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内 田

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サ ン ・ ポ ル ・ ル ー の詩的思考(皿)

内 田

1.ゼロからの世界創造

前稿(I)において,詩を書きはじめて間もない詩人が,自らの創造行為のドラマを神に よる世界創造とのアナロジーにおいてえがきだすのを見た。そしてこのサン・ポル・ルー最 初期の詩篇「唯一者と炎」(SeuletlaFlamme,1885)の次の一節は,サン・ポル・ルー の思考の祖型をかたちづくる表象をはらんでいることに再び注目しておく必要がある。

されどわが詩はなおゼロのまま

わが広大な愛撫によりて神聖にも孵されつつ 混沌に数を約束するこの卵より

なお形象のくびきの中に何ものも生まれ出ぬ。

思考と創造のゼロ状態としての卵という表象,だがそれは神の第一の創造によるこの世界

フ ォ ル ム

の混沌に,秩序を与えるべきもろもろの数')を孕んだゼロである。この卵から,一つの形と なって数が,観念が生まれ出なければならない。つまり詩人の創造は神の創造とは逆の方向

ユ ニ テ

に,失われた原初の「美」,神の姿そのものであるところの統一性をとりもどすようにとむ かうのだ。神話によってわれわれにも親しいものとなっているあの観念が,そっくりそのま ま サ ン ・ ポ ル ・ ル ー に お い て み ら れ る の で あ る 。

われわれの世界,「真理」を,破壊された原初の美の,散乱した破片として示したならば,人は私を よりよく理解してくれるだろう2)o

こ れ に つ い て は , も は や 長 く 論 ず る 必 要 も な い 。 唯 一 の 神 の 姿 に ほ か な ら な い 唯 一 の 美 が,世界創造と共にこわれ,ちらばったのだ。世界は神の破片のようなものであり,〈宇宙

カ タ ス ト ロ フ

は静まりかえった一つの災害である。>3)神はイデーとしての自己を顕現し,実現するため に世界を創造し,自己を空無と化した。従ってまるで当然なことのように,世界には神は不 在であり,その不在そのものが神の世界への慈愛のしるしとなる。こうしたよく知られたプ

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92 内 田 洋

ラトン的宇宙論4)が,サン・ポル・ルーのあらゆる論理に適用されるはずである。

従って私は真理の領域の中に美の輪廓を探し求め,神の中にその本質を求める。何故ならその中にこ

フ ォ ル ム

そ,非の打ちどころなき純潔な美のイデーが永続しているのだから。美は神の形である以上,美の探究 が神の探究に導き,美を示すことは神を示すことであるのは明白だ……神を実現すること,詩人の役割 はこの点に存する。詩人の作品は一つの創造行為ではあるが,第二の創造である。何故なら彼は神の手 足を利用するのだから5)。

ここにはサン・ポル・ルーの思考の基本的なパターンがあると言ってよいのだが,このパ ターンそのものは,原初の統一性へ,従って「存在」へ帰還したいというノスタルジーに発 しており,サン・ポル・ルーはこうした形而上学的図式を,根気よく反復しているにすぎな い。〈神を現実化・実在化する>(r6aliserDieu)という定式が,そのまま彼の詩論として のいわゆる<観念現実化論>(Id6or6alisme)を生みだすのである。こうして今やpo6sie という語の語源的な,従って本質的な意味を文字通りに受けとめて,創造者としての神の身 ぶりを模倣する詩人にとっては,イデーがまさしく手に触れうるような具体性を有し,現実 のものとならなければならない。

詩はその顕現に向って進むならば,議論の余地なく具体化されるだろう。だが充全なる成功をおさめ るためには,なお時間を要する6)。

しかしサン・ポル・ルーによれば,詩は確実にその目標に向って進歩してきた。過去にお いて人々は《微風の時代>に住み,今や彼の世代はく水の時代>にさしかかっており,将来 人々はく氷の時代>を知るだろう。つまり無定形で抽象的な観念が,氷ほどの具体性をもつ ものとして把握されるだろうというのだ。同様に美は,イエスがガリラヤの漁師たちの間に 降り立ったように,カナンの地におりたつだろう。これらの比愉は,民衆が救世主の降臨を 待ち望み,その日が近いことを確信するように,原理的には申し分のない希望を示してい る。だが詩人はそのためにどんな方法論を持つだろうか。彼の目には,同世代の詩人たちに よ っ て す で に こ れ ら の 予 言 が 実 現 し つ つ あ る よ う に み え る 。 彼 等 の 詩 の 言 葉 は す で に 昆 虫 の ようにとびたとうとしており,色彩や匂いや味をもっているのだ。彼が言葉の管弦楽編成と いう,同時代の目新しい考えにとびつき,五感の理論なるものをうちだす理由は,音・色.

味・匂い・触覚の五感を,可能な限り具体的に言葉に喚起させることによって,詩の実在性 へ一歩近づこうとする素朴な考えによるものだろう。そしてそこから詩に対するあの過剰な 要請が生じてくる。つまり詩は人間的表現のすべてとならねばならない。彼が<全的なる詩>

(laToute‑Po6sie)と称する総合的な詩(lapo6siesynth6tique)の考えである。詩の全 体性は五感の使用によって保証され,語による五感の表現である詩は,従って諸芸術の総合

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だということになる。詩はこれら諸感覚を通じて,詩人の内在する観念を外在化し,形象化 するので,今や実在性を得た詩は,観念と物質,主観と客観の間の融合であり媒介であるべ きなのだ。

否,詩はただ単に音楽であるわけでもなく,色彩であるわけでもない……詩はそれらすべてであり,

それ以上のものだ……

そうだ,諸芸術の総合である詩は,同時に味,匂い・音・色・形である。プリズム的な詩作品は,魂 がそこで形象のモザイク状配列を統御し,根本的な管弦楽編成のただなかで統轄しているような領域で ある・・…・

客観的なものの内部における主観的なもの。物質は精神化され,観念は物質化されて奇妙に併存する

フ ォ ル ム

完全なる芸術。形は抽象の獅子や雄子を共に囲う艦であり,それらは観念的なものを具体化し,現実的 なものを観念化する7)。

し る し

<物の世界は……私には観念の世界の不充分な証拠のように見える。人間は漢たる指標や 謎etc.に満ちた一つの妖精郷に住んでいるように思われる。>というサン・ポル・ルーの

「詩集」序文における表明は,実は上のような物質世界と観念世界を組織的に融合してしま う彼の方法の帰結なのである。とりわけその<妖精郷>が,そこでは一切が観念世界の象徴 であり暗愉であるような,しかもまさしく物質的現実性として存立しているようなサン・ポ ル・ルーの世界であることがわかる。

だがこうして技法的には語の管弦楽編成と五感の理論によって,総合的なものとなるべく 要請された詩は,結局五感の不在についての詩であるほかないだろう。サン・ポル・ルーが 同時代の詩人たちの仕事に憧慢を寄せ,賞讃を送るのは,いわば不在の濃密さに対してで あり,実際「風の神秘」の中で,詩の力動性そのものにほかならない風の運動,つまり空間 に遍満する魂の乱舞の果てに,ついに唯一の魂が現れ出ることを求めながら,それが一つの

プ レ ザ ン ス

不在であるほかなかった時,彼が<かかる不在は実のところ現存の証し以外の何ものであろ うか?>と言いえた,そのような濃密な不在こそが問題なのだ。

それでもやはり,彼の創造と呼ぶその野心が,〈抽象的なるものを凝固させ,絶対的なる ものを形象化し,不可視のものに有機的構造を与え,空間を満たし,未知に植民すること>

8)であり,またぐ詩人はゼロという卵を抱いているが,この無の卵から,今のところまだ類 別 さ れ て い な い 数 が , そ れ 以 来 価 値 あ る も の と し て 産 声 を あ げ > , そ う す る こ と に よ っ て

<最終的な災害を惹起して人間を終らしめ,神性を始まらしめる>9)ことであるという断言 にかわりはない。この野心と方法との間の,必ずしも無意味ではない距離を指摘しておく必 要があるだろう。

2.孔雀一全体性の表象

サン・ポル・ルーの詩的思考の第一段階における,来るべき世界のイデーを潜有するゼロ

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94 内 田

という表象は,その後さまざまな様態において再現し,発展することになる。最初にあらわ れるその顕著な例を,われわれはすでに1888年の作品「孔雀」に見ることができる。

すでに述べたごとく,サン・ポル・ルーの想像力はとりわけ運動中の物体にのりうつる目 であって,目は奔流のように押し寄せる物象の群を変形しつつ風景の彼方をめざす。このこ とは「實欲な目玉」(L'OEilgoinfre,‑DanslerapideMarseille‑Paris.)と題する兆候的 な作品が'0),卑俗な形でではあるが最も明瞭に示してくれている。マルセイユからパリへの 急行列車一サン・ポル・ルーが最初にパリの方へ巨大な弾道をえがくのに加担したあの鉄道 だ一ここでもやはり詩人は急速度に運動するものに乗りうつっていて,その速度が彼の内的 リズムを誘発する。風景が窓外を次々に,やむことなく展開していく。目はそれらを受容す る。この場合風景はすべて目によって食物に変形される。目はそれらを負欲にくらう。つま り風景は受容された瞬間に否定され,消化されてしまい,遠のいて消える。世界は巨大な祝 宴の場と化し,〈生命の壮大なランプ>たる太陽が,その牧神的な起源の光によってこの狂 騒を保証してくれている。このランプ°の下で色彩は無数に輝やく。だがそれらすべての色彩

ト ー ン

を受容する貢欲な目玉が,このスピードを通じてたった一つの色調を創造しようとするの だ。それは光の三原色に彩られた独楽が,回転しつつそれら三原色のどれよりも明度の高い 一つの色調を生み出すのに似ている。乱痴気騒ぎに似た感覚の濫費にほかならないこうした 汽車旅行のあとで,もはや人をこの現実生活の秩序にはうまく適合させなくしてしまうあの 悪酔いばかりが残る。この悪酔いも,「風の神秘」におけるあの魂の有頂点も,同じ力動性 の詩の二つの顔である。

ところでこうしたスピードに葱依する目,しかも想像機能をそなえた目が,ついに翼をは やすにいたるのも自然ななりゆきだろう。こうしてサン・ポル・ルーにおいては烏と目の奇 妙な連合が生まれる。「烏たち」(Oiseaux,1891)'')という作品では,<盲人の額から飛び 立った目は烏になるのだ>という断言にはじまって,ミソサザイ:赤ん坊の目!/シジュウ カラ:少女の目!/セキレイ:洗濯女の目!/ツバメ:インドの舞姫の目!/クジャク:法 王の目!……等々,四十を越す烏と目の連合が羅列されるのである。そして,

あれらが翼をはやした目だという証拠には,その巣やねぐらを見るがいい。まるで眼窩のようではな いか?

烏たちは土地から土地へ,崖から崖へ,荒地から荒地へ,林から林へ,枝から枝へと渡りとぶ。烏た ちが止まり,物の上に目が休らう。

われわれはここにはっきりと,「村の消防隊」のイマージュの急速調や「風の神秘」「實欲 な目玉」の力動性を生み出していた目の空間移動を指摘することができる。今やこうして,

サン・ポル・ルーは空間に目を遍在させ,それらの目によってみつめられている人間であ る。われわれにとって最も注目すべきは次の一節だ。

(5)

われわれの子供の頃の不意をとらえた,あのすべてを見ておられる神の,これはありうべき説明だ!

事実神は娘であり,少年であり,富める者であり,乞食であり,悩める者にして楽しむ者,われらの 助けにして試錬,償う者にして罰する者であり一つまりは同時に世界のすべてのものなのだ'2)。

神を見ることのできる者のみが神に見入られる。ところで神はすべてを見るものであり,

目となった世界のすべてである以上,サン・ポル・ルーのように,最初に神の世界創造の身 ぶりをまねて神の地位を篁奪しようという途轍もない野望にかられた詩人は,神に見入られ るために,つまりすべての物によって見られるために,すべてを見なければならない一個の 負欲な目王なのである。サン・ポル・ルーの詩的思考にとって,ゼロ状態の詩が窮極的に生

ユ ニ テ

み出さなければならないのは原初の唯一の美,ついに統一性にまでたどりついた全的なる人 間としての自己自身であったが,同時にまた世界であり全体であった。そしてそうした観念 を一個の形象において表出し,具体化することが問題なのだ。さしあたりサン.ポル.ルー は,極めて散文的な形で,このような自己の野心を提示するほかないだろう。そこで彼は統 一性と全体性という矛盾した観念を,同時にあらわしてくれるような詩的形象,換言すれば 一個の総合の表象を見つけて,それに寓意をこめるほかない。サン.ポル.ルーのこうした 要請に最もふさわしい存在こそ,孔雀なのだ。

かつて変幻自在の神プロテウスの象徴として,バロック詩人たちが好んで用いたこのきら

マ ニ フ イ ツ ク

びやかな,壮麗な烏は,サン・ポル・ルーにおいてまた独特な価値をになっている。まず孔 雀(paon)とはpan+oと考えられる。pan(牧神)はディオニュソスの酔いどれ行列の中 で偉大な全一者をあらわし,又普遍的生命をあらわす。o即ちゼロは目であり,サン.ポル

・ルーのことだ。つまり孔雀はサン・ポル・ルーのディオニユソス的表現衝動であると同時 に,全的なる生命の顕現であり,あらゆる存在の総合の表象たりうる。かくして「大烏籠」

(LaVoli6re,1892)という作品13)−ここでは夜空の星が烏に変貌し,<何を見ようという のか,目玉のように彼等はどれも火と燃えている>とある−は,一個の烏籠と化した大空が く巨大な険のように開け放たれる>や,そこには星も烏も消えうせて,〈ただ栄光に輝やく サファイアの空に,われらの目を尾羽に飾りつけて高らかに張り広げる「生命の孔雀」のほ かには何一つ無い!>と歌っている。

だが1888年,パリでの文学修業に疲れはてて故郷サン.タンリに帰ってきたサン.ポル.

ルーの見た「孔雀」は,まさしくパリが生んだ形象であって,無数のゼロの形をした目が,

ありとあらゆる容赦のない批評で詩人をおびやかす意見(opinions)となるのである,4)。つ まり統一性を求めての詩人の必死の総合の努力が,結果的には彼をさまざまな都会の思想に よって知的に分裂させることになる。

エゼキエルの梯子のように終りのないこの階段のかたわらに一羽の孔雀が輝やきわたり,その勝ち誇 った尾羽は信じられないほどの無数の目玉の群を展開する.…・・

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96

内 田 洋

まだ生命の健康を享楽していた頃,私の青春はただ膨脹した尾羽の蒼弩の讃辞ばかりを聞いた……

だが今宵,狂気の都市からもどってきて,この奇妙な孔雀の前を通ると,昔の讃辞に満ちた瞳のかわ りに,私は恐ろしい目玉を見た・・・…

そして孔雀が詩人に語りかける。

ス ペ ク タ ク ル

.…..よく知るがよい,好むと好まざるとにかかわらず,詩人は溌襯の箱から屍衣の箱までの光景を演 じ,その操り人形はどれもすべて,自分を追跡する無数の目玉を栽培している唯一の庭師なのだ。でき るものなら目玉をつぶしてみるがよい。私の目玉はまた花開きよみがえるだろう。おまえの存在は群衆 に属している−そしてこの私は「意見」なのだ。

すでに前稿でふれておいた「身ぶり」という作品の,あの空白の魔力,そこに多様な存在 がやってきてうめあわせるべきあの空虚を想起しよう。最初ある特殊な身ぶりを呼びこむ罠 のような舞台として存在した空間を,今やサン・ポル・ルーはみずからの身ぶりをもって、

みずからがあらゆる形象となって人間性の全様相を演じつつ埋めつくさねばならないのだ。

しかも彼の演じる人形のことごとくカヌー個の目玉,一個の意見によって背後から照射された

ユ ニ テ

存在であり,それらはすべて同じ唯一の存在から発している仮象にほかならない。統一性に おける詩人の窮極の「存在」である唯一の庭師(leseulJardinier)と,彼がスペクタル を演じる数々の操り人形(despantins)とがあり,意見そのもの(l'Opinion)であると ころの孔雀と,数々の意見(desopinions)にほかならない尾羽の目とがある。そして唯 一の庭師こそその目(意見)を栽培し花咲かせている存在なるが故に,この唯一の存在は唯 一の意見としての孔雀と合体する。孔雀とは詩人の統一性における全体性の表象なのだ。だ が詩人の存在はさしあたり群衆に,数々の意見に属し,分裂しているほかはない。

目の総合であり,従って烏の総合でもある全体性の表象としての孔雀は,間もなく虹に変 身するだろう。無色透明なゼロにも似た光も,う°リズムを通しさえすれば七色に分光され る。逆に七色を一点に集中すれば無色になる。この手品は,言語の管弦楽編成という考えか ら派生した総合的芸術の観念,さらにその実質をなしているところの個人の中の全人間性と いう観念の発展と軌を一にするのである。あるいは当時の印象派の色彩理論が反映している かもしれないが,いづれにせよ,この分析的態度と総合的態度が,サン・ポル・ルーの中で 二極分裂をおこし,たえず緊張関係を保っていくのである。事実「虹」(Arc‑en‑ciel,1980) '5)は,それを端的に示している。

この辻に通じる街路をとおって,突然七人の若者たちが,同時に私のところへやってきた。何よりも まず,彼等は私の年の功に敬意を表して,私に物を尋ねにきたのだ..….

すぐにその最も単純な表現たる人間の環となって,私がその中心となり,七人の若者は私の気づかう あの言葉を声をそろえて発したのだ……

−「先生,私は神についてのあなたの意見を受け取りましたが……」一

そ こ で 七 人 の 若 者 た ち は , 詩 人 が 神 に つ い て 抱 い て い る 七 色 の 意 見 を 言 う の で あ る 。 詩 人

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は広場の中央,若者たちの円の中心にあって<偽善者>の告発を受けることになる。しかし 詩人は次のような論理でこの告発をしりぞけてしまう。

若者たちよ,たとえどんなにありきたりのもののように同時代者たちには見えようとも,私はそれで もなお,ある絶対的な光,無知あるいは無意識から少しずつ発して,遂には序々に自らを確認するにい たる光なのだ。混沌あるいは偶然から出て,花が結局自らを確認するように……

私は一つのプリズムにかこまれているようなもので,そのおのおのの切子面は,私の七色の一つを表 明する。つまり私ひとりで君たちすべてなのであり,君たちすべてで私ひとりなのだ……君たちは分析 であり私は総合である。

1888年頃のあの(「孔雀」における)自己嫌悪から,1890年のこうした積極的な姿勢,自 己肯定的な断言への移行に注目すべきである。この移行にはパリでの苦闘を自らに試錬とし て課す,いわば苦行の時期が必要であったし,文化的な重圧や脅威をのりこえるための心理 的詐術の気配さえ感じられるとはいえ,こうした自己解放を可能ならしめたものは,何より

もまず自己自身の全的な実現という,彼の思考のそもそもの起源にあったあの要請が,次第 に露わにしてきたその方法論,つまり自発性の方法であるはずだ'6)。上に引用した詩人の言 葉に注意しよう。そこにはく無知あるいは無意識から出た絶対的な光>(unelumiereabs‑

olue,lumiereissuedel'ignoranceoudel'inconscience)といわれているではないか。

ろ.個人の中の全人間性

1892年に,サン・ポル・ルーは「個人的な伝説」(Lal6gendeindividuelle)'7)と題す る奇怪な,恐るべき作品を書いた。しかしその雰囲気は,実は唯一でありつつ同時に全てで あるべく呪われた神的な存在としての詩人,しかもそれをみずから意欲した詩人の,必然的 な帰結とみなすことができる。

詩人は最後の教戒をほどこすべく死刑囚の独房に入っていく。ところがその瞬間から彼は 奇妙な罠にとらえられてしまうのだ。

その悪漢がまるで私に生きうつしなので一瞬私は牢獄にはなやかな閨房の姿見でもあるのかと驚い た。しかし二,三歩歩み寄った時,私は鉄格子の向うにはっきりと見た。鏡に映った自分の姿と思った のは,やはりそんなものではなく,私のまさしく目の前に,私とはかかわりもない具体的な一個の存在 が 立 っ て い た の だ … …

突然,囚人は私にこう言葉をかけた。

−「私は未来あるいは過去の特定の瞬間における君自身なのだ。」一

ちょうど「孔雀」が詩人に雄弁に語りかけたように,囚人は言葉の網を投げかけて詩人を が ん じ が ら め に し て い く 。

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内 田 洋

−「人間,この人間性のプリズムは,彼が人生に対してさしむける切子面によってあれこれの様相を 呈し,事件こそがそれを決定する主人なのだ。(人間はめったに出来事を支配することなぞできはしな

げ す

い。)悪を善の堆肥とみなすことを知らぬ下種の正義は,少くとも魂の風見の向きを左右するのが神秘な 風のようなものだということを考えるべきだろう。それがわかれば,もっと慈悲の心を示すはずだ。わ れわれが相続しているこの受動性に対する反逆を,とがめる者は次のことを知りもしないのだ。能動性 への個人的な努力は,それがどんなものであれ,一般的平衡に資するということを。悪徳と美徳とは互 に相手を価値あらしめあうもので,生まれ出ようとする存在の内部に同等に認められるものなのだ。存 在は右にいって明るくなり,左にいって暗くなるというようなものだろうか?大いに問題さ/さまざま な偶然の機会が思いのまま,普遍的法則の奉仕者である「時」の要請に従って存在の可能性の総和をす りへらしていくのだ−

たった一人の人間の内部にも,すべての人間がたちさわいでいる。というよりおのおのの人間は人間

ユ ニ テ

性の原型であって,ある統一性を表象している。たとえ彼の現在が,同一の瞬間には予測されたただ一

ト ー タ ル

つの数字しか誇示していないとしても,彼は実は数の総和(全体)であるはずなのだ。従ってすべての 人間はさまざまな共感の程度において,どんな些細な人間的事象にも共犯者の立場にある……処刑の瞬 間における君の恐怖心は,いつ力

うるという事実からくるのだ..…

においては,その囚人が君自身であり

サン・ポル・ルーがく一般的平衡>(1'6quilibreg6n6ral)と呼んでいるものは,奇妙な ことだがパスカルの液体平衡の原理を想起させる。液体の一部に加えられた圧力が液体のあ らゆる部分に等しい力で伝達されるように,一切の事象が相互に関連し,すべてに連結して いる。そこから,個体は全体の動きに対して第一原因となりうるし,逆に全体を構成するあ ら ゆ る 個 体 の 動 き を , お の お の の 個 体 が 反 映 す る と い う 平 衡 関 係 が 推 論 さ れ る 。 だ か ら ,

「世界におけるどのような事件,われわれの魂におけるどのような状態を経験する時にも,

われわれはそれらを殆んど認めずに,それらすべてを通してただ一つ,固定し常態的である 世界の秩序のみを見なければならない」(2ノモーヌ・ウェイユ)というのも,ある意味では 平衡という,実在を支配しているパスカルの神の認識を促していると言える。サン・ポル.

ルーにとってもやはり,偶然の機会が開示する人間存在のさまざまな幻惑的様相の彼方に,

存在の統一性と全体性とを見すかすことが問題なのである。かくしてついに,詩人の幻覚は 死刑囚ばかりか監獄付司祭にも検察官にも,刑務所長にも,また死刑執行人にも自分自身を 見てしまう。一切が常に同一の彼自身の顔をもってみえる。従ってまた逆に,事件というも のは,ある人間に予め内包されている人間性の全様相を開示せしめる契機となるものだ。一 般に家族・民族・人類のそれぞれの次元で,それらがもつ固有の総合のイデーを顕現すべき 事件と人間とがあらわれるだろう。彼等は多少ともメシアであるだろう。そしてサン.ポル

・ルーは次のように断言する。

……私は言う,この霊感の第一人者の中に結晶化された永遠の荘厳なる一瞬こそ,真実の生の、唯一 の真実な瞬間であり,一つの血統の無比の開花の時であって,それはそれ以前もそれ以後も,ただ惰眠 の茨の繁みの中でもがくだけだろう,と'8)。

(9)

ところで言うまでもなく,このメシアの到来すべき荘厳なる一瞬の事件をひきおこすの も,またそのメシア自身も,やはり詩人でなければならない。こうしてサン・ポル・ルーの 詩的思考は,必然的に演劇表現を要請することになる。

翌年,1893年の詩集「聖体行列の仮祭壇」序文で,サン・ポル・ルーはついに決定的に,

明瞭に,彼のこの特異な定式〈個人の中の全人間性>をうち出す。

頂天をも深淵をも感受し,栄光の綜欄の枝にも首切り台にもあたいする存在,世のあらゆる美徳とあ らゆる悪徳を背負った晴罪の牡山羊たる詩人は,ただ一個人のうちに全人間性をあらわしており,いわ ばこの永遠の時の中心点は人間的総合である。(原注)

演劇は芸術の全体的発顕である−何故なら演劇においてはプロテウス,あのプリズム状の鏡が,その 切子面のどの面の向うでもふるまっているのだから。

さらにこれを翌1894年メルキュール・ド・フランス誌に掲載されたサン・ポル・ルーの文 章によって補足しておこう。

詩人は通常一般の人間と同一の資格で人類に属すばかりでなく,さらにまたただ一個人のうちに全人 類をかたどっている。つまり詩人は,少くとも精神的価値において,美徳の総和,悪徳の総和を内に含 んでいる。(絶対的芸術の言い方をするなら,一人の人間は全世界である。)さもなければ,一体どうし て雑色の大衆を感動させ,魅惑することができようか。彼の内なる光の周囲を,多様な切子面が回転 しているのでなければ?要するに彼が複数的人間,多数にして同時に一なる存在でないならば?……等

々o

この年サン・ポル・ルーは「個人の中の多数の人物たち」(LesPersonnagesdansl'in‑

dividu)という劇作品を発表している。自己自身の全的な実現という特異な個人王義の起 源にある表現衝動が,神の世界創造に匹敵する第二の世界創造を詩に要請し,それを総合的 芸術たるよう方法的に模索せしめ,一方,一にして全なる観念(美・存在)の詩的形象とし ての孔雀と虹をへて,詩人たる自己が身にひきうけなければならない使命を認識するに至 り,それの実現はさしあたり演劇において求められるべきだという結論にみちびかれる経緯 を,われわれは辿りえたわけである。

4 . 円 一 演 劇 的 空 間

詩人サン・ポル・ルーが,ジ'ヤンルとしての演劇というものを意識したのはいつ頃だろう か。1892年6月のメルキュール・ド・フランス誌には「モーリス・メーテルリンクに関する カミーユ・モークレールの講演をめぐって」'9)と題するサン・ポル・ルーの文章があり,

その冒頭に次のような一句が引用されている。〈壮麗なる演劇は受肉した諸観念の領域であ る。1887年サン・ポル・ルー>従って1887年には,すでに演劇についての何がしかの考えを もっていたことになるが,彼が初めて自らを劇作家と呼ぶのは,1890年のあの「身ぶり」と

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100

内 田 洋

いう作品の中である。さらに,今日われわれが見る事の出来る唯一の本格的な劇作品「鎌を もつ貴婦人」(LaDamealafaulx)が1890年に構想され,準備されはじめたという事実 がある。そしてまず1891年のジュール・ユレのアンケートに対する回答の中では,次のよう な熱狂的な叫びがきかれる。

ポ エ ジ ー

演劇の復権は「壮麗な詩人たち」20)の大いなる野心である。おお,詩の主たる表現,ドラマよ!お

ル プ レ ザ ソ タ シ オ ン

お,ヘーゲルによって世界の再現と定義された演劇よ!……おお神の前では第二の,人間の前では第一 の創造行為であるものよ!……おお,生ある演劇,もろもろの観念の司教区,総合の総合よ!……おお 流動きわまりなき夢の水の,凍結した形態にほかならぬもろもろの存在よ!……かってモーゼがシナイ 山の音も妙なる薔薇の木を前にして戦標したごとくに身をおののかせる群衆よ!……おお,この永遠に 思念される演劇を豪壮な家の中で,太陽の瞳をみはり,神みずから見守っておられる。そうだ,このよ

うな演劇をこそ,「壮麗な詩人」たちは実現するだろう21)。

ポ エ ジ ー

彼が演劇を<詩の主たる表現>として讃美するのも,やはり総合的な芸術としての詩とそ の<イデオレアリスム>から,それが直接的にみちびかれる観念である限り,おどろくには あ た ら な い 。 演 劇 は サ ン ・ ポ ル ・ ル ー に と っ て 夢 と 現 実 と の 間 の 領 域 , い わ ば 夢 遊 病 的 な 空 間でなければならない。生身の人間が声を発し,身ぶりをするというあからさまな現実が,

この夢の現実性についての錯覚を強めてくれるだろう。だがそれはあまり現実に近づきすぎ てはいけない。夢のような事件が本当に起こるのでなければいけない。ところでその事件と は,必然的に集団的な意味をもつものでなければならない。演劇は舞台を中心とする民衆の 巨大な円なのだから。美は露わな姿で舞台に登場する。それが事件である。至高の美が顕 現する決定的な窮極の事件。モーゼが戦懐したように,観客を身ぶるいさせる驚異的なも

マ ニ フ イ ツ ク

の。要するに壮麗な場面。これがサン・ポル・ルー的な意味における演劇である。イデオレ アリスムとは,イデーが現実化されるということであり,詩が現実の事件として起こるとい うことなのだ。

ずっと後になって,友人のテオフイル・ブリアンが伝えているサン・ポル・ルーの次の言 葉は,この劇が一つの宗教的な体験として集団の魂にかかわるものであるべきだということ が,はっきり意識されていることを示している。

ポ エ ジ ー

演劇は私には詩の磁気を帯びた領域のように思われる。それはギリリア的な意味におけるouvriers (作る人)の建設の中心である……創造行為であるからには,まさしく超創造(surcr6ation)であるか らには,演劇は最初にして最後であるような決定的な人物をもたらさなければならない……事実演劇の 力には,この老い古びた世界に生命と動きとを賦与する驚くべき能力があって,その意味で演劇は異常 な創造物を増し加えるのだ。真の演劇は産業にではなく宗教に属すものであり,それは怪物,すなわち 驚異的な存在の上位の王国なのだ22)。

ここでは魁偉な魂(l'amemonstrueuse)の創造が問題なのだ。そしてこの魁偉な魂こ

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そ,詩人の全的な自己自身であり,統一性と全体性における「存在」そのもの,つまり神的 存在である。ブリアンがサン・ポル・ルーにとって劇とは神性顕現(th6ophanie)のわざだ

としているのは,この意味においてである。

ここでわれわれは「虹」において,七人の若者たちが詩人をとりかこんだ時のあの人間の 環を想いおこそう。詩人はその円の中心である。またぐ永遠の時の中心点>であり人間的総 合であるところの詩人という観念を,さらに,多様な切子面がその周囲を回転している内な る光としてのう°ロテウス=詩人を想いおこそう。われわれは舞台を中心とする,そしてさら に舞台上の中心人物(lepersonnagecentral)を中心とする二重の同心円として,この演 劇の場を思いえがくことができるのである。言いかえれば,円とその中心との磁気力学的な 緊張関係こそ,サン・ポル・ルー的ドラマの基本的構造なのである。

1884年の日付をもつ「ゴルゴタの丘」(Golgotha.)は,サン・ポル・ルーの書いた最初の 詩作品であるが,それはまさしくこうした構造そのものであるようなく宇宙的ドラマ>では

ないか。

天は最も悲しい羊群に暗くおおわれ 山頂の宇宙的ドラマの上にうずくまる23)。

今,決定的な事件が遂行された。その事件を囲み,それを目撃している民衆が存在する。

彼等はゴルゴタの丘の上に,円形をなして群がっている。その円の中心にキリストが引き裂 かれている。キリストの受難は世界美の顕現に関する原型的事件なのである。

こうした演劇に関する自己の思考を集成するかのように,五年間を要して遂に完成された 悲劇「鎌をもつ貴婦人」にサン・ポル・ルーは長大な序文を付し,その中で明瞭に次のよう

に語っているのに注目しておこう。

存在は決して切れない一本の紐帯によって宇宙に結ばれ,永遠の絆を有している。その劇的な瞬間に は,存在はそれら絆の中心となり−この例外的な時の流れの間,彼は神の面貌を借りるのだ。彼が詩人 であるか否かによって自己を知り,あるいは知らぬ集団,つまり人間この多数なるものは,決して単独 ではない。彼のモノローグさえ,実は目に見えぬ多数の存在に彼が訴えかけていることを示している。

それらの存在は彼のまわりや彼の内部にうずくまっており,彼はこの同心内の,唯一無比な中心的人物 なのだ。

5.生成する円あるいは螺旋

サン・ポル・ルーの劇作品そのものの検討は必要だが,彼のドラマが本質的に見るものと 見られるものとの緊張関係の場として,あるいは唯一の存在とその多様な変異相との関係の 場として,要するに中心点と円周との力学として規定されうるのであれば,それを彼の詩作 品の中にも見出すことができるはずなのである。何故なら,〈総合の総合>〈詩の主たる表

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についての果樹の寓愉を語っている。村人は口をあんぐりあけて,この梨が熟すのを待ち望 んでいる。彼等の飢えをこの梨が満たしてくれるのを待っている。つまりこの梨(あるいは 美女,あるいはメシア)は,あらかじめ村人に食われてしまうべき運命にある。犠牲の死に

ささげらた無償の美,そして今やその期は熟しつつある。

ゑ つ

虚空を凝視める大口の上の,緑の雲霄に糸一本でぶらさがる,ふくれあがった天使のように……

おお希望の梨よ 有象無象の願いのほどにふくれあがり……

梨は次第に大きくなり,ぷうとふくらみ,はれあがり,甲状腺腫でもないならば,自然にねぶとでも

で き た の か … …

このように村人の願望が梨を熱させ膨脹させる。梨は彼等の欲望の量的総合である。ユダ ヤの民の救世主待望が,イエス・キリストの降臨をもたらしたように,梨の膨脹は超自然的 な奇蹟として,自然の<ねぶと>のようにはれあがるのである。これはコミックな,田園の 明るい笑いに包まれた事件(この作品はジョルジュ・クルトリーヌにささげられている)で はあるが,しかし結末のみごとなしっぺがえしは,お人好しの笑いなどではなく,ヒステリ

ックな黒い笑いだ。

だがある日,運命の時の鐘は鳴り,もくろみからではないとすれば自分の重みにたえかねて,梨は,

ついにおてての糸を切り,空をよぎってころがり落ち,だにのたかつたお尻のようにべっしやんこ,鼻 の下のあんぐり開いた大口に力なくつぶれてしまう。−村人はみな食あたり!

結局この作品は,サン・ポル・ルー的思考の図式の,彼自身によるパロディーであること がわかるだろう。同時に「蛇使いの女」と同様,彼の野心の挫折であることは明らかだ。こ れら二つの例において,われわれはいずれの場合も,円のその中心は静的な見つめあいの関 係,つまりそこで一切の運動が停止してしまうような瞬間の緊張関係としてはありえず,た えず今なお不在の,その顕現が待望されているような窮極の存在,決定的事件の方へ運動し つつあるということに気づくのである。円は生成しなければならない。円は今なおゼロのま まだ。詩は,あるいはドラマは,円環を閉じようとしてさらに大きなゼロをえがくほかなく 立ち上がり,風景の彼方をめざさなければならないだろう。かくして力動性の詩の運動は螺

旋状に進展するだろう。

1)数nombreという語は同時に多数,詩や散文における調和をもあらわす。

2)JulesHuret;Enquetesurl'evolutionlitteraire(Fasquelle,1891),p.147

3)LiminairedesReposoirsdelaProcession.(MercuredeFrance,1893)以下略号R.P.

4)シモーヌ・ウューユのような人のキリスト教観にも,こうした宇宙論の適用を見ることができる。

この点に関する中田光雄氏の論考「シモーヌ・ウェーユー世界美とキリストの解釈をめぐるその本 質顕現一」(東京大学教養学部紀要比較文化研究第七輯昭和42年)から多大の示唆を得た。

5)JulesHuret:Enquete.,op.cit.,p、148.

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参照

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