特集◎内モンゴルはいま
﹁民 族 自 治 ﹂ に お け る 内 モ ン ゴ ル 自 治 区
内モンゴル自治区は一九四七年五月一日に自治政府として成立し︑その後︑他の自治区とともに中華人民共和国の歴史を共有してきた︒経済体制改革が進み市場経済時代へと移行する中で︑内モンゴル自治区の﹁自治﹂と﹁共治﹂の位置づけはどのように変化していくのであろうか︒国際関係史︑政治学︑言語学︑人類学の視点から討論する︒
中見立夫︿東京外国語大学アジア・アフリカ詳譜文化研究所教授﹀×フフバートル︿欄畿×加々美光行︿縞齢襯黙﹀×高明潔︿驕齢潔中﹀
﹁民族自治﹂から見る﹁内モンゴル自治区﹂
加々美一九二二年中国共産党は二全大
会で民族に関する積極政策を展開し︑初
めて民族自決権を認める民族政策を出し
ました︒当時はソ連と中国の国境の領土
問題は︑中華民国つまり国民党政権とソ
連の間の問題でしたから︑共産党の立場
から言えば︑むしろ国民党に対する対抗
から自決権を強く主張するという政治的 な配慮が働いたと考えられるわけです︒
その後紆余曲折を経て︑日本敗戦後二
年の一九四七年︑国共内戦勃発から約一
年後の時期︑連合政府論が毛沢東によっ
て出された時期で︑この政策が逆転しま
す︒連合政府という考え方からいって独
立を容認する自決権については当然否定
的になる︒それを象徴するかのように一
九四七年成立した内モンゴル自治政府は
民族自決権を事実上否定する形で︑最初
に民族区域自治のモデル政府として登場 したわけです︒
もとをただせば︑現在のモンゴル国の
地域(いわゆる外モンゴル)では︑一九
二一年にソヴィエト赤軍の軍事介入で人
民革命がおこり︑二四年にはモンゴル人
民共和国が誕生しています︒その影響の
もと︑内モンゴルでも内モンゴル人民革
命党︑のちに﹁内人党﹂と呼ばれた分離
主義の傾向を持った政党が現れますが︑
﹁国共合作﹂の破綻で崩壊します︒戦後に
再び﹁内モンゴル人民革命党﹂という名
「民 族 自治 」に お け る内 モ ン ゴ ル 自 治 区
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の組織が現れて︑これが実質的に共産党
によって押さえ込まれ解党を迫られる経
過を踏んで内モンゴル自治政府が成立す
るという大まかな経緯があったと思いま
す︒そうした背景を踏まえて一九五二年
に﹁民族自治区政策実施要綱﹂が成立し︑
まだそれは正式の法律ではなかったので
すが︑実質的に民族区域自治政策が中華
人民共和国政府によって定義された︒そ
の雛形といいますか︑モデルは実は四七
年の内モンゴル自治政府の成立期にさか
のぼるわけです︒
問題は︑この民族区域自治政策がいか
なる内容を伴うものであったかというこ
とにかかって来ます︒なぜ民族自治と言
わないで区域自治と言うかというと︑特
定の民族集団が特定の物理的空間つまり
特定地域に集居していることが前提に
なっている︒雑居とか散居の形をとる民
族集団については基本的には民族区域自
治という形での空間的統治を保障する自
治権は与えない︑マイノリティ集団とし
て地方自治に参画する権利︑通例の自治
権は与えるけれど特定空間全体の統治権 ︑
加 々 美 光 行[KagamiMitsuyuki]
者となる民族区域自治権は与えない︑と
いうのがこの五二年の民族自治区政策の
基本なのです︒
ただしこの一定の区域空間を自主的に
統治するという意味での自治の概念はソ
連における連邦制の中の民族共和国︑ウ
クライナ︑カザフスタンなどいろいろな
民族共和国があるわけですが︑それとど
こが違うかというと︑ソ連の連邦制の場
合にはむしろ領土概念が基本にある︒一
定の領土概念に基づいて形式的には民族
自決権を認めて︑領土を民族自決権に よって自主的に統治するというのが連邦
制の基本です︒ただご存知のように︑民
族区域自治とそれからソ連における連邦
制は実質的にはそう大きく変わらない︒
というのは︑領土というのは形式的には
連邦名義をとっていますけれど︑実態と
しては外交権や軍事的な統治権といった
もの︑あるいは国防権といってもいいん
ですかね︑そういうものをソヴィエト連
邦制下の各民族共和国は持っていません
ので︑とすると実態的には中国の区域自
治とあまり変わらないということになっ
てくる︒
ただ︑この区域自治は諸民族が雑居散
居している地域における民族自治という
ものを保障しないのかというと︑無論︑
区域自治政策は部分的には雑居散居地域
における民族の自治も認めているわけ
で︑その場合︑民族区域自治を形成しな
い一般の県︑一般の州︑某某県︑某某州
では︑県人民代表大会︑あるいは州人民
代表大会に一定比率の民族代表を送り込
むといったような権利として与えられて
いる︒つまり︑その場合にはその県なり 6
州なりの地方自治への政治参画が認めら
れるのですね︑民族独自の特定の空間︑
区域への自治は認められないけれども︑
社会的集団としての民族として地方自治
への参画を認めるという形で自治権を一
定程度認める︒この場合はですから︑独
自の区域が特定されないという意味で区
域自治とは呼ばないわけで︑実質的に中
国の民族区域自治政策というのはそうい
う二本立てで進んできたと大体考えられ
るわけです︒
ところが︑その二本立てで進んできた
ことの背後に今日どういう問題が発生し
てきているかといいますと︑簡単に言い
ますと︑区域に関する内向きの自主統治
の考え方が非常に強く現れてきた結果︑
一方で諸民族間の連携︑あるいは特定の
民族区域自治の区域をこえた︑他の民族
地域との連携による共同参画への意欲が
弱まってきている︒また他方では同時に
中央への経済的︑財政的な依存性︒中国
の民族学の学界で最近強調されている問
題とし民族区域自治自身に必然的に自治
に伴う排他性と同時に依存性が現れる︑ 中国語では﹁依附性﹂というのですが︑
あるいは従属性といってもいいですね︒
それが強くなってきているという議論が
多い︒区域自治を越えた区域自治間の連
携は︑一般により高いレベルの国政への
参画を呼び起こすわけですが︑そうした
国政への参画意欲が減退し︑その反面︑
中央への依存性が強くなるというわけで
す︒
問題は新彊ウイグル自治区にせよ︑寧
夏回族自治区にせよ︑広西チワン族自治
区にせよ︑その民族構成はウイグル族だ
けではない︑あるいは回族だけではない︑
チワン族だけではない︑それ以外の多く
の民族が存在している︒したがって例え
ば新彊の場合︑そこには本来ウイグルの
名を冠した区域自治といってもウイグル
のみが居住している区域ではなくて︑キ
ルギス︑タタール︑カザフ等の他の民族
も居住している区域なわけですね︒とい
うことは︑諸民族の壁を横断する統治が
各民族自治区のレベルでもともと成立し
ているのですから︑本来区域自治の区域
概念は相対的な概念であるべきなのに︑ 非常に強固な内向きの境界線をもってき
て︑その結果今言ったような排他性や依
存性が強まっているという︑これが一部
の︑学界全体ではなくて︑学界の一部理
論として現れている︒
現在生じつつある排他性と従属性は民
族区域自治の本来の理念に反するという
わけです︒さっき言いました民族区域自
治以外の一般の県や州に雑居散居してい
る民族の場合には︑チベット族であれ︑
イ族であれ︑その民族的な社会集団の利
益︑つまり自己の民族集団の利益のみの
排他的利益を要求するのではなくて︑行
政的な区画である県︑州の地域全体の利
益に共同に参画する形をとっている︒民
族区域自治はそうした民族自治の共同参
画の理念とセットで定義されたというの
です︒ところが区域自治と民族自治の両
方の関係が徐々に切断されてきて︑民族
区域自治が独り歩きし︑その排他性が非
常に強まってきた︒雑駁に言えば︑民族
区域自治における政治的独立への志向が
強まって︑今のまま行けば︑民族区域自
治はかなり大きな問題を孕んで来るとい
「民 族 自治 」に お け る 内 モ ン ゴル 自治 区
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うそういう危機感が生まれている︒
例えば内モンゴル自治区の場合︑ご存
知のように人口比率でモンゴル民族の比
率が現状で約一六%︑実数にして区域全
体で二二六三万人中︑モンゴル民族の人
口が三三五万人(一九九六年統計)です
が︑人口比は徐々に一〇%に近づいてき
ているのですね︒そうすると︑内モンゴ
ル自治区の中ですらモンゴル人は民族集
団としての利益を排他的に追及するとす
ればいろんな困難に遭遇するわけで︑区
域の利益とモンゴル民族の民族集団独自
の利益と︑両者の間に一定の矛盾が発生
している︒
まず第一点は︑もともと民族自治区と
いう政策の持っていた大きな盲点といい
ますか︑ある意味で弊害であったかもし
れないのですが︑地域が主体となるので
あって︑民族が主体となるのではないと
いう︒だから新彊というのは先に地域が
きてそのあとにウイグルという民族名が
来る︒内モンゴルのみ例外ですが︑他の
場合は同じですね︒広西チワン族の場合
も︑寧夏回族の場合も︑寧夏︑あるいは 広西という地域が先に来てその後に民族
名が来る︒実際は内モンゴルの場合にも︑﹁内モンゴル族﹂と呼称しない﹁族﹂抜き
の﹁内モンゴル﹂の概念は﹁外モンゴル﹂
との対比でいう地域概念に過ぎないとい
う主張もあるわけです︒原則的には地域
が優先であって民族がその後に来るとい
う考え方があるものですから︑当然内モ
ンゴル自治区に関して言えば︑内モンゴ
ル自治区全体の地域としての利益が優先
されて︑モンゴル人︑モンゴル族という
民族集団の利益はその後に来るというふ
うに考えられている︒そうすると︑モン
ゴル人から言えば内モンゴル自治区と呼
んでいてモンゴル民族主体の自治区のは
ずなのに︑モンゴル民族の利益というも
のが十分発現できないという政治的不満
が非常に強まってくる︒
こうした事態について︑中国の民族学
界の議論︑後で誰がどう言っているかと
いうことを申し上げますけれども︑学界
の中に現れている議論は︑例えばモンゴ
ル族の強い不満を指して排他性と呼んで
いるわけです︒しかもこの排他性は︑さっ き申しました中央への依附性︑従属性を
強める︒自治といいつつ︑中央から民族
自治区域へのより多くの支援を求めると
いう従属性を却って強めるということが
ここで問題になっている︒モンゴルだけ
でなくて︑新彊ウイグルの場合ももちろ
んそうですし︑チベット自治区の場合も
そうです︒例えばチベットであれば︑漢
民族がどんどん入ってくる︑そのことに
よって民族主体としての利益が大きく損
なわれる︒つまり︑地域全体の利益では
なくて︑チベット族という民族的主体の
排他的利益が非常に強く主張されてしま
う︒それへの批判がまず第一点として見
られる︒
今の議論をまた跡付けるために強く主
張されているのがグローバリズムです︒
グローバリズムが今日非常に強まってき
ている中で︑例えばZ巴8︒︒§︒の考え方
が強く反省を迫られてきている︒そうい
う状況下で区域を一つの単位とした区域
自治の下で民族主体の排他的利益が主張
されc,Caことは'NationStateをこえた全地
球的な利益が要請されるグローバリズム 8
の流れ︑方向性に逆行しているという主
張も現れているわけです︒僕はどちらか
というと中国の政策立案者の内部︑ある
いは学界内部に現れている新しい理論的
方向性︑政策的方向性︑の中の問題があ
りそうな部分を強調して今申し上げてい
るので負の面を少し強調しすぎた感があ
りますけれども︑一応そうした議論が登
場しつつあるということを前提に︑どう
お考えになるか︑みなさんのご意見を伺
いたいと思います︒
中見モンゴル人にとって﹁自治﹂とい
うことばがどうとらえられたかについ
て︑まずお話しましょう︒
近代的政治概念としての﹁自治﹂とは︑
ひとつの国家のなかで中央の統治に対す
る︑国家を構成するそれぞれの地域の自
主的な権限の行使をさすと思います︒わ
たくしは︑歴史学者なので︑モンゴル史
の流れのなかで﹁自治﹂的状況をみてみ
ますと︑もちろん清朝時代においても︑
清朝中央政府に対するモンゴル各旗の自
治的状況というものは存在しておりまし
た︒しかし︑近代的な意味での﹁自治﹂ という概念に直面せざるを得なかったの
は一九=年の独立宣言以降であったと
思います︒当時のハルハ・モンゴルは独
立をしようとした︒それから今の内モン
ゴル自治区の領域のなかでも︑ホロンバ
イルなどではハルハの動きに連動して独
立しようとした︒
このときのモンゴル独立の動きについ
ては︑いまでも中国の学界では︑ロシア
の陰謀だと言いますけれども︑当時のロ
シア帝国はモンゴルを独立させようなん
て思ってもいなかった︒そこへ出てくる
のが﹁自治﹂という問題です︒漢語の﹁自
中 見 立 夫[NakamiTatsuo]
治﹂という語彙は︑ヨーロッパ諸語から
日本語を経由して入ったもので︑英語で
は﹁オートノミー﹂(﹀三〇コo∋望)です︒
一九一二年のロシア・モンゴル協定交渉
のときに︑初めて問題として浮上します︒
その﹁自治﹂という概念が︑どのように
モンゴル語のなかに入ったか︒そこから
もう問題が生じております︒もともと日
本の﹁地方自治﹂をめぐる論議では︑日
本のどこかの地域が日本国から離れるな
んてことは全然想定していない︒ところ
が﹁自治﹂という問題にエスニックな要
素が絡まると︑ある一つの国家から離脱
する︑ないしは離脱しないまでも距離を
置くという方向性が出てくるわけです︒
モンゴル問題に出てくる自治とは︑離脱
は認めないが︑高度な政治的自由を認め
るという問題であったのです︒
興味深いこととして︑一九一二年のロ
シア・モンゴル協定には︑ロシア語とモ
ンゴル語と両方のテクストがあります︒
モンゴル語のテクストは︑漢語の﹁自治﹂
という意味を︑﹁自ら治める﹂と分解しモ
ンゴル語では表記しています︒これに対
「民 族 自治 」に お け る 内 モ ンゴ ル 自治 区
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