公益事業政策史の一齣 : 政策形成を中心として
その他のタイトル A Historical Study of Public Utility Regulation in Japan
著者 寺尾 晃洋
雑誌名 關西大學商學論集
巻 1
号 2
ページ 25‑52
発行年 1956‑06‑01
URL http://hdl.handle.net/10112/00021875
本邦の公益事業政策云いかえれば公益的統制の鍋念は電車公営問題の発展のなかで形成されてきた︒それ故に小
論は本邦公益事業政策史研究の一環として︑公営問題が漸やく発生をみ︑本格化してきた明治二十九年から明治四
十四
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公 益 事 業 政 策 史 の
即ち一八九六年から一九︱一年に至る時期の都市交通事業を中心として︑そこにおける特殊的表出を
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日本資本主義の独占資本主義確立期たる日露戦争後の時期においてできあがった公益事業政策の形成の一
般的特質を明かにせんとするものである︒吾国の公益的統制の一般的形成の仕方は方法論的に日本資本主義の特殊
的発展と切離してほ考えられない︒とくに市街電車公営問題の発展をみんとするこの場合︑日本資本主義の発達に
おける地方自治の特殊な歴史的性格に注意が払われねばならない︒
た国においては︑後述のように近代的公益原則はブルジョア民主々義の発展の中から︑独占の形成に相応じて生成
してきたものであり︑しかも英国でみられたようにこのプルジョア民主々義の生成と発展に即して近代的な地方自
治制の生誕とその成長がなされたものであって︑従ってプルジョア的近代地方自治制はかかる公益性を担うべき主
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一酌︵寺尾︶ きゞ
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一休英米の如く所謂下からの資本主義化を示し
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公 益 事 業 政 策 史 の
一酌︵寺尾︶
上述の如く公益事業政策に確固たる 体たる歴史的性格をもって現れねばならなかった︒しかしこうしたことは吾国の如き資本主義的発達の仕方を示した国にはその儘あてはまらない︒プルジョア的発展の有無ではなく︑その仕方のちがい︑従って池方自治の歴史的性格のちがい︑そしてこれを規定した日本資本主義の発展の特殊性が︑ここで扱われる都市交涌の如き公益事業の政策形成に大きなちがいを与えているのである︒この点の把握が吾国の公益事業政策の内容的特質を考える場合の枢軸となるのである︒ところで今この政策形成の問題を考えるてがかりとして典型的な公益事業政策の展開をみたアメリカの場合について︑該政策の歴史的形成にさいしてみられた諸契機を一瞥してみたい︒
衆知のようにアメリカにおける公益事業概念の発展史は︑
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に始まるといわれる︒この事件の有名な判決において独占的な地位を占めるに至った公益事業の統制の必
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要性がはっきりとうちだされ︑近代的な公益原則の理念がはじめて法的に明確化されたのである︒この事件という
のは︑イリノイ州議会が一八七一年に一の法律を通過せしめ︑倉庫業および揚貨機業
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に対して営業免許
制を実施し︑これらの業者に対して最高料金を制定したのに対して︑シカゴの独占的揚貨機所有者たるマン・スコ
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t は営業免許を受けず︑法令の制定した料金以上の料金を課しつゞけ︑しかのみならずか人る法
律の統制規定の無効を提訴したのであるが︑結局連邦最高裁判所判決は原告の主張を認めづ︑﹁公共の利益
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のために必要となった場合﹂における立法府の料金統制権限を承認し︑
礎石を置いた事件であった︒この場合判決の基底には﹁公共の利益﹂に基礎づけられた反独占観念が存在している
のであって︑これを推進したものは一八七0年代の農業恐慌に際して︑アメリカ各州殊に南部及び中央西部諸州を
中心として起った所謂グレンジャー運動
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であったとみられている︒この農場主たちの運動は 通常一八七六年のマン対イリノイ州事件 二六
七四年の間に︑
命令的委員会 イリノイ︑ミネソク︑ウィスコンシソの諸州に︑
二七
早くも独占的地位を占め始めた鉄造並びに穀物倉庫の料金の過重負担に向けられていた︒この鉄道業者や倉庫業者
がその独占的地位を利して恣意的に高い料金をとりたてることが農業恐慌の一因であると彼らには考えられたので︑
鋒先はこれらの事業を統制し︑それらの料金を引下げるという反独占的目槻に集中され︑事実一八七一年より一八
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ように反独占連動を推進した階層は外ならぬ農場主たちであったが︑彼等は四〇ニーカーから三
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ぼ一六町歩から︱二0町歩位︶の広大な土地を耕作するところの中小農業ブルジョアジーであり︑広い意味での自
由なアメリカ産業資本家層の中核的存在であったのである︒しかしてさきのマン・イリノイ事件判決においてはま
さにこの経済的自由の立場︑中小ブルジョアジーの利益の角度から﹁公共の利益﹂なる概念が規定されていたので
あった︒しかるにこの中小プルジョアジーの立揚より生じた独占への反感は︑単に所謂独占に対する場合だけでほ
なく︑団結椎行使の形式に示された労働運動の﹁独占﹂的形態に対する場合にも︑同じような形をとって現れるに
至った︒少しくだった一八九0年のシァーマン・アンチトラスト法は中小ブルジョアジーの立場を基盤とした反独
占運動の椰致であり︑グレンジャー運動の精神はここにおいて最も強く燃え上がったのであるが︑その絶頂におい
て同法が労働争議にまで通用されるに至ったという事実において吾々はこの運動の他の重要な一面をみさるを得な
かったのである︒このように公益的統制の原型をアメリカにおいて辿るとき︑吾々は︑第一に︑独占に対する[公
共の利益﹂を掲げた公益的統制が中小ブルジョアジーの立場を基盤としているという点と共に︑第二に︑それには
他の重要な側面︑すなわち反独占と併立せる反労働者の一面が具っているという点を注意しなければならない︒こ
公 益 事 業 政 策 史 の
一酌︵寺尾︶ ﹁強力﹂型の委員会︑すなわち料金統制権をもっ
気鉄道株式会社をもって嘴矢とする︒しかし諸外国では︑
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一酌
︵寺
尾︶
れらは公益的統制のもつ基本的契機であるが︑以下これらの諸契機が吾国資本主義の特殊的発展の中においてどの
ようなかたちをとり︑特徴づけられているか︑力点の推移を考察することによって︑小論における吾国の公益事業
政策の形成における一般的特質如何という課題にこたえたいと思う︒
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︑まづ市背電車の公益的統制の問題にはいるに先だって予めその基礎ないし客観的条件たる市背電車の本邦におけ
る発達とその市営化の経過を概観しておきたい︒わが国の市街電車事業は明治二十八年二月運転を開始せる京都電
一八七九年︵明治十二年︶シーメンスの電車発明以来︑
とくに米国では一八八八年︵明治二十一年︶スプレーグの改良によって市街電車は急激な発展をみた︒わが国でも
既に明治二十一年立川勇次郎その他の蓄電池式電気鉄道の出願︑藤岡市助等の単線架空式電気鉄道の出願がなされ︑
同二十︱︱一年東京における第三回内国博覧会では大日本東京電灯が電車の実地運転を行い大いに碑益するところがあ
ったという︒また同二十五年には各地の有志による電気鉄道期成同盟会の発足︑
同三十二年京浜電気鉄道︑同三十三年小田 同二十九年一月衆議院議員井上角︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑五郎︑高木正年の電気鉄道同志会の発足をみ︑次第に電気鉄道事業経営の気運が民間企業者のなかから発生してき
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た︒しかるに政府ほ事大的な態度でこれに臨んだため︑電気鉄道事業の一般的な発達は産業資本の確立された明治
ヽ三十年頃までみられなかった︒すなわち明治三十一年名古屋電気鉄道︑
原電気鉄道・豊州電気鉄道・江ノ島電気鉄道︑同一二十六年宮川電気︵伊勢電気鉄道︶・東京電車鉄道・大阪市電・東
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京市街鉄道・同三十七年土佐電気鉄道・横浜電気鉄道・東京電気鉄道の開業をみたのである︒
ついで日露戦争を転機として独占段階に入ると︑独占の形成は長距離運輸部門では明治三十九年の鉄道国有実施 をもって確立されたといえようが︑都市交通部門ではかかる社会的傾向は︑あくまで地方的なものであるとはいえ︑
電車市営は大阪市をもって嘴矢とする︒産業資本の劃期的発展に伴う大阪港築港の完成に応じて明治三十六年九 月本邦最初の市営電車として築港線が業務を開始した︵第一期線︶︒その後市営主義民営主義をめぐる熾烈な論議が みられたが︑同年十一月市会は﹁大阪市に於て将来敷設すべき市背鉄道は総べて大阪市直接に之を経営するものと
︑ ︑ す﹂との議案を可決︑ここに市営主義を確立し︑これに基いて日露戦争後本格的に全市にわたる第二︑第三期線の
増設をみたのである︒
東京市の市背電車事業は最初上記の如く三会社︑即ち東京電車鉄道・東京市筈鉄道・東京電気鉄道の経営すると ころであった︒しかしこれによりさき第二次伊藤内閣の板垣内相は東京市内電気鉄道の市営を唱導しており︑明治 三十一年六月六日には市街鉄道市有案が東京市会に上提され︑十月には市有空気圧搾鉄道敷設出願が上申された︒
しかしこれは後節にのべる如き理由から許可に至らずして終ったが︑しかしその後も同三十二年二月不成功だった とはいえ訟田市長により同じ問題が西郷内相の下に申達されており︑正に大阪市会と前後して同三十六年九月二十 五日街鉄市有の議が洞場一致東京市会を通過している︒このように電車市有は根深く市民の要求となっていたが︑
ここから明治三十九年三月の一二社共通五銭均一制案という料金値上問題を契機とした同年三月十五日の市会の電車 市営決議が生れ︑続いて同年九月の三社合同四銭均一制案という同じく料金値上問題に対する労働者・市民の反対 公 益 事 業 政 策 史 の
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私営から市営への形態的転化となって現れてきた︒
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運動を契機とした同年十月二十五日各区会議員連合秋季総会︑再に十二月十六日の同連合会の電車市有実現速成の
決議が生れた︒他方私営三社は先述の九月の値上問題lこれに対する反対運動は後述ーを転機として︑長年係
争をつゞけてきた合併問題を一挙に解決し︑九月十一日東京鉄道株式会社を設立していた︒市はこれと買収交渉を
重ね四十年十二月両者に仮契約が締結され︑四一年一月買収の認可を内務大臣に申請したが︑同年七月政府の却下
するところとなった︒ところが四一年十二月東京鉄道は営業面の不振︑新線の延長︑諸施設の改良の理由をもって
片道五銭という値上を行い︑これが東京市会を通過したため再び猛烈な反対運動になり︑結局翌年一月政府はこの
値上請願を却下した︒しかして政府は同年十月尾崎市長に一定条件での市営許可の言質を与え︑同四十四年六月買
2 収の命令条項を呈示し︑同年八月一日ここに電車市営が実現をみたのである︒これに続いて京都市は同四十五年︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑神戸市は大正六年︑横浜市は同十年︑市街電車市営を実施した︒このように市営の実現は独占の一般的形成と時期︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑を等しくしてなされているのである︒
③ 明治工業史︑電気篇︑三六二頁以上の記述については︑竹中龍雄︑日本公企業成立史︑第五宗市営市街電車企業の成立︒及び東京都交通局四十年史︑八ー一七頁参照︒
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こうした電車市営問題の漸次的展開にともなって市営電車の経営原則をめぐって多くの論議がかわされるに至っ
た︒そしてまさにマソ対イリノイ州事件に始った論争史のなかから近代的公益企業概念が形成されてきた如く︑昭
和初年に至る長期にわたった論争のなかで吾国における公益事業概念が特徴的に形成されたのであった︒この論争
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第一
期︒
とったのは大正五︑六年以降のことであった︒ ヽというのは手数料主義と収益主義の二者の論争である︒この問題の発展史をたどるとき︑われわれは明治二十年代末期までさかのぼらなければならない︒そして小論でとりあぐぺき期間をとれば︑日露戦争をさかいとして前後二つの時期にわけることができ︑日露戦争以前の時期を第一期︑以後を第二期と呼ぶこととする︒
第一期においては未だ一貫した公益事業政策は存在せず︑それは第二期に至って始めて手数料主義として絶体主
義官僚とそのお抱え学者たちの手によって本格的に形成されたのである︒しかしながら地方自治の当事者たちは収
益主義をとることによって事実上この手数料主義を無力化していたが︑この時期ではまだ市営事業の法律上の性質2 について顕著な論争というべきものは存在せず︑これらは事実上併存していたのである︒これらが論争のかたちを
わが国においては明治二十五年十二月二十四日の行政実例以来︑内務省当局の意見は市町村に於ては単に営利を3 目的とする事業をなすことを得ないというにあったと一云われているが︑後にみられるような絶体主義官僚の﹁官製﹂
公益厩念の先駆的形態はすでにこのときに一般的なかたちでできあがっていたと一云い得るであろう︒しかるに明治
二十九年四月︑東京市内交涌機関として東京電気鉄道︑東京電車鉄道︑東京自動鉄道の三社による私設電車経営出
願にあたって︑内務省の方針として次の如き意向が明かにされた︒それによると︑
一︑東京市内電気鉄道は有利なる事業なるを以て私設会社の独占に委すべきに非ず︒
一︑東京市内電気鉄道ほ之を市の事業として︑以てその収利を市の経費に充つるを至当なりとす︒
一︑若し市の事業となすときは一方には市の収益を得るの利あるのみならず︑私設会社の如く漫りに私利独占の弊を助長する
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と云いながら︑他方では︑
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の憂なく︑又公益の便利を図りて可及的賃銀︵料金のこと⁝⁝引用者︶を低下せしむるの利ありとす︒
一︑東京馬車鉄道は許可の年限内は無論自由に営業をなし得べきも︑若し之を電気鉄道に改設するが如きことあるに於ては之が許可を与ふべきに非ず︒
と︒この時の内務大臣は政府弾劾の民党連合から脱落して︑公然と第二次伊藤内閣なる絶体主義政府と妥協した自
由党の板垣退助であった︒彼はここにおいて市街電車公営の方針をうちだした︒しかしながらその経営方針におい
て﹁官製﹂公益概念をもちだしてはいるが︑他方では財源論をだしていて︑必ずしも徹底した原則を有するとは一云
5 い難い︒同様なことは明治三十二年十月における天皇制の藩屏︑社会政策学会の市街鉄道問題に関する意見書ー│
それは美濃部・葛岡・加藤の三会員の起草にかかるものであったがー~の中においてもみられる。即ち一方で、
﹁収支相償へば本来の目的ほ已に之を達したるなり﹂
﹁若し夫れ市税に待たずして市の経費を支ふるの道を開き市民の負担を増さずして全市の便益利福を皇張するの財源を作るは市
たるもの宜しく計画すべき善法なり﹂
と一云って︑公営を強く主張していてもその経営原則についての一貫性が未だ確立していない︒
このような不徹底性を集中的にあらわしているのは公営方針の放棄である︒既に前節で述べておいたように明治
三十年代の東京市内の電車事業は私人の営利的な経営に委ねられた︒東京馬車鉄道が明治三十三年十月動力変更を
行い︑複線架空式による電気鉄道敷設の特許認可を得︑東京電車鉄道株式会社と改称し︑発足したのをはじめとし
て︑東京市背鉄道︑東京電気鉄道と夫々相継いで認可をうけ︑明治三十六︑七年にはいづれも運転業務を開始して
いる︒しかるにこの間東京市会議員佐久間貞一の提議にもとずき︑︳︱‑十一年六月市筈鉄道を市有とすべき第四十四
てい
る︒
号案が市会に上提され︑八月︑資本金六百万円を以て市内に空気圧搾鉄道を敷設し︑このエ費には年七朱の市公債
を発行して財源にあてるという市参事会の具体案が成り︑同年十月内務省に対し正式に出願に及んでいる︒しかし
政府はこれに許可を与えず︑また条件変更をも忠告していない︒逆に翌年重ねての訟田市長の要望にもかかわらず
6 第二次山県藩閥政府は小松原内務次官の口を通じて﹁市街電車の市営を許可せざる旨﹂通告してきている︒
このような動揺はこの時期における絶体主義官僚の公益的統制の問題についての無定見を示すものと去えよう︒
このような無定見︑無方針はこの時期における公益的統制の客観的及び主体的条件の未成熱を示すものである︒た
だこの場合この客観的条件の﹁不成熱﹂の所在を地方自治制の方において︑地方自治の未発逹に電車公営瑳跛の素
因をもとめ︑政府は終始公営方針を原則的に堅持したとする考え方がある︒しかし東京市会の電車市営論者の王張8 が正確には市有私営という如き消篠的な趣旨のものであり︑山県総理が市有市営をも担否せんとしているのでない︐ と語ったという事実が一応承認され得ることであるとしても︑そのことから東京市が単に市有を企図するに止り市t 営の断行を躊躇したが故に市の出願を政府が却下したのであるという如き理由づけを直ちに引きだすことはできな
い︒なんとなれば註⑨で引用した如く︑山県総理が﹁今日市町村の自治を許したる以上は市街鉄道の如きは市の自
ヽ治体の事業として市自ら之を経営するは当然なりと信ず」といったばかりでなく、続いて「••…•市の経営と致させ
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たき希望なり﹂と云っている以上︑私設と市設とが競願した時︑何故彼が積梃的に市設を推進しなかったのか︑矢
張問題である︒また下って明治四十四年六月には桂内閣の平田内務大臣は突如尾崎東京市長を招き市営の条件を呈
示し︑七月に至って市営を認可した︒この際の事情について明治四十四年七月八日の東京経済雑誌は次の如く報じ
﹁後藤逓信大臣は東鉄の買収は数年来の懸案たるを以て︑之に解決の方針を与へたるに過ぎずと云ふと雖︑
公 益 事 業 政 策 史 の
一酌︵寺尾︶
(3) (2) (1) 公 益 事 業 政 策 史 の
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府が自治体を玩弄するも亦甚しからずや﹂︵傍点引用者︶と︒むしろ公営問題は基本的には政府の恣意的な方針の動
揺に帰せらるぺきであろう︒地方自治の未発展は事実であった︒だが自治体の主体的条件の﹁未成熟﹂のために︑
上の政府の方針が変更を余儀なくされたのではなく︑動揺的な公益性棚念しか持たない政府なるが故に︑早期の帝
国主義的な途の追求の故に︑むしろ﹁未成熟﹂な状態にいつまでも地方自治体が放椰されたのである︒従って公営
事業の経営原則には首尾一貫性が欠除している︒而してそれは基本的には絶体主義政府の側の無定見︑機会主義と
いった主体的条件のみならず︑独占の一般的未形成という客観的条件に帰せらるべきであろう︒
福田徳︱︱ーはリーフマンの﹁企業形態諭﹂における概念規定に従って公法人の営む事業形態を公経済︑公営造物︑公企業の︑︑︑︑︑
三種に分ち︑その支配する主義を公経済は無償主義ないし租税支弁主義︑公営造物は実費支弁主義ないし手数料主義︑公
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企業は収益主義ないし余剰主義と規定した︒論争は直接には公営電車が公営造物か公企業かという論点をめぐって行われ
た︒前者の立湯をとるる美濃部達吉は公営造物と公企業の区別を認めず︑公企業業は本質的に公営造物と等しいとした︒
従って彼は市営電車をもって公営造物であるとの認識にたって手数料主義ないし実費支弁主義をとった︒これに対し福田
は公企業説
11
収益主義をとなえたのである︒この論争は大正五年東京市営電気鉄道乗車券の効力に関する問題が発生し︑
市営電気事業の性質がこの際法律的に明らかにされた大正六年二月=一日の大審院判決即ち収益主義確立を契機として大き
な行政法上の問題となった︒福田徳︱︱‑︑経済学全集第二巻第一二十八章公企業︒関一︑都市政策の理論と実際︑第四篇市営
事業問題の内︑﹁市営事業の本質﹂︒田中二郎︑公共企業法︑日本評論社新法学全集第七巻所載︑ーニ頁以下︒原龍之助︑
企業行政法概論︑二六頁以下参照︒
関一︑前掲書︑二九五頁参照︒
関一︑前掲書︑二九五頁参照︒ 三四
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市営に移して未成線を早く完成せしめ︑線路及び車体を改良せしむること︑買収資金を外資に仰ぎ一は在外正貨の
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政
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欠乏を補充し︑一は資金を内地に散布して︑株式市場の不振を恢復せしむるとは︑其二大目的たるが如し︒⁝⁝
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一 五
﹁都市の社会政策﹂なる論策に現れている︒多少冗長で 汐見一二郎︑専売及び官公業論︑一六一1一 頁 ︒
国家学会雑誌第十一1一巻︑一︱七頁以下︒
竹中龍雄︑日本公企業成立史︑九七ー一
00
頁︒東京都交通局四十年史︑八ー九頁参照︒
竹中教授は日本公企業成立史︑一
00
頁︑一八七ー八頁参照︒教授は﹁市の旅極的活動の旗芽は漸く明治一︱︱十年以後に現
はれ初め︑略々四十年頃に至り明瞭にこれを看取し得るやうになり︑名実兼ね備へた完全なる市営企業の成立とその発展
を見たのである﹂︵一八七頁︶と述ぺられ︑明治三十二年の東京市の電車出願の却下を後にものべる如くに︑市の計画が
単なる市有であって︑積極的な市営の意図がなかったことに市営論をかざしている政府の不満足があったというように解 釈しておられる︒これは汐見博士も同一意見である︒︵前掲書一六五ー六頁︶かかる地方自治の発展の上に公益事業政策
の展開を基礎づける見解は本邦の湯合であっても或る限度では是認できるように思う︒しかしながらこれを無視しえないまでも、この点に過大な力点を附与することは、わが国の公益事業政策の独自性•特質を見失わしむる危険性を有する。
⑧ 竹 中
︑ 前 掲 書
︑ 九 九 ー 一
00
頁
⑨﹁政府は市有市営案をも拒否せんとしたのではなく︑山県総理大臣は東京市街鉄道市有期成同盟会有志に︑﹃今日市町村の
自治を許したる以上は市街鉄道の如きは市の自治体の事業として市自ら之を経営するは当然なりと信ず︒特に市街鉄道の
みならず電灯や瓦斯の如きも市の経営と致させたき希望なり︒云々﹄と語られたといふことである﹂という如く竹中教授
は﹁東京市街鉄道問題﹂︱︱六頁を引用されておられる︒︵竹中︑前掲書︑一
00
頁 ︶
竹中︑前掲書︑一
00
頁
第二
期︒
前述した如くにこの時期にわが国の公益事業政策の原型たる﹁官製﹂公益慨念が形成された︒そしてこの形成が
社会政策的見地と結びつきつつ行われたという点に特に注意が払われなければならない︒かかる考え方のハシリは
既に明治三十三年九月国家学雑誌第一六三号の桑田熊蔵︑
あるが虚飾なく問題の焦点が画きだされているので繁をいとわず引用しよう︒彼は﹁要之するに自治体の社会政策
公 益 事 業 政 策 史 の
(7) (6) (5) (4)
一酌︵寺尾︶
36
公 益 事 業 政 策 史 の
一齢
︵寺
尾︶
は資本家と労働者とを調和するに就いて一種の魔力を有せることは固より径むに足らず﹂と一云うような視角から問
題に接近し︑この﹁自治体の社会政策﹂の一に所謂
﹁特
占事
業﹂
のである︒彼は市背電車の問題なども社会政策との関連において把握する︒日く︑
﹁特占事業と社会政策との関係奈何ん︒凡そ特占事業の目的は社会公衆の利益を保護するに在り︒特別なる社会階級をのみ利す
るは其目的に反したるものとす︒今社会政策の目的は細民の保護に在り︒貧富の調和に在りとせば特占事業と社会政策とは全 く別物なるが如くに見ゆるなり︒然りと錐も是れ皮相の見解のみ︒特占事業と社会政策とほ其間に密接の関係あることは固よ り疑を容れず︒抑も特占事業の目的は社会公衆の利益にありとせば︑而して社会公衆に就いて其多数を占むるものほ細民なり
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑とせば特占事業は一種の社会政策なることは誰か之を怪まんや﹂
﹁市街鉄道は国内鉄道と均しく公共的性質を有せる事業なり︒⁝⁝然れども今若し社会政策の眼孔を以て二者を比較するときは︑
市街鉄道を以て市有となすの急要なることは︑国内鉄道を以て国有となすの比に非らず︒蓋し一国商工業の進歩するに従って
人口の都市に集注するは必然の勢なり︒人口の集注は地価の騰貴を来し︑地価の騰貴は屋賃の騰貴を来すは亦怪むに足らず︒
是の如くしてわづかに賃銀に依って衣食る労働者は市内に住居する能はず︒漸次市外に駆逐せられ日々市内の会社工場に通勤 するの已むを得ざるに至るべし︒於是乎市街鉄道は労働者の為めに最も欠く可からざる交通の機関となるなり︒此時に当って 市街鉄道をして労働者の利便に供せんには︑必ずや其線路は市街各部に普及せざる可らず︒其賃銭は非常に低廉ならざる可ら ず︒是等の要件を充たすことは決して営利を以て惟一の目的となす処の私業のなし能はざる処なり︒然れども今若し之を以て
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
特占事業となすときは此目的を達すること固より容易なるべし︒奈何となれば特占事業の主眼とする処は営利に非らずして公
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑̀︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
共の利益を図るに在るが故に︑其損益計算に就いてほ只収支相償ふことを得ば則ち定る︒敢て其余を望まざればなり﹂︵傍点
引用者︶︵仝号一九頁以下参照︶
このように彼は社会政策的見地から公益主義︑後の所謂手数料主義への考え方を打出している︒このような社会
︑
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政策的な︑官製の︑即ちォシキセの公益的統制の考え方は随処に現れている︒明治三十九年︑大阪市の市背電気軌
道事業の私設出願に対する監督官庁の首長であった高崎大阪府知事の見解もこの考え方に外ならない︒彼は私設を ︵都市の独占事業のこと⁝⁝寺尾︶をあげている
一 六
﹁市営方針は鶴原時代に於て同意せる所なるも其理由に至りては鶴原氏︵市電の
創設にあたった大阪市長⁝⁝引用者︶と異にせるものあり︑鶴原氏は市財源の一部に充当せんが為めに市営方針を
執りたるものなるも︑予は本来斯の如き公益事業は必ず公共団体の経営せざるべからざるものとし︑其営利の見込
︑︑
︑
あるや否やは問ふ所にあられ﹂と︒また一般に政府は市の経営する一切の事業の使用料は公法上の使用料として市
条例に依らしめようとし︵明治四十四年政令第二四三号第十四条︶︑起債認可の際︑電気事業の収益を他に流用す
q
•I
べからずとの条件を附けるというような実例がが少くなかったのである︒そしてかかる考え方が絶体主義官僚のみ
ならず社会政策学会のなかにおいてすら一般的な空気であったということは同学会第四回大会の共通論題であったt
hu~
市営事業にかんする諸氏の報告に柩めて明かである︒このうち塩沢昌貞は﹁私は大体に於て都市が是等の公益事業
を財政上収益の目的を以て経営するのは宜しくないと思う︒又若し之を都市で経営して利益があれば共料金を低廉
にするか︑或は又事業の状態を改良すること﹂が必要であるという如く明快に意のあるところを述べている︒ただ
たまたま予想外の収益のあったとき都市の社会的慈善事業等の費用に之を利用することぐらいなら社会政策から考A
u
えても不当とはいえまいと云っている租徹底的であって︑この時期における公営事業のあり方に対する絶体主義官僚及びその支持者たちの一般的な理解の特徴点を最も端的に示しているのである︒
七
次にこのような監督官庁がわの考え方にたいし当事者たる市関係者の公営事業にたいする考え方はどうか︒この
点についての曲型的な表現は前にのべた社会政策学会第四回大会で報告した東京市助役田川大吉郎の考え方である︒
すな
わち
︑
﹁先程からの御教へで肝に銘じて伺ひましたことは︑龍車を市営にするに収益主義を基本としてはならぬ︑公益を土台に骰か 公 益 事 業 政 策 史 の
一酌︵寺尾︶ 拒みながら次の如く云っている︒
﹁それから財源にする目的で市営をしてはいけないとの御説は︑理由は兎も角実際に於ては一の問題であらうと思ひます︒
. .
.
・・・前に誰何かの御説にそれは慈善事業に投ずる︑即ち慈善事業に限って之を投ずるとお述に為った様でありましたが︑私は必
ずしも之を慈善事業と云ふ狭い範囲に限る必要はないと思ふ︒市営其のものは収入を増加する目的ではありませぬが︑市の凡 百の必要なる事業を進行する為に︑そこに賃銭を多く取ることが便利と認められた時分には︑随分それを実行しても差支なか
らうと思ふ︒﹂⑮
と柩めて積柩的な収益主義的経営原則をもちだしている︒か4る考え方は明治一︳一十六年十一月十三日大阪市長鶴原
6 1
定吉の市萄鉄道市営の提案現由説明においても︑また尾崎東京市長の次のことば︑﹁収入の大部分を市税に仰ぎてり
u
経済を立つるが如き揚合に於ては︑市営電車は宜しく相当の乗車賃を徴集して市の財源と為すべきなり﹂というこことばにおいても明かである︒このことは地方自治体自体が公益主義を実質的には放棄していることを意味する︒
むしろわが国における公益的統制は上から与えられたのであり︑吾国においては基本的には地方自治の発展の上に
公益概念が展開したものではないということがここでもみられるであろう︒
しかしながらこの時期においては公益主義︵手数料主義︶と収益主義は︑相矛盾し相対立すべき両柩でありなが
ら︑夫々絶体主義政府と下部自治体という相異った担い手をえて︑実は現実において鋭い対立をみせず共存してい
た︒これらが行政法学者によって意識的に論争の形にまでたかめられたのは先に註田で触れた如く大正六年二月︱︱︱
日の大審院における﹁市営の軌道に於ける乗車関係は私法的関係なり﹂という判決を契機としてであった︒判決理 と一応譲歩しながら︑しかも︑
公 益 事 業 政 策 史 の
一齢
︵寺
尾︶
三八
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑なければならぬ︑と云ふことでありました︒如何にもさうであります︒私自身もそう思って居ります︒﹂︵傍点引用者︶
(19) (18) (17) (16) (15) (14) (13) (12) (11)
九
由は︑第一に市の電車事業が営利事業であるとし︑第二に電車賃は営造物の使用料ではないというにあった耀︑美 濃部達吉はこの判決理由に輿向から反対しており︑これに対し上述した如く福田徳三はこの判決理由に餐成の意見
餅
を表明している︒北村五良氏︑関一も福田徳三の立場をとっているのであが︒
さてわれわれはこのような問題の推移の事実認識のなかから︑更にこれらの推移が表わす宜の意義について考察
をす4
めてゆかねばならない︒既にのべたところからもわが国の公益事業政策形成の特質はある程度開顕せられた が︑さらに所与の課題を内容的に具体的に把握するためには︑すすんでこの論争を日本資本主義の特殊的発展の光 のなかにおいて具休的・歴史的に理解し︑評価することが必要である︒
東京経済雑誌第一︱︱一六四号︑第五四巻九五一頁
関一
︑前
掲害
一︱
10
九頁
社会政策学会編︑市営事業︑明治四四年参照︒
同上︑四八ー九頁 同上︑一︱九頁︱ニニ頁 大阪市営電気軌道沿革誌︑六頁 東京経済雑誌第ニ二四四号︑第五四巻︱二頁 美濃部達吉︑評釈公法判例大系上巻︑三ー七頁 福田︑前掲書ご︱二七ーご一六七頁︒北村五良﹁東京市電車旧乗車券問題の再吟味﹂︵国民経済雑誌五五巻二号︶︒関一︑
前掲﹁公営事業の本質﹂参照︒
公 益 事 業 政 策 史 の
一酌︵寺尾︶
公 益 事 業 政 策 史 の
一酌
︵寺
尾︶
まづ第一期における市筐電車の経営方針にたいする政府の態度が柩めて一貫性のないものであったいうことは前
節にみた如くであるが︑本節ではこの事実の評価を与えるならば︑独占の一般的未発逹なる客観的条件に根源する
ものと云わねばならない︒しかしてまた独占の一般的成立後の第二期に至り展開すべき公益事業政策の特質は一般︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑的にはすなわち原則的方向としてはこの時期の絶体主義政府の諸政策がその追求する早期の帝国主義的侵略政策に
従属して決定され︑プロレクリアートの運動が治安警察法︵明治三十三年︶
11
団結禁止法によって芽のうちにつみと
れ︑また産業ブルジョアジーが絶体主義天皇制にたいし自主性をもちえなかったというところに胚胎しているので
ある︒日本資本主義は批界的には帝国主義の段階に入らうという環境のなかで急激に生成発展をとげねばならなか
ったのでそれは特異なかたちをとらざるをえなかった︒一ぞうまでもなく日本における資本主義の発展は明治絶体主
義政府が農村における半封建的生産関係を土台とし︑またその再生産の上に︑自ら業をおこし︑強行的に産業資本
の成長を保護育成したことにより達成せられたのであった︒この半封建的な農村の存在は一方では低賃銀の基盤と
なり︑広範な中小工業︑零細工場︑家内工業を存置せしめたと共に5他方では国内における資本主義市場の未発逹
をもたらし︑この結果先進諸国との競争において日本の資本主義を発展させるために日本資本主義は早期に帝国主
義的な性格をおびたのであった︒かかる保護助成の下にのみ成長しえたこの国の産業ブルジョアジーの故に︑下か
ら封建的な士台を打破する能力を欠きむしろ藩閥の庇護を求めて絶体主義天皇制と手を結び︑それにより代位︑補
充されることが必要であった︒このように日本資本主義はその発展のためには何よりも国外にむかって武力的に進
出することがその条件となっていたのであって︑したがって軍事的発展に必要な軍事産業が中核をなしており︑日
本の産業構造はこの軍事産業による財閥資本を中心に︑その周囲を大工業がとりまき︑そのまた周囲を中小工業︑ 四〇
四
零細
工業
︑ マニュファクチャ︑家内工業などがとりまいて夫々が中心の軍事産業に依存し︑全体として絶対主義天
ー︑︑︑︑︑︑︑
皇制の軍事的冒険に死命をたくしている如き組みたてを基本方向としてもっていたのである︒
ブルジョア的発展への道が切り開かれた以上は︑このブルジョア的発展のためには︑この絶体主義的藩閥の政治機 構は直ちにぞの束縛にほかならない︒ここから所謂自由民権巡動が︑この﹁修正﹂﹁緩和﹂のために︑上からす
年︑旧参議たる江藤新平・板垣退助・後藤象二郎・副島種
︑︑
︑ なわち﹁上流の民権説﹂﹁民撰議院設立建白書﹂︵明治七 臣等によって︶が左院に提出され︑曽ては同一の台閣に席を列ねた参議が藩閥政府に対立するにいたる││︑下か
ら1
半封建的姪桔︵とくに地税︑そして雑税︶に反撥し︑産業ブルジョア的発展に立脚した土佐︵土地の分化と 農産物の多様化とによって︑著しく商品経済化した地方の典型︶の立志社の民撰議院設立建白書︵明治十年片岡健 吉・林有造等︶ー│起らざるをえなかったのである︒しかしながら民権運動は︑半封建的小作人︒貧農農村家内労 働者が主力となった明治十七年の秩父騒動を最高の発展形態として︑旧来の半封建的小作人および土地からの追逐
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
の上に拡大的に再生産される半封建的小作関係における小作人などを広く包含した勤労小農民・都市小市民が推進 したところの︑半芸建的負担をとりのぞき︑完全に自由な土地を取得せんとする反甜建斗争の展開に新たな発展方 向をみいだした︒しかしこのような農民平民のブルジョア民主主義運動の根本的昂揚を前にするや︑その典型を自
由党にみるごとく︑
かつて自由民権運動を推進したブルジョア・地主はみづから党の解体を行い︑却って︑この下 公 益 事 業 政 策 史 の
一酌︵寺尾︶
このような絶体主義勢力と財閥との結びつき︑及びこれと無関係には存立しえなくこの抱合のなかに組みこまれ ざるをえない中小ブルジョアジーの存在︑いかいいい齊奇胚恥沿的鷹鬱かかにか心がい
5 5 [
臣恥主羞か委和い[‑
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑.︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
つか︑乃至その立場を抱込んだ公益的統制の存在の吾国における困難さの根本的な理由がある︒勿論すでに一たび
(2) (1)
つて現れた︒だがこれは小プルジョア民主主義さえ︑労働者の斗争を侯たなければ遂行されえないことの結果であ
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、~、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、った︒かくして既に前代にブルジョア自身が拠棄したブルジョア民主主義達成の任務はいまや労働者の社会主義運︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑動によって受継がれねばならなかった︒ ひとしく巨大財閥の産業ブルジョア的自由主義を代表した改進党とともに︑2
︑︑
︑︑
︑︑
ッャインコンスチチュジョナリスムスて公益的明治政府の藩閥・官僚・軍閥の諸勢力の下に外見的立憲主義をもって事態をくらましたのであった︒従っ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑統制にみちびくべき中小ブルジョア的基盤ほ結局この時から消滅せざるをえなかったのであった︒ 政治的融合にまで結昌し︑かくして︑
公 益 事 業 政 策 史 の
一酌
︵寺
尾︶
からのプルジョア民主主義運動を抑制する半封建的寄生地主的収取者に転身し︵明治三十三年の治安警察法︑とく
に第十七条の制定︶︑そして︑この半封建的収取の土台の上に︑財閥との︵﹁自由﹂ではなくて﹁支配﹂を求めた︶
かくて天皇制と藩閥は温存され︑真に民権運動を推進した人民にとってほ︒^ンを求めて石を与えられたに等しか
った︒しかしながら大井憲太郎・河野広中の如き急進小プルジョア自由主義者の一部は︑必然的にそれが﹁希有﹂
な場合に属するとはいえ︑労働者・農民のブルジョア民主主義的要求と結びつき︑明治一︳一十二年の河野広中等の普
選期成同盟会への片山潜・木下尚江・幸徳秋水•安部磯雄ら社会主義研究のメンバーの合流といった統一行動とな
守屋曲郎︑日本資本主義発達史︑ナウカ阪九ー︱︱︱五頁参照︒
平野義太郎︑日本資本主義社会の機構︑一七五ー九頁参照︒
この結果電車問題はどの様にみられていたか。莫大な償金流入に剌戟された軍拡•新領土経営・製鉄所創設・鉄
道の建設改良・土木事業・電信電話事業の拡張等︑このための累次の大増税︑そしてこの途を平坦化すべき絶体主︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑義政府によるプルジョア・地主政党の抱込の膝史のなかにおいて︑政府にとっては︑いわば電車問題はその一つの
四
日清戦争から日露戦争に至る間には︑来るぺき帝国主義戦争に備えて前後三回︵第一二回目ほ北清事変費)
五千二百九十万円にのぼる大増税が行われ︑
る巨額の軍事費をまかなうべく︑政府は一般歳計剰余約一億五千万円︑特別資金より六千七百万円︑国債及び一時
借入金で十五億六千万円と共に︑第一次︑第二次非常特別税で二億千五百万円の大増税を課したのである︒田この② 大増税は方向として間接税主義をとることによって︑国民大衆への重圧となったが︑また地租を不問に附しておく
こともできず政府によって地租増徴案が上提されるや︑ここに同じく帝国主義政策を追求していてもそのための出③ 費の負担はまぬがれようとする池主・プルジョア党と絶体主義政府との一時的対立をひきおこした︒また地方自治
体をみても︑増徴分の地租への附加税禁止︑地方債の制限など︑この過程において自治体機能に大なる制約を被っ山たのであった︒しかしながらこの対立における地主たちの抵抗は︑絶体主義政府やこれと結びついて地租増徴を推 進せしめんとする三菱等の財閥に対する根本的な批判を意味するものではなく︑従って公益的統制の基盤たるべき
何らの要素をもっているわけではなかったが︑政府はその帝国主義政策を推進するためには︑まづこの対立面を融
和する必要があった︒はたして明治二十八年の板垣入閣・自由党の抱込は日清戦争後の第一期増税を︑同一二十一年
十一月の憲政党︵旧自由党系︶の抱込は第二期増税︑
義官僚と地主︒ブルジョアの最も破廉恥な組織的抱合に外ならず︑それは日露戦争に導いた帝国主義コースの最大︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑の地ならし工作であった︒電車問題すらかかる抱込工作の具に供されたのであって︑その必要がある時には坂垣の
新財源論を生み︑また他の時には市街電車の私設許可を生んだのである︒塩島仁吉の﹁東京市の電鉄問題﹂と題す
公 益 事 業 政 策 史 の
︑︑︑︑︑︑︑︑︑
﹁道具﹂にすぎなかった︒
一酌︵寺尾︶
四
日露戦争においては開戦とともに戦前通常歳計の約八カ年間に相当す
とくに地租増徴を可能にしたのであり︑政友会結党は絶体主
総額
(3) (2) (1)
一酌︵寺尾︶
公 益 事 業 政 策 史 の
5
る一文はこの間の事情を次の如く叙述している︒即ち︑
﹁山県内閣は第十三議会に於て︑増租案の通過を図るが為に︑自由党の領柚故星字氏に約するに︑三会社︵市街電車敷設を競 願中の三社・・・・・・引用者︶を合同せしめ︑且東京市会の同意を得るに於ては︑霊鉄の布設を特許すべきを以てせり︑而して此の 約束ほ屋氏の尽力に依り︑増租案の職会通過と共に成立せり︑是に於て晶氏は麹町区の一級公民たりし三井氏︑両雨宮氏等を 説きて市会談員に当選し︑更に名巻職市参事会員となり︑執行議政の両機関に勢力を振ひて︑霞鉄の特許条件を議定し︑之を 政府に進達せり︑而して政府は之に修正を加へて電鉄の布設営業を特許せり︒﹂
と︒このように公益事業政策のブルジョア的基盤を欠除せるわが国の場合︑政商や財閥とむすんだきわめて恣意的 な絶体主義官僚の態度が支配的なものとなったのである︒しかしながら後述の時まで未だ若いプロレタリア階級に とって︑受継ぐべき任務・ブルジョア民主々義的要求を掲げて組織し闘うことは梃めて困難なことであったし︑ま
して
明治
一
l一十三年の治安菩察法が彼らの手足をがんじがらめに縛りあげていた状態の下では事実上不可能なことで あった︒この公益事業政策の社会基盤の崎形性は独占の形成なる経済基盤成立後も長く該政策の特質を規定した︒
︱︱八頁参照°
勝正憲︑日本税制改革史︑四
0
以下︒風早八十二︑日本財政論︑
風早︑前掲書︑一︱四ー五頁︒
日清戦争後の第一期増税は政府が自由党を抱込み漸く成立したが︑第二期増税は酒造税・地租・所得税・登録税の増税︑
田畑地価の特別修正︑噸税及び日銀納付金の新設︑葉煙草専売収入の増加を目的として明治三十一年第十三回国会に上提 されたが︑議会は政府の地租増徴及び地価修正案に批判的で︑鈴木璽遠︑谷千城等は地租増徴反対同盟会を組織した︒そ して談会は地租の増徴率を修正し︑増徴期間を区切り︑さらに政府の第二案たる家屋税新設をも無用化した︒かかる抵抗 は朋治――-+-=年四月東北減租大会(仙台)、五月関西二弁三七県非~租同盟大会(京都)、十一日憲政本党の一――税復旧案上提 より明治三十五︑六年にわたる地租培徴継続案反対にまで続けられた︒北清事変の第三期増税に至っては反対諭は﹁詔勅 の降下﹂までやまなかった︒そしてまた明治三十六年における地租増徴継続案も日露開戦で日のめをみるまでついに撤回 を余儀なくされていたのである︒︵勝正憲︑前掲書四七頁以下参照︒︶
四四