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(1)

『1月号のコンテン

ツ』

月刊サティ!

2014年6月号

瞑想には、心を変える力があります。

心が変われば、新しい世界が開けてきます!

Monthly Sati !

June 2014

1

2

テーラワーダ仏教翻訳シリーズⅡ

瞑想は綱渡りのように 19

3

今月のダンマ写真

4

シュエターリャウン涅槃仏

テーラワーダ仏教翻訳シリーズⅠ

今生での悟りを目指して ウ・パンディタ サヤドゥNo.46

5

読んでみました

『子どもの遺伝子 スイッチ・オン』 『高峰秀子の言葉』

7

~今月のダンマ写真~

質問:ヴィパッサナー瞑想の修行をしてサティが入るようにな ると、日常生活にはどのように生かされて来るのでしょうか。 回答:ヴィパッサナー瞑想は、現在の一瞬一瞬の状態に気づ くという心の要素を育てる訓練を基本とします。その訓練を 日々頑張っていくことで次第にこの瞑想が定着してくると、今 の自分の状態に対して確認する心や、生起するものごとに瞬 間的に対応する即応性が育ってきます。例えば、家の団欒 ムードの中では自覚的にマインドフルでいられますし、また仕 事の上でいきなり緊張モードになるようなことが起こっても、そ こでサティが入るようになります。人生の上でどのような突発 現象が起きても気づきがポンと飛び出すようになる、その訓練 をやっているということです。 このように、サティという機能が自分の心に根付いていれば、 仕事だろうが家族関係だろうが、淡々と観ていくという意識モ ードが続くようになって、何が起きても絶対に混乱しないし巻き 込まれたりもしなくなります。さらに、サティを入れる対象に限 定はありませんから、たとえどんな環境の中でも機能する、つ まりはオールマイティということです。 こうしてどんなことでも客観視が出来るようになれば、仕事 の能率も人間関係も良くならない訳がありません。そういう意 味でこれは素晴らしい訓練ですし、ぜひやってほしいです。

ブッダの瞑想と日々の修行

-理解と実践のためのQ&A-

今月のテーマ:

日常における気づきモードの安定

6月号のコンテンツ

6

1

グリーンヒルWeb会だより

「見えてきた貪瞋痴の塊の私」

サティのひとこと

シュエターリャウン涅槃仏

(Shwethalyaung Buddha in Bago)

寄進者名が記されているプレートには、

世界各国からの名が連なっていた。

(N.W.さん提供)

ブッダの瞑想と日々の修行

~理解と実践のためのQ&A~

8

近刊書『脳を鍛えてブッダになる52の方法』 の紹介

(2)

質問:この訓練によって、一日中サティを入れられるようにな るのでしょうか。 回答:プロのお坊さんであってもなかなかそうはいきません。 出家して、すっかり態勢を整えた上でサティを入れることだけ に専念しても、一日中一個も落とさないかと言ったらそれは 難しいのではないでしょうか。まして在家では、日常的な生 活、仕事をしながらという状況にありますから。 これまでにも多くの方が仕事のすべてにサティ入れてやろ うと果敢に挑戦しましたが、完璧に出来たということを聞いた ことはありません。サティを一瞬も落とさないで日常生活を送 ろうというのは、在家としては少々無理な注文になるでしょう。 しかし、気づきを日常生活に取り入れようとする意志はとて も大切です。ですから、日常の生活においては、「伸ばした」 「触った」「取った」「思った」というような逐一のサティは無理 にしても、今自分は何をしているかという大まかなレベルの 気づきモード、自覚の状態を保つようにします。そしてそれは 保てるはずですし、実際に保てます。 このように、いつでもマインドフルでいよう、気づきの心を 失わないようにしようと思って生きるだけでも、我を忘れて感 情に振り回される生き方、自己中心のエゴを突出させる生き 方とは全く違ってきます。もうそれだけで人生はとても良い方 向に変わっていくのです。 ブッダの瞑想というのは、基本的に「悪を避け善を為す」と いう倫理的にきれいに生きていくのが大前提ですから、それ を自分の本筋の流れとして位置づけた上で、気づきモードを 持続させてそこから外れないように心掛けていること、これは 間違いなく仏教的な善い生き方なのです。 質問:歩いている時や自転車に乗っている時なども同じでし ょうか。 回答:同じです。そういう時にもやはり纏まったことは出来ま せんから、大まかであっても歩いていることや自転車をこい でいることに気づいている、マインドフルネスの状態を保つこ とが出来れば結構です。あるいは安全性を確認した上での ことですが、慈悲の瞑想を唱え続けるというのも良いでしょう。 例えば電車に乗った時など慈悲の瞑想を唱えていたら、 その間は少なくとも不善心所に陥ることはありませんから。 そもそも、何の気づきもない日常生活の中では、妄想、連 想が泡のように浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返し ています。そしてそれらはおおむね馴染みの煩悩であって、 なかでも生命の生き残り戦術として備わった嫌悪や怒りの系 統がとても出やすいのです。どんな微弱な嫌悪でも、もし一 日の統計を取ってみたら膨大な数になるでしょう。もしそのま ま放置しておけば、真っ黒にはならないかも知れないけれど、 心は確実に薄汚れていくのです。 ですから、先ずはマインドレスの状態を修正していつでもマ インドフルでいるようにし、心を汚さないように生きましょうと いうことです。 質問:気づきモードの安定を支えるには、どのような心掛け が必要ですか。 回答:第一に肝心なのは、「このやり方が一番問題を発生さ せないんだ」ということを「本当にそうなんだ」と心から納得し て徹底することです。この納得がないと結局は反応してしま うということになります。 第二は、この世的なことがらに対する姿勢を改めていくこと です。 例えば、「何が何でも成功したい」「人の上に立つぞ」「投機 で大儲けしてやろう」などというギラギラした野心があって、そ れが人生そのものであるように思っていれば、少し離れて自 分の行いを対象化してみようということなど思いもつかない でしょう。ということは、世俗的なことに対する執着、つまり煩 悩の少なくなっている度合いに比例して気づきモードは安定 するということです。 ですが、その無執着が完全に実現した状態というのは解脱 したということですから、ほとんどの人には不可能ということ になってしまいます。 ですから、私たちはそこまではいかなくとも、エゴを弱める 修行をして多少とも自己を客観視する意識を育てていきまし ょう。そうすれば、それに応じて一定の気づきは保てますし、 また気づきを保てる場面も確実に増えてきます。そうすると、 逆に仕事はうまくいくようになるのです。「俺が!俺が!」とい う我執から離れて仕事をするので、人間関係を始めとして

(3)

ものごとがスムーズに回転するようになり、かえってうまくいく ということです。「客観視する心を育てる」というのは、一見す るとこの世からの隠遁のように捉えられる面がありますから、 「すべてがうまく回転するようになる」と言うと表面的には矛盾 しているような感じを受けるかも知れませんが、事実は事実で す。 このように、客観視する心を養って気づきモードが安定してく れば、必然的に不善心所に陥ることが減って人生は良い方向 へと舵が切られていきます。 質問:では、客観視する心を養う上で、瞑想修行以外に日常 生活で出来ることがあるでしょうか。 回答:いつでも可能なものとして三つのことを習慣づけるとい いでしょう。 第一は、「相手の立場に立つ」ことです。とくに、身近な人や 縁の深い人との間では、相手が自分の思う通りにならない時 にはかえって深刻で、意識して努力しないとなかなか出来ま せん。 心・口・意のアクションを起こす前にちょっと立ち止まって考 えてみます。もしかすると相手は体調が悪いか、あるいは 病気かも知れません。また精神的に追い詰められているのか も知れません。「何であの人は!」と思っても、ちょっと踏み止 まってみます。ある現象には必ずそうなるだけの理由、背景 があるはずです。もしその背景が分かったり推測されれば、こ ちらには寛容の心が生まれ易くなります。そうすれば、不善心 所に傾くことは避けられます。 しかし、仮にその背景への理解や推測が出来なくても、現状 は受け入れるしかありません。自分の思い通りにならないか らといって相手を責めていては何も好転しません。相手の立 場に立つというのはイコール「あるがまま」を受け入れることで す。たやすいことではありませんが常に心掛けていきましょう。 第二に、「全体的に眺める視点を養う」ことです。鳥瞰図のよ うに大空から眺めるような視点を持つと、小さなことに執らわ れてつまらない欲望に悩んでいた自分に気づかされます。 また、世間には深刻な悩み苦しみを抱えながらも勇気のあ る生き方をしている人が数多くいます。そのような情報に接し、 記憶し、思いが及べば、自己省察も出来て煩悩も働きを弱め るでしょう。大きな高い視点を持って、「何でこんなことに悩ん でいたんだろう」と、欲望を右から左へ見送ってしまいましょう。 第三に、「自分が経験したこと、経験することはすべて意味 がある」と考えて受容します。自分の経験を否定することは自 己を否定することです。欲望に負けた、怒りに我を忘れた、こ うした経験もすべて今の自分を作ってきたのです。 もし今、煩悩に巻き込まれて苦しんでいるのなら、世間的な 言い方ですがその苦しみが自分を鍛えるのだと思ってとこと ん乗り越えようと決心しましょう。そして、これが肝心ですが、 これまで積んできた不善業の代償を今このタイミングで払うこ とが出来ていると一歩離れて考える、つまり客観視するので す。ブッダでない限りその苦が何時どういう形で終わるのかは 知りようがありません。しかし必ずいつかは終わります。 いずれにしても全ては自分次第、成るべくして成っているの です。そのためには先ず過去と現在の経験に正面から向き合 い、ウペッカーの心で受容していきましょう。(終) (文責:井上雅也 協力:内田智子) ・聖者の流れに入る:初めて経験する涅槃 初めて涅槃を経験した瞬間、修行者は預流果の悟りを得て、 三悪趣(三つの悲惨な生存世界)に生まれ変わることがなくな ります。もはや畜生道、餓鬼道、地獄道に再生することは決し てありません。この三つの世界に再生させる因となる煩悩が 根絶やしになるからです。悪趣へ再生させるような業はもは やつくられず、過去世でそのような業をつくっていたとしても効 力を失います。悟りのレベルが上がるにつれて、さらに多くの 煩悩が根絶されていきます。悟りの最終段階である阿羅漢果 を得ると、煩悩、業、そしてそれらの結果が完全に消滅します。 阿羅漢は二度とこうした汚れに染まることはありません。そし て、死に際して般涅槃に入り、もはや輪廻に戻ることはありま せん。 最も低いレベルの悟りである預流果においても、正しくない スピリチュアルな修行にはまったり、曲がった道を歩んだりす ることはなくなります。皆さんにとってはおおいに励まされる話 でしょう。五世紀にブッダゴーサにより書かれたヴィシュディマ ッガ(清浄道論)にそのように書かれています。当然ながら、 自責の念、智慧ある人からの批判、処罰、その他の悲惨な状 況からも無縁となります。

テーラワーダ仏教翻訳シリーズⅠ

In this very life

今生での悟りを目指して-46-

~ブッダが説かれた解脱への道~

(4)

・完璧な静寂の中を進む二輪馬車 預流果に至っていない俗人というものは、危険な土地を行く 旅人に似ています。砂漠、ジャングル、森などには多くの危険 が待ち受けています。旅人は十分な装備を整える必要があり ます。とくに信頼できる乗り物は必須と言えるでしょう。ブッダ は天人に転生した比丘に対し、素晴らしい道を示されました。 「完璧な静寂の中を進む二輪馬車で、その道を行きなさい」と。 比丘から天人に転生し、天界の音楽に悩まされた主人公が、 静寂をありがたく思ったことは想像に難くありません。しかし、 ここには別の含意もあります。 乗り物というのは、たいていうるさい物です。ブッダの時代 の素朴な荷車や馬車はガタガタと大きな音を立てたことでしょ う。油を差していなかったり、作りが悪かったり、たくさんの乗 客を乗せたりしていればなおさらです。現代の自動車やトラッ クなども、やはりひどい騒音を立てます。しかし、ブッダが提供 したのは、そんな普通の乗り物ではありません。それは実に 見事なもので、何千人、何百万人、何十億人が乗っても全く 音を立てずに動くのです。そして大海だろうが砂漠だろうがも のともせず、輪廻というジャングルを越えて乗客を安全に運ぶ ことができます。これこそがヴィパッサナー瞑想、八正道を行 く二輪馬車です。ブッダのご在世当時、何百万という衆生が、 その説法を聞いただけで悟りを得たと言われています。同じ 説法を耳にした何千、何万、何百万という生命たちは、同じ馬 車に乗り合わせた乗客だったと言えるでしょう。この馬車自体 は全く音を立てませんが、乗客が声を上げることはあります。 とくに、はるかなる終着駅、涅槃に到達した人々が、高揚した 賞賛の叫びを上げることは少なくありません。「なんと素晴らし い馬車であろうか!私はこれに乗って目的地に着くことができ た。私を悟りへと運んでくれたのだ」と。 悟りの段階に応じて、預流者、一来者、不還者そして阿羅 漢の四種類の聖者がいます。彼らがこの馬車を賛美した様々 な“歌”があります。「私は完全に変わってしまった。心は信に 満たされ、水晶のように澄み、広々としている。私の内にたくさ んの智慧が生じる。私の気持ちは、強く、安定しており、人生 の浮き沈みにへこたれることなく向き合うことができる」と。禅 定に入れるようになったばかりの聖者だけでなく、すべてが 止滅した状態に没入することのできる一来者、阿羅漢も、共 にこの馬車を讃えます。彼らは心、心所、そして心から生じる すべての現象が止滅する境地にいたります。そして、そこから 出ると、喜びに満ち、この「乗り物」への惜しみない賛辞を口 にします。 普通、誰かが死ぬと人々は嘆き悲しみ、泣き叫びます。人 がこの世から旅立つ光景は、悲嘆と涙を誘わずにはいません。 しかし、考えうるすべての煩悩を根絶した阿羅漢にとって、死 は待ち望んでいたものです。彼もしくは彼女は、死に際してこ う言うでしょう。「ついにこの苦しみの塊を捨て去る時が来た。 これが私の最後の生存だ。もはや苦しみに見舞われることは なく、涅槃の至福だけがある」 今はまだ阿羅漢果の尊さを完全に理解することはできない かもしれません。しかし、阿羅漢がどのように感じるか、自分 自身の修行に照らして想像してみることはできます。あなたは すでに修行によって基本的な煩悩である欲、怒り、惛沈睡眠、 掉挙、疑いを克服し、対象の真の性質をはっきりと観ることが できるようになっているかもしれません。心と物質が別々のも のであることを観察し、一瞬にして消え去る現象の生滅を洞 察できているかもしれません。生滅を観察する段階では自由 と高揚を感じることでしょう。この喜び、そして澄み渡った心こ そ修行の成果なのです。ブッダは説かれました。「世間から身 を引き修行の道に入り、禅定に達した人の内には喜びが生ず る。その喜びは、人間界はおろか天界におけるいかなる官能 的な歓びから生じる幸福をも超えている」と。ここで言う禅定 は、一つの対象に集中した状態と、瞬間瞬間に対する深い集 中の両方を指しています。後者は洞察の修行の過程で生じ、 ヴィパッサナー禅定と呼ばれることはすでにお話したとおりで す。 ・比類なき味わい 絶え間ない気づきを維持できれば、瞑想修行によって深い 喜びを経験することができます。そこにはこれまで味わったこ とのないダンマの味わいがあります。まさに比類なき体験です。 初めて味わった者は、その素晴らしさに圧倒されます。「ダン マとはなんと素晴らしいものだろうか。信じられないほどの静 けさと喜びが私の中に生じてくる」と。あなたの信は強まり、

(5)

揺るぎない自信と、満足感・達成感に満たされます。あなたは この経験を他の人と分かち合いたいと考えるようになります。 あるいは、もっと大々的に、自分で教えを広めたいと考え始め るかもしれません。これはあなたの心の中で湧き起こる雑音 です。完璧な静寂の中を走る馬車を讃える、あなた自身の歌 です。 逆に、全く熱狂的でない雑音もあります。馬車に乗ってはい るけれども、喜びも恩恵も感じていない瞑想者のうめき声です。 彼らは熱心に修行に取り組んでいないため、馬車から振り落 されないようにしがみついているだけで精一杯です。ヴィパッ サナー瞑想では、修行に費やした努力に応じた成果しか得ら れません。たるんだ修行者はダンマを味わうことはできないの です。彼らは他の修行者の成果を話に聞くだけです。微動だ にせず真っ直ぐに坐り続ける他の修行者を見て、その深い集 中と洞察を想像するだけです。自分自身の心は乱れ、煩悩の 泥沼にはまり切っています。こうした修行者の心には疑いが 忍び込みます。指導者に対する疑い、修行法に対する疑い、 そして馬車そのものに対する疑いです。「こんな馬車じゃダメ だ。どこへも行けない。乗り心地は悪いし、音もうるさいではな いか」と。 また、これとは違う絶望的な泣き声が馬車から聞こえてくる こともあります。修行を信じて懸命に努力しているものの、何 らかの理由で望むほどの進歩が得られない瞑想者の叫びで す。彼らは自信を失い、目標に到達できないのではないかと 疑い始めます。(つづく) 翻訳:影山幸雄+翻訳部 翻訳協力:鈴木卓也

テーラワーダ仏教翻訳シリーズⅡ

瞑想は綱渡りのように―19

『ペーマスィリ長老と語る瞑想修行』

ディヴィッド・ヤング

(承前) 「夜の最初の三分の一の間に無明は消え去り、真の智慧が 生じました。闇は消え去り、光明が現れました。強い意志をも って勤勉に励む者にはこのようなことが起きます」 (ブッダ:Bhayabhērava Sutta、バヤベーラヴァ経) 5.苦しみの滅尽へと至る道 ペーマスィリ長老:第四の真理は、マッガサッチャ(magga-sacca:道諦)、苦しみの滅尽へと至る道です。この道は八正 道、アッタンギカマッガ(aṭṭhangika-magga)、正見(正しい理 解)、正思惟(正しい思考)、正語(正しい言葉)、正業(正しい 行為)、正命(正しい生計)、正精進(正しい努力)、正念(正し い気づき)、正定(正しい集中)です。これは瞑想により心を育 てる道です。涅槃へと導きます。タターニ アヴィタターニ ア ナンニャターニ(Tathāni avitathāni anaññathāni)

八正道には四つの特徴があります。 1.解放と脱出へと導きます;ニッヤーナ(niyyāna:出離) 2.阿羅漢の悟りを得る因縁になります;ヘートゥ(hetu:因) 3.四聖諦を観察します;ダッサナ(dassana:見) 4.渇愛を乗り越え、自分自身の扱いに習熟します;アディパ ティ(adhipati:主人) ・解放 八正道の第一番目の特徴は、私たちが苦しみから脱出する ように支えてくれるということです。私たちを解脱(niyyāna:ニ ッヤーナ、出離)へと導く八正道は、輪廻という川を渡るため に使う筏となります。預流果の悟りを得ると、誤った理解が無 くなります。もはや儀式に執着することはありません。心の修 行に疑いを持つこともなくなります。 修行について混乱している人たちがいます。彼らは戒(sīla: シーラ)が重要だということを知っています。心の成長には、

(6)

不適切な行為を自制すること、ヴィラティ(virati:離)が必要で あるということを知っています。また、不適切な行為を慎むた めには、時として大変な努力しなければならないことも知って います。アーヤティサンヴァラシーラĀyatisamvara sīla:律儀 戒)は適切に行動するための訓練に役立ちます。また不適切 な行為にふけることを慎むための支えとなります。戒は瞑想を 上達させるための基礎となりますが、ある人々は時として極 端に走ってしまうことがあります。 一人の比丘がいました。彼は肩に大きな傷を負っていました が、手当をするどころか、ただれるに任せ、痛みに耐え、自分 の身体を傷つけていました。自分の身体を罰さなければいけ ないと感じていたからです。彼のこのような行動は瞑想を進め る上で何の役にも立ちませんでした。これは「戒」ではありま せん。彼は邪見にしがみつき、苦行の一種に耽っています。 八正道を間違って実践しているだけです。適切な行為、戒は 中道です。苦行とは一切関係ありません。戒とは、自分の言 葉、行為を慎むという意味です。 以前の悪行為が原因となって不善な結果(vipāka:ヴィパー カ、異熟)を経験することが時々あります。地獄界、畜生界、 あるいは餓鬼界に生まれることさえもあります。しかし聖者の 流れに入れば、将来の生存に影響を及ぼす全ての不善業は 結果を出す機会を失います。解脱の第一段階である預流果 の悟りを得ると、彼岸との中間まで渡ったことになります。下 層世界に再び生まれることはなくなり、将来再生する回数は 限られたものとなります。そして、預流果の悟りを得た聖者は、 人間界や天界といった幸せな経過をたどる所にのみ生まれま す。輪廻の中でやみくもにさまようことは、最早ありません。預 流果の悟りを得ることで解脱(niyyāna:ニッヤーナ、出離)へ と導かれます。 ディヴィッド:将来生まれ変わるのは七回までですか。 ぺーマスィリ長老: 預流果の悟りを得た聖者は最高で七回までしか再生しない と書いてある教典が複数あります。しかし、平均的な俗世間 の人々の場合、再生する回数には限りがありません。私たち は、あと何回か再生すればそれで済むと言うことはできませ ん。再生を生じさせるこのプロセスには限りが無いからです。 こうした再生の数々がどこで始まってどこで終わるのか私たち にはわかりません。輪廻は終わりの無い苦しみです。 苦しみの原因である渇愛の特徴の一つは、解放の妨げに なるということです。渇愛は、苦しみの滅尽に達する上での障 害(palibodha:パリボーダ、障碍)となります。渇愛があるが 故に、私たちは欲、怒り、妄想で心を汚します。この三つの不 善の元、欲、怒り、妄想は、解放の障害となるもの全てを含み ます。金持ちと貧しいホームレスを比べてみましょう。 金持ちは言います。「私は人生で多くの問題を抱えているが、 ホームレスの生活は自由だ。彼には何の問題もない。お腹が 空いたときだけ、物乞いをすればいいだけだし、木があれば その下で寝れば良いし、いつでも好きなときに寝られるのだ から。だが、私はそのようには生きられない。私は一所懸命働 かなければならない。ホームレスが抱えている問題は私より はるかに少ないことに間違いない」 ホームレスも全く同じことを言います。「私は人生で多くの問 題を抱えているが、金持ちの人生には何も問題がない。金持 ちは食べ物を買う充分なお金を持っているから、物乞いをしな くて済む。豪邸に快適なベッドがあるから、木の下で寝なくて よい。金持ちには全く問題がない」 金持ちもホームレスも全く同じことを言っています。両者とも 自分は多くの問題を抱えているが、相手には問題がないと言 っています。世間の誰もがそうであるように、この金持ちもホ ームレスも問題を抱えている、それが真実です。大勢の人が、 自分の問題を解決するために、私たち比丘のもとを訪れます。 仕事上でのちょっとした問題を抱えている人もいれば、家庭に 問題がある人もいます。病気にかかっているか、もしくはもう すぐ死ぬという人もいます。人々が私たちのところに来るのは、 私たちが彼らの助けになると思っているからです。

(7)

多くの人が手首に聖糸を結んで欲しいと願い、祈りを捧げ、聖 油で祝福を受け、菩提樹にお供えします。彼らは儀式が自分 の苦しみを和らげると信じているのですが、多くの場合、それ は失敗に終わります。そして思い通りの結果が得られないと、 ブッダの教えに評価を下します。「仏教は役に立たない。得る ものは何もない」と。 四聖諦とダンマ(dhamma:法)には誤解されている部分が 多くあります。例えば、富は幸福を保証するものではないし、 貧しいからと言ってみじめだとは限りません。貧しいホームレ スであっても、苦しみの滅尽を得られます。また、手首に聖糸 を巻いてもらったり、或いは、聖油で祝福を受けたりしても、う まく苦しみから逃れることはできません。これらは仏教の低い レベルの一面であって、ブッダの教えとはほとんど関係ありま せん。ブッダは真理とはどのような性質のものかについて説 明されたのです。 ブッダは説かれました。「苦しみを和らげるには、問題の本 質、自分の苦しみの本質、自分の心の本質を理解しなければ なりません」 自らの経験によって、苦しみから逃れる上で障害となるもの を完璧に理解できた人は誰でもその障害を破壊し、解放を得 ることができます。自分の心を理解しようとしない人は、障害 を壊すことも、苦しみから逃れることも決してうまくいきません。 ・因縁 八正道の二番目の特徴は、八正道が苦しみを滅尽するた めの因縁、へートゥ(hetu:因)になるということです。私たちは 皆多くの障害、パリボーダ(palibodha:障碍)を抱えているた め、初めは八正道を正しく実践できません。実践を始めたば かりの時には正しく戒律を守ることができません。日常生活の 中で、戒律を守る上で妨げとなる障害をたくさん抱えているか らです。修行を始めたばかりの時には、また正しい禅定を得 る上でのたくさんの障害、智慧を育てる上でのたくさん障害を 抱えています。最初は八正道を正しく実践する上で非常に多 くの障害があるのが常です。しかしこれらの障害を少しずつ減 らしていくことにより、徐々に八正道を正しく実践する能力を育 んでいます。この過程は進行形で進むものであり幾分か努力 を要します。 しかしながら多くの人は、ダンマを実践するのに少しは努力 するものの、それ以上のことをしたがりません。それ以上努力 すると家庭生活が崩壊すると思っているからです。それは誤 解です。ブッダご在世当時、ヴィサーカー(Visākhā)という女 性がいました。彼女は努力を重ねてダンマを正しく実践し、苦 しみからの解放を妨げる障害を壊し、わずか七歳で預流果の 悟りを得ました。彼女は16歳で結婚し、二十人の子供を生み ました。彼女はまた大変なお金持ちであり、花嫁衣裳も大変 高価なものでした。ダンマを実践しつつ、二十人の子ども-男 の子、女の子それぞれ十人を育てあげた、ヴィサーカーのよ うな人がいるのに、何故ダンマを実践すると、家庭生活が壊 れるなどと言えるのでしょうか? 正しく努力をする人は多くの障害を克服し、預流果の悟りを 得ます。預流果の悟りを得た聖者はその後に続く幸福な生存 の中でますます力を強めます。徐々に持戒の質が高まるば かりでなく、禅定と智慧の力が強まります。預流果の聖者は 八正道の力、四つの気づきの土台の力を着実に強化していき ます。不屈の努力(精進)、力を得る道、心を育てる能力(五 根、五力)、悟りを得るための七つの要素(七覚支)が増強し ます。預流果の聖者はこうした能力すべてを徐々に育み強め ていきます。これらの能力の開発は阿羅漢に達する根本原因、 へートゥ(hetu)となります。これこそが私たちが育てはぐくまな ければならないものです。(つづく) 翻訳:影山幸雄+翻訳部翻訳協力:鈴木卓也

(8)

グリーンヒルWeb会だより

「見えてきた貪瞋痴の塊の私」

篠原知子

初めて「坐禅」をしたのは一年半前。「集中力を高めるのに良い」と本で読んで、自室で軽い気持ちで

やってみました。

10分と持ちませんでした。坐って目を閉じた瞬間、恐怖に近い感情が湧き上がってきて苦しくてたまら

ず、目を開けた時には肩で息をしていました。まぶたの内側の闇で溺れそうな感覚がありました。しかし、

その日から毎日坐り始めました。苦しくてたまらないけれど、自分にはこれが必要だと思ったのです。

半年ほど独学でやっていましたが埒があかず、2012年の11月に初めて東京瞑想会に参加しました。

次いで1day合宿や2泊3日の合宿に参加するにつれて、なぜ私が瞑想しなくてはいけなかったのかが分

かってきました。

私は自分のことを、無意識のうちに上の人間だと思っていたのです。平均よりは上、目の前の人よりは

上、親よりは上、友人よりは上‥‥でも、それは妄想でした。

1day合宿の数日後、歩行瞑想の途中でよろけた時に、「よろけたりぶつかったりした時の直前の心に

気をつけなさい」との地橋先生のアドバイスを思い出し、心に注意を向けました。合宿で面接していただ

いている時の場面が浮かび、そこに「いい人でありたい」という字幕がかぶさってきました。同時に「ありた

い」の文字が「見せかけたい」に変わったのです。そしてまた次の瞬間「いい人」は「いい娘」に変わりま

した。私は自分を「いい人/娘に見せかけたい!」。その文字が見えて、自分が貪瞋痴の塊なのだと

いう事実を突きつけられ、恐ろしく臭い匂いが鼻を突きました。なんのサティも入らず、茫然とするばかりで

した。

その後地橋先生に勧められて2013年の9月に内観を体験。「いい娘」とはとんでもない、一人娘で大

切にされたのに「まだ足りない」と餓鬼のように親に求め、満たされないからと逆恨みする鬼の自分を分

からせていただきました。亡くなった夫に対しても、「長い闘病生活を逃げずに寄り添った私は偉い」とい

う慢の心が分かり、結局は自分のためにしか生きてなかったことが明白になりました。

同時に、いろいろなことが楽になりました。それまでは愚かなプライドを盾にして自分で自分を苦しめてき

たのです。

具体的には、人と会っても疲れなくなりました。どんな楽しい予定でも出かける直前になると気が重か

ったり、どんな親しい友人とでも、別れの挨拶をして一人になったあとにほっとする感覚があったりしました

が、今はただ淡々と出かけて、淡々と別れる。そして別れたあとに今まで一緒にいた人の幸せを祈る。

とても楽です。

そして人と話している時の自分の声が聞こえ、歩いている時に周りが見えるようになりました。人によく思

われたいという焦りと自分の話を聞いて欲しいという渇愛に駆り立てられていたせいで、自分が何を話し

ているか本当には分かっていなかったのです。話すスピードはそれほど変わらないはずですが、今は自

分が真実でないことを話していないか、多少意識できるようになりました。

また、歩行瞑想の途中で、突然視野が顔の脇まであることを自覚しました。普段歩いている時に景

色ではなく妄想を見ていたため、ハンカチ一枚分位の視野しかなかったのです。

ボランティア活動も始めました。それまでは他人事だと思っていた善行が、自分のための自然な行い

であり、「させていただけること」が有り難いと思えます。

一年前の私に「一年後あなたはこうなっている」と今の状況を説明したら、薄気味悪がって決して信じ

ないと思います。が、今のほうが遥かに幸せです。

まだ一歩を踏み出しただけで、私の中にはまだまだ多くの問題、無明があります。果たしてこの体の寿

命が尽きるまでにいかほどのことができるのでしょうか。逃れられない苦をほどく手がかりを与えられた幸

せを思いながら、日々努力を続けたいと思います。

全てのヴィパッサナー瞑想者が幸せでありますように。全ての衆生が幸せでありますように。

(9)

~読んでみました~

このコーナーでは皆様の読まれた 本の中から、ダンマの理解に通じる と思われたものを紹介します。 『子どもの遺伝子 スイッチ・オン』 村上和雄著(新学社 2013年) 血縁関係の無い二人、遺伝情報(ヒトゲノム)が99.5% 一致しているのに見た目が全く違うのはなぜか。それ は遺伝子スイッチが入る順序やパターンの違いによる もので、外部からの刺激や変化の総称としての環境が それに影響を与えるそうです。ですから、「親は、子ども の個性や方向性、つまり遺伝情報を充分意識しつつ、 必要な遺伝外情報を教えることが大切」と著者は言い ます。学習、訓練の大切さや子への接し方などの主張 は私たちが学んでいることと通じていて、スーッと胸に 入ってきます。 ところが、遺伝子は利己的なものだという先入観に対 して、第4章「ゆずり合い、助け合う利他の心」では、「遺 伝子は、利己的でありながらも、利他的な特徴をも獲 得」していったとあり、一月のQ&Aの解説の通りでした。 そして「利己と利他とは・・・実のところ表裏一体」であり 「『利他』とは、自分を後回しにして他人の役に立つよう に生きることですが、実はそうすることで自分も生かさ れる」ことになるという訳なのです。 子育てというのはやり直しのきかない難しいものです が、要は親の心構えの部分がとても大きいと思います。 夢中(と言うより霧中)で過ごしてしまった当時ですが、 早く出会っておきたかった一冊でした。(雅) 『高峰秀子の言葉』斎藤明美著(新潮社 2014年) 高峰秀子がサラッと口にした言葉を養女の斎藤明美 が綴ったエッセー集。短い言葉の中に高峰の鋭い感性 と人間への洞察がありありと見えてくる。 30の言葉はどれも興味あるものばかりだが、なかで も「忙しい時ほど余裕を持たなきゃいけないよ」の項を ぜひ紹介したい。ある時夫の松山善三が台所仕事をす る高峰の姿を見やりながら、「かあちゃんはノロいけど、 速いんだよね」と言ったという。 「矛盾した言い方だ。だが高峰の動作をきわめて的 確に表している。高峰は一つ一つの動作が実に丁寧な 人だった。だから椅子にかけたまま遠くのゴミ箱に紙く ずを投げ入れたりという類の動作は絶対にしなかった。 それがどんな些細な動作でも、その一つの動作だけを 最初から最後まできちんと行った」 まさに、日常生活のサティのようだ。“ながら**”を しない。大いに反省させられた。 また「いつも心のノートを真っ白にしておきたいの」。 高峰は白が好きだったという。汚れが生じればすぐに 分かって掃除が出来るから汚れは目立つ方がいい。心 の汚れも同じこと、そうやって自分の心のノートを真っ 白に保ってきたに違いないと著者は言う。 その他に「苦労は、磨き粉みたいなもんだね」「食べ る時は一所懸命食べるといいよ」「私は、イヤなことは 心の中で握りつぶす」などなど。こうした洞察や感性は 本人が持って生まれたものとともに、否応なくエゴを統 べざるを得なかった末の人間観察、自己理解によるも のだと思う。自分の心構え次第で人はどんなものから も学べるということを改めて感じた。(雅)

本誌で連載中の『今生での悟りを目指して』

『ぺーマスィリ長老と語る瞑想修行』の翻訳

をされている影山幸雄さんが訳書を出版さ

れました!

生命存在の真理を見抜く洞察は人間の備わって いる最高の能力であり、また財産でもあります。し かしほとんどの人たちはそれを使いこなすことが出 来ません。妄想や概念の海におぼれて身動き出来 ない状況になっています。一歩でも岸辺に近づいて 洞察の眼を開く下地を作るためには荒れ狂う心を 静める必要があります。Rick Hansonは脳神経学 者の強みを生かし、科学的な見地から心および身 体の反復行動により私たちの心を清らかで静かな ものにする具体的な方法を提示しています。誰にで もできる簡単なものばかりですが、それぞれに深い 意味がこめられています。洞察を培うための極めて 実践的なマニュアルとなっています。 (翻訳者:影山幸雄)

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朝の瞑想、幸い惛沈睡眠に

やられることはないものの、「今

日の予定」が次々と頭を流れ

る。「その時になったらもっと良

い考えが浮かぶ」と心に命じて、

「見送った」とサティを入れ、

お腹に戻る。(M.I.)

夢の中で、家族に

懺悔し涙した。起きて

も目に少しの涙があ

った。その日一日す

がすがしく過ごせた。

懺悔の涙は心のデト

ックス。(T.I.)

子供が間違った事をした時、

しかりさとすのは親の努めだと

思っていた。しかし、私の中に

怒りを持って話をしても、自分

が言いたい事を言ってスッキ

リしただけで子供には嫌悪し

か届いていなかった。それに

気づかせてくれたヴィパッサ

ナー瞑想に感謝!(K.I.)

瞑想実践する前は詩文に過ぎ

なかった『ブッダのことば』。瞑想

するようになってからは、それが生

きた言葉に変化したことの不思議。

教えが血肉化するとはこういうこと

なのか?(Y.M.)

誉められ、認められ、感謝さ

れた時ほど注意が必要だ。

喜び、高揚感を味わうのはい

い。しかしそれをすぐに捨てず

にいつまでも腹の底で転がし

続けていると、しまいに肥大し

た慢が事故を引き起こし、痛

い目に遭う。いい気になって

いた分、その痛みは倍増して

いるかのように感じる。(K.T.)

土曜日曜の休みを瞑想しな

いで過ごす。サザエさんが始

まる18時頃になると慌てて瞑

想し始める。瞑想しないで月

曜を迎えればトラブルは必至。

原始仏教徒の新しい『サザエ

さん症候群』(A.E.)

今月の

サティ

のひとこと…

ヴィパッサナー瞑想を始め

て、風邪で寝込むと言うこ

とが全くなくなった。そして、

5年半を迎えようとする今、

30年以上苦しんだ、腰痛と

肩こりから解放された。何

十ヶ所という医者や治療

院を渡り歩いてきたが、どん

なに凝りをほぐしても、心に

ある怒りを減じなければ痛

みはなくならないと、やっと

腹の底まで理解できたのだ

と知る。(T.K.)

瞑想しているようで、

心は迷走している。

(H.T.)

瞑想会から帰った夜、娘に「ママが怒っ てないっていいわ~」と言われた。リビングを 散らかしたままマンガを読んだり携帯をいじったりし て夜更かししている娘たちに「片づけて早く寝な さい」と、私はいつも怒っているからだ。けど「何 回注意すれば分かるの?」とはこちらの勝手な 言い分で、むこうは「いつになったら放っておい てくれるの?」という感じなんだろうな。自分とは 異質な者を受け入れる雅量が親には必要な んだと、その日のダンマトークを思い出した。 (T.U.)

参照

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