての「大きな物語」2)が劣勢となり、「正 常化」したドイツでは政治家・専門家、理念、政策、国民・世論などがいわば渾然一体となっ て、すでに各国民の生活にも影響を及ぼすほどに深化し、28 の加盟国までに膨れ上がった EU に対して現実的、実利的な主張をするようになってきているのである。Ⅳでは、ユーロ危機の 発生、ドイツの都合を優先したメルケル政権のこれへの対応を概観し、続いて、この事態をめ ぐって交わされた議論を紹介する。その際、A. メルケル首相の対応に対する批判、この危機 を契機にヨーロッパのさらなる統合を説く見解と国民国家に重きを置く見解などを検討し、統 合に立ちはだかる国民国家の枠組みにおける様々な課題を考察する。こうした作業を終えたう えで最後に、今後の EU へのドイツのかかわりについての可能性に言及しておく。
Ⅱ 「民主主義的なポスト古典的国民国家」という自画像
ボンからベルリンに首都を移した統一後のドイツの行動を捉えるのに有益で含蓄ある定式が ある。ドイツの歴史家 H.A. ヴィンクラーは 20 世紀最後の年に初版が出版され、その後国内外 で大きな話題になった著書において次のように記述している。「ドイツ・ライヒの反西欧的な 特有の道は、一九四五年に終焉した。旧連邦共和国(西ドイツ)のポストナショナルな特有の 道と、東ドイツの国際主義的な特有の道は、一九九〇年に終わりを告げた。再統一されたドイ ツは、「諸国民国家のもとにおけるポストナショナルな民主主義国」ではなく、民主主義的な ポスト古典的な国民国家である。新連邦共和国(統一ドイツ)は、ヨーロッパ連合のほかの構 成国と同様に主権を有する。これらの国ぐには、もうひとつ別の共同体である大西洋同盟に対 してと同様に、この超国家的共同体に対して国家主権を委譲している。これが、ドイツのヨー3 3 ロッパ的3 3 3 3 正常化の一部である」3)。ヴィンクラーによれば、この正常化が示されたのは赤緑連 立政権下においてであり、具体例として連邦軍のコソボ空爆への参加および国籍法改正が挙げ られている。若干の解説は必要であろう。本書の考察枠組みにはドイツ史における「特有の道」論が存在 する。ヴィンクラーの「ドイツ特有の道」論は第一の特有の道と第二のそれに大別できる4)。 第一の特有の道はドイツ近現代史では周知の概念で、そこではドイツは英仏などとは違った非 西欧型の近代化の道(自由と民主主義の問題を抱えた道)を歩み、1945 年の「ドイツの破局」 で終わると考えられる。第二の道は第二次世界大戦後に二つのドイツが辿った道、すなわち、 西ドイツが歩んだのが「ポストナショナルな」道であり、東ドイツが歩んだのが「プロレタリ ア国際主義」の道である。以下では第二の道の前者に焦点を当てて引用文を考える。 「諸国民国家のもとにおけるポストナショナルな民主主義国家」という概念は K.D. ブラッ ハーが用いたもので、彼は周りのヨーロッパ諸国が国民国家であり続ける状況下、東西ドイツ 国家の存在を受け入れた西ドイツをポストナショナルな民主主義国家と呼び、これを肯定的に 捉えた5)。そして、全ドイツ的国民国家が大きな役割を果たさなくなった 1980 年代、ブラッ ハーによる「この定式化は、左右の中道派の大部分の知識人と多くの政治家の意識を正確に示 すものであった」(S.652、622 頁)。こうしたあり方をヴィンクラーは本書において戦後の西ド イツにおける特有の道と捉えたのであるが、彼はこの特有の道は(東ドイツのそれと一緒に) ドイツの統一によってようやく解消され、ドイツは他のヨーロッパ諸国と同様の民主主義的 で、また、ヨーロッパ統合により主権を譲渡していくという意味においてポスト古典的な国民 国家に戻ったとする。彼は、西欧諸国と同等になるため西方に向けて長い道のりを歩む旅を終 えたドイツの歴史をサクセスストーリー仕立てに描いたのである。統一ドイツでこの浩瀚な書 籍が版を重ねた背景には、こうしたカタルシスの作用がドイツ人の琴線にふれたという一因も 存在したのではなかろうか。 ワイマール共和国と違ってボン共和国では自由民主主義体制が定着していったが、二つのド イツ国家の併存で国民国家の実現は叶わなかった。こうしたなか、分断国家ゆえに他のヨー ロッパ諸国に先んじて「ポストナショナルな」西ドイツが国民国家を超える政治体、つまり、 超国家的ヨーロッパの実現に尽力したのである。しかし、統一によってドイツは他の自由民主 主義諸国と同じポスト古典的な国民国家になった。そこで、これを裏返して解釈すると、ドイ ツはもはやヨーロッパ統合に対しても特有の道を歩む必要がなくなったとも受け取れる。この 解釈枠組みが統一ドイツにおける政治・経済・社会状況、さらにはドイツ人の心性と相まっ て、ドイツ・ヨーロッパ関係に影を落とすことはなかったのであろうか。 ところで、ヴィンクラー自身はブラント政権で推進された東方外交を支持し、「2 国家 1 国 民」論の立場に立った。そして、ベルリンの壁崩壊から間もない 1990 年 2 月には『南ドイツ 新聞』紙上で、東西ドイツの連邦国家的統一を実現するうえで直面するであろう諸困難に鑑み て、過渡的段階としての国家連合を提唱した6)。また、ドイツ統一前の同年 6 月のエッセーに おいても、国民国家の克服が強調されている7)。しかし、統一の 10 年後に出版された上記著 書では「・・・ヨーロッパは国民国家に抗してではなく、それとともに、それを通じて建設さ れるからである。ヨーロッパは超スープラナショナル国家的になるであろうが、ポストナショナルとはならない」 (S.639、610 頁)とされ、国民国家克服3 3 のトーンはなくなっている。ここでは、ヴィンクラー
自身の立脚点が変容し、国民国家に重点が移動していき、それが基礎あるいは基点になってい ることを確認しておきたい。もっとも、彼はヨーロッパ統合論者であり、国民国家を相対化3 3 3 し ていることは上述のとおりである。彼はユーロ危機でヨーロッパが揺れ、ドイツでも後ろ向き な「再国民化」の傾向が表れるなか、この地域の世界政治・経済での役割も視野に入れなが ら、さらなる統合の深化を訴えた8)。 ヴィンクラーは統一後の現実政治が展開する最中に、「ポストナショナルな民主主義国家」 から「民主主義的なポスト古典的国民国家」へのドイツ像の変容というアカデミックな概念装 置を提示した。そしてこれは、歴史家ヴィンクラーにおけるドイツという国のかたちの自己理 解の変容でもあり、彼はそれを受け入れ、そこに立脚点を置いている。本稿は彼によるこの定 式自体を直接検討するものではないが、それは 21 世紀のドイツ政治あるいはドイツとヨー ロッパの関係のあり方を理解するのに示唆的であるように思われる。果たして、ドイツ・ヨー ロッパ関係はどのように展開するのであろうか。
Ⅲ ドイツ・ヨーロッパ関係
1 西ドイツとヨーロッパ (1)歴代政権のヨーロッパ政策 1949 年に制定された基本法において国民的および国家的統一の保全と並んで、「合一された ヨーロッパにおける同権を有する一員」9)と明記されたことからもわかるように、ヨーロッパ 統合というプロジェクトはドイツ連邦共和国にとりその誕生当初から国是でもあった。そし て、東西冷戦下でアメリカの支持を受け、西ヨーロッパ諸国もドイツを受容する態度を示すな か、歴代政権はその実現のために尽力した。歴史は偉人が作るという表現があるが、西ドイツ のヨーロッパ政策はまさに統合の理念を持った数々の政治家たちが先導し、それを国民が受容 していった側面が強い。 主な歴代政権のヨーロッパ統合への貢献を簡単に振り返っておこう10)。建国年の 1949 年か ら 63 年までの長期にわたり政権を担当した K. アデナウアー首相は、西ドイツを西側へ 2 重に 結びつけること(NATO への加盟と西ヨーロッパ統合)を最優先させた。そして、東西対立 を背景に西側諸国はこうしたドイツを受け入れ、これにより 1955 年に西ドイツは主権を回復 すると同時に西側のメンバーとしてしっかりと根付くことになり、西側周辺諸国の信頼を獲得 していった。その際彼は、ドイツの利益をもっぱらヨーロッパの枠組みで実現させていった。 東方外交で成果を上げたブラント政権では、アデナウアー政権の業績を引き継いだうえで、す なわち、揺るぎない西側の一員としての立場を前提に東側諸国との関係改善に努めた。また、 東方外交ほどの成果は上がらなかったが、W. ブラント首相はイギリスの EC 加盟に尽力し、 経済だけでなく政治における統合を目指すなど西ヨーロッパの統合への関与も積極的であっ た。 H. シュミット首相はアデナウアー / ブラント路線を継承した。そして、国際経済が動揺するなかで、フランスの V. ジスカール・デスタン大統領と共に経済の分野でヨーロッパ政策の イニシアティヴをとった。彼の首相在任期に欧州通貨制度が発足し、また、初の欧州議会選挙 が実施された。アデナウアー首相の孫と自任する H. コール首相は独仏主導の下、ヨーロッパ の政治統合を重視し、1980 年代に統合の停滞を克服すべく、単一欧州議定書により EC の機 構改革および統合の強化につとめた。さらに東西ドイツ統一後、F. ミッテラン大統領と共に 経済・通貨同盟および共通外交安全保障政策の創設に尽力した。 1970 年代から 1980 年代は、欧州政治協力、欧州通貨制度、欧州議会の直接選挙などを除い て、顕著な成果はなかった時期であったともいえるが、それでも西ドイツが経済力を増してい くなかで経済統合はいうに及ばず、政治分野を含めた統合の巨大な推進役であったことは確か である。また、EC 設立には米ソに並ぶ勢力としての思惑など様々な理由が存在したにして も、戦争経験者である歴代首相全員にとって、ヨーロッパにおける安全・平和創出という側面 がヨーロッパ統合の推進と分かち難く結びついていた点にも留意しておきたい。 (2)自己抑制と自己主張 西ドイツ時代の首相経験者にとってヨーロッパ統合は第一次世界大戦、第二次世界大戦、特 にナチズムの負の遺産から引き出した教訓のプロジェクトでもあり、そこでのドイツの振る舞 いは控えめで、献身的であるべきことを彼らは弁えていた。さらに、西ドイツにとってもこの プロジェクトには大きなメリットがあった。 ヨーロッパ統合は西ドイツが安定した自由民主主義体制を創出するのに重要な役割を果たし た。この国が輸出志向の経済構造を持ち、ヨーロッパで自由貿易を推進するのに役立ったと同 時に、協力の政治的アリーナとしてのヨーロッパ統合によってドイツの経済大国化が脅威と認 識されることを防いだ。さらに、統合プロジェクトと相まって独仏間では和解が進み、関係が 強化されたことで、ドイツはしっかりとヨーロッパに根付き、統合に参加する西ヨーロッパ諸 国間の結束も深まっていくことになった11)。 H. ハフテンドルンはドイツ外交を「自己制限による自己主張」という表現で捉えている。 西ドイツにとって 1950 年代以降、戦後に課された制限を緩和し、行動の余地を拡大すること が重要になるが、西側への 2 重の結びつきは同等のメンバーとしての地位を得るのに役立っ た。そして、歴代の政権は自国の行動の限界を弁えたうえで、パートナーの利益に配慮しなが ら、自らの利益を図った12)。自国の置かれた立場を理解したこととの関連で、ドイツがヨー ロッパでリーダーシップを避ける行動が見られたのであるが、だからといって権力を発揮しな かった訳ではない。ドイツの影響を重視する見解では、欧州単一市場計画の基準設定における ドイツの公的・私的アクターの役割、欧州通貨制度から経済・通貨同盟に至る欧州通貨政策に おける諸条件を提供するのに果たした連邦銀行の影響、1980 年代半ば以降の EU 政策決定に おけるドイツ諸州の影響などソフトな権力という形で、ドイツ国内の諸制度をヨーロッパに供 給していった。また、こうした連邦制や連邦銀行のような准公的な機関・制度の役割が中央省 庁のセクショナリズムと相まって、ドイツがリーダーシップを避ける行動を基礎づけることに
なった13)。 2 統一ドイツとヨーロッパ (1)ヨーロッパ政策の継続と変化 統一により人口、国土面積、経済規模などの点でこれまで以上に強大化したドイツはヨー ロッパにおける存在感を強めることになるが、ヨーロッパのプロジェクトを担うという点では 統一前との連続性を確認できる。しかしながら、そこにおけるアクセントの置き方やナショナ ルな利益の強調など変化も見られるようになっていく。 東西対立の終結後、フランスなどの抵抗が存在するなかドイツは EU を東に拡大すべく、東 欧諸国の加盟を強力に支持した。コール首相が東方拡大を推進したのは、ドイツ統一に貢献し た東欧諸国に対する歴史的責任や感謝からだけでなく、経済的、安全保障政策的な考慮からで もあった。この方針は 1998 年に成立する G. シュレーダーを首班とする SPD(社会民主党) と緑の党による連立政権にも引き継がれ、両党の連立協定、さらには 1999 年上半期の EU 議 長国としてのプログラムにも示された。そして実際この政権は、双子化プロジェクトなどにお いて東欧諸国の EU 加盟のために重要な役割を果たした14)。 また、ドイツが目標とした政治分野での統合目標には届かなかったものの、マーストリヒト 条約やアムステルダム条約によりヨーロッパ議会の共同決定権限、多数決の拡大、欧州委員会 委員長の地位強化、建設的棄権など注目すべき制度上の進展が見られた。しかし、時を同じく してドイツ国内におけるヨーロッパへの懐疑が強まっていった。そして、コール首相と協力し てきたフランスのミッテラン大統領、J. ドロール欧州委員会委員長が去り、ドイツ国内では諸 州の抵抗により、さらなる統合が減速していくことになる15)。 シュレーダー政権ではイラク戦争への参加を拒否したが、グローバルな問題への関与に積極 的で、ヨーロッパにおいてはドイツの利益を従来以上に明確に主張した。ところで、統一ドイ ツの強い主張が現れてきた事例には事欠かない。マーストリヒト条約に向けての交渉で、ドイ ツは通貨同盟構想における通貨安定や中央銀行の独立性を保証する厳しい条件を付けた。ま た、統合の深化を資金面から支えてきたドイツが、コール政権期に EU 予算におけるドイツの 支払いの大幅削減を要求し、こうした財政負担軽減の要求はシュレーダー政権下でも続いた。 また、シュレーダー首相は 2000 年 12 月のニース首脳会議で、閣僚理事会における持ち票数が 他の大国よりも多く割り振られるよう要求した。その他、ドイツ政府の強い働きかけにより EC(EU)がスロヴェニアとクロアチアを承認した事例、1994 年の K. ラマース / W. ショイブ レ・ペーパーおよびその 6 年後の J. フィシャー外相の演説に見られるドイツ側からの最終形 態の積極的な提示などの例も挙げられる16)。 こうした傾向はメルケル政権にも引き継がれる。これと表裏の関係で、ドイツはヨーロッパ への関与をするものの、もはや統合の拡大にも深化にもかつてのような決定的な推進力ではな くなった。そして、大きな飛躍ではなく、小さな歩みと必要な修正という実務的な政策を推進 していくことになる。そこには特に国内政治上の圧力の増大、すなわち世論や州(ラント)な
どからの圧力が存在し、統合の交渉を難しくするという事情があった17)。 1990 年代後半の赤緑政権以降のこうした展開は「パラダイム転換」(S. フレーリッヒ)、「地 殻変動」(C. ジェフリー / W.E. パターソン)と表現される。後者によると、「地殻変動」が起 こっているからといってドイツとヨーロッパの将来が不安定化することを示唆するものではな く、損得勘定が重視され、ヨーロッパの価値が変化することで、変容したドイツが居心地がよ いと感じ続けられる新しい、これまでとは違った枠組みが創生されうるという18)。 (2)ドイツ外交の変化 統一ドイツにおけるヨーロッパ政策は、コール政権下の 1990 年代においては基本的に連続 性が保たれたが、コール政権末期から変化が現れはじめ、赤緑政権においてそれがより明確に なったと考えられよう。これはヨーロッパ政策と密接に関連する外交政策というより広い枠組 みにおいてもいえる。 G. ヘルマンは第 2 次シュレーダー政権(2002 年~2005 年)を分析した論文において当政権 図 1 ドイツにおける外交政策的ディスクルスの座標とスペクトル 2005 年 ナショナル 1950 年代 自信を 持った 気おくれした 1990 年代 1980 年代 ヨーロッパ的 (出典)Gunther Hellmann, S.471.
の権力政治的自己主張を析出しているが、そこで彼は縦軸に「ナショナル(national)」と 「ヨーロッパ的 (europäisch)」を、横軸に「気おくれした(befangen)」と「自信を持った (selbstbewußt)」をとって各時代の位置づけをおこなっている(図 1)19)。1950 年代はナショ ナルで気おくれしていたドイツの外交政策上のディスクルス(図では右上)が、1960 年代~ 1970 年代にかけてヨーロッパ化していった(右下)。1980 年代には横軸で幾分自覚を持った方 向に移行し(右下から左下に向けての移動)、1990 年代には自信を持ちつつナショナルな方向 に転換を強めていき(左下から左上に向けて移動)、2005 年のシュレーダー政権では左上の位 置取りとなっている。シュレーダー政権期の外交では、戦後世代の首相個人(1944 年生)が 果たした役割が大きいことも考慮する必要がある。これまでドイツ外交に顕著であった「自己 制限」に加えて、彼においては「自己主張」が目立った。彼は何度も、ドイツが誰に対しても 優劣を感じる必要のない「大人の国民」になったと強調した。このことは特にヨーロッパ政 策、フランスとの関係に当てはまる。そこには、ヨーロッパ疲れ、財政的負担の重さへの不満 などドイツ国内の事情や要求が色濃く反映されている20)。 メルケル首相はシュレーダー首相のようにナショナルな自負や利益を強調することはしな い。CDU(キリスト教民主同盟)/CSU(キリスト教社会同盟)と SPD からなる大連立のメ ルケル政権下(2005 年~2009 年)では、ドイツ独自の道を唱えた前政権期にイラク戦争をめ ぐって険悪になったアメリカとの関係を改善し、EU 内では突出しない手堅い外交を展開し た。そして、この路線は基本的にその後の FDP(自由民主党)との連立政権下(2009 年~ 2013 年)、さらに現在の大連立政権(2013 年~)でも継続したといってよい。しかし、メルケ ル政権の外交も大局的に位置づけるとすれば、1990 年代以降の外交ディスクルスにおける趨 勢の延長線上ということになろう。だからこそ、後述のように、立場を明確にしないまま当事 者間で柔軟な対応がとれるような堅実な振る舞い方をしつつ、国内からの要求に配慮してドイ ツの立場には固執するのである。
Ⅳ ユーロ危機とドイツ
1 ユーロ危機とドイツの対応 この債務危機をめぐっては様々な問題点が指摘されてきた。まず、単一通貨を導入したもの の加盟国間のマクロ経済の調整機能が弱く、また、財政同盟なき通貨統合に留まったという制 度上の構造的欠陥(デザインの失敗)、さらに、この単一通貨制度を運営するうえでのミス (ガバナンスの失敗)があった。運営上のミスには、ドイツが推進した加盟国に対する財政規 律(安定成長協定)を 2000 年代初頭にフランスに加えドイツ自身も守っていなかったという 事態、ユーロ危機発生後の EU 首脳、特にメルケル首相の対応の拙さなどを挙げることができ る21)。 いわば起こるべくして起こったといえなくもないこの危機のそもそもの発端は、2009 年 10 月、発足したばかりのパパンドレウ政権下で前政権による国家財政の粉飾決算が発覚したことであった。財政赤字が周知の数字をはるかに超えることが明らかになり、ギリシャは財政危機 に陥った。ユーロ導入国のこの危機に連動して、市場におけるユーロに対する信頼も揺らい だ。ギリシャ政府が財政再建に努めるにしても自力再建が無理なため、ユーロ圏諸国が支援に 乗り出すことになったが、独仏間の溝を含め足並みは揃わなかった。EU の支援策がまとまっ たのはようやく 2010 年 3 月で、ドイツが主張していた IMF(国際通貨基金)を加える形で 5 月に欧州金融安定化基金(EFSF)が設立される。 これに先立ちドイツでも支援関連法が連邦議会と連邦参議院で可決されたが、連邦議会では 最大野党 SPD が棄権し、与党内にも反対票を投じる者がいた。SPD は支援そのものには賛成 していたが、メルケル政権が支援プログラムに銀行を参加させていない点、金融取引税の導入 を拒否した点などを批判して棄権を理由づけた。アテネ支援の決定が選挙で高くつく可能性は 指摘されていたが、その数日後、ノルトライン・ヴェストファーレン(NRW)州議会選挙が 実施され、メルケル首相の CDU は大幅に議席を減らし、NRW 州における CDU/FDP 連立政 権は終焉を迎えることになった22)。 秩序や規律を重んじる傾向にあるドイツが、すでに単一通貨導入に際してその安定や中央銀 行の独立といった、ドイツが国内で採用している枠組みをヨーロッパにも求めたことは上述の とおりであるが、危機対応においてもドイツの態度は厳しいものであった。財政再建策に対す るギリシャ人の反発が高まる一方で、ドイツ人は赤字体質のギリシャ自身による財政規律の遵 守、財政再建に向けてのさらなる努力を求めた。こうした声を受けて、メルケル首相は支援と 引き換えに厳しい条件を課す必要に迫られた。 積極的な支援を主張するフランス政府と異なり、ドイツでは連邦銀行や世論が負債の責任は 当事国が担うべきであるという考えであった。しかし、ドイツの利害だけに配慮すればよいわ けでもなかった。ヨーロッパとはアデナウアー以来の結びつきで、またドイツの輸出の 3 分の 2 はヨーロッパ向けであった。さらに、ユーロの崩壊はドイツの GDP の大幅な減少にもつな がりえた。こうしたなかメルケル首相は、3 つの仕事を同時に満たす困難な努力をしなければ ならなかった。すなわち、EU を危機から保護し、ヨーロッパに資金支援をし続けてきた状態 からドイツ経済を守り、他の加盟諸国をドイツ流の自由で社会的な市場経済に移行させるとい う努力である23)。 今回の危機ではギリシャ以外にもアイルランド、ポルトガル、スペインなどで財政不安が露 呈することで混乱が拡大したが、最終的には 2012 年に EFSF を引き継ぐ欧州安定メカニズム (ESM)が構築されて財政支援体制が強化されることで、また、各国の予算に対する事前協議 や監視強化が図られることで、その後危機は一応収まっていった。ただし、議論にはなるユー ロ圏共同債の導入にはドイツを筆頭に強い反対があり実現には至っていない。 2 EU およびユーロ危機をめぐる国内議論 債務危機以降、単一通貨に対する風当たりはますます強くなったが、ユーロに限らず EU 自 体に対する風当たりも強かった。H.M. エンツェンスベルガーは EU の議会、理事会、委員会
の 3 機関が、民主主義を消滅させてしまうブラックホールを産出し、今やポスト民主主義的な 時代が始まっているという。いわゆる「民主主義の欠如(赤字)」は「市民の政治的禁治産宣 告の洗練した表現以外の何物でもない」。EU は「命令(Befehl)によってではなく、手続き (Verfahren)によって」支配し、「市民を抑圧するのではなく、大陸のあらゆる生活関係を音 を立てずに均質化しようとする」24)。かつてヨーロッパ諸国を訪問して著したルポルタージュ (1987 年)でその多様性を称えたエンツェンスベルガーであったが、ここでは痛烈な EU 批判 を展開し、話題になった。 ユーロ危機でヨーロッパ統合の伝統的な意義付けが変わったとし、諸国民国家の役割を強調 するのが D. ゲッペルトである。ヨーロッパ通貨統合は成立史と目標設定からして政治プロ ジェクトであって、そこでは共通通貨によりナショナリズムへの逆戻りを防ぐ役割も考えられ ていた。しかし、ユーロ危機後、この通貨はヨーロッパにおける不和を掻き立て、ナショナル なルサンチマンを目覚めさせている。危機により、ドイツ的な秩序モデルは疎まれた。ドイツ はヨーロッパ的諸制度に順応するには強すぎるが、ドイツの政治を他国に押し通すには弱すぎ る(「中途半端なヘゲモニー」)。「危機後のヨーロッパは諸祖国からなるヨーロッパであり」、 「各国民はそこで民主主義、権利および社会国家の担い手となり中心的な役割を果たすことに なる。彼らは EU において自らの利益を追求し、それらは部分的に調整されることはあっても 一致することはない」。「ドイツの政治家がヨーロッパの連帯を一方的に呼び覚まし、ナショナ ルな利害を否定するとき、彼らは存在しないヨーロッパに執着している」。おおよそこのよう な主張を展開する25)。 U. ベックはユーロ危機が単に経済の危機だけでなく、社会や政治の危機である点を強調す る。「欧州とは、戦争の歴史から抜け出す道を探求しているかつての世界文化と大国の同盟」 であり、危機に対応することは「ユーロの崩壊を阻止することだけでなく、世界への開放性、 自由、寛容といったヨーロッパ的価値の崩壊を阻止すること」(25 頁)でもある。そして、こ うした重大な危機であるにもかかわらず行動しない、遅れて行動するという「懐柔戦略として の躊躇」を繰り返すドイツのメルケル首相の政治をマキャヴェッリのそれとの親近性から「メ ルキャヴェッリ」と命名して、批判の俎上に載せている。意図せずに権力を獲得し、「ドイツ のヨーロッパ」という状況が出現しつつあるなか、ドイツはヨーロッパの政治統合というヴィ ジョンを活性化させるべきであるとする(56-79 頁)。そして、今回の危機を契機に諸個人が ヨーロッパのための社会契約を結ぶよう呼びかけ、下からの運動により、より自由で民主主義 的なヨーロッパを目指すべきだとする(81-106 頁)26)。彼は上からではなく下からの社会運動 を盛り上げるべく、D. コーン - ベンディットとともに『私たちはヨーロッパだ! 下からの ヨーロッパ新設のためのマニフェスト』を発表している27)。 もう一人、積極的な政治統合の提唱者の見解を紹介しておこう。ギリシャ危機の最中、週刊 紙に「われわれにはヨーロッパが必要だ」28)と題する記事が掲載された。そこで筆者の J. ハー バーマスはメルケル首相の危機対応を槍玉に挙げながら、コール首相以降に生じた政治家にお けるメンタリティの断絶を指摘し、規範性の乏しくなった世代による政治支配を批判してい
る。この世代の政治家は目標を立てて、政治がじっくりとやるべきことをせず、日々出てくる 個別問題にその場しのぎで対処するだけという。そして、上記ヴィンクラーのテーゼを踏まえ たうえで、次のように記述している。「今日ドイツの政治エリートは、ドイツが再び国民国家 としての主権を獲得して、正常状態に至ったことを楽しんでいるのだ。「西側への長い道」の 終点に到達した彼ら政治的エリートは、民主主義の学校の卒業証明書を手にして、「これで他 の国々と同じにやって」いいと考え始めている。それまでは、道徳的にも敗れ、自己批判せざ るをえなかった国民として、ポストナショナル状況に他の国の人々よりも早く対応しようとし ていた。だが、こうした神経質な心の用心は消えてしまった」(249 頁)。 ハーバーマスはユーロ危機を政治の挫折と捉え、政治の自己強化の必要性を訴える。そし て、危機克服策として通貨同盟 17 カ国の中核ヨーロッパによる政治同盟を提唱する。そこで は財政政策、経済政策、社会政策が制度的に確立され、国境を越えた富の再分配をもたらすべ く、立法府の決定権限が強化される。そして、共同統治を可能としながらも、連邦国家という 形態をとらない超国家的デモクラシーが展開されるという。彼の構想には、危機の損失穴埋め のため市民に支払いをさせる金融市場を慮る政治に抗すべく、市民の権力を市民が確立する政 治の必要性、さらには国際政治におけるヨーロッパの影響力行使という視点が入っている29)。 政治的立場においてハーバーマスと親和性があるように思われる W. シュトレークである が、ユーロ危機から異なった結論を引き出す。緊縮路線を採る国家の資本主義が社会的にみて 公正に分配された成長という幻想を作り出せなくなると、資本主義と民主主義の道が分岐せざ るをえなくなる。そこで民主主義のない資本主義の道を進むのか、資本主義のない民主主義の 道、すなわち、少なくともヨーロッパが経験してきたハイエク流の資本主義とは違い、それと 競合する民主主義の道を進むのかが問われる(S.62)。シュトレークは EU ではテクノクラー トによる支配により、各国の多様性に即した民主主義が実現できないとし、国民国家の枠組み が擁護される。彼によれば、西欧では、ドイツのナショナリズムはいうまでもなく、ナショナ リズムが最大の危険なのではなく、ハイエク流の市場リベラリズムが最大の危険なのである。 通貨同盟が完成してしまうと、緊縮政策をとる国家に抵抗するのに有益な唯一の制度、すなわ ちナショナルな民主主義の終焉を決定的にする(S.68)30)。 ハーバーマスとシュトレークの主張は他の論者を巻き込みながら論争へ発展していった。要 するに、両者は資本主義経済を政治で規制する必要を認める点、市場への対抗および民主主義 の実現といった観点から EU の現状に危機感を抱いている点では一致するが、その対策におい て前者がヨーロッパの政治統合による民主主義のトランスナショナル化を提唱するのに対し、 後者はヨーロッパ諸国の諸領域における多様性からハーバーマスの構想は実現不可能とし、代 わりに国民国家という枠組みを前面に押し出すのである。二人の議論では資本主義と民主主義 という原理の問題がヨーロッパ、国民国家、グローバルといったアクターないしアリーナの問 題と絡めて扱われている。 以上の例からもわかるように、EU およびユーロ危機の問題は単に通貨危機の問題にとどま らず、民主主義や資本主義などとの関連で議論された。民主主義をヨーロッパレベルで達成す
る場合、政治同盟の実現は不可欠のように思われるが、その際、今回の危機における債務国が 単一通貨から離脱しないのであれば、そうした諸国家への融資、さらには政治同盟実現のため の様々な分野でのドイツの持ち出しなど、ドイツの譲歩、負担が増えることは避けられないで あろう。今日のドイツは、果たしてそれに備える準備はできているのであろうか。 3 国内アクターによる統合の制約 ユーロ危機を経験したヨーロッパの今後の統合には様々な障壁が待ち受けている。特に、統 合プロジェクトに対するドイツ人の態度が冷めたものになってきていることはアンケート調査 からも確認できる。ドイツでは統合の始まり以来数十年にわたり、世論、社会的エリート、政 党の間に統合に友好的な一致(「統合は良いこと」)が安定して存在し、ヨーロッパ支援のモデ ルとされた。しかし、1990 年代初期から加盟国の全体的な統合支持は後退する傾向にあり、 ドイツも例外ではなく、支持の度合いも全体の中間レベルである。すなわち、ドイツ人のヨー ロッパへの強い支持は過去のものになった。また、EU 加盟国であることが自国にとって得か 損かという質問では、ドイツ人は EU 加盟国の平均よりも批判的であり、1990 年後半には損 が得を上回り、その後は得が損を上回るものの、加盟国平均より得とする意見が少ない。個々 の問題領域でいえば、今後の統合に決定的なテーマである社会的安全、すなわち年金、医療、 その他の社会保障に関しては、年金では 82%、医療では 66%、失業対策では 61%のドイツ人 が EU ではなく国家の管轄であるべきとしている(順に EU 平均 71%、60%、56%)31)。 ハーバーマスは失業・年金保険などのヨーロッパ規模で規定される社会政策が、加盟諸国の 市民における共にヨーロッパに属しているという意識を強めるのにすぐれた手段になる可能性 に言及しているが32)、上記アンケート調査からみる限り、こうした世論は政府の政策(が成 果を上げること)によって統合を正統化する「出力の正統性(Output-Legitimation)」だけで なく、市民参加によって統合を正統化する「入力の正統性(Input-Legitimation)」にとっても 好材料とはなりえない。また、EU 市民を政治的意思決定に参加させ、民主的正統性を付与す べく、ヨーロッパ議会の立法過程における権限が時間をかけて強化されてきたが、ヨーロッパ 議会選挙の投票率は国政選挙と比べていまだ低いままである。ヨーロッパ統合の最大の課題で ある「民主主義の欠如」の解消にとっての最大の躓きの石は市民、世論なのかもしれない。 世論との関連で言及すれば、2014 年のヨーロッパ議会選挙において、「ドイツのための選択 肢(AfD)」が 7.4%の得票率で 7 議席を確保した。同党は反ユーロを標榜して 2013 年に設立 され、同年の連邦議会選挙で大いに注目された。結局この選挙では 4.7%の得票率で、5%の阻 止条項の壁に阻まれて議会進出を果たせなかったが、ユーロ危機とそれへのドイツ政府の対 応、移民問題などに対するドイツ人の不満のはけ口として役割を担い、地方議会、州議会、 ヨーロッパ議会に進出していった。この新党は、連邦議会選挙向けの選挙綱領で、「共通域内 市場を持った主権国家よりなるヨーロッパ」を謳う。そこでは「ユーロ通貨圏の秩序だった解 体」が要求され、より小さくてより安定した通貨圏の創設あるいはドイツ・マルクの再導入が 要求される。また、予算権限の各国の掌握、立法権限の各国への返還が主張される。こうした
政党が現在のドイツで一定の支持を集めるという現象が生じている33)。 また、州の発言力が増していることも一考に値する。統一ドイツでは旧東ドイツ地域の復興 のための「連帯協定」により旧西側から旧東側へ財政支援をしてきたが、近年こうした国内に おける財政移転に対してもバイエルン州など持ち出し側の豊かな諸州の反発は大きくなりつつ ある。当然ヨーロッパに向かう資金に対する目も厳しくなっている。すでにマーストリヒト条 約への同意に伴い基本法が改正され、同条約に盛り込まれた「補完性の原則」に基づき、州の 立場が全体的に強化された(第 23 条)。その後も基本法改正により州の発言力が強まるが、特 に注目すべきはリーマンショック後の 2009 年の改正による債務ブレーキ条項の追加で、財政 運営における州の権限が強化された(第 109 条)34)。債務ブレーキ条項は連邦レベルでの財政 規律が強化されたことと同時に、連邦は州(連邦参議院)の同意が必要になったことを意味し ている。いずれにせよ、マーストリヒト条約以降の複数の改正によって、州の権限強化が連邦 と州の行動の一体性の確保を難しくする可能性が出てくる。 さらに、連邦憲法裁判所は基本法における絶対的改正限界という特殊性を持ち出し、主権留 保論を展開している35)。1993 年のマーストリヒト条約判決、1998 年の単一通貨ユーロ導入に 関する判決、2009 年のリスボン条約判決、2011 年のギリシャ支援およびユーロ救済措置に関 する判決など重要な判決において、基本的にはヨーロッパ化のプロセスを容認しつつも、国民 や議会など国民国家の枠組みを持ち出して限定化している。憲法学者には連邦憲法裁判所の権 威がグローバル化とヨーロッパ化のなかでどんどん低下しつつあることを指摘する者もいる が、司法機関からのヨーロッパ化に対する歯止めの入力も無視できない。
Ⅴ ヨーロッパ化したドイツの「再国民化」
20 世紀、特にその後半はヨーロッパ諸国にとって「ヨーロッパ化」の時代であった。第二 次世界大戦後は西ヨーロッパで統合の拡大と深化が進展し、加盟国の協力体制が強化されてい き、1980 年代前半の米ソ新冷戦期には第 3 極としてのヨーロッパを活性化すべく「ヨーロッ パのヨーロッパ化」が喧伝された。そして、当地における東西対立が消滅して以降、ヨーロッ パ統合は東欧諸国に延伸され、同時に経済以外の分野でも深化が進んでいった。西ドイツは西 側陣営の一員となるべく、常にこうした先駆的実験を率先垂範しておこなったメンバーであ り、その意味でドイツは価値観、政治・経済などの諸制度においてすでに十分ヨーロッパ化 し、「ヨーロッパのドイツ」に成長した。 しかし、統一後の、特にシュレーダー政権以降のドイツはヨーロッパ政策における財政負担 や制度導入でますます主張を強めることで、自己利益を確保し、かつてのような献身的な対応 が後退している。その背景にはヨーロッパ政治を推進するうえで国内政治を無視できないとい う事情があり、その結果、現役政治エリートが強力なイニシアティヴでリードしにくくなって いるという時代状況がある。財政的な余裕のなさが強いるところは大きいが、ヨーロッパに向 かう意識の低下が全体的に看取できるのではないであろうか。こうした内向きで自国・自国民優先的な傾向を「再国民化(Renationalisierung)」という概 念で捉えておく。もちろん、ヨーロッパ化したドイツの利益とヨーロッパのそれはすでに大部 分が不可分の関係にあり、「再国民化」によりドイツの利益のみが図られるわけではないこと はいうまでもない。また、「再国民化」はドイツに限らずヨーロッパ諸国で看取できるが、だ からといって国民や国家の一体性が確保されるわけでもない。国民間の不平等化、社会への包 摂とそこからの排除といった現象が現れ、さらにイギリスやスペインなどでは一部の地域が分 離独立の運動すら起こしており、国家の足元がぐらつくという現象も他方で生起している。ド イツでもマーストリヒト条約以降、州がその権限を強め、EU 内における連邦との一体性の確 保が懸念されていることは既述のとおりである。すべてが国民国家へと単純に再凝縮していく わけではないのである。 しかし、こうした点を勘案したうえでも、かつてヨーロッパに向かっていたベクトルが次第 に国民国家に向かっている状況は確認できるであろう。A. マルコヴィッツと S. ライヒはコー ル政権末期に出版された著書において、「ドイツ人は彼らの経済的、政治的利益を促進するた めによきヨーロッパ人になるのであり、彼らがこのアイデンティティが道徳的に望ましく、も しかすると彼ら自身のナショナルなアイデンティティより優れていると考えるからではない」 と記し、ドイツにとってヨーロッパはそれ自体貴重な目的というよりも、単なる自己利益追求 の手段になっていくと指摘した。そして、彼らの気がかりはドイツが過去を忘れずに権力との 付き合いを正常化できるかという点にあるとしている36)。 ポストナショナルな国家としてのドイツの時代には、その使命感とも相まって「目標・目的 としてのヨーロッパ」の側面が目立ったが、当時でも「手段としてのヨーロッパ」の側面がな かったわけではない。そして、ポスト古典的な国民国家ドイツの誕生で後者の側面が前面に躍 り出てきたということである。ただし今後万が一、ヨーロッパに対するドイツの態度がこうし た「手段としてのヨーロッパ」の側面を過剰に強め、EU および他の EU 加盟諸国の利益と衝 突を繰り返すことになれば、「ドイツ問題」の新版が息を吹き返しかねない。 注
1 ) 例えば下記のものがある。Theurl, Theresia (Hrsg.), Europa am Scheideweg, Berlin, Dunker und Humblot 2013. Siegfried F. Franke, Europa am Scheideweg. Statt Vertiefung und Erweiterung nun die Eurokrise? Marburg, Metropolis Verlag 2012. Klaus Busch/Dierk Hirschel, Europa am Scheideweg. Wege aus der Krise, Internationale Politikanalyse der Friedrich-Ebert-Stiftung, März 2011. Jürgen Habermas, Europa am Scheideweg, in Handelsblatt, 18.6.2014. Europa am Scheideweg, Frankfurter Allgemeine Zeitung, 23.11.2012. (http://www.faz.net/-gqu-74jy3)
2 ) 遠藤乾『統合の終焉 EU の実像と論理』岩波書店、2013 年、5 頁。遠藤はフランス、オランダによ る欧州憲法条約の否決を契機に、大きな物語として戦後に進行した大文字の統合(Integration)は終 了したとし、EU への集権化という小文字の統合(integration)は今後もありえるとする。
Reich” bis zur Wiedervereinigung, vierte durchgesehene Auflage, München, Verlag C.H. Beck 2002, S.655f. H・A・ヴィンクラー/後藤俊明・奥田隆男・中谷毅・野田昌吾訳『自由と統一への長い道Ⅱ ド イ ツ 近 現 代 史 1933-1990 年 』 昭 和 堂、2008 年、625-626 頁。 引 用 は 訳 書 に よ る が、 本 稿 で は Bundesrepublik を連邦共和国と訳した。カッコ内は本稿筆者による。 4 ) この点に関しては、後藤による訳者あとがき(629-637 頁)を参考のこと。詳説は省くが、第一の特 有の道に関して、ヴィンクラーは従来の自由主義と民主主義の遅れという要素以外にライヒ神話を加味 しており、また、西ドイツが歩んだ第二の特有の道に関しても、ホロコーストと関連するナチズムの過 去を贖う宿命からして国民国家の実現は不可能であるとする左翼が用いる「贖罪の誇り」という概念 (ホロコーストの道具化という観点から、ヴィンクラー自身はこの贖罪思想に違和感を示す)を用い て、第二の特有の道を補強している。なお、ここで紹介した「特有の道」論を含め、本書の第二次世界 大戦後の歴史記述および本書が出版された時代状況に関して、筆者は 2009 年 4 月のドイツ現代史研究 会(キャンパスプラザ京都)で報告したことがある。
5 ) H. A. Winkler, Der lange Weg nach WestenⅡ, S.438-440. 上掲訳書 417-419 頁。この概念は『ドイツ の独裁』第 5 版の後書きに現れ、10 年後の 1986 年に『ドイツ連邦共和国史』第 5 巻の論文で頻用さ れ、注目されたという。
6 ) Heinrich August Winkler, Der Staatenbund als Bewährungsprobe. Das erreichbare Maß an Einheit verträgt keinen Aufschub mehr (Aus “Süddeutsche Zeitung” vom 16.1990), in Udo Wengst (Hrsg.), Historiker betrachten Deutschland. Beiträge zum Vereinigungsprozeß und zur Hauptstadtdiskussion, Bonn/Berlin, Bouvier Verlag, 1992, S.33-38.
7 ) H.A. ヴィンクラー / 後藤俊明訳「戦後からの決別 ─ ドイツ統一に関する省察」『思想』第 799 号 (1991 年 1 月)、42-52 頁。例えば、「分断されたヨーロッパ地域が共生していくためには、すべての当 事国がその国家主権を自発的に放棄すべく準備することが求められています。ドイツはとくにそのため の準備を幅広く進めるべきであり、また他の国々に先んじてすすめるべきでしょう」(50 頁)と記さ れ、さらに、統一ドイツが将来的に EC において中欧東部の代弁者となるべき点を指摘したうえで、 「いまや、主権をもった国民国家を復活することではなく、よりいっそう広いヨーロッパの旗のもとで 国民国家的な思想を克服することこそが、歴史の日程に上っているのです」(52 頁)と述べられている。 8 ) Heinrich August Winkler, Das europäische Projekt in der Krise, in Aktion Gemeinsinn, Für Mehr Europa-gegen Renationalisierung, 2012, S.9-11. ただし、ここで彼は負債に対する共同責任は現状のま までは一致できないとし、ドイツのアジェンダ 2010 のような徹底した構造改革を他国にも求めている。 9 ) 高田敏・初宿正典編訳『ドイツ憲法集 第 6 版』信山社、2010 年、212-213 頁。
10) こ の 点 に 関 し て は、Gisela Müller-Brandeck-Bocquet et al., Deutsche Europapolitik von Konrad Adenauer bis Gerhard Schröder, Opladen, Leske und Budrich, 2002 を 参 照 の こ と。 特 に Gisela Müller-Brandeck-Bocquet/Corina Schukraft, 50 Jahre deutsche Europapolitik -ein Resümee, S.221-228.
11) Charlie Jeffery/William E. Paterson, Germany and European Integration: A Shifting of Tectonic Plates, in Herbert Kitschelt/Wolfgang Streeck (eds.), Germany. Beyond the Stable State, London/ Portland, OR, Frank Cass, 2004, p.60.
12) Helga Haftendorn, Deutsche Außenpolitik zwischen Selbstbeschränkung und Selbstbehauptung, Stuttgart/München, Deutsche Verlags-Anstalt, 2001, S.14f., S.442f..
13) Charlie Jeffery/William E. Paterson, Germany and European Integration, pp.61-62.
politik der rot-grünen Bundesregierung 1998-2002, in Gisela Müller-Brandeck-Bocquet et al., Deutsche Europapolitik von Konrad Adenauer bis Gerhard Schröder, S.186f..
15) Stefan Fröhlich, Die Europäisierung der Bundesrepublik, in Hans-Peter Schwarz (Hg.), Die Bundesrepublik Deutschland. Eine Bilanz nach 60 Jahren, Köln, Böhlau Verlag, 2008, S.519f..
16) Franz-Josef Meiers, A Change of Course? German Foreign and Security Policy After Unification, in Winand Gellner/John D. Robertson (ed.), The Berlin Republic. German Unificatio and a Decade of Changes, London/Portland, OR, Frank Cass, 2003, pp.198-201. シュレーダー政権下では理事会の非公 式会議において、英語、仏語とならんで独語の同時通訳を要求するという一幕もあった。Der Spiegel, 41/1999, S.114.
17) Stefan Fröhlich, Die Europäisierung der Bundesrepublik, S.524f..
18) Charlie Jeffery/William E. Paterson, Germany and European Integration: A Shifting of Tectonic Plates, p.73.
19) Gunther Hellmann, “… um diesen deutschen Weg zu Ende gehen zu können.” Die Renaissance machtpolitischer Selbstbehauptung in der zweiten Amtszeit der Regierung Schröder-Fischer, in Christoph Egle/Reimut Zohlnhöfer (Hrsg.), Ende des rot-grünen Projektes. Eine Bilanz der Regierung Schröder 2002-2005, Wiesbaden, VS Verlag für Sozialwissenschaften, 2007, S.471.
20) Helga Haftendorn, Deutsche Außenpolitik zwischen Selbstbeschränkung und Selbstbehauptung, S.444f..
21) 遠藤乾『統合の終焉 EU の実像と論理』、267-278 頁。 22) Süddeutsche Zeitung, 8./9. Mai 2010, S.1, S.8.
23) Jonathan Story, The Euro Crisis and German Primacy, in Daniel Dăianu/Giorgio Basevi/Carlo D’Adda/Rajeesh Kumar (eds.), The Eurozone Crisis and the Future of Europe. The Political Economy of Further Integration and Governance, Basingstoke, Palgrave Macmillan, 2014, pp.119-122.
24) Hans Magnus Enzensberger, Sanftes Monster Brüssel oder Die Entmündigung Europas,Berlin, Suhrkamp, 2012, S.50-52, S.58.
25) Dominik Geppert, Halbe Hegemonie: Das deutsche Dilemma, in Aus Politik und Zeitgeschichte, B6-7/2013, S.11-16. 26) ウルリッヒ・ベック / 島村賢一訳『ユーロ消滅? ドイツ化するヨーロッパへの警告』岩波書店、 2013 年。原題の直訳は『ドイツのヨーロッパ 危機の兆候における新しい権力風景』である。メルキャ ヴェッリの 4 点として①欧州構築論者と国民国家正統主義者のどちらにも与しない態度、②(ドイツが 提示する安定政策を債務国が受け入れるべく)ドイツが融資の承諾を拒めば債務国が破綻するというリ スクの論理を強調、③②を持ち出して国内選挙で勝利することと、ユーロ圏諸国をよりましな政策でま とめることで欧州構築論者としての役割も果たすことを両立、④緊縮財政にみるドイツの安定性の文化 を他国にも受け入れさせたいという願望、が挙げられ、これらが相補的に強化し合い、ドイツがヨー ロッパの権力中核を担っていると説明される(56-64 頁)。 27) ウルリッヒ・ベック『ユーロ消滅?』94-95 頁、原注 12 頁。マニフェストは http://manifest-europa. eu/allgemein/wir-sind-europa?lang=de 28) ユルゲン・ハーバーマス / 三島憲一・鈴木直・大貫敦子『ああ、ヨーロッパ』岩波書店、243-252 頁。 29) ペーター・ボーフィンガー / ユルゲン・ハーバーマス / ユリアン・ニーダー=リューメリン / 三島憲 一訳「ヨーロッパ政治における進路変更をめざして-見かけだけの民主主義に反対する」『世界』2012 年 11 月号、58-66 頁。
30) Wolfgang Streeck, Was nun, Europa? Kapitalismus ohne Demokratie oder Demokratie ohne Kapitalismus, in Blätter für deutsche und internationale Politik 4/2013, S.57-68.『ドイツ・国際政治雑 誌』に掲載された本論文は、2013 年に出版されたシュトレークの著書 Gekaufte Zeit. Die vertagte Krise des demokratischen Kapitalismus(『時間稼ぎ 民主的資本主義の危機は先延ばしにされた』)の 最終章の一部である。本書をハーバーマスが書評で批判的に取り上げたことを嚆矢に、主に本誌上でア カデミックな論争が展開された。両者の主張は次の文献にも収録されている。Blätter für deutsche und internationale Politik (Hg.), Demokratie oder Kapitalismus? Europa in der Krise, Berlin, Blätter Verlagsgesellschaft mbH, 2013.
31) Wilhelm Knelangen, Euroskepsis? Die EU und der Vertrauensverlust der Bürgerinnen und Bürger, in Aus Politik und Zeitgeschichte, B43/2012, S.34-38. ここではユーロ・バロメータのデータに 基づいた分析がなされている。なお、ユーロへの賛否(賛成マイナス反対の数値)に関しては、ドイツ では 1990 年前半に反対が賛成を上回るが、1990 年代後半には逆転し、2000 年代前半には賛成が加盟国 平均を上回り近年に至っている。
32) Gespräch mit Jürgen Habermas, Das eigentliche Ziel ist die Transnationalisierung der Demokratie, Neue Gesellschaft, 4/2014, S.20. 33) 中谷毅「反ユーロ政党「ドイツのための選択肢(Alternative für Deutschland)」─ その誕生・選挙 戦・今後の展開」『龍谷大学社会科学研究年報』第 44 号、2014 年、237-255 頁、特に 244 頁。AfD はネ オリベラルだけでなく、ナショナル保守、右翼ポピュリズムなど様々なレッテルの要素を併せ持つ組織 であり、今後どの側面が強まるのか注目される。 34) 高田敏・初宿正典編訳『ドイツ憲法集 第 6 版』、224-225 頁、287-289 頁。 35) クリストフ・メラース「連邦憲法裁判所の合法性・正統性・正統化」マティアス・イェシュテット / オリヴァー・レプシウス / クリストフ・メラース / クリストフ・シェーンベルガー著 / 鈴木秀美 / 高田 篤 / 棟居快行 / 松本和彦監訳『越境する司法 ドイツ連邦憲法裁判所の光と影』風行社、2014 年、337 頁。本書所収のクリストフ・シェーンベルガー「カールスルーエについての所見」、オリヴァー・レプ シウス「基準定立権力」も参照のこと。特に、シェーンベルガーによる連邦憲法裁判所の権威低下の指 摘は明快である(例えば 40 頁、43 頁)。
36) Andrei S. Markovits/Simon Reich, Das deutsche Dilemma. Die Berliner Republik zwischen Macht und Machtverzicht, Berlin, Alexander Fest Verlag, 1998, S.327f., S.332.