レヴィナスにおける「赦し」の意味をめぐって
― その政治的・非政治的機能
―
Levinas on Forgiveness: Its Political and Non-Political Function
冠木 敦子
KABUKI, Atsuko
1.はじめに 「赦しpardon, forgiveness」は、「和解réconciliation」「容赦excuse」「特赦amnistie」「時効 prescription」など、多くの隣接する事柄と混同されつつ考えられてきた。この言葉はその 純粋さを想起すれば愛と同様、非政治的側面を色濃く持つにもかかわらず、しばしば政治 的な場面の周辺でも使われ、機能しているように思われる。第二次世界大戦の惨禍を受け て起こった赦しに関する議論は、冷戦後の国際社会における数々の政治的事柄に刺激を受 けて昨今、再び活発な議論を呼び起こしている。 このような議論において、本論考で取り上げるエマニュエル・レヴィナス(1906~ 1995)はほとんど言及されてこなかった。それはレヴィナスが赦しについてまとまった哲 学的考察を行なっていないだけでなく、赦しへの態度も一貫していないように思われるこ とが大きい。赦しの言葉は1940年代と60年代の著作では肯定的な文脈で使用されている のに対して、50年代には否定的に扱われているのである。また赦しについてのタルムード 講話1があるが、哲学との関連は明確ではない。 しかしながら、第一の主著『全体性と無限』において「赦し」は、短く断片的ながら非常 に重要な文脈で使用されているのは注目されるべきことである。なぜ赦しという言葉が使 われたのか、その言葉に込められた意味は何なのか。否定的に扱われている50年代との差 はどのように解されるべきか。本稿では、『全体性と無限』および1963年のタルムード講話 「他人に対して」を中心に考察しながら、レヴィナス思想における「赦し」を整合的に解釈 することをめざす2。そしてその意味するところを探るため、レヴィナスと同時代人で親交 のあった哲学者ジャンケレヴィッチを参考にしたい。以下、まずはジャンケレヴィッチの 「赦し」論を簡単に紹介し、その後レヴィナスの「赦し」について検討し、最後に両者の比 較から浮かび上がるものを提示することにする。 2.ジャンケレヴィッチの「赦し」における二つの側面 デリダが「世紀と赦し」3において、ジャンケレヴィッチの論争的なテクスト『時効にか かりえないもの』4に言及しつつ、彼の赦し論は「条件つきの交換の論理」になってしまっ ている、と批判したことは広く知られている。しかしながらジャンケレヴィッチは、1967 年の哲学的著作『赦し』5において、決して見返りを求めない「純粋な赦し」について詳細 な議論を展開していた6。 魂胆のない純粋な赦しを与えることは人間には難しい。罪を赦したとみえてごく微量の 怒りが残存していたり、「私心のなさdésintéressement」と思えるところに自己利害という 動機が微視的に隠れていたりする。「赦しという恵み」「無私の愛」は、「実際には到達し得ず、 漸近的に接近するだけの、獲得し得ない地平」7なのである。人間にはこのような限界が存 在するからこそ、赦しは最終的に「誇張的倫理éthique hyperbolique」として語られることに
なる。すなわち過剰性と無償性のなかにあって、単なる「相互性réciprocité」の倫理の領域 に属すことがありえない赦しである8。 ジャンケレヴィッチはこの誇張的な赦しを『赦し』第三章で「気のふれた赦しpardon fou」と呼び、特に「容赦excuse」や「理解compréhension」と対比させながら説明している。「ア ウシュヴィッツの加害者は十分に教育を受けておらず、浅薄で間違った情報を得てだまさ れてしまったのだ」という具合に、合理的な理由に基づいて過ちを理解し、容赦すること があれば、そこにおいて罪は消滅してしまうだろう。誰も悪人ではなかったのだから。そ して罪が消滅するのなら、赦しそれ自体も赦す対象を失うことになる9。これに対して真の 赦しは、どのように理解し、容赦すればよいか分からないようなものをこそ赦す。あまり にも酷い怪物じみた犯罪、罪を犯した者が贖いえないような犯罪があるとするなら、それ ゆえに赦しの可能性は常に残され、赦しはまさにこの絶望的な場合のために為されるのだ。 「赦しえないものは存在しない」のである10。 真の赦しは合理的な理由を超えているがゆえにそれは「気がふれている」と言われるの であるが、ただしそれは単なる非合理主義でないことは、急いで付け加えなければならな いだろう。赦しが目指すのは「真に新しい、完全に別の秩序への転回」11、「新しい生を再び 始めることrecommencement」「新しい誕生nouvelle naissance」12という事態だと言われてい る。合理性を超えたものとは、非合理的なものなのではなく、赦す者と赦される者との再 生を意味しているのである。 以上は『赦し』において展開された誇張的な赦し論であるが、この本の末尾にはそれま での議論と一見、矛盾するような記述がある。それは、赦すためには赦される側が赦しを 乞いにやって来ることが必要だ、というものである。罪を犯した者の悔悛があってはじめ て赦しに意味が与えられるのであり、そうでなければ赦しは、邪悪な冗談になってしまう だろう13。「赦しの要請」が赦しの第一条件である、というジャンケレヴィッチの短い記述 は、1971年の『赦す?』ではっきりと展開され、それは「世紀と赦し」においてデリダが批 判した論点の一つとなった。すなわちジャンケレヴィッチのなかに、悔悛すれば赦すが悔 悛しなければ赦すことはできない、という条件つきの交換の論理を見て取り、これは純粋 な赦しとはいえない、と批判したのである。 ここでデリダによるジャンケレヴィッチ理解の妥当性を詳細に検討する余裕はないが、 後述の議論に関係する範囲で、以下の点を指摘しておきたい。ザルカが述べるとおり、赦 しの要請が自動的に赦しを引き起こすわけではない。赦しは赦しの要請に一対一で対応す るわけではなく、赦しの要請を恵みで満たしてそれを無限に越えていく。そして赦される 人と同様に赦す人をも変様させていくのである14。これを因果関係の枠のなかに閉じ込め てしまうデリダの議論は性急すぎるのではないか。さらにジャンケレヴィッチの議論する 赦しが神の赦しではなく、「人間の赦し」であることもザルカと共に強調しておきたい15。 人間の赦しは人間の間で行われ、赦す者と赦される者双方の関係のなかで為される。デリ ダが唱える「赦しを求めない者をも赦す」という事態は、人間関係を無視した一方的なも
のではないか。それは赦しとは別のものになってしまうのではないか。純粋であることが 困難である人間の限界ゆえに誇張的思考が要請されるのであるから、人間の限界内におけ る最初の条件を手放してはならないのではないか。 以上、ジャンケレヴィッチの赦し論について『赦し』を中心にみてきた。そこには二つの 要素が含まれている。すなわち合理的な理由を超えた誇張的な側面と、赦しの要請が赦し の条件である、という条件つきの側面である。両者は矛盾していると考えるのがデリダで あるが、矛盾ではなく、人間の赦しを考える上で欠かせない二つの側面であるということ もできる16。ここでは差し当たり、ジャンケレヴィッチにおける二つの側面を確認するこ とで満足したい。この構図にレヴィナスの論じる「赦し」がどのように関わるかが問題と なるが、まずは断片的なレヴィナスの議論を整合的に解釈することを試みることにする。 3.『全体性と無限』における「赦し」 (1)第三部C「倫理的関係と時間」―他人の他性との関係― 『全体性と無限』で赦しの語が使われるのは二か所しかない。一か所目は第三部Cの「倫 理的関係と時間」の章で、意志と作品の関係について論じる場面である。自己がいかに全 体化しない仕方で他人と関係し自由を維持することができるかを問う中で、意志が産み出 す行為やその結果は作品として〈他人〉17にさらされ、「私」の意志は作品に疎外されるこ とがまず示される。歴史とはこの作品が連鎖したものに他ならない。しかし事態はそれだ けではない。意志は作品と乖離するだけでなく、実は意志自体が他人たちの影響を受け、 黄金による買収や剣による脅迫によって変形してしまう。意志はその本質のうちに裏切り を孕んでいるのだ。しかし、それにもかかわらず、この裏切りの可能性のただ中でも、意志 は裏切りを意識し、意識することで裏切りに対して隔たりを持とうとする。意志は自らに 忠実なものでもありえるからだ。裏切りと忠実さの間で揺れ動き、その両者が同時に存在 することが意志の権能の本源的なあり方なのだ、とレヴィナスは主張する18。 ここで、意志が自らを裏切ることなく自分自身に忠実であることを証しするのが「赦し」 である、と言われる。 …意志がそのまえに開かれている法廷(裁判権)juridictionから、赦しが到来する。歴 史を打ち消し、振りほどき、解放する力puissanceが到来するのだ。(中略)意志に対す る忠実さは、悔い改めと祈りによって勝ち取られる。悔い改めと祈りは特権的な言葉 であり、そこにおいて意志は自己への忠実さを探し求めるのだが、この忠実さを意志 に証しする赦しは外部から意志に到来する。内面的な意欲vouloir intérieurの正当な権 利、把捉されない意欲が存在するという確信は、このようになお外部性との関係を再 び打ち立てる。意志は外部から任命と赦しを待つのである。( TI 257 )
意図せざる行為の結果だけでなく、例えば意図して行なった悪事であっても、意志の内面 性に立ち返ることができるのなら、黄金や剣による変形の手前に遡ることができるのなら ―これが「悔い改め」「祈り」と言われるものなのであり、それを確実なものにするのが「赦 し」なのだが―それは行なった行為の網の目(作品の連鎖である歴史)を打ち消し、振り ほどいて行為者を解放する。 この赦しは外部から到来すると言われているが、これは意志に対して外化してしまっ た作品の次元を指しているのではない。世界の内部における他人や、他人の誘惑・強制 にさらされた自己が赦しを待つのはこの世界の外部、〈他者〉、他人の他性を指している。 そしてこの〈他者〉として現れる〈他人〉によって、既存の関係の網の目やそれを理解す る「私」の認識枠組みが問いただされもするのである。「法廷(裁判権)juridiction」「任命 investiture」とあるとおり、『全体性と無限』第一部Cで展開された正当化や正義の議論がこ こでは念頭に置かれている。 (2)第四部G「時間という無限なもの」―多産性の時間― 「赦し」は『全体性と無限』の第四部に至って「時間という無限なもの」と題された部分 において再び登場する。ここでは「完全に赦された」という言葉も登場するとおり、「赦し が起こった」地点からみた説明がなされ、赦しという出来事そのものが「時間それ自体を 構成する」と述べられる。 …赦しの逆説は、それが遡って作用するという点にあり、通俗的な時間という視点か らすれば、赦しが示しているのは物事の自然な秩序の逆転、つまり時間の可逆性であ る。時間の可逆性にはいくつかの側面がある。赦しは経過した瞬間に関わるが、経過 した瞬間に過ちを犯した主体が、あたかもその瞬間が経過していないかのように存在 すること、主体が過ちを犯してはいないかのように存在することである。忘却よりも 強い意味で能動的な…赦しは、過去に作用し、過去を浄化することによって、なんら かの仕方で出来事を反復する。他方ではさらに、忘却は過去との関係を無化するが、 赦された過去は赦しによって浄化された現在のうちで保存される。( TI 315 - 6 ) 赦しにおいては、時間が逆転する。通常の時間の流れの中では、行なわれた行為は取り消 すことができないが、赦しは、過去に遡って働きかける。しかしこれは、過去を忘却すると いうような消極的なものではない。経過した瞬間があたかも「経過していない」かのよう にする、すなわち過去に形成された行為連関・作品の連鎖を解体し、行為の意味や人間関 係を変換し新しくする作用をもつのである。こうして赦しは、過去に働きかけ、過去を現 在のうちで保存する、という能動的な性格をもっている。しかし当然ながら、経過した瞬 間が「あたかも」経過していない「かのようにする」のであるから、経過した過去が消失す るわけではない。ここにおいて時間は二重化する。一方では通常の出来事の流れ、物事の
自然な秩序であり、他方は、起こったことが起こらなかったかのようにされる時間である。 二つは人間関係の中で同時に存在するのである19。 そしてこの赦しの時間が「多産性の時間の勝利」(TI 315)と言われる。人間は、生物とし ては死すべき老いてゆく存在であるが、その生成の時間に対して、赦しによって「絶対的 な若さjeunesse absolue」「再開recommencement」が可能になる。人間が新しくされる「復活 résurrection」(TI 317)が果たされるのである20。 4.「自我と全体性」と『全体性と無限』との関係 以上のような『全体性と無限』の記述を、それに先立つ論文「自我と全体性」と比較して みよう。自我と全体(複数の人間存在)との関係を考察し、『全体性と無限』を準備したと 考えられるこの論文では、第三者を排除してしまう「親密な社会société intime」においての み、赦しは機能する、と述べられ、否定的に扱われている。このような社会は私ときみとい う二人から成る社会、その構成員が互いに全面的に現前し合うような社会、「我々のあいだ」 で事が進むような社会、内輪の社会として描かれる。もし「私」が「きみ」に対して犯した 過ちを全面的に認め、悔い改めた場合、赦しが与えられるかもしれないが、しかしそのよ うな赦しは、「我々のあいだ」から排除された第三者を傷つけてしまう可能性がある、とレ ヴィナスは述べる(EN 31-35)。すなわちここで赦しは、私的な人間関係における慣れ合い の行為として考えられているのであり、公明正大さを欠いた赦しは、客観的な世界におけ る悪をかえって増大させる行為、復讐と同じように悪循環に陥り、正義を損なう行為とし て描かれる。「悪は悪を生み出し、赦しは無限に悪を助長する」(EN 51)。 赦しについて同様な批判的記述は同時期の他の文献においてもみられ21、それは『全体 性と無限』をはじめとする肯定的な位置づけと矛盾しているようにみえる。これらの記述 を整合的に解釈することはできるのだろうか。次のように考えてみたい。 「自我と全体性」において赦しが問題になっている「親密な社会」「私ときみという関係」 は、『全体性と無限』においては「女性的なもの」という議論に引き継がれている22。『全体 性と無限』第二部においては、世界との隔たりを維持しつつ世界との関係を築く場、内省(集 約)する場が「家」として提示されるが、この内省を可能にするのが「私」の「親しい」他人、 「女性」であり23、「きみtu」と呼ばれる他人である。このような他人は、対話を通じて関係 する「あなたvous」あるいは「師maître」と区別されている。「自我と全体性」と同様、「親し いintime」「きみtu」との親密な関係が述べられており、それとは別様の現れ方をする〈他人〉 (「自我と全体性」では第三者、『全体性と無限』では「あなた」「師」)と区別されていること が特徴である。 しかしながら二つの著作には違いがある。「自我と全体性」において親密な社会は、第三 者を含めた次元、複数の自我が形成する社会から切り離された仕方で描かれている。それ に対して『全体性と無限』では「女性」との親密な関係が、対話を通じた倫理的な関係と区
別されているにも拘わらず、ある関連を有していると考えられている。「女性的なもの」は 他人との言語的倫理的関係を準備し、その前提になっていると言われるのである24。もち ろんこの親密な関係に閉じこもって言語的倫理的関係を忘却する可能性も指摘される。し かしそれほどまでに「家」における自我の分離が徹底的であることが、人間の内面性を形 成し、他人を歓待する主体の可能性の条件となる(TI 188)。これが『全体性と無限』の議論 なのである。 このような二つの論考の違いを念頭におけば、次のような理解が可能である。赦すがゆ えにかえって悪を助長してしまうような赦しは、閉じた親密な関係の次元のみを前提にし た議論であり、言わば赦しの失敗形態と言えるだろう。しかし親密な関係がまた、他人と の言語的関係の可能性の条件と位置づけられるのであれば、赦しについても、親密な関係 を超越した、他人の他性との関係において機能する側面が捉えられることになる。レヴィ ナスにおいては赦しが主要なテーマとして体系立てて論じられていないがために、文献に よって相互に矛盾しているような観を呈してはいるが、議論のどの段階に赦しが位置づけ られているかを見定めれば、整合的に解釈することは可能である。 5.「他人に対して」における赦しの考察 ―困難な赦し― 以上、哲学的著作に現れる赦しについてみてきた。特に『全体性と無限』においては重要 な場面で言及されているが、断片的であるために、具体的な意味を理解することはなかな か難しい。悔い改めや赦しの問題は通常、特定の過去の行為に対する特定の行為が想起さ れるが、レヴィナスが語るのは人間の哲学的分析なのであり、特定行為を前提にしている わけではない。そこで次に、論考「他人に対して」(1963年)に目を転じてみたい。これは 第五回フランス語圏ユダヤ知識人会議が「歴史を前にして:赦し」をテーマに掲げたとき、 レヴィナスが行なったタルムード講演25である。レヴィナスはタルムードの節をいくつか 挙げながら赦しについての考察を行っていくが、そこに見出されるのは、赦しの困難さで ある。この講演を大きく三点に絞って取り上げてみよう。 第一に、ここでもやはり「歴史」「普遍的秩序」に対して「個人」「私の内面性」が強調さ れている。講演はまずユダヤ教の「大贖罪日」について言及し、神に対してなされた過ち (偶像崇拝や絶望など)は大贖罪日の様々な儀式によって「赦される状態へと導かれる」が、 他人に対して為された過ちが赦されるためには、あらかじめ相手の怒りを鎮める必要があ る、と述べる。すなわち後者については、加害者が過ちを自覚し、被害者に赦しを乞うこと が、すべての出発点となるのである。これに対して、被害者との事前の和解がなくとも神 がこれを赦すはずだ、との反対意見も紹介されるが、レヴィナスはこの見解を敷衍して、 個人的なものに容赦のない「歴史」「普遍的秩序」を重視するテーゼ、と整理する。タルムー ドはこの見解に異を唱え、傷つけられた人は個人的に取りなされ、慰められねばならず、 加害者と被害者の内面のドラマこそが、最終的な神の赦しの前提となる、と主張している
(QLT 35-44)。 しかしこの議論に続くのは、人間同士の間で赦しがいかに難しいかについてのいくつも の逸話である。これが第二に強調すべきことである。大贖罪日の前夜に赦しを乞うべき人 がやってこない。そこで被害者の方が、加害者の謝罪を促すため家を訪ねたが、家畜屠殺 人である加害者は再び相手を侮辱し、かたくなに家畜の頭蓋を打ち続ける。その結果、飛 び出してきた骨の破片に当たって加害者は死んでしまった。相手の人間性に対する信頼も 時期尚早であるなら殺人にまで至るとして、家を訪ねた被害者側の責任の重大性をレヴィ ナスは指摘する(QLT 50-51)。 別の例では、読書会でテキストを註解していたラヴ26が会の慣習を破る仕方で師を侮辱 した。その後13年間、ラヴは赦しを乞うために大贖罪日の前夜に相手を訪れたが怒りは解 けず、ラヴはバビロニアに去っていった。タルムードは、ラヴがいずれ学派の後継者にな ることを恐れた師がラヴを遠ざけた、との見解を示すが、レヴィナスはこれに異を唱え、 加害者は自らの過ちの程度を正確に測ることができるのか、私たちは自分の悪意をどこま で知っているのか、と疑問を提示する。すなわちラヴは無意識のうちに野心をもち、自分 では気づかないうちに師の地位を狙っており、それがこの事件の発端となったふるまいに 隠されていたがために、師は赦しを与えなかったのだ、と。赦しには、被害者の善意と加害 者の自覚という二つの条件が必要である。しかし加害者は本質的に無意識なのではないか。 加害者の攻撃性は、その無意識そのものにあるのではないか。だから原理的に言えば、「赦 しは不可能なのかもしれない。」 上の逸話は、自覚の問題とは別にラヴが将来を嘱望されるような才能ある人物だったこ とがなおさら赦しを難しくしたことが、ハイデガーを赦すことの困難さに重ね合わされて 閉じられる(QLT 51-56)。 個人の内面、特に加害者の意識に焦点をあて、赦すことの困難さを具体的に考察してき たこの講演は、だが最後にこれまでの視点を逆向きに変える。ドイツ人とドイツに対して いかに向き合うかという会議のテーマにつなげるとしてレヴィナスは、『サムエル記下』21 章のギブオン人の物語を取り上げるのだが、正当な償いを受ける権利を有する、と主張す る被害者の側に焦点を当てたこの考察において、赦しを乞われる側、権利を主張してもお かしくない側の、しかしそのあり方を鋭く問おうとするのである。 ギブオン人の物語27を要約すると次のようになる28。ダビデ王治世下で三年間飢饉が続 き、ダビデが神に託宣を求めたところ、先王サウルとその一族がかつてギブオン人たちを 殺害し迫害したことに原因がある、との答えがあった。ダビデはギブオン人たちを招き、 どのように償うべきかたずねたところ、彼らはサウルの子孫七人の引き渡しを要求した。 そこでダビデはサウルの側室だったリツパから二人の息子を、サウルの娘ミカルから五人 の息子を取り上げ、ギブオン人に引き渡した。彼らは岩壁に釘付けになってさらされ、処 刑された。『サムエル記』はリツパが半年の間、死骸のそばにとどまり、彼らを布で覆って 鳥獣から守ったと伝えている。
この物語を、タルムードに依拠して29解説するレヴィナスと共にいくらか補足しておき たい。ギブオン人が最初に聖書で言及されるのは『ヨシュア記』で、ヨシュア率いるイスラ エルの進撃に恐れをなしたギブオン人は計略によって征服者イスラエルと盟約を結び、そ れゆえに彼らは攻撃されなかった。この計略は後に露見したが、盟約の誓いゆえに彼らは 命を奪われることはなく、「薪を割る者、水を汲む者」の地位に落とされることで、イスラ エルの中の異邦人として生きていくことになるのである。彼らがサウルから迫害されたこ とは、『サムエル記下』に至って初めて明記され、それ以前の聖書中には見当たらないのだ が、タルムードは『サムエル記上』の記述を挙げて迫害の事実を補っている。 ギブオン人の物語は荒々しく残酷であるがゆえに、当然いくつもの疑問が湧いてくる。 親の罪で子を罰してもよいのだろうか。『申命記』ははっきりとこれを禁止している30。人 間の死骸をさらしものにしてもよいのだろうか。同じく『申命記』がこれを否定している31。 それにも拘わらずダビデはなぜこれらを受け入れたのだろうか。「神の名が冒涜されるく らいなら、トーラーの中の一文字が失われる方がましである」、これがタルムードの答えで ある。すなわち、神の名において誓われた盟約が破られ異邦人が傷つけられた罪を見逃す ことに比べれば、親の罪で子を罰することの方がまだましだ、ということになる。死骸を さらしものにすることも同様に考えられている。 荒々しい崇高さ、とレヴィナスはいう。旧約聖書と呼ばれているものの崇高さは流され た血に対して敏感であり続けることにあり、同罪刑法を求める者に対しては正義の執行を 拒否できない、と。確かに『出エジプト記』をはじめとして32「命には命を、目には目を、歯 には歯を」と記されている通り、同罪刑法は(旧約)聖書の教える正義の一つのかたちでは ある。それゆえ「赦し」について、この物語を通して伝えられることは、赦しは犠牲になっ た者にのみ属し、代理の者によっては与えられない、ということになる。正義を求める被 害者に対し、その正義がどれほど残酷なものであっても、加害者側は被害者側に赦しを強 要できないことを、レヴィナスは強調する。 同罪刑法の過酷な正義をつきけるこの個所に読む者は圧倒され戸惑うばかりなのだが、 しかし、最後にレヴィナスはタルムードの註に書かれた小さな記述に注意を促す。聖書中 の一文、「ギブオン人たちはイスラエル人ではなく、アモリ人の生き残りである」、これに タルムードは註をつけ、「この文はギブオン人がイスラエルの信徒団から排除されたこと を示唆している」と解説した。他の個所の註も含めタルムードは、ギブオン人が顕わにし た復讐の精神はイスラエルの共同体にふさわしくなかったため、彼らは追放されたと考え ているのである33。 イスラエルの一員であるためには三つの徴signesがあるとレヴィナスは解説する。謙虚 さhumilité、正義justice、そして無償の善さbonté gratuiteである。厳格な正義は、たとえ謙 虚さと無償の善さを伴っていても、十分ではない、正義それ自体がすでに善さと一体化し ていなければならない、とレヴィナスは言う。この正義と善さの混合物こそラハミームと いうヘブライ語が示しているものであり、不完全ながら憐みpitiéという訳語が当てられて
いるものである。ギブオン人にはこの憐みが欠けていた。それゆえに追放されたのである (QLT 62-63)。 被害者側の行動のあり方を問うこの視点を、先ほどいくつか挙げた赦しについての考察 に重ね合わせてみよう。バビロニアに去ったラヴについての逸話では、加害の自覚は困難 であり、それが赦しの困難さの原因でもあった。加害者の攻撃性はその無意識にあり、誰 もが、いつどこで誰に対してどのような害を引き起こすのか分からないのである。という ことは、明確に加害者と分かる者だけでなくあらゆる人が、被害者も含めて、加害者にな りうるはずであり、それは過去に行ったことに限らず未来の行為も含まれる。ギブオン人 は被害者側であり、自らの正当な権利として、被った害と同等の償いを求めたはずだった が、その同等性、等しさの要求そのものがすでに過剰であり、正当性について支持を得ら れない結果を招いた。これはどのような行動においても自らが加害者になる可能性がある ことに無自覚だったことが原因ではないだろうか。この等しさの要求が招く過剰さを是正 するのが、逆方向からの過剰である無償の善さなのである。 6.『全体性と無限』における赦しとの関係 ここでタルムード講演における今までの議論を『全体性と無限』の哲学に接続してみた い。たとえ赦しを乞われる被害者側であるとしても必要とされる無償の「善さ」とは、『全 体性と無限』において繰り返し、他人の他性との関係を表す言葉として使われていた。 無限なもの、超越的なもの、〈異邦人〉について思考することはそれゆえ対象について 思考することではない。しかし対象の輪郭を持たないものを思考することは、実は思 考すること以上のこと、思考するより善きことmieuxなのである。(TI 41) 他人との関係の分析を通じて、自我とは根底的に異なる他性との関係はどのようなものか 探求しようとする『全体性と無限』において、〈他者〉は無限なもの、超越的なもの、〈異邦人〉 とも言い換えられ、それとの関係は「善きこと」「完全に利害を脱した欲望、すなわち善さ Désir parfaitement désintéressé ―bonté」(TI 42)なのである。またこのような、観念される ものが観念を超え出ていき、思考の容量をあふれ出すような観念が、思考のうちで現前す ることが、プラトンに依拠して「翼をもった思考pensée ailée」「狂気délire」34(TI 41)とも
表現されていた。 こうした〈他者〉の現出は作品の次元を超え出ていく。第三節で述べた通り、人は大抵の 場合、作品の連鎖として捉えられる。「だれ」という問いは、その人の職業や性別、人間関 係や容姿など「なに」として答えられ、つまり作品の次元において「理解comprendre」され、 さらにもろもろの作品が統合される意味の体系(「歴史」がその典型である)に関係づけて 理解されるのである。この次元において現出はそれ自体として捉えられることはない。し
かし「善さ」という言葉で語られる超越的な関係はこの「理解」に収まりきらない〈他人〉 を迎え入れ、そうすることで作品の連関を問いに付し、作品のなかに捕らわれていた自己 を解放して自己自身へと立ち帰らせるのである。この「善さ」、自己へ立ち帰り、作品の網 の目から距離を取ることを確実にするのが、第三節で述べたように、『全体性と無限』で語 られた「赦し」という事態であり、自己自身に立ち帰ろうとする自我は、この赦しを「待ち 望む」ものとして考えられている。 そして「赦しを待ち望む」という仕方で他人との関係(=善さ)を結ぶところに、『全体 性と無限』での正義論が構成されるのである。作品の次元の理解に収まりきらない〈他人〉 を迎え入れることで作品の連関が問いただされること、それは他人に正しく応答するよう 要請されることである35。〈他人〉との非対称的な関係が正義を要請し、等しさを要請して いる36。ここで考えられている正義とは、相互性の次元の上に最初から位置して権利を主 張するようなものではない。 このような正義論が、ギブオン人の物語に対してレヴィナスが示した「善さと一体化し た正義」と共鳴し合うことは明らかだろう。「正義と一体的」であるべきと考えられている 善さとは、自らのあらゆる行為について赦しを待ち望む態度であり37、既存の規範やルー ルに従ったつもりでも加害者になる可能性があることを自覚すること、そして自分の言動 をとおして、規範やルールが支えられたり更新されたりすることを知ることなのである。 このような善さと一体化してはじめて正義は正義たりえる。 以上のように『全体性と無限』の「赦し」、特に第三部の「赦しを待つ主体」は、タルムー ド講話と重ね合わせることで、より良く理解することができる。レヴィナス哲学において 語られた「赦し」は特定の過去の過ちに関する赦しではないために、その意味するところ を理解するのは難しいが、特定の行為に限らない―過去に為された行為だけでなく未来 も含め―あらゆる行為について、赦しを待ち望む主体のあり方が語られているのだと考 えられる。赦しの概念はここでは拡大されていると解するべきである。 そしてこの議論が、『全体性と無限』第四部における「絶対的若さ」「再開」の議論に引き 継がれ、主体の「復活」が論じられていくことになる38。 7.ジャンケレヴィッチとの類似と相違からみえるレヴィナスの赦しとは 最後に、最初に述べたジャンケレヴィッチの赦し論との比較を簡単に述べて本稿を終 わりたい。両者の類似点としてすぐに理解されるのは、その誇張的思考であり、過剰さで ある。両者とも通常の理解の枠組みによって「理解comprendre」することを超えたところ で思考しようとしている。ジャンケレヴィッチにおいては「合理的理解を超えて、私心な くdésintéressé」赦すことであり、レヴィナスにおいては「利害を脱してdésintéressé〈他人〉 に向かう」という仕方で赦しを待ち望むことである。このような思考は相互性の倫理の 領域に属さない、非対称的な関係を示しており、「気のふれた」「狂気」の思考とも呼ばれ
ている。しかしそれは単なる非合理主義でなく、赦す者と赦される者双方の「再生・再開 recommencement」を目指しているのである。 ジャンケレヴィッチの特徴のもう一つの要素、「赦しを乞うことが赦しの条件である」に 関してはどうか。これについてもレヴィナスは、赦しには被害者の善意と加害者の自覚と いう二つの条件が必要だと述べて、ジャンケレヴィッチと態度を共有している。 しかし他方で、両者には違いがある。ジャンケレヴィッチは我々が素朴に「赦し」と考え ることに即し、「特定の過去の過ち」について赦す側の赦しを問題にした。レヴィナスの場 合はこれを逆の側、赦される側から探求し、また特定の行為に限らずあらゆることがらに 関して「赦しを待ち望む」というあり方に、人間の人間性をみたのである。『全体性と無限』 における「赦し」の言葉は短く断片的ではあるが、レヴィナス哲学全体に敷衍して受け取 られるべき重要な概念である。 最後にもう一つ、両者の違いを挙げなければならない。レヴィナスにおいては、赦しを 待ち望むことは作品の次元が問いただされることを通して正義の問題を構成していた。そ れに対してジャンケレヴィッチは、赦しとは「正義それ自体を断念すること」であり、「正 義が我々に示した方向に背を向けること」39であると述べて、赦すことと正しくあること は両立しないと考えている40。この最後の点については、レヴィナスの正義を考える上で も興味深い問題だが、しかし本稿で取り上げてきた問題の範囲を超えているため、また稿 を改めて検討しなければならない。 註 1 註25を参照。 2 赦しの言葉は初期から晩年まで使用されているため、その全てを検討することはできない。本稿 では①『全体性と無限』を中心とする哲学とタルムード講演の関係、②否定的な1950年代の著作 と他との関係、に焦点を絞った。 3 Derrida[1999]. 4 Jankélévitch(1986). 5 Jankélévitch(1967). 6 以下の記述は『赦し』の他、この著作の下敷きになった1963年の発表「赦しというテーマへの序論」 (Jankélévitch[1963])を基にしている。この発表は、後に触れるレヴィナスのタルムード講話と同 じ場で行われた。 7 Jankélévitch(1967) p.10. 8 このまとめ方は、Zarka(2014) pp.435, 440を参照した。 9 Cf. Jankélévitch [1963] p.253. 10 Cf. Jankélévitch(1967)p.203. 11 Ibid., p.178. 12 Ibid., p.194. 13 Cf. Ibid., p.204.
14 Cf. Zarka(2014)p.445. 15 ザルカは、誇張的倫理は地上に生きる人間の条件の試練なのであって、決して人間の条件を無視 するものではない、という点を強調している。 16 このような立場を取るものとして、ザルカの他、奥森(2015)も参照。 17 他人、〈他人〉、〈他者〉、他性の使い分けについては本節中の文章を参照。 18 Cf. TI 250-257. 筆者は以前この問題について論じたことがある。冠木(2008)を参照。 19 Cf. Allers(2010) pp. 28-31. 20 このような再開や復活は、単に古い自己から新しい自己へと一直線に繋がるわけではなく、無数 の未来を有しており、それゆえに多産性なのだ、と言われている(TI 312)。これについてはまた 別の分析を要するが、本稿で触れることはできない。 21 例えば「無限の赦しの可能性は、無限の悪へと導く」(「聖書に反抗するシモーヌ・ヴェーユ」DL 185)。 22 同様の解釈をとるものとして、Ponzio(2007) pp.37-48を参照。この論文はレヴィナスの思想を「女 性的な他人」と「第三者としての他人」の二つの次元に分け、議論している。「第三者としての他 人」という整理の仕方は『全体性と無限』においてレヴィナスが「第三者は他人の目の中で私をみ つめている」( TI 234)と述べていることからも、妥当性がないわけではないし、二つの次元の二 者択一ではなくつながりを強く主張している点については賛成したい。 23 「女性とは内省(集約)の条件であり、家という内部性の、住まうことの条件である」(TI 166)。「女 性」とは何なのか、なぜ「女性」なのかについては論争があるが、ここでは立ち入らない。この問 題について説得力のある解釈を展開している、小手川(2015)pp.106-117を参照。 24 「(女性的な他性が)現前する慎み深さには、他人との超越的な関係一切の可能性が孕まれている。」 (TI 166) 25 ユダヤ教の口頭伝承を書き起こしたタルムードに関するレヴィナスの読解をどのように読むかに ついて立場は様々あるが、本稿ではヘルツォークとともに、ユダヤ教のテキストというより、哲 学的著作において行われた考察を特殊な状況設定において同様に行なったものと解釈している。 Cf. Herzog(2014), Mole(2011)pp.253-4, 267. 26 ラヴRavはラビRabbiと同様、律法学者や宗教指導者を指す称号。 27 この物語を詳細に検討しレヴィナスの哲学と結びつけて考察したものとして、Mole(2011)を参 照。ただし『全体性と無限』における正義を『存在するとは別の仕方であるいは存在の彼方』に比 べて限定された不完全なものとみなし、ギブオン人の要求をそのまま受け入れたダビデの態度を それに重ね合わせているのは、『全体性と無限』の正義理解として適切ではない。 28 聖書については新共同訳(日本聖書協会)を参照し、登場人物の名前はこれに従った。
29 Epstein ed.(1984)78b-79a.「他人に対して」の中で58b-59aと記載されているのは誤記である。 30 『申命記』24 : 16「父は子のゆえに死に定められず、子は父のゆえに死に定められない。」 31 『申命記』21 : 23「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるなら ば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。」 32 『出エジプト記』21 : 22-25、『レビ記』24 : 19-21、『申命記』19 : 16-21など。 33 タルムードの記述を受けてレヴィナスは、ダビデがギブオン人をアモリ人のもとへ追放したのだ ろうと推測している。聖書中の一文は短すぎるため、ギブオン人がイスラエルの共同体から追放 されたと読み取るのは難しいが、タルムードは次のように考えている。ギブオン人は「薪を集め
る者、水をくむ者」とされたため、もともとイスラエルの信徒団の一部ではなかった(『申命記』 29:10)。しかしこれはその世代に限った話であった。それが『ヨシュア記』9:27において「主の 祭壇が続く限り」排除され、『サムエル記下』21:2に至ってついに、あらゆる世代が排除されると 規定されたのである。Cf. Epstein ed. (1984). 34 ここでも狂気は非合理主義と区別されている。「しかしここで狂気は非合理主義的意味をもつわ けではない。」(TI 41) 35 『全体性と無限』の第三者論に基づいた正義論を解説した優れた論考として参照、小手川(2015) 第8章。 36 「顔をこのように迎え入れることにおいて、平等は創設される」(TI 236) 37 ギブオン人に欠けていると指摘した「善さ」に関してレヴィナスは、「赦し」という言葉を使用し ているわけではないが、「善さ」という言葉を媒介にして、『全体性と無限』の「赦しを待ち望む」 あり方と重ね合わせることは十分可能であるだろう。 38 筆者はレヴィナスの作品論と「再開」に関わる多産性の議論を強く関連づけて理解しているが、 本稿では十分に論じることができなかった。これについては註20と同様、別稿で論じたい。 39 Jankélévitch(1967)pp.156-7, 198.
40 『赦し』を英訳したAndrew Kelleyの解説も参照。Cf. Jankélévitch(2005)XXV.
参考文献
レヴィナスの著作については本文および註において、以下の略記号を使用した。 Levinas, Emmanuel. (TI): Totalité et infini, 1961, Livre de Poche.
― (QLT): Quatre lectures talmudiques, Minuit, 1968. ― (DL): Difficile liberté, Albin Michel, 1976. ― (EN): Entre nous, Grasset, 1991.
その他の文献
Allers, Christopher R. “Undoing What Has Been Done: Arendt and Levinas on Forgiveness”, in Forgiveness in
Perspective, C.R.Allers and M.Smit (eds.), Rodopi B. V., 2010, pp. 19-42.
Derrida, Jacques. “Le Siècle et le pardon” [1999], in Foi et savoir, Seuil, 2001. ―「世紀と赦し」鵜飼哲訳『現代思想』2000年11月号、青土社、2000年。
Jankélévitch, Vladimir. “Introduction au thème du pardon” [1963], in La Conscience juive face à l’histoire : le
pardon, 1965, pp.247-261.
― Le Pardon, Aubier-Montaigne, 1967.
― “Pardonner?” [1971], in L’imprescriptible, Seuil, 1986. ― Forgiveness, Andrew Kelley trans., University of Chicago, 2005.
Herzog, Annabel. “Levinas on the Social: Guilt and the City”, Theory, Culture, and Society, published online 3 April 2014, pp.1-17.
Mole, Gary D. “Cruel Justice, Responsibility, and Forgiveness: On Levinas’s Reading of the Gibeonites”,
Modern Judaism 31, 3 (Oct 2011): pp.253-271.
Ponzio, Julia. “Politics Not Left to Itself: Recognition and Forgiveness in Levinas’s Philosophy”, in Levinas,
Zarka, Yves-Charles. “Le Pardon de l’impardonnable. Derrida en question”, Archives de Philosophie, 2014 /3 (Tome77), pp.435-447.
Epstein, Rabbi Dr I. ed., I.W.Slotki trans. Yebamoth (Hebrew – English edition of the Babylonian Talmud), London: Soncino Press, 1984.
Warren, Nicolas. “L’impardonnable chez Jankélévitch”, Archives de Philosophie, 2014/3 (Tome77), pp.421-433. 奥森亜紀子「『赦し』とは何か:無条件的な赦しは必要なのか」『21世紀倫理創成研究』8、p66-83、 2015年3月。 冠木敦子「法と他者―レヴィナスにおける『エコノミー』」『岩波講座 哲学06 モラル /行為の哲学』 岩波書店、2008年。 小手川正二郎『甦るレヴィナス』水声社、2015年。 新共同訳『聖書』日本聖書協会、1987年。