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西洋のオセアニア観 : 人食い人種とキリスト教徒 

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西洋のオセアニア観 : 人食い人種とキリスト教徒 

―19世紀アメリカの新聞に見るオセアニア人観―

著者 中山 和芳

雑誌名 国立民族学博物館研究報告別冊

巻 021

ページ 37‑63

発行年 2000‑03‑21

その他のタイトル European Images of Oceania : Cannibals and Christians: American Images of Oceanic Peoples in Newspaper Articles of the 19th Century

URL http://doi.org/10.15021/00003505

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第2章 西 洋 の オ セ ア ニ ア観

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中 山 人 食 い人 種 とキ リス ト教 徒

人 食 い人種 とキ リス ト教 徒

・19世紀 ア メ リ カ の 新 聞 に 見 る オ セ ア ニ ア 人 観

芳*

は じめ に

1  19世 紀 の オセ ア=ア と西 洋 皿  ポ リネ シ アに 関 す る新 聞記 事   1肯 定 的 な 内容 の 記事  2  否 定 的 な 内容 の 記事 皿  メ ラネ シ アに 関 す る新 聞記 事

  1肯 定 的 な 内 容 の記 事  2  否 定 的 な 内 容 の記 事

】V 文 明 的 な ポ リネ シア 人 と野 蛮 な メ ラネ     シア人

お わ りに

  本 稿 は,19世 紀(正 確 に は1790年 か ら1870年)の ア メ リカ の 新 聞 に お い て オ セ ア ニ ア の 人 々 が ど の よ うに 記 さ れ て い た か を 紹 介 し,新 聞 記 事 か ら ア メ リ カ 人 の オ セ ア ニ ア 人 観 を 検 討 す る こ と を 目 的 と し て い る 。

  本 稿 で 用 い る 史 料 は,ウ ォ ー ド(G.Ward)の 編 集 に よ り1967年 に 刊 行 さ れ た American  Activities in the Central PaCific 1790‑1870(全8巻)で あ る 。 こ の 本 は,

ア メ リカ で 発 行 さ れ た 新 聞 の な か か ら上 記 の 期 間 に 掲 載 され た オ セ ア ニ ア 関 係 の 記 事 を 収 集 し,記 事 が 扱 っ て い る 地 域 名 の ア ル フ ァ ベ ッ ト順 に 並 べ た も の で あ る。 対 象 と な っ た 新 聞 は,大 多 数 は マ サ チ ュ セ ッ ツ 州 で 発 行 さ れ た も の だ が,ホ ノ ル ル,サ ソ フ ラ ン シ ス コ,ニ ュ ー ヨ ー ク,ワ シ ン トソ な ど で 発 行 さ れ た も の も若 干 含 ま れ て い る 。   1930年 代,太 平 洋 を 横 断 す る 商 業 航 空 路 が 開 設 さ れ る と,こ れ ま で 顧 み ら れ る こ と

の な か っ た 太 平 洋 の 小 さ な 島 々 が 脚 光 を 浴 び た 。 飛 行 機 の 燃 料 補 給 地 や 緊 急 避 難 地 と し て 必 要 と な っ た か ら で あ る 。 ア メ リ カ は,そ う した 目的 に 叶 う 島 々 を 捜 し,そ の 島

*東 京外国語大学外国語学部

Key Words : American images of Oceanic people, civilization, savagery, Christians, cannibals

キ ー ワ ー ド:ア メ リ カ の オ セ ア ニ ア 人 観,文 明,野 蛮,キ リ ス ト教 徒,食 人 種

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      国立民族学博物 館研究報告別冊  21号 々 に 対 す る 権 利 を 主 張 し よ う と し た 。 そ こ で,誰 が そ の 島 々 を 発 見 し た の か,ど の 国 が 領 有 権 を 持 っ て い る の か を 調 べ る こ と が 必 要 と な り,ア メ リ カ の 船 員 達 が 太 平 洋 の

島 々 を 訪 れ た 記 録 を 調 べ る こ と に な っ た の で あ る。

  1940年,ア メ リ カ 国 務 省 のCentral  Pacific Islands Project 1790‑1870が 始 ま り,新 聞 や 航 海 日誌 が 調 査 さ れ た 。 こ の 作 業 は1942年 に 終 了 し た が,そ の 後 は 飛 行 機 の 性 能 が 増 大 し た た め,そ う した 島 々 の 必 要 性 も な くな っ て,調 査 結 果 は そ の ま ま に な っ て い た 。 そ れ を 地 理 学 者 の ウ ォ ー ドが 編 集 して,1967年 に 刊 行 した の が こ の 本 で あ る 。 な お,航 海 日誌 に 関 す る 調 査 結 果 は 残 って い な か っ た の で,こ の 本 に 載 せ られ た の は 新 聞 記 事 の み で あ る。

1  19世 紀 の オ セ ア ニ ア と西洋

  ま ず,19世 紀 の オ セ ア ニ ア と 西 洋 と の 関 係 が ど の よ うな も の で あ っ た の か を,簡 に 見 て お く こ と に し よ う。

  太 平 洋 に 初 め て 船 を 乗 り入 れ た 西 洋 人 は ス ペ イ ソ 艦 隊 を 率 い た マ ゼ ラ ンで あ り,そ れ は1521年 の こ と で あ った 。 そ の 後,ス ペ イ ンは 太 平 洋 に 新 し い 植 民 地 を 求 め て 多 く の 探 検 隊 を 派 遣 し た 。16世 紀 の 太 平 洋 は 「ス ペ イ ソ の 湖 」 と 呼 ぼ れ た 。17世 紀,ス イ ソ人 に 代 わ っ て 太 平 洋 で 活 躍 した の は オ ラ ソ ダ 人 で あ っ た 。

  そ し て18世 紀,太 平 洋 探 検 を 完 成 さ せ た の は イ ギ リ ス と フ ラ ン ス で あ っ た 。 な か で も1767年 の ウ ォ リス に よ る タ ヒチ 島 の 「発 見 」 と,ジ ェ ー ム ズ ・ク ッ ク の3回 の 探 検 航 海(1768‑71,1772‑75,1776‑‑79)が 重 要 で あ っ た 。 タ ヒチ 島 に は,1768年 に フ ラ ン ス の 探 検 家 の ブ ー ゲ ン ビ ル が 訪 れ,航 海 記 に タ ヒ チ 島 を 高 貴 な 野 蛮 人 の 住 む 文 明 に 毒 さ れ て い な い 理 想 郷 と記 した 。 これ に 触 発 さ れ て,哲 学 者 の デ ィ ド ロは,ヨ ー ロ ッパ 文 明 批 判 の 書,『 ブ ー ゲ ン ビ ル 航 海 記 補 遺 』 を 出 版 し,ヨ ー ロ ッパ に タ ヒ チ(ポ リネ シ ア)=楽 園 の イ メ ー ジ が 広 ま っ た 。

  ジ ェ ー ム ズ ・ ク ッ ク は 太 平 洋 の 最 も 偉 大 な 探 検 家 で あ っ た 。 彼 は,オ ー ス トラ リア や ニ ュ ー ジ ー ラ ン ドの 海 岸 線 を 正 確 に 海 図 に 記 し,南 極 の 海 域 ま で 探 索 して 伝 説 の 南 方 大 陸 が 存 在 し な い こ と も確 か め た 。 さ ら に,ニ ュ ー カ レ ドニ ア や ハ7イ 諸 島 も 「発 見 」 し,太 平 洋 の ほ と ん ど の 島 々 が 正 し く地 図 の 上 に 示 さ れ る こ と に な った 。 こ の 航 海 に は 科 学 者 や 画 家 が 同 行 し,博 物 学 や 民 族 学 の 研 究 に も 大 き な 貢 献 を 果 た した 。   ク ッ ク の3回 目 の 探 検 に 参 加 した 者 に ジ ョ ソ ・ レ ドヤ ー ド と い う ア メ リカ 人 が い た 。 彼 は,公 式 の 航 海 記 録 の 出 版 に 先 立 っ て 自分 の 航 海 記 録 を 出 版 し,ア メ リ カ 北 西

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中山  人食 い人種 とキ リス ト教徒

海 岸 の ラ ッ コ 猟 の 経 済 的 可 能 性 を 示 唆 した 。 ラ ッ コ の 毛 皮 を 中 国 に 持 っ て 行 け ぽ,莫 大 な 利 益 を 得 ら れ た か ら で あ る 。1787年 よ りボ ス トソ の 人 々 が ラ ッ コ 猟 を 始 め,ハ イ 経 由 で 中 国 に 航 行 し,1790年 ボ ス ト ソ に 戻 っ て き た 。 こ の 後,ハ ワイ は 北 西 海 岸 か

ら 中 国 へ 毛 皮 を 運 ぶ 全 て の 船 の 寄 港 地 と な り,北 西 海 岸 で の 毛 皮 交 易 は1825年 ま で 続 い た(Dodge  1965:62)。

  絹 ・茶 ・磁 器 とい っ た 中 国 の 産 物 は 欧 米 社 会 で 盛 ん に も て は や さ れ た の に,西 洋 に は 中 国 人 が 必 要 とす る 品 物 は あ ま りな か っ た 。 ラ ッ コが 乱 獲 に よ り減 少 して く る と, そ れ に 代 わ る 品 が 必 要 と な った 。 太 平 洋 の 島 々 は,中 国 人 が 欲 し が る 白 檀 ・ナ マ コ ・ 真 珠 な ど を 産 出 した 。

『1804年 に フ

ィ ジ ー に 白 檀 の あ る こ と が わ か る と,多 くの 船 が や っ て 来 た 。 しか し 1816年 に は フ ィ ジ ー の 白 檀 は 採 り尽 く さ れ た 。 そ の 後,ハ ワイ(1811‑28年),マ ル ケ サ ス(1813‑17年),ニ ュ ー カ レ ド ニ ア と ニ ュ ー ヘ ブ リデ ス(1820年 代 の 終 わ り一1865 年)と い う順 に,新 しい 産 地 を 発 見 して は 乱 獲 す る と い う過 程 を 繰 り返 し,19世 紀 の 半 ぽ に は 太 平 洋 中 の 白 檀 は 消 滅 し て し ま っ た 。 白檀 交 易 は 太 平 洋 の 交 易 で も っ と も 暴 力 を 伴 う も の で あ っ た と い う。 太 平 洋 の ナ マ コ の 産 地 と し て 有 名 な の は フ ィ ジ ー で あ っ た が,フ ィ ジ ー で の ナ マ コ交 易 も,1810年 代 の 開 始 か ら2度 の ピ ー ク を 経 て,50 年 代 に は 停 滞 した 。 真 珠 の 交 易 は1832年 か ら1838年 ま で ツ ア モ ツ を 中 心 に 行 わ れ た 。   白 檀 や ナ マ コ 以 上 に19世 紀 の 太 平 洋 に 大 き な 影 響 を 与 え た の は,主 と し て ア メ リカ 人 に よ っ て 行 わ れ た 捕 鯨 業 で あ っ た 。 ア メ リカ の 東 海 岸 で は 早 くか ら 沿 岸 捕 鯨 が 営 ま れ て い た が,18世 紀 に は ナ ン タ ケ ヅ トな ど を 中 心 と し て 大 西 洋 で の 遠 洋 捕 鯨 が 行 わ れ る よ う に な っ た 。1789年 に 捕 鯨 船 は 南 米 の 先 端 の ホ ー ン 岬 を 廻 っ て 初 め て 太 平 洋 に 入 り,チ リの 沖 合 で 操 業 し た 。 太 平 洋 捕 鯨 の 開 始 で あ る 。 他 方,1788年 に イ ギ リス の 植 民 地 と な っ た オ ー ス トラ リア で も,周 辺 海 域 で の 捕 鯨 が 始 ま っ た 。1791年 に シ ド ニ ー に 着 い た 囚 人 輸 送 船11隻 の う ち5隻 は 捕 鯨 船 で,囚 人 を 降 ろ す と直 ち に 鯨 を 追 い か け た と い う(森 田1994:72‑74)。 太 平 洋 の 捕 鯨 は,し ば ら くの 間,北 米 ・南 米 の 沿 岸 地 域 と オ ー ス トラ リア の 東 岸 部 に 限 ら れ て い た が,1820年 頃 に 赤 道 地 帯 や 日本 沖 に 鯨 の 漁 場 が 発 見 さ れ る と,太 平 洋 一 帯 に 捕 鯨 船 が 繰 り出 した 。

  捕 鯨 船 は 一 度 母 港 を 出 る と,数 年 は 戻 ら ず に 鯨 を 追 い か け 続 け た 。こ の た め,食 料 ・ 水 ・薪 の 補 給 や 船 員 の 休 養 の 目的 で,捕 鯨 船 は しぼ し ば 島 々 に 立 ち 寄 っ た 。1838年

ら42年 に か け て ア メ リカ に よ る 最 初 の 大 規 模 な 太 平 洋 の 科 学 探 検 を 行 っ た ウ ィ ル クス は 太 平 洋 上 に15の 鯨 の 漁 場 を 記 し て い る が,そ の う.ち10の 漁 場 は ポ リネ シ ア 内 部 ま た は そ の 近 く で あ っ た(Strauss  1963:35)。 そ れ ゆ え,捕 鯨 船 は タ ヒチ ・ハ ワ イ ・ニ ュ ー

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      国立民族学博物館研究報告別冊  21号 ジー ラ ン ドとい った ポ リネ シ アの 島 々に頻 繁 に 寄 港 した が,メ ラネ シ アの 島 々へ の寄 港 は 少 なか った(Campbell  1989:64)。 捕 鯨 船 の乗 組 員 に は,長 期 間 の洋 上 で の きび しい労 働 に 嫌 気 が さ し,南 海 で の き ま まな生 活 に 憧 れ て,船 か ら逃 げ 出 して 島 で の滞 在 を 選 ぶ 者 もい た。 多 くの船 員 が 去 った ため に,人 手 が足 りな くて 出港 出来 ない 船 も でた 。 そ の よ うな場 合,島 で の 生 活 に飽 きた 船 員 や 島民 を雇 い 入 れ た 。

  鯨 油 は 照 明 用 燃 料 や蝋 燭 に 用 い られ る大 切 な資 源 で あ った 。 太 平 洋 で の捕 鯨 は, 1835年 頃 よ り1850年 代 に か け て が 最盛 期 で,1860年 代 に入 る と衰 退 して い った 。 鯨 の 数 が 減 少 した こ とに加 え て,1859年 に ア メ リカの ペ ソ シル ヴ ァニ アで 最初 の油 田が発 掘 され て 石 油 が鯨 油 に取 って 変 わ って い った か らで あ る。

  白檀 や 鯨 が 枯 渇 した後 の太 平 洋 地域 は,コ コ ヤ シ ・サ トウキ ビな どの熱 帯 の農 産 物 の産 地 と して 注 目され た 。 ヤ シの成 育 に は太 平 洋 の 島 々は 理 想 的 な環 境 で あ り,手 が か か らず,乾 燥 させ て コ ブ ラを作 るの も簡 単 で あ った。 ココ ヤ シの 油 は マ ーガ リソ ・ 石 鹸 ・ダイ ナ マ イ トな どの 原料 とな った。 サ トウキ ビは,オ ース トラ リア の クイ ー ソ ズ ラ ン ド,フ ィジ ー,ハ ワイ な どの地 域 で栽 培 され た。

  サ トウキ ビの農 園は 大 量 の 労働 力 を必 要 と した 。 このた め,ハ ワイ の サ トウキ ビ耕 作 地 に は,1852年 以 降,中 国 ・日本 ・フ ィ リピンな どか ら労 働 者 が 移住 した。フ ィジ ー には1879年 か らイ ン ド人 労働 者 が 導 入 され た 。

  労 働 者 に は,オ セ ア ニ アの 人 々 も用 い られ た 。1860年 頃 よ り,労 働 力徴 収 者 が,メ ラネ シ アの ソ ロモ ン諸 島 ・ニ ュ ー カ レ ドニア ・ロイ ヤ ル テ ィ諸 島 な どの ま だ貨 幣 経 済 の影 響 を 受 け て い な い地 域 で安 い 労働 力 を 集 め,ク イ ー ンズ ラ ソ ドや フ ィジ ーな どの 農 園 主 に 供給 した。 数 年 間 の 契約 労働 者 と して 雇 わ れ,年 季 が 明 け る と僅 か な西 洋 の 品 物 が 与 え られ て故 郷 に 送 り帰 され る こ とに な って いた 。 しか し,文 字 も読 め ず,賃 金 労 働 の 意 味 も良 くわ か らな い人 々を見 知 らぬ 土地 へ連 れ て 行 って働 かす ので あ るか

ら,多 くの問 題 が 生 じた。誘拐 まが い の方 法 で 人 々を無 理 や り駆 り集 め る こ とも多 か っ た 。 また,監 督 され て定 め られ た時 間働 くとい う習慣 を 持 た な い人 々には,異 な る生 活 環 境 で の過 酷 な労 働 で 病 死 す る者 も少 な くな か った。 こ うした ブ ラ ッ クバ ーデ ィン グ と呼 ぼ れ た契 約 労 働 は,奴 隷 貿 易 と変 わ らな い と して 当 初 よ り宣 教 師 達 か らは 非難 され た が,20世 紀 の初 頭 まで 続 い た。

  この よ うに,19世 紀 の 太平 洋 で は西 洋 人 に よる経 済 活 動 が盛 ん に行 わ れ た が,宣 教 師 に よ る布 教 活 動 も精 力 的 に 行 わ れ た 。 太 平 洋 諸 島 に お け る キ リス ト教 の歴 史 は, 16〜17世 紀 に ス ペ イ ソ人 の探 検 隊 に 同行 した カ ト リックの宣 教 師 に よる伝 道 に始 ま る が,ミ ク ロネ シ ア の マ リア ナ 諸 島 以 外 の地 域 で は な ん の 成 果 も挙 げ る こ とが 出来 な

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中山  人食い人種 とキ リス ト教徒

か っ た 。 本 格 的 な 布 教 活 動 は,1797年 に プ ロ テ ス タ ソ トの ロ ソ ド ソ伝 道 協 会 の 一 団 が タ ヒチ 島 に 上 陸 し て 開 始 さ れ た 。1819年 に ポ マ レニ 世 が 改 宗 す る と,タ ヒチ で は 改 宗 が あ い つ い だ 。そ の 後,ロ ソ ドソ 伝 道 協 会 は ポ リ ネ シ ア の 各 地 に 活 動 を 広 げ て い った 。 ア メ リ カ の ボ ス ト ソ宣 教 団 も1820年 よ りハ ワイ で 布 教 活 動 を 開 始 し た 。1930年 代 ま で に ポ リ ネ シ ア の 主 要 な 島 々 の 人 々 が キ リ ス ト教 に 改 宗 す る と,そ の 後,布 教 活 動 は メ

ラ ネ シ ア や ミ ク ロ ネ シ ア へ と 広 が っ た 。

  フ ラ ン ス の カ ト リ ッ ク宣 教 団 は,1827年 の ・・ワイ を 皮 切 りに,オ セ ア ニ ア で の 布 教 に 乗 り出 した 。 こ の た め,プ ロ テ ス タ ソ ト と カ ト リ ッ ク の 両 派 の 対 立 が 各 地 で 起 こ っ た 。 カ ト リ ッ ク宣 教 団 は,40年 代 に は フ ラ ン ス 海 軍 の 支 援 を 受 け て,そ れ ま で プ ロ テ ス タ ソ トで あ っ た タ ヒ チ の 人 々 を カ ト リ ッ ク に 変 え,53年 の フ ラ ソ ス の ニ ュ ー カ レ ド ニ ア併 合 に 際 して も 重 要 な 役 割 を 果 た し た 。

  プ ロテ ス タ ン ト と カ ト リ ッ ク の 布 教 活 動 の 結 果,19世 紀 の 初 め に は キ リス ト教 に つ い て は ほ と ん ど何 も 知 ら な い 異 教 徒 だ っ た オ セ ア ニ ア の 人 々 は,世 紀 の 終 わ り頃 に は 多 く の 地 域 で キ リス ト教 徒 と な っ て い た の で あ る。

  西 洋 諸 国 は19世 紀 の 前 半 ま で は 太 平 洋 地 域 に 領 土 的 関 心 を あ ま り持 た な か っ た 。 島 々 は 小 さ く,経 済 的 価 値 も あ ま りな か っ た か ら で あ る。 そ れ で も,イ ギ リス が1788年 か ら オ ー ス トラ リア の 植 民 を 開 始 し,1840年 に ニ ュ ー ジ ー ラ ン ドを 領 有 した 。 フ ラ ソ ス も,1842年 以 降,タ ヒ チ ・ツ ア モ ツ ・マ ル ケ サ ス な ど の 東 ポ リ ネ シ ア の 島 々 を 獲 得 し,1853年 に メ ラ ネ シ ア の ニ ュ ー カ レ ドニ ア を 領 有 し た 。 オ ラ ン ダ も1828年 に ニ ュ  ギ ニ ア 島 西 部 を 併 合 し た 。

  島 々 の 戦 略 的 価 値 が 認 識 され る よ うに な っ た19世 紀 後 半 の 太 平 洋 は,西 洋 列 強 に よ る 植 民 地 争 奪 の 舞 台 と な っ た 。 イ ギ リス は,フ ィ ジ ー(1874年)・ ニ ュ ー ギ ニ ア 東 南 部(1884年)を 併 合 し,ト ン ガ を 保 護 領(1900年)と し,ニ ュ ー ヘ ブ リ デ ス に つ い て は1906年 か ら フ ラ ソ ス と 共 同 統 治 を 行 っ た 。ドイ ツ は,ニ ュ ー ギ ニ ア北 東 部(1884年)・

ミ ク ロネ シ ア の マ ー シ ャ ル 諸 島(1885年)を 保 護 領 と し,1899年 に は 米 西 戦 争 に 敗 れ た ス ペ イ ソか ら マ リア ナ(グ ア ム を 除 く)と カ ロ リ ソ の 両 諸 島 を 買 収 し た 。 最 も 遅 れ て 太 平 洋 の 分 割 争 い に 加 わ っ た ア メ リカ も,1898年 に ハ ワ イ を 併 合 し,同 年 に 米 西 戦 争 で 占 領 した グ ア ム を フ ィ リ ピ ン と共 に 領 有 した 。 長 い 間,イ ギ リ ス ・ ドイ ツ ・ア メ リ カ の3力 国 で 利 権 が 争 わ れ て き た サ モ ア 諸 島 も,1899年 に ア メ リカ と ドイ ツが 東 西 に 分 割 し て そ れ ぞ れ を 領 有 し た 。 こ う し て,オ ラ ソ ダ 領 と な っ た 西 ニ ュ ー ギ ニ ア と チ リ領 と な っ た イ ー ス タ ー 島 を 除 く太 平 洋 の 全 域 は,19世 紀 の 末 ま で に 英 仏 独 米 の4力 国 の 間 で 分 割 さ れ る こ と に な っ た 。

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国立民族学博物館研究報告別冊  21号

皿  ポ リネ シア に関 す る新 聞記 事

  こ こ で,新 聞 記 事 を 紹 介 す る こ と に す る が,ウ ォ ー ドの 本 の な か で 見 出 し と さ れ て い る 地 名 は,ミ ク ロ ネ シ ア と い っ た 広 域 を 示 す も の か ら 小 さ な 無 人 島 の 名 前 ま で 様 々 で あ る 。 こ こ で は,オ セ ア ニ ア の 人 々 に 言 及 し て い る 記 事 を 取 り出 し,そ れ ら を 地 域 別 に 並 べ 換 え て,ポ リ ネ シ ア と メ ラ ネ シ ア に つ い て 示 す(ミ ク ロネ シ ア は 紙 幅 の 都 合 で 本 稿 で は 省 略 す る)。 さ ら に,比 較 の 便 を 図 る た め に,肯 定 的 な 内 容 の 記 事 と 否 定 的 な 内 容 の 記 事 に 分 け て 示 す 。 な お,オ セ ア ニ ア の 人 々 を 示 す 言 葉 の う ち, aborigineを 「土 着 民 」, nativeを 「原 住 民 」, inhabitantを 「住 民 」, savageを 「野 蛮 人 」 と訳 す こ と に す る 。 ま た,新 聞 記 事 の 出 典 に つ い て は 巻 数 と頁 数 の み を 示 す こ と に す る。

1肯 定的な内容の記事

ソサ エ テ ィ諸 島

      1816年   モ オ レア 島 で キ リス ト教 の布 教 が 進 展 。 大 多数 の 人 々 が偶 像 を放 棄 し,宣 教 師     は彼 ら の神 々 を焼 き払 った。 首 長 た ちは 聖 域 を破 壊 し,壊 した祭 壇 を燃 や して料 理 した。

    600人 以 上 の 人 々(主 と して成 人)が 宣教 師 の開 いた 学 校 で学 ぶ(4・635)。

      1817年   ソサ エ テ ィ諸 島で は,数 年 前,数 か 月 前 ま で残 酷 な異 教 徒 だ っ た土 着 民 が 今や     キ リス ト教 徒 で あ る。 あ ま りに もす ぼ ら しい変 化 だ(6・410‑411)。

      1819年   こ の諸 島 のす べ て が キ リス ト教 徒 で あ る と表 明 して い る。 盗 み は見 られ な い。

    家 庭 での 祈 りは どの家 で も行 わ れ て い る(7・5)。 教 育 の ない 野 蛮人 が,以 前 見 た こ との な     い真 剣 さ と厳 か さの なか で 賛 美 歌 を歌 って い る のを 見 て 驚 く(7・7)。

      1823年   フ ア ヒネ 島 で は キ リス ト教 が 広 ま り,人 々 は驚 くほ ど道 徳 的 で,文 明が 急 速 に     進 展 。 偶 像 の 寺院 は破 壊 され,そ の廃 櫨 の上 に エ ホバ の 寺 院 が建 つ(3・321)。

      1824年   住 民 は 既 に イ ギ リス 風 の 衣 服 を 着 用 す るが,便 利 な家 屋 を建 て て ヨ ー ロ ッパ風     の家 具 を 備 え る こ とも始 め た(5・364)。 現 在 は ク ック船 長 の来 航 時 とは ま った く異 な る。

    宣 教 師 が 住 民 の 道 徳 や 慣 習 を 完 全 に 変 え た 。 偶 像 崇 拝 は もは や 存 在 せ ず,キ リス ト教 を 受     け 入 れ て い る(5・370)。 この 群 島 の幸 福 な原 住 民 は よ り文 明化 した 人 々の 悪徳 や 愚 行 か ら     今 の と こ ろ免 れ て い る。 以 前 は 西 洋 の 航 海 者 に よ って 悪 に 染 ま って い た が,現 在 は キ リス     ト教 の影 響 で,ソ サ エ テ ィ諸 島 の住 民 は い か な る文 明社 会 も真 似 る こ とを 恥 じる必 要 のな     い モ デ ル を 示 す 。 ク ック船 長 に は 盗 人 の 汚 名 を 着 せ られ た が,野 蛮 人 の 間 で 頻 繁 に 見 られ     る盗 み は,こ こで は ほ とん ど見 られ ない。 住 民 は とて も友 好 的 で 外 国 人 に 親 切 で,文 明 の     高 い 段 階 に達 して い る よ うに見 え る(6・412‑416)。 女性 達 は慎 み 深 く行動 し,以 前 の よ う

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中 山   人 食 い 人 種 とキ リス ト教 徒

    な 交 際 は ほ とん ど望 め な い。 ほ とん ど全 て の住 民は 読 み 書 きが で きる(7・8)。 プア ヒネ 島     で は,原 住 民 の 間 で す べ て の こ と    垣 根,漆 喰 の家,行 儀 作 法,と りわ け 衣 服 一 が 偉     大 な 進歩 を遂 げ て い る(5・365)。 ライ ア テ ア 島 で は文 明 が 大 き く進 展 した 。 か つ て木 が生     い 茂 っ て い た 所 に 美 し い 村 が 出 来 て,村 の 中 央 に は 教 会 や 宣 教 師 の 家 が あ る     (5●366‑367)。

      1825年   タ ヒチ 島 で は 製糖 工 場 が操 業 して お り,モ オ レア 島 で も綿 の製 造 工 場 が 完 成 し     た 。 野 蛮 人 と教 化 され た 人 の どち らが幸 福 か とい う問 題 に解 答 が示 され な い ま ま,文 明 の     利 点 と害悪 とが これ らの 遠 方 の地 方 に まで 次 第 に広 が りつ つ あ る(4・644)。 モ オ レア 島 で     は 原 住 民 が予 想 以上 に文 明 化 して い る。 何 人 か は聖 書 を 読 め る。 教会 に は4〜500人 の 原住     民 が 集 ま り,皆 き ち ん と した服 装 を して い る(4・638)。 捕 鯨 船 に乗 り組 んで い る タ ヒチ の     原 住 民 は 素 直 で正 直 であ る(7・13)。

      1827年   ロ ソ ドソ伝 道 協 会 の タ ヒチ 支部 の 年 会 に6000人 の 原住 民 が 出席 した が,そ の う     ち1000人 が 信 者 で あ った 。 傑 出 した 戦士 で あ った2人 の 原住 民 が,罪 を告 白 しキ リス トに     のみ 救 い を 求 め て死 亡 した(2・215)。

      1849年 原住 民 はす べ て キ リス ト教 徒 だ と表 明。 宗 教 の教 え も守 る(6・442)。

      1853年   フ ア ヒ ネ島 で は,キ リス ト教 の伝 来 が 状 況 を 一 変 させ た。 言 語 は宣 教 師 に よ っ     て文 字 化 され,学 校 や 教 会 が 建 て られ た 。 恐 ろ しい ア リオ イ結 社1)も 廃 止 され た。 島 民達     は快 活 で 愛 想 が よ く,音 楽 と社 交 を好 む(3・336)。

      1858年   原 住 民 は 友 好 的 で 素 直 で 柔 順 で あ る。 彼 らは キ リス ト教 徒 とな って 白人 の文 明     を享 受 した い と望 ん で い る(6・457)。

マ ル ケ サ ス諸 島

      1795年   ク ッ クの探 検 に同 行 した フ ォル ス タ ーの文 章 の引 用 。 「これ らの 島 の住 民 は,全     体 的 に言 っ て例 外 な く,こ の海 域 の 人 々の 中 で も っ と もす ば ら しい 民 族 で あ る 。 姿形 の 良     さ と整 った 顔 だ ち はす べ ての 民 族 に まさ るだ ろ う」(4・206)。

      1814年   ア メ リカ の 軍 艦 エ セ ック ス号 の デ イ ピ ッ ト ・ポ ー タ ー艦 長 は1813年 に ヌ ク ヒ     ヴ ァ島 に寄 港 し,ア メ リカ合 衆 国 の 名 前 で 島を 占有 した 。 港 の近 くの 原 住 民 達 は ア メ リカ     の軍 艦 を友 好 的 に迎 え,多 くの補 給 品 を 供 給 した 。 寄 港 中 に敵 対 的 な 部 族 と衝 突 した が 服     従 させ た(5・223‑224)。

      1826年   ヌ ク ヒ ヴ ァ島 に寄 港 した ア メ リカ船 ドル フ ィ ソ号 に対 して,原 住 民 は 友 好 的 で     あ った(4・224)。

      1833年   ヌ ク ヒ ヴ ァ島 で は人 々は ど こで も友 好 的 だ った 。 港 か ら4マ イ ル 離 れ た タ オイ     ア とい う渓 谷 で も,人 々 は福 音 を受 け入 れ よ う と してお り,多 くの異 教 の 偶 像 は放 棄 され     腐 りかけ て いた(4  ・234‑235)。

      1860年   日曜 日,ヒ ヴ ァオ ア 島 の プ ア マ オ の教 会 には30人 程 一 ほ とん どが 女 性 一     礼 拝 に 出席 。 多 くの 者 は教 会 の まわ りをぶ らつ い た り,ド ア か ら覗 き込 んで い た。 も っ と     大 き くて広 い建 物 であ れ ぽ,も っ と多 くの 人 が 出席 した だ ろ う(4・307)。

(10)

国立民族学博物館研究報告別冊   21号       1861年   教 会 に 関 して は,昨 年 よ りも よい 状 況 に あ る。 人 々は ハ ワイ 人 伝 道 師 の 話 を よ     く聞 き,男 の子 達 は学 校 に 通 い,読 み 書 きで き る者 も増 え て い る(4・316)。

ハ ワ イ諸 島

      1802年   あ る船 長 が,こ の 島 々の 原 住 民 は,定 住 す る 白人 の職 人 の 助 け で,ク ヅク船長     の 時 代 か ら見 る とす ぽ ら しい 進 歩 を遂 げ た と語 った(3・123)。

      1813年   しぽ しば ア メ リカの 北 西 海 岸 に や って 来 るハ ワイ諸 島 民 は,驚 くほ ど勤 勉 で状     況 の 改 善 に 熱 心 で あ る。 ハ ワイ の人 々は 「自然 」 か ら飛 び 出 した ば か りだ が,寄 港 す る船     か ら さ ま ざ まな 西 洋 の 品 を 手 に 入 れ て い る。 白人 の 指導 の下 に,住 民 の 多 くは 勇 敢 で 強壮     で 経験 豊 か な船 員 と な って い る(3・125‑127)。

      1821年   オ ア フ島 の 白人 宣 教 師 の家 族 は 原 住 民 か ら親 切 に され て い る(5・279)。

      1845年   ラハ イ ナ 島 で座 礁 した アメ リカ の捕 鯨 船 ドゥ リモ 号 の救 援 に原 住 民 も加 わ った     (4・352)。

      1847年   モ ロ カイ 島 で は,宣 教 師 の 影 響 で,子 供 達 は 良 い 洋服 を身 に 着 け,土 地 も良 く     耕 され て い る(4・621)。

      1859年 ハ ワイ の カナ カ 人 は 労働 者 と して最 適 で,お とな し く,仕 事 に も よ く耐 え て い     る(3・391)。 座 礁 して沈 没 した ア メ リカ船J.B.ラ ンカ ス ター号 の乗 組 員 は,モ ロ カイ 島     の 原住 民 に親 切 に もて な さ れ た(4・623‑・6M)。

サ モ ア諸 島

      1835年   サ ヴ ァイ イ 島 は食 料 も豊 富 で,捕 鯨 船 に とっ て太 平 洋 で一 番 良 い港 で あ る。 首     長 を船 上 に人 質 に と って お け ぽ,原 住 民 か らいか な る危 害 も受 け る心 配 は な い。 原 住 民 は     とて も礼 儀 正 し く,盗 み を働 こ うと しな い(6・401)。

      1842年   ツ ツイ ラ島 では,昨 年 だ け で500人 の原 住 民 が 改 宗 した(7・325)。

      1854年   サ モ ア諸 島 の人 口は3万3901人 で あ る。1830年に この諸 島 に初 め て 宣 教 師 が 入 っ     た が,現 在 で は200人 程 を除 く全 員 が キ リス ト教 徒 であ る と表 明 して い る。 諸 島 に は177の     教 会 が あ る(6・364)。

      1860年   ウ ポ ル 島 の ア ピ ア港 は太 平 洋 で最 高 の港 のひ とつ で あ る。 こ の港 に は,過 去25     年 にわ た っ て捕 鯨 船 が水 や 補 給 品 を手 に 入 れ るた め に頻 繁 に 立 ち寄 っ て い るが,商 船 が こ     の港 を 利 用 す る よ うに な った のは 最近 の こ とだ(7・393)。

      1866年   太 平 洋 の 島 々を 訪 れ る船 が 船 員 の 脱 走 で 出 航 出 来 な くな る のは 良 く知 られ て い     るが,ア ピ アで は船 員 の脱 走 は 稀 で あ る。 こ うした こ とが 起 きて も,原 住 民 は賞 金 目当 て     に脱 走 船 員 を捕 らえ て くるか ら,船 長 が 困 難 な 目に会 う こ とは少 ない 。船 が 必 要 とす る薪 ・     水 ・そ の 他 の物 も豊 富 に 手 に 入 れ るこ とが 出 来 る(7・398)。

トン ガ諸 島

      1797年   2隻 の フ ラ ソス の 探 検船 は原 住 民 に 親 切 に も て な され た(7・280)。

      1824年   1822年 に は ウ ェズ レイ 派伝 道 協 会 が 布 教 を 開始 した 。宣 教 師 は 原 住 民 に 友 好 的     に 迎 え られ,パ ラ ウ と言 う名 前 の首 長 に 庇 護 され た(5・361)。

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中山   人 食 い 人 種 とキ リス ト教 徒

  1825年  原 住 民 の 肌 の 色 は ・・ワイ の 島 民 に 似 て い て,体 に は 何枚 か の 葉 しか身 に つ け て い な い 。彼 らは,友 好 的 で 快活 で陽 気 で あ る よ うに 見 え る(4・639)。

  1840年   ヌ ク ア ロ フ ァは 重 要 な キ リス ト教 徒 の 町 で,宣 教 師 が 住 ん で い る。 島 の 人 口は 5㎜ 人 で,そ の うち1000人 が キ リス ト教 徒 であ る。 ・・アパ イ諸 島 の人 口は4〜5000人 だ が, 3/4は キ リス ト教 徒 で あ る(6・285‑286)。 トソ ガ タ プ島 か ら85マ イ ル離 れ た ア タ島 で は, ほ とん ど の南 海 の 島民 が行 う盗 み を しな い。 彼 ら は いか な る道 徳 的 な 教 え[キ リス ト教]

も受 け て い な い の で,こ れ は 特 筆 に値 す る(1・157‑162)。

  1841年  座 礁 した 捕 鯨 船 シ ャイ ロ ッ ク号 の乗 組 員 が ボ ー トで トソガ に到 着 。 最 近 宣 教 師 が行 った 好 意 の お 礼 と して,原 住 民 は 乗 組 員 を親 切 に もて な した(7・450‑451)。

  1856年   トンガ の王 は近 隣 の人 々 の誰 よ りも文 明 的 に進 ん で い る。 彼 が シ ドニ ー を訪 れ て 以来,宮 廷 で ヨ ー ロ ッパ の方 式 が 多 く用 い られ て い る(6・370)。

  1876年   出版 され た ぽ か りの イ ギ リス の バ ジ リス ク号 の ジ ョソ ・モ レス ビー船 長 の航 海 記 の紹 介記 事 。 「タ フ ァヒ島 は,ア ポ ロの よ うに しな やか で 力強 い 男達 と身長 が 高 く肉体 の 完 全 性 の 理 想 を 示 す 女 達 が 住 む,ま さに エデ ソの 園 で あ る。 高 潔 な 顔 立 ち で,褐 色 の肌 は サ テ ンの よ うに柔 らか く,黒 い瞳 は表 情 豊 か で あ る」(5・84)。

 以 下 の 島 々 に 関 して は,か い つ ま ん で述 べ る。

  ツ ア モ ツ諸 島 に 関 して は,1824年 に 「ア ナ ア 島 では,キ リス ト教 が 広 く受 け 入 れ られ, あ らゆ る地 区 に真 実 の神 を礼 拝 す る場 所 が設 け られ,食 人 と戦 争 は完 全 に終 息 し,今 は す べ て平 和 で あ る」(5・364‑365)と の 記 事 が あ り,1838年 に 「原 住民 は 野 蛮 で ひ ど い状 態 に あ り人食 い人 種 で あ った マ ソガ レ ヴ ァ島 で,1834年 に布 教 を始 め た カ トリ ッ クの 宣 教 師 は す ぐに受 け 入 れ られ た 」(4・137)と の記 事 が あ る。

  オ ー ス トラル諸 島 に 関 して は,1822年 に 「日曜 日,多 くの 原 住 民 が教 会 に 向か う感 動 的 で喜 ば しい光 景 を 見 た 。 人 々 は静 か に き ちん と行動 した。 彼 らの す べ て の神 々 は破 壊 され, 聖 域 か ら運 び去 られ て 教 会 の椅 子 と して 使 わ れ て い る」(6・226‑227)と の記 事 が あ り, 1823年 に 「1821年に キ リス ト教 が 伝 え られ た 。 人 々の 礼 儀 正 しい 服 装 と,教 会 で の 礼 儀 正

しい 行 動 に驚 い た」(6・320‑‑321)と の記 事 が あ り,1826年 に 「座 礁 した ア メ リカ の捕 鯨 船 フ ァル コ ソ号 の 船 員 は 親 切 に も て な され,粗 野 な 島 民 は どん な 小 さな 物 も 盗 ま な か った 」

(6・327)と の記 事 が あ る。

  ク ック諸 島 に つ い て は,以 下 の よ うな記 事 が あ る。1827年 に 「ラ ロ トン ガ 島の す べ て の 人 々が キ リス トの教 え を受 け入 れ,以 前 頻 繁 に行 わ れ て い た食 人や 嬰 児 殺 害 は 終 息 した 。 ア イ ツ タキ 島の す べ て の住 民 もキ リス ト教 を受 け 入れ て い る」(1・217)と あ り,1832年 に

「マ ソガ イ ア 島 に ク ック船 長 以 来初 め て 寄 航 した ラ ソ ブ ラ ー号 に 原住 民 は 友好 的 。 原住 民 は 他 の 島 々 の住 民 よ りも黒 い肌 だ が,同 じよ うな顔 だ ち」(4・119)と の記 事 が あ る。1836 年 に 「船 が 座礁 して ボ ー トで アイ ツ タ キ島 に 漂 着 した イ ンデ ペ ソ デ ンス 号 の乗 組 員 に,首 長 は 『10年前 だ った ら,我 々は あ な た が た 全 員 を 殺 して 神 に 捧 げ,お そ ら く食 べ て い た だ

(12)

国立民族学博物館研究報告別冊  21号 ろ う。 今 や我 々 は キ リス ト教 を 信 仰 して い るか ら,あ なた が た は安 全 で あ る』 と言 った 」

(6・498)と の記 事 が あ る。1837年 に は,「 ラ ロ トソガ 島 に教 会 が 建 て られ て8年 に な る。

も はや 戦 争 は な く,武 器 は 脇 に置 か れ た ま ま」(6・259)と,「 ラ ロ トソ ガ島 の住 民 は1823 年 には す べ て異 教 徒 だ った が,1834年 に はす べ て キ リス ト教 徒 だ と表 明」(6・261)と の記 事 が あ る。1845年 に は,「 ラ ロ トソガ 島 で座 礁 した捕 鯨船 タ キ トゥス号 の 荷物 を 陸 に 運 び 出 す の を,島 民 は進 ん で手 伝 った 。 略 奪 す る機 会 が 沢 山 あ った に も拘 らず,い さ さか も盗 も う と しな い」(6・265)と,「 ラ ロ トソガ 島 の原 住 民 は 文 明化 して い る。3人 の イ ギ リス 人 の宣 教 師 の指 導 の下 で,法 規 に よっ て道 徳 が 守 られ,原 住 民 の 当局 者 に よって 秩 序 が 厳 し く保 た れ て い る 」(6・273)と の記 事 が あ る。1853年 の記 事 には,「 マ ソ ガイ ア 島 で 座 礁 し た ア メ リカの捕 鯨 船 フ ラ ンシ ス号 は 島民 の協 力 を得 て荷 物 を陸 に運 ん だ が,誠 実 な 島民 は 何1つ 盗 ま な か っ た 。 こ の 事 実 か ら も,こ の 島 で 布 教 が 成 功 し て い る こ と が 分 か る 」

(4・126‑129)と あ る。1861年には,「ラ ロ トソガ 島 で教 会 に 向 か う人 々 は,文 明化 した ニ ュー イ ン グ ラ ン ドの 人 々 と同 じ よ うだ が,彼 ら野蛮 人 の群 衆 は,服 装 で は 『ア ダ ム と イ ブ の古 き良 き時 代 』 の 流 儀 を 守 って い る」(6・303)と,「 マ ニ ヒキ,ラ カ ハ ンガ 島 の人 々 は,マ ル ケサ ス 島 の 人 々 と違 って,非 常 に穏 や か で悪 気 の な い人 種 で あ る。 マ ニ ヒキ,ラ カバ ソ

ガ島 で は ラ ロ トン ガ島 出 身 の キ リス ト教 の 教 師 が 無 限 の影 響 力 を発 揮 して い る。 何 人 か の 年 寄 り以 外 は皆 文 字 を 読 め る」(4・514)と い う記事 が あ る。そ して1869年 の記 事 に は,「 ラ カ バ ソ ガ島 に ボ ー トで漂 着 した ロマ号 の乗 組 員 は 原住 民 に友 好 的 に 迎 え られ た 」(6・232) と記 され て い る。

  ニ ウ エ島 に関 して は,船 を 降 りて ニ ウ エ島 に 留 ま った ア メ リカ の捕 鯨 船 船 員 が 野 蛮 人 に 食 べ られ た とい う噂 が あ った よ うだ が,1840年 には 「そ う した証 拠 は ない」(5・170‑174)

とい う記 事 が 載 って い る。

  イ ー ス タ ー 島 に つ い て は,1812年 の 「捕 鯨 船 に乗 り組 み イ ギ リスに 行 った こ との あ る王 の 息 子 が 洗 礼 を 受 け た が,ハ ソサ ム で 素 直 な 彼 が 人 々 を 文 明 化 さ せ る か も しれ な い 」

(2・230)と,1822年 の 「来 航 した フ ォス タ ー号 は 原 住 民 に丁 寧 に応 対 され た 」(2・231) との記 事 が あ る。

  ツヴ ァル に 関 して は,1822年 の 「寄 航 した ア メ リカ船 イ ンデ ペ ンデ ソ ス号 が 原 住 民 に親 切 に迎 え られ た 」(5・257)と い う記 事 と,1866年 の 「島 々で は偶 像 が 破 壊 され,キ リス ト 教 の教 師 が派 遣 され るの を待 っ てい る」(5・263‑264)と い う記 事 が あ る。

  ウ ォ リス に つ い て は,1832年 に 「原住 民 は友 好 的 で温 和 な 性格 。 他 人 の品 物 を勝 手 に使 う傾 向 が あ るが,そ れ を ま っ た く無 邪 気 に 行 う」(4・119)と の 記 事 が あ る。

  口 トゥマ 島 に つ い て は,1825年 に 「原 住民 は 驚 くほ ど清潔 ・快 活 ・友好 的 。 ハ ワイ 島 民 よ り肌 が 白 い。 腰 に 巻 きつ け る草 の葉 を 除 く と裸」(4・640)と の 記事 が あ る。

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中山  人食 い人種 とキ リス ト教徒

2 否定的な内容の記事

ソサ エ テ ィ諸 島

      1817年   タ ヒチ 島 では 戦 争 が 島を 荒 涼 と し貧 困 に させ て い る。 彼 らの 戦 争 は 略 奪 と い う     形 で 行 わ れ,焼 き 払 い ・略 奪 す る が,ご く 少 数 の 人 命 が 奪 わ れ る だ け で あ る     (6・409‑410)。 タ ヒチ 島で,敵 対す る者 が キ リス ト教 徒 を攻 撃 した が,ポ マ レが最 高権 力     者 とな って,反 乱 の動 き は鎮 静 した(7・3)。

      1836年   ソサ エ テ ィ諸 島 の 島 の1つ で ボ ス トソの ホ ソジ ュラ ス号 が 野 蛮 人 に襲 撃 され,     1人 の 少年 を 除 くす べ て の船 員 が 殺 害 され た と伝 え られ て い る(6・430)。

      1844年   タ ヒチ 島 で フ ラ ソス兵 が 島 の女 性 を無 理 や り連 れ て行 こ う と して,原 住 民 と衝     突 し,双 方 に死 者 を 出 した(7・55‑57)。

      1845年   タ ヒチ 島 で フ ラ ソス人 と原 住 民 の 間 で戦 闘が あ り,フ ラ ソス側 に400人,原 住 民     側 に 約80人 の死 者 を 出 した(7・68)。

      1846年   フア ヒネ 島 に居 住 す る2人 の フ ラ ンス人 は,彼 らの犯 した何 ら か の罪 に 対 す る     報 復 で 原 住 民 に 殺 害 され た 。 タ ヒチ 島 か ら軍 隊 が 派 遣 され た が,原 住民 の反 撃 で30人 の 死     者 を 出 して退 却 した(6・437)。

      1847年.島 々 は興 奮 状態 に あ り,プ ア ヒネ 島 で は 戦 争 が生 じて 多 くの血 が 流 れ た 。 多 く     の フ ラ ソス兵 が 死 傷 した が,詳 細 は まだ わ か らな い(3・323)。

      1852年   フア ヒネ 島 で は 革 命 が 起 こ りそ うな 気 配 で あ る。 原 住 民 は ポ マ レ女 王 の 権 威 を     否 定 し,王 を選 出 した(3・332)。

マル ケサ ス諸 島

      1795年   タ フ ア タ島 の ヴ ァイ トフ湾 の 住 民 は,自 分 た ちは 食 人 を しな い が,他 の 島 々 の     島民 や タ フア タ 島 の 内陸 部 の 人 々は 人 間 の 肉 を貧 り食 う,と 言 う(4・213)。

      1817年   島 の 人 食 い 人 種 が 寄 港 した ア メ リカ 船 マ リー 号 の2人 の 船 員 を 殺 して 食 べ た      (4・221)。 ウア ポ ウ島 で,白 檀 交 易船 マ チ ル ダ号 は錨 を 切 られ て座 礁 した 。 人 食 い人 種 の     原 住 民達 はす べ て の船 員 を殺 そ うと計 画 した 。 首 長 は,船 長 と親 しか った ので 船 員 達 の殺     害 に反 対 し,船 員 を殺 す の な ら 自分 と自分 の息 子 を殺 してか ら にせ よと言 った 。 この よ う     な度 量 の大 きさ は 開 明化 され て い な い野 蛮 人 の心 に も驚 き と賞 賛 の念 を引 き起 こ した。 首     長 を 殺 す こ とな ど出来 な か った の で,船 員 達 の命 は助 か った 。 ヌ ク ヒ ヴ ァ島 の原 住 民 は人     食 い 人種 で あ る 。 タ イ ピー族 と呼 ばれ る反 乱 軍 が 君 臨 す る首 長 に 戦 争 を しか け,6人 を殺     して 食べ た(7・340‑342)。

      1818年   原 住 民 が ア メ リカ 船 フ ラ イ イ ン グ ・フ ィ ッ シ ュ号 の2人 の 船 員 を 殺 害 した      (4・222)0

      1833年   フ ァ ツ ヒ ヴ ァ島 で は この数 か 月 で13人 が 供 犠 され,最 後 の1人 は1月 前 に 焼 か     れ て 食 べ られ た と,布 教 に あた っ て い る タ ヒチ 島 民伝 道 師 が 言 った(4・232)。

(14)

国立民族学博物館研究報告別冊   21号       1837年   バ ー ク レー号 の船 長 が捕 え られ た が,品 物 と交 換 で 救 出 され た(7・454)。

      1843年   フ ラ ソ ス人 の 知 事 と数 人 の 部 下 は 奥 地 で 任 務 を 遂 行 中,原 住 民 に 殺 され た       (4・244)。 住 民 は 姿形 の 良 さ と肌 の 色 の 白 さで際 立 って い るが,広 く行 わ れ てい る刺 青 で     醜 い。 彼 ら は 人食 い 人種 と呼 ば れ る文 明 の段 階 に あ り,首 長 達 は敵 を食 べ る楽 しみ の た め     に戦 争 を 行 う(4・245‑246)。 フ ァツ ヒ ヴ ァ島 で,ア メ リカの捕 鯨 船 の船 員 が 上 陸 し よ う と     して襲 撃 され,1人 が 死 亡 した(4・247)。

      1845年   太 平 洋 に 点 在 す る多 くの 島 々は,野 蛮 性 を 脱 して キ リス ト教 を 受 け 入 れ,今 や     地 上 の王 国 と して認 め られ る こ とを 求 め て い る。 しか し,依 然 と して檸 猛 な野 蛮 人 が 自由     に動 き回 っ て い て,宣 教 師 も足 を踏 み 入 れ て お らず,土 地 の 名 前 以 外 は ほ とん ど知 られ て     い ない 所 も多 い。 そ う した 島 々の な か に マ ル ケサ ス 諸 島 も入 る(4・261)。 ヒ ヴ ァオ ア 島 で     座 礁 した捕 鯨 船 パ ナ マ号 を 原 住 民 が略 奪 した(3・220‑221)。

      1848年  捕 鯨 船 ヘ ソ リー号 を ヒ ヴ ァオ ア 島 の原 住 民 が略 奪 した(3・224)。

      1849年   ア メ リカの 捕 鯨船 ジ ョー ジ ・ア ソ ド ・ス ーザ ソ号 の ボ ー トが エ イ ア オ 島 に漂 着 。     原 住 民 は,ボ ー トを取 り上 げ た が,船 員 達 に 食 べ物 を与 え た(2・261)。

      1853年   ヒ ヴ ァオ ア 島 で イ ギ リス の 交 易 船 マ グ ダ レ ーナ 号 の 船 長 が,交 易 して い る時 に     原 住 民 に撃 た れ て死 亡 した(3・233)。

      1857年   マ ル ケサ ス諸 島 の 原 住 民 は,樹 皮布 を 腰 に 巻 きつ け て い るだ け で,全 身 に 美 し     い 刺青 を して い る。 こ こは食 人 列 島 とで も言 うべ き所 で,い くつ か の 島 で は 機 会 が あ れ ぽ     人 々を食 べ て い る。 食べ られ た 白人 の 頭 蓋 骨 を い くつ も見 た(4・287)。

      1859年   原 住 民 は お 互 い に 戦 争 を して い る 。 捕 虜 の1人 が 犠 牲 と して 食 べ ら れ た       (4・302)。 戦 争 ・口論 ・殺 人 ・食 人 が 依 然 と して行 わ れ て い るが,布 教 に あ た って い る ア     メ リカ人 宣 教 師達 はす べ て の階 層 の原 住 民 に尊 敬 され て い る。 ヒ ヴ ァオ ア 島 で は,数 年 間     ここ で暮 ら してい た ア メ リカ人 が ロ論 の結 果,原 住 民 に 撃 ち殺 され た(3・246)。 ヒ ヴ ァオ     ア 島 で,座 礁 した ア メ リカ の捕 鯨 船 トワイ ライ ト号 を原 住 民 が 略 奪 した。 原住 民 は鉄 を得     るた め に船 を焼 き払 うこ とを 計 画 し,抵 抗 す れ ば 全 員 を 殺 して 食 べ て しま うそ と脅 した 。     島 に いた 宣 教 師 の ビ ック ネル が 原 住 民 の行 動 を抑 えた 。 フ ァツ ヒ ヴ ァ島 で も野 蛮 な状 況 が     存 在 す る。 偵 察 に 出た 戦 士 達 は2人 の男 と2人 の女 の 頭 を 持 ち 帰 り,3才 位 の 女 の 子 も連     れ て きた 。 老 婆 が そ の 子 供 を 聖 地 に 連 れ て 来 て仰 向け に 寝 か し,歯 で 頬 の 肉を 食 い ち ぎ っ     た 。 男 達 が そ の子 供 を 木 に 吊す と,子 供 は す ぐに 死 ん だ,と い う話 を 聞 い た 。 この よ うな     残 酷 さは決 して珍 し くな い(3・234‑‑238)。

      1860年   昨 年 ヒ ヴ ァオ ア 島 で,島 民 同 志 の 争 い が あ り,ヘ テ ア ニ とい う地 域 の 原 住 民 は     タイ ピ ーの 村 を 襲 って6人 を殺 した。 死 者 の1人 を持 ち 帰 り,ハ ワイ人 伝道 師 の 目の 前 で     料理 して食 べ た 。 さ らに捕 虜 に した1人 の 少 年 を焼 き殺 した(4・307)。

ハ ワイ 諸 島

      1819年   宣 教 師が まだ 来 島 して い な い の で,王 と臣下 は依 然 と して偶 像 と迷 信 の深 い 闇     の 中 に い る(3・131)。

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中山  人食い人種 とキ リス ト教徒

      1835年   オ ア フ島 で は,数 年 前 の 船 長 殺 害 で,1834年 に イ ギ リス軍 艦 が2人 の 原 住 民 を     絞 首 刑 に して か ら,外 国人 に対 す る態 度 が 悪 化 して い る。 船 員 の1人 が2ド ル の 負 債 を 払     =わな か った の で,原 住 民 が 船 長 を拘 束 した(6・401)。

      1853年   ハ ワイ 国 王 は ア メ リカへ の 主 権 の 譲 渡 を 考 え て い るが,ア メ リカは ハ ワイ の 独     立 を 望 ん で い る。 ハ ワイ 諸 島 の 住 民 は ア メ リカの 一 部 を 構 成 す るの に 充 分 に は 文 明 化 され     てい な い し,自 治 政 府 を 保 持 す る の に充 分 に は 開 明 化 して い な い(4・77)。

      1870年   ホ ノル ル の 原 住 民 の 生 活 様 式 は 非 常 に 単 純 で 実 に 未 開 で あ る。 ナ イ フ ・フ ォ ー     ク ・ス プー ソは使 用 され て い な い(4・561)。

サ モ ア諸 島

      1835年   サ ヴ ァイ イ 島で,原 住 民 の財 産 を 勝 手 に 取 った の が原 因 で ア メ リカ の捕 鯨 船 ウ ィ     リア ム ・ペ ン号 の船 員2人 が 殺 害 され た(6・392‑397)。

      1842年   サ モ ア諸 島 の 島 で,以 前 ア メ リカ人 を 殺 害 した 首 長 を 引 き渡 す よ うに 言 った が     断 られ た の で,上 陸 して村 を 焼 き払 った(6・343)。

      1849年   ウ ポル 島 で は,キ リス ト教 の 布 教 の 進 展 は 愚 か し くも邪 悪 な 内 戦 に よ って 妨 げ     られ て い る(7・365)。

      1851年   原 住 民 は現 在 そ して過 去4年 間 お 互 い に 戦 闘 を 続け て きた(6・354)。 ウ ポ ル島     で座 礁 した船 の 品物 が 原 住 民 に奪 われ た(7・371)。

      1854年   ウポ ル 島 に お け る現 在 の 大 きな 問 題 は,原 住 民 の怠 惰 と政 府 が きち ん と組 織 さ     れ て い な い こ とで あ る(6・366)。

      1856年   サ モ ア 諸 島 の 原 住 民 は 非 常 に 未 開 な 生 活 を して い る。 異 な る島 の 住 民 の 間 で は     絶 え ず戦 争 が行 わ れ て い る(6・370)。       '       1873年   こ の諸 島の 原 住 民 は依 然 と して 戦 闘 を 続 け て い る(6・379)。

トン ガ諸 島

      1805年   トン ガ タ プ島 で,原 住 民 が ア メ リカ船 ポ ー トラ ソ ド号 を 襲 撃 し,乗 組 員 は1人     を除 き全員 が死 亡 した 模 様 で あ る。こ の情 報 を 伝 え るア メ リカ船 も襲 撃 され,ボ ー トに乗 っ     てい た乗 組 員 が死 亡 した(7・306)。

      1806年   トン ガ タ プ島 で,1802年 に ア メ リカ船 ユ ニ オ ソ号 が 原 住 民 に 襲 撃 され,船 長 を     含 む7人 が殺 され た(7・311)。

      1823年   ノ ム カ諸 島 の 無 人 島 で 座 礁 した 捕 鯨 船 ロソ ドソ号 の乗 組 員8人 が 原 住 民 の 襲 撃     で死 亡 した 。 残 りの 乗 組 員 は ボ ー トで 脱 出 して 他 の 島 に 移 り,宣 教 団 の船 に 救 助 さ れ た     (7・322)。

      1824年   トソ ガで は1797年 に9人 の ロ ン ドン伝道 協 会 の 宣 教 師 に よ って キ リス ト教 の布     教 が 始 ま った 。 この うち3人 は,内 戦 とオ ース トラ リアの ニ ュ ーサ ウス ウ ェ ール ズ か ら脱     走 して 来 た 悪 漢 に 扇 動 され た 残 忍 な 性 格 の 何 人 か の島 民 に よ り犠 牲 とな った 。 残 った 宣 教     師 の うち5人 は1800年 に,最 後 の1人 も1801年 に 島 を 去 った 。1806年 に寄 港 した船 を 原 住     民 が 襲 撃 し,26人 の船 員 が 虐 殺 され た(5・361)。

(16)

国立民族学博物館研究報告別冊  21号   1835年   コ リ ン シア ソ号 が エ ウア 島 に寄 航 して食 料 を調 達 した と ころ,野 蛮 な首 長 は船 長 等 を人 質 に 取 って 法 外 な要 求 を した 。 要 求通 りに様 々な 物 を与 え て,や っ と釈放 され た。

粗 野 な野 蛮 人 は 信 用 で きな い(2・293‑‑296)。

  1840年   異 教 徒 が宣 教 師 の家 を 襲撃 し よ う と した の で,宣 教 師 は キ リス ト教 徒 の 原住 民 の と ころへ 逃 れ た 。 この時 入港 した イ ギ リス船 の船 長 が,異 教 徒 と原 住 民 キ リス ト教徒 の 間 を調 停 しよ うと した が成 功 せ ず,威 嚇 の た め異 教 徒 に数 発 発砲 した。 異 教 徒 側 も発 砲 し, 船 長 と2人 の高 級 船 員 が死 亡 し,19人 が負 傷 した。 イ ギ リス船 は宣 教 師 の家 族 を 乗 せ て, 隣 の 島 に連 れ て 行 った(7・295‑296)。

  1854年   ヴ ァ ヴ ァ ウ島 で,ア メ リカ の捕 鯨 船 サ リー ・ア ン号 が座 礁 した 。 乗 組 員 が ボ ー トで 島 に上 陸 す る と,原 住 民 が 船 の 品 々 を略 奪 した。 王 の息 子 とイ ギ リス人 の宣 教 師が 船 に来 て,盗 み を 止 め させ た(7・469‑470)。

  以下 の島 々に つ い て は,か い つ まん で 述 べ る。

  ツ ア モ ツ諸 島 に つ い て は,1796年 に 「ヌ クタ ヴ ァケ 島 の原 住 民 は,1793年 に寄 港 した ア メ リカ船 を襲 撃 し,残 酷 に も1人 を 除 く全 員 の乗 組 員 を虐 殺 した。 生 き の び た老 は 奴隷 と され た が,13ヵ 月 後 に救 出 され た」(6・210)と あ り,1847年 に 「ラ ロイ ア島 で フ ラ ンス の 船 を原 住 民 が襲 撃 し,船 長 と乗 組 員 を虐 殺 した。 フ ラ ソス の軍 艦 が急 行 し,原 住 民 を タ ヒ チ に連 行 して裁 判 を行 い,6人 に 死刑 の判 決 を下 した。 裁 判 で は,事 件 の 関与 を全 員 が認 め たが,船 長 が先 に発 砲 して何 人 か を殺 した と して 情状 酌 量 を 求 め た。 この船 長 は,原 住 民 に敵 意 を 持 って い る こ とで評 判 だ った 」(6・255)と あ る。1857年 に は 「テ マ タ ソギ 島 で 2隻 の難 破 船 が 発 見 され,原 住 民 に乗 組 員 を食 べ た 嫌疑 が か け られ て い る。 難 破 船 に乗 っ て いた2人 の 子 供 の もの と思わ れ る頭 蓋 骨 が祭 祀 場 で発 見 され た 」(7・258‑264)と い う記 事 があ る。

  ク ック諸 島 に つ い て は,1827年 に 「ラカ バ ソガ 島 で原 住 民 が 寄 航 した ア メ リカ船 ガ ンジ ス 号 か ら手 斧 を 盗 む 。 銃 を 向 け る と,原 住 民 た ち は 驚 く よ う な 早 さ で 逃 げ 去 る 」

(4・141‑142)と あ る。1828年 に 「ペ ソ リソ 島に 寄 港 し よ うと した ペ ル ピ ア ソ号 に,大 柄 で 凶暴 な顔 つ き で槍 と棍 棒 で武 装 した原 住 民 が カ ヌー でや っ て来 た。 原 住 民 の行 動 が敵 対 的 に見 え た の で 船 は 出港 した。 この島 に は強 壮 で野 蛮 な 人 々が 住 ん で い る」(5・495‑496)

との記 事 が あ る。1841年 に は 「ペ ソ リ ン島 に寄 航 した ポ ー ボ ス号 を原 住 民 が 直 ちに 襲 撃 し た。 頭 上 に 銃 を放 っ て退 散 させ た 。原 住 民 は ひ ど く野 蛮 で狂 気 じみ た し ぐさ を した 。 攻 撃 に備 え る こ とな く この 島 に近 づ くのは 危険 」(5・501)と の記 事 が あ る。 さ らに1853年 の記 事 には 「座 礁 した チ ャタ ム号 の乗 組 員 が ボ ー トでペ ン リ ソ島 に上 陸 す る と,原 住 民 は品 物 を略 奪 した 。 原 住 民 は,傲 慢 で 怠惰 で,偶 像 や 祖 先 の霊 を崇 拝 し,人 食 い人 種 だ と言 わ れ て い る」(5・507‑511)と あ る。

  トケ ラ ウ に つ い て は,1838年 に 「イ ギ リス の捕 鯨 船 に原 住 民 の カ ヌーの 大 群 が 押 し寄 せ て来 た ので,止 む を得 ず 発 砲 した。 王 が 撃 た れ て死 亡 し,数 隻 の カ ヌーが 沈 め られ る と,

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中山  人食 い人種 とキ リス ト教徒

原 住 民 は 退 却 した 。 襲 撃 の原 因 は,乗 組 員 が樹 皮 布 の巻 か れ た神 聖 な木 を切 り倒 した ため と思 わ れ る」(5・269‑270)と い う記 事 が あ る。

  ニ ウ エ島 につ い て は,1840年 に 「原 住 民 の黒 い銅 色 の顔 は 檸 猛 であ る。 他 の 島 々 で は少 な くと も僅 か の も の を身 に纏 っ て い る が,こ こで は何 も着 け て い な い人 も い る。 こ の 島 よ り堕 落 した 野 蛮 な社 会 はあ る まい 」(5・176‑182)と あ り,1852年 には 「座 礁 した イ ギ リス 船 レジ ェー デ ・メ イ ソ号 の乗 組 員 が 筏 を作 って ニ ウエ ま で来 る と,原 住 民 は品 物 を盗 ん で 4人 を 島 に 連 れ去 った 」(5・184)と い う記 事 が あ る。

  イー ス ター 島 に 関 して は,1817年 の記 事 が 「ロシ ア の探 検 家 コツ ェブ ー は,原 住 民 は フ ラ ソスの 探 検 家 ペ ル ー ズが 書 い て い るほ ど親 切 で な いが,お そ ら くペ ル ー ズの 来 航後 に ヨー ロ ッパ 人 に 不 信感 を抱 く事 件 が 生 じた た め と思わ れ る,と 書 いて い る」(7・268)と 紹 介 し, 1822年 の記 事 が 「原 住 民 は2つ の 集 団 に分 かれ,し ぽ しぼ 両 者 の間 で戦 争 が起 こ る。 そ の 時 には 捕 らえ られ た者 は皆 殺 され る」(2・231)と 述 べ,1831年 の記 事 では 「原 住 民 が ボ ー トか ら品 物 を 盗 ん だ の で,威 嚇 の た め 発 砲 す る と,首 長 が 死亡 した」(2・232‑237)と あ り, 1856年 の記 事 では 「島民 は盗 癖 が あ り欺 隔 的 で,以 前 に も問題 を起 こ した。 しか し,数 年 前 に ア メ リカ船 が 住 民 の何 人 か を 力 つ くで 連 れ去 って お り,r無 知 な野 蛮 人 』 よ りもr白 人 』 に非 が あ る」(2・239‑240)と してい る。

  ニ ュー ジ ー ラ ン ドに つ い て は,1824年 の 「西 洋 人 か ら入手 した銃 で,原 住民 の部 族 ど う しで の戦 闘 的 ・敵 対 的 な精 神 が 高 ま っ てい る」(5・357)と の 記 事,1839年 の 「チ ャ タ ム島 で,フ ラ ソス の捕 鯨 船 が 原 住 民 に 襲 撃 され,乗 組 員 全 員 が 死 亡 」(1・94)と の記 事,1846 年 の 「難 破 した フ ァル コ号 を,島 に住 む 西 洋 人 と原住 民 が襲 撃 し略 奪 した」(5・121)と

う記 事 が あ る。

  ツ ヴ ァル に つ い て は,1826年 に 「暗 褐 色 の 肌 で,背 が 高 くが っ し りした 原住 民 は,葉 か ら作 っ た物 や 樹 皮 布 で 腰 を覆 っ て い る以 外 は 裸 で あ った。 彼 らの 行動 は 凶暴 で野 蛮 に 見 え, 手 の届 くも のは 何 で も盗 も う と した 」(5・208)と あ り,1865年 に 「漂 着 した 船 員 が 捕 らえ られ,洋 服 を取 り上 げ られ た 。 原 住 民 と同 じ生 活 を させ られ,耳 に穴 も開 け られ た が,危 害 は加 え なか った 」(5・261‑262)と い う記 事 が あ る。

  ウ ォ リス ・フ トゥナ に 関 して は,1833年 に 「ウ ヴ ェ ア島 で捕 鯨 船 オ ル ダ ム号 の船 員 が殺 害 され た」(7・401)と あ り,1837年 に 「ウ ヴ ェ ア島 に派 遣 され た 島 民伝 道 師 らが す べLz, 野 蛮 で残 忍 な方 法 で 殺 害 され た」(7・402‑403)と あ る。1855年 に は 「フ トゥナ島 の住 民 は 黒 い 肌 で,ポ リネ シア の ど こ よ りも凶 暴 で 野 蛮 と言 わ れ て い る。 ご く最 近 まで食 人 種 で あ り,こ れ まで 見 た な か で 最 も恐 ろ し くみ す ぼ ら しい 。 王 は 粗 野 な 顔 つ きで,服 装 は 古 い フ ラ ンネ ル の シ ャツ とパ ナ マ 帽 だ け で あ った 」(2・567)と あ る。

  ロ トゥマ 島 につ い て は,1845年 に 「原 住 民 は 野 蛮 人 で仲 間 うちで 戦 争 をす る」(6・318) と い う記 事 が あ る。

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