マルクス『
経済学批判要綱』における「
資本の回転
」
について(
1
)
On the Turnover of Capital in the "Grundrisse" by Marx (1)
は じめに 周知の よ うに、マル クスが 「資太の流通過程」 をは じめて太格的に考究 したのは1857年 8月 23 日か ら1858年 6月初旬 までに書かれた 「7冊 のノ ー H か らなるF経済学批判要綱 』においてであ ったが、そ こにおいてマル クスは 「資本の流通過 程」を 「序説」
、
「
(
Ⅱ)貨弊にかんす る章」に つづいて展開 された 「〔
Ⅲ⊃資本にかんす る章」
のなかの「
⊂第一篇 - 資本の生産過程j
J
と「
亡第 三篇 - 果実を もた らす もの としての資本。剰余 価値の利潤への転化IJ
との中間の「
(第二篇コ」
として体系的に位置づけ展開 していたのであ った。 そ してその理論 内容は、 まず流通過程を生産過程 に対す る補足的媒介過程 として、資本の生産物 と してのWb
G'-の実現過程 として とらえ、 しか も その流通過程は同時に生産過程での価値増殖過程 に対 して 「価値喪失過程」であると把捉 した うえ で、流通時間-Oにす ることが資太の もつ本性で あるとす る視点か ら 「流通費用」論を展開 し、次 いで これ とは異なるところの視点、すなわち生産 過程を包摂 した資本の措定す る流通 としての 「資 本の流通」 を展開す る視点に もとづ き、 「流通 と 生産 との統一」過程た る 「総過程」的流通過程把 捉を中心基軸にすえつつ 「資本の回転」の問題を 論 じていたのであった。 こ うした F要綱 』におけ る 「資本の流通過程」 の理論的枠組 の設定は、一面 でマル クスが古典派 経済学体系 の もつ理論的欠陥 - すなわち価値 と 価格、剰余価値 と利潤 とを混同 し区別 しえなか っ た とい うこと - を克服す る うえで、言いかえれ嶋
田 力 夫
Rikio Shimada
は労働生産過程を交換過程化 して とらえていた古 典派体系を根底か ら批判す る うえで必然的に経過 しなければならなか った もの と言 えるが、そのた め反面 で形態的視点を ともな った流通過程論 とし ての 「資本循環論」の欠如、 さらには 「流通費用」 概念 の未成熟等の理論的欠陥を も同時に露呈せざ えるをえなか った。 これ らの点については、すで に別稿で考察 した通 りである£1) ところで、われわれに と・つて残 された問題はこ うした文弧 のなかで展開 されているF要綱』の「資 本の流通過程」の後半の論理 としてある 「資本の 回転」の理論内容についてである。 この問題は大別す ると二 つの視点か ら、す なわ ち 「労働時間」 と 「流通時間」 とか らなる 「総過 程」的 「資本の回転」お よび 「総過程」の内部の 流通 としての 「大流通」的、 「小流通」的 「資太 の回転」 として具体的に説かれてい る。 そ こで、 こうした F要綱 』の 「資本の回転」論 がいかなる理論内容 としてあるかをマル クスの叙 述 の順序を追いつつ明 らかに し、併せて F要綱 』 段階 におけ る 「資本の回転」論の もつ理論的意義 と限界 とを明らかに してお こ う。 (1) r要綱」の 「資本の流通過程」についてこれま で考察してきた拙稿を列挙しておけば以下の如く である。参照されたい。 ① マルクス 「経済学批判要綱」における 「プラ ン」 と 「資本の流通過程」(1)、(2)(r長野大学 紀要」第6号、1976年。第8号、1978年 ) ② マルクス F経済学批判要綱EJにおける 「流通 費用」について(r長野大学紀要」第10号 、 1979年 )③ マルクス 「経済学批判要綱」における 「固定 資本」 ・「流動資本」に関する一考察 (「長野 大学紀要」第21号、 1984年 ) (参 資本循環論の形成- 特にr経済学批判要綱」 から r資本論J第二部第-稿までを中心として - (山口重克 ・平林千牧編 rマルクス経済学 ・方法と理論J、時潮社、1984年所収 )
1
. 「総 過 程 」 的 「資 本 の 回転 」 F要綱 』における 「資本の回転」は、 これ まで もしば しは指摘 され て きているように、 「その展 開が流動資本 と固定資 本 とい う概念諸規定をいわ が 軸 』に して」(2) 究明されてきていると言 っ て よいのであるが、 しか しこうした 「固定資本」・
「流動資本」の概念諸規定の展開はその前提 と して 「冶過程」的 「資 本の回転」論が横たわ って いたのであ った。 そ こで、 まずわれまっれ も、マル クスがいかなる 理論的諸問題を解決す るために 「資本の回転」を 設定 していたかの経緯 を明らかに し、 「総過程」
的 「資本の回転」論 の理論的意義をみてお くこと に しよ う。 (2)水谷謙次 「「経済学批判要綱」における資本の 流通過程」下、 ( 「立教経済学研究。、第23巻4 号、 1970年1月 )19頁。 〔1) マル クスは ノー ト1
1
の20ページで 「とこ ろで本題に もどろ う」 (Gr.,S.512.訳,刀.564 頁) と言 って 「資太の回転」を論ず るにあた って 次の ように言 う。 「資本が通過 し、資 本の-通流(
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i
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nUml
a
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r) を形成す るところの諸局面は、概念的には貨幣 の生産諸条件への転化 をもっては じまる。 しか しなが らいまや ここでは、われわれは生成 しつ つある資本か らでは な くて、生成 した資本か ら 出発す るのであるか ら、資太は次の ような諸局 面を通過す る。 1)剰余価値の創造 または直接 的生産過程。それ の結果は生産物。 2)生産物 の市場-の持込み。生産物の商品-の転化。3) α)商品が通常の流通にはいること。商品の流 通。それの結果は、 貨幣-の転化。 これは通常 の流通の第- の契機 として現れ る。 β)貨幣の 生産諸条件-の再転化は、貨幣流通。通常の流 通では商品流通 と貨幣流通 とはつねに二つの異 な った主体に配分 されて現れ る。資本は まず商 品 として流通 し、次いで貨幣 として流通す る、 お よびその道。 4)生産過程の更新。 これは こ こでは本源的資本の再生産 として、 また剰余< 追加>資本(
S
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l
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l) の生産過程 とし て現れ る。
」 (Gr.,S.512- 3.訳, Ⅲ.564頁) み られ るように、 まずマ/i,クスは資 本を 「通過 す るものとして、 きわめて流通形態 としてある点 を明示 し、その うえでその資本 の 「-通流」が ど の ような 「諸局面」に よって 「形成 され」ている ものであるかを明らかにす る。それは四つの局面 としてあると説 くのであるが、それを産業資本G -wt
令
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p- W′- G′の 形式で考 える な らば、 1)は--・p・・・=・、2)
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のα)は2
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のさらな る具体化、♂)はGIW
(
令m、 そ して 4) は 1) に戻 って 「再生産」 の局面 であ るとす る。そ して、 さらにマル クスは次の よ うに 続け る。 「資本の総生産過程は、本来的生産過程 と本 来的流通過程 とをふ くむ。それ らは資本の運動 の二大段落(
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)
を な し、 また この資 太の運動はこれ ら二つの過程の稔体性 として現 れ る。一面か らみれば労働時間、他面か らみれ ば流通時間である。そ して運動 の全体は、労働 時間 と流通時間 との統一 として、生産 と流通 と の統一 として現れ る。 この統一それ 自体が、運 動、過程であ る。資本は生産 と流通 とのこの よ うな過程通流的統一 として現れ るのであ り、そ の統一は、資本の生産過程の全体 とも、また資 本の一つの回転の、 自己 自身に復帰す る一つの 運動の一定の経過 ともみなす ことができるもの であるQJ(Gr.,S.513-4.訳,班.565頁) ここにおいてマル クスは先 きに四つの局面 とし てあ った資本の運動が 「二大段落」 として、すな わ ち 「本来的生産過程 と本来的流通過程」 として 集約 し うるもの とし、 したが って資太はこ うした 「生産 と流通」 との 「過程的統一」 として運動す るものであ るととらえ、 こ うした資本が 「自己自 身に復帰す る一つの運動」を資本 の 「一つの回転」 として規定す ることになる。 「資本の回転」 とは 「本来的生産過程 と本来的 流通過程」 を通過 して 「自己 自身 に復帰す る一つの運動」であるとしたマル クスに とっては さらに この 「復帰」の時間が問題であった。 この 「復帰」 の時間はいかなる諸条件に よって規制 されている ものととらえていただろ うか。 〔2〕 マル クスはまず資本の運動の 「二大段落」 の うちの 「本来的生産過程」の滞留時間について 考察 し、当初 (ノー ト
V
の17ペ ージ)それを次の よ うに考 えていたOすなわ ち、 「資本が生産過程の部面内にどの くらい滞留 す るかは、生産過程の技術学的諸条件にかか っ てお り、1この局面内での滞留は - その継続期 間は、生産の種類、生産の対象等 に応 じて異な ってい るにちがいない とはいえ - 、生産力の 発展 と直接に一致す る。 ここで継続期間 とは、 生産物を生産す るために必要な労働時間にはか ならない」(Gr.,S.416-417.釈 .Ⅱ.
453京) と。 つま り、 「生産物を生産す るために必要な労働 時間」 と生産過程の 「継続期間」 とを一致 した も の と考 えていたのであ った。 しか しのちに (ノー ト1
1
の14ページ) 、 「生産過程の連続性 と労働過 程の連続性 との不一致」を考察す ることを通 じて、 こ うした当初 「一致」するものとした考え方が 「ま ちがいだ」(Gr.,S.417.訳,Ⅱ.
453貢)と自ら訂正 す ることになった。そ して、 「復帰の相違」につ いて改めて次の よ うに言 う。 「復帰 (return)の相違は、それが直接的生 産過程 と一致す る流通過程の局面に依存す るか ぎ りでは、たんに対象を完成す るために必要な 労働時間の長短 に依存す る (た とえば運河建設 等) だけでな く、ある職の産業部門 - 農業で は、労働 の本性その ものに よってあたえられた 作業 の中断に依存す るのであるが、その中断の さい、一方では資本が遊休 し、他方では労働が 休止す る。A.ス ミスの例証では、小麦は1年 かか る収穫物 (crop)であ り、雄牛は5年かか る収穫物である。だか ら前者には1年だけの労 働が、後者には5年 の労働が使用 されている。 た とえは放牧場で成長す る家畜についや され る 労働 は少ない。他方に農業 自体で も、た とえは 冬のあいだだけ使われ る労働は少ない。農業の 場合 (また程度 の大小はあ って も多数の他の生 産部門の場合 も)生産過程その ものの諸条件に よって労働時間の一定の中断、休止がお こなわ れ るのであるが、その労働時間は、過程 をさら に継続 し、ない しは完成す るためにある一定の 点 でふたたび新 しく開始 され なければならない のである。この場合生産過程の姓続性(Steitigkeit) は、労働過程の連続性 (Kontinuitat) と一致 す るものではない。 これが区別の-契機である」 「第二に、一般に生産物が完成 され るために は、その完成状態 (finished state) におかれ るためには、かな り長い時間を必要 とす る。労 働 の諸作業におけ る中断がおこなわれ るか どう かを度外視すれば、 これが生産過程の総継続期 間である.生産局面一般 の種 々の継続期間であ る。」 「第三 に。生産物が完成 されたのちに、た と えば葡萄酒の ように自然過程にゆだね られ るた めに、比較的僅少の労働 しか要 しない ところで、 かな り長い時間にわた って生産物が遊休 しなけ れ ばならないとい うことが、必要なこともある。 l(これは概念的には1とほぼ同 じ場合であろ う。). 「第四に、生産物が遠隔の市場に向け られた ものであるために、市場 に送 りとどけ るのにか な り長 い時間 《を必要 とす る・こともあろ う。 》 (これは概念的には Ⅰの場合 と一致す る。)第 五 に、資本が (その総再生産が)すべて復帰す るまでの時間の長短は、その時間が固定資太 と 流動資本 との割合に よって規定 されているか ぎ りでは、明 らかに直接的生産過程に、その払続 期 間に関連す るものではな くて、その規定を流 通か ら受け とるのである。総資本の再生産 の時 間は、流通をふ くむ総過程に よって規定 されて いる。
」(GrリS.496.訳,Ⅱ.
544- 545京)と。 み られ るように、資本の 「復帰の相違」をまず 「直接的生産過程」 と 「流通過程の局面」とが 「一 致す る」場合に生ず る 「生産過程の継続性」と「労 働過程の連続性」の 「不一致」、す なわ ち 「生産 過程 の中断」に関す る三つのケースについて明ら かに し、次いで 「遠隔地市場」を例 とす る 「流通 過程」
・
「流通時間」を考察対象に加え、そ して 最後 に、 「直接的生産過程」だけではな く 「流通 をふ くむ総過程に よって規定 されている」
「総資 本の再生産時間」。す なわ ち 「資本が (その再生 産が)すべて復帰す るまでの時間」 こそが 「資本の回転」に とっての中心論題 とされねばな らない ことを明示す ることになる。 そ こでマル クスは さらにこの ような 「総過程」 的 「資本の回転」の 「二大段落」を形成す る 「生 産時間」 と 「流通時間」が資太の価値増殖に とっ て どの よ うな役割を演ず るものであるかを次の よ うに展開す る。すなわち、 「だがわれわれがすでに見た ように、そのも の としての流通で実現 され るところの、資本に よって創造 された捻価値 (再生産 された価値 と 新たに創造 された価値)は、 もっぱ ら生産過程 に よって規定 されているのであるか ら、ある一 定時間で創造 され うる諸価値の総額は、 この期 間内に生産過程が繰返 され るその回数に依存す る。だが生産過程の更新は流通時間に よって規 定 され るのであ り、この流通時間は流通の速度 にひ としい。流通が急速であればあるほ ど、流 通時間が短かければ短かいほ ど、同一資本は生 産過程をそれだけ頻繁に反復す ることがで きる。 したが って資本の諸回転か らなるある一定の循 環では、資太に よって創造 された諸価値の (し たが って また剰余価値の - なぜな ら資本は必 要労働をつねに剰余労働に とって必要 な労働 と してだけ措定す るのであるか ら)総額は、労働 時間に正比例 し、そ して流通時間に逆比例す る。 ある一定の循環では、捻価値 (したが って また 産 出された新 たな剰余価値の総額)は、労働時 間に資太の回転数を乗 じた ものにイ コールであ る。あるいは、資本に よって産出された剰余価 値は、 もはや単純に、資本に より生産過程で領 有 された剰余労働に よってではな くて、生産過 程の係数、す なわ ちあるあたえ られた期間に生 産過程が何回反復 され るかをあ らわす数、に よ って規定 された もの として現れ る。だが この係 数は、資本が1回転に必要 とす る流通時間に よ って規定 され ている。 したが って価値 (剰余価 値)の総額は1回転で産 出された価値にある一 定期間内の回転の数を乗 じた ものに よって規定 されている。資本の1回転 -生産時間 +流通時 間である。流通時間があたえ られた もの として 前提 され るな らは、回転が必要 とす る総時間は 生産時間に依存す る。生産時間が 《あたえ られ た もの として 》前提 され るな らは、回転の継続 時間は流通時間に依存す る。だか ら流通時間は、 それがあるあたえられた期間におけ る生産時間 の総量を規定す るか ぎ りでは、 《すなわ ち ≫あ るあたえられた時期において生産過程の反復、 生産過程 の更新が流通時間に依存す るか ぎ りで は、生産的契機でさえあるのであ り、あるいは む しろ生産の限界 として現れ る。流通時間が労 働時間に とっての、価値創造に とっての規定的 -契機 となるとい うことは、資本の本性であ り、 資本の うえに うちたて られた生産 の本性である。 それ とともに労働時間の 自主性は否定 され、 ま た生産過程それ 自体は交換に よって規定 された もの として措定 され、その結果直接的生産にお け る社会的関連 とこの関連-の社会的依存性は 物質的契校 としてはか りでな く、経済的契機 と して、形態規定 として措定 され る。流通の最大 限 - 流通に よる生産過程の更新 の限界 - は、 明 らかに1回転期間中の生産時間 の継続期間に よって規定 されている.J(Gr.,S.520- 521.訳,
Ⅱ.
573-574貢)。 ここでマル クスは価値増殖過程た る 「直接的生 産過程」 と価値減少過程た るWL G′の 「本来的流 通過程」の統一 としての 「総過程」的 「資本の回 転」において、言いかえれば資本の「復帰の時間」、 「捻資本の再生産 の時間」において 「労働時間」
あるいは 「生産時間」は価値増殖時間をなすのに 対 して 「流通時間」は価値減少時問 をなす もので あるがゆえに、後者の 「流通時間」は前者の 「限 界」をなす もの として論 じることにな ってい る。 すなわち、 「資本に よって創造 された捻価値」は 「もっぱ ら生産過程」において 「再生産 され」、 「新たに創造 された」 ものであ り、流通過程は何 ん ら価値お よび剰余価値の 「創造」 にかかわ るも のではないので、 「資本に よって創造 された諸価 値」、 「したが ってまた剰余価値」 の 「総額」は 「労働時間に正比例 し、そ して流通時間に逆比例 す る」 もの ととらえ、 さらには 「流通時間があた えられた もの として前提 され るな らは、回転が必 要 とす る総時間は生産時間に依存す る。生産時間 が 《あたえ られた もの として 》前提 され るな らは、 回転の継続時問は流通時間に依存す る」 もの とし、 「資太の回転」の速度を早め るために価値お よび 剰余価値が創造 されない 「流通時間が短かければ短 か いほ ど」 、 また そ の 「流通 時 間」 が Oで あれ は資 本 に とって最 も有利 であ る との考 え方 を強 く 提 示 す る こ とにな って い る。 した が って 、 ここでは、生産 と 「流通 をふ くむ 総 過程 」 的流 通 過程 が資 本 の生 産 過 程 の 「制限」 をな し、価値 お よび剰余価 値 を創 造 す る 「労働時 間」 あ るいは 「生産 時間」 も価 値 お よび剰 余価 値 を創 造 しない 「流通時 間」 と同様 に 「価 値創造 の 規定 的- 契機 」 をな し、 前者 も後 者 も時 間 と して ほ総 体 と して価 値増 殖 の 「制限」 を なす もの と し て あ る、 とい うところ まで理論 的 に到 達 しては い な い。折 角一 面 で、 あ る物 を生産 す るに要するr労 働時 間」 とあ る物 を生産す るに要 す る 「生産期 間」 との 「不 一致 」 につ いて理 論的 に と らえ なが ら、 他面 で、上 述 の よ うな理 論 的欠 陥 を露 呈 せ ざ るを えなか った の は、や は りこの F要綱 』段階 におけ る 「資 本 の流 通過程 」 の基 本的 な理 論 的枠組 、す なわ ち、 「価 値喪失」過程 た るWL G′の実 現論 的 流 通 過程 把捉 が伏在 していた た め で あ る と考 え ら れ る
.
(3
)
(3)このような 「流通時間」を0にす ることが資本 の剰余価値創造が最大になるもの とす る考え方は 後のノー ト31- 33ページにもみ られ る。それを 摘記 しておけば次の如 くである。 「したがってすでにわれわれの知 るように、 資本が一定期間に産出す ることのできる剰余価 値は、一定期間に価値増殖過程が何回反復され うるか、あるいは資本が何回再生産 され うるか とい うことによって規定 されているが、 しか し この再生産の回数は、捻期間にたいしてではな くて、 この総時間マイナス流通時間にたいす る 生産局面の比率によって規定 されている。 した がって流通時間は、資本が自己を、 したがって また剰余価値を再生産する能力の止揚されてい る時間 として現れる。 したがって資本の生産性 - すなわち資本の剰余価値創造 - は、流通 時間に逆比例するのであって、それは、流通時 間が零 となるとき、最大限に達す るであろ う。 流通 とは、資本がその必然的な変態 - 資本の 生活過程 - のさまざまな概念的に規定 された 諸実検を経過することなのであるか ら、それは 資本に とって欠 くことのできない条件、資本自 体の本性によって措定 された条件である。こう した経過が時間を要す るか ぎ りでは、この時間 中、資本はその価値を増加す ることがで きない。 なぜならこのような経過は生産時間ではな く、 資本が生きた労働を領有 しない時間だか らであ る。 したがってこの流通時間は資本によって創 造 された価値をけっして増加す ることができな ■●●●●■●● いのであって、む しろ価値を産出しない時間を 措定す るだけであ り、 したがって流通時間は価 値増加にとっての制限 として現れ、 この制限は 労働時間に対す る流通時間の比率に正比例する。 この流通時間を価値創造時間に算入す ることは で きない、 というのは後者は価値に対象化され る労働問題だけだか らである。流通時間は価値 の生産費用には属さないし、 また資本の生産費 用にも属さない。だがそれは資本の自己再生産 を困難にす る条件である。資本が自己増殖する ために、すなわち生 きた労働を領有するために 兄いだす障害は、 - もちろん資本の価値増殖 (Verwertung)、資本の価値産出(Wertsetzen) のなんらの実践をも形成 しない。だか らここで 生産費用を素朴な意味にとることは滑倍 なこと である。さもなけれはわれわれは生産費用 と、 特殊な形態 として価値に対象化され る労働時間 か ら分鮭 しなければならない (利潤を剰余価値 か ら分離 しなければならないように )。だがそ の場合でさえ も、流通時間は賃金等 と同 じ意味 で資本の生産費用に属す るのではない。そ うで な くて、それは個別諸資本の相互計算のさいに 考慮 され る一つの項 目(item)なのであ る、 と い うのは諾資本は剰余価値をある一般的な比率 でおたがいに分配 しあ うか らである。
」 (Grリ S.550-551.釈,Ⅲ.
607-8頁) 〔3〕 ところで、以上 み て きた よ うに、 マル ク スは 「直接 的生産 過 程」 とWL G′の実 現過 程 とし て の 「本来 的流 通過程」 との統一 た る 「総 過 程」 的流通 過程 を提 示 し、それ を基低 に拾 えつ つ 「資 太 の回 転 」 の もつ理 論的意義 を明 らか に して いた ので あ るが、 そ してその資 本 の流通 速度 は も っぱ ら 「価 値喪 失 」過 程 た る 「流通 時 間」 に依 存 す る もの と して とらえ て いたので あ るが 、 こ うした考 察 のな か で マル クスは 「資本 の流通 過程 」 で 明 ら か に され るべ き課題 につ いて次 の よ うに も規 定 していたのであ った。 「流通過程で措定 されていることは、生産 を通 じての資本の価値増殖に とって、資本に よる労働 の搾取 (Exploitation) にとって、資本の貨幣-の転化が条件 として措定 されていることであ り、 あるいは また資本 と.資本 との交換が資本 と労働 と の交換お よびその反対の交換に とっての制限 とし て措定 されてい るとい うことである
。」
(Gr.,
S.444.訳,Ⅱ.
482貢) み られ るよ うに、資本の 「流通過程で措定 され ていること」は次の二つの点、すなわち一つは「生 産を通 じての資本の価値増殖に とって」 「資本の 貨幣-の転化」が 「条件」 として 「措定 されてい る」場合、 また三つ 目は 「資本 と資本 との交換」
が 「資本 と労働 との交換」に とって 「制限」 とし て 「措定 されている」場合 とであるとしている。 この二つの 「措定 されている」論点は当然のこと なが らF要綱 』の前半の論理 としての 「流通費用」 論 と後半の論理 としての 「資本の回転」論 とにそ れぞれ対応 しているもの と言 って よいのであるが、 ただ、後者の論点については理解 しがたい面を残 しているといわ ざるをえない。 とい うのは、そ も そ も 「資本の流通過程」が 「資本 と労働 との交換」 を明 らかにす る資本の生産過程 とは異な って、「多 数資本」 としての 「資本 と資太 との交換」の問題 を明 らかにす るもの とす ることに無理があ り、反 面、 「資本 と労働 との交換」を明 らかにす るもの とす ることもで きないか らである。ましてや、「資 本の回転」論が 「資本 と資本 との交換」を問題 と す るとい うことはで きないであろ う。 そ こでマル クスが この後者の論点、すなわち「資 本 と資本 との交換」が 「資本 と労働 との交換」に とって 「制限」 としてあるとした点について、 さ らにどの ように考えていたかをみてみ よ う。彼は 先 きの引用 した箇所 に引 き続 き、次の よ うに言 う。 「さてわれわれは、そのすべてが必要である ような特殊 な事業諸部門 (とい うことの うちに は次の点が しめされているだろ う。す なわち資 本がある事業部門か ら大量的に流出す る場合に は、その部門では生産物の供給が需要以下に落 ち、 したが って市場価格が自然価格以上 に騰貴 す るだろ うとい うこと。)におけ る多数の資太 を考えてみ よ うO」 「そ して一つの事業部門で、た とえは資本a が長期 にわた って減価の形態 に固着 していなけ ればな らない、すなわち資本が流通の種 々の局 面を経過す るのにはかのすべての事業諸部門 よ りも長い時間を要す るとしよ う。す るとこの資 本a
は、 自分が創造す ることので きた新価値が ほかの よ り少ない点を、あたか も同 じ価値を生 産す るために他に くらべて よ り多量の出費を し たかの ように、帯極的な損失 とみなすであろ う。 したが ってこの資本が同一 の利得率(Ratedes Gewinns)にあずか るためには、その生産物が にな う交換価値の割合はほかの諸資本 よりも高 い もの となるであろ う。だが事実上 (infact) それが現れ うるのは、その損失がほかの諸資本 に配分 され ることに よってだけである。 もLa が この生産物に、そのなかに客体化 された労働 よりも多 くの交換価値を要求す るときには、他 の諸資本がその生産物の現実的価値 よ りも少な い交換価値を受け とることに よってだけ、aほ この余計分 (Mehr)を受け とることがで きる。 この ことは、aの生産におけ る劣悪な諸条件が aと交換す るすべての資本家に よって比例分割 的に負担 され ること、その結果 ひ としい平均利 得 (ein gleicherDurchschnittsgewinn)が生 ず ることを意味す る。 しか し諸資本に よってあ い ともにつ くりだ された剰余価値絶額を とって み ると、総額はち エうど資本aの価値増殖がほ かの諸資本に くらべて少なか った分だけ減少 し ているであろ う。ただこの減少が もっぱ ら資本 aに帰属す ることな く、一般的損失 として、諸 賢太全体に よる比例分割的損失 として負担 され るだけなのである。それだか ら、労働の搾取以●●●● 外に、資本が一つの根源的 な (originell)、労 働 とは分離 された価値創造 の源泉をなす とい う 妄想 (た とえば ラムジーをみ よ)は どこっけい な ものはない。なぜなら、諸資太内部におけ る 剰余労働の配分は、個別資本が創造 した剰余労 働時間に比例 しておこなわれ るのではな く、諸 資本全体が創造 した鹿剰余労働時間に比例 して おこなわれ るか らであ り、 したが って伯B'rl資未 には、その資太に よる労働 力の特殊 な搾取か ら 直接説明で きるもの よりもよ り高い価値創造が 生 じうるのである。だが この一方における余計分は、他方におけ る不足分に よって補償 されな ければな らない。ほかな らぬ平均 とは、総 じて こ うした意味の ことである。」(Gr.,S.444- 5. 訳
.
Ⅱ
,483-4京) み られ るように、マル クスは 「多数の資本」の うちのあ る 「一つの事業部門」 としての 「資本a」
が 「ほか のすべての事業部門」 と比較 して 「流通 の種 々の局面を通過す るのに」「長 い時間を要す る」 もの とす る場合を想定 し、 こ うした 「資本の 回転」の長期化が価値規定に どの よ うな影響を及 ぼす ものであるかを追求 している。この場合、「資 本の回転」時間の長期 化に よる資本「a
の生産に おけ る劣悪な諸条件」は「a
と交換す るすべての 資本家に よって比例分割的に負担 され る」 ことに な り、 したが って 「諸資本内部におけ る剰余労働」 の利潤 としての 「配分」は 「個別資本が創造 した 剰余労働時間に比例」す るのではな く、 「諸資本 全体が創造 した総剰余労働時間に比例 してお こな われ る」 とい うことになる。それゆえ、 ラムジー Jの よ うに 「資本の回転」時間の長短 に よって 「労 働の搾取 以外に、資本が一つの根源的な、労働 と は分散 された価値創造の源泉」をなす とい う 「妄 想」が生 じることほ ど 「こっけいな ものはない」 と断裁す ることにな る.(4) すなわ ち、 ここに至 ってマル クスは、 「資本 と労働 との交換」を基礎 とし、それを 「制約」す るもの として展開 され る 「資本の流通過程」におけ る 「資本の回転」論が 直接的に価値規定に影響を及ぼす もの としてある のではな く、 「多数資本」の関係た る 「資本 と資 本 との交換」におけ る剰余価値の利潤 としての「分 配」のための一般的基準をなす もの としてとらえ ることになるのであ る。 そ して さらにマル クスは 「資本の回転」 と剰余 価値 の利潤 としての分配の関係について次の よう に続 ける。 「異 な った諸資本問の関係、す なわ ち諸資本 の競争が どの よ うに剰余価値を相互間に配分す るか とい う問題は、 この剰余価値の絶対量 とは なんの関係 もないことは明白であ る。だか ら、 次の よ うに推論す ることほ どはかげた ことはな い。す なわち、資本がその例外的 な流通時間を みずか ら補鎮す るのであるか ら、つ ま り相対的 な価値増殖不足分を積極的な価値増殖追加分 と して相殺勘定す るのであるか ら、いまや諸資本 を総括す ると、資本は無か らなに ものかを、負 か ら正を、負の剰余労働時間 または負の剰余価 値か ら正の剰余価値をつ くることがで きる。 し たが って他人の労働を領有す ることとはかかわ■●●● りのない価値創造の神秘的な源泉を もっている のであると。諸資本等が剰余価値に対す る比例 分割的な分け前を計算す る方法 - 《それは 》 諸資本が制作物のなかに生んだ剰余労働時間に よっているばか りでな く、 またその資本が資本●■●●●■●●●●■ として稼働 していた時間、すなわち遊休 して、 減価の局面 におかれていた時間に もよっている が - が、諸資本相互間に分配 され るべ き剰余 価値の給餌をいささか も変えるものではないこ とは言 うまで もない。 この総額その ものは、資 本aが遊休す ることな く剰余価値を創造 した と した場合の総括に くらべて総研が よ り小 さいと い うことに よって--・増大 しうるもので もない。 この遊休が資本a
に とって もまた補償 され るの は、それが特殊な生産部門の諸条件か ら必然的 に生 じた ものであるか ぎ りにおいてだけであ り、 したが って資本一般 (iiberhaupt)に関連 して は価値増殖の加重 として、資本の価値増殖一般●■●●●● の必然的な制限 として現れ るか ぎ りにおいてだ けであ る。」(Gr.,S.445-6.釈,
刀.
484貢) すなわ ち、 「資太の回転」の相違 として生ず る 「遊休」が剰余価値の利潤 としての 「比例分割的 配分」を通 して 「資太a
」に 「補償 され る」のは 次の よ うな場合に限 られ るとす る。つ ま り、 「資 本 と資本 との交換」 とい う 「多数資本」の関係が 「資本 と労働 との交換」の関係 としての 「価値増 殖」に とって 「加重」 となる場合、言 いかえれば 「資本の価値増殖一般」に とって 「多数資本」の 関係が 「必然的な制限 として」あ る場合 にのみ、 「遊休」が 「資本a
」に 「補佑」 され るもの とす るのである。 したが って、資本は 「負の剰余労働 時間 または負の剰余価値か ら正の剰余価値をつ く ることができる」 とか、 「他人の労働 を領有す る こととはかかわ りのない価値創造 の神秘的な源泉 を もっている」 とか考えることほ ど 「はかげた こ とはない」 とす るのである。 こうした一連の考察を通 じてマル クスは 「直接 的生産過程」 と 「本来的流通過程」 との統一た る「総 過 程」 的 「資 本 の 回 転 」が 「資 本 と資 本 との 交 換 」 と して の 「多数 資 本」 の 関 係 、す なわ ち剰 余 価 値 の利 潤 - の転化 一 一般 的 利 潤 率 の形成 一 を明 らか にす るた め の理 論 的前提 と して あ るこ と を不 十 分 な が ら も と らえ て いた と言 って よい で あ ろ う。 (4) ラムジーの理論的欠陥についてはさらにマル ク スは次の ように指摘 している。 「.)カ- ドーの労働時間に よる価値規定に関連 しての経済学者たちの絶対的な混乱は - 彼 自身 の展開の根本的欠陥 に根 ざした ものだが - 、 ラ ムジー氏の場合 きわめて明瞭に現れでて くる。彼 J●●●■●● は・-・・儲 資本の流通時間がその相対的剰余価値に、 すなわち一般的剰余価値に対す る諸資本の相対的 な分け前にお よぼす影響から、 「これは、資本が 労働 とはかかわ りな く価値を規制できること」(K 84.氏,43)、あるいは 「資本は労働 とはかかわ りのない価値の源泉であるとい うことを しめ して いる」 (同上、55)といったはか げた結論をひき だ し--ている。」 (Gr.,S.447-8.釈.Ⅶ, 486貢) ところで、 こうした マルクスの批判の対象 とさ れた ラムジーの見解は もともと リカー ドの労働価 値論の修正をめ ぐる問題に端を発 していた。すな わち、 リカー ドはその遺稿 「絶対価値 と相対価値」 において、彼のr経済学及び課税の原理..第1章 の第4・5節で展開 した価値修正論が不変の価値 尺度の設定に どの ように関連 して くるかを再検討 していたのであったが、その実校をな したのは、 「要綱」で も言及 され ているように、次の ような ラムジーの見解であ る。すなわち、 「固定資本の使用 に よって、価値は労働の分量 によってきまるとい う原理はかな りの程度 まで修 正 され る。 というのは、同一の労働量がついや さ れている二、三の商品 は、それ らが消費に供 され るまでにきわめて異な った期間を必要 とす るか ら である。 しか しなが らこの時間中資本はなんらの 収入を ももた らさないのであ るか ら、問題の業務 が、生産物が よりすみやかに使用 に供 され る他の 業務 と同程度のもうけ をあげ るためには、その商 品は、最後に市場- もた らされた とき、価値の点 で留保 されたあらゆ る利潤額だけ増加 され ること が必要であ る」 「このことは--いかに資本が労働 とはかかわ り な く価値を規制す るかを・-- しめ している」 (ラ ムジー、Ⅸ、84) こ うした ラムジ-の見解 に対 して、マル クス自 身は、先 きに もみた ように、 「ここではあたか も 流通時間は労働時間 とならんで - あるいはそれ と同一の段階で - 価値を生産す るかの ようであ る」(Gr.,S.訳.刀,612貢)と批判 したので あ ったが、それは ともか くとして、 リカー ドはこ うした ラムジ-の問題提起を受けたかたちで、「詣 商品が実際 に生産 され る諸事情の多様性」(
Ricardo's Works,Vol
.Ⅳ.
P.368)に よ って価値尺度の発見に困難をともな うことをブ ド ウ酒を例に して次の ように述べてい る。 「小えびはそれが生産 されたの と同 じ条件の も とで生産 されたすべての商品にたい して、す ぐれ た価値尺度 とな るであろ う。一方、布はそれ と同 じ条件の もとで生産 されたすべての商品にたいし て、 また ブ ドウ酒はそれ と同 じ条件 の もとで生産 されたすべての商品にたいして、す ぐれた価値尺 度になるであろ う。 しか し小えびは布やブ ドウ酒 にたい して価値の正確な尺度か らはほ ど遠 いし、 布は小えびやブ ドウ酒にたい して尺度でな く、 ま たブ ドウ酒は小えびや布にたいしては きわめて不 正確な尺度である」(Ricardo's Works,Vol.Ⅳ.
P.369)と。 リカー ドは死の直前 までこ うした不変の価値尺 度の追求を行 うこととなるのであ るが、そ してそ れは 「資本の流通過程」の理解を欠 くことによっ て空 しい努力に終 ることにな るのであ るが、この リカー ドの不変の価値尺度論の もつ理論的意義に ついては別稿を安 さざるをえない。なお、 この問 題に対す る最近の注 目すべ き文献をあげておけば 次の如 くである0時永淑 「1)カー ドr原理Jの生 成 とその労働価値論 との関連」 (法政大学 「経済 志林J第23巻、第3号、後 に r古典派経済学 と「資 本論」』法政大学出局、1982年、所収 )、千賀重 義 「リカー ドウ不変な価値尺度論の再認識」 (名 古屋大 「経済科学」第18巻、第4号)、桜井毅 「不 変の価値尺度の限界 - 遺稿 「絶対価値 と交換価 値.Jについての覚書- 」 (東京大学 r経済学論 集」第34巻、第1号 )、平林千牧 「リカー ドの労 働価値論 - 彼の絶対価値の性格 に関連 して - 」(法政大学 F経済志林J第46巻、第2・3合併号 )、 小黒佐和子 「リカー ドゥの労働価値説 一 不変の 価値尺度 との関連において
- 」(
平林千牧編r経 済学説史研究」時潮社、1982年、所収 )。参照さ れたい。 〔4〕 以上 みて きた よ うに、マル クスは F要綱 』 段階 において、 「資本の流通過程」 で 「措定 され てい る」 ことは次の よ うな ことであると考 えてい た。1858年3月11日の ラサール宛の手紙 のなかで 示 された 「資 太一般」の プラン、すなわ ち 「資 本 の生産過程」 ・ 「資本 の流通過程」 ・ 「両者の統 一 または資本 お よび利潤、利子 」 とい う三章構成 「プラン」 の うち、 「資本の生産過程」 で 「措定」 され てい ることは 「資本 と労働 の交換」であ り、 他面 「資 本お よび利潤、利子」で 「措定」 され て い ることは 「資本 と資本 との交換」 ・ 「多数資本」 の関係であ る、 これに対 して、 「資本 の流通過程」 で 「措定」 されてい るのは後者 に よる前者 の 「制 限」であ ると。そ して、 この 「制限」は具体的 に は次 の よ うな もの として とらえていた。す なわ ち まずWL G′の実現論的流通過程 の生産過程 に対す る 「制限」 として 「流通費用」論が説かれ、つ ま り 「価値喪失」過程た る 「流通時間」の価値増殖 過程 た る 「生産時間」に対す る 「制限」が説かれ 次 いで 「生産 と流通 の統一」た る 「冶過程」的流 通過程の生産過程 に対す る 「制限」 として、つ ま り 「生産時間」 と 「流通時間」か らな る 「総過程」 的 「資本の回転」が価値増殖過程た る 「資本の生 産過程」 を 「制限」す るもの として説 かれ ること にな ってい る。 もちろん、 ここで説かれている「流 通費用」概念 に して も、 さらには 「総過程」的 「貸 本の回転」 に して もF要綱 』段階におけ る 「資本 の流通過程」把捉の基太的な理論的枠組に制約 さ れ て理論的な欠陥は免れえなか ったのではあるが、 ただ両者が剰 余価値創造に対 してネガテ ィブな作 用を与 え るものであるとの考 え方は明確 に示 され た。 ところで、 「資本の回転」は、 もともと理論的 にみて、一面 で価値増殖過程た る資本の生産過程 に対 して 「流通費用」 と同様 にネガテ ィブな 「制 限」 をなす もの としてあ りなが ら、他面で利潤論 の一般的利潤率の形成にとっては剰余価値率および 資本 の構成 とともにその三要件 としてある。 また 同時 に、 「資本 と資本 との交換」が 「資本 と労働 との交換」 に とって 「制限」 として 「措定」す る 「資太の流通過程」におけ る 「資 本の回転」 は、 実 は、資本 の構成 に よって規制 され るもの として あ るとい うことも周知の ことであろ う。 したが って、マル クスが F要綱 』の ノー トⅣの 15ペ ージ以降で本格的に 「資本 の流通過程」 の研 究 に入 って まもな く、 しか し 「流通費用」 と 「資 本の回転」の研究に入 る以前の ノー トⅣの33-38 ペ ー ジの段階で、一般的利潤率の形成の考察 を行 ない、それ を 「資本の回転」に よることな く剰余 価値率 と資本の構成に よって説 き、 しか も 「利潤 に関す る学説は全部や っつけて しまった」(5) と 考 えたのは 「資本の回転」 の もつ上述の よ うな理 論的性格 に由来す るもの といえ るであろ う。 それ は ともか く、 F要綱 』段階 におけ るマル'9 スは、資本の構成 と異 な る価値増殖の 「制限」を なす 「資本の回転」が一般 的利潤率の形成 に とっ て どの よ うな関係にあ るもの として とらえていた か、言 いかえれば 「資本の回転」の もつ理 論的意 義 を どの程度 まで鮮明に しえていたかを さ らに明 らか に しなければな らない。 この点は、マル クス 自身 、 「総過程」的流通過程の内部の流通 として の 「大流通」的お よび 「小流通」的 「資本 の回転」
- 「固定資本 ・流動資本」か らな る 「資 本の回 転 」 - として展開 してい るので、その叙 述 を追 いつつ さらにみてお こ う。 (5) この点についてマルクスは、ノー トⅣの後半部 分 と推定される時点である1858年1月16日頃の エンゲルス宛の手紙のなかで次のように書き記し ているo 「- 君の健康がよくなったことは非常にう れ しい。僕自身は三週間まえからまた薬を飲み だして、やっと今日からやめたo夜の仕事を-一方ではレモン水を伴っただけだが他方ではぼ う大な量の煙草を伴った - や りすぎた,,とに か く、かな り進展 したoたとえは、これまであ ったような利潤に関する学説は全部やっつけて しまった」 (岡崎次郎訳 「マルクス-エンゲル ス資本論書簡J、国民文庫版(1)232貢 )とo ところで、マルクスが 「資本の流通過程」にお けるW'- G'の実現論的流通過程を前提 とする「流通費用」論および 「生産 と流通の統