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「彼は彼女が好きだ」のあいまい性

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Academic year: 2021

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(1)

「彼は彼女が好きだ」のあいまい性

―あいまい性をもたらす文法論的および意味論的素因について―

Ambiguity in "Kare wa kanojo ga sukida"

― On the Grammatical and Semantic Factors ―

森 本 俊 之

Toshiyuki Morimoto

要約

ある文が複数の解釈を有する文、いわゆるあいまい文であるとき、それは複数の言語的要因が相互に作 用した結果といえる。たとえば「彼は彼女が好きだ」という文は、「彼は彼女を好きだ」「彼を彼女は好きだ」

という二つの解釈をもつ。これら複数の解釈を生む要因は、その文構造にある。ただし、文構造のみがあ いまい性の誘因となるわけでない。そこには、形容詞「好きだ」(または「嫌いだ」)に特有の文法的ふるま い、および「好きだ」の感情主と対象に選ばれる名詞のスケールという、二つの素因がかかわっている。

1.

はじめに

本稿では、複数の解釈が与えられる文、いわゆる「あいまい文」について、その複数の解釈 をもたらす起因を、感情形容詞「好きだ」 (または「嫌いだ」 )を用いた文(以下「好きだ」文)

においておこるあいまい性の分析を通じて論じる。その上で、ある文におけるあいまい性の発 生が文法的、および意味的な素因の相関によるものであることを示す。

2.

「好きだ」文とあいまい性

2.1.

「好きだ」文に見られるあいまい性

感情形容詞「好きだ」 「嫌いだ」は、その心的状態の主体(以下、感情主)とその対象(以下、

対象)とを項として要求し、いずれをも格助詞「が」で受ける構文をもつ。例えば、 (1)では

「弟」が感情主に、 「ピーマン」が対象になる。

(1)弟がピーマンが嫌いなことをすっかり忘れていた。

(日本語記述文法研究会 2009: 21)

感情主を A、対象を B、述語を P としたとき、 (1)のように対象を「が」で受ける「A が B

が P」の構文を有する形容詞は少なくない。例えば、 「うれしい」 「悲しい」などもこの構文を

(2)

有する。

( 2 )私は、君が来てくれたことがうれしい。

(日本語記述文法研究会 2009: 21)

しかし、 「好きだ」 「嫌いだ」がその他の形容詞と異なるのは、それらを用いた文があいまい 文になりうる点である。森田( 1980)によれば、 (3)は「行為主体と行為対象とが、それぞれ

「彼」 「彼女」のどちらであるのか見分けがつかない」 、 (4)のようなふたつの解釈をもちうる ものであるという。そして後述するが、その他の形容詞を述語に据えた「 A が B が P」の構文 において、そのようなあいまい性が生じることはない。

(3)彼は彼女が好きだ。

(4)a. 彼は彼女を好きだ。

b. 彼を彼女は好きだ。

また、 「好きだ」 「嫌いだ」にまつわるあいまい性は、連体修飾句「X の好きな Y」において も見られる。山岡(1978)は、被験者 26 名を対象に、あいまいな解釈が可能な文の読み取り 判断実験を実施した。その結果、 「太郎の好きな次郎」という表現について、17 名が「太郎が 次郎を好き」という解釈を、 9 名が「次郎が太郎を好き」という解釈を得たと報告する。ここ で解釈が分かれたということは、すなわち「太郎の好きな次郎」があいまい性を有していると いうことにほかならない。

2.2.

「好きだ」文の構造とあいまい性

ある文にあいまい性が生じる要因は様々である。野田(2002)は、あいまい文を(5)のよ うに分類している。

( 5 )①語彙論的なあいまい文

②文法論的なあいまい文

③意味論的なあいまい文

④語用論的なあいまい文

(5)について、野田は①を「文中の個々の単語がもつ意味にあいまいさがあり、そのため

に文全体の意味があいまいになるもの」 (野田 2002: 8) 、②を文の構成要素間の関わりに起因

するもの(野田 2002: 9-11) 、③を「語句が文の中で使われるときに出てくる文法論的な意味

にあいまいさがあるもの」 (野田 2002: 10 ) 、④を「その文が場面や文脈の中で使われるときに

(3)

出てくる意味にあいまいさがあるもの」 (野田 2002: 11)と定義付けている。

そして、 (3)はこの分類において、②のうちの原構造の違いによるものであると位置付けら れる。原構造の違いによるあいまい文とは、 「表面的には同じ形になっているが、元の構造とし て複数の構造が考えられる」 (野田 2002: 9)種類のものを指す。つまり、 (3)については、 (4)

における二つの解釈が原構造となる。

ただし、送り手がふたつの原構造を有することを分かった上で発話を行う、つまり意図的に あいまい文を発するという事態は、不誠実なコミュニケーションでない限り考えがたい。よっ て、西山( 2004)の言うとおり、 「同一文に対して異なった統語構造が付与できる」 (西山 2004:

15)ものとみなした方がいいだろう。つまり、これはエンコードよりもデコードの問題である。

2.3.

「好きだ」文におけるあいまい性の解消

(3)のあいまい性を解消するにはいくつかの手立てがある。例えば(4)は(3)における 複数の解釈である一方で、それぞれの文は( 3)のあいまい性を解消したものとなる。

「A が B が P」の構文において、 「B」に後接する格助詞「が」は対象を表す。しかしながら、

「が」は動作や状態の主体を表す用法が主である。 「が」の主たる用法と、対象を表す用法との 混乱とがあいまい性をもたらすのである。一方で、格助詞「を」は動作や心情の対象を表す用 法を主としており、動作・状態の主体を表す用法をもたない。したがって、 (4)では、 「が」

を「を」に置換することで各項の意味役割の異なりが明確になり、あいまい性が解消されるの である。

上掲の山岡の実験における「太郎の好きな次郎」も同様に、 「が」の用法の混乱によるものと みなせる。この句は「A が B が P」の文(もしくは節)が連体修飾節に転じ、その際に「が」

が格助詞「の」に交替したものである。ここでの「の」について、庵ほか( 2000)には「名詞 修飾節内のガ格は「~の」で言い表すことも可能」 (庵ほか 2000: 184)と、また、日本語記述 文法研究会(2009)には「名詞修飾節に現れる「が」は「の」に交替することがある」との記 述が見られるものの、そこでの用法は詳らかにされていない。このことから、この交替は、用 法を動作や状態の主体を表すものに限定されていないことがうかがえる。したがって、ここで も「が」の用法の混乱を招いていると判断できる。

しかし、構文のみがあいまい性をもたらす要因ではない。なぜならば、 「が」の用法の混乱の みがあいまい性の要因ならば、 「 A が B が P」の構文をもつ感情形容詞文は、すべてあいまい 性を有することになるからだ。しかし、 (6)においてあいまい性は生じない。

(6)わたしはあなたがうらやましい/いとしい。

また、構文のみがあいまい性をもたらす要因でないことは、 (7)のように、 「が」を「を」

に置換することなく、あいまい性を解消することが可能なことからも明らかである。

(4)

(7)彼は彼女のことが好きだ。

(6) (7)は、あいまい性の発生が構文のみによるのではないことを示すだけでなく、 「好き だ」文が構文的あいまい性を有するための条件、つまり素因が存在していることも示唆してい る。次章では、その素因を見る。

3.

「好きだ」文が構造的あいまいさを生む素因

「好きだ」文があいまいさを生む背景には、上記の構文的性質に加え、 「好きだ」文が求める 項の種類という意味論的条件と、 「好きだ」 (または「嫌いだ」 )が項を求めるにあたって他の形 容詞とは異なるふるまいを見せるという文法論的性質のふたつの素因が相関している。以下で は、それらについて述べる。

3.1.

意味論的条件

国立国語研究所(1972)では、 「好きだ」ほかの感情形容詞について、 「その感情・感覚の主 体を表す主語になるのは、感情や感覚をもちうる有情のもの、主として人であることはいうま でもない」 (国立国語研究所 1972: 25)と述べられている。したがって、 「好きだ」文の主語、

つまり感情主は有情物であることが義務付けられる

1)

前述のとおり、 「好きだ」 文におけるあいまい性は感情主と対象との混乱によるものであった。

その混乱が生じるには、新屋(1995)は「感情対象も有情物であるという条件」 (新屋 1995: 98)

にかなわなければならないと指摘する。つまり、対象も「感情主」たりえるものでなければ、

解釈の混乱は起こらないのである。これが、 「好きだ」文があいまい性を有するための意味論的 条件である。

(7)では、あいまい性を解消するため、 「彼女」に、格助詞「の」および形式名詞「こと」

を複合した「のこと」を後接するという手立てを講じていた。庵ほか(2001)によれば、この

「のこと」は、名詞の性質を変えるために用いる接辞であり、それを後接させることで、 「~に 関する様々なこと」という意味を表す、いわば「コト性」を有しているという。これに従えば、

(7)では「彼女」という有情物を、無情的で抽象性のより高い「コト」に変化させることで 上記の意味論的条件を相殺し、あいまい性を解消せしめているということになる。

ところで、本節の冒頭で、感情形容詞の主語は「主として人である」旨を引用した。このこ とは、人以外の有情物、例えば動物なども感情主になりえることを示している。しかしながら、

「好きだ」文において人以外の有情物が項を占めた場合、あいまい性が生じる可能性が低くな るようである。

上掲の山岡の実験では、 「太郎の好きな次郎」と合わせて、 「太郎が好きな犬」を読み取り文

として提示している。これは、上で示した条件から言えば「太郎がその犬を好き」と「その犬

(5)

が太郎を好き」というふたつの解釈が可能である。しかしながら、実験結果においては前者の 解釈を得た被験者が 26 名中 23 名を占め、後者の解釈を得たものは 3 名にとどまった(山岡 1976: 31 ) 。

この結果を受け、山岡は「太郎が好きな犬」をあいまい文ではないと判断しているが、むし ろ、 「好きだ」文において、人以外の有情物は人に比べて感情主としての容認度が低いと考えた 方がいいのではないか。つまり、ある文のあいまい性は有無の二元論ではなく連続的な尺度に おいて決定されるものであり、 「太郎が好きな犬」はその尺度の中で、あいまい性が生まれる可 能性が「太郎の好きな次郎」よりも低い位置にある存在とみなせるのである。

3.2.

文法論的性質

上で、対象が有情物であることが、 「好きだ」文があいまい性を有する条件のひとつであるこ とを見た。この素因と作用するのが、 「好きだ」 「嫌いだ」に特有な文法的ふるまいである。

それは、主語に対する制限に関わるものである。国立国語研究所(1972)によれば、感情形 容詞の主語は通例話し手であり

2)

、話し手以外の主語(二人称や三人称の主語)をとる場合、 (8b)

のようにその心情を外的に看取できる形式をもたなければならない。そして、そのような形式 をとらない場合、話し手以外を感情主に据えた文は、 (8c) のとおり容認しがたいものとなる。

(8)a. 私はとても嬉しい。

b. あなたは/彼はとても嬉しそうだ。

c. あなたは/彼はとても*嬉しい。

しかし、この主語の選択において、 「好きだ」は制限が緩和されている。すなわち、二人称や 三人称の名詞でも主語になりうるのである。

(9)a. 私は音楽鑑賞が好きだ。

b. 彼は音楽鑑賞が好きだ。

このことが、 「 A が B が P」の構文のうち、 「好きだ」文以外の形容詞文にあいまい性が生じ

ないゆえんである。その種の形容詞文において、感情主と対象の構文的混乱が発生するために

は、対象も話し手でなければならない。しかしその場合、意味論的に感情主と対象は同値とな

り、やはり混乱は起きえない(例えば「私は私がにくい」 ) 。そして、対象が二人称または三人

称である限り、主語の制限によって感情主と対象の混乱は起きえない。したがって、あいまい

性が発生する余地はないのである。

(6)

3.3.

「好きだ」文における「を」の使用

(4)では、対象を「が」ではなく「を」で受けることであいまい性を解消した。これは、

対象を文法的に明示することで感情主と対象との混乱を回避するものであり、前節で述べた文 法論的性質の視座からのあいまい性解消と言っていいだろう。

しかし、この「を」を容認しないという主張もある。森田(1980)は、前掲のとおり、 (3)

のようなあいまい文について、 「ヲ文型ではそのような混乱は生じないから、必然的にガ→ヲの 移行が生じる」としながらも、 「 「彼女は好きだ」のような形はもちろん誤用である」とその使 用を認めていない

3)

(森田 1980: 204) 。

これに対して新屋(1995)は、文学作品からの実例を引きつつ、 「 「好きだ」 「嫌いだ」が感 情対象を表すヲ格名詞をとる例はそれほど珍しくない」 (新屋 1995: 94)と述べ、 「を」の使用 を不適切とする森田の主張を退けている。したがって、日常の言語使用において、対象を「を」

で受けることは実質的に許容されているとみてよい。

ただし、新屋は「を」の使用を容認できるものとしながらも、その目的があいまい性の解消 にあるという点には与しない。あいまい性解消に関する新屋の主張は後述するとして、 「を」の 使用目的について、新屋は次のように述べる。

感情主格がガ格で表されている場合、対象格が有情か無情かにかかわらずヲ格になってい る例が比較的多いが、これは格助詞「ガ」の重複を避けるためという純粋に形式的な理由 によるのではないだろうか

(新屋 1995: 98)

「が」の重複を避けるために「を」を用いるという主張は確かに首肯できる。しかし、 「を」

の使用によってあいまい性が回避されることは紛れもない事実であるし、なにより、 「が」の重 複を回避することとあいまい性を回避することは背反しない、つまり、目的として両立しうる ものではないだろうか。このことにより、筆者は「を」の使用を、あいまい性を解消するひと つの明示的手立てとみなしたい。

3.4.

感情主目当てのあいまい性解消

ところで、 (4) (7)におけるあいまい性の解消の手立ては、一方の項を対象としてしか解釈 できないようにする、いわば対象目当てのものであった。その一方で、 「好きだ」を述語として 残しつつ、感情主目当てのあいまい性解消を図ることは困難を極める。

例えば「太郎の好きな次郎」において、 「太郎」が感情主であることを示すために、 「の」を

「が」に置き換えて「太郎が好きな次郎」としただけでは、あいまい性は依然として解消され

ない。繰り返すが、 「好きだ」文は感情主と対象の双方を「が」で受けるからだ。よって、 「太

郎」を感情主として表すには、 「太郎が好意をもっている次郎」のように、 「好きだ」をそれと

(7)

類似した表現で置き換えることが余儀なくされる。

これは、 「好きだ」文では、感情主を明示的に示す文法手段を追補できないことによる。とい うのも、 「好きだ」文においては、 ( 4 )で示したとおり、対象を受ける「が」を、同じく行為 の対象を示す用法をもつ「を」に置換可能である一方で、感情主を受ける「が」 、つまり行為主 体を表す「が」には、それに取って代わるような格助詞が存在しないのである。

さらに(7)では、 「のこと」を用いて有情物を「コト」に転じることで、その解釈を一通り に限定していた。しかし、対象が有情物である状態のままで、感情主を異なるスケールに転じ ることができる文法的手段はありえないし、そもそもそのようなスケールそのものが想像しが たい。 「好きだ」文には、主体を示す文法標識がいわばアプリオリに揃っており、ゆえにそのよ うな標識の追補が不可能なのである。

4.

「彼は彼女が好きだ」はあいまい文か

ここまで、 (3)が構造的なあいまい性を生むにあたっては、文法論的および意味論的素因が 関わることを見た。しかしながら、このような解釈の混乱は実質的に発生しにくいと主張する 向きもある。

新屋(1995)は、先に引いたように、対象も有情物である場合に解釈の混乱が起こりうると しながらも、 「実際は感情主格は文頭に近く、かつ主節では主題化されるのが普通であることか ら、解釈上の混乱は回避されていると思われる」 (新屋 1995: 98)と述べ、 (3)におけるあい まい性は実質的に生じにくいと主張する。例えば、 ( 3 )の送り手は、 「彼」を感情主であるが ゆえに文頭で主題化しており、かたや受け手も同様に解釈するのが通例であるということにな る。

この点について、日本語記述文法研究会(2009)においても、 「好きだ」 「嫌いだ」に限らず

「A が B が P」の構文では、感情主は「は」で表されることが多いとしており、新屋の主張を

裏付けているように見える。

しかし、上記の限りでない事態も起こりうる。例えば、野田(2002)は(9)をあいまい文 として挙げている。

(10) 「猫は家内が好きでね。俺はあまり好きじゃない。しっぽを振らないからね。それ に、軽井沢行きも、この雨でおじゃんだ」 (宮本輝『避暑地の猫』p.12)

(野田 2002: 9)

野田は(10)について、 「この文の「猫は家内が好き」は、 「猫は家内を好きだ」という意味 なのか、 「猫を家内が好きだ」という意味なのかがあいまいである」 (野田 2002: 9)と述べて いる。続く言語的文脈からすればおそらく後者だと思われるが

4)

、ならば、対象が文頭にあり、

なおかつ主題化を受けていることになる。つまり、新屋の述べる文法的操作は、感情主も対象

(8)

も受けうるものであるということになる。 「A が B が P」の構文において感情主を「は」で表 すことは、慣習的傾向であって文法的制約ではないのである。したがって、あいまい性を回避 するに十全ではない手立てと判じざるを得ない。

文脈が解釈を一義化するとの見方もある。西山(2004)が「曖昧な表現は、しかるべきコン テクストが与えられさえすれば、その曖昧性が解消されるのは普通である」 (西山 2004: 16)

と述べるように、日常の言語活動においては、単文レベルではあいまい文である発話が、それ が発された文脈に導かれて一方の解釈のみにたどりつくことは珍しくない。確かに、山岡の実 験は被験者に単文を与えて行ったものであり、その文が発された文脈を示していなかった。

しかしながら、西山は上記に続けて「しかるべきコンテクストが与えられれば、自動的に曖 昧性が解消されるかというとけっしてそうではない」 (西山 2004: 16)と指摘する。つまり、

与えられたコンテクストに基づき、 「聞き手(読み手)の側で、話し手(書き手)の意図を推論 する能力、すなわち「相手の心を読む能力」 (mindreading ability)が不可欠」 (西山 2004: 16)

なのである。

加えて、日常の言語活動においては、 「しかるべきコンテクスト」が常に整っているわけでは ない。実際、 (10)にあいまい性が残るのは、それを解消できるだけの言語的文脈が用意され ていないゆえであろう。

さらに、文脈に基づいて導かれる解釈の決定は、 (4)や(7)で示した明示的なあいまい性 解消の手立てよりも意味の確定性を欠くことを指摘したい。文脈に基づいて決定された解釈は 語用論的推意( implicature ) 、つまり、聞き手が推論によって獲得した、言表に現れない暗示 的な意味である。語用論的推意は、 Grice (1975)が指摘するとおり、却下可能性(cancelability)

を有する。これは、暗示的な一義化、言い換えれば、語用論的推意の導出が行われた後で、そ の推意を言語明示的に取り消すことができるという性質である。例えば( 10)について、 「猫 を家内が好きだ」という意味であると解釈したとする。しかしその解釈は、 (10)に続けて「猫 が家内を好きだ」旨の文言が続いた場合、取り消されてしまうことになる。このように、却下 可能性をもつ点で、文脈に基づく語用論的解釈ははかなさを孕んでいる。

ところで、文脈は言語的なもの(前後の発話や文、語句)のみならず、世界に関する百科事 典的知識をも含む( Sperber & Wilson 1993 ) 。そして、 「感情主は主題化されることが多い」

というような、文法における慣習的傾向も日本語話者の有する知識のひとつであり、よってコ ンテクストのひとつとして位置付けられる。つまり、慣習的傾向によって得られる解釈も同様 に語用論的推意であり、やはり確定性を欠くのである。

その一方で、 (4) (7)における言語明示的な、つまり言表に現れるあいまい性解消の手立て

は、意味の確定性においてより確固たるものがある。我々が日常営む言語的コミュニケーショ

ンにおいて、発話解釈の少なからぬ部分を文脈に頼っていることは否定できない。しかしなが

ら、そのことは、送り手の意図を明確に伝達するための言語明示的手立てを講じずに済む理由

にはならないのではないか。

(9)

5.

おわりに

本稿では、 「好きだ」文において構造的あいまい性が発生する素因を求め、それが「好きだ」

の感情形容詞としては特異なふるまい、および、感情主または対象として選ばれる名詞のスケ ールの2点であることを示した。 構文を含め、 これらの要素は異なるレベルをまたぐものだが、

互いに相関することであいまい性をもたらしている。 つまり、 たとえ対象が有情物であっても、

そこに主語の制限が存在していれば解釈の混乱は起きえないし、 主語の制限に緩さがあっても、

感情主と対象を異なる格助詞で受ける構文であれば、やはり混乱は起きえない。

複数の素因が相関してあいまい性を来すケースは「好きだ」文のみに収まらない。例えば、

(11)においては(12)のような複数の解釈が可能である。

( 11 )佐藤さんは鈴木さんより山田さんと親しい。

(12)a. 佐藤さんの方が鈴木さんより山田さんと親しい。

b. 佐藤さんは鈴木さんより山田さんの方と親しい。

(12)の両文において、 「鈴木さんより」との比較を受ける項が「の方」の句で示されてい ることから分かるように、 (11)では「鈴木さんより」を受ける比較の対象が明示的ではない。

このことが(11)があいまい性をもつ一因である。しかし、同じ条件下でも、 (13)において あいまい性は生じない。

(13)佐藤さんは恋愛よりも仕事に夢中だ。

つまり、 (11)のあいまい性は、格助詞「より」に対応する比較対象を示す文法標識「の方」

が明示されていないことだけによるものではない。状態の主体と対象、および「より」を受け る比較対象という3項のスケールが関わる問題でもあるのだ。

このように、あいまい性の問題は言語に関する種々の領域にまたがった要因が絡み合ってお り、本稿で見た「好きだ」文はその一端に過ぎない。今後は、 (11)も含めた多様なあいまい 文の分析を通じ、その素因を探りたい。

1) ただし擬人法など、修辞的な用法が見られる場合はその限りでない。

2) その文が平叙文(非過去形)であるときに限る(山崎 2000)。

3) ただし、「彼は彼女を好きだと思う」のような「~好きだと思う」の形に関しては、「彼女を」が「思う」の目的語 であるとして容認している(森田 1980: 204)。

4) いずれの解釈が適切であるかについては、野田自身も明らかにしていない。

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(10)

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参照

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