論 説
富士山と米軍爆撃機 B29による日本本土攻撃 松 本 武 彦
はじめに 一 B29 二 爆撃行 三 地上
四 八丈島の戦い 五 空
六 富士山の戦い
おわりに──戦時下日米の富士山観 注
はじめに
日本本土を攻撃した米軍にとって、富士山はいかなる存在だったか。
本稿では、当時の最新鋭爆撃機 B29によって富士山上空を飛行し、首都 東京を含む周辺各地を攻撃・爆撃した米軍搭乗員の富士山観や、彼らの爆 撃行において果たした富士山の役割を明らかにすることを通じて、信仰の 対象、聖なる山という日本人一般の富士山観と米側との異同とその背景を 検討することとしたい。
この作業は、日本の象徴富士山を、戦時下という特殊な時代環境の下で、
日本と戦ったアメリカ軍、とくに空から富士山を実見することができた米
国軍人は、どう見たのか、そのことを考えてみようということでもある。
一 B29
合衆国陸軍軍人で第一次世界大戦当時航空機の有用性を説いてアメリカ 空軍の父とされるウィリアム・ミッチェル
()の考え方は、後に、陸軍航 空軍 Air Force を、統合参謀本部の一員として事実上陸軍から独立させた ヘンリー・アーノルド
()に受け継がれ、かれによって、一九四〇年九月、
ボーイング社との間で新型爆撃機 XB29の開発契約が結ばれた
()。原爆開 発のマンハッタン計画が二十億ドルを要したなかで、XB29開発には三十 億ドルが使われた
()。
この新型爆撃機の特徴は、前部、中央部、尾部の三区画に仕切られ、前 部と中央部が直径八十六センチ、長さ十メートルの連絡トンネルでつなが れており、一万メートルの高空を飛行していても、機内に高度二四〇〇メ ートルと同じ環境を整える与圧が可能だったことである
()。これによっ て機長をはじめ一〇名の搭乗員は機内での自由を確保することになり、さ らに、ノルデン爆撃照準器を装備していて、爆撃手は、攻撃目標を視認す ると、機速・高度・風向・風速・爆弾の種類を入力して投下ポイントを算 定することができることになっていた
()。初期の東京攻撃においてとら れたおよそ一万メートルといった高高度からの爆撃では、たとえば東京駅 を爆撃するためには荻窪以西の上空で投弾する必要があったという
()。 与圧装置とともに高高度飛航を支えたのは、エンジンに空気を供給する四 基の排気タービン加給器付きエンジンだった
( )。
以上のほかに、20ミリ弾および12.7ミリ弾を発射する機関銃が装備され、
前者は二五〇発、後者は六〇〇〇発を搭載可能であったほか、最大で二万
ポンドの焼夷弾ないし爆弾が搭載できた
()。射撃手が操作する尾部の銃
座を除けば、残りの銃塔はコンピュータによる射撃管制装置によって遠隔
操縦された
(10)。
一九四三年六月、B29は完成し陸軍に編入され、一九四四年四月にはワ シントンに司令部を置く陸軍航空軍総司令部により、第二十航空軍が新た に編成され同機が配備された
(11)。前出のアーノルドは陸軍航空軍総司令 官として自身に第二十航空軍を直属させ、戦域ごとではなく、一元的な集 中運用をはかる一方、生産・調達のためにロバート・マクナマラを同航空 軍の分析統計官に起用した
(12)。
太平洋の戦線では、一九四四年八月、マリアナ諸島が米軍によって占領 され、ここに第二十一爆撃軍(爆撃機集団 Command)が新編されてヘ イウッド・ハンセルが司令官となり、十一月、ハンセル指揮下の最初の B29がサイパンに到着した
(13)。
爆撃にあたっては、事前の攻撃目標の確認や事後の爆撃評価において偵 察が欠かせなかったが、そのために B29を改造した F13A という機体が使 われた。ワシントンからの爆撃目標に関する情報は工場名など目標の名称 とそれが所在する都市名程度だったから、当初、実際の攻撃にあたっては、
航空写真などによって知ることのできる上空から見た外形などによって目 標を確認するしかなく
(14)、爆撃後の偵察も天候次第だった
(15)。しかし、
爆撃と偵察飛行を重ねるうち、航空写真などによる情報が蓄積されていっ たものと思われる。最初の東京に対する B29による爆撃であった一九四四 年十一月二十四日の中島飛行機荻窪工場に対する高高度からの爆撃までに、
単機の F13A による偵察は他地域、他目標に対するものも含め一七回おこ
なわれたが、そのうち九回は爆撃目標の選定と精密照準のためで、八回は
気象観測を目的としており、名古屋で一機が撃墜されている
(16)。
二 爆撃行
B29による日本本土爆撃の出撃基地となったマリアナ諸島は、ほぼ北緯 一四度のサイパン島から、テニアン島、ロタ島を経てほぼ北緯一五度のグ アム島などの島々からなり、うち最大のグアム島に設定されたふたつの飛 行場、テニアン島の同じくふたつの飛行場、最も日本に近いサイパン島の 一ヵ所の飛行場が機能した。これらのうち、最も早く作戦が開始されたの はサイパンの第七三爆撃航空団(航空団 Wing)で、以下、四十五年六 月のグアム島の第三一五爆撃航空団まで五つの爆撃航空団が作戦をおこな った
(17)。
サイパン島から東京まで、太平洋上をおよそ二四〇〇キロメートル。搭 乗員は飛行時間往復一三時間半を耐え、帰投後はエンジン音で耳鳴りがし、
ウイスキーを飲んで睡眠をとったという
(18)。洋上飛行は硫黄島や占領後 の沖縄から発射される電波誘導によるいわゆる電波航法のほか、機体後部 の天測窓からの天測航法がとられた
(19)。出撃時刻や飛行時間は戦争標準 時で管理されたが、それは「日時分」の六桁の数字の最後に「Z」の文字 を付したグリニッジ標準時および数字の最後に「K」の文字を付したマリ アナ時によっていた
(20)。
マリアナ諸島の出撃基地を発進すると、およそ四時間ほどで硫黄島上空 に達するが、そこまでは燃料の節約のため高度は一〇〇〇フィートほどで、
硫黄島上空通過後はじめて約一二〇〇〇フィートに上昇を開始し、さらに 飛行してあらかじめ定められた集合空域に近づくと、射撃管制装置を暖め、
射撃手が機銃の試射をおこなうなどし、先行の機は集合空域で旋回して待 機し、編隊を組んだ
(21)。
日本本土上空への侵入は、あらかじめ用意した航空写真や地形図、特徴
ある海岸線を上空からのレーダー探査によって確認した
(22)。後述のよう に、富士山もこうした特徴ある地形のひとつだったから、東京などの爆撃 航程のための目標となった。
B29が日本本土上空特に東日本で最初に出会ったのは、日本軍の迎撃機 でもなければ対空砲の弾雲でもなく、強烈な偏西風いわゆるジェット気流 だった。政治・経済の機能が集中する関東地方にその西方から高高度で接 近すると、時速一五〇マイル(時速二五〇キロメートル)以上で吹く激し い西風にのり、対地速度は時速四四五マイル(時速七一〇キロメートル)
ほどにもなり
(23)、編隊の維持や照準器の使用が不能になった
(24)。一九四 五年に入って、静岡地方で米軍機の到達速度について人々に警告した新聞 記事によれば、地上では四二キロメートル程あった静岡・沼津間や御前 崎・静岡間は四分から五分、石廊崎・熱海、石廊崎・静岡間の約五三キロ は六、七分で到達した、という
(25)。
日本側の迎撃は、B29一回の出撃に対し一九四四年十一月十二月には四 回から五回、四五年一月に入って約八回に増えたが、三月以降は一回にも 満たなくなったし、日本側の戦闘機による B29の撃墜数にいたっては、
B29の出撃総数との割合からみると、四四年八月の一・七五パーセントが
最高であった
(26)。しかし、B29の搭乗員からすれば、日本の迎撃機、対空
砲火、投弾前の爆弾(焼夷弾)、燃料の残量等々を気にしつつ、実際に迎
撃機を発見すればその攻撃意図に思いを巡らし、被弾すればその程度がマ
リアナ諸島に戻れるか、また戻った後に、着陸可能なものであるかどうか
を心配し、さらに僚機の無事も祈りつつ任務を遂行しなければならなかっ
た
(27)。投弾は爆撃中心点に対しレーダーによっておこなわれたから、爆
撃の成否はレーダー手の技量に左右されたが、訓練されたレーダー手が搭
乗した先導機の先行投弾によって発生した火災を目標に、後続機はその爆
撃が爆撃中心点から半径一・二キロメートルの円内に五〇パーセントの命
中率で可能との予測のもとで投弾した
(28)。大都市に対しては、ふたつ以 上の爆撃中心点を設定する場合もあった
(29)。
航空機のエンジン工場など純軍事目標に対して高高度からの精密な爆撃 をめざしたハンセルにかわって、一九四五年一月十日、当時陸軍航空隊で 最も年少の少将、三八歳のカーティス・ルメイがグアムに着任した
(30)。 彼はその作戦振りから Iron Pants と渾名されていたが
(31)、着任後直ちに ハンセルの対日攻撃戦術を変更して、比較的低空から非軍事目標、人口密 集地帯への焼夷弾攻撃を志向したわけではないようで、そのことは、いわ ゆる焼夷弾の開発が一九四一年春頃から漸く実験に着手した段階
(32)に過 ぎなかったことに影響されていたのかもしれないし、戦闘機による護衛の 有無といったことにも関係していた可能性がある。
四五年三月、硫黄島が米軍の手中に入ると、四月には B29を護衛する戦 闘機 P51によって構成された第七戦闘機隊(戦闘航空隊)が配備され た
(33)。P51は東海地区から四国の諸都市を爆撃する B29を護衛したが、硫 黄島から本州までは約一二〇〇キロメートルあったから、同機の最大航続 距離との関係からは、必ずしも余裕のある空戦ができたわけではなかった ようだ
(34)。日本本土上空の制空権がアメリカ側に完全に帰すのは、日本 側の現有航空兵力温存策と、日本近海への航空母艦の進出による艦載機の 登場まで待たねばならなかった。
上述のような割合で、日本側の迎撃その他の理由によって撃墜、墜落し た B29は、その場所が海上であった場合、一時間ほども沈まずに浮いてい る場合もあったというが、搭乗員の救出は海軍の協力のもと飛行艇や救難 専用 B29、潜水艦、あらかじめ配置された水上艦艇によってなされた
(35)。 富士山周辺での B29の撃墜(墜落)で多くの人々によって目撃されたのは、
一九四五年一月二十七日午後、大宮(現 富士宮市)でのそれである。お
よそ八〇〇〇メートル上空で空中戦があり、B29一機が空中分解して、一
名の搭乗員がパラシュート降下したので、現場に鳶口、竹槍などを持って 男たちがかけつけ、憲兵隊が市内の英語教師を通訳に尋問したという
(36)。
撃墜されないまでも、爆撃行の過程で、爆撃の結果生じた地上の火災に よる乱気流で一瞬にして機体が数百メートル上昇し、搭乗員が座席から飛 び出すこともあったという。マリアナ諸島の基地に帰還した B29は、爆撃 の中を飛行して機体がススで黒くなり、帰投後弾倉をあけると木造家屋の 焼ける匂いがしたという
(37)。そうしたいわば火炎地獄を地上に生じさせ、
その結果起こった気流の急激な変化の影響をうけて、墜落に至らずとも正 常な飛行ができない場合があったことは十分に予想される。
三 地上
日本軍は伊豆諸島の八丈島に設置した電波警戒機で八丈島南方二〇〇キ ロメートルから二五〇キロメートル付近で接近する航空機の発見に努め、
本土などへ通報する体制
(38)を構築した。接近する機に対し八丈島の監視 哨で目視によって彼我の識別がなされたが、米機は南方二五〇キロメート ル付近から五分ほどで八丈島に達した。さらに、米機であった場合、後述 の第十飛行師団司令部に報告が届き日本側迎撃機に出動が下令されるまで に七分。飛行戦隊が離陸し終わるまで一五分。日本側各機が迎撃位置のお よそ高度一万メートルに達するのに六〇分必要で、八丈島警戒機での米機 発見から迎撃機が戦闘配置につくのに総計八五分ほどかかった。一方、
B29は同航程を約六〇分で飛行したとされるから、そもそも日本側の防空 は、地上からの打撃を B29に与えるほかなかった。
明治十五年二月鍋島侯爵家に生まれた後の梨本宮伊都子は、昭和初年こ
ろから夏を河口湖の別邸で過ごすことを常としていたが、一九三三(昭和
八)年八月におこなわれた関東防空大演習の模様を河口湖滞在中ラジオで
聴き、「中々さかん」、「ものすごいさま」と感想を記している
(39)。 富士北麓では、一九三九(昭和十四)年七月、東部防衛司令部の管轄下 で防空演習に着手し、以降、一九四〇年からは福地村当局の指揮により警 防団、家庭防空群を組織して防空訓練をおこなった
(40)。また、空からの 米軍による攻撃に対処するため、一九四四年には防空医療救護班を組織し、
加えて空襲下における国民の戦時衛生保持のための組織を結成するなどし た村もあったし、また、富士山自体でも、一九四二年月六月、山小屋関係 業者が臨時防空班をつくり、夜間の山小屋の灯火管制や一般登山者への注 意喚起方を話し合った
(41)。
軍は各種部隊を新編して、侵入してくる米軍機に対応しようとした。富 士山周辺ではたとえば一九四四年一月駿河防空隊を編制し、独立高射砲大 隊などを展開させ、富士川左岸河口付近、清水市内、三保半島に高射砲一 四門を配備した
(42)。ただし、日本側の高射砲の有効射程は高度六〇〇〇 メートルほどまで
(43)で、高高度から侵入してくる B29には無力だったも のと思われる。夜間に侵入してくる米軍機に対しては、高射砲部隊に照空 部隊を付置し対応した。富士山方面など東京西方から接近する米軍機に対 し、東部高射砲集団に照空大隊を配置し、首都東京の西部近郊や鉄道の中 央線沿線などの防空強化をおこなった
(44)。
昼間の米軍機の侵入には防空監視哨が機能したが、当初は、地上から B29の大きさが上空でどのように見えるかについて、監視員が不慣れであ ったために高度の報告が不正確で、迎撃機が上昇してようやく侵入高度を 把握する有様だった
(45)。小笠原諸島母島にも監視哨が置かれ、いち早く 米軍機の北上を通報した
(46)。富士山周辺では、たとえば大宮(富士宮)、
沼津などに防空監視哨が設置されたが、大宮の城山地区の監視哨は、望楼
のほか仮眠室や炊事室、通信室などを備えており、青年学校生徒などが米
軍機を発見すると防空監視隊本部へ直通電話で通報した
(47)。蒲原の監視
哨では一九四五年一月二十七日、一六機の B29の編隊を発見、そのうちの 一機が由比上空から煙を吐きながら低空で侵入し、日本機の追撃と B29の 空中分解、墜落を目撃している
(48)。
陸軍は、関東地方を包み込むように、御前崎、伊豆半島南端付近、伊豆 大島、房総半島南端、銚子付近、水戸東方付近を旧式の電波警戒機甲で結 んだほか、浅間山東麓、八ヶ岳南麓、富士川流域の線にも電波警戒機甲の 電波を発信し、これらの線を米軍機が通過すると探知できるようにし た
(49)。軍による電波探知機の開発、設置は、海軍においては一九四一年 九月、単機に対して有効距離一三〇キロメートル、編隊に対しては二五〇 キロメートル有効な「電波探信儀」の試作を完了し十一月末千葉県勝浦に 設置、陸軍も同十月二機の「電波警戒機乙」を試作し、翌一九四二年六月 銚子にこれを設置、有効距離は約三〇〇キロだったが、侵入機の高度は測 定不能でおおよその飛行方向がわかる程度だった
(50)。こうした電波兵器 の不備は、迎撃を限定的なものとし、とくに夜間戦闘は、探照灯でとらえ られない限り日本側からの攻撃は不十分だったし、一九四五年二月以降に なって、米軍側の艦載機が低空で侵入攻撃するようになると、日本側の電 波警戒機は無力化した
(51)。
その他、一九四四年十一月、第十飛行師団のなかに英語に堪能な者を選 抜した特殊情報班を編成し、サイパンとテニアンの米軍の無線通信を傍受 した結果、大編隊での襲来時にはおおむね察知し得たという
(52)。
一九四五年六月、富士山周辺地域から B29をはじめとした米軍機の侵入 が相次いだため、この地域の防空警報発令地区を分割し、「静岡沿岸地区」
を新設
(53)したほか、七月からは警戒警報発令にあたって、それまでの
「甲駿地区」を山梨と伊豆とに分割した
(54)。警報などの発令範囲を細分 化して正確性を高めようとしたものであろう。
民間においては、既に述べたように、人々は防空訓練に動員されたほか、
日本放送協会が国民の耳の訓練と称して B29の爆音の放送を計画し
(55)、 農村では防空のため学校などの白壁に泥を塗った
(56)。
四 八丈島の戦い
伊豆諸島中の八丈島は東京から約三〇〇キロメートル。ひょうたん型で おおむね南北に細長く、南に標高七〇〇メートル余の三原山、北側に八五 四メートル余の伊豆諸島最高峰の西山、別称八丈富士がある。
八丈島での米軍の航空攻撃とこれを探知し迎撃する日本軍との戦いは、
日本本土での日米の戦いを象徴するものであった。同島は、硫黄島が米軍 に占領されると、それまで洋上にあった日本側の監視艇が攻撃を受けて被 害を増大させた
(57)ため、北上して日本本土攻撃を志向する米軍機探知の 最前線となった。
そもそも八丈島には、明治三十九年に本土との間に海底ケーブルが敷設 され、昭和六年八月、八丈島郵便局に固定無線が開設され、昭和十二年に は高さ四五メートルの鉄塔五基からなる八丈航空無線局によって東京、サ イパン、パラオ間の航空機との交信が可能となるなどのことをへて、一九 四四(昭和十九)年、三原山山腹の洞窟に超短波の中継所開通をみて、東 部軍司令部、木更津航空隊、それに民間用の三回線が確保された
(58)。八 丈島の戦術上の重要性が高まると、一九四五年四月、島民の大部分は疎開 を強制された
(59)。
三原山と八丈富士に挟まれた低地、島の中央部に、海軍が一九四三年十
一月ころから朝鮮人労働者を使役し多数の死者を出しながら、飛行場建設
を開始した。一方、電波警戒機乙を操作する八丈三原隊が島の南端に近い
中之郷地区に本部を置き、南方洋上を警戒した
(60)。さらに、移動式警戒
機乙および電波警戒機甲の陣地が飛行場北側、八丈富士東麓の三根に置か
れた
(61)。電波警戒機の陣地は、山の斜面に広さ一五畳ほどの壕を掘り、
そこに電波の受信所をスッポリと入れ込んだものだった、という
(62)。 本土攻撃の米軍機飛行コースの真下にあった八丈島は、同島自体への攻 撃も一九四五年一月から終戦間近まで二六回におよび、たとえば一月二十 九日には B29による爆撃をうけ、守備隊に十数名の死傷者を出し、島民に も一一名の死傷者が生じた
(63)。
五 空
関東地方の防空のため、陸軍は一九四四年三月、既存の第十七飛行団を 廃止して、既述の第十飛行師団をあらたに編制し、師団司令部が関東地方 に配備された個々の飛行戦隊を直接指揮した
(64)。同年末ころの東部軍隷 下の戦闘機は、調布に四〇機、成増に三〇機、松戸に二五機などおよそ一 二二機、夜間戦闘機に限れば所沢に四〇機が配備されているに過ぎず、一 方、海軍は厚木に七五機を保有する第三〇二航空隊があるのみであっ た
(65)。
空戦は、高高度から侵入する米軍 B29とこれを迎撃する日本軍の戦闘機
の戦いとなった。既に述べたように亜成層圏を飛行する B29に対し、これ
を攻撃する日本軍戦闘機にはいくつかの困難がともなった。日本軍の戦闘
機は、高空でその飛行姿勢を保持するのが精一杯で、機体を傾けると忽ち
高度が低下した
(66)、という。そのため、攻撃はほとんど一撃のみに限ら
れることになった、とされる
(67)。操縦席では、搭乗員の吐く息がツララ
になり、操縦桿を握る手の汗が凍り、革の手袋が白くなるほどで、そもそ
も酸素マスクを装着していても、ボンベの不完全性などのため搭乗員の意
識が朦朧とする場合もあった
(68)。さらに、燃料不足による搭乗員の訓練
不足や迎撃までにあるいは迎撃戦闘後、高度を維持することなどのために
燃料を過剰に消費してしまい、緊急に出撃基地でないところでも着陸せざ るを得ない場合があった
(69)。天候なども、日本側に不利に作用する場合 があった。たとえば一九四四年の十一月末頃においては、雲上の高空を飛 行する B29を捉えることができないことがしばしばあった
(70)。また、強 烈な偏西風によって東方に流されたり、高度が一気に二〇〇〇メートルほ ども降下する場合があった
(71)。時に生ずる機体の不具合もあり、高空で オイル漏れを起こしたための油圧の低下やエンジンの焼付なども生じ た
(72)。
搭乗員の訓練などの結果、一九四四年夏ごろには、日本側戦闘機も九〇
〇〇メートル付近での戦闘が可能となった
(73)。しかし、陸軍は、B29迎撃 の上述のような困難性を克服するため、一九四四年十一月、震天制空隊を 組織して B29への体当たり攻撃=特攻をおこなったが
(74)、その組織化は ある場合には半ば強制的な戦闘機搭乗員の犠牲によってなされたものだっ た
(75)。一九四四年十一月から翌年一月末までに、富士山上空付近を通過 した B29に対する五回の空中戦で、日本側は三四機が自爆または「自爆未 帰還」となって貴重な搭乗員の命と機体が失われた
(76)。
六 富士山の戦い
富士山は、米軍機による日本本土とくに東京に対する攻撃にあたって、
航路上の重要な目標となった。米海軍が海外に派遣した将兵向けに発行し ていた雑誌『ヤング』は、最初の東京爆撃の実況報告「東京訪問記」を掲 載した。サイパンを発進した記者搭乗の B29は、最初高度一五〇〇メート ルで飛行し、さらに編隊長の発火信号の発射で編隊ごと上昇するなか、
「富士山は本土のどの部分よりも早く雲の上に姿を見せるので爆撃行には
重要な役割をつとめる、これから二〇分すると本土が視野にすべり込ん
で」来て、富士山で方向転換し右(東)に折れ東京に向うと山は無くなり 田圃と小さな村落が点在するようになる、と記している
(77)。あるいは、
一九四五年六月、B29三〇〇機による関東地方空襲でも、第一波は駿河湾 から富士山上空を通過して京浜地方西北方へ、第二波は B29約一二〇機と 戦闘機 P51約七〇機が、同じように駿河湾から日本本土に侵入して富士山 上空を通過および東方に転針して京浜地方西北方を攻撃した
(78)。いずれ も、富士山が飛行の目標とされている。
こうした B29など米軍機の行動は、富士山周辺の各地で地上の民間人に 目撃され、かれらは米軍機が富士山を目標として飛来し、富士山上空で東 京方面に転進するという認識を形成した。たとえば富士、富士宮、小山、
富士北麓、横須賀などにおいてそうだった
(79)。
米軍機は富士山を目標に飛来し、その上空で何をしていたか。ひとつは、
前述のように、東に転進して東京やその他の関東地方の諸都市の爆撃に向 った
(80)。さらに、富士山上空は、B29が護衛の戦闘機 P51と合流する空域 ともなった
(81)。
どちらの目的にとっても、三〇〇〇メートルを越える高空にそびえる富 士山は、航空攻撃のためには格好の空の道しるべになった。
北上し東京や関東地方を爆撃する B29の編隊は、上述の如く八丈島北部 の伊豆七島最高峰の火山八丈富士の上空をへて本土の富士山をめがけて飛 行したのであるから、B29による爆撃は南北に三〇〇キロ離れたふたつの 富士山を結ぶ航空路をたどっておこなわれたことになる。南北ふたつの富 士山が最後に噴火したのは、奇しくも同じ一七〇七(宝永四)年のことで あった
(82)。
富士山は直接の攻撃対象ともなった。山頂の測候所の観察によれば
(83)、
一九四四年十一月二十四日一四時頃爆撃機おそらく B29が西方から東方へ
山頂を通過した。さらに十二月三日には B29が編隊で三回山頂を通過した。
一回目は十数機、二回目は箱根方面より四機、三回目が三保方面から一二 機で、この三回目の接近通過では三機が西方より機銃を発砲した。一九四 五年に入り、二月十日、二一時三〇分山頂頭上を北方へ通過する米軍機が あり、七月三〇日八時には、小型機によって測候所が銃撃をうけ二名が負 傷した。測候所の建物に弾痕が一一〇残り、所長室に七ヵ所、無線寝室に 三ヵ所、事務室に十ヶ所の穴が空くなどし、地図や対数表などが破損し、
ガラス二二枚が割れた。「敵小型機来襲情況報告」によれば二機一組の編 隊三編隊、計六機が高度約三〇〇〇メートル、三五〇〇メートル、四〇〇
〇メートルを北方より南西に向って飛行中、八時三〇分の銃撃で負傷者三 名がでた。軽微な擦過傷や打撲傷を負うものもあった。当初、米軍機は北 西方向から南方へ飛行し、反転して西方より東方へ、再旋回して南方より 北方へ向かい、さらに西南西より南西方へ退去した。こうした度重なる攻 撃に、測候所の所員たちは七月三十一日と翌八月一日に防空壕を掘削した。
八月十三日一一時三〇分ころには、所員たちが昼食の最中、艦上機による 銃撃を受け退避した。
一九四五年には、四月五日、米軍機を迎撃した陸軍機一機が富士山の北 側斜面五合目から八合目あたりに不時着し、十五日から勝山村や中野村
(現 山中湖村)および鳴沢村などの警防団員二三〇名が不時着機を捜索 した。また、米軍機が勝山村上空で日本側の迎撃をうけ馬返付近に墜落し たが、その過程で小型爆弾が落下して家屋が損壊し死傷者が生じた。この 戦闘は勝山村村民が戸外で注視する中で起こったため、警防団では、家屋 内で防空準備をおこなうよう村民に「厳達」した
(84)。
既述の様に、富士山は米軍機の日本本土侵入の目標となったので、日本
側は富士山上空に第十飛行師団の第四十七飛行戦隊を、御殿場に第七十飛
行戦隊を配置して迎撃にあたった
(85)。富士山上空では、気圧の低下で搭
乗員は頭痛に襲われるなどし、また気流が不安定で戦闘によって急旋回な
どすると高度の維持が困難なうえ強い偏西風にも悩まされた。しかし、そ うしたなかで、日本機の搭乗員たちは、富士山に「敬意」を表し「何か恋 人に会うような愛着」を感ずる者もあった
(86)。
おわりに──戦時下日米の富士山観
日米双方は、戦いの場となった富士山をどう見ていたか。戦闘の場とし ての日米の富士山観の異同は、いかなるものだったか。
一八八四年に富士北麓の河口村に生まれた中村将為(筆名、星湖)は、
長じて一九〇九年『早稲田文学』の懸賞に「少年行」で応募し、一等に選 ばれた。一九四〇年には郷里に富士五湖地方文化協会を発足させ、『五湖 文化』を編集刊行して、富士五湖地方の精神文化の高揚をはかっていたが、
一九四四年十二月、東京、井荻の自宅で空襲にあい、翌年五月、妻ととも に郷里の河口湖畔に疎開した
(87)。彼は、当時、B29が富士山をめざして飛 来し、東京などを爆撃する状況を実見し、「富士が無かったなら」と思う 時もあった
(88)と、後年告白している。富士五湖地方の文化の振興を唱え そのための社会活動をおこなっていた中村星湖にして、その象徴と言って も良い富士山の存在を、いわば疎ましく思う瞬間があったのである。
一九四二年、戦時下にもかかわらず富士登山者は七月末までで二十万人 を突破し、前年の一七万人を越える登山客を受け入れた地元の村では、知 事に対して食料の特別配給を要請した
(89)。ここまで登山客が増加したの は、天候が良かったことや鉄道省がいわゆる割引切符を発売したことのほ かに、富士山への崇敬の念が高揚したことや、出征者の武運長久を祈る者 が増加したこと、政府の登山による健康増進の奨励といったことがあっ た
(90)。
戦時下の日本人のいわば心身を支えた富士山は、敗戦によって危機をむ
かえる。というのは敗戦後、たとえば進駐してきたアメリカ軍が富士山の 山頂付近を切り取って、B29を使ってぶら下げ持ち帰ってしまう、という デマが一部で広がったことがあった、とされる
(91)。そもそもどのような 方法で富士山の一部を切断するのか。また、それをどうやって B29の機体 に下げるのか。この荒唐無稽な噂は、その存在自体が敗戦という現実に直 面した当時の日本人の狼狽振りをあらわすものと言えそうだが、富士山と いう日本の象徴が、勝ったアメリカによって、それもさんざん日本に焼夷 弾の雨を降らした B29によって持ち去られる、というところにいささかの 現実味があったのかもしれない。当然、その背景には、戦時下において富 士山への「崇敬」の念が日本人に極めて強かったことがあったにちがいな い。
一方、アメリカ軍にとって、富士山はどのような存在ととらえられてい たか。B29の搭乗員チェスター・マーシャルは、一九四四年十一月二十四 日、サイパンの基地を発進して日本本土を爆撃したが、その時見た富士山 について「日本人がこの山を霊峰として崇めていると聞いている」として、
日本人にとってその存在が持つ精神性に対して理解を示しつつ、しかし一 方で、「食べ滓のアイスクリーム・コーンを逆さにして立てた格好」に見 える
(92)と、極めて即物的にその姿を表現している。アイスクリームに擬 しているところはいかにもアメリカ人らしく、しかし、「食べ滓」とされ ているところは戦時下の日本人には到底受け入れられないものであったろ う。B29の爆撃行にとって、富士山は、爆撃航程始点すなわち攻撃目標を めざして編隊を組み、そこから先は日本側の攻撃に対し回避行動をとらな い
(93)、撃墜されるにしろ生還できるにしろ、その後の「運命」を受け入 れるべき厳粛な選択をおこなう地点であったが、米軍人にとって、富士山 はあくまで自然の造形のひとつであり、その観点での美しさは賞讃された。
同じくチェスター・マーシャルは、亜成層圏から見る富士山について、夕
暮れのなかで、月明かりに照らされてはっきりと雪の山頂を輝かせている 富士山が見えて、手を伸ばせば手が届きそうな感覚を覚えたという
(94)。
日本人が富士山に見ていたのは、ただ美しいというだけでなく、地上か ら手を合わせる対象として心の中にあるそれであって、精神世界に人間が つくりあげた心中の富士山であった。一方、爆撃任務の途上の B29搭乗員 は、生死の境にあって、自然の造形物として人知を超えた存在がつくりあ げた富士山を、その上空から見ていたのではなかろうか。
注
() 源田孝「[解題]ミッチェルの航空戦略とその遺産」戦略研究学会・源田孝
『戦略論体系11ミッチェル』芙蓉書房出版、二〇〇六年、二三七〜二四〇頁。
() 同前、三二〇頁。
() E・バートレット・カー 大谷勲訳『東京大空襲』玄人社、二〇〇一年(文庫 版)、三〇頁。後述のように、B29は年を経ずして配備されるが、こうした開 発期間の短かさは、試験飛航と調達までの期間を短縮した、当時の航空参謀部に よるある種の賭けを反映したものともされる。横浜市・横浜の空襲を記録する会 編『横浜の空襲と戦災 四 外国資料編』横浜市、一九七七年、一一頁。
() 同前、三二頁。B29一機あたりの原価は約六〇万ドルで、B25は一二万ドル。
大谷内一夫訳編『ジャパニーズ・エア・パス──米国戦略爆撃調査団報告/日本 軍閥の興亡』光人社、一九九六年、一二七頁。
() 飯山幸伸『B-29恐るべし』光人社、二〇一一年、八三〜八四頁。
() 同前、八四頁。米陸軍航空隊編 仲村明子・小野洋訳『B-29操縦マニュアル』
光人社、一九九九年、五頁。米軍は太平洋戦線に日系米国人を、戦闘要員として は参加させない方針だったが、ネブラスカ州出身のある日系二世は、日本への爆 撃ミッションに二八回参加している、という。今田英一『コロラド日本人物語 日系アメリカ人と戦争 六〇年後の真実』パレード、二〇〇五年、二二六頁。
() 小林照彦「飛燕震天制空隊」山本茂男ほか『B29対陸軍戦闘隊──陸軍防空戦 闘隊の記録──』今日の話題社、一九八五年、一九八頁。
( ) 源田孝『アメリカ空軍の歴史と戦略』芙蓉書房出版、二〇〇八年、一〇三頁。
() 前掲『B-29操縦マニュアル』五頁。
(10) 前掲『アメリカ空軍の歴史と戦略』一〇三頁。
(11) 同前、一〇二頁。
(12) 佐藤俊之「B29東京大空襲への道」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ六〇 本 土決戦』学習研究社、二〇〇七年、四七頁。前掲『アメリカ空軍の歴史と戦略』
一〇四頁。
(13) 同前、一〇五頁。太平洋戦線での B29の運用は、一九四四年十一月八日、一七 機による硫黄島の日本軍飛行場に対する爆撃が最初だった。Center for Air Force History「第二次大戦に於けるアメリカ陸軍航空軍戦闘日誌(対本土作戦 のみ)」http://www10.ocn.ne.jp/kuushuu/jun44html <(二〇〇七年九月十五 日)。
(14) カーチス・E・ルメイ、ビル・イェーン 渡辺洋二訳『超・空の要塞:B-29』
朝日ソノラマ、一九九一年、一九六頁。
(15) 同前、一九七頁。前掲「第二次大戦に於けるアメリカ陸軍航空軍戦闘日誌(対 本土作戦のみ)」。
(16) 前掲『ジャパニーズ・エア・パス』二〇九〜二一〇頁。
(17) 渡辺洋二『死闘の本土上空 B29対日本空軍』文芸春秋(文春文庫)、二〇〇 一年、四一七頁。
(18) チェスター・マーシャル 高木晃治訳『B-29 日本爆撃三〇回の実録』ネコ・
パブリッシング、二〇〇一年、一一二〜一一三頁。
(19) 奥村喜重『中小都市空襲』三省堂、一九八八年、一〇三頁。
(20) Z 時に一〇時間加えると K 時となり、K 時から一時間引くと日本時となる。
同前『中小都市空襲』三省堂、一九八八年、一一八〜一二〇頁。
(21) 前掲『超・空の要塞:B-29』二二四頁。
(22) 同前。
(23) Keith Wheeler
Bombers over Japan(World War Ⅱ
)Time Life, 1998, p.102.帰山茂一『遥かなる思い出』新風舎、二〇〇六年、一三頁。
(24) 前掲『アメリカ空軍の歴史と戦略』一〇五頁。
(25)「米鬼空の定期便」『静岡新聞』一九四五年一月二十五日第二面。
(26) 前掲『ジャパニーズ・エア・パス』一四六、一四八頁。
(27) 前掲『B-29 日本爆撃三〇回の実録』一〇〇〜一一一頁。
(28) 前掲『中小都市空襲』九八頁。
(29) 同前、九九頁。
(30) Chester W. Marshall Lisa Hanks ed,
Final Assaulton the Rising Sun,
Speciality Press, p. 83.(31) loc. cit
(32) 前掲『ジャパニーズ・エア・パス』二一八頁。
(33) 前掲『アメリカ空軍の歴史と戦略』一〇七頁。前掲『横浜の空襲と戦災 四
外国資料編』五四頁。
(34) Op. cit. p. 192.
(35) カール・バーガー 中野五郎・加茂川幸太郎訳『B29〈日本本土の大爆撃〉』
サンケイ新聞社出版局、一九七一年、一四九頁。前掲『中小都市空襲』一三二頁。
(36) 富士市史編纂委員会編『吉原市史』下、富士市、一九七八年、三頁。「空襲」
『季刊富士わがまち』二、一九八二年八月、三七頁。鈴木邦明「富士宮に B29墜 落」『平和の伝言』四、二〇〇六年八月。清昭博「富士宮で撃墜された B-29」
『月の輪』二二、二〇〇七年七月、四三頁。日本側は B29搭乗員のパラシュート 降下者への対応方法として、殺傷を抑制していたが、降下地点と爆撃された地域 が重なっていた場合、地域住民によってこの原則通りに事態が収終されない場合 もあった。『B-29搭乗員降下者に対する東部軍の措置』(防衛省防衛研究所戦史 研究センター史料室所蔵、以下、防研所蔵と略記)
(37) 前掲『B29〈日本本土の大爆撃〉』一七二頁。
(38) 防衛庁防衛研修所戦史室『本土防空作戦』朝雲新聞社、一九六八年、四〇八頁。
(39) 小田部雄次『梨本宮伊都子妃の日記』小学館、一九九二年、二〇二〜二〇三、
二二六頁。防空演習とラジオの関係については、土田宏成『近代日本の〈国民防 空〉体制』神田外語大学出版局、二〇一〇年、二〇五〜二〇九頁。
(40) 富士吉田市史編さん室編『旧カ村事務報告書 福地村編』富士吉田市教育委 員会、一九八八年、一九三〜二三七頁。
(41) 富士吉田市史編さん室編『旧カ村事務報告書 瑞穂村編』富士吉田市教育委 員会、一九八七年、一八四頁。小山町史編さん専門委員会編『小山町史』五、近 現代資料編Ⅱ、小山町、一九五五年、四七四〜四七五頁。
(42) この部隊は当該地区の歩兵守備隊長の指揮をうけて戦闘をおこなった。『本土 地上防空作戦記録 東海地区(昭和二十六年六月謹製 復員局)』(防研所蔵)。
(43) 木俣滋郎『陸軍航空隊全史』朝日ソノラマ、一九八七年、三三七頁。
(44) 前掲『本土防空作戦』四二〇頁。
(45)『本土防空作戦記録(関東地区)』昭和二十五年十二月謹製、復員局(防研所 蔵)。
(46) 前掲『本土防空作戦』四一八〜四一九頁。
(47) 城山区誌編集委員会編『城山区誌』城山区、一九九六年、一二五〜一二六頁。
城山区は現在の富士宮市内。
(48) 清昭博「富士宮で撃墜された B-29 その 写真と図版」『月の輪』二三、二
〇〇八年六月、三九頁。富士山の高度を生かして、一九三九年一月、山頂から東 京の灯火管制の実施状況を点検するための観測を開始した。志崎大策『富士山測 候所物語』成山堂書店、二〇〇二年、五九頁。
(49) 山本茂男編監『B29対陸軍戦闘機』今日の話題社、一九七三年、五五頁。その 他、東京および関東地方の航空基地、防空体制については、鈴木芳行『首都防空 網と〈空都〉多摩』吉川弘文館、二〇一二年、参照。
(50) 前掲『死闘の本土上空 B29対日本空軍』八六頁。
(51) 秋山紋次郎「本土防空作戦史 その一」航空情報編集部編『日本軍用機の全貌 改訂増補』酣橙社、一九五五年、三〇七、三〇九頁。一九四五年夏、吉田の武蔵 航空工業等がグラマンの攻撃をうけた。
(52) 前掲『本土防空作戦記録(関東地区)』
(53)「新たに『静岡沿岸地区』」『静岡新聞』一九四五年六月九日第二面。
(54)「甲駿地区は山梨伊豆両地区別に警報発令」『静岡新聞』一九四五年六月三十日 第一面。
(55)「B29の爆音放送」『静岡新聞』一九四五年一月三日第二面。
(56) 橋爪志津乃『生きていく意味』文芸社、二〇〇七年、一三三頁。
(57) 奥宮正武「本土防空作戦史 その二」前掲『日本軍用機の全貌 改訂増補』三 一六〜三一七頁。小笠原諸島父島、母島における防衛、日本本土への米軍情報の 通報状況等については以下を参照。大関栄作『小笠原諸島母島戦争小史』山波企 画、一九五五年。原剛「戦跡探訪 小笠原(父島・母島)の戦跡」『軍事史学』
三九-一、二〇〇三年六月。待島亮『小河原戦跡一覧』創英社、二〇〇三年、等。
(58) 山田平右エ門編『戦時下の八丈島』八丈島老人クラブ連合会、一九九六年、四 四〜四五頁。
(59) 同前、四五頁。
(60) 樋口秀司編『伊豆諸島を知る事典』東京堂出版、二〇一〇年、二六八〜二六九 頁。山田平右エ門『改訂版 八丈島の戦史』郁朋社、二〇一二年、付図一。木川 田吉雄「八丈島での想い出」八丈三原会編『若き日の防人たち』八丈三原会、一 九八一年、七〇頁。
(61) 同前『若き日の防人たち』七〇頁。
(62) 岡弘「落穂」同前、一二九頁。
(63) 八丈町教育委員会編『八丈島誌』八丈町役場、二〇〇〇年、二〇二、二六三頁。
(64) 渡辺洋二『双発戦闘機「屠龍」』文芸春秋(文春文庫)、二〇〇八年、二四五頁。
(65) 浄法寺朝美『日本防空史』原書房、一九八一年、七二〜七三頁。
(66) 前掲「本土防空作戦史 その一」三〇七頁。
(67) 同前。
(68) 原田良次『帝都防空戦記』図書出版社、一九八一年、二一三頁。坂本勇「震天 制空隊 B29体当り邀撃記」「丸」編集部『特攻の記録』光人社、二〇一一年、一 六六頁。前掲『本土防空作戦』四一〇頁。
(69) 清昭博「富士宮で撃墜された B-29 その 写真と図版」『月の輪』二三、二
〇〇八年六月、四二〜四三頁。碇義郎『迎撃戦闘機「雷電」』光人社、二〇〇六 年、二九一頁。前掲『本土防空作戦』四一〇頁。
(70) 同前、四一五〜四一七頁。
(71) 桜井隆『陸軍飛行第二四四戦隊史』そうぶん社出版、一九九五年、六〇頁。前 掲『帝都防空戦記』一九五頁。
(72) 碇義郎『決戦機 疾風 航空技術の戦い』光人社、二〇〇七年、二六七、二七 八頁。
(73) 前掲「本土防空作戦史 その一」三〇七頁。
(74) 前掲「震天制空隊 B29体当り邀撃記」参照。
(75) たとえば陸軍飛行第二四四戦隊では、当初、特攻への志願者がおらず、戦隊長 は激怒し、志願者を三回募ったという。前掲『陸軍飛行第二四四戦隊史』、五四
〜五五頁。
(76) 前掲『本土防空作戦』四四五〜四四六頁。B29に対する日本側戦闘機の特攻に 関しては、たとえば、前掲『帝都防空戦記』第九章に詳しい。
(77)「富士山で転針 東京放送を傍受 B29に同乗の米記者」『朝日新聞』一九四五 年二月三日第二面。
(78)「B29三百機、関東へ」『静岡新聞』一九四五年六月十一日第一面。
(79) 勝又きん『八十二年の旅路』新風舎、二〇〇五年、三八頁。『吉永の郷土誌』
富士市吉永第一地区まちづくり推進会議吉永の郷土誌編集委員会、一九九二年、
八九頁。富士市編『富士町沿革誌原稿』戦争・平和編一、富士市(富士市立中央 図書館所蔵)、第五四葉。富士宮市史編纂委員会編『富士宮市史』下、富士宮市、
一九八六年、一〇一二頁。忍草母の会事務局『北富士入会の戦い──忍草母の会 の42年──』お茶の水書房、二〇〇三年、一五頁。前掲『遥かなる思い出』二六 頁。
(80) Keith Wheeler, p.102.
(81) Wesley F. Craven James L. Cate ed.
The Army Air Forces in World War Ⅱ
The University of Chicago Press, 1953, p. 640.(82)『八丈島 名所・旧跡と温泉のしおり』八丈町役場産業観光課、二〇〇二年、
八頁。
(83)『カンテラ日誌』該当年月日の記述による(気象庁富士山測候所御殿場事務所 所蔵)。その他、気象庁編『気象百年史 資料編』日本気象協会、一九七五年、
三七七頁。田代忠作「終戦間際の富士山測候所」『富士山測候所創立六十周年記 念論文集』一九九二年。ただし、同論文は一九四五年七月の米軍機の攻撃につい て、他の史料の記述と、日時に関して若干の相違がある。また、七月三十日の攻
撃は、同日七時三〇分から一四時過ぎまで四回にわたって富士山周辺を襲った米 海軍艦上戦闘機 F6F によるものだった可能性がある。「小数機編隊 富士地方を 襲う」『静岡新聞』一九四五年七月三十一日第一面。
(84) サンニチ印刷編『勝山村史』上、勝山村史編纂委員会、二〇〇〇年、一〇九一
〜一〇九四頁。
(85) 前掲『本土防空作戦』四一二〜四一三、四一九頁。
(86) 前掲『B29対陸軍戦闘隊』二一、四六、九〇頁。
(87)「中村星湖年譜」紅野敏郎編『精選 中村星湖集』早稲田大学出版部、一九九 八年、四一七、四二二、四五七〜四五八頁。内藤成雄『富士北麓と文人たち』ぎ ょうせい、一九八六年、一三頁。
(88) 中村星湖「郡内雑話」土橋治重『甲斐路 日本の風土記』宝文館、一九五九年、
九六頁。本資料の存在については、山梨郷土研究会理事飯田文彌氏より御教示い ただいた。ここに記して感謝申し上げます。
(89) 昭和十七年七月三十一日付静岡県知事宛駿東郡高根村須走村組合村長書簡「理 由書」前掲『小山町史』五、近現代資料編Ⅱ、四七五頁。
(90) 同前。
(91) 谷有二『富士山はなぜフジサンか』山と渓谷社、一九八三年、九頁。戦後すぐ に起った日本人と富士山を「切り離す」動きについては、別稿にて言及の予定。
(92) 前掲『B-29 日本爆撃三〇回の実録』一〇一頁。
(93) 同前、一〇三頁。
(94) C. Marshall, p.69.