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総合討論

雑誌名 PRIME = プライム

巻 44

ページ 76‑80

発行年 2021‑03‑31

その他のタイトル Comprehensive Discussion

URL http://hdl.handle.net/10723/00004153

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国際シンポジウムの記録

総合討論

鄭栄桓:ありがとうございました。今、報告者の お 2 人への質問も含めたコメントをいただきまし た。すぐにリプライをしていただきたいところな んですが、ちょっと残念ながら終了時刻に一応 5 時半を予定していまして、もうわずかしか時間が 残っておりません。コメントへのリプライは ちょっと最後にまとめまして、まずは質問のある 方は挙手をしてご発言いただければと思います。

勝俣誠:僕はそういう勉強をしている研究者じゃ ないんですけれども、たまたまアルジェリアの現 代史で、今日アルキーの話が出たので、さすがと 思いました。というのは、今日のお 2 人、桜井さ んと内海さんのお話を聞いて、植民地戦争という のは、こういうやっぱりいろんな人の生活を裂く。

ですからアルジェリアの例では、アルジェリア 人は第 1 次世界大戦と第 2 次世界大戦において は、フランス側に付いて、ドイツ人と戦ったんで すね。第 2 次世界大戦ではファシズムの戦いと いったので、やはりアフリカ人の植民地の人も、

要はアルジェリアの人も一緒に戦ったわけです。

だけれども戦後、いわゆる第 2 次世界大戦後、彼 らに独立を与えなかったんですね。今日出たアル キーというのは、アルジェリアのフランス兵なわ けです。しかし彼ら原住民には投票権を与えな かったからですよね。

その中でアルキーというのがアルジェリアの独 立戦争に行ったとき、今度は、いわゆるフランス 側に付いたわけなんです。そしたら、確かに今日 おっしゃったとおり排除されちゃって、今日の田 無の第18住宅じゃないけれども、フランスの辺境 に今でも固まっているわけです。フランスの右翼 は彼らを利用して、投票までしたという意味では、

植民地統治は悪くなかったと。何かフランスも同 じようなことをやっているなというのが、すみま せん、僕のコメントです。

鄭:ありがとうございます。ちなみにチョウ・ム ンサンは出生地が、朝鮮戦争停戦後は朝鮮民主主 義人民共和国の領域に入った開

ソン

というところで す。ということで、今でも目黒の祐天寺に遺骨が あるんでしょうか。

内海愛子:チョウ・ムンサンの遺骨は目黒の祐天

寺にあります。その他、帰れない遺骨が、小平に

ある国平寺にも保管されています。精神障害で下

総の療養所で生涯を終えた李永吉さんの遺骨はそ

こにあります。かつては「戦犯の遺骨なんか要ら

ない」と、受け取りを拒否されたこともあったと

いいますが、今は、韓国でも問題が理解されるよ

うになり、「韓国同進会」もできています。画面

で「捕虜は戦力なり 最大限に活用すべしと 作命

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総合討論

がおりている。私たちはどうすればいいのか」と 語っていた李善根さんは、「金語楼のおじちゃん」

と呼ばれていましたが、今は、韓国の望郷の丘に 眠っています。

鄭:ありがとうございます。林慶花さんのコメン トの中で、「死を共有する」と、「血を流すことに よって日本人になる」という表現がありました。

その際の「死」とか「血」というのはあくまで象 徴的なものであって、生身の骨とか人間そのもの に興味があるわけではないわけですよね。チョ ウ・ムンサンの遺骨が今も日本にあるということ と、靖国神社に象徴的な意味で合祀されていると いうことのギャップが気になり遺骨について伺い ました。

それでは続けて林慶花さんのコメントに対する リプライ、そして今回の企画の結びの言葉を、報 告者のお 2 人からそれぞれいただきたいと思いま す。そうしましたら、報告順とはちょっと逆に、

桜井さんからご発言いただければと思います。よ ろしくお願いします。

桜井:特に若くして処刑されたチョウ・ムンサン の立場と、死刑判決後、無期懲役に減刑されたイ・

ハンネ(李鶴来)さんとの対照について、私から 2 点ほどお話しします。

一つは、チョウ・ムンサンが処刑される寸前ま で書いていた遺書から、彼がもし生きていたら、

ということを考えることは難しいのですが、しか し、あの遺書はあのときに完結していたというふ うには思えないんですね。

というのは、遺書をよく読むと、やはり自分が、

あるいは自分たちが、いかにしっかりと自分のも のと言えるような思想をもち得ていなかったかを 深く悔いて「友よ、弟よ、己の智恵で己の思想を もたれよ。今自分は自分の死を前にして自分のも のの殆どないのにあきれてゐる。もう一ぺん古里

のことを考えて見たがまとまらない」と、無念の 思いを綴っているからです。チョウ・ムンサンは 死を前にして、自分の思想がほとんど他人からの 借り物だったということ、日本の植民地支配下で 身につけたものであったことを、明確に意識して いたのです。

ですから、彼がもし生き延びていたら、どんな 人生を歩んでいただろうと思います。ただ、彼は キリスト者として、すべての罪を背負って死んで いった。その普遍的な意味は、残された私たちに 痛いほど伝わってきます。

それから、イ・ハンネさんについてはこんな話 があります。《ヒントク》に収容されていたオー ストラリア軍の軍医だったダンロップという人を 取材したスタッフが、イ・ハンネさんが死刑判決 まで受け、その後、減刑されて日本に生きている と伝えると、「李鶴来は死刑になるほどのことは していなかった」と言ったのです。そのことを イ・ハンネさんに伝えると、激しく心が動かされ たようでした。当時の裁判は一審即決ですし、オー ストラリアの兵隊たちはもう疲れ切っていたの で、収容所監視員の名前だけを供述して帰ってし まい、自らが証言台に立つことはなかったのです。

ですから、被告の数もあいまいだし、極刑は当然 というような形で裁判が進んだ例も多くあったよ うです。あの混乱期には、「ほかにどんな方法が あったのでしょうか」 という検事の証言もありま す。

その後、イ・ハンネさんは自らの意志でオース トラリアに行って、個人として謝罪をしました。

そのことは大いに受け容れられたのですが、彼が

自分は植民地出身者で日本軍の最末端にいたため

に命令に従わざるを得なかったと伝えると、オー

ストラリアの元軍人たちの態度ががらりと変わっ

たそうです。被害者たちは、自分たちにじかに手

を下した加害者に対して、その暴力を絶対に赦せ

ない。相手の事情はわからなくはないが、それは

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別だというふうになってしまうわけです。

これが、戦争が引き起こす最大の分断だと思う んですね。イ・ハンネさんは、オーストラリアか らさらに重たい十字架を背負って帰ってきた。そ して、チョウ・ムンサンは26歳のときに十字架を 背負って死んでいった。それぞれの十字架を比較 することはできませんが、ここには時間というも のの大きな重みがあるように思います。

それからもう一つ、なぜこうした番組をつくっ たかということです。放送があった1991年という 年を想起していただきたいのです。89年に昭和と いう時代が終わります。その年の10月にベルリン の壁が崩壊します。韓国にも民主化の大きな流れ があり、人びとが自由にものを言えるようになっ た。元従軍慰安婦の方たちも名乗り出るようにな りました。90年代前半というのは、さまざまなタ ブーが壊れた時代でもあったのです。

それ以前は、戦争中の日本の加害の問題、植民 地の人たちの被害の現実が十分に語られる素地が あまりありませんでした。『チョウ・ムンサンの 遺書』のあとには、『東京裁判への道 〜何がなぜ 裁かれなかったのか〜』(92年)で、昭和天皇の 戦争責任がなぜ問われなかったのか、そしてプラ イム10『現代史スクープドキュメント 731細菌 戦部隊』(92年)で、なぜ石井部隊の幹部が東京 裁判に訴追されなかったのかについて放送しまし た。今思えばこの時期に、ほんの木漏れ日のよう な隙間があったのかもしれません。しかし、それ は長く続きませんでした。

1996年に私たちは元従軍慰安婦の女性たちの証 言を、「場所と記憶」に重点を置いて番組にしよ うとしました。ところが戦後50年の村山談話への 反動もあり、日本の加害責任を問う放送に対して さまざまな逆風が吹くようになっていました。取 材のときのほんの少しのミスを大げさにとがめら れ、新聞にまでリークされ、放送日も無期延期に されました。私たちは譴責処分を受け、現場を外

されるのと引き換えに、その暮れに放送をするこ とが決まりました。残ったスタッフたちが内容に 指一本触れさせることなく、いい番組を放送して くれました。実は、この頃から、日本の歴史教科 書の「従軍慰安婦」に関する記述を削ろうという 動きが活発になっていたのです。その中心に、の ちに首相になる安倍晋三議員などがいました。

その後、ETV2001『問われる戦時性暴力』の 放送に対して「公平中立」の名のもとに圧力をか けてきたのも、安倍官房副長官(当時)でした。

NHKの幹部も現場もそれに抗することができず、

無残な改竄番組を放送してしまったのです。その 後は、戦争責任に関する番組、戦時の性暴力を扱 う番組が激減しました。

長い空白ののち、今日ご覧いただいたBS 1 ス ペシャル『父を捜して 〜日系オランダ人 終わら ない戦争〜』はよく頑張ったと思います。

オランダはインドネシアを植民地にしていまし たが、そこでの植民者たちはインドネシア独立後 に本国に帰りましたが、待っていたのは厳しい差 別でした。この番組に出てきた一人の男性が、泰 緬鉄道の《ヒントク》収容所でよほどひどい目に 遭ったのか、再婚相手が連れて帰った日系人の娘 さんに性的な暴力をふるったのです。そうした埋 もれていた歴史が一枚一枚めくれてきて、事実が 洗いざらい明らかになってきました。同じような ことはほかにもたくさんあったはずです。こうし た問題を本格的に議論しなければならない時期に きていると思います。

鄭:ありがとうございます。内海さん、お願いし ます。

内海:終了時間が迫っているので、桜井さんのお 話の続きを少しさせていただきます。

泰緬鉄道の捕虜たちは心身ともに傷ついていま

したが、1943年10月、鉄道が連結されると、修復

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総合討論

などの作業要員を残して、鉄道隊や捕虜の一部は、

スマトラ横断鉄道の建設へと移動しました。日本 国内へ輸送されてきた捕虜もいます。その一人、

さきほどのトム・ユレーンさんは、大牟田の工場 で働いていました。泰緬鉄道の苛酷な現場にいた 時は、「この地球上にいる日本人を一人のこらず 抹殺したい」と思ったほど、日本人を憎んだとい います。しかし、日本で日本人や朝鮮人労働者と 一緒に働く中で、人のやさしさに触れ、彼は変わ りました。「日本人は憎くはない。憎いのは軍国 主義とファシズムだ」と。そうして戦後はファシ ズム、軍国主義と闘い続けました。ベトナム反戦 運動にも参加していました。日本人を許したトム は、日本とオーストラリアの市民交流の運動をし、

日本にも来ています。

チョウ・ムンサンとイ・ハンネさんの違いです が、『世紀の遺書』という刑死者の遺書を集めた 本があります。鶴見俊輔さんはこれを日本の「古 典だ」と称していました。桜井さんはその中で、

チョウ・ムンサンの遺書に心を引かれ、番組を 作ったとおっしゃっていました。

多くの遺書は、自分が何を裁かれているのか、

なぜ裁かれているのか、その「戦争犯罪」につい て考える時間もない切迫したなかでの苦悩を書き 残して、絞首台に上がっています。 「天皇陛下万歳」

を叫んだ人もいます。社会学者の鶴見和子さんが この「遺書」を分析していますが、自分の行為を 反省している遺書は少ないことを指摘しています。

イギリスは敗戦後、捕虜になった日本兵を収容 し労働に酷使しました。その日本への憎しみは、

会田雄次の『アーロン収容所』(中公新書)に描 かれています。そして、戦犯の逮捕、軍事法廷と 続きます。何が裁かれているのかよくわからない まま、とにかく「デス・バイ・ハンギング」とい う言葉だけ覚えていて、判決の時にその言葉だけ に神経を集中していたといいます。

死刑を免れた戦犯たちは、今度は新たな悩み、

不安と焦燥感にかられています。スガモプリズン では勉強する時間がありました。仲間もいました。

彼らは猛勉強しています。戦犯たちが「スガモ学 園」と呼んでいるように、スガモプリズンは学習 の場になっていきました。民主主義の話も東大の 宮沢俊義氏を呼んで聞いています。民法の改正も 知っています。もちろん語学もやっています。国 会図書館上野分室から本の貸し出しが受けられま した。社会科学などの本も含めて読みたい本が読 めるようになりました。その中でイ・ハンネさん は、平和グループ、わたしがこう呼んでいる人た ちの読書会に参加し、やがて中央労働学院に通い ます。猛勉強をし、自分たちがなぜ、あの戦争に 参加してしまったのか、そして、あの戦争がアジ アに対する侵略戦争であることの認識に到達しま す。

平和グループの人たちは、巣鴨の獄外で展開し ている平和運動にも積極的に連絡していきます。

外部の雑誌や新聞にも投稿しています。その人た ちが書いたものを集めた本の一つが『壁あつき部 屋』(理論社、1953年)です。

これらの本を読んで衝撃を受けた安倍公房は、

ここに真の平和主義者がいると書いています。ド ラマ『私は貝になりたい』は、かれらの手記集を ベースに橋本忍が脚本を書き、岡本愛彦さんが演 出したテレビドラマです。フランキー堺の名演技 もあって、BC級戦犯とは何か、多くの人に衝撃 をあたえ、考えさせたドラマです。

映画『壁あつき部屋』は、安倍公房が脚本を書 き、小林正樹が監督しています。

チョウ・ムンサンとイ・ハンネさんの間には、

スガモプリズンという濃密な空間の中で戦争犯罪 を考え、平和を希求する時間を与えられたイ・ハ ンネさんとチャンギ―で刑死したチョウ・ムンサ ンの違いがあると思います。チョウ・ムンサンが 生きていたら彼は戦後をどう生きたのだろうか。

朝鮮戦争を契機にスガモプリズンは、日本の刑

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務官が管理し、比較的自由に行動できるように なっていきますが、その中で戦犯たちの思想の違 いが明確化しています。再軍備を前に「私たちは 再軍備の引き換え切符ではない」との投稿が雑誌

『世界』に載りました。元職業軍人たちがヘゲモ ニーをもってくり広げている獄外の釈放運動に反 対したのです。この投稿は加藤哲太郎であること がのちに判明しました。かれの手記はドラマ「私 は貝になりたい」の重要な手記ともなっています。

これは明日の「スガモプリズンから巣鴨刑務所へ」

の話の中で触れたいと思います。

鄭:本日は 2 時からこの時間まで、皆さんこの座

席を守っていただきまして、本当にありがとうご

ざいます。それでは以上をもちまして、本日の企

画を終了させていただきます。皆さんのご参加に

感謝いたします。(拍手)

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