――目次――
1,
寧楽仏教と神祇,大屋徳城,Tokuzyō ŌYA,pp.1-42.
2,
スピノザが宗教に対する態度,キリスト教的人格神論の否定,斎藤晌,Shō SAITŌ,pp.43-56.
3,
フォイエルバッハの人間学と宗教本質論,柴野恭堂,Kyōdō SHIBANO,pp.57-70.
4,
摂大乗論における縁起論,分別自性縁起について,西尾京雄,Kyōo NISHIO,pp.71-86.
5,
四境の祭について,大場千秋,Chiaki ŌBA,pp.87-92.
6,
宗教哲学としての法華経,広瀬文豪,Bungo HIROSE,pp.93-104.
7,
アウグステイヌスの神の存在の証明,斯波義慧,Gikei SHIBA,pp.105-112.
8,
未開社会における Ordalie の一形態,Poisons d’Epreuve について,古野清人,Kiyoto
FURUNO,pp.113-122.
9,
パスカルの宗教哲学,Webb,Clement C.J., Pascal’s Philosophy of Religion,宮崎乗雄,Norio
MIYAZAKI,pp.123-138.
10,
甦らんとする宗教の姿,C.E.M.Joad,“The Present and Future of Religion”,佐木秋夫,Akio
SAKI,pp.139-146.
11,
「宗教学論集」の論評,古野清人/石津照璽/増谷文雄/三枝義夫/上野隆誠,Kiyoto FURUNO/Teruji
ISHIDSU/Humio MASUTANI/Yoshio SAEGUSA/Ry
ūzyō UENO,pp.147-170.
12,
新刊紹介,pp.171-183.
軋ノい
八幡上京して、彿像を挿すj儀があ♭、道鏡事件の動機夜烏しセのも∵宇佐八幡の阿骨威名で薄
ら、行基の伊勢参向は史家の疑問と点るところであるが、之も大傭凝立に潤して居う﹂凡々此専 一
の題目は一應研究上の清算を経けやう
モノろ ひを致す時は、・黒白未だ離れす、鼻償坐に迷ふの風なきを得ぬ。併し夫れ等は骨本に於Ⅵる沸教 一.J醐就との根本問題であつて、軽々しく論断するを許さぬひ外面線虫料の検討にのみ頼るもの、
内面的数理の清繹にのみ披るもの、何れも楯の字面であつで、最後の結論には速いとせねばなら
諌
−
早斐偶数と醐紙との関係は舌てして且っ逢い。瞥築朝の盲へ.い庭合那彿建耳の峯あるや∵宇雀 .、 ..− 寧欒儒教ミ紳蔵寧 薬 価 数 と 所 蔵
序眈1−寧簗傷敦i八幡大菩薩1−八幡紳の表現様式写しての比丘形.致生の電路1借形八幡の機式 、ヘ モモの本地俳竜のⅦ係−−宰無情敢モ各日明所−春月明紳の料地併ミ親日具象羅−唯我擁護の紳 −.︳ 明iての春晶現−氏族擁護の紳漂着志設計的乳勅卜新嘗牛雷昇針トト紆計.・い一大 ㌧屋.徳 城㌧
−、一 −′ 1− 一 33J率集彿教寸J紳蔵
二
ぬ。而して、此等ほ謂はゆ一札本地垂迩思想の源流として、重成せらる1もの、具に日本宗教史上
の根本問題といはねばぢらぬ。
草堂偶数と神祇との関係は、八幡大菩薩と春日明鱒竺一つの中心鮎として、限り無き大小の同
心脚を措く。東大、大安、薬師等諸大苛の伽藍所︵鎮守放といふ︶としての八幡宮は、京洛に於け
る石清水と呼應して、国家の宗廟に亜ぐ霊神としでの信仰を集め、終には沸教々囲の一比丘形一で
現するに至上し、謂ほゆる何形八幡の崇敬と周り、全く沸教海中の一泡と化し了つた。凡そ此等
の襲化は平安初期から起って、中期に形を成し、末期に成熟して、鎌倉初期に及んで、爛熟の頂
鮎に達する。薬師寺八幡宮の、東大寺劾畢院の、現に存する諸像は夫れ等思想上の遺されたる千
古の断碑でぁる。
前述景軍一年春日野に垂述したる明細は、藤原氏との関係に於いて、組前の位置を占めてから、
一族の崇敬を集め、同じ藤原氏の氏寺たる輿頑寺との圃係は、其の濡と点るところの法相宗との
聯絡を生じて、唯識擁護の紳明と化し、夫れ等の信仰の結晶は密教の熔盤に入って、春日点茶羅
と焉って現はれ、説話のいろ′1は集大成せられて、春日権現境記の中に描き出され、慈息骨の
法苑に臨みては、夢見の式と焉りて、探題に諭義の題目を冥授し、唯義弘通の誓願念珠くして、
春日地獄の信仰を生じ、租紳の意志を極度に神童化するに及びて、藤原氏に対する放氏︵氏族権
ょぎβ拒否︶、療氏︵氏族擢復待︶の絶対擢と点り、博徒の兵囲に利用せられて、愈暴力の合法化、紳翌化 と点って、中世の貴族政令を震骸せしめたのであ一¢。
凡そ此れ等の紳就に対する信仰が、租先崇拝や多前党井の素撲的民族信仰から、漸次に蓉展、
醇化して、合法化、普遍化せられた、篠路を考察すも時は、常に贋大無連なる沸教々理の背景を
ローカル ユ一一ヴ丁−サル珠想する。凡そ此等の限地的なものが、一般化するプロセスを追求することは、沸教史の研究と
して、相皆の興味に僧すると信する。偽て、此に中世紀 − 主とし七平安朝井に鎌倉時代−−−に 於ける寧欒係数と醐舐との関係を大観しでみようと思ふ。 〓 草奨沸教と八幡大菩薩草葉悌数と八幡大菩薩との関係は、東大寺度合邦傭建立の暗から始る。天牢勝者元年、宇佐八
幡託宣して、天神地祇を率ゐて、必や大沸騰造の勅願を成就せんと告げ、大和へ上らせらるる事と
為り、十二月十八日、八幡入京、梨原宮に新廟を蕾みて神宮とし、借四十日を請じて、七日間偉
過曾を行ひ、二十七日大神東大寺に詣で、孝謙天皇を始め、垂武上皇、光明太后行幸し給ひ、百
官悉く集り、借五千を請じて鹿彿讃経せしめ、大所に位一品、此嘩前に二品を奉らしめ給ふた。
而して、八幡大軸は正しくは彦火々出見食と其の妃豊玉姫であるといふ説があるが、我が信仰上
の紳武としては、仮令俗詮であらうとも、人皇十六代理田︵鵬︶天皇であるとする事、請書の通読 学業係数豆論議三
3お筑紫豊前国字佐郡牒峯菱海地之間有一一鍛治夢甚奇異也、囚乏大所此義絶撃二年籠居椅準郎捧一触
野新言臭、牧神者我前可一喝即現三三歳小見︰立一語葉︼託宣云、我是日本人皇第十六代巷阻天皇廣幡
八幡磨也、我名日三護国婁壊威力前週大自在王菩薩≡国々所々事跡於圃準是初顕御座是即欽明天
皇榊時也、愛天平廿各垂武天皇奉襲東大寺大彿一之喝以一恵兵衛督藤原朝臣−芦使奉勧請義諒鏡守︰事一銭一大彿︼之妙工御座耳。
,︶ ︵▼盛引口除云、勝算元年八幡大所詫草野京、十二月丁亥天皇皇后粕率行幸蕗俳、誇豆千借︼□彿、是日
八幡大細評−東大寺首官諸氏等鹿骨、作三種々腰︼誉・次に大安寺の行数が争佐八幡を石清水に勧請する事が起った。これは平安朝に入ウてからの事
である。即ち貞軌二年の勅許であるといふ。三代斉藤、貞貌十八年人月十三日の太政官符に∵∴
石清水八幡護国寺中腰価、故侍燈大法師位行数、童貞軌二年草査画家︰新王誇大菩翠声夢此間り撃
帝準章佐宮戎夢紳ま︰郎以一夜入位下紀朝臣御−空夢之。而して、葵師寺が八幡宮を以て鎮守とした由凍は、八幡大前が宇佐から京都へ向はせらるゝ時、
薬師寺の岡に休まれたから、寛平年中、薬師寺の別曹桑紹が件の何に勧請して鏡守としセ↑いふ
寧欒悌敦ミ所蔵
である。例へば東大寺要銀の紳赴の健軸院にも左の如く見えて居.るっ一入幡宮硝謡雛肇顎穏諒斯怒−共
四 ユヲ虞辛が、業師寺八件宮繰為に見えて居る。
大菩薩老人王三十代欽明天皇和事、始巌三豊前国字佐郡両夢王城鎮準夢向行数和解之秋雨自−学位一狭臨時、於一︼此何重休息之儀︼給、可動、此所者冥尭影向之垂跡、東非丸夫領地之分︰魯其弥立海
軍事象敬祓乏曹寺別曹農紹大法師、寛平年中重勘一轟大菩薩於此間奉加盲寺鎮守−云々。南都七大寺巡虐記、襲師寺の備に、
八幡宮
仲人幡者自二宇佐−影向.自臨席女大安寺に飛給云々、と紀載してある。而して、大安寺も亦八幡宮を以て鎮守と点る。同記、大安寺の備に、
八幡杜 仲赴者在一東塔之北東親通之記云、大菩薩廟稔有高南二方円月り行数和何事勤轟大菩薩於本尊大
安寺︼也右満水男山藩宮着後也云々、秀衡二年大菩薩自替佐宮−移一夫安寺如座、貞軌九年八月廿二 日夢山崎離宮り是後移一︼男山−御座云々、と見ゆる。以上の記螢に依りて観察すれば、事業沸教の中豊を焉す七大寺の中、三大寺までが八
幡大菩薩を以て鎮守と焉るのである。而して其の勧請の年代は貰に左の如くである。
一束大寺 天平勝吉元年十二月
事業儒教さ醐癒 五 ∂∂β一大安寺 脊衡二年
〓石清水 貞粗二年︺
一発師寺 寛平年中三 八幡紳の表現様式としての比丘形寮生の径路
八幡大紳の表現様式の一種に、比丘形の神像がある。今此の凄式寮生のブアセスに就いで考察
してみょう。凡そ紳舐に菩薩戟を授け奉ったことは、卒安初期に起った現象で、諸前の中、八幡大軸の菩薩
我は最も早き時代に現はれ、且つ最も著名なる事件の一である。即ち延暦十七年十二月廿一日の
官符に太政官符 太宰府
0〇 一歩論一入棒大菩薩封β一千四有戸、位田首四十町︰ といひ、又大同三年七月十六日の官符に、と見え、弘仁十二年八月十五日の官符に、同六年十二月十日の解を引いて、天應詣即諾碍の
太政官符 00 應,令ヨ国司−出●納入棒大菩薩宮雑物上事 学業俳敦ミ紳献 3ββ〇〇
初、八幡大神に寺坂を上りて、護同室瞼威力紳過大菩薩といつた事、井に延暦二年五月四日の詫
一 ○⊂宣に、大自在王菩薩と耕すべく、又加乾して、護国霊験威力紳過大自在王菩薩と耕すべしとある
と述べて居る。斯様な次第であるから、八幡大紳が八幡大菩薩と耕せられた事は延暦、弘仁時代
からの事で、大憶は、卒安初期に始って居るといつても美文へはない。さて斯様に八幡大紳が自ら詫宣して、菩薩境又は大菩薩境を挿すべしとされる事は何を意味す
るか。之れ即ら紳舐た一〇大柄が係数々閣に入♭乗らて、菩薩位を以て自任される事を示すもので
ある。即ち彿に亜ぐ兜位一で有せらる∼謬である。八略大柳 − 彿数臨依彼のー﹂で表現する様式が即ち比丘形を属す神像である。世に謂はゆる
借形八幡即ちこれ。倍形八幡とは詳にいへば、法衣を若し、茸珠︵又は念珠︶と傷杖一ぜ持ち、剃髪 の相一竺満了紳俊一ぜいふ。斯る様式の神像は敢て峯契偶数の範国内でのみ行はれたのでなくして、廣く一般沸教界に於いても行はれて居る。詳にいへば、卒安沸教の一たろ東宏の信仰上から鳥、
倍形八幡が同一の様式を以て衣現されて一でる。されば、伶形八幡は草葉沸教の特殊表現法ではな
いが、此には成るべくその範囲内に於いて論じてみたいと思ふ。八幡大菩薩を借形哲以て襲現了る様式、即ち何形八幡はいつ頃から起つ
る史料の徹す可きものに乏しいが、情誼に依れば、弘法大師垂潅が既に斯る様式に依って、人件
事斐沸教ヾ.−紳蔵 七 武野八
寧簗俳致豆醐森
大昔薩を描いたといはれて居る。而して、鎌倉初期に、その菩薩像が鳥羽の勝光明院の賢裁に在
ったといふ事が仁和寺文書井に紳護寺文書に確定がある。左に之れを引用しょぅ。
人件御影事
000000
帝農村部記云.建久六年六月六日、予寧御室御使︼参手菩提院−申云、八幡検校奏就云、弘法大師御輿郵㌫知新酢帥賢二蒜か卯掛掛野欲襲車重掌曹栗撃芳ぬ器︶同入日卓夢御使向ニ
0000000000
御終戎衷レ諦こ於件御影︻拝見之嘩三翰赤地鶴嘩御鉢♪老比丘形薯a柄衣︰時赤蓮花有三赤口兎上布一−日輪左手野水精念珠岩手空ハ翰錫杖宕方上有色耗形義軍
︵忘寺文書之れに依れば、弘法大師撃と解する八幡大菩薩の表現様式は、老借の相を点し、禍衣を著し、左
手に水桶の念珠を持ち、右手に六斡の傍杖を持っといふのであるから、純然たる比丘形であつて、
正しく謂はゆる付形八幡と同一模式である。次に醐護寺文書には左の如く見えて居る。
大師御在世之時、所奉襲直曹声㌫知熟覧紗雛鳥霞御時、高雄顛倒之間、寛塵南開梨
と申候もの、伸御影をとト;まいらせ侯て、鳥羽院にまいらせて候を、印章蕨に破一声帝納−候了.とある文魔の滑息では、弘法大師筆の八幡御影があつたといふだけで、其の様式は一向分らぬが、
右滑息のつゞきの文に、石清水人件宮の別嘗成清が競望して、石清水に安置せんと請うた事を記
して、
3ガ而昔時八幡別曹成清可鼓泰垂直石清水l之由申上云々、此備以外僻事也.大菩薩のおはしめすら
む御心をもし♭候はす、凡夫の如レ此薪儀を支度仕候嘩不曹事候也。︵耶︶とある一便を、前の仁和寺文書の
八陣槍横奏歩雪弘法大師御具筆八幡大菩薩御影在手勝光明院貢裁或参事重安手管赴外蓼云
々、
とある一億と対照すると、右の雨文書の記載する弘法大師筆の八幡御影は同一のものでぁること
が分るであらミノ。果して然らば、此の爾文書のいふが如き八幡御影が鎌倉初期の建久年中に存在
.
したことは確かな事育として、寸竜の疑ひを容れぎるところとせねばならぬ。唯その弘法大師筆
たるや否やに就いては、更に確賓なる文献の保澄を要する謬であるが■、醐護寺文書の高雄山醐護
寺規模殊勝之傭といふものに、
八幡大菩薩竺鋪軍師貼附昭
とあつて、左の如く記して居るが、承中質強帳と.いふものが倍すべきものであるならば、︵最も比 丘形と明記はないが︶承中頃に既に斯る侍詭があつたといはねばならぬ。承中質坂根云、八棒大菩薩像一舗云々、軌僻鍔駄摘短靴鯛融艶“鞘右記云、此妙音寺中絶之時、破
安直鹿光明院箕裁南嘉元年中如恕破泰返三人本寺云々。
事案儒敦i融廠 九 3∂9● ●
一〇
寧集沸教ミ紳舐
補って、滑形人件の邁像に就いて考察すると、・奈良方面に於いては、有名ハ仏るものが二つある。
一は斐師寺八幡宮の神像で、他は東大寺人件宮の紳憶であ丁り、殿俳毀藤の結果、今同寺勧畢院に
安置するところの滑形である。
なかりひわ
薬師寺八幡宮の神像は、紳功皇后の御像、仲比真の御像と共に、三健一具のもので、三健倶に
現存し、其の製作の時代も同時であらうと耕せらる。剃髪して法衣を着けた像で、茸珠と傍杖は
今之れを見ることを得ぬが、恐らくはもとはあつたであらうと思はる∼。他の二像が服飾上よ♭
非常に尊重さるると等しく、此の八幡神像は紳彿習合上、最も尊重すべき温品である。
右の三像は何れも晃年、延喜頃の作であらうといム事は、串師奇人陣宮勧請の史賓と、紳功皇
后井に仲此真の服装が、常時の女官の服装と一致して居る事に依って静明される。襲師寺八陣宮
の勧請は確賓なる記叙を欠くので、甚だ正確を期し難いが、前に引いた染師寺八幡宮操起に依♭
て、寛平年中であらうと思はれる。ヌ斐師寺縁起にも、左の如く、貞貌、晃年年中と見えて居る
から、寛平年中として置いても、大過はあるまい。
鎮守八幡宮之赴者、苦行致和餌、山城国男山勘諦之後天和国大安寺破r移時、村岡紳輿奉レ休故、名一体 足岡要所立一細岡奉御、其後舶欄年中、昔時別嘗粂超律師.重而徒−東山︼勅諭大菩薩於此岡盲寺鎮 守奉′仰、一億院細字二檀倍於一入譲宮謹一一法導入議席l虜三永式へチ今修行。 きI¢又、薬師寺文書の中に
鎮守人件宮三赴
同 席
楼 門
字多天皇寛卒入年御建立、享線天正之兵乱に放壊仕候得共、加−藤理一候。といふのがあつて、明に寛平如年建立と点なつて居るが、これは頗る後世のものであ宣から、果
○ してそのいふ如く寛平入年であつたかは、更に傍詮を要するものと思ふ。何れにしても、寛率年
中といところが先づ邁曹な年代かと思はる1。而して、右の三神像を創建昔時のものと観れば、
其の中の一たる何形八幡像も寛平頃の作とすべきであつて、既に此頃八特大菩薩が純然たる比丘
形の様式・ピ採用して居る事は、.注目に伍する事象である。次に東大寺八幡宮の紳像は、造像弼もあら、文献もあ♭、其の製作年代を明かにする粘から見
て、極めて重要な遺品であるが、之れは既に斯る楼式の十分に完成し、爛熟した鎌倉初期に属す
るから、醐俳習合思想上の産物としては、却って薬師寺の八幡像に及ば
造傲銘の全文を出さう。︵競争ほ○わ似て示†︶。00∞執筆任阿漕陀彿克宗
専業儒教ミ醐蔵
訊侵東大寺人件宮安直之窪仁元年十二月廿七日御開眼. 今上、太上天皇、七億女院、八億女院、御室守畳.長最衰遍、辞遍、永遠垂玄、丁阿蒲陀俳、
過去、後白河院、快畳、快宴庚俊、良呵性阿蒲陀俳、
東大寺別菅井瞭、珍軍快専感庖痙宴虐魔、行最、迎軍迎慶、迎印度阿滞陀彿虚嘩
車道畢施ま巧匠○阿爾陀彿快慶、小彿師快食虚撃良情虚蓮東軍専慶虔快感考宗呵慶長、鼻
最、隆呵苛良禽、倍慶、勝盛、良智宥専有琶快蕗、愛嬢、慶寛、貰巌・運慶右序、卸長、宗邁、染工大
中臣友永、藤井米良友網、銅細工兼基、
稀少伊都願鱒秀嘩
親蓮、建明、敦佐、因挿局.伊具局、鼻乗、
典故、法印澄憲、
大倉 允.藤原俊重、
就女徳秋、
○ 比丘尼顔阿漕陀傭、法印成軍
寧欒儒教ミ紳菰 諏ほ軌世昔菩薩
皐帝.世書我、次郎三郎、友用、
源吾小次郎、高倉、
牛.千鳥.菊、牛母、手玉九、良貴、亀王九、
付行呵同父母高階氏、憲方、
比丘尼妙連、橘重永、源行水、平氏、
同氏、同氏、源締師九、千頑、俊竃、
諦受由周局、高橋女、
克革宗志.勝五感宥、儀海、俊丘、即邁、鼻筋、
高倉. 若俊.鼻阿蒲陀俄∵願園地功徳、
中嶋靡敢モ鋼廠
封3雷た●■享蝉豪 壷阿爾佗彿.草屋於〓甥 定阿#陀俄、我等兵衆生,
行阿爾陀沸、骨共成彿遭、
拳阿漕陀彿、法界衆生平等利益、
異阿爾陀倣∵衆生無速誓願度. 源氏.額備無遽誓願断、源氏、 法門無連誓厭知、
仮定俊、加水無遽誓麻尭.無上菩提誓願詮、
願我臨欲命終時、並除一切諸障持, 面見彼彿阿漕陀、郎待往生安楽園− 南無仁王妙貞.孝道中搭局、文殊師利菩薩、
○ 比丘尼蓮西、
妙法蓮華経、
3〟垂阿藤陀彿、
明逼、
過去剋師、
○ 敏魔. 明恵.定昭貴赫父母、
同祖父祖母同養母、
発縁組父祖廊藤原女、
珍阿爾陀彿慶発、三保、
宗全慶寛練輩大夫殿、
付慶風漁民女、
?∞○過去乳母I
O比丘尼蓮妙.〇 彿頂奇勝陀、
寧築併故モ紳姦
班○厚庖.
〇阿珊陀傭、
○琴琴
賓深、
即ち此の偉は建仁元年十二月二十七日に、開眼供養を行ふたものであるが、道立の根源は去る
治承の兵火に神殿炎上したので、再建を企て、新政上棟したかに依わ、建久八年八月十七日、東
大寺帰郷尊重陣して、膀光明院安東の大菩薩像の下賜を請うたが、石清水八幡宮の兢望あり、又
偶文塵醐護寺を再具し、右の御像を請ふ事頻であつたので、朝議一決せす、終に神護寺に下附せ
:らる∼事となつたので、東大寺の大勧進俊乗房重源憤りて、法妹の御像を新造したのが、新像で
ある。而して、神像は極彩色を施した木彫で、極彩色の二邁喜連非を有する茎庫の上に坐し、国
光を負ひ、木蘭染の法衣に、遠山の袈裟を纏ひ1右手に儲放一ぎ恭し、左手を膝上に安んじて居る。恐らくはもと、賓珠を持って居たが、今は失はれて居るのであらう。これ正しく付形八幡の典型
的な様式である。
四 倍形八幡の楼式とその本地彿との関係
右に解説した業師寺八幡宮の神髄にせよ、東大寺八幡宮の神像にせよ。正しく剃髪染衣の像で 謝
寧欒彿敦ま紳廣あつて、加水像でも無く、普通の大乗菩薩の像でも無く、全く比丘形である。凡そ八件の本地は
阿摘陀俄と翁る事が通説であつで、阿甜陀彿の令像に斯くの如き比丘形のある可き告が無い。若
し又八幡紳が八略大昔醗とか、大自在王菩躍とか、護国萎陰威力紳過大自在菩薩とかいムやうに、
器経であるならば、普通の大桑菩薩に斯様な表現様式一軍対する像は勲い。果して然らば、八幡紳
と比丘形と本地俳との間の聯絡はどうなるであらうか。世人は唯漫然と紳兢にして既に沸教へ臨
供したから、付形であるのが普然だと考へで居るやうである。此に於いて、八幡紳の本地俄に就
いて、一應の考察を施し、本地彿と比丘形との連鎖に就いて研究を試みんと欲する。
.八幡の本地身に就いては、東大寺入時椴記などを始め、阿痛陀と照ることに於いて、殆んと一
致して居る。これは八幡の紳格一ぜ高潮して、蒲陀大悲の慈光と同格化したもので、別に歴史的に
プ か,不可分の連傲一で理由づける文献はないやうでぁる。阿漕陀彿が本邦に垂逃して、八幡と様に現じ
たといふ考へである。即ち傭の騒化無力の一束現と考ふペきである。
八幡の本地が阿浦陀彿であるといふ侍説は、大安寺の行数が石汚水に宇佐八桔を勤諭した時に
始る♪即ちその時行数の袈裟に、調陀三尊が映ったといふので、行数は夫れを焉して上洛したと
侍へられて居る。此の樽詑に幾何の膵賓性があるかは疑問の弄するJころであるが、併し後世此
り轍詮を基礎として、入陪前の本地身が決定されて居るtしいふ串は否定出水ない。即ち此の侍訣
乎欒儒教ミ所蔵 347事業併敢ミ請鹿
一八
の成立が行教を釦ること近ぐないとしても、卒壕の一中糞以後からは寄与斯る樽説を信如化して居
るので、前記業師帝人幡宮の神像と封照する時は、斬る侍説の構成は世の早老の・想像するよらは、
頗㌃早い時代にあつたと考へざるを待ぬ。而して、襲師寺八幡の紳像はどうしても、本地身とし
て蒲陀を珠想したものとせぢければづ品ので、具には寛平前後には、八幡の本地身は珊陀打アり
といふ侍詭なり、信仰打了りが既に構成され、成立して居たと考へねばならぬ。その後、此の侍認
は愈確立して、鹿く流布したのである。たとへば、朝野群載諸の文に、八幡の事を記して、
稀二之三所毒苧基内琴普現二於行数和尚衣上亦壷非学、革帯陀三尊之像へ
といひ、槙本朝往生侍躯綾に、
生身之彿即是八幡大菩薩也東夷本撃則西方無且量和知凍也。
といふ一節がある。これは率安も未に及んだ堀河天皇剛彼の思想でぁつて、その普及を諾する好
個の文献である。
次ほ鎌倉時代であるが、前に造像銘の全文を出した東大寺八括宮の神像を信仰的方面から観察
すると、銘文の中には四弘雪原があり、嘗貿行願品の偽があ云∴妙法蓮華軽の経過がふ㍗り、傭頂
奇勝陀羅月があら、観世音の賓渋があら、文殊師利の名我がふ∵り、信仰に於いて決して純一でな
く、雑然として、蓉廟者、随喜の知識たちの信仰を不統一に表現して居ると考ふべゝ﹂モあるが、
3i8唯一つ本地身の阿爾陀彿でぁるといふ鮎から記入されたのでぁらうと考へらる∼のは、左の一個
である。
#我臨欲.命終時、蓋除一切諸捧持、面見談俄阿漕鱒帥待徒生糞婆固、こは尊貴行頗品許の中、普賢菩薩重頚中の四句である。
願我榛下欲二命鱒時▲ 違除−二切諸障碍一面見一致傭阿蒲陀l 即得レ徒重安薬剤l已 現前成二就此大願一一切脱漏韮来臨 利一東一切衆生界一彼併売合成清浄
坐 親祝義務無量光一現前野我菩薩凍−夢彼如恋授記一已 化身無数宵倶肌
才 普利一二切衆蕉旦那︶普靡沈溺諸衆生 速征夷畳光備利一
凡そ、華族摩には、六十、八十の南澤に両方往生の明文は無いが、四十に始めて普賢の十大願
を説き、西方往生を勧説し、畢厳の列租亦蒲陀念彿を説き、就中智僚は孔日章鴨に於いて、竃命
品内明往生義を元て∼、西方往生を述べて居ろ。八幡宮の紳像とはいへ、鎌倉時代の春大寺は既
に草炭を以て中心と頗る餓刹であるから、その関係から此の重頒の四句が書かれて通らう︰か、併
し之れを本地身を那陀と観る考へから導かれたとするも、決して無希の臆淵ではない。
八幡の本地身を蒲陀と為ろ事は平安中葉から起って、鎌倉初期には既に臥熟して居る。果して
然らば、付形八幡は本地阿調陀悌を表現するものと眉往ければならぬ。然るに、その形像ほど・フ
攣欒彿政き榊姦我既徒こ生彼観
− 我時於三勝蓮華智力虜大偏二十
3メタ二〇
寧欒儒教ご鋼紙
しても内に菩薩の行を泌し、外に比丘の相を現じ、左手に賓珠を拝し、右手に傷杖を執♭、千真
の青蓮華に安住する訪露鮒町地裁菩薩としか考へられぬ。地寂菩薩は、地裁本属経、地東十玲
軽、占察経を根本として、廉く支那、日本の民間信仰の標的と男ら、殊に我が鎌倉及び足利時代
に施術した信仰であり、締陀又は滞勒の浄土に衆生を導引し、自らも弼陀の化身と群やらるゝが、
未だ八幡大菩薩との直接交渉ある事を由かぬ。之を寧奨沸教の上から観ても、法相宗と幾分の関
係ありとするも、そは単なる数理上の交渉か、後に説くやうに、春日赴り夢二殿即ち天見屋根命
の本地としての信仰であつて、八幡大菩薩との関係に於いての信仰のあつ
於ける文献の欲すべき造像の上から粗餐するに、舌代の作としては、天卒十九年l一月十五日始作、光明皇后御願の地裁菩薩の立像高二尺∵姫が凍大寺の講堂にあ♭、舶猷折軸賓撃壷三月廿二日道
立の輿頑寺東院の地蕨堂に、本尊として地就像がぁつたといひ、諾鮎組其の他、法隆寺の二階
金堂に地衆像があつたといひ、調川凱軌又唐招提寺に於ける如繋が地威等を安濃した倦設があるが、
招学者記、此れ等は毛も八幡との関係の徹す可きものが無いのである。陥って本地身阿紺陀との 巻上之一、
関係から演繹すべく、何等の端鮨を費見せぬ。故に比丘形八挿の地先約束現の根披は、密教に於
けろ浦陀地蕨一鰹詑に求むるの外はなからう。寧実に於いては、輿両寺南風堂の本尊不審轟索の
滋上彿︵茸冠の︶は化阿対偶でぁる可きに、地裁でぁるといふH侮が今¢。而して此の本尊は弘法 謝
大師峯海の作であるとされる。右口侍の一例を怒ぐれば、南都七大寺巡祓記の高庇堂の備にも、
左の如く見えて居る。
本尊等弘法大師作也、口侍云.最上俳両者地裁菩薩也云々。此の鮎に就いては、何後日の研究を期㌻る。
王 事聖像数と春日明神
単葉儒教と紳舐との関係の一両を代表する八幡大菩薩に就いて、一應の考察を終へたので、更
に進んで、他の一面たる春日明神との関係を大観しょうと欲する。謂はゆる春日明神とは、武彗
槌命︵lノ宮、鹿島︶醇ま命︵二ノ宮、香取︶天見屋根命︵三ノ宮、中岡︶姫神︵四ノ宮、伊勢︶及び若宮の五檻の紳の一紙稀である。
八幡大菩薩の信仰も、民族的には源氏の氏神と承り、国家的には護国の賞牌と番わ′、院政以凍
多大の費展を観たが、それ等は峯軍備敦とは直接の関係が無いから、一切考察の範囲外に置いた。
然るに、旛日印紳と箪奨彿放との関係は、始めより藤原氏の租紳−釦ち氏痢 − としての信仰
を根本税金として結ばれたものでJのるから、研究の第一義を飽くまで此の根本観念に置かねばな
らね。随って、春日明細又は春日標現の信仰史上に於ける醐格の費達は、攣王墓の紳の中、主
として第三殿の天免屋根命に集中される軌がある。而して此の紳舐は帥ち藤城氏の租紳であつ
事業俳秋ミ醐癒 3βl書ミ暮虞
二二
て、其の木嶋身は地蔵菩薩盲考へられる。故に亜紳の信仰の蜃達は、他面本地身点る地戎菩薩の
怯仰の典蓮井に洗布であつで、その六道輪廻の苦患壱代受するの悪意は春日地獄の侍設を生じ、
解股上人に顕現しては、東大寺知足院の本尊と焉ト、多くの説話を遺すに至った。又藤原氏の氏
人に対する氏族の紳彗を♯課す阜組祀としての意志を一定の形式を以て費表する事と眉っては、
放氏、癖氏の如き敢曾的制扱と卒りて現はれ、一種の神様政治を打立て∼、氏人に封し、現嘗井
に彼岸の世界に於ける生殺輿恕のカを奮ふに至ったが、その紳舐的意志を裏書し、構成づけたも
のは、全く●数倍仰に依って、搭げられ、深められた軋先崇拝の原始的信仰で今¢。斯様に考へ
♯れば、春日明♯の信仰は理論的にも、社曾的にも、八幡大菩薩に比して、頗る深刻味を帯ぶる
ものとせねばならぬ。随って、沖格の内容も亦複雑であアり、廣汎でJのる。藤原氏の親紳−氏紳−といふ観念は、直に藤原氏の宗教−氏寺−と簡閲して、此に第
二の意義を生やる。即ち藤原氏の氏族としての前垂を擬護する神明は、又やがて藤原氏の奉する
宗教の神聖を擁護する。詳にいへば、法相宗!唯苧−の弘通を助け、その樺威を擁護する甜
舐として現はるゝに至る。此の意味に於いて、輿頑寺に於けるあらゆる法令の細分ほ明紳の法斐
の虐めであ丁り、あらゆる善根はその威光倍埠の勝業でめる。維摩骨も、慈恩含も、経論の書寄も、
開披も皆之れに外ならぬ。陥って、期る法曹には明細の影向を仰ぐを以て根本條件とし、藤氏の
3う2公卿に非れば、南風堂の坂上に昇ラJとをさへ許されざるに守った。普遍的であろべ.き儒教の氏
族化は、唯識擁護の紳明が或る一定の氏族の租紳たるに依って、斯る奇現象をも呈す一¢に至った。
之れ或は支那に於ける儒教思想の祭祀軌念−紳は典族の祭祀を受けぬーー一に影響せらろゝとこ
ろがみったかも知れぬが、直接の原因は春日明神と輿頑寺とが全く藤原氏の覇占に錆した食めで
あらう。
春日五細殿に本融さる∼五桂の神祇は又本地垂迩の潮流に乗じて、本地身の確立と焉り、そが
密教の熔墟に入上し、諸塞法式の表現む得て、此に春日蟄蒜重要音促し、幾多の窒壌は結集
せられて、鎌倉時代に入り、番目権現歯記と満って、その新高潮に乱した。今それ守一々の信仰
を考察するに先ち、右歯記の一節を引かう。これやがて、春日倍仰の序論でかり、又結論である。
凡我朝は紳圃として宍廟敢穫三千徐座、各記現まち′−に利益とトてハ11なれども、かゝる不思議どもいまだ見も聞も及ばす、まことにこれ勤松は霜の後に顕れ、忠臣は岡の允きに見る串なれ
ば、時末代に属し入試曲なるによらて不信の衆生のために掲焉の化犠一㌢ポし給な一〇ペし。熟l事の心を菓す乙に、粁令の一代寸でに寸ぎて、慈氏の三食また造なれば、前傾後彿の中間に生
ろゝ者、今世後世の利琴でうしなはん事を憐みて、粍林の煙のうちにかくれ給しかども、鷺谷
の月の光をやはらげて、劫濁見濁の尾にまじほり、暗きよト暗きにいる雅をすくひ給、大悲の
寧襲彿軟↓−紳戒 3且フ夢襲沸教ミ紳蔽
二は
況き御志おもへば泥もとゞまらす、さルば現世の官線を授け給も、更に一旦の名利のためには
あらす、和光同塵は結線の始なれば、この一緒を結び一ぜきて、入相成道利物の終、つゐに菩提
に到らしめんと也、これすへuはち戊事智の所現は専建類授に封すれば、嬉しきかなや、なかなか流輯の凡夫として、いま或現砕身の化導にあへることを、随心浮虜軸士朗なれば我耕すでに
諸俳也、放壇あに浄土にあらすや、然れば浄瑠璃整髪山やがて瑞籠の中にあら、禰陀落清涼山
なんぞ雲海の外にもとめむ、明恵上人の婁山と拝み、佗成卿に菩提の道と示したまひし此こと
はト石?りけん、又罪業もし重くして.田臭しからしむるものは内語法牲の土、渾稼をわかぬは大明紳の本地法身の化用として童現したまふ地獄のなかにおちて、終に出離の繰たるペし、苛
脚付椰人につきて申ける、きJとぢるにや、すべて随類應現の引接戴思なれば、六趣四生にか
くるとも、一たび繰を結び奉りなば、食耐の引導にもるべからす、かの密教の心、地獄鬼畜生
も亜陀羅の空衆とならへろもよくく思あはすべきことなゎ。
大 春日明細の本地彿と春日塵茶産
先づ春日明細の本地彿一で考ふるに留り、上代に於いて、藤原氏がその氏紳、氏寺に就いて、氏
族の繁柴を新鹿しだ例を考ふるに、虫も有名な歴史上の串貨は興福寺に南聞宰ぞ建立した事であ
ら,フ0 盈54南朝堂は弘仁四年、藤原冬嗣が先考内麿の遺願を果さんが焉に、春海と困らて道立するところ 蹄
で、藤氏の繁桑ノぎ新顔する虐め、本尊不審弟索を安置し、豊前に落花を柾ゑたので名高い。本尊
に此の軌音を選んだのは、東大寺の三月堂に同じ観音を安定する外、天平以後、卒安初期に甘け、
此の奪の信仰の盛んなるにも因るであらうが、叉此の奇の博士たる禰陀落に藤花の吹くといふ経
の本文に因んだものでめらう。即ち不審崩索醐鼻眞言経︵暦菩提流支評︶の出世解詭壇像品第二十
六に左の如く見えて居る。
世奇是不思議観陀羅局眞言出世解説鼻肇羅像−自蛙布絹推薦四肘.或贋六肘入射十二肘.白月十五是首里、計量皆野野草寵應香水輿論呑膠東色豊、︵卯︶中華敵陣幣束山胱像姦悪
0000
王揖車九牟戒関連華.其夢山草何大卒正、山上章諸君樹華樹藤枝聾稟.山下大海種々魚戟、其草一 心萄上︰章東宮殿櫻開発樹感中蓮華師子安座︰座上不重箱索観世音菩薩彗二面内管.著夷衣服傍釧珠理胱夫梵天面有三三旦首戴衰定義有一社健二手把蓮華リー手把三三叉戟︰一手寧頑軍一手施無
長、結伽灰坐。
此の本尊は鹿皮の衣を暮するといはれるが、虚皮の事も同経三三昧耶像品第九に典披がある。
︵聖又義治国藤不嘉索驚喜薩面目雷、首戴衰琴驚l祉彿︰一ヰ執蓮華言蒜義勇
000〇
一手執三三叉戟二手換ゾ掌、結助挟坐、天諸衣服珠理法釧向荘ヱ最之り裁量鹿皮衣︰
寧欒傷政吏紳癒事業沸教ミ神威
二六
此の垣菅は藤氏一族の非常な信仰を集め、盤上に昇る事は藤氏公卿の覇権とされた位で、冬嗣の
孫なる二僕の后高子の謹哀しで奉納した不重用索醐兎心経は今に存しで、舵鋼船
元慶五年五月七日父母式忌夫名著投書駕巳 藤原氏女高子
の験語を有する。斯ろ信仰は後世春日の一ノ宮たる武饗槌命の本地を不室忍索とするに臭ってカ
があつたであらうと思ふ。
さて春日五所の明科の本地身に就いては、諸説区々として一定せ氾が、今まなる設を奉げて、
其の異同を考へようと思ふ。
ヽ−一一■ 一天慶三年に、中臣蓮信清の記したと侍ふるものを、秀行三十代姦夫東延長の倭補したものに、 ︵左の如く述べてあ㌃。
御本家地承
一宮、御本地不容属索或滞迦加水云々、
俗形老健六十許、御冠ノヲヲカケ、綴ナシ、多弁クマフ、⋮⋮:二宮、御本地斐師如凍或爾勒云々、
俗形老偉六十許、ヒケナシ、ツル∵、、ノ褐存知盲ラクナ子・⋮: 三宮.御本地地裁菩薩、 ユガ借形御服柄裟袈草鞋、 四宮、伊勢大紳御本地大日加水、 或十一両観音形如一書舜天︰
コ承安五年三月一日、執行正預若宮醐ま中臣法廷連、醐重大中臣朝臣時盛の両人が院宣に依りて
′l■lヽ注進したものに、春日大明醐御地本地事と潔して、左の如く記して居る。
一宮 鹿島武富紳 不審腐索観音
二宮 香取藩主紳 薬師加水
.一三宮 中岡天見屋根命 地裁菩薩 十一面観音四宮 含殿姫神
若宮 文殊師利菩薩 ︶だ藤原泉質が其の日藤、玉真の建久五年七月八日の債に、年来造駁し奉る所の春日五所の本地
を左の如く記して屠る。第一不審屈索 鹿島
第二 簗師
第三 地蕨
寧兼併敢ミ剛蔵
お7第五 十一面 若宮
︶ 四永亡二年に注した春日赴私記に﹁御本地の事と題して、五節明神以下の本地を左の如く記し ︵て居る。而して五所の本地は承安五年の比、院宣に依♭、正預中臣延邁、神主大中臣時盛等連署
の注進状に徒ひ、労異論を星ぐるといつて居る。 一宮 鹿島大明耕 不重用索観音、或設祥迦加水、二宮 香取大明神 襲師加水、
三宮 中岡大明神 地戎菩薩、
西宮相殿姫紳
十一面軌考朗畑譜棚蛸︰若宮 文殊師刑事薩 或詮十一面観音
︶
伍大乗院寺敢雑事記、文明四年四月十入日の備に、春日五所の本地が左の如く記されてある。
′
一御殿 建雷神 帝迦.不重箱索、不動、梓才天、 二御殿 経津壬辞 典師.珊勒、三御殿 天津見屋根醐 地寂癖才天女、
四榊原 天照大神 十一面、大日. 寧票彿放ぎ紳威第四 十一面 伊勢内宮
3朗ミ
若宮八幡 文殊、帯覿考
︶
エハ具扁寺正勝記に本地に就いて左の如く記してある。 ︵ノ 一宮 不重用索 ′
二宮・#師加水三宮 地織警醒.
′ 四宮 十︼面観世音
若宮.文殊菩薩以上列果した圭ろに依つで考へると、本地身に就いては、多くの異説が雪ことが身る。玉
壷都にも、左の簸り多くの典故が讐てある。
.
′
即ち藤原時代かも鎌倉睦代に考へられた寿旦五所明神の本地は略右のやうなもの芸つで、フ
一宮
二宮
≡乳
四宮
若宮
事璽正号i蓋 鹿島明紳 不孝用索.繹迦、大日滋砂肝天、香取明粛∴集師、耕才天、地天、琴
平岡朋醐 地蔵、粁才天、
姫稽
十一両.大日. ︰文殊.呵責陀、 き郎寧無償敦モ紳菰
三〇
宮鹿島明神の本地を不重用索と焉る畢は前述のやうに、藤原氏の最も号崇する甫閻堂の本鱈を此
鹿皮御袈裟 に再見するわけでみる。前記玉葉に一ノ宮の本地を記しで﹁不重用索観音、如−南園萱草Lとあるは、此の速の事を暗示したものであらう。而して、氏の組細三ノ宮の本地が地荒で、而も之れには除
り異説の無い事は、前引の春日権現境記に、春日権現は、繹迦、蒲勒二号の中間たる無彿世界に
出で、衆生を導引せんが虐に、垂述したといふ思想とよく一敦して、六道能化の地蔵食を詭明し
セものと観る可きであらう、斯様に考へ凍れば、春日明醐五所の中、その信仰の中心は一ノ宮と
三ノ宮であつて、而もーノ宮の本地不容属索の信仰は寧薬朝の中葉以後、卒凄初期に盛んでぁつ
たが、その後漸く衰へ、三ノ宮の本地地蕨の信仰は平安中期から興って、鎌倉、足利両時代に全
盛に達したので、藤原氏の租紳といふ考を外にしても、斯る信仰隆替の気運に随って、≡ノ宮の
神威が輝くやうに焉♭、藤原以後は、、此紳の信仰が中心と眉つ佗ものと考へねばならぬ。
密教の隆盛に随ひ、此れ等の諸所を一舗に重いて、其の本地を崩はすことが行はれて雅た。之
れを春日点茶羅といふ。世に謂はゆる春日鼻茶羅には二種あつて、春日山を背景に、赴殿の光景
し少 を中心として書いたものを宮鼻茶歴といひ、紳成一で中心に、五所明細の本地を顔はし佗もの一で度
量茶雁といふ。之れ即ち本地垂迩の思想が普く洗布して、五節別納の信仰が高潮に逢した時代の
産物である。斯る信仰の治憲的表現は頗る黄族的趣味に合致するものがぁつたと見え、優雅なる
3βの気分の裡に、一種崇高なる雰囲気を措、き出したものが多い。その起床に就いては、春日権現験記
に、普璧寺基賓の夢想に現はれた垂跡の御饅を描いたものであるといふ。
普賓寺揖政殿は中家とひとつにおはしまし∼かば、責永に宗感公以下西海に赴きし時、同く関
ると御覧じて御車を停むれば細入みえす、又御車をす∼むればさきのごとく、かくする串二三 一西の邁におばしたちて、五偉大宮速まで行幸従容し給けるに、うしろー†り黄衣の紳人まねき奉
七 唯試擁護の神明としての春日樺現
度にわ†りければ、春日大明神おぼしめす棲あるにこそとおばして、掠を北にして止まり給にけ
り、前後うち囲みたる武士のなかをわけて、御車・ぎやりかへされけるを、とがむる人なかりけ
るもふしぎの事になむ、すべてこの殿は紳慮にかなひ給けるにや、春日の貿前にては鹿御かほ
をねふりけり。又世中にひろまりたる垂跡の御億の鼻茶羅も、この夢におがませ絵たりけると
申侍へたり。
基賓は右記にみえるチっに、院政時代の人でぁるから、春日鼻茶黒も平安末葉から起ったもので
あらう。
春日明紳が藤原氏の氏神たる事情が﹂同じく氏寺たる泉南寺の彿故に関して、密接なる交渉を
持ち凍る寧は理の正しく然るべき曹然の順序である。即ち輿痛寺の卒安以後の宗派たる法相宗
寧欒件数ご甜癒 ∂βJ■欒沸教ざ謝廣
.三二
︳ トト北寺十−た対して、蕗依擁護の菅原と点って現はれて充た。・こは乳業朝に淀行した金光明経や最膠王経に魂はるゝ彿俊幹依の諸天や、傭法擁護の誓願を有つ蟄丁計〓遠路に依るもので、
醐俄習合思想の表現としては棲むて順皆の螢展であらう。春日樺現駿記に
央寿白犬明細は、満月閻朗の加水、久速成並のひかhノぎやはらげ、法事等魔の薩嘩内密本地
の警かくす、専一朝の嘉として、讐臥洋の董富鳶鱒︵卯︶⇒ゐ巌覧警纂
髭監即即郎伽即卸幣ぶぷで蒜宗宗蒜卵い蒜脚、㌫靂卯抑即如加担
00000
けちたまふ。秋津洲の中、山野多けれども、月光も三笠山にしかす、花の匂も春日野に勝セる
はなし、この花月をもてあそび給へと、香取申開の両神に申されしかば、
てよ
とあかは、斯る思想む明示して居るもので、その軸はやがて菩薩と焉㌔慈悲萬行書薩と廃す可
しとの託宣があつた。験記に云く。
兼争七年二月二十吾亥時ばかり神殿鳴動しで風吹、子時に楠氏女御箕前にて考をはなつ。紳
廃寺ならびに預などをめし集むれば、己つゝしみ恐れて候、又今月二十三日よb御講座に候奥
弗寺肝勝間をめす、郎御託宣云、我ははやぐ菩薩に成にけり、然るを公家いまだ菩薩の競を得 ∵葺か
ぎるやとおはせらる。こ1に天台山修行の付千良申ける㌢菩薩の御名左いか苗侍覚
劇招000000
と申せば、慈悲萬行着醍と名のらせ給、太政大臣及左右大臣もろくの公卿もわがことはる所
也など、さまぐ仰せ霹甘もあらけり。
爾水臭腐寺の・法曾には、寿自明細ぉ金岳せざるはなく、明醐の影向なきはない聾と点った。而
しで、藤原氏の成人は上は繊政関白より、下は家庭の免女に至る主で、此の紳に現世の乗睾を新
り、冥途の卯護を騰る習慣と磨ら、夫れ等の願文、啓白の類は歴代に亘らて、殆んど無舷で、枚
畢に迫が無い。
唯識擁護の神明としての春日権現の婁鹸のかす′′、lは、春日権現墳記の中に、麗はしく描き出されて居る。抑春日播現瞼記は春日明神に封する藤原氏公卿貴族の痛論集であつて、此の紳の光
明而が絶代の養家の妙筆に依って、絢爛を極めて嘗魔典雅に表現されて居る。賓に中世檜巻物中
lの傑件である。駿紀は本蔚二十黎、目線一審よら成♭、東平の託宣より嘉元の醐火王室るまで、
五十八俵の輩唆を記し、拝むに九十一の檜壷を以てするものである。紳彿同位、和光同座の旨を
本とし、結線泡仰の輩は引導利益を受け官るなき事を、賓話に依って示し化ものである。花園天
皇の延慶二年に成ら、或は前聞白鷹司基息父子四人の螢翫に係るといひ、或は西園寺公布の螢厳
に係るといふ説がゐ去。著聞御記に、﹁竹内左大臣依立願一新調﹂といふ記事に依♭、各衝詭が確か
で雪といふ。詞書の作者は麒面拉印・Ⅷ道鼻同等鋸鋸にして、前大冊正苗倍、範憲禦韻の批判
書モ羞
三三
お3事業沸教ヒ譲癒
三四
・晶ひて訂正を加へた専が官僚の末文に見え、筆者は前関白鷹司基忠、掻政各年諸株大納言冬
基宗冊立良倍加の四人で、給は捨所預高階隆東の一筆に成る。
食中唯識論の功徳を詑き、南都の畢匠の擦護を説くこと甚だ詳密であつて、一々此に寒ぐるに
蓮な拍が、左の如きはその好例でぁる。駿記に云く。
ノ
典頑寺の角偏勝詮付加、安元年中経摩骨の講師を勤めむがために、中宴に移りゐて偉ける時、
盛息得業もとより酋室に住みけるが、勅使房番論毒せんとて、随分畢関してねたる夢に、一人
の小見きたりてかたに手をふるヽを、誰人にかと問へば、我は春日四の宮也、勝詮をまほらむ
托て降臨するつゐでに、汝が草間所を見んとてきたれる打てりとおほせられけり。
シトシア 有名なる應和の宗論に、南北の畢匠封時して、論難酎なるころ、天台の良源、方便品の﹁無益一
ザルセ
不三成龍一﹂・ぜ以て、一切皆成の剣を揮ひ、無性有情不成彿の法相宗を粉砕せんと迫った時、興福寺
′ハ
セ の仲算冥目して春日明細の加護を所願するや、明神影向して、﹁無l不一成彿lLの訓法を授け給うた ■といふ挿話は、賓に唯識擁護を高潮した千古の好話柄である。
斯様な思想は明細の喜び給ふ唯識論等の経典を書焉又は招宴して、賓前に奉納施入する風習を
生じた。現存する相続に金泥を以て寄せる燦爛たる唯識論は賓に敬度なる藤氏の上薦が一字三患
の筆を染めて、巽南に奉納した記念物である。森日赴文書の中の左の一迫の如き、此の風習と碓
ご貯1群に語って居る。
本能入
鹿伽師拙論
さ
額 揚 詮
世親磁論
無性繊論
大荘厳諭
凍 集 論
中 速 詮
二十唯識論
百 法 論
五 鳶 論
成唯識論
右革命法久住利益有情奉レ施大審日政変中談義︰永奉納こ 赴壇宗旨鼓一缶他所−之状、如祢、 覚書二年三月二日 事集儀敦ミ♯蔵 首 巻 二十楷 十 巷 十 巷 十三希 十 六啓 三 巷 ︼ 専 一 巷 一 巻 十 奄 j好5南無阿謂陀彿 ︵法華経故語︶
声撃春日四所之紳畢敬彫一睡識十軸之諭摸衰義朝安鱒天下泰申、興隆彿法、利益有情夷、
建仁元年八月十三日始乏壷向二年六月廿日姦㌍功畢、施入沙門要弘.︵唯試論刊記︶備考 宰欒刊鰹史、璽二幸平安朝時代、第八紅顔原氏の勃興モ春日構現の信仰、第九節春日疲の意義を見よ。
八 氏礫擁護の紳確約意志の赴曾的螢勒
春日明紳が藤原氏を擁護するといふ信念は、氏人若くは結抹の輩にして、たとへ番人打アりとも、
他方の地獣に堕さしめす、春日野の下に、特別の地獄を遣うて収容し、毎朝第三殿から地象菩薩
が温水許に水を入れ、歌枕を添へて、水を濱ぎ、その雫が罪人のロに入って、しばし地獄の苦を
忘れる問に、経の要文、陀足尼などを聞かせて、漸次に救ひ給ふといふ謂はゆる春日地獄の信仰
′大
修
正︵花押︶明細の放棄に具へ、唯識の弘通を助くる焉に、興福寺に於いて開披した経論を春日板といふは、
又斯る倍仰表現の一形式である。其の抜諸には役々同一の璽息を披柾したものがぁる。
依宥恕想之草軍令抜こ就現普二世之願畢準摺恵供毎法華経一部入筆節奏二納春日敢算段−也。
英和元年十一月十一日
事業沸教ミ謝舐 妙︵花押︶ 妨βを生じた。現に春日山の奥に地獄谷といふが今に獲って居る。此の事は春日権現陰紀の中に左の
如く見ゆる。
南都にタ輔付都帝国とて、解脱上人の弟子にて額拳の問えあbLが、魔道におちて戎女人につ
きて種々の串ども申ける中に、わが大明神の御方使のいみじきこと、聯も偲過し奉る人をば、
いかなる罪人なれども、他方の地獄へ遺さすとて、春日野のしたに地獄を梼へてとり入つゝ、
毎日昆朝に第三御殿よら地戴菩薩の溌水器に水を入て、散杖をそへて水を注ぎたまへば、一し
一
たヽりの水罪人の口に入て、苦息しばらく助て、すこし正念に任する時、大乗経の要文陀暴虎
などを唱へて開せ給こと日々に怠なし、この方便によりて漸々にうかびいで∼倖打†り、畢生どもは春日山の東に香山といふ所にて、大明神般若をとき給を蒔閲して、論議問答など人間に法
はす、菅畢生なりしはみな畢生行了り。まのあたり大明紳の御託法聴聞するこそ黍くはべれと語
000 0000 000000
0 00 0000
ける。地衆は皆所垂この御本地なり。殊利益めでたくおはする申ならひたり、索偶の導師付属
0000
の醍痙也、本地率跡い.つれもたのしくこそ侍れ。然るに
、奉安中期以挨、誇大寺に僧兵興り、輿頑寺にも強大なる兵厨の結成せらるゝや、春日
明細の氏族擁護の慈悲的精細は、此に梓法化し、亜紳の意志として、最粛王畠
臨む事と焉ったぐ即ち放氏■といふ氏族種痘否の飲茶烈日的審列が下さる、に至った。即ち興福寺
寧欒儒教ミ紳議 367●▲ ヽ
三八■
■茎Ii竃 L
大書圭に反き、利益を無成するもの、不利を拘る見入に対しては、趨帝写匂天鞄屋根命は敢Y
熟して氏真の繍聖を侶結し、寧寧の利益き憂藁する焉に、懲罰上し′・し、氏族外に放逐すべく長命 .′■ヽを下さる∼車上翳つた。而Lて、其の赴き悔ひ、其の行鰯を改む争に於いては、復樺を許される
\
事も鮨♭、之れを♯氏又は艇長といふ。此帝個の武穿は固よち具癒寺大衆の妾出した方法に相違
ないが、而も、組前の名を似て執行するに至ってほ、優に氏人を拘束し、十分に殻曾的制裁を加
ふることを得るに至った。斉に親紳としての春日明神が氏族の紳重々擁鰻す一角めの意志表示で
あつて、之れを政令的に有効ならしむろ王於いては、一種の醐樺政治といふべ診である。尤も救
民なも行貞は氏人が氏の能面を汚す如き失行のあつた場合に行はれた制鹿で、鳥羽、崇徳南朝の
頃、孤児廠佐が放氏せれたのを初めとし、絹舶仁平元年左近腐生狛光弘が活狂に依りて自書を企
て、狛氏を放たれた翠が欒所補任に記されてある。これ偏に姓氏食重の園風から出た事であるが、
輿癌寺の場合に於いては、其の制裁が縫療的で、親御の意志が興福寺の利書といふ標準に依って
動くに至っては、擢に徒黍の習慣的制裁とは異るものである。而して此の制裁は上は関白より大
中納言に及び、点きは紋日、長きは数年に亘り、其間は藤原氏なるが故に有する一切の公樺、私
権々停止するのである。詳にいへば、一切氏の草丈和する樺、儲奏、倖奏等公事を奉行する樺、
氏人としで安け争牧入等の停止庭介で、官位は昇進せす、蟄居護供せねばならぬ。而して、百方
3β8哀訴の末、此の虞分の解除が行はれて、初めて復権を得るの・で、東棟、復権共に荘厳なる儀式を 謝
似て、明紳の梵前に申告される。をの行はれた時代は鎌倉陣代から室町時代が最も盛んであつた。
撫育る記銀に残る賓例二十教件を畢ぐる事が出凍るが、今は一々の事件に論及しない。
イ・僧著︳異論.第九章藤原氏ヾJ春日明紳の制裁を見よ。︵日本儒教奥の研究、第二懇断金︶九 醐鹿の竿紳的崇拝
俳敷の背景に依る春日明紳の信仰が、・藤虎氏の勃興と共に高潮に達するや、其の醐蠍たる度鹿
−豪犬養誓.、公卿の劇冤たこト、菅赴に於いて四頸の鹿を見た寧晶して誠に大昔警彗
さへもが、崇敬ぉ安くる極、殆んど竿紳的地位にまで上るに至った。之れ我が押紙史上特異の例
患還至年二月の條霊、八日春日祭た詣でト典誓文北遽で二三蒜鼠に逢ひ∵7鳥 J
で通らねばならぬ。
初め紳鹿は之邪淫見るを似で、盲群の例とされた。之れは藤原世の氏人にとりでは、決して聴 1・ . . ヽ朗か宗競的腋換では無い。中右記の長治元年†盲十日の億に、夢想の記事があつて、長の発声
て居る。
ヰ廟夢想憂藤原長者大智新車公卿鍬真文盲群也、於裏目御政一亦車重鹿四雫誠是大吉群也。 t膿同居鞄拍二年二月の備には、春日赴に詣で、林間に虎を見て、﹁誠是吉祥也﹂といつて居る。山
三九
専業儒教ヾJ糾戯 一居逸で又四五頭に逢ひ、﹁此事極苫前也.有−感歎﹂と述べてをる。
然るに、紳庇に封すも信仰が漸く高潮するに及んでは、単に盲軒といふのみへ号らヤ、成激の除、
行撃った鹿を挿すもやうに点った。此に至って、紳鹿は竿紳的位鹿に昇ったわけである。
中右紀の元永二年二月の條に、廿二8奈良に向ひ、典痛寺西大路に於いて二頸の鹿に逢ひ、事
を下bて押した串を記して、左の如く述べて居る。 又於三御寺西大路一挙鹿二頭葱下塗丼乏過丁、長大膏慶之相也.央れから、春8敢に詣で、初めて蓬ふた鹿には、必ヤ革を下って績拝する習慣と点ったやうで、
野原受賞の玉葉順譜紳にには尭蒼が家族を件ふて、春日敵に詣でた時、童子が車宮下らて挿しだ
事を記しで、
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叉多紀之脚・姓−−夜中鹿太多出窄鮮−小・伍
小量下適奉憩乏云々.︰
といひ、文治五年八月サニ日散会の時には、具扁寺金堂の遽で、T御堂の中で鹿に逢ひ、塵菅百ら
が合掌感挿し、随喜の洗を垂れて屠る。
●●●●●●●0000 此間堂中点﹂出現酌拘指事之希異更以不論巽金速成合掌小憩、浦素試臨書之準者也.凡下一向南野卸和知斯か小野紗如軒禦か部軒知如如和知如か断か和l如卸町是常山岳原野之間也・
寧棄彿政童譲巌 37り㌧鹿康之貞一億、深疎亀人泉南菅生之西方自−晦日一瑳勃、掃除之人卑見物之衆徒.新市無r有袈際︰而忽 ′ を、.例月紀に記して、 不,博一和人誠又寧現金堂中−哉、向一義奉告強.成茨数行、可憩可一喝身撃不骨;心有a謀倍へ是以有︼垂 ∬−歎.︵下鴨︶ ∼
瀦離農定家が発着二年八月二十日.、放念の時、東大寺速に於いて鹿に蓬ひ、輿を止めて挿した事
、。蔓大音野草津鹿.昇高弟l憩乏。せいって居も。斯る醐鹿高年紳的鼻舜は鎌倉時代を温じて行はれたやうで、紳鹿に危書を加ふる
亭主量写し、厳刑を以て韓んだ事はよくその間の滑息を侍へて居る。
l備考 春打の紳慮に封†る中世貴族の信仰︵日本悌数史の研究無一巻所載︶並に同共学欒第十一波所載︶な見よ。 ﹂〇.結論
以上、事業俳款と紳就との陶係に就いて、特に八幡紳と春日阻紳を中心として一應の観察を終
へた。由凍、・我が押紙の研究に於いて、特に像疫盲の関係−本地垂速の信仰−に射し、鹿本
‡しぎ偏見が行はれた。之れを全く偶数弘通の目的を以て圭出されたト,ックと観る徳川時代の
闘薯井に押迫者淡から、唯物史親風に、付従の経済的割込乃至掠♯の方虜と観る明治時代の草
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書に至るまで、曹之れ楯の字面であつ.て、漁して公正なる研究とはいへないでからうQ八幡にせ
■欒彿敦吏︳歳 担一 上汐Jノ 四二 事業愕敢ミ所蔵
よ、春日にせよ、沸教々理の贋大喪連なる熔墟を通過し凍る事に依って﹂ いかに其の副俵を荘癒
し、如何にその紳威を倍嫁したであらう。沸教がその弘通する団々の紳就を撮収して、自家の思
想中に復活せしめた例は、印度に既に之れふ丁り、支那に既に之れあら、日本も亦をの一例に過ぎ
ぬ。試に点茶雇曾上の請合を諦成せよ.。その過竿が印度産出の紳統ではないか。凡そ普遍にして高僻なる数理を有する宗教と、地方的にして低級なえ信仰とが遭遇した時、一が他を包容鏡取す
るに非れば、他は必ずや死滅の路を揮ぶ外はなからう。若し夫れ掻取せられ、包容せられたが焉
∵に、その侍統的信仰を維持するのみならす、却って、その詮浮を洗激し凍って、一段の克明を放
つを観で、胃璃なら、詐詑七トと呼就するは、果して正皆の見解と挿すべきであらうか。吾人は
典雅打てる藤原期の八幡神像や、絢爛たる鎌倉期の春日櫛現鹿記に臨んで、如何の威を起すか。此に於いてか、過去の畢者の見解は謂はゆる認識不足の結果なる挙が明かに点るであらう。吾人は
央れ等の畢者に向って、本地垂速読に封し、更に新しき再検討を要求する権利を有するものと思
惟する。 ︵昭和五年九月二十八日稿丁︶スピノザの宗教観に就ては幾度も論じ亜され最早問題にする除地は殆んど建ってaない。それ
を今夏こゝに喋々するのは精々蛇足を添へる戚がある。が私としtはスピノザ.が或る方面で全然
喪解されてゐることを知ってゐるので出水ればそれを是正したい希望を持ってゐる。それはスピ
ノジズムの本領が神秘ま義に在って彼ベネディクツスは暫畢や教畢の仮面のかげに隠然と既成宗
教を庇護する理論を創立した覇時の紳単著であろといふやうな見解である。かゝる見解には多少
根城が無いでもないが、彼の思索鱒系の中心鮎を見落したところに重大な誤謬が肺胎する。勿論
スピノザ自身屡々侍統的信仰戚備に奉仕しっゝ紳に封する敬度の念を説いてゐる。そして到る庭
で自分が決して宗教に反封すろ着で㌣ことを世人に承儲せしめようと努力してゐる。し
れはまとして愚衆の迫書を免かれる手段であると共に一般世人に自分の言葉を受入れ易くさせよ
うと企てたに過ぎないe彼の所謂﹁生きることの規準L︵まくendi壱−且なを大原則に従っ甘も
ヽ スピノザが宗教に封†る態度スピノザが宗教に射する態度
﹂・キリスト教的人格醐諭の去こ乍ト・
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