永平寺と顕密仏教︵石井︶ 本日はご多用の中お集まりいただきまして、ありがとう ございます。また身に余るご紹介をいただき感謝申し上げ ます。 今日のこのタイトルと内容については、道元禅師の大遠 忌の記念論文集に書かせていただいたものを少しかみ砕い て お 話 し し よ う と 思 っ た こ と と、 じ つ は、 今 年 の 十 一 月 ︵ 実 際 は 二 〇 一 六 年 一 月 ︶ に、 道 元 禅 師 の 本 を 上 梓 す る こ とになっておりまして、そこでも少し語っている内容を前 倒しで宣伝をかねて組み込ませていただいた形となってい ます。よろしくお願いいたします。 さて、そのような意図で 「 永平寺と顕密仏教 」 というタ イトルを付けさせていただいたわけですが、この顕密仏教 というのは、日本史の中世仏教史の中では、いろいろと議 論になっていた、あるいはいまも議論になっている、その ような理論です。そして、同じ中世の時代につくり上げら れた永平寺が、顕密仏教という、中世史的観点から見て、 どのような位置づけになるのかというのが、今回の私のお 話の中心ということになります。その 「 顕密仏教 」 が、ど のような形で、道元禅師の教団運営に現れてくるのかとい うことで、いろいろな道元禅師の著述から、教団運営にか かわる要素を拾い出して組み立てていくという手順でお話 を進めさせていただきます。 【研究会】
永平寺と顕密仏教
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『
知事清規
』
にみる道元禅師の僧団運営││
石
井
清
純
永平寺と顕密仏教︵石井︶ 一 『 永平広録 』 に見る道元禅師の説示意識 まず、資料の︻一︼ 「『 永平広録 』 に見る道元禅師の説示 意 識 」 で す が︵ 論 末 の 資 料 参 照 ︶、 こ れ を 最 初 に 指 摘 さ れ て論文として発表されたのは、伊藤秀憲先生です。 その論文では、道元禅師の著述の中心となっている 『 正 法眼蔵 』 は、じつは道元禅師の、日本における教化活動の 前半、永平寺入寺前に集中していて、永平寺に入られた後 は、 『 永 平 広 録 』 に 収 録 さ れ る 上 堂 と い う 形 式 の 説 法 が 中 心となっていくということが指摘されています。つまり、 道 元 禅 師 の 著 述 と い う と、 『 正 法 眼 蔵 』 と い う こ と に な り ますが、それと併せて上堂語というものが存在していると いうことです。 (一)知事請謝の上堂 そ こ に 注 目 い た し ま し て、 永 平 寺 へ 入 院 し た 寛 元 二 年 ︵ 一 二 四 四 ︶ の 後、 寛 元 三 年・ 四 年 と、 宝 治 元 年︵ 一 二 四 七︶は鎌倉に行っておられたということもあって抜けてお りますが、それ以外の年には、必ず、典座、監寺、知客な ど、 叢 林 の 運 営 に あ た る い ろ い ろ な 役 職 の 任 免 に あ た っ て、定期的に上堂が行われているのです。 その前の興聖寺ではどうだったのかというと、上堂は実 施されていたのですが、役職者の任免の説法は、上堂とし てではなく、直歳に個人的に与えられた法語だけです。慧 運という方です。 上堂は須弥壇の上で、正式な行事の一環として行われる ものです。それに対して、法語は個人的に与えられるもの なので、そのようなかたちで、役職者へのねぎらいの言葉 にも温度差が見られるということを、最初に指摘をさせて いただきます。 資料に戻りまして、 最後の◆のところですが、 永平寺にお いては、知事・頭首交替の上堂が、清規に則って行われて いく。つまり、これが道元禅師の叢林運営の確立に対する 意識ということになります。興聖寺においてそれが行われ ていないのは、それがまだできない状況にあったのではな いかということなのです。これも伊藤先生のご指摘です。 例 え ば、 『 正 法 眼 蔵 随 聞 記 』 の 場 合、 い ろ い ろ な 人 が 集 まり、道元禅師の新しい教え、中国から持ち帰ってきた禅
永平寺と顕密仏教︵石井︶ を理解するための基礎知識の度合いに、あまりにもばらつ きがあったので、その平準化を図るために、時宜に応じて 基礎的な知識を伝える活動をせざるを得なかったというこ とになります。それが初期の興聖寺時代ということになり ます。それに対して、永平寺では一歩進んで、叢林運営に あたって、中国伝来の規矩に則った定期的な行事を重視し ていくという流れがあるのではないかということです。そ の 流 れ を 示 し た の が、 資 料 の︻ 一 ︼の 一 つ 目 の ○、 「 知 事 請 謝の上堂 」 で示したところとなっています。 (二)叢林機構の初伝の主張知事請謝の上堂 その次の○ 「 叢林機構の初伝 」 は、同じ上堂の中で、道 元禅師が、ご自身が最初に日本に伝えたことを主張する内 容を持つものの一覧です。①の巻二 −一二八というと、永 平 寺 で 上 堂 が 始 ま っ て す ぐ に な り ま す。 最 初 の 頃 の 上 堂 は、 「 晩 間 上 堂 」 と さ れ て い ま す か ら、 た ぶ ん、 法 堂 の な い時期に行われていたものではないかと推測されます。午 前中ではなく、夕刻に晩参の形で行われていた説法がここ に 収 録 さ れ、 そ の 「 晩 参 」 と い う 説 法 の 形 態 と い う も の を、私は最初に伝えたのだ、と主張されているものと考え られるのです。それが、資料に、 「 今大仏既為天童之子、亦 行晩参、是則我朝之最初也。 」 とあるように、 「 日本で最初 にこの晩参を行ったのは、この私である。天童如浄禅師の 後を継いで行ったのは私である 」 というお示しなのです。 ② は、 同 じ よ う に、 「 典 座 之 法 」、 典 座 と い う も の の 作 法・在り方を、日本に伝えたのが最初であると主張するも の で す。 た だ こ の 表 現 は 微 妙 な の で す ね。 「 典 座 」 そ の も の を 最 初 に 伝 え た と は 仰 っ て い な い。 な ぜ か と い う と、 ︽参考︾に挙げたように、道元禅師が、 『 典座教訓 』 におい て、 「 典 座 は す で に 建 仁 寺 に あ っ た 」 と 指 摘 さ れ る よ う に、 す で に そ の 職 名 は 存 在 し て い た か ら な の で す。 し か し、 そ れ は、 「 彼 寺 憖 置 比 職 」 と あ る よ う に、 建 仁 寺 に は、 典 座 の 名 前 は あ っ た け れ ど も、 た だ 名 前 だ け で あ っ て、 実 際 に は 行 わ れ て い な か っ た と い う こ と で、 そ の 教 え、方法、考え方というのを伝えたのは私である、という 主張となるわけです。これは寛元二年︵一二四四︶から始 まっているところですので、その時期、つまり永平寺に入 院されて以降に、これらのことが指摘され始めるのです。
永平寺と顕密仏教︵石井︶ ご 存 じ の よ う に、 道 元 禅 師 の、 「 典 座 は 大 事 だ 」 と い う 主張は、興聖寺における 『 典座教訓 』 に強く出ています。 興聖寺時代からそれは非常に重視し、それが必要であると いうことは、常々仰っていたのですが、永平寺に入ったと ころで、その教えを最初に伝えたのは私だということを主 張し始めるのです。そこに私は、道元禅師の意図を解明す る一つのポイントがあるのではないかと思っています。 同 じ よ う に 初 伝 の 主 張 で す が、 巻 四 −三 一 九 上 堂 で は 「 僧堂 」 です。③をご覧ください。 そ こ で は、 「 当 山 始 而 有 僧 堂、 是 日 本 国 始 聞 之、 始 見 之、始入之、始而坐之︵この永平寺には僧堂がある。日本 で最初にこれを聞き、創めてこれを見て、初めてこれに入 り、 初めてそこに坐ったのである︶ 」と述べておられます。 あ る い は ④ は、 上 堂 と い う 形 式 に つ い て、 「 日 本 国 人、 聞於上堂名最初、永平之伝也︵日本人が、上堂という名称 を 最 初 に 聞 い た の は、 私 が 伝 え た か ら で あ る ︶」 と い う こ とを仰っています。 このようにして、道元禅師は、永平寺に入ったところで 一つ一つ叢林の正式な行事について、それを最初に伝えた の は 私 で あ る と い う こ と を 主 張 さ れ る の で す が、 こ れ ら は、じつは興聖寺にもあったことなのです。興聖寺にも僧 堂がありました。典座ももちろん置かれていました。上堂 も 行 わ れ て い た こ と も、 『 永 平 広 録 』 巻 一 に 残 さ れ て い ま す。 た だ そ れ を、 「 最 初 の 伝 で あ る 」 と 主 張 さ れ た の が、 永平寺︵大仏寺︶が建立されて以降、あるいはそこで夏安 居が行われて以降ということになるわけです。 ⑤と⑥ですが、⑤は成道会です。これは臘八上堂、十二 月 八 日 の 成 道 会 で の 上 堂 で、 仏 生 会︵ 降 誕 会 ︶・ 涅 槃 会 は、それまでも行われていたけれども、成道会は誰も伝え て い な か っ た。 私 は そ れ を 初 め て 伝 え て、 い ま 二 〇 年 に なったと述べられています。 ⑥ も 同 じ よ う に、 「 巳 経 二 十 年 矣︵ 已 に 二 十 年 が 経 っ た ︶」 と い う 表 現 が あ り ま す。 こ ち ら は 「 小 参 」 で す。 先 ほど 「 晩参 」 があって、ここであらためて 「 小参 」 が取り 上げられているわけですが、それを伝えてから二十年経っ ていると言われる、これを帰国二十年後のこととすると、 建長二年︵一二五〇︶ということになります。 資 料 に は ◆ 印 で、 「 こ の 頃 に 十 二 巻 本 が 意 識 さ れ た か 」
永平寺と顕密仏教︵石井︶ と記しておきました。十二巻本の内容が意識され始めたの は、じつは寛元四年︵一二四六︶頃だと、私は仮説として 持っております。この年に、道元禅師は大仏寺の名前を永 平寺と改めています。その辺りから、この十二巻本 『 正法 眼蔵 』 の構想というものが、具体化していったのではない かと考えているのです。 今回は、十二巻本の成立に関する問題は主題ではないの で、あまり詳しくは資料に出しておりませんけれども、十 二巻本の中に見ることのできる内容は、じつは、いま紹介 している 『 永平広録 』 の上堂語にも、かなり頻繁に見受け られるのです。それをみると、永平寺における上堂と、十 二巻本とが大変強くリンクしているように感じてしかたが ない、そしてその理由を考えると、これは今日の結論に繋 がってくるのですが、この時期以降に、道元禅師が、将来 的に永平寺僧団というものを存続させたい、そのために残 すべき説示を何かを考え始めたからなのではないかと考え られるのです。 二 『 知 事 清 規 』 の 内 容 か ら 見 た、 道 元 禅 師 の 永 平 寺 運営方針 大仏寺建立以降の上堂で、純粋叢林確立の意識が示され るということになるということ。これは、すでに多くの研 究者によって指摘されていることですが、これが 『 永平広 録 』 に記録されている 「 上堂 」 そのものに示されていると いえます。いわゆる 「 五参上堂 」 は、禅宗のいろいろな説 法の形式の中で、最もフォーマルな説法となります。永平 寺における説法が、このフォーマルな 「 上堂 」 中心となっ ているということは、たとえば不定期の 『 正法眼蔵 』 など の説示とは違って、説法自体を叢林行事の一環として位置 づけようという意識が明確に出てきたということになるの ではないかと思われるのです。 そ の 前 提 に 立 っ て、 『 知 事 清 規 』 の 内 容 と い う も の を 見 て い き た い と 思 い ま す。 ご 存 じ の と お り、 『 知 事 清 規 』 は 寛 元 四 年︵ 一 二 四 六 ︶ 六 月 一 五 日、 道 元 禅 師 が 大 仏 寺 を 「 今 日 か ら 永 平 寺 と す る 」 と 明 確 に 示 さ れ た、 ま さ し く そ の日に示されたものです。
永平寺と顕密仏教︵石井︶ 永 平 寺 と 名 前 を 変 え た そ の 中 で、 『 知 事 清 規 』 が ど の よ う な 傾 向 を 持 っ て 示 さ れ た の か。 『 知 事 清 規 』 の 内 容 と い うのは、前半は、知事に任じられるものは修行の進んだ僧 侶であることを、祖師の例を取って証明するものとなって い ま す。 ま さ し く 『 典 座 教 訓 』 と 同 じ 流 れ で す。 『 典 座 教 訓 』 も、いろいろとあって、典座という仕事はただの雑用 ではなく、素晴らしい仏道修行であり、しかもそれをしっ かりと認識できるだけの徳を積んだ人が勤める役職である ということを、中国に渡って初めて知ったと、道元禅師は 仰 っ て い ま す。 『 知 事 清 規 』 で は、 ま さ し く 知 事 す べ て が 同じであるということを、祖師の例を取って示しているの です。 後 半 は、 『 禅 苑 清 規 』 巻 三 の 知 事 に 関 す る 記 述 を 丸 々 引 用し、それに対してご自分のコメントを付けていくという 内 容 に な っ て い ま す。 つ ま り ど う い う こ と か と 申 し ま す と、 『 知 事 清 規 』 後 半 は、 中 国 で 編 ま れ た 『 禅 苑 清 規 』 の 知事に関する記述に対しての、注釈書的な性格になってい るということです。そこで、なぜ道元禅師が改めて注釈を 付 け る の か と い う と こ ろ が 、一 つ ポ イ ン ト に な っ て き ま す 。 (一)監院 『 禅 苑 清 規 』 の 文 章 と、 『 知 事 清 規 』 の 道 元 禅 師 の 注 訳 で、どこに方向性の違いがあるのかということを見ていき ま す と、 ま ず︻ 二 ︼の ① に 示 し た 『 禅 苑 清 規 』 の 「 監 院 」 に 関 す る 記 述 で は、 「 監 院 の 一 職 は、 総 じ て 院 門 の 諸 事 を 領ず 」 となっています。そのお寺の中のさまざまな事務を 取り仕切ることです。全体の事務取締り、事務局長といっ た位置づけです。 そ の 中 で、 当 然 事 務 局 長 と し て、 「 も し 監 院、 力 あ れ ば 自 ら 営 弁 す べ し 」、 や る 能 力 が あ る の で あ れ ば 監 院 が 自 分 で や り な さ い。 「 も し 力 が 及 ば ざ る と こ ろ は、 す な わ ち 人 を 請 し て 勾 当 せ よ 」、 つ ま り、 力 が い た ら な か っ た ら 誰 か に頼みなさい、と、仕事によって専任と協議を使い分ける べきことを言っているわけです。 さ ら に も う ひ と つ、 二 重 棒 線 の と こ ろ に、 「 も し 事 体 や や大にして、知事・頭首と同じくともに商量し、然して後 に住持人に申してこれを行なえ 」 とあります。つまり、少 し大ごとになったら、みなで話し合いをし、さらに住職に 上申して、その上で事を進めなさいということになってい
永平寺と顕密仏教︵石井︶ るのです。 それに対して、 『 知事清規 』 ではまず、 「 監院の職は、為 公 を こ れ 務 む 」、 つ ま り、 公 の 心 に 平 等 な 心 を 持 っ て こ れ を務めなさいということを主張しています。 この辺りは、後ほどまた触れることになりますが、中国 宋代の五山制度では、監院は、中央官庁から、お寺の事務 取 締 り の た め に 派 遣 さ れ る 役 人 と い う 性 格 を 持 っ て い ま す。それに対して永平寺では、傍線部のように 「 為公これ 務む 」、みな平等に見てあげなさいと言って、さらに、 「 行 事に臨むの時、必ず諸もろの知事と商議して、然して後に 行事せよ。事大小となく人と商議して乃ち行事するは則ち 為公なり 」 と、行事を行うにあたって、事体の大小にかか わらず、必ずもろもろの知事と話し合いをし、自分一人で 決めてはいけないとされているのです。 『 禅 苑 清 規 』 で は、 力 が あ れ ば 自 分 で や り な さ い と い う ことでしたが、 『 知事清規 』では、 必ず人と話し合い、 平等な 心を持って事にあたりなさいと、少し変えてあるのです。 このあたりが、道元禅師のコメントの特徴的な部分という ことになります。合議制の強調ということになります。 も う ひ と つ の 違 い と し て は、 『 禅 苑 清 規 』 で、 最 終 的 に は、一番大きな事は住職に相談しなさいと書いてあったと ころがなくなっています。住持人に相談して事にあたれと いうことを、道元禅師が仰ったとしたら、誰に相談するか と い え ば、 つ ま り、 私 に 相 談 し な さ い と い う こ と で し ょ う。それをあえて外してしまいます。ここが大変興味深い ところです。 その理由として、私は、これは自分がいなくなった後で も、ちゃんと叢林が進むようにするために、残された弟子 たちが、話し合って運営をするように道づけるためだった のではないかと考えています。 (二)維那 次に、維那の場合はどうでしょうか。資料②の 『 禅苑清 規 』 では 「 僧中の事、すべてこれを主る 」 ということで、 修行僧に関するものすべてが維那の管轄で、風紀委員のよ うな役割が規定されています。修行僧の綱紀をつかさどる 係ですので、新到の掛搭、小頭首の招請、それから処罰。 そこでは規矩を犯したものの処罰と書いてあります。それ
永平寺と顕密仏教︵石井︶ から、官中の告報、大僧帳時の告報も行うという、要する に修行僧全体を動かすための指揮を行う役職ということに なります。これが 『 知事清規 』 では、かなり限定されて新 到の教育だけになっています。新しく来た人をしっかり教 育することだけが職務として示されているのです。 もちろん、引用文の中には、本来的な職務が書いてあり ますけれども、それに対して、道元禅師がコメントするの は、この部分だけなのです。永平寺は、林下禅林に位置づ けられ、中央官庁とのつながりは、私的には記録がないわ けではありませんが、運営に関してはほとんど意識しない 形となっていたのだと思います。 それから小頭首についてもコメントされていません。こ れは寺院の規模の問題とも関連してきますが、あくまでも 行政官としての職務についてはコメントされないという傾 向のなかで考えて良いと思います。 (三)典座 ③ の 「 典 座 」 で す が、 こ れ も、 監 院 と 同 じ で す。 『 禅 苑 清規 』 では、大衆の斎粥、修行僧たちの食事を司るという のが主要な業務となっています。 その基本姿勢は、傍線部のように 「 みな予め先ず庫司知 事 と 商 議 す べ し︵ す べ て、 事 前 に 庫 司 知 事 と 協 議 し な さ い ︶」 と あ り ま す。 こ れ は、 食 事 の 献 立 を 決 め る 時 の こ と ですが、庫司知事というのは倉庫を司る知事で、監院のこ とです。要するに、蓄えてある食材を何でもかんでも使っ てしまってはいけないので、全体を管理している人に相談 しなさいということなのですね。ただ、それと同事に、調 味 料、 あ る い は 漬 物 や 野 菜 な ど は、 「 典 座 専 管 し て 時 を 失 う こ と 得 ざ れ︵ 典 座 が 自 分 で 管 理 し て 傷 ま せ て は い け な い ︶」 と あ る の で す。 つ ま り、 ほ か の 人 と 相 談 す べ き も の と、典座が一人で管理すべきものが分類されているという のが 『 禅苑清規 』 です。 そ れ に 対 し て 『 知 事 清 規 』 は、 「 す べ か ら く 自 意 に 任 せ て行ずべからず 」 とあって、すべてをひとりで行ってはい けないとされています。資料にあるように、自分の気持ち だけでやったりしてはいけない。あるいは 「 議定再三叮嚀 に し て、 倉 卒 な る べ か ら ず 」、 何 回 も 叮 嚀 に 話 し 合 っ て、 適 当 で あ っ て は な ら な い と さ れ て い ま す。 さ ら に、 「 も ろ
永平寺と顕密仏教︵石井︶ もろの知事、私意に任せて定むべからず 」 と、その他の知 事も、自分自身の気持ちだけで、何かを決めてはいけない ですよということを、ここは典座の項目なのですが、知事 全体に敷衍させて述べています。 ただし、このように、合議制を強く打ち出す一方で、資 料の◇に示したように、知事を管理者としても位置づける 記述も見られます。 一 例 を 紹 介 す れ ば、 「 飯 を 蒸 し 羮 を 作 る に、 或 い は 行 者 を使い、或いは人工を使いて、他をして火を燃かしむ︵ご 飯を蒸したり、おかずを作ったりするのに、行者や人工を 使って火を付けさせなさい︶ 」 という形です。 『 典 座 教 訓 』 と 比 べ る と、 こ こ は 大 変 興 味 深 い と こ ろ で す。 『 典 座 教 訓 』 で は、 行 者 や 人 工 を 使 う と い う こ と に 関 して、どのような評価だったでしょうか。 有名な天童山の典座の逸話は、 次のようになっています。 天 童 山 の 暑 い 中 で、 海 苔 を 干 し て い る 老 典 座 が い た。見るに見かねて道元禅師が年齢を尋ねると、七十 歳近くとのこと。 そ れ に 対 し て 道 元 禅 師 が、 「 こ ん な 暑 い 中 で、 な ぜ 人 を 使 わ な い の で す か 」 と 勧 め る と、 典 座 は、 「 他 は 是れ吾に非ず︵他人は私ではない︶ 」 と答えた。 つまり、他人に任せては自分の修行にはならないという ことですね。それを聞いて道元禅師は、典座の職というも のが素晴らしい人格者、修行の進んだ人が行う職であるこ とを、あらためて感じたというのです。 こ の 違 い を ど の よ う に 捉 え る か と い う こ と で す が、 「 他 は是れ吾に非ず 」 は、役職者の心構えとして素晴らしいも のである、でも、実質の運営としては、ちゃんと人を使っ て 円 滑 な 運 営 を 心 掛 け て く だ さ い ね と い う の が、 『 知 事 清 規 』 において意図されていることなのではないかと思えて くるのです。 (四)直歳 最 後 に 「 直 歳 」 で す。 資 料 三 頁 に あ る よ う に、 『 禅 苑 清 規 』 では、大きな修造、大きな作業のときには、みなと商 議しなさいという言い方をしています。 大と小に分けて、小さいときはそれぞれにやりなさい。 大きなものはみなで相談しなさい。これは、大きな組織を
永平寺と顕密仏教︵石井︶ 運営する上では、非常に有効な手段ですし、極めて常識的 な こ と だ と 思 い ま す。 道 元 禅 師 の コ メ ン ト で も、 「 公 を もって心となし、私をもって心とするなかれ 」 とあります から、公衆を意識し、個人的利益を捨てて努めてゆくべき ことを強調しています。 そ れ と 同 時 に、 直 歳 の ほ う で も、 「 人 工 等 の 所 作 の 成 否 を 照 顧 す べ し 」と、 い ろ い ろ な 作 務 の 中 で、 し っ か り と 下 働 き の 人 た ち を 管 理 す る こ と も 、職 務 と し て あ げ ら れ て い ま す 。 (五)知事の位置づけ 以上の傾向について、三頁の◆でまとめてみました。ま ず、 「 知 事 間 合 議 制 の 強 調 」 が、 ど う し て も 道 元 禅 師 の コ メントに見えてくるということなのです。そして同事に、 「 専 管 項 目 の 減 少 」 も 言 っ て い る。 小 さ な 仕 事 に つ い て、 『 禅 苑 清 規 』 で は 知 事 の 判 断 が 許 さ れ て い る 部 分 に つ い て は、あえてコメントしていないのです。そうなりますと、 結局は、なるべくみなで話し合いなさい、ということにな るのですね。 ただしこれは、永平寺がどれだけの規模だったのかとい うことも、意識しなければいけないところであると思いま す。じつは永平寺はあまり大きくなかった、数十人という 規模と考えられております。その中で、特に波著寺や天台 宗 系、 白 山 天 台 系、 い ろ い ろ な 人 々 が 集 ま っ て、 道 元 門 下、永平寺の僧団がつくられていったということを考える ときに、やはり、その中での合議制が強調される必要性が あったという見方もできると思います。 それから知事は、管理者として位置づけられています。 先ほど申し上げましたとおり、住職に相談しなさい、私に 相談しなさいということを言わないのです。道元禅師が書 かれたものですから、むしろ全部私に相談しなさい、とす るのが自然だと思うのですが、それがまったくない。じつ はこれによって、道元禅師が、僧団をどのように形作ろう としていたのかが見えてくるように思うのです。それは、 修行僧たちを、道元禅師ご自身も含めて、全体的に並列に 考えていくというものだったようです。みな同じレベルと してということですね。上下関係はなるべく付けないよう にしながら、ただし、当時、中国から伝わってきた禅林の 運営形式も用いながら永平寺の運営方式を作り上げていこ
永平寺と顕密仏教︵石井︶ うとしていたのではないかという気がしています。これは 後でもう一度、図示してご説明をさせていただきます。 三 在家者の位置づけ 僧団内は以上のような形でした。次に 「 在家者 」 につい て見てまいります。当然、お寺というのは、いまの檀家制 度とは違うとしても、在家外護者、つまりスポンサーがい て運営されていくということになります。では、それは永 平 寺 に お い て は、 ど の よ う な 位 置 づ け に な っ て い た の で しょうか。 まず、①道元禅師が直接、在家者に対して法要を説くも の で す。 こ れ は 『 永 平 広 録 』 の 巻 八 第 五 法 語︵ 資 料 a ︶ で、太宰府の野助光という人に与えた法語です。それから 『 正 法 眼 蔵 』「 現 成 公 案 」 の 巻︵ b ︶は、 俗 弟 子 楊 光 秀︵ 天 福 元 年︿ 一 二 三 三 ﹀︶ に 対 し て 与 え ら れ て い ま し た。 ま た、 『 正 法 眼 蔵 』「 全 機 」 の 巻︵ c ︶も、 六 波 羅 蜜 寺 そ ば の 波多野義重の邸宅において説かれたものです。あるいは、 同 じ よ う に 『 永 平 広 録 』 巻 八 の 第 十 四 法 語︵ d ︶に は、 参 学大夫というものもあります。野助光は半年に一度程度、 永平寺に教えを請いに来ているようですけれども、興聖寺 時代は、ときおり道元禅師門下に参じ、教えを請う人に対 して、個人的に法語が書き与えられていたようなのです。 これ見ていただくと、説示された時期は嘉禎元年︵一二 三五︶ 、天福元年︵一二三三︶ 、仁治元年︵一二四〇︶で、 す べ て が、 興 聖 寺 時 代 に な さ れ た も の な の で す。 ︵ d ︶ に つ い て は、 説 示 年 代 は 明 確 で は あ り ま せ ん が、 『 永 平 広 録 』 巻八に収録される法語は、すべてが興聖寺時代になさ れたものであったことが、伊藤秀憲先生によって論証され ていますから、これも京都におけるものと考えてよいと思 います。 それに対して、永平寺に入ってからはどうかということ ですが、それがじつは、修行僧に対して、在家者への対応 方法について説くという形でしか見えてこないのです。直 接一般の人に法を説くという記録がなくなってくる。とい うよりも、そのような記録が、 『 建撕記 』 ですとか、 「 古文 書 」 などの第二次資料の形でのみ残されていて、道元禅師 の著述としては存在しなくなってしまうのです。 それらの説示を一覧にしたのが②です。
永平寺と顕密仏教︵石井︶ 最初の○は興聖寺時代の 『 典座教訓 』 で、そこには 「 施 主 入 院 」 の 記 述 が あ り ま す。 施 主 さ ん が、 修 行 道 場 に 来 て、施斎をしてくれたときにはどうすべきか。その時は、 知事がみなで話し合って決めなさい、それが叢林の旧例で あるとあります。ここにも合議制が出ていますね。 そ れ に 対 し て、 二 つ 目 の ○ 『 対 大 己 五 夏 閣 梨 法 』、 こ れ は 寛 元 二 年︵ 一 二 四 四 ︶、 永 平 寺 に 入 る 直 前 に、 先 輩 の 僧 侶 に 対 す る 作 法 を 説 い た も の で す が、 で は、 第 五 十 項 目 に、 「 大 己 若 為 檀 越 説 経、 正 坐 而 聴 」 と あ り ま す。 つ ま り、 「 先 輩 が 檀 家 さ ん の た め に お 経 を 説 い て い る と き に は、正坐して聞きなさい 」 と示されているのです。 三 番 目 の ○ 『 知 事 清 規 』 は、 ち ょ っ と 細 か く な り ま す が、 ︵ a ︶で は、 「 監 院 若 偶 人 天 或 欲 供 衆、 或 欲 起 塔 先 応 子 細 検 点 于 檀 那 之 正 信 不 信・ 清 浄 不 浄、 稟 住 持 人、 而 倶 商 量 」 とあります。つまり一般の人が、修行僧たちへの食事 の供養や、あるいは起塔、伽藍を寄贈したいと思っている ときには、まずその檀越の気持ちが、正しいか正しくない か、 清 ら か か 清 ら か で な い か と い う こ と を 細 か く 点 検 し て、住持に上申し、その後さらに、みなで考えなさいと書 い て あ り ま す。 ま た、 「 然 測 恭 敬 於 檀 越 施 主 」 と あ っ て、 檀 越 施 主 を 敬 う べ き こ と も 示 さ れ て い ま す。 ま た、 ︵ b ︶ で は、 施 主 が 寺 の 中 に 来 た ら、 し っ か り と 客 位 に 案 配 し て、しかるべきお客さんとしての位置にお通しして接待を しなさい。ということが書いてあります。 そ の 他 に も、 「 施 主 」「 施 斎 」 と い う 言 葉 は、 『 赴 粥 飯 法 』、 「 永平寺庫院制規 」、 「 永平寺示庫院文 」 等、規矩関係 の資料のすべてに見出すことができます。つまり、在家の 人が道元禅師の僧団、教団、教え、道元禅師のつくり上げ た宗教集団にコミットするとき、興聖寺においては、法を 説く対象として扱われていた部分と、お寺の運営の経済的 な支援者として位置づけられる部分とが併存していたもの が、永平寺に入ってからは、明確に、寺院の経済的援助者 としての位置づけに絞られていっているように見えるわけ です。 教団が、どのよう運営されていくのかというのを考えた ときに、出家者、在家者というものが同時に同じところに いて、同じ修行をするというのは現実的ではありません。 実際の教団という形式を考えると、修行僧が中心にいて、
永平寺と顕密仏教︵石井︶ その周辺に、その人たちに供養し、功徳を得たいと考えて い る 人 々 が 集 う と い う 形 式 が 一 般 的 か と 思 い ま す。 そ し て、永平寺においては、それを作り上げていく方向に意識 が向いていったように思えてならないのです。 い ま ま で お 話 し し て き た こ と を ま と め ま す と、 『 知 事 清 規 』 やその他の清規等から見ていくと、施主・檀越、つま り お 寺 や 修 行 僧 た ち に 施 し を し て く だ さ る 人 々 へ の 対 応 が、永平寺、特に 『 知事清規 』 では極めて具体化している ことが分かります。その上で知事間の合議制が強調され、 専管が縮小される。 さらに、 住持の存在が希薄化していく。 これらは、全体として道元禅師という存在がなくなった 後にも、永平寺という修行道場がしっかりと機能していく よ う な 内 部 機 構 の 充 実 を 意 図 し た も の と 考 え ら れ る の で す。 また、知事が叢林行事の管理者として位置づけられる。 た だ し、 そ の 数 が、 『 典 座 教 訓 』 で は 六 知 事 と な っ て い た も の が、 『 知 事 清 規 』 で は、 四 知 事 と な っ て い ま す。 こ れ は、 『 典 座 教 訓 』 が 中 国 の 制 度 に 倣 っ た 理 念 的 な 内 容 で あ っ た の に 対 し、 『 知 事 清 規 』 が 実 際 の 永 平 寺 の 運 営 機 構 を反映していたからだと思います。それゆえ、管理者とし ての位置づけも明確化されることになったと考えられるの です。 もう一つ、資料の︽参考︾ですが、施主・檀越の供養を 重視する流れの上で、僧中食が強調されていることも指摘 できます。これはどういうことかと言いますと、僧中食と いうのは、修行道場の中で典座さんが食材を調理をしてみ なで食べる。乞食は托鉢をして、いただいて、それをみな で持ち寄って集めて食べるものなのですが、道元禅師は乞 食 に は と て も 消 極 的 な の で す。 そ れ が 資 料 の︵ a ︶︵ b ︶に 見受けられます。 ︵ a ︶は 『 正 法 眼 蔵 随 聞 記 』︵ 長 円 寺 本 巻 一 ︶ で、 「 況 や 学仏道の人には、施主の供養あり、常の乞食に比すべから ず︵ましてや仏法を学ぶ人には、施主からの供養というも の が あ る。 常 に 乞 食 を す る こ と と 比 べ も の に な ら な い の だ ︶」 と あ り ま す。 つ ま り、 施 主 か ら の 供 養 と い う も の は、仏道を学ぶ人には、乞食とは比べものにならないほど 大切であるというのです。 ︵ b ︶『 知 事 清 規 』 に お い て も、 「 乞 食 尚 障 道 之 例、 間 有
永平寺と顕密仏教︵石井︶ 之歟。測知、仏祖寺院之斎粥、僧中最上食也。所以等乞食 之 徳 也︵ 乞 食 に は、 仏 道 を 妨 げ る 例 が ま ま に あ る で あ ろ う。仏祖の寺院の斎粥は、僧中食が最上の食事であるとい うことを理解しなければならない。だから乞食の徳に等し い の で あ る ︶」 と 述 べ ら れ て い ま す。 こ こ で は、 乞 食 と 施 主の供養を同価値としていますが、いずれにせよ僧中食を 進める傾向にあることが分かります。 道元禅師はなぜ乞食に対して積極的にならないのかとい う と、 他 の と こ ろ で 語 ら れ る よ う に、 「 乞 食 に 回 る と、 苦 しいけれど無理をして供物を出す人が出てくる。それは相 手のためにならない。それはその時、その場所によって、 斟酌されるべきなのである。相手に無理をさせないような 方法というものを取るべきである 」 という基本的な考え方 を持っているからです。 ですから、出せる施主から、いまなら大丈夫だというと きにいただきながら、しっかり蓄えておいて、そしてやり 繰りをしていく。こういうことを基本に置くということに なるのです。つまり、一紙半銭の功徳を全国にわたって求 めるよりも、それなりに余裕のある人、そして教団にしっ かりとコミットしてくれるという人からの供養というもの を 重 視 し て、 お 寺 の 運 営 に あ た る と い う の が、 道 元 禅 師 の、永平寺における基本的な考え方であると思われるので す。 資料のほうでは一番後ろなりますけれども、五頁のとこ ろに、永平寺教団システム︵仮説︶としました。いま触れ てきた内容をもとに、永平寺の運営形態を模式化したもの です。住持の存在を希薄化した中で、知事の合議制がうた われる。その知事は、冒頭に述べたように、清規に則って 一年交代制となっているということです。 また、永平寺の内部では、住持、知事、修行僧というよ うな縦系列は存在していないと思います。その中で、道元 禅師は仏法を与えるものとして、それから知事は僧団の運 営の管理者として合議制をうたいつつ、人工・行者・火客 という使用人などは管理される存在として修行僧とは分け られている形としました。 そして在家信者は、永平寺のお坊さんたち、あるいはお 寺 の 中 に い る 在 家 者 も 含 め た 修 行 道 場 と い う も の に 対 し て、三宝供養というかたちでコミットするものとして位置
永平寺と顕密仏教︵石井︶ づけてあります。 さて、在家者の供養に対して出家者が何を返すのかとい うと、暫定的な脱落の境地と示しておきました。先ほどの 『 知 事 清 規 』 の と こ ろ で 触 れ た よ う に、 三 宝 供 養 が 成 立 し たところでは、供養をした人︵在家者︶は、その時だけで すが、修行僧と同じ高い境涯を得ることができるとされて い ま す。 こ れ は 言 い 換 え れ ば 「 三 輪 清 浄 」 と い う こ と で す。施者、受者、施物。供養が成立した時点では、すべて が清らかになるとされています。これが、境涯として同じ レベルにおいて達成されるということなのだと思います。 た だ し、 こ の 「 施 者 」 た ち は、 仏 法 を 説 く 対 象 で は な く、永平寺という修行道場の運営を支える経済的基盤とし て位置づけられているように思われるわけです。 図の中の 「 波著寺 」 は達磨宗のお寺ですが、道元門下の 人たちの多くの出身母体であったことが明らかとなってい るので、付け加えさせていただきました。 荘園についてはまだ分かりません。ただ、少しはあった の で あ ろ う と い う 中 世 的 文 脈 の も と に 書 き 入 れ て あ り ま す。 四 中世の寺院勢力と禅宗──顕密仏教と異端── さ て、 こ れ ま で は、 『 知 事 清 規 』 の 内 容 か ら、 永 平 寺 の 運営形態について見てきたのですが、それが、日本中世と いう文脈の中でどのような位置づけになるのだろうかとい うことを、これから少しお話をさせていただきたいと思い ます。それが 「 中世の寺院勢力と禅宗 」 というところにな ります。 (一)中世的寺院勢力の様相──顕密仏教と異端── まず、日本中世中国五山とはどのような機構なのかとい うことを、まず 「 中世寺院勢力の諸相 」 という形で見てま いります。 それは顕密仏教と呼ばれる形を取っているとされていま す。これは、資料の① 「 中世宗教の中核 」 というところで す け れ ど も、 ど う い う も の か と い う と、 経 済 基 盤 と し て は、寄進による造寺造塔・寺領確保を行います。つまり、 顕密仏教のトップには貴族出身者がいて、その出身の家や 関係者から、大きな寄進を得ることによってお寺の運営基
永平寺と顕密仏教︵石井︶ 盤となる建物や土地を確保するということなのです。 それに対して、民衆的基盤というのがあります。これは 当然仏教ですので、信仰が基盤にあります。民衆統制、こ れは歴史の方の言葉なので、非常に強い言い方をしている のですけれども、それが、神仏の名のもと、人々が精神的 な安定を得るために、信仰の心を持ってお寺にコミットし てくる。それが民衆統制の基盤となります。 な ぜ こ れ で 統 制 で き る か と い う と、 「 罰 が 当 た る よ 」 と いうかたちで人々を管理することや、その逆に、縛るので はなく、先の精神的安定や、僧侶が中国から持ち帰ってき た最先端の文化や技術を提供することによって、生活を安 定 さ せ て あ げ る こ と を し て い る か ら で す。 井 戸 を 掘 っ た り、 橋 を 架 け た り す る よ う な 土 木 技 術 も そ こ に 含 ま れ ま す。そしてこれらによって、宗徒組織が形成されていくこ とになるのですね。 また、お寺の土地がありますので、その土地を貸し与え る、つまり小作ですけれども、それによって生活ができる 基盤を与えるのです。 技術の提供で一番有名なのは、これは顕密体制の前なん ですけれども、空海さんが満濃池を作ったことですね。何 度堤防を築いても崩れてしまう、そこに逆アーチ型の堤防 を作ったところ、これが崩れない、それ以来、地域の人々 は、 水 に 困 ら な く な っ た と い う 伝 承 で す。 そ う い う こ と を、多くの僧侶が行っていたのです。 このような、統制と供与によって、お寺と人々との関係 に世俗的隷属関係が組み込まれていった、このような、た だの信者と僧侶という位置関係にプラスして、経済的、精 神、イデオロギー的な強い結びつきができあがっていった のが、中世の寺院勢力だというのが黒田俊雄さんの提唱し た顕密体制論なのです。 これによってお寺は権門化します。寺院が土地を持ち、 そこに人を雇う、つまり領民を持ちます。中世は、朝廷も 幕府も力が弱まっていて、分国大名が天下統一を図ろうと いう時代になっています。それが長く続く中で、寺院は、 絶対に土地を取られては困るので、僧兵というかたちで武 力を蓄えていく。このような流れの中で、武士の支配に対 抗する勢力となっていくというのが、当時の大きなお寺の 方向性だったのです。
永平寺と顕密仏教︵石井︶ そうなりますと、寺院も天下統一に際しての、討伐の対 象となってきます。信長が比叡山を焼き討ちし、石山本願 寺をつぶしました。秀吉も高野山の刀狩りしました。寺院 の武力解除を行うのは、このような形が出来上がっていた からなのです。 これが、一つの中世の仏教も大変だということで主張し たのが、参考文献に挙げた黒田俊雄先生の 『 日本中世の社 会 と 宗 教 』︵ 岩 波 書 店 ︶ な の で す。 そ し て そ れ を、 お 弟 子 さんの平雅行先生が、 『 日本中世の社会と仏教 』︵塙書房︶ と い う か た ち で 具 体 化 し て い っ た も の で す。 そ し て こ れ が、日本中世の仏教の特徴なのだと主張されたのです。 いま申し上げましたのが顕密仏教です。つまり、朝廷や 幕府という権力から独立して、一つの権門化した国家とな る。国のようになるのですね。住職、学匠、これは貴族出 身 の 僧 侶 が い て、 こ う い う 人 た ち が、 自 分 の 出 身 母 体 か ら、多くの土地を寄進されたり、あるいは伽藍というもの を寄進されたりすることによって、大寺というものは成り 立つということなのです。 それを、武士階級の次男、三男を中心とした 「 堂衆 」 と いわれる人々が武装して守る。さらにその影響力を全国に 広げるために、勧進聖たち││武蔵坊弁慶のような人たち です││が全国を回って、仏法護持の寄附を募るという図 式なのです。 ここには、まさしく支配、非支配の関係が成立します。 荘 園 領 民 は 土 地 を 与 え ら れ、 年 貢 や 供 物 を お 寺 に 供 養 す る。その見返りとして、先端技術の供与や、精神的な安定 材料として、ご本尊様が後ろについているということで、 雨乞い等の祈祷もしてもらえることになります。黒田さん は、これが中世的な日本仏教の在り方だとされるのです。 それまでは、中世の仏教というと鎌倉新仏教を指してい ました。禅、日蓮、浄土などです。それに対して、黒田さ んは、中世仏教は顕密仏教であって、それに対する仏教改 革運動というのは、 全部 「 異端 」だったといわれるのです。 つまり、黒田さんの理論だと、道元禅師や親鸞さん日蓮 さんといった鎌倉新仏教の開祖はみな異端なんです。けれ どもその後、教団組織ができてくると、それはみな顕密的 に な っ て し ま う の で す ね。 「 ほ ん の 一 瞬 だ け だ 」 と い う の が、 黒 田 さ ん の 言 い 方。 「 だ か ら 中 世 仏 教 の 中 心 で は な
永平寺と顕密仏教︵石井︶ い 」 ということになるというのです。 私はこれに対して反論があります。それが先ほどの、道 元禅師がつくり上げていこうとされた 『 知事清規 』 に見え てくる教団組織ということになってきます。 それをご紹介する前に、松尾剛次先生が反論をされてい るので、まずご紹介をしたいと思います。それが、資料の ②です。私は、松尾先生の 「 中世仏教 」 の捉え方のほうが 自然であると考えています。 松尾先生の考え方は、それまでの仏教は国家仏教である と。集団に対して祈祷し、そして集団的救済を目指すもの であると。それに対して中世仏教は、個人救済に視点を移 したといわれるのです。集団の救済から個人救済へと展開 したのが中世仏教だとすると、あくまでも中世仏教の中心 は改革派であったと考えるべきなのだということです。そ れが、それまでの仏教になかった中世的な部分であると。 そして、多様な人々への救済を実現するために、各宗派が 独自の入門儀礼システムや教団組織をつくっていくことに なった、それが中世仏教であるというのが松尾先生なので すね。 黒田理論では、教団運営の全体的なかたちというものを 見て、それに合っているか合っていないかで、中世、非中 世を判断します。松尾さんは、教団の形式というのはそれ ぞ れ ば ら ば ら で、 画 一 的 に 見 た っ て 無 理 だ と。 そ れ よ り も、 ど こ を 目 指 し て い た の か で 見 よ う と い う こ と な の で す。私はまさしくこちらだと思っています。 教 団 組 織 は た ぶ ん、 そ れ ぞ れ の 在 り 方 が あ り ま す。 当 然、浄土真宗と禅宗が同じようなかたちで異端だったと言 われても、正直言って納得いかないわけです。さらに言え ば、日本で教団運営、僧団運営をしていくとなると、ある か た ち に な ら ざ る を 得 な い の で す。 そ れ が、 「 顕 密 仏 教 」 の形なのではないかと思うのです。その意味で、黒田理論 は、日本仏教の基本形を示したということで非常に優れて います。世界的にもこれは、日本の仏教ということで通用 しています。ただ、これが中世的かどうかということに関 し て は、 私 は、 「 こ れ が 中 世 だ 」 と い う の は 問 題 だ と 思 い ます。でも、これが日本でお寺が在家者を含めた組織をつ くっていく上の基本的なかたちであると捉える分において は、まさしくそうなのであろうと。その中で、個人を見た
永平寺と顕密仏教︵石井︶ のか、国家あるいは集団を見たのかという、方向性の変化 で考えるべきだと思うのです。 (二)中世禅林の教団運営──五山と林下── では永平寺は、ということになるわけですが、そこで、 考えなければいけないのが、最初にお話しした五山制度の 存在となるわけです。 禅 宗 の 場 合 に は、 中 国 で 確 立 さ れ た 五 山 制 度 と い う の が、 歴 然 と し て 存 在 し て い ま す。 『 禅 苑 清 規 』 は、 そ の 制 度に基づいてできあがっています。それはどういうものか といえば、運営すべてが朝廷・幕府によって管理されるも のです。つまり、官立のお寺になるわけです。お坊さんは み な 国 家 公 務 員 の よ う な も の で す。 住 持 任 命 権 も 政 府 が 持っています。ただし、直接の人選は僧録司。この僧録と いうのは、強い力を持っています。日本でよく知られてい るのは、ちょっと時代が下りますが、金地院崇伝ですね。 家康の下で、 「 黒衣の宰相 」 と言われた人です。 住持だけでなく、知事も、政府より派遣されるというの が、基本的な五山のかたちです。これは中国のかたちです が、中国宋代は、尚書省という、日本で言えば宮内庁のよ うなものだと思いますが、そこの礼部というところから、 いろいろな指令が出されていたようです。また、お坊さん の資格、度牒という証明書の発給は、吏部が司っていまし た。この度牒は買うものなのです。だから非常に重要な財 源になっていたといわれています。 礼部で住持、知事が任命されますから、住職が自分の部 下として知事を任命するのではないのです。例えば 「 天童 山に、あなたは住職として入りなさい 」 という命令が来て 入ります。それとは別に、知事も礼部から派遣されます。 おたくは天童山の維那さん、お願いします。そんなぐあい でしょうか。 修 行 僧 た ち は、 「 あ の 住 職 の 下 で 修 行 し た い 」 と い う 人 たちが集まってくる。それを知事さんたちが統制していく という図式です。 また、土地も所有していました。国立のお寺で、そのお 寺所属の荘園があって、そこでは荘主というものが雇われ ています。住職も、その土地を見回りに行っていたようで す。禅籍に記録が残っていますが、来週はどこそこの荘園
永平寺と顕密仏教︵石井︶ に見回りに行こう、などといった感じです。そういうかた ちでできあがっているというのが五山です。 日本の場合は、僧録司は、はじめ鹿苑僧録で、のちに金 地院僧録となりました。中世は、鹿苑僧録が、非常に大き な力を持っていました。 今日は資料には示しておりませんが、中国での住職の任 命方法の一つが記録に残っています。各寺院が公選で五人 を礼部に推挙し、僧録司がその五人の中から一人を選んで 任命するという方式だったようです。 じつは、五山制度の詳細は、まだ明確には分かっており ま せ ん。 こ こ で は、 資 料 の 参 考 文 献 で 示 し た、 高 雄 義 堅 先 生 の 『 宋 代 仏 教 史 の 研 究 』︵ 百 華 苑 ︶ や 石 川 重 雄 先 生 の 「 宋 代 勅 差 住 持 制 小 考 ││ 高 麗 寺 尚 書 省 牒 碑 を 手 が か り に ││ 」︵ 『 宋代史研究会研究報告集 』 第三集︶によって説明 させていただきました。じつは記録にはあっても、それが どこまで全体に敷衍していたのか分からないのです。 いずれにせよ、日本の五山もこのようなかたちで行われ ていたと考えていいと思います。実際に鹿苑僧録が、大き な権力を得ましたので。 このような五山制度の下でつくられた 『 禅苑清規 』 に、 永平寺の叢林運営は依拠しています。そしてそのオプショ ン が、 『 知 事 清 規 』 に よ っ て 示 さ れ る、 と い う 形 式 に な っ ているのです。ですから、修行道場の運営形態は、どうし ても中国の五山制度というものを基本に置くことになりま す。つまり、知事による運営や、行者などの使用です。け れども、経済的基盤は外護者と周辺の在家信者によるとこ ろが大きい。そこには、どうしても日本の中世という基盤 を考慮せざるを得ないということになります。 それが、在家者を、法を説く対象ではなく、施主檀越と して位置づけ、僧侶に対しては、そのような人々への丁寧 な対応を要求するという、永平寺における道元禅師の説示 傾向として現れているように思われるのです。つまり、そ こには顕密仏教的な側面が示されているということです。 こ れ は、 先 ほ ど 申 し 上 げ た よ う な、 「 行 っ て 来 い 」 の 関 係 が な い と 成 立 し ま せ ん。 で は、 「 行 っ て 来 い 」 の 関 係 を 作 るための中国から移植した新しい方式とは何かというと、 道 元 禅 師 に と っ て は、 長 連 床 上 の 修 行 だ っ た わ け で す。 しっかりとした修行しているということによって、供養す
永平寺と顕密仏教︵石井︶ る側にも 「 高い仏教的境涯 」 が分け与えられるという図式 に な る と 思 わ れ る の で す。 そ れ を、 「 永 平 寺 運 営 シ ス テ ム ︵仮説︶ 」 の右下の上下の矢印で示しておきました。 この図でもう一つ、五山との違いとして示したのが、朝 廷 や 幕 府 と の 関 連 を 切 っ て あ る と こ ろ で す。 住 職 の 任 命 権、知事の任命権というのは、完全に断ち切られている、 その意味では、これは五山的な方式ではなく、内部で決定 しているということになります。そう見ると、永平寺は、 伝統的な禅宗の内部組織を、外部の影響のまったくない状 態 で 独 立 し た か た ち で 運 営 し て い た と い う こ と に な り ま す。これは、日本の林下禅林といわれる存在の特徴と言う ことができるでしょう。 一方で、経済的基盤に目を移すと、永平寺の場合は、不 特定多数の在家信者よりも、波多野氏という存在が大きい と思われます。波多野氏という大きな外護者と、その他の 地 域 の 人 々 と で 作 り 上 げ て い く コ ミ ュ ニ テ ィ と い う も の が、永平寺の存立基盤となっていた。そう考えると、やは り日本でお寺を運営していく上では、先ほどの黒田理論に 基づいた、顕密的な人間関係、組織構築というものは外せ なかったといえます。 このように永平寺を見た時、それは、顕密的な運営を行 い つ つ も、 あ く ま で も、 修 行 僧 や、 寺 院 に コ ミ ッ ト す る 人々個々の安心を目指していることになります。中世仏教 を考えた時、松尾先生の考え方のほうが、私はすっきりす るというのはここなのです。 このように、永平寺の教団というのは、中国的五山禅林 の運営制度と、日本的なお寺の組織化というものを、組み 合わせるかたちでできあがっている。これはこれから出版 される本︵ 『 構築された仏教思想 道元││仏であるがゆえ に坐す││ 』 佼成出版社︶に書いた内容ですが、思想的な 面でも、同じような捉え方ができるのではないかというこ とで、最後にご紹介したいと思います。 五 『 正法眼蔵 』 解釈の可能性 これまで、永平寺の運営形式に的を絞り、中国からの直 接輸入と、日本的に道元禅師がそれを咀嚼してつくり上げ た部分があることをご紹介しました。これと同じように、 思想面、例えば 『 正法眼蔵 』 を読む場合にあっても、中国
永平寺と顕密仏教︵石井︶ 禅を受けた部分と道元禅師的展開とを明確に分けて理解し ていくことが、道元思想の特徴を、さらにはっきりさせる ものになるのではないかと思うのです。 こ こ で は、 「 家 常 」 巻 を 用 い て ご 紹 介 し た い と 思 い ま す。なぜこの巻かと言うと、この巻に用いられる 「 独坐大 雄峰 」 の話が、唐代、宋代、道元禅師という三段階の解釈 を明確に見いだすことができる格好の例だからです。 資料①にありますように、 『 正法眼蔵 』「 家常 」 巻に引用 されるのは 『 如浄録 』 です。 僧 問 百 丈、 如 何 是 奇 特 事。 百 丈 云、 独 坐 大 雄 峰。 ︵ あ る僧が百丈に質問をした。素晴らしいこととはいった い何でしょうか。百丈は答えた、私がこの大雄峰に、 一人坐っているということだ︶ 資料ですと、波線を付けた部分です。それに対して、如 浄禅師がコメントをしています。 浄慈鉢盂、移過天童喫飯︵浄慈寺で使っていた応量器 を、天童山に移して、 ︿同じ器で﹀食事する︶ こ こ で は、 「 独 坐 」 が 「 喫 飯 」 に 言 い 換 え ら れ て い ま す。 「 浄 慈 寺 か ら 天 童 山 に 移 っ て も、 同 じ 応 量 器 で 食 事 を すること、同じ修行を行うことが素晴らしいことなのだ 」 というのが、基本的に 『 如浄録 』 での趣旨といえます。そ の背景には、天童山の明確な五山ですから、お役所からの 命令で、お寺を移るということがあります。自分の判断で 行っているわけではないんです。そこがポイントです。 そ の 文 脈 の 中 で は、 「 私 は ど こ へ 行 っ て も、 同 じ 器 で 食 べ る︵ 同 じ 気 持 ち で 修 行 す る ︶」 と い う こ と が、 如 浄 さ ん なりの 「 独坐大雄峰 」 の表現になっているわけです。 資料②の 『 碧巌録 』 では、自分自身の存在位置を明確化 す る こ と が 奇 特 の 事 と い う こ と に な り ま す。 「 私 が こ こ に いる、どっしりと坐って、身動きしないでいるのが素晴ら し い こ と な の だ 」 と。 そ れ を 如 浄 は 「 私 は 寺 を 移 る が、 移っても同じ飯を食う︵同じ修行をする︶ことがすごいこ となのだ 」 と展開させている、これを五山制度の文脈の中 で解釈するとこのようになるわけです。 そ れ を さ ら に 道 元 禅 師 は、 「 奇 特 事 は、 条 条 面 面 み な 喫 飯 な り 」 と 言 い 換 え ま す。 「 家 常 」 巻 が 選 述 さ れ た の は、 道元禅師がこれから永平寺に入るという時期です。その意 味では、新しいお寺に入るという、如浄のシチュエーショ
永平寺と顕密仏教︵石井︶ ンを踏まえたものといえるでしょう。 そ の 状 況 に あ っ て、 「 一 番 素 晴 ら し い こ と は、 一 つ の 在 り方、その場その場が、すべて食事をすることである 」 と しています。つまり、如浄禅師が、同じ器でご飯を食べる ということが素晴らしいことだと言った、それを、ご飯を 食べることそのものが、いまの自分を普通を表現すること なのだと普遍化してコメントしているといえるでしょう。 そしてここでは、五山制度はまったく意識されていないと いえます。 また、道元禅師は引用末尾の傍線部のように 「 一口虚 空、虚空合掌受なり 」 とコメントされています。これは、 応 量 器 の 丸 い 形 状 を 「 口 」 に 喩 え て い る わ け で す け れ ど も、 そ の 口 で 食 べ る こ と を、 「 す べ て を 取 り 入 れ る 」 こ と へと展開して解釈しているのです。 百丈の個の尊厳性の主張も、十方住持制を背景とした如 浄 の 一 貫 し た 生 活 態 度 も、 と も に 素 晴 ら し い も の と し つ つ、それを叢林生活の顕彰へと結びつけたということにな るでしょう。 引 用 文 中 に、 「 独 坐 大 雄 峰 す な わ ち こ れ 喫 飯 な り 」 と も あります。百丈さんが一人、大雄峰に坐っているというこ とは、つまりご飯を食べるということなのであるというの です。ご飯を食べるということは、ここではどのような仕 事かというと、それはそのまま僧堂修行を続ける、という 展開に、この 「 家常 」 巻ではなっていくのだと思います。 資料◇は、その一連の流れをまとめたものです。 以上のように、唐代の百丈、宋代の如浄、そして道元禅 師と、時代ごとの解釈を試みてみたところで、最後の◆で すけれども、道元禅師の引用文の内容を、それらが成立し た時代、地域の状況を折り込みながら、それぞれの原初的 解釈というものを確認し、その上で、それがどう咀嚼され て い る の か を 見 て い く と い う こ と が 必 要 で、 そ れ が、 『 正 法眼蔵 』 の主張の明確化に繋がるのではないかということ なのです。 つ ま り、 い ま ま で は 私 た ち は、 『 正 法 眼 蔵 』 を 解 釈 す る ときに、それに引用されている文章というのは、道元禅師 の文脈でしか解釈していなかった。例えば、一番有名な話 は、 「 馬 祖 磨 甎 作 鏡 」 で す。 馬 祖 道 一 が 坐 禅 を し て い ま し た。それを見ていた南嶽懐譲が聞きます。きみは何をして
永平寺と顕密仏教︵石井︶ いるのかね。仏になろうとしております。それを聞いた南 嶽 懐 譲 は、 い き な り 敷 瓦 を 研 ぎ 始 め た。 す る と 馬 祖 さ ん が、お師匠さん、何をなさいますか。敷瓦を磨いて鏡にす るのだ、と言うと、馬祖さんは、お師匠さん、瓦を磨いて も鏡にはならないですよと言った。それに対して、懐譲さ んが、そうだろう。坐禅しても仏にはならないのではない か。と言ったという話です。 こ れ は ど う い う 文 脈 で 解 釈 す る か と い う と、 曹 洞 宗 で は、仏となるために坐禅をするのは間違っているという意 味に解釈します。しかし、本当は違います。洪州宗の禅風 に照らして解釈すると、これは、坐禅ばかりしていては仏 に な ど な れ な い、 と い う 意 味 に な り ま す。 日 常 生 活 全 体 が、すべてが仏行だというのが、洪州宗の禅ですから、日 常生活全体が修行なのに、坐禅だけに拘泥していては仏に はなれないというのです。 そ れ で は ま ず い の で、 道 元 禅 師 は、 こ れ は 馬 祖 が 仏 と なってから坐禅をしているんだと、前提を変えて、そこか ら坐禅は仏となるためではなく、仏としてのするものなの であるという方向に解釈を変えたのです。これは、石井修 道 先 生 が 『 道 元 禅 の 成 立 史 的 研 究 』︵ 大 蔵 出 版 ︶ で 指 摘 さ れたところなのですが、このように見ることによって、道 元禅の特徴が際立つということなのです。 この 「 家常 」 巻もそれと同様だと思います。しかもその 背景にある、如浄さんの教えというのは、五山を背景にし ているものの、道元禅師は、正直言って、五山をまったく 意 識 す る こ と な く、 先 ほ ど 見 た よ う に、 言 葉 を 普 遍 化 し て、それを、ご自身の叢林生活へと引きつけて解釈してい るのです。 た だ し、 そ の 背 景 に は、 先 ほ ど 申 し 上 げ ま し た よ う な、 日 本の中世的な教団の組織形態や運営に対する意識も存在し ているのです。それらの要素が混じり合うことによって、 思想的にも実践面でも、新しいかたちが作り上げられてい くとすれば、 その要素を分離し検証することが、 その本質に 迫るための重要な要素となってくるように思えるのです。 ということで、少し駆け足になってしまいましたけれど も、これからの私の道元禅の見方の方向性としては、唐代 禅と宋代禅と道元禅を対比する形で見ていきたいと思って います。
永平寺と顕密仏教︵石井︶ 少し前から、唐代の禅と宋代の禅の違いが注目され、か な り 研 究 も 進 ん で い ま す。 ざ っ く り と、 「 禅 問 答 か ら 公 案 へ 」 という言い方がされていたりするところです。 唐代の記録は残っていないので、原初的にはどうだった のかということも、想像になるのですが、機縁の語が、そ れ が 発 生 し た 現 場 を 離 れ、 『 碧 巌 録 』 な ど の 公 案 集 の か た ちで取りまとめられていくという流れの中で、問答自体の 解釈が転換をしていく。それがどういう方向なのか。原初 的な意味を保持しているか、あるいは違う方向になってい るか、そのような観点から資料を解析し、中国禅宗史、禅 思想史を考えるという流れが出てきます。ですから、その 流れの上に、道元禅師の思想的な開明というものも載せて いくということが、あってもいいのではないかということ で、今回は、むすびとして私の思いを紹介させていただき ました。 道元禅師の考え方というのは、ほんとうに叢林運営にお い て、 内 部 は、 『 禅 苑 清 規 』 を 受 け た 中 国 的 な 機 構 を 持 ち ながら、外部との関連も含めた教団運営においては、日本 的な、いわゆる在家信者さんとの関係を築き上げていこう というものだったと思います。 よく、 「 道元禅師は教団の意識はなかった 」という言い方 をされますが、私はそれは違っていると思います。ただ、 結果的に道元禅師が築こうとされた機構は、確かに、道元 禅師がいなくとも存続できるような 「 合議制 」 がうたわれ ていたにもかかわらず、禅師亡き後、存続し得なかったの です。三代相論の勃発がそれを物語っているでしょう。 それは、道元禅師が、自分自身の存在の大きさに気づい ておられなかったことが大きいと思います。道元禅師が、 少しでもそれを意識して進んでおられたら、その後の方向 は変わったのではないかという気もしています。その意味 では、瑩山禅師が、その轍を踏むことなく新たに組織化を することによって、初めて曹洞宗という組織ができあがっ ていったというのは、故あることなのだといえるのではな いでしょうか。 以上、大変に駆け足でしたけれども、私のお話を終わら せていただきます。ご清聴ありがとうございました。
永平寺と顕密仏教︵石井︶ 1 1 -愛 知 学 院 大 学 禅 研 究 所 研 究 会 資 料 ( 2015. 6.3 )