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『本間久雄日記』を読む (1)

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首都大学東京 機関リポジトリ

Title

『本間久雄日記』を読む (1)

Author(s)

岡崎, 一

Citation

人文学報 表象文化論(431): 1‑24

Issue Date

2010‑03‑30

URL

http://hdl.handle.net/10748/5332

Rights

Type

Departmental Bulletin Paper

Textversion

publisher

http://www.tmu.ac.jp/

(2)

『本 間久雄 日記 』 を読 む(1)

岡 暗 一 序

筆者 は かな り以前 か ら本 間 久 雄 の著 書 を収 集 して きた(現 在2◎ 冊 弱 に ま で達 し た)が 、未 だ 本 聞論 を公 表 した こ とはな い。 そ の 必然 性(義 務)も な く、 ま た専 門 の研 究対 象 とい うよ りは 、『現 代 文藝 評論 集 』、『目本 現代 文 學 全集 』1◎7、増 補 改訂 版(講 談社 、1980年)に 同 じく作 品が 収録 され て い る厨 川 白村一 「厨川 白村 氏 の 『印 象 記』」(『生 活 の藝 術化 』[三徳 社 、大 正9年])や 後 出の 『日記 』(191)に も見 られ る通 り本 間 は 白村 を意識 して い た な ど と同様 、そ の 著書 を折 に触 れ て は手 に取 り、パ ラパ ラ とペ ー ジ をめ くって は気 まま に文 章 に 見入 って満 足 す る とい うよ うな、

どち らか と言 え ば(私 淑 とま で言 え るか ど うか は判 らな い に して も)自 分 の気 質 に 合 っ た部 類 の文 人 だ か らで もあ る。最近 、本 間 の論 文(未 完)「 明治 浪 漫 派運 動序 説 一 透 谷 と藤 村 と 」(『立正 大 学 文 学部 論 叢』38号

、1970年9月)を 目に した が 、そ の 中 で北 村透 谷 の論 文 ヂ人 生 に相 渉 る とは何 の 謂 ぞ」(『文 學 界 』2号 、 明治 26年2月)を 引用 し、透 谷 に"ユ ー トピア 的憧 憬"を 認 めて い る点 な どは、 も とも とユ ー トピア文 学 を 専攻 し嘗 て透 谷 論 を公 表 した こ と もあ る筆者 には 、 瞬友 に邊 遁 した よ うな懐 か し さを覚 え させ た 。1962年5月11日 の現 代 国語 問 題 特別 講座 講 演

「国 語 問題 」 で も、本 間 は 〈ユ ー トピア〉 に言 及 して お り(「国語 国字 間題 雑 言刮、

『學 苑 』1962年9月)、 最 晩年 にな っ て もWilliamMorrisの 世 紀 末 ユー トピア文 学 の 代表 作.NewsfrozzzNowhereを 再 読 して い た(「ワイ ル ドの メ ン ピス宛 書簡 にっ いて(⇒ 」、『實蹉 英 文 學』17号[1980年7月])。 や は り類 は類 を呼ぶ ので あ ろ う。

そ の よ うな中 で 、平 田耀 子 編 『本 間久 雄郵 記 』(松 柏社 、1!年)以 後 『日 記 』 と略記 、 ま た 当書 か らの引 証 につ い て は書 名 を省 略 しペ ー ジ数 のみ 記 載 、平 田 氏 は 本 間 久雄 研 究 の基礎 を遂 に確 立 した 驚 異 的 な 『本 問 久雄 書誌 』(雄 松 堂 出版 、 2008年)も 編 纂 して い る(「解 説 」 で本 間 の誕 生 月 が ヱ0月 では な く11月 に な って い る点 な どは蝦 瑛)が 、本 稿 で は取 り上 げ ない一 を 、筆者 は偶 々 古書(即 売)展 で 入 手 した(以 前 は古 書店 に も屡 出か けて いた が 、最 近 で は古 書 展 に しか行 かな く な っ た)。 『日記 』 の 記載 に倣 って 、 当書 を 出品 した書 店 が(割 合 に筆 者 好 み の)石 黒 書店(東 京都 港 区高 輪)で あ る こ とを明 らか に してお くが、 い つれ に して も当 書 が(新 刊 書 に余 り興 味 の ない)筆 者 の 手許 に古 書 と して到 来 した こ とは運命 的 だ っ た。 本 間の 古書 収 集 癖 を考 慮 すれ ば、 そ の運 命 的 出会 い(天 恵)の 持 つ 意 味 は更 に

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2r本 閥久雄E≡屠己』 を読 む(1)

増 大 す る。 これ もま た類 は 類 を 呼ぶ と言 うべ き とこ ろで あ ろ うか。

当書 が どの よ うな反 響 を呼 ん だ の か 、筆 者 は知 らな い し、知 ろ うと も思 わな い。

そ の よ うな こ とは 、(現代 に否 定 的で あ る故 に 現代 文 芸 に も ほ とん ど関 心 の ない)筆 者 最 近 、 井 内雄 四郎先 生(早 稲 田大 学名 誉 教 授 、故 高津 春繁[本 間 の 長 女 で あ る 久 美子 氏 の 夫]東京 大 学 名 誉教 授 の甥 、即 ち本 間 の遠 縁)か ら御 恵 贈 い た だ い た 『ア イ リス ・マ ー ドック の世 界』(旺 史 社 、2003年)を 通 読 して 、蒙を啓 かれたこ とは 認 め るが 、依 然 と して 現代 文 芸 を積 極 的 に 読む こ とは ない一 に とっ て は、全 くど うで も良 い こ とだ か らで あ る。 た だ 、以 前 か ら本 間 に 関心 を抱 き、その著書を収集 して きた筆 者 と して は 、 当書 を公 刊 した編 者 の 平 田氏(中 央 大 学教 授)に 対 して 、 そ の有 り難 い 「解説 」・本 文 注釈 な ども含 めて 、よ くぞ この よ うな興 味津 々 た る 日記 一 本 問 自身 は 当 日記 を"単 な る備 忘録"( i)と 見 な して いた が 、実 際 は決 して そ うで な く、(シェ ンキ ェ ヴィチ作 品の 主 人公 の 言葉 を援 用す れ ば)将 来 の世 代 に役 立 っ"真 摯 な""人 間記 録"(486‑87)で あ る こ とは通 読 すれ ば 自明 で あ る を 公 表 して くれ た もの と、ひ たす ら感 謝す るば か りで あ る。 編 纂 に 関 して 、本間の勘 違 い に よ る誤 記 に 連 られ て"川 崎紫 山"(254)を 注釈 で"堀 紫 山"に 訂 正 して い な か っ た り、『目記 』 昭 和37年4月23臼(519‑20)・12月20日(540)の 項 に よ る限 り実 践女 子 大 学専 任 退職 時 期 は1963年 で なけ れ ば な らな い はず な の に従来 の 年譜 に引 きづ られ て1962年(674)に な って いた りす る とい った 蝦瑛 も あ る(欠 損 部分 が あ る のが何 よ りも残 念 で あ る)が 、 この よ うな点 も 『臼記 』公 刊 とい う偉 業 の前 には 大 目に 見 られ るべ きで あ ろ う。本稿 本 間 に関す る初 め て の拙稿 を 執筆 す る気 にな っ たの も、ひ とえ に 当書 出現 の た め で あ る。 平 田氏 は、高校生時代 か ら米 国留 学 ・欧 州旅 行 を体 験 し、Uわ が孫 なが ら よ く出か した り"(198)・"わ が 孫 なが ら天 晴 な り"(505)と 本 間 自身 も感 心 ・自慢 してい た本 間 の愛 孫 で 、この"学 問 に熱 心 な る さま嘉 すべ し"(213)と 賞 賛 され た"不 思議 な る児"(476)・"不 思議 な る娘"(5◎5)・"中 々優 れ た る児"(558)は 、本 間 の願 い どお り"す くす くと生 ひ 立"(505)ち 、や が て西 洋 中 世史 を専攻 す る国 際的 学者 い か に も本 間 の血 筋 を 引 くエ リー ト学 究 にな っ た(こ の よ うな 平 田氏 と直接 連 絡 が取 れ るよ うに な っ た こ とは、筆 者 に とって は真 に幸 運 だ った)。

30年 がか りで完 成 した 『明 治文 學 史』全2巻(東 京 堂、昭和10‑12年)・ 『綾 明 治 文 學 史 』全3巻(東 京 堂、 昭和18‑39年)の お か げ で 、著者 の 本 間 は文 芸 関係 者 にす ら国文 学者 と誤 解 され 、そ の こ とを知 った 際 に̀̀い さ ㌧かの 不快 を覚"(665)

えて さえい たが 、sら 嘆 文 学者 」 を以 て任"(666)じ て もい た よ うに、経歴(早

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r本間久雄 日記 』を 読む(1)3

稲.:学 文学 部英 文 学 科 鞭 な ど)と 無(r盤 唯 美 主義 の研 究』 な ど)の 双方 か ら見 て 、本 間の 本業 は暦 と した英 文 学者 だ っ た([C知 識 的 享楽"[93、477】 に勤 しむ

〈脱 領 域 の知性 〉の先駆 者 の一 人 だ った 本 間 の活 躍 した分 野 は、婦人 問題 ・歌 舞伎 ・ 絵 画 な ど と幅 広 い が 、 こ こで は立 ち入 らな い)。

本 間 の本 業 だ っ た英 文 学 関係 の 業績(翻 訳 を含 む)の 史 的評 価 に っ いて も、筆 者 は大 して 関心 が な い し、贅 言 を弄す る積 りもない 。 た だ し、 そ の よ うな業 績 を可 能 に した 背景 に、本 間 の 学 究 として の若 々 しいCl情 熱"(579)は 言 わず もが な、研 究 に必 要 な 文献 の購 入 な どを 可能 とす る経 済 的基 盤(と 目常 生活 の煩 わ しさ を肩 代 わ り した 妻 み 江[美枝 子]の 文字 通 り 〈縁 の 下 の力 持 ち〉 的 内 助 の 功)が あ った こ とだ けは 、 特記 して お か な けれ ば な らな い。 そ の経 済 的基 盤 とは 、原 稿料 な どの 臨時 収 入 と、 大学 教 員 と して の 定 時収 入 で あ る。 大学 人 の場 合 、原 稿 料 な どの代 償 と して (ある い は紀 要 の よ うに無 償 で)公 刊 され る論 文類 の累積 が本 人 の 学 問的価 値 を決 定 づ け る業 績 を形 成 し、や がて は単 行 本 化 され た りして 衆 霞を集 め る わ けだ が、 定 収 入 の代 償 と して義 務 づ け られ る授 業 ・委員 会 活動 な どに つ いて は 注 目度 が低 い。

も と も と"townandgown"と い う語 句 もあ る よ うに 、"gown(大 学 人)の 内幕 は

"t

4WIln(一 般 市 民)に は判 りに く く、イ ンター ネ ッ ト情 報網 の発 達 した現在 で も、

大 学 の 内幕 は(公 開 に 不都 合 な 面 も あ り)周 知 され て はい な い。 ま して本 聞 の生 き た イ ン ター ネ ッ ト前 時 代 ともなれ ば、 大 学 の 内幕 は未 だ 〈象 牙 の塔 〉 の呼称 に相応 しい も のだ った。そ の よ うな視 点 か ら見 て も、『目記 』は頗 る興 味深 い が 、教 員(更 に は教 育 者)と して の本 間 の実 像 を垣 間見 せ て い る点 で も、実 に意義 深 い と言 え る。

以後 、 筆者 は 『日記』 を私 的 に(場 合 に よ って は体 験 的 に)見 て い く こ とにす る が 、前 も って幾 つ か の 留保 を付 けて お き た い。 筆者 の勤務 先 で 学 内競 争 資金 が 幸 い に も獲i得で き たた め、教 員(更 に は教 育者)と して の本 間 につ い て は、 同僚 の 野 口 肇 教授(立 正大 学 大 学 院在 学 中 に本 間 の 馨 咳に接 して い る)と の 共編 で 『教 育 者 と

して の本 間 久雄 』 を近 々公 刊 す る こ と と し、本稿 で は詳 述 を避 け る。

も とも と上杉 家(米 沢)お 抱 えの 能役 者 の家 系 に生 まれ た本 間 と演劇 との縁 は 、 坪 内遣 遥 や 島村 抱 月 との 出会 い以 前 か らの もの で 、む しろ宿命 的 と も言 うべ き だが 、 あ い に く(古 書 展 や 調査 ・旅 行 を除 けば)出 不精 な筆 者 は 、観 劃に も殆 ど興 味 が な い(そ もそ も劇 場 へ 出 か けた こ とが な い)。 従 って 、 文学 座 所演 『サ ロメ』 細 夏取 之介 訳 、 三 島 由紀 夫 演 出、 サ ロメ役 岸 田今 紹子 な ど)の よ うに、通 常 の 演劇 史 か ら 見 れ ば注 目に値 す る事 例 で 本 聞 も正 面 か ら批 評 して い る(358)事 例 で あ って も、

特殺 の興 味 を持 た な い。 逆 に本 間 が"眼 の 毒 、気 の毒"(598)と 唾棄 して いた(村

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4野 本 閤久雄 澱記認 を読 む(玉)

田英 雄 特別 公 演 の 類 で あ る)tL浪 花 節 式低 級 のヤ クザ物 劇'(541) 、(吉 川 英 治原 作

『新 太 閤記 』 の通 しの類 で あ る)cc第 二 流劇 場 のチ ャ ンバ ラ劇"(597)な ら(仕 事 の片 手 間 に)テ レビで 見 る(あ る い は聞 く)か も しれ ない が 、それで も観劇 に行 く こ とは ない 。

ま してや 歌舞i伎と もなれ ば 、全 く と言 って 良 い ほ ど興 味 が ない(そ の端 的 な証拠 に、歌 舞伎 座 の 前 を何 度 も通 りな が ら、そ の 中に入 った こ とは一度 も ない)。ccAn‑i‑S, の ア ナ ウ ンサー に、『心 中天 網 島』 を ツナ シマ と云ひ 、傍 の人に注意 され 、急ぎア ミ シマ と訂 正 し、 其足 にて 近松 に詫 び る た め電話 室 に駆 け込 ま ん とせ るも の あ りとの 笑 ひ話"を 大 谷 竹次 郎(松 竹 株 式 会社 社 長)か ら闘 か され 、"近松 を現代 の作 家 と思 へ る な り。 現 代 の青 年 に 、いかに歌舞伎の知識 なきか、以て知 るべ く、以て嘆 くべ し"(482)と 本 間 は記 して い るが 、 この よ うな 例 は 『歌舞 伎(研 究 と鑑 賞)』(天 絃 社 、1947年)の 著 者 で もあ る本 間 の指 弾 を待 つ ま で も ない言 語 道 断 の例 で あ る とし て も、"歌舞 伎 の知 識"の 有無 は、現 代 に お いて は最 早 そ れ ほ ど意 味 を持 た な いで あ ろ う。

本 間 は相 撲 を好 ん だ。 峯 田英 作 「本 間先 生 を偲 ん で」(r英 文 學 』20号[1981 年12A])に も活 写 され てい るが、贔 贋 の 明武 谷(『 臼記 』で は本名 の"明 歩 谷"[清 】)

189cmの 長 身 を活 か した横 吊 りが 得 意 で"人 間起 重機"と 練 名 され た が負 けた 時 には̀̀心 楽 しまず 、 書斎 に逃 げ入 り、 閉 ち こ も りた るま ㌧再 び茶 の間 に 出 で ず"(636)、 勝 った 時 には"大 に気 を よ く し茶 の 間 に居据 りた るま \最 後 まで 見 る"

(637)と い う有 様 だ っ た。 《̀ひい き相 撲 の負 けた るに は 、気 を く さ らす こ と多 し。

愚 か な る こ となれ ども、 フ ァン の心 理 と して い た しか た な し"(523)、̀̀ひ ゐ き力 士 の負 ける はわ が事 の如 く 口惜 しき心 地 す。 つ ま らぬ こ とな が らフ ァンの 心 理 と して 致 し方 な し"(552)と 本 間 は 自己 分析 して い る が、相 撲 に興 味 が な く両 国 界隈 へ行 って も国技館 に立 ち寄 る こ との な い筆者 と して は 、そのよ うな本 間の"フ ァンの心 理"を 理 解 しよ うと も思 わ な い。

従 って 、 本稿 で 取 り上 げ る(本 来 多 面的 な)本 間 像 は 限 られ て い るが 、それで一 向に構 わ な い。 何 故 な ら、本 稿 は本 間 に 関す る概 説 で は な く、私 的(体 験 的)見 解 だ か らで あ る。 故越 智 治雄 先 生 が 『漱 石 私論 』(角川 書 店 、1971年)の 「あ とが き」

で"私 が深 い読 み 方 に至 りえて い る とは言 え ない が 、本 書 が私 の ダ読 み 方Jの 記 録 で あ る こ とだ け は確 か で あ る"(377)と 書 い てお られ る螢 に倣 え ば、 本稿 も̀̀私 の 「読 み方 」の記録 で あ る こ とだ けは確 か で あ る"と 言 え る。

引用 に 際 して は、(表題 等 の場 合 を除 き)原 則 と して 旧漢 字 を 当用 漢字 に、変体仮 名 を平仮 名 に、雑 誌 の巻 号 数 を 漢数 宇 か らア ラ ビア数 字 に 、改 変 した。その結果、

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r本間久雄 臼言轟 を読 む(1)5

同 一 人 物 ・資 料 で あ っ て も 表 記 が 一 定 と は 限 らな い 場 合 が あ る 。 副 題 は 省 賂 した 場 合 も あ る 。 ペ ー ジ 数 は 、p.とPpの 使 用 を 省 略 し 、 ア ラ ビア 数 字 だ け で 示 した 。

『日記 』 か ら の 引 用 に 際 して は 、 紛 ら わ し さ を 避 け る た め 、 筆 者(岡 暗)に よ る補 訂 は単 な る 口で示 し、編 者(平 田氏)に よ る補 訂 は[]で 示 した。下線は、特に断 ら  

な い限 り、岡暗 に よ る もの で あ る。敬 称 は省 略 した 場合 が あ る。年 表 記 にっ い て は、

当初 、 西暦 で統 一 しよ うと した が 、近 代 日本 の特殊 性 を考 慮 し、 結 局 、元号 との混 用 に な らざ るを得 なか っ た。

王.人 柄 1。 学者 像

坪 内士 行(坪 内遣遥 の甥 、 一 時適 遥 の養 嗣 子 、早 稲 田で本 間 と同級)の 話 が(造 遥 張 りに)"円 転 滑脱 、加 之、話 し中に身 振 手 振 を加 へ た る もの 、聴 者飽 くこ とを知

らず"と い う模 様 だ っ た の に 対 して 、 本 間 は"余 元 来 口重 な る 上 に 、 性 、 き は め て 沈 諺 、 洒落 を解 せず 。 話 に よ りて 聴者 を魅 惑す る如 き は余 の 到底 よ く し得 る とこ ろ に非 ず。 た ゴ淡 々 と説 き去 り説 き来 るの み"(155)と 自己分 析 してい る。 言 わ ば波 瀾 万 丈派 と地 味 派 の違 い とい った とこ ろで あ ろ うか。 結 婚 式や 祝 賀会 とい っ た 目出 度 い席 での 祝 辞 の模 様 を見 て も、"余の祝 辞 の如 き、これ 余 の性 格 の然 ら しむ る と こ ろに て致 し方 な けれ ど、真 面C方 にて い さ 》か のバ ッ タ リな し。大向に受けざる 亦 当然 な り"(261)、"時 間 の た めせ き 立 て られ て 、思 ふ こ との半 ば を もえ 云 はず。 同伴 の妻 曰 くあのや うに拙 き ス ピー チ を き ㌧しこ とな し と"(284) 、"余 も何等予期 せ ざ るに 突如 祝 辞 を述 ぶ べ く強 ひ られ た り。辞 む べ きに あ ら ざれ ばマ イ ク の前 に立 ち は立 ち たれ どす で に ビール の満 を ひ きゐ た る上 に 、何 等 の 準備 な し。余 に取 り近 来 の 不 出来 な りしは是 非 も な し"(369)と い うよ うに、場 合 に よっ て は 当意即 妙 を 要 す る̀̀テ ー ブル ・ス ピー チ は苦 手"(128)だ っ た よ うで あ る。また、本間は隠 し 芸 や̀̀ス ポ ー ツ と室 内競 技"(高 津 久美 子 、 階 き 目の父 の思 ひ 出」、『實蹉英文學』

20号)も 不 得 意 だ った が 、"代 々能 楽 で 上杉 家 に仕 へ た 家柄"に 生 まれ 、祖父か ら

"う た ひ は も と よ り

、 舞 の 手 ぶ り其 他"の 芸 事 を"熱 心 に 、 且 つ 厳 格 に"(「 幼 年 時 代 の 思 ひ 出 一 読 書 そ の 他 一 」、 『實 践 文 學 』4号[195$年6月])教 え 込 ま れ た 本 間 の 場 合 、"無 芸 無 能"(350)と い う 自 己 評 価 は 疑 問 で あ り、 ジ ョー ク と さ え 見 れ な く も な い 。

こ う 見 て く る と、 本 間 は"真 面 目一 方"(350‑51)の 、"そ の 折 、 そ の節 、 最 善 を 尽 す"e"不 断"に"精 進"(268)す る 、"進 退 は 明 朗"(321)を モ ッ トー とす

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6『 本間 久雄 田記 £を 読む(1)

る学者 だ っ た印 象 を与 え る。確 か に本 間 には 、幼 少 期 に 『物 臭太 郎 』(博 文館 、明治 28年)一 大 江(巌 谷)小 波(漣 山人)編 『日本 昔 噺』 叢 書(明治27‑29年)第 拾 萱編 を読 ん で 、"こんな生 活 で よい のか"と い う疑 問 さえ持 っ よ うな勤勉 な学 者 気質 が あ った(河 東 碧梧 桐 も 『績 三 千里 』 上巻[金尾 文淵 堂 、大 正3年]明 治42年7

こマ マ ぜ

月12日 の項 でGC物 草 太郎"に 言 及 して い る[山本 健 吉 編 礪 轟鑑簾集 』、『明 治 文學 全 集 』56,筑 摩 書 房 、1967年 、26◎]が、 特 に批 評 は してい な い点 を見 る と、個 人 差 が窺 えて興 味 深 い)。母 方(志 賀 家)が 上 杉家 の儒 者 の家 系 だ った こ とを考 慮す る と、

本 間 の指 摘 通 り、 本 間 がそ の血 を継 い だ こ とは確 か で あ ろ う(r応接 間 に於 け る本 間 久雄博 士」、『學苑 』1953年3月)。"修 業 の道 にか ぎ りあ ら ざれ ば/到 り[て1とどま る奥 もあ ら じ/た だ 臨終 の夕 ま で の/修 業 と知 るべ し"(本 問が 峯 田 に与 え た色 紙 の

うえ じまお につ ら ひ と り

書 、峯 田r本 間 先 生 を偲 ん で」)と い う(上島 鬼 貫 『独 ご と』上 巻 八 「修 行 の道 」 中 の)文字 は 、(俳 道 で は な いが)学 問 の道 を貫 い た本 間 の真 骨 頂 を代 弁 す る もの で は あ る。

た だ し 〈学者 気 質〉 の一 語 で本 間像 を決 定 しよ うとす る と、本 問 の 実像 を見損 な う恐れ が あ る。 本 間 が具 体 的 に どの よ うな学者 で あっ た のか 、 こ こで は対 象範 囲 を 著 作 にま で拡 大 して検 証 す る こ とな く、以 下 に 『日記 』 か ら実例 を挙 げ てみ よ う。

[1.1]榛 木 厳 翼]博 士 は 「學 藝 の 學 藝 た る所 は 學 藝 其 自身 の 中 に 存 す 」と い ふ 。 Thingitselfな り。 これ ぞ 文 芸 復 興 期 に 於 け るthingforitsownsakeの 思 想 な り。 学 者 は い か に 騒 擾 と混 乱 を 極 め た る 世 相 の 中 に あ りて も 、 こ の 覚 悟 、 信 念 を把 持 す る を 要 す 。 こyに 学 問 の 独 立 あ り、 思 想 の 自 由 あ り。 貴 き か な 、 吻 そ れ 自 ら」 の 哲 学 よ。(224)

[1.2]栗 原[元 吉 】、佐 瀬 顧 夫]、 中 島[末 治]三 氏 大 学 院 設 立 の こ と に っ き 来 る 。 大 学 院 教 授 資 格 標 準 の 一 つ に 年 齢 を 挙 げ 居 る文 部 省 の や り方 に つ き て の 不 満 、 不 快 、 自 ら余 の 口 を つ い て あ らは る 。 八 十 に して 研 鑛 愈 々 著 し き 学 究 あ り。 五 十 す で に 老 朽 、 学 問 に 何 等 の 情 熱 を 持 た ざ る 徒 輩 あ り。 学 者 に 取 りて は 、 年 齢 の こ と 何 等 、 拘 束 の 意 義 を 持 っ べ き に あ らず 。 定 年 制 の こ と亦 然 り。 西 諺 に 日

く 、"Tolivetoolongisnottobelived"と 。 余 の 今 の 心 境 ま さ に 然 り。(625) [1.3。1]松 村 武 雄 氏 の 『日本 神 話 の 研 究 』 が 朝 日賞 に 選 ば れ た る こ と は 、喜 ば し き こ と な り。 わ れ は 賞 とい ふ も の に何 等 の 興 味 を 持 た ず 。 しか し松 村 氏 の

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7本 聞久雄.E配 £ を読 む(1)7

如 き著 書 に よる物 質 的報 酬 を度 外 視 して(推 測 なれ ど)孜 々 と して一 筋 に その 道 に精 進せ る学 者 気 質 は以 て敬 す るに足 る。(74)

[1.3.2]各 新 聞 に て芸 術 院 賞候 補者 の発 表 あ り。 中に学 者 と して余 の 日頃 蔑 侮 せ る某 氏 あ り。 芸術 院 賞 の価 値 年 毎 に下 落 しつ 》あ る今 日、別 に不思議 にも あ らざれ ど、 少 しば か り不快 な り。 とは云 へ 、左 様 の こ と、 もともとどうでも よ き こ と、風 馬牛 に看 過 して可 な り。(鐙2)

[1,3.3]河 竹[登志 夫】君 、余 の 明治 文 学 史 出版 の 出来 るだ け早 か る こ とをすs む。 而 して 曰 く、そ は 、芸 術 院 賞 、朝 日文化 賞 等 の選 考 上必 要 な り と。河竹君 の好 意 謝 す べ し。 た ゴし、 余 は 、嘗 つ て受 賞 を念 頭 に置 け る こ とな し。 受賞 を 念ず る如 き は少 年 の こ との み。 余 は もはや 、 か ㌧る境 地 を は るか に超越 せ りと 自 ら信 ず。 生涯 の情 熱 を こめ た る仕 事 は仕 事 そ の もの ン完 成 に て悦 び す で に極 る。 余 、何 ぞ何 々賞 の如 き を 、求 む る に汲 々 た らん や。(628)

[L3,4]朝 日新 聞 日曜 版 を一 瞥 す 。笠信 太 郎 氏 の 「後 ろ 向 きの 日本 」と題 し、

お城 と勲 章 の復 活 の こ とにつ きて論 ぜ る文 章 あ り。侃 謬 の議 論 な り。余は私学 に学 び 、骨 の髄 まで 、 私学 精 神 に養 われ た る もの 、勲章の如 き、何等 の興味な きの み か、 む しろ児戯 に類 す るも の と して侮 蔑 に値 す る もの 玉如 き思 ひ を 欝頃 抱 き居 た り。 笠 氏 の説 、た ま た ま 同志 を得 た る如 き思 ひす 。(297‑98)

[1.4]岡 保 生 君 来 る。[申 略】近 代 目本 文学 会 講演 後 の 理事 会 の模 様 な ど語 る。 同会 の 事務 所 の 従 来東 京 堂 な る を文理 大[東京 文 理 科 大学 、1949年 に既 に東京 教 育 大 学 と改 称】吉 田精 一 氏研 究 室 に移 し、講演 会 場 も文 理 大 にす る こ とに決 定 せ しとの こ と、そ れ もよ ろ しか らむ 。たaし 理 事 者 の 中 には従 来 演博[演 劇 博物 館]を会 場 とせ る こ とを 以 て早 大色 強 しと考へ 居 る もの あ るが如 し。特 に余が永 ら く同会 の 会長 と して 〔・・〕せ る こ と多 き を以 て 、 同会 に本 間 色強 きを難 ず る もの あ るが如 し。か 》る非 難 は一 笑 に も値 せ ず。学 問 の研 究 には 何 等 のParty spiritも あ るべ か らず 。(137‑‑38)

[1.5,1]余[中 略]止む を得 ざる事 情[中略]に て[実践 女子 大 学]英文 科 の世 話 を 引受 けた る た め、何 か と雑用 切 りな り。 か くて月 日空 し く過 ぎな ば、腹案 中の かず か ず の著 述 も亦 目の 目を見 ず に 終 らん。 お ぞ ま しき こ と して け りと悔 め ど 詮 な し。(ii)

[1.5.2]見 て ゐ る うちは 面 白けれ ど、 さて後 に て思 ふ に 、今 日の余は相撲 見 物 な どに、 暫 くた りと も浮 身 をや つ す べ き に あ らず。 す べ き こ と眼前 に 山積。 緊 張 を要 す るこ と切 な り。(376)

{1.6.1]車 に て演 博 に駆 けつ く。 近代 日本 文学 会 の例 会 あ り、岡保生君の風

(9)

85久 雄 冒記2を 読 む(1)

葉 『恋 ざめ』 の研 究 発 表 を きか ん た めな り。 岡君 は初 版 本 の 『恋 ざめ』 に加 へ る に 『恋 ざめ』 の原 稿(中 根 駒 十郎 氏 所 持 の もの を写 真 にせ る もの)を 持 ち来 り、 作者 が宇 句 に訂 正 を加 へ た る跡 を丹 念 に調 べ て 、作 者 の意 の いつ くに あ り しか を考証 論話 せ る もの に て、 そ の学 究 的態 度 、推 賞 す べ き な り。(133‑34) [1.6.2】 石 丸[久]君持参 の芥 川 の原 稿 「イ朱儒 の言 葉 」 は 珍 晶 な り。[中 略]作 者 自 ら原 稿 に種 々手 を入れ た る とこ ろあ り。芥 川 研 究 に は貴 重 な る一 資料 な り。

[中略]芥 川 研 究 の如 き、多 くは文 庫 本 にて 間 に合 はせ ゐ る今 醸、氏 の如 く原 稿 にま で遡 るは珍 ら し。 学者 はか くあ りて こそ真 の学 者 といふ べ し。(549) [2.1.1]「 栗 山大 膳J執 筆 の た め森 鵬外 、屡 々 文 を寄せ て[中 島利 一 郎]氏 に 質 し、且 っ 一 二度 氏 を訪 ねた る こ とあ りといふ。 氏 の黒 田家 文献 に委 しき 以て 推 すべ く、 鵬外 亦 そ の歴 史小説 を もの せ る折 、 資料 研 究 に荷 もせ ざ り しそ の態 度 の真 摯 な る亦 以 て 推 すべ し。(8◎)

[2.1.2]余 の所 持 せ る鶴 外 の書 簡 三 通。 陣 略】学 者 と して の 鵬外 を知 る好 適

 ゑ

の資料 た り。余 不 幸 に して鶴外 の[聲][翻 咳 に接 す るの機 を持 た ざ り しが 、書 簡 を通 して 見 る とき、 鴎外 は真 に敬 慕 すべ き人 な り しが 如 し。(119)

[2.2][山 岸徳 平祇 と余 と専 門 を異 に す とは いへ 学 者 気 質 にお い て共 通せ る も の あ る にや 、お 互 ひ に親 愛 の情 を持 て り。(101)

[2.3】 若 月氏 は、沖 略]図 ら ざ りき、最 近 ま で健 在 な り しとは 、而 も死 の直 前 ま で夫 婦 と も どもに研 究 に没頭 しあ りし とは。 世 の 栄辱 を外 に 、静 か に 、而 も 人 の知 らぬ 間 に、 世 を辞 せ る、学 者 ら しき風 口見 えて何 とな く慕 は し。(525) [3.1.1]早 大 図書 館 にゆ く。仲 略]役 〈の〉行 者 に 関す る資料 を調 ぶ 。〔一 一 〕 な どを借 り出 し来 り、 夕食 後読 み 漁 る。 資 料未 だ不 足 の点 あ り。 明 朝 、亦 図 書 館 に行 か ざるべ か らず 。 考 証 的な るも の を草す るは 短 文 と錐 も難 きか な。 学年 末 の上 、 例 の女 性 展[実践 女 子 学 園創 立6◎ 年 記 念 「近 代 女 性 文化 発 展 資料 展 コ の こ と気 に か 》 りて安 き思 ひ な し。 か \る折 、 か 》る厄 介 な るもの に 取 りか \ れ る こ とのお ぞ ま し さよ。 とは云 へ 、 か 》る苦 労 も、好 きな道 なれ ば こ を厭 は ざれ と、 ひ と り自 ら慰 む 。(110)

[3.1.2]僅 か に 三枚 半 の原 稿 の た め に故 意 々 々演博 よ り[真山]青果 全 集 を借 り出 し、 四部 作 を改 めて 読 み直 す ほ どの勤勉 さ、 当世 才子 の 眼 よ り見 な ば、 そ の律 気 さ、馬 鹿 正 直 さ、笑ふ に堪 へ た る もの な らん。 され ど、 目下 の余 はか く せ ず には をれ ぬ な り。 因果 とや 云 は ん。 とは いへ 、 四部 作 を改 めて 読 み直 し見 て 、文 化 史劇 の 作 家 と して の青 果 に つ き、 従来 、 感 じ得 ざ りしこ とを感 じ得 た

(10)

r本聞久 雄 日記 』を 読む(玉)9

り。 喜ぶ べ し。(132)

[3,2]駿 象 」 へ の 寄稿 は準備 整 は ざ るた め に次 号迄 延 期 を乞ふ 。 遺 憾 なれ ど編 輯 の 期 冒に迫 られ 拙 き もの 書 くよ りは 増 し な らん と吾 れ 自 ら思 ひ 慰 む 。

(89)

[1.1]は 唯美 主義(芸 術 至上 主 義)研 究者 で あ った 本 間の 学術 至 上 主義 宣 言 とも 言 うべ き もので 、学 者 と しての 本 間 の基盤 を なす もの で もあ る。"騒擾 と混 乱 を極 め た る世相"は 、 桑木 厳 翼 の場 合 に は 、 日露 戦争 で あ っ たが 、本 間に とっ て は、安 保 問題 で あ った(後 述)。 慶 応4年5月15日(1868年7月4目)、 彰 義 隊 と新 政府 軍 が激 突 した上 野 戦争 の最 中 に、̀̀独立 自尊"を 標 榜 し(本 間 も私 淑 して い)た 福 沢 諭 吉 が慶 応 義 塾 で通 常 通 り授 業 を続 け た とい う有 名 な 史実 が 、本 問 の念 頭 に去 来 して いた か ど うか は興 味 あ る所 で ある。

"騒 擾 と混 乱 を極 め た る世 相"(Th

omasHafdyの 小 説 名 を援 用 す れ ば"the MaddingCrowd")か ら遥 か に距離 を置 く("Farfrarn")こ とがな けれ ば、 学術 至

上 主義 は成 立 しない。 っま り学術 至 上 主義 は最初 か ら世俗 を拒 否せ ざ る を得 ない。

ラジ オで 豊竹 山城 少豫(浄 瑠璃 太 夫)の 語 り口(録 音)を 聞い て"浄 瑠璃 の大 夫 に 往 々 見 る大 向 に 媚 び る如 き軽 浮 な る調 子 な き は嘉 す べ し"(92)と 記 し、京都 画 壇 の榊 原 紫 峰 を"京 都 派 中最 も芸術 的気 稟 に富 め る人 、 毫 も世 俗 に媚 び ず 、一 す ぢに 自己 の道 を歩 め る人 、風格 敬 す べ し"(184)と 評価 し、"『破 戒 』 の 申に 丑松 の父 親 が 、そ の 子 の 出世 の た めに 、 自 ら浮世 を棄 てa西 入 野 の牧 場 に居 るの 件 を叙 せ る 中

い つ ひ っ こ

に 「寧 そ 山 奥 へ 高 踏 め 云 々 」の 文 句 あ り。 ひ っ こ め に 高 踏 の 文 字 を 當 て た る 、 流 石 、 藤 村 な りと感 心 す"(524‑25)と 記 して い る所 に 、本 間 の 高踏 意 識 は 明瞭 で ある。

因み に 本 間邸2階 の"こ じん ま りした六 畳 問"の"ふ しぎに こ の世 離れ した 閑静 な 雰 囲 気"(野 中涼 、 「本 間久 雄 先 生 の 思 い 出亘 『教 育者 と して の本 間 久 雄』 寄 稿])

は、 青年 期 か ら"観 照 の 生活"="現 実 を遊 離 した生 活})を"憧 憬"(r思 ひ よ り」

『早稲 田文 学』 明治43年7月 、後 に 「観 照 生活 の こ と」『自然 主 義 及 び其 以後 』[東 京 堂 、1957年])し て い た主 人(本 閥)の 人柄 を物 の見 事 に表 象 して い る。嘗 て 本 聞 は成 島柳 北 を 主題 に 「風 流 隠士 の辮 」(『文 學 櫟 記』[人文 書 院 、昭和13年])を 書 い た が 、本 間 もまた"風 流 隠 士"の 一 人 で あ った と言 え よ う。 吉川 霊 華(嘗 て 『早 稲 田文学 』の表 紙 を飾 った 画 家)に つ いて 、CC世、霊華 の世 界 を理 解 す る もの 少 な し。

(11)

10『 本 間久雄 霞言霞 を読む(玉)

蓋 し 、 現 在 の 如 く 、 古 典 の 教 養 を無 視 せ る 時 代 に お い て は 或 ひ は 当然 の こ と な る べ し。乍 然 、後 世 必 ず 霊 華 の 価 値 の 顕 揚 せ ら るy期 あ る こ と 疑 ひ な し。其 点 に つ き て 、 余 等 亦 衆 愚 を 誘 抜 す る の 義 務 あ り と て い ふ べ くや"(393)と 本 間 は 記 して い る が 、 本 間 の 自負 に 反 し て 、 反 逆 した 大 衆(本 間 の 憎 ん で い た"ヴ ァ ル ガ リ ズ ム"を 体 現 し た̀̀衆 愚")は 、 そ の よ う な"誘 抜"一 こ の 言 葉 は 因 み に 森 鴎 外 『伊 澤 蘭 軒 』 で も 使 用 され て い る一 を(金 儲 け 、 安 売 り、 物 質 的 享 楽 な ど の 点 で は 必 要 と して い て

も)知 的 教 養 の 点 で は 必 要 と し て い な い し 、 そ の 積 り も 毛 頭 な い で あ ろ う。

"thi

ngforitsawnsafe"の̀thing'をbeautyに 代 替 す れ ば 、 容 易 に 唯 美 蟻 が 登場 す る.こ こでr灘 唯 美 蟻 の研 究』 を言羊しく粥 す る腰 は全 くV・

が 、そ の ペ イ タ ー 一 ワ イ ル ド色 と は 異 な り、『目記 』 で は 寧 ろ キ ー ツ 色 が 際 立 っ て い る 。 即 ち 、 昭 和35年4月8日 に 、 高 島 屋 で 沖 国 名 陶 百選 展 」を 見 て 、"近 頃 の 見 も の な り。"[Athingof]Beautyisajoyforever"、 会 場 を 見 廻 りつ \余 は 屡 し心 中 に

  ガ

キ ー ツ の ジ の 語 を 反 覆 措 く 能[は]ざ り し"(360)と 本 間 は 記 して い る 。 キ ー ツ の 語 句 の 出 典 は 翫 加1伽'。4Pbθ 漉 刃o蝦 紐oθ(..)第1巻 冒 頭 行 で あ る。 ま た 、 昭 和 37年8月22日 に 、 星 川 煕(平 田 氏 の 弟)が"白 扇 を持 参 し、 キ イ ツ の 詩 句 の 揮 毫 を 乞"う た 時 、本 間 は"Beautyisajoyforeverの 文 字 を 書 き 与"え て い る(528)。

ま た 昭 和36年4月22艮 一5月21目 、"上 野 の 国 立 博 物 館 で 中 国 の 青 磁 ・白磁 展[正 確 に は 〈中 国 宋 元 美 術 展 〉]が開 か れ た"際 、高 橋 雄 四 郎 が 本 間 夫 妻 と偶 々 出 会 う と 、 本 間 は(高 橋 が"キ ー ツ を 少 し読 ん で い る こ と を承 知 の 上 で")"Beautyisajoy

foreverlだ ね 、 高 橋 君Jと 語 っ て い る(高 橋 雄 四 郎 、 「光 芒 一 閃 」、 『實 践 英 文 學 』 20号)。

キ ー ツ の 静 諸 美 に 相 通 じ る も の が 雪 景 色 で あ る 。 例 え ば 、 『日記 』 に は"障 子 越 し に 打 見 や る 雪 景 色 え も い は ず よ し。 仲 略]近 年 に な き 静 か な る 正 月 な り"(71)

̀̀庭の 松 の 雪 を 冠 りて た わ \な る様

、 美 し"(71)、"雪 積 る とい ふ 声 に 驚 き 起 き 上 り障 子 を ひ ら き 見 れ ば 、 庭 一 面 の 雪 し ば し眺 め 入 りぬ 。 こ の 正 月 元 旦 と い ひ け ふ と い ひ 恵 ま れ た る 日 と い ふ べ し。 沖 略]庭 の 雪 景 、 こ の 頃 の 見 も の な り"(114‑15)

とい っ た 記 載 が あ る。 何 と は な し に樋 ロー 葉 の 短 編 小 説rの 則(と そ の 腹 稿 が で き た 明 治25年2月4日 の 雪 の 一 日)の 情 景 を 髪 髭 させ る が 、 本 問 と 一 葉 両 者 の 情 緒 の 親 近 性 を 窺 うに は 、寧 ろ(日 夏 臥 之 介 も 「一 葉 の 日誌 文 学 」[『明 治 文 學 篠 考 』、

梓 書 房 、昭 和4年]で 高 く評 価 して い る)一 葉 目記 以 後 の 引 用 は 『樋 臼 一 葉 全 集 』 第 三 巻(上)(筑 摩 書 房 、1976年)に 拠 る 中 の"母 君 先 お き 出 給 ひ て 妻 戸 を し

(12)

3本間 ク\友麓E矯己』 を読む(1)11

べ   (;c)く ば ラ

た まふ さて もつ も りた る哉 尺 に も あま りつ へ し ま た い く は くか 降 らん

くどラ

とす らむ な と の給 ふ は雪 の こ とな め りと うれ しくてや を ら起 ぬ 國子 を も起 し而

ばラ

共 に み 出 す に あ め も っ ち も木 立 も軒 は も 白 妙 な らぬ 方 な し"(「 に っ 記 二 」103;

明 治25年2月19日)、̀̀雪 ふ る[中 略]三 寸 斗 は っ も りけ る 也 樹 々 の 姿 大 路 の

ぎ ラ

さ ま い と お も し ろ し"(「 よ も き ふ に つ 記 」197‑98;明 治26年1月25日)と

が  

った 箇所 の方 が 妥 当 で あ ろ う。 た だ し"こ 》ら思 ふ こ とをみ な か ら捨 て 』有 無 の

が ラ が  (ど)

境 を は なれ ん と思 ふ 身 に猶 しの ひ か た きは 此 雪 の け しき也"、"わ か お もひ な と

ベ ラ くぎラ

降 ゆ き のっ も りけん つ ひ に/と く へ き 中に も あ らぬ を"σ よ も き ふ に っ記 」198

‑99;明 治26年1月29日)と い う醗屈 を吐 露す る段 に な る と

、 両者 の違 いは 自ず か ら明 らか に な る。 それ で も、武 者 小 路実 篤(偶 々本 間 と同年 の生 ま れ)の 『お 目 出 た き人 』(洛陽堂 、 明治44年)が 出版 され た頃 の 本 間が 、武者 小 路 の"羨 む"べ き

"幸 福 な るその 生 活"と は 対照 的 に

、"た ゴ灰 色 の天 地 に彷祥 して憂 悶 の β々 を送"

げ  

(601)っ て い た と い う事 実 は 、"わ れ に 風 月 の お も ひ 有 や い な や を し ら す 塵 の

ず ラ び  

世 をす て 》深 山 に は し らん こ 」ろあ る に も あ ら す さ る を厭 世家 とゆ ひ さす 人

づ ラ

あ り"(「 み っ の 上 」471;明 治29年2月20目)と 記 した 一 葉 が"た ゴー 様 に 灰 色 の霧 に 包 ま れ た 、 荒 漠 限 りな い 滅 亡 の 世 界"(相 馬 御 風 、 「樋 ロ ー 葉 論 」、 『早 稻 田文 學 』 明 治43年1月;和 田 芳 恵 編 、 『樋Q集 』、 『明 治 文 學 全 集 』30[筑 摩 書 房 、 1972年 コ376)へ 去 っ た と い う指 摘 と 、 妙 に 交 響 す る(本 間 と武 者 小 路 の 論 争 に っ い て は 、 「ヴ ァ ル ガ リ ズ ム を 憎 む 」[『 自 然 主 義 及 び 其 以 後 』1参 照) 。

静 譲 は 、 騒 々 し さ と は 相 容 れ な い 。 本 間 は 自宅 近 隣 の 建 築 工 事 の 騒 音 に 悩 ま され 憤 概 して い た り(77、94、101)、 立 正 大 学 で は 増 築 工 事 の 騒 音 を 堪 え が た く感 じ て い た(173)。 筆 者 も か ね が ね 自宅 近 隣 や 訪 問 販 売 の 騒 音(音 の 暴 力)に は 辟 易 し て お り 、本 聞 の 憤 慨 に は 心 か ら 共 感 す る。 な お 、 立 正 大 学 の 件 に 関 して 、"騒 音 に 逆 ふ

(13)

123本 間久雄1ヨ言濫 を読 む(1)

た め 、講 義 には 無理 に も声 を張 り上 げ ざ るべ か らず。 そ の た め に喉 を いた め 、咳 出 で 、苦 しき こ と一 方 な らず"(173)と 記 して い るが 、少 人数 のた め マイ クを使 用 し な か った ので あ ろ うか。 いず れ に して も一寸 した 悲喜 劇 に 思 え るが 、 当の 本 間 に と っ ては 悲劇 の極 み で あっ た ろ う。

美 は 、狸 雑(エ ロ)・ 醜 怪(グ ロ)と は相 容 れ な い。 本 間 の好 ん だ歌 舞 伎 の 世界 で も、舟橋 聖 一作 『藩 泉 院』4幕 を見 物 して、"瑳泉 院 夢 の場 に 高師 直 が塩 谷 判 官 の 妻顔 世 の風 呂入 りを覗 き見 す る場 面 の如 き狸 雑 を極 む 。 大P伎 の大 舞 台 にか 》る 場 面 が公 然 と演 ぜ ら る 》は 奇怪 至 極 な り"(88)、 『江 戸生 艶気 樺 焼 』を見物 して ζ̀艶

お もて

次 郎 の 裸 体 姿 や 、 女 郎 浮 名 の 儒 衿 一 重 の 姿 な ど 、 む し ろ グ ロ テ ス ク に て 面 を そ む け た き 程 な り"(98)、 猿 之 助 の 新 リベ ラ ル ・カ ブ キ お 色 気 た っ ぷ りの 『鳴 神 』

」(『週 刊 新 潮 』 昭 和34年9月14日 増 大 号)を 偶 々 読 ん で 、"こ の 筆 者 の 紹 介 せ る 如 く、 猿 之 助 に し て も し、 「ど う も 近 頃[ご ろ]の 芝 居 は 健 康 な エ ロ が 足 り ん 」と 嘆 き 居 れ る こ と真 な らば 、 而 して 、 も しそ の 結 果 、 ヂ鳴 神 上 人 」の 演 出 に 、 か 》 る エ ロ味 を 附 加 す る こ とに よ り、 そ こ に 腱 全 な る エ ロ」 とや ら を 実 現 し得 た り と信 ず る な ら ば 、そ は 大 な る 不 心 得 な り。少 な く も 今 度 の 鳴 神 上 人 の 上 記 の[雲 の 絶 間 姫 を 介 抱 す る 陽 面 の 如 き健 全 ど こ ろ か 、そ の 反 対 に 不 健 全 な るエ ロ ・グ ロ の 醜 怪 味 な り"

(251)と い う よ うに 、 本 間 は エ ロ ・グ ロ を 批 判 して い る 。 な お 、 市 川 猿 之 助 は 、 当 時 、 日本 俳 優 協 会 会 長 だ っ た 。

[1.2]は 本 間 の 考 え る 学 者 の 要 件(実 年 齢 と は 無 関 係 な)若 々 し い"情 熱"

に 関 す る も の で あ る。 問 題 の"西 諺"は 、 『日記 』164で も 引 用 され て い る 。 そ の 場 合 、 念 頭 に 置 か れ て い る の は 、 老 い て"鴛 馬"と 化 した 嘗 て の"麟 麟'杉 森 孝 次 郎 一 一CC明 治 三 十 九 年 の 早 大 文 学 部 哲 学 科 出 身 の 俊 秀"、CCプ ラ グ マ テ ィ ズ ム の 権 威 、 且 つ 頭 脳 の 明 晰 、 文 章 の 新 鮮 を 以 て 一 時 、 新 時 代 に 喧 伝"さ れ た 人 物 で 、 当 時 の 本 間 が"尊 敬"し て い た 先 輩 の 一 人 のccお な じ こ と を 繰 りか へ す の み に て 何 等 の 発 展 も な く 、徒 らに 時 聞 を 空 費 す"る 講 演 で あ っ た が 、(数 え 年 で)5歳 年 長 の 杉 森 の 毫 礁 振 り を 見 て 、 本 間 は"か ま へ て も 、 余 は 、 老 醜 を さ らす ま じき な り"と 記 して い る 。 こ こ に は ワイ ル ド(ド リア ン ・グ レイ)的 青 春 憧 憬 が 認 め られ る か も

しれ な い 。

[L3.1]〜[1。3.4]は 褒 賞 ・褒 章 制 度 の 無 意 味 に 言 及 した も の で 、"瓢 逸 の 禅 画 家"仙 厘(『 臼記 』 で は"仙 崖"[189‑90、631])が 紫 衣 を 固 辞 した(189)り 弱 冠15歳(数 え年)の 小 野 鉄 太 郎(後 の 山 岡 鉄 舟)が"名 利 の 為 に 、 学 問 技 芸 す 可 か らず 候"(「 修 身 二 十 則J、 安 部 正 人 編 『鉄 舟 随 感 録 』 新 編 版[国 書 刊 行 会 、2001

(14)

r本間 久雄 繍記2を 読む(1)13

年]42)と 記 し(後 に 勲章 を実 際 に謝 絶 し)た の と同様 、賞 とい う俗 事 は元 来"孜 々 と して 一筋 にそ の道 に精 進せ る学者 気 質"に は無 縁 な も ので あ る。 芥川 賞 、 直木 賞 を始 め と して現在 の 濁本 に は多 種 多様 な賞 が横 溢 して い るが 、そ の 審査 員 た ち がそ れ ほ ど偉 い人 物 た ち なの か とい う点 につ い て甚 だ 疑 問 を覚 えてい る筆者 として は、

本 間 の 指摘 に心 か らの共感 を覚 え る。今 泉篤 男(美 術 評 論家)「 芸 術 院 に望 む 」(『朝 日新 聞』1959年2月13日)の 一 文 を̀̀尤 も至極 の論 旨"と 評 価 しつつ 、本 間は 更 に一 歩 を進 めて̀̀余 を以 て云 は しむ れ ば 芸術 院 の 如 き は無 用 の長 物 な り。 芸術 批 評 家 は 、 芸術 院 の情 実 を云 々す る よ りもむ しろ一 般 世 間 を して芸 術 院会 員 な るが故 に そ の 作 品 を有 が た く思 ふや うの こ とな きや う世 聞 を教 育 す るこ との方 、む しろ肝 要

な るべ し"(106)と 書 い て い るが 、SC芸術 院"を"授 賞機 関"、̀̀芸術 院会 員"を(f 査 員"と(そ の 眼鏡 に適 っ た)"受 賞 者"に 置 き換 えて も、本 間 の 意 図 を損 な うこ と

には な らない。 本 間 自身 は英 文学 界 ・国 文学 界 ・比較 文 学界 の権威 で あっ たが 、本 問 に とって 権威 は"無 用 の長 物"だ っ た。 こ こに は官 権(官 学)を 嫌 う健 全 な 在 野 (私学)精 神 が あ る。官 学 の 巨頭 で あ った加 藤 弘 之(東 京 大学 初 代総 理 、文学 博 士 、 男 爵)の 『進 化 學 よ り観 察 した る 日露 の運 命』(博 文 館 、 明治37年)"日 露海 戦 直後[明 治37年3月7日 】の 講 演筆 記"で"進 化 学 にお け る適者 生 存 、不 適 者滅 亡 の原 理 を 賃露 の両 国 に 当て は め、 欝本 を適 者 、露 国 を不適 者 と して 日露 の将 来 を予 測 した"も の一 を"進 化論 のイ デ オ ロギー に よれ る論 理 的 遊戯 な り。 御 目出度 き 際物 的 著述 な り"(287)と 批 判 す る一 方 で 、同 じ く明六社 メ ンバ ー で も、福 沢論 吉 を敬 慕 して い る事 実 は 、そ の好 適 な傍 証 で ある。 因 み に"ラ ジ オ の 『面影 を偲 ぶ 』 といふ 題 に て福 澤 論 吉 に つ い て の諸 家 の話 を き く。[中略 】誰 れ の話 な り しか 、 は っ き りせ ざ り しが 、 大槻 文彦 の 『言海 』 出版 の祝 賀 会 開催 の 折 、発 起 人 と して伊 藤 博 文 と名 を連 ね た る こ とを嫌 ひ 、つ ひ に祝賀 会 に も出席 せ ざ りし[と]の こ と、 さる と  ガ

こ ろに こそ 恐 ら く福 澤 諭 吉 の真 骨 頂 あ りと もいふ べ き か。 私 学 の精神 も恐 ら くそ こ に極 ま る。福 澤 を塾 主 にい た ゴけ る三 田 の学風 ま さに敬慕 す べ し"(141)と 本 間 は 記 して い る。

[L4]は 学 問の脱 党 派 性 に言 及 した も ので(本 問 はu学 問 をす るはず の 人 の政 治 的 挙措 を軽 蔑 して"い た よ うだ と峯 田 も 「本 間 先生 を偲 ん で」に記 して い る)、本 間 が 近代 潤本 文 学会(後 の 日本 近代 文 学 会)初 代 会長 を永 ら く勤 めた た めに 、 同会 に

"本 聞色JJ(お よびsc早 大 色")が 強 い とい う非難 が起 きた こ と

へ の反 論 で あ る。 ど の よ うな組織 に も主 流 派 と反 主流 派 は 付 き物 だ が 、 こ こで 吉 田精 一 の名 前 が登 場 し て い るの は 興 味深 い。 本 間 と吉 田(と 神 西清)は 『日本 の近 代 文 学一 作 家 と作 品

(15)

14r本 間久雄 日記護 を読 む(1)

』(東 京 堂、1955年)の 共 著 者 で あ っ た し、 後 に 吉 田 編 鵬 夢 嶽 ヒ較 文 学 的 研 究 』 (清 水 弘 文 堂 、1971年)に 本 問 「坪 内 遣 遥 と シ ェ ー ク ス ピ ア 」が 掲 載 され る こ と に も な り、表 面 上 は ど う とい う こ と も な い 関 係 の よ う に 見 え る が 、 本 問 「『小 説 神 髄 』 源 流 考 」(『坪 内 遣 遥 』)に 対 す る 吉 田 の 批 評 倒 叙 日本 文 学 史(15)小 説 神 髄 と 玉 の 小 櫛(1)」(『 国 文 学 解 釈 と鑑 賞 』1959年9月 、 本 間 の"魍 語 と 国 文 学 」"と い う記 載 は 誤 り)一 を̀̀悪 意 に み つ 。 無 視 し て 可 な り"(258)と 本 間 が 記 して い

る と こ ろ を 見 る と、両 者 の 間 に は 水 面 下 で の 確 執 が あ っ た に 違 い な い 。そ れ は[1 .3, 2]の"某 氏"が 実 は吉 田で あ る こ とを見 て も判 る。吉田の続篇 「倒叙 日本攣墨史(1s) 小 説 神 髄 と玉 の 小 櫛(2)」(1959年10月)で も本 間 批 判 は 続 くが 、 本 問 は 無 視 し た の か 、 『日記 』 に 記 載 は な い 。

[1.5.1]と[1.5.2]は 、 雑 用 に し て も 娯 楽 に して も 、 時 間 を 取 られ る こ とへ の 焦 燥 と 自戒 を 記 して い る 。本 間 は 早 稲 田 大 学 内 で 英 文 学 科 世 話 役 ・英 文 学 会 会 長 ・ 国 文 学 会 顧 問 な ど を 引 き受 け た こ と は あ っ て も 、 箇 所 長 に な っ た こ とが な い が 、 そ の 背 景 に は 学 内 行 政 に 関 わ る こ と で 、 残 り少 な い(と 本 間 自 身 は 誤 解 し て い た)研 究 時 間 を 奪 わ れ る こ とへ の 抵 抗 感 ・焦 燥 感 が あ っ た の か も しれ な い 。そ の 心 境 は"吟 の 吾 れ は 入 日 を 浴 び っ 》暮 れ ぬ る 間 に と道 を い そ ぐ旅 人 の 如 し」"(75)と い う文 章 に 良 く表 れ て い る。1973年11Aに も 本 間 はCC米 寿 を 記 念 し て 上 野 精 養 軒 で 催 され た 祝 賀 会 の 席 で 、 夕 陽 に 向 か っ て 歩 む と い うS)言 葉 を 口 に し て い る が 、 こ れ は 実 は

"真 山 青 果 の 描 く新 井 白 石 の 言 葉"(金 田真 澄

、 「恩 師 本 間 久 雄 先 生 を 偲 ぶ 」、 『實 践 英 文 學 』20号)一 一"学 者 と 申 す も の は 、 い つ も 西 に 落 ち る 夕 β を 見 な が ら、 そ の 夜 の 泊 り を い そ ぐ旅 人 の や うな 、 慌 しい 心 持 の 者 で ご ざ り ま す 。"(『 元 禄 忠 臣 蔵 』、

『真III果 全 集 』 第1巻[大 目本 雄 弁 会 講 談 社 、 昭 和15年X312)一 が 元 に な っ て い る(本 間 が 『元 禄 忠 臣 蔵 』 を 読 ん で い た こ と は 、Cc原作 に 描 か れ た る 学 者 と して の 白石 の 風 貌"[288】 と い う 『β記 』 の 記 載 か ら 明 白)。 対 照 的 に 、 本 間 の 婿 一 一 次 女 清 香(平 田 氏 の 母)の 夫(平 田 氏 の 父)一 で あ る 星 川 長 七 は 、第 一 法 学 部 長(1966 年3‑6月)と 大 学 院 法 学 研 究 科 委 員 長(ir年4A‑1970年9月)を 務 め て い る 。

[L6.1]と[L6.2]は 、(安 易 な 流 布 本 に 依 拠 しな い)手 稿 研 究 の 重 要 性 を 記 して い る 。

[2.1.1]とC2.1.2]は 、学 究 と して の 森 鵬 外 に 対 す る 高 い 評 価 を 示 し て い る [2.2]に よ る と、(1958年10月 か らの2年 半 、ま た 本 間 定 年 退 職 後 の1966年4 月 か らの5年 間)実 践 女 子 大 学 ・短 期 大 学 学 長 だ っ た 山 岸 徳 平(国 文 学 者)と は 、

(16)

r本 聞久雄 日記£ を読 む(1)15

専 門違 いで も ウマが 合 っ た よ うで あ る。

[2.3]は 劇 作 家 ・演劇 研 究 家 の若 月 紫 蘭(保 治)夫 妻 の脱 俗 的 学究 生 活 を慕 って い る。

[3.L1]と[3.L2]は 実 証 論 文作 成 の 苦労(と 再読 の 余慶)に 言 及 してお り、

筆者 も心 か ら共感 す る。 因 み に 、本稿 執 筆 の 最 中 に樋 記 を偶 々 再読 して い

げ  

た 際 、̀̀我 心 は 石 に あ ら す"(「 水 の うへ 」466;明 治29年1月)と い う、 高 橋 和 巳 『我 が 心 は 石 に あ らず 』(新 潮 社 、1967年)そ っ く りの 語 句 に 遭 遇 し 、 驚 い た こ とが あ る 。

[3.2]は 不 備 な 文 章 を 公 表 し な い と い う学 究 と して の 責 務(良 心)に 触 れ て い る 。 良 心 は 当 然 の こ と な が ら不 誠 実 を 嫌 う。そ の 実 例 と して 、本 間 は 昭 和39年11月15

日に 高 島 屋 で 「『紅 楼 夢 』 展 」を 見 て 、"一 向 つ ま らな し。 羊 頭 狗 肉 な り。 『紅 楼 夢 』 一 巻 を 読 め ば 沢 山 な り

。 こ れ と い ふ 珍 ら し き 資 料 な らぬ を 強 ひ て か き 集 め た る 観 あ り。 こ れ に て 、 入 場 料 百 五 十 円 を 取 れ る は 浅 ま し"(655)と 憤 慨 し て い る 。 ま さ に 高 橋 雄 四 郎 が"初 め て の 著 書 を 公 刊 し た と き"に 本 間 が 書 い た 六 文 宇"巧 詐 不 如 拙 誠"(高 橋 、 「光 芒 一 閃 」)の 精 神 と言 え よ うか 。

以 上 の 引 証 箇 所 か らす る と 、 本 間 は 模 範 的 学 者 で は あ っ た が 、 脱 俗 的 学 術 至 上 主 義 に 徹 す る こ と は(で き)な か っ た 。本 間 は[1.5.1]で も"雑 用"に 言 及 して お り、

"俗 事 に 奔 走 し て

、徒 ら に 心 身 の 疲 労 を 臓 ち 得"(153)る こ と の 愚 か し さ を充 分 に 自覚 し て い た 。"今 日は 風 塵 に ま み れ し 一 日 な り"(122)、̀̀今 日 のmも 風 塵 に ま み れ た る 日な り"(124)、CG今 日 も風 塵 に ま み れ し 一 日 な り"(128) 、K今 日 も亦 風 塵 に ま み れ し一 揖な り"(129)と い う よ う に 、U俗 事"を 意 味 す る"風 塵"と い う言 葉 が 繰 り返 され て い る の は 、 そ の 証 拠 で あ る。"も し 、 こ の 労 苦 を 、著 述 に 向 け た り し な らん に は 、 な ど今 更 思 ふ は 愚 痴 な り"(154)と も 記 し て い る が 、 そ も そ も"雑 用"・"俗 事"以 前 に 、 老 齢 ・体 調 不 良(眼 疾 、肺 気 腫 な ど)も あ り、 本 間 は 通(痛) 勤 ・授 業 に 疲 れ て い た(442)。 専 任 教 員 で あ る 以 上 、 学 内 行 政(雑 用)に 無 縁 で い られ な か っ た の は 当 然 だ が 、 本 間 は 公 務 以 上 に 私 事 で 時 聞 を 取 られ た 。 っ ま り人 付 き 合 い が 良 か っ た た め に 、 他 人 の 相 談 事 に 首 を 突 っ 込 む 機 会 が 余 りに も 多 か っ た の で あ る。 例 え ば 、福 島 県 自 河 市 の 佐 藤 昭 治 の 例(90、96 、102、113、140)を 始 め 、 本 間 にtC頼 ま れ 媒 灼"(207)を し て も ら い 、 高 野 辰 之 ・本 間 久 雄 編 鷹 日本 文 學 年 表 』、『欝本 文 學 全 史 』 巻 十 五(東 京 堂 、1953年)の 本 問 担 当 分(明 治 時 代)に 多 大 の 協 力 を した 石 丸 久(当 時 早 稲 田 大 学 講 師)の̀̀解 決 の 容 易 な ら ざ る"(211)離

(17)

16『 本間久 雄 臨 瀧 を 読む(1)

問題 この よ うな私 的 な ゴシ ップ種 を知 る こ とが で き るの も 『日記』 な らで は の 醍醐 味 で あ ろ う に巻 き込 まれ た こ とな どは 、い か に も本 闘 の人 の 善 さを物語 る

もの と言 え よ う。

2.人 の善 さ

〈人 の 善 さ〉 これ こそ本 間 の人 柄 を的確 に物 語 る言 葉 と言 え よ う。〈人 の善 さ〉

は 〈義 理堅 さ〉 に通 じる。 因み に 〈義 理 〉 とい う言葉 は、 次 の よ うに 『欝記』 に現 れ てい る。

[昭和34年1月19日][昨 夜 大 劇 会 館 に 出 か け る折 には 義理 の人 々 に挨 拶 し て 、す ぐか へ らん と思 ひ居 り しに、 そ の機 を失 し、最 後 迄(九 時迄)居 残 り居 た る こ との愚 か さ よ。義 理 が た き も時 に こそ よれ 。 われ と吾 が身 を責 むれ ど及 ば ず 。(86)

[昭和34年3月7削 実 践 に 出か く。今 ヨ も入 学試 験 とて教 授連 皆 九時 迄 につ めか け る に、 た とひ 、 余 は 出題採 点 等 に直接 に関 りな しとは いへ 、 出勤 せ ざる はい さ \か義 理 を欠 く恐れ あれ ば な り。(121)

[昭和34年8月25則 萩 原 敬 一君 来 る。 暑 中見舞 な り。 墾 が た き人 な り。

(235)

[昭和35年3A8日]村 松[定孝】夫妻 、昭和[女 子大 学1に推 せ んせ る礼 に 来 る。

気 の 毒 な る思 ひす 。 さる にて も義 理 が た き に感 心す 。(344)

[昭和35年5月14則 早 大教 授 田上信 氏 令嬢 同伴 に て来 れ 【中 略]り。 余 は忘 れ たれ ど田上氏 は昨 冬 、令 嬢 同伴 にて来 り、 早 大入 学 の こ とにつ き種 々意 見 を 徴 され た る こ とあ り。 令 嬢 今春 早 大教 育 学 部 国文 科 に入 学 せ る由 にて 、 その 挨 拶 のた めな り とい ふ。 学校 の こ と其他 の こ とに て 、な が く話 しこま れ た るは い さ 》か迷 わ くなれ ど、 さるに て も義 理 堅 き人 か な と、 そ ゴうにそ の 人柄 慕 は し く覚 え ざ るに あ らず 。(374)

別 に 〈義 理 〉 とい う言 葉 が 現 れ てい な くて も、本 間の義 理 堅 さを物 語 る実例 は 多 い。 例 え ば、 戦争"未 帰還 者"の"遺 族 の心 事"を 慮 って 、戦後は正月に"毎 年門 松 も立 てず 蜀の 丸 の旗 も立 て ず"新 年 を祝 わな か った し(76)、9月1葭(関 東 大震 災 記 念 日)に は 、"遣遥 先 生 『大震 災 即感 の歌 』の半 切 を床 の間 に か け、そ のか み を 偲"(531)ん だ り(「坪 内適 遥 「大 震 災 即感 のAJJ、 『明治 文 學 考謹 ・随想』[新樹 社 、1965年]参 照)、"震 災 の 労 苦 を 偲"ん でC̀に ぎ り飯"の"粗 末 な る 昼 食 を 取 る"

(18)

本 間久雄 日記ε を読 む(1)17

(580)こ とが 通 例 だ っ た 。

義 〉 は 儀 〉 と 〈誼 〉 に 通 じる 。 本 間 は 礼 儀iには 煩 か っ た よ うで あ る 。 坂 崎 坦 (実 践 女 子 大 学 同 僚)の 『ドラ ク ロ ア 』 出 版 記 念 会 が 大 隈 会 館 で 開 催 され た 際 、"メ ー ン ・テ ー ブ ル に座 を 占 め た る も の 七

、 八 名"が̀̀最 後 の 坂 崎[申 略 】の 謝 辞 を 待 た ず 揃 ひ も 揃 っ て 退 席"し た 。 そ れ に つ い て 、 本 間 は̀̀心 外 な り。 主 賓 た る 坂 崎 君 に 対 し て 失 礼 千 万 な り。 エ チ ケ ッ トを 心 得 ざ る も甚 だ し"(177)と 不 快 の 念 を 示 し て い る 。 ま た 、 一 又 正 雄(早 大 法 学 部 教 授)事 件 の 際 に 同 僚 で あ る教 授 団 が 示 した 対 応 の"冷 酷 無 清"を"遺 憾"と し、 醜 聞 を 提 供 す れ ば 幾 ら の 報 酬 が 貰 え る か と 『週 刊 読 売 』 に 電 話 で 申 し込 ん だ"正 に 師 を 売 る"法 学 部 の 一 学 生 に っ い て は 、"摘 発 し て 、 先 づ 放 校 す る こ と"が"先 決"と 憤 慨 し て い る(556 、567)。

3.誼

ま さ に 本 問 は 誼 〉 の 人 で も あ っ た が 、 そ の 誼 〉 は 情 誼 〉 ・〈友 誼 〉 ・〈恩 誼 〉 ・

好 誼 〉 の4種 に 分 か れ る。 以 下 に 、 そ の 記 載 例 を 掲 げ る 。 (1)〈 情 誼 〉

[昭 穐34年1月22田 立 正 大 学 の 講 義 に ゆ く。 文 学 部 長 波 多 野 通 敏 氏 に 来 学 年 出 講 辞 退 の こ と を 申 出 づ 。 同 氏 切 に慰 留 す 。 余 、 遣 誼 の 容 易 に 断 ち が た き を 痛 感 す 。(88)

[昭稲34年1月24剛 政 治 は カ な り、 カ は 金 也 と い ふ の が 岸[首 相]の 政 治 理 論 といふ。 そ こに は道 義 も情誼 もい さ 』かの か け らもな し。(90)

[昭和34年2月2田 噺 橋 演 舞 場 で の大佛 次 郎 原 作 ・演 出 『江 戸 の 夕映 』 上 演 に際 して、尾 上1松緑 の遊 び人 に な り下 りな が ら、どこか に旗 本 の お もかげ あ る も よ く、髄 に あつ き人 とな りを写 し得 て妙 な り。(98)

[昭和34年2月7日]白 河 の佐 藤 昭 治君 来 る。 身 の 振方 につ き て の相 談 な り。

夕食 を共 に して種 々 語 る。 九 時 かへ る。 今 夕 中に も原 稿 纏 め ん と思 ひ ゐた る矢 先 とて少 々 閉 口す 。 しか し、 当人 に取 りて は危 急存 亡の 場合 、閉 口な ど云 ふべ きに あ らず。 妻 と も と もそ の相 談 に乗 りて、 い さ 》か 情誼 を尽 した る を心私 か に よ ろ こぶ。(i●)

[昭和34年2月9剛 豊嶋 春雄 君 来 る。米 沢 よ り上京 し来 れ る な り。同 君の職 業 にっ きか ねか ね依 頼 を受 け居 り、 常 に心 が け居 れ ど今 に至 るも これ といふ も

の な く、 同君 には気 の毒 、余 亦 、 情誼 上 苦 しき こ と限 りな し。(1◎3)

[昭和34年7月12田[本 間掴 雄 夫 妻 来 る。 近 く作 品頒 布会 を開 く といふ ご

(19)

18『 本 間久雄 日言霞 を読む(1)

とにて発 起 人 其 他相 談 を受 く。[中略 】余 、 も とよ り一 膏 の力 を惜 しま ざ らん と す 。 これ 恐 ら く余 の 実弟 に対す る髄 の最 後 な らんか。(200)

[昭和34年8月2日]中 村 隆 氏 来 る。暑 中見舞 のた め な り。同氏 は早 大 国文 科 出 身 にて 外 国文 学 に も造 詣 あ り。 往 年 、余 、氏 の結 婚 の た めに媒 灼 の 労 を採 れ る こ とあ り。 そ れ に して も、 毎年 、 新年 、夏 、冬 等 、 あ い さっ を兼 ね て欠 か さ ず来 れ るは 以て 、 同 君 の髄 の厚 きを知 るべ し。(216)

[昭和34年9月6剛 余 、[中略]豊 嶋家 の 地代 を免 除せ るは勿 論 、 隣地 の 地 代 沖 略 】を も併せ て豊 嶋 家 に 寄与 して 以 来 二十 年 、 今 貨に至 る。 これ 、余 の甥 令雄 一 家(令 雄 の 母 み ち子 は 余 の実 妹 な り)に対 す る余 のい さ \か の情 誼 な り。

(245)

[昭和34年9月25田 三 越 に ゆ く。そ こに 開催 せ られ 居 る山形 物 産展 示 会[中 略]には特 別 陳 列 と して 高 山樗 牛 、斎藤 茂 吉 等 の幅 物 〈あ〉 り。茂 吉 の は珍 ら し か らね ど樗 牛 の は珍 ら し。樗 牛 に は 尚、父 や叔 父 に与 へ た る長文 の 手 紙 も あ り。

樗 牛 の髄 にあ っ き為 人 な ど偲 ばれ てお も しろ し。(259)

1昭稲 鍛 年9月27日]飛 田茂雄 君 夫 妻 来 る。 同 君 の結婚 も余 の媒 灼 せ る とこ ろ、結 婚 後 の一 年 を経 た る挨拶 のた め な り とい ふ。飛 田君 は遣誼 に厚 き人 な り。

この 点 は 同君 の親 友 金 田真 澄 君 に於 て も同様 な り。(261).

[昭和34年10月26日]越 後 な る後藤 和 三 郎 氏 よ り名物 の柿 一箱 送 り来 る。

見 事 な る柿 な り。 後藤 氏 は早 大法 学 部 出身 な り。 入 学 の折 、余 、 い さSか 骨 折 りた り しを徳 と して 、卒業 後 十 余年 、時 折 、柿 、栗 な ど送 り来 る。情 誼 に厚 き、

感 ず る に余 りあ り。(275)

[昭和34年12月13日]立 正大 の 中 島助 教 授 来 る。 同 大学 英 文科 人 事 問題 に つ き種 々相 談 を受 く。 沖 略]事 、市川[又 彦】君 の こ とに 関す る こ となれ ば 、袖手 傍観 も債誼 に欠 く る と ころあ り。 中島君 の勧 め に従 ひ 、事 の 成否 は と もか く一 腎 の力 を添 へ ざ るべ か らず。(301)

[昭和34年12月24日]早 稲 田大学 常 務 理事 沖 略]並び に庶 務 副 課長[中 略]相 携へ 来 る。 大浜 総長 よ りの使 ひ と して歳 暮 の 品 々持 参せ らる。 か 》る こ と始 め て の こ とな り。名 誉 教 授 に は今 年 よ り贈 る こ と 》せ りとの こ と、大浜氏 の情誼 に厚 き、謝 す べ く、又 、 学校 のた め嘉 す べ し。(306)

[昭和35年3月4日]今 鷺は 実践 入 試 の 欝な り。余 、入 試 に 直接 の 関係 なけれ ど同僚 皆試 験 委 員 と して 立働 くわ け なれ ば燈 誼 上 一 寸顔 を出 した く、 出校 の 予 定 な りしが 、少 し風 邪 の 心 地 な り。[中 略]用心 して休 む[後 略]。(342)

[昭和35年4月2印[実 践 女 子 大学 の 同 僚教 授 三木 春 雄 の 一件 で理 事 長 室 に

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